ラベル 神の業 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 神の業 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年12月12日木曜日

[東方閃電]全能神教会 「神はただサタンを打ち負かし、全人類を救うために受肉する 」キリストの人間に対する真の愛


Ⅰ
神が肉体として地上にいる間
人々の間で神の業を行なう
全ての業にはたった一つの目的がある
それは悪魔サタンを打ち倒すこと
神は人を征服することでサタンを倒す
また人々を完全な存在にすることで
世界に鳴り響くような証しとするならば
これもサタンの敗北のしるし
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった

Ⅱ
悪魔のサタンを打ち倒すためには
まず人を征服し完全なものにする
本質的にサタンを打ち破ると同時に
神は人を苦悩の世界から救う
この業を為すのが中国でも全宇宙でも
すべてサタンを倒し人々を救うために
人々が安息の地へ入ることができるように
神は人類を救おうとする
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
神が普通の肉体に宿たのは
サタンを打ち倒すためである
この受肉の神の業は
天の下で神を愛する全ての者を救うこと
人類を征服して サタンを打ち破るため
人類を救うためにサタンを倒すことは
神の業全ての真髄から切り離せない
神は全人類を救うため
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
『言葉は肉において現れる』より

2019年5月9日木曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 8


3) 神が人間に対して要求する、人間の神に対して取るべき姿勢

 実際、神が人間に対して求めていることは、それほど多くは無く、少なくとも、神は人間が想像するよりも多くの物事を要求しては居ない。神の言葉すなわち神の性質、業、言葉の表出が全く無かったとしたら、人間が神を知る事は極めて困難となるであろう。なぜなら、人間は神の真意や心を推測しなければならず、それは人間にとって困難だからである。しかし、神の業の最終段階に関して、神は数多くの言葉を語り、多くの業を行い、人間に対する要求を多数行っている。神の言葉と数多くの業において、神は、神が好む事柄、嫌悪する事柄、人間がどうあるべきかを人間に対して知らせている。こうした物事を理解した後、人間は心の中で、神の求める事柄に関する正確な定義を知ることが出来るはずである。なぜなら、人間は曖昧さや抽象性の中では神を信じず、曖昧な神を信じず、曖昧さや、抽象性、虚無のなかで神に付き従わないからである。むしろ、人間は神の言葉を聞き、神の要求する基準を理解し、それを達成し、神は人間の言葉を用いて人間が知り、理解すべきことを人間に伝える。現在において、人間に対する神の要求や、神が何であるか、何故人間が神を信仰するのか、人間が神をどのように信じ、神に対してどのような姿勢を取るべきかを人間が認識していない場合、それは問題となるであろう。たった今、あなたがたは皆、ひとつの領域に関して述べた。具体的であるか、一般的であるかを問わず、あなたがたはある程度何かを認識している。だがわたしは神の人間に対する、正確で、完全で、具体的な必要条件について話をしたい。それは、数語で述べることが可能な、分かりやすいものである。あなたがたは、そうした言葉を既に知っているかも知れない。人間そして神に付き従う者に対して神が要求する正確な条件を、次に述べる。神に付き従う者に対し、神は真の信仰、忠実な追随、完全な服従、真の認識、そして心からの崇敬という5つの事柄を要求する。

 この5つの事柄において、神は人間に対して、神を疑わないこと、想像や、曖昧で抽象的な観点により神に付き従わないこと、想像や概念により神に付き従わないことを求めている。神は、神に付き従う者全員に対し、忠実に付き従い、気持ち半分あるいは曖昧な姿勢で神に付き従わないことを要求している。神があなたに必要条件を提示する場合、あるいはあなたを試し、裁き、取り扱い、刈り込み、あるいは鍛錬し、打つ場合、あなたは神に対して完全に服従する必要がある。あなたは、その原因を尋ねたり、条件を付けたりしてはならず、ましてや根拠を述べたりしてはならない。あなたの服従は、完全なものでなければならない。人間に最も足りない領域は、神を知ることである。人間は、神とは無関係な諺、発話や言葉が神に関する認識に関する最も正確な定義であると考え、神に対して、そうしたものを強要することが往々にしてある。こうした人間の想像や人間の勝手な理由付け、人間の知性に由来する諺には、神の本質に全く無関係であるということについて、人間は殆ど知らない。したがって、神が求めている人間の認識において、神は、神とその言葉を認めることを求めているだけでなく、神に関する人間の認識が正確であることを求めている。それは、たとえ人間がひと言だけしか述べられない場合や、ほんの少ししか知らない場合であっても、その僅かな認識が正確であり、真実であり、神自身の本質と一致するものである、ということである。なぜなら、神は、人間の見当違いで無分別な讃美を嫌悪するからである。さらに、神は人間が神のことを空気のように扱うことを忌み嫌う。神に関する事柄を話す時、人間が軽率な発言をしたり、何の躊躇も無く思いのままに適当な発言をしたりするのを、神は忌み嫌う。また、神を知っていると思い込み、その認識をうそぶき、何ら気兼ねすることなくみだりに神に関する事柄を語る者を、神は忌み嫌う。最後となる5つめの必要条件は、心からの崇敬である。これは、神に付き従う者全員に対する最終的な必要条件である。ある者に、神に関する正確な真の認識がある場合、その者は真に神を敬い、悪を避けることができる。この崇敬は、その者の心の底から生まれるものであり、神がその者に強要したからではなく、自発的なものである。神は人間に対し、好感の持てる態度や行動などの表面的な贈り物を求めるのではなく、心の底から神を崇敬し、畏れることを求める。この崇敬は、人間のいのちの性質が変化することで実現される。なぜなら、その人間は神の認識を得ており、神の業を理解しており、神の本質を理解しており、自分が神の被造物であるという事実を認識しているからである。そうしたわけで、わたしが「心からの」という言葉を用いて崇敬を定義づける目的は、神に対する人間の崇敬は人間の心の底から生まれたものである必要があることを、人間が理解できるようにすることである。

 それでは、この5つの必要条件について検討する。あなたがたのうちに、そのうち1番目から3番目までを達成できる者は居るであろうか。1番目から3番目とは、真の信仰、忠実な追随、完全な服従である。あなたがたのうちに、これらの事柄が出来る者は居るであろうか。5つすべてと言うと、あなたがたのうちには誰も居ないことは確実だが、3つに減らした。自分がその3つを実現しているかどうかを検討して欲しい。「真の信仰」は実現が容易であろうか。(容易ではない。) それは容易ではない。なぜなら、人間は神に対して頻繁に疑念を抱くからである。「忠実な追随」は実現が容易であろうか。(容易ではない。) ここで「忠実」とは何をさすであろうか。(半信半疑ではなく、一心に、ということである。)その通り。半信半疑ではなく、一心に、ということである。まさにその通りである。それでは、あなたがたはその必要条件を満たすことが出来るであろうか。あなたがたは、もっと努力する必要がある。目下あなたがたはこの条件を満たしていない。「完全な服従」についてはどうであろうか。あなたがたはこの条件に達しているであろうか。(未達である。)あなたがたはこの条件も満たしていない。あなたがたは何度も不従順で反抗することがあり、聞こうとしないこと、従おうとしないこと、聞きたいと思わないことが多々ある。これら3つの条件は、人間がいのちに入った後に達成する最も基本的な必要条件であるが、あなたがたはこれらの条件を満たしていない。それでは、現在あなたがたには高い潜在性があるだろうか。あなたがたは、本日わたしの言葉を聞いて不安を感じるであろうか。(感じる。)確かにあなたがたは不安を感じている。わたしはあなたがたが不安であると感じる。残り2つの条件は説明しない。なぜなら、それらを達成出来る者は居ないことが確実だからである。あなたがたは不安である。それでは、あなたがたは自分の目標を既に決めているであろうか。あなたがたが追求し、努力すべき目標と方向性は何であろうか。あなたがたには目標があるだろうか。(ある。)あなたがたの目標は何であろうか。答えて欲しい。(真理を追求し、神の言葉にある神の認識を追求し、最終的に神に対する崇敬と服従を達成することである。)分かりやすく言い換えると、あなたがたがこの5つの必要条件を全て満たした場合、あなたがたは神を満足させたのである。この5つは、いずれも人間が十分に成熟していのちに入ること、そしてこの最終目標を示す指標である。これらの必要条件から1つだけ選んで詳細を説明し、あなたがたに要求したとしても、それを達成するのは容易ではないであろう。人間はある程度の困難に耐え、ある程度の努力をする必要がある。それでは、あなたがたはどのような心構えであるべきであろうか。それは、手術を待つがん患者と同様の心構えである。わたしがこう述べるのは何故であろうか。あなたが神を信仰すること、神、そして神の満足を得ることを望むのであれば、ある程度の困難に耐え、ある程度の努力をすること無くして、それらを得ることは出来ない。あなたがたは多くの説教を聞いてきたが、それを聞くことは、その説教を身に付けたことを意味するものでは無い。あなたはその説教を吸収し、自分自身のものに変化させ、それを消化して自分のいのちとし、自分自身の存在とし、こうした説教の言葉を自分の人生の指針とし、自分の人生に存在価値と意義をもたらすものとしなければならず、そうした後に、この説教が聞くだけの価値があるものとなる。わたしの話により、あなたの人生に何も向上されたことが無く、あなたの存在にとって無価値であったとしたら、あなたにとって、わたしの話は聞く価値が無い。これについては理解したであろう。そのことを理解した上で、それ以外の事柄については自分次第である。あなたがたは努力する必要がある。あなたがたは、あらゆる事に真剣である必要がある。時が経つのは早いので、混乱を避ける必要がある。あなたがたのうち大部分の者が、10年以上にわたり信仰を続けている。10年以上の信仰を振り返って、あなたがたが得たものは、どの程度であろうか。しかるに、あなたがたの人生は、あと何十年残されているであろうか。それほど多くの時間は残されていない。神は、業においてあなたを待っている、あなたのために機会を残しておく、などと言ってはならない。神が戻って来て同じ業を繰り返すことは、絶対に無い。あなたは、現在から10年前へと戻ることが出来るだろうか。1日経過し、時間が進んでゆくごとに、あなたに残された時間は1日ずつ減ってゆくであろう。歳月人を待たず、である。神への信仰から利益を得ることができるのは、食糧や衣服などよりも、なによりも大切なものとして神の信仰に取り組んだ場合のみであろう。時間がある時だけ信仰し、自分の意識をすべて捧げることができず、常におざなりで混乱していたとしたら、あなたが得るものは無いであろう。これについては理解したであろう。本日の話はこれで終わりである。ごきげんよう。(神に感謝します。)


2014年2月15日

2019年5月3日金曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 6



3) 神に付き従う者の生死の周期
 次に、神に付き従う人々の生死周期について話をする。これはあなたがたに関連する事柄なので、注意して聞いて欲しい。まず、神を信じる人々は、どのような種類に区分することができるかを検討しよう。神を信じる人々は、神の選民と、奉仕者という2種類に区分される。まずは、限られた人数しか居ない、神の選民について話をする。「神の選民」とは何を指すであろうか。神が万物を創造し、人類が現れた時、神は神に付き従うひとつのグループの人々を選び、その者達を「神の選民」と呼んだ。神がこれらの者を選ぶ際には、特別な範囲と意味がある。その範囲とは、神が重要な業を行う時、神の選民はそこに現れる必要がある。これが、神の選民の、ひとつ目の特別な部分である。それでは、神の選民の意味は何であろうか。神によりこれらの者が選ばれたということは、神の選民に大きな意味があることを意味する。つまり、神はこの者達を完全な存在とすることを望み、この者達を完璧な存在とし、神が経営の業を完了した後、神はこの者達を自身のものとする。この意味は偉大では無かろうか。したがって、これらの選民は神にとって極めて重要である。なぜなら、神はこれらの者を自身のものとしようと考えているからである。これに対し、奉仕者については、神の予定説の話を中断し、まず奉仕者の由来について話をする。「奉仕者」という言葉の意味は、奉仕を行う者である。奉仕を行う者は、長期的に、あるいは恒常的にではなく、一時的にその役割に起用された者である。奉仕者の大部分が、信仰の無い者のうちから選ばれる。奉仕者が地上に現れる時は、その者が神の業において奉仕者としての任務を命じられた時である。奉仕者は、前世において動物であった者である場合や、信仰の無い者であった場合もある。これが奉仕者の由来である。

 それでは、神の選民の話に戻る。神の選民は、死んだ時に信仰の無い者や様々な宗教の信者とは全く異なる場所へ行く。その場所は、神の選民が天使と神の使いに付き添われ、神自身が管理している場所である。この場所において、神の選民は自らの目で神を見ることは出来ないが、その場所は霊的世界において他のどの場所とも異なる場所である。そこが、神の選民が死後に行く場所である。神の選民が死んだ時もまた、神の使いによる厳格な調査の対象となる。それでは、何が調査されるのであろうか。神の使いは、神の選民の生涯全体について、神の選民が神に反抗したり神を呪ったりしたことや、重度の罪や悪業を行うことが無かったかを調査する。この調査により、その者がそこを去るか、そこに留まるかが決定される。ここで「去る」、とは何を意味するであろうか。また、「留まる」、とは何を意味するであろうか。「去る」とは、彼らの行動に基づき、神の選民として留まることができるかどうかを意味する。「留まる」とは、終わりの日に、神により完全な存在となる人々として留まることができる、ということを意味する。留まる者について、神は特別な采配を行う。神の業の各期間において、神はそうした人々を送り、使徒としての役割を担わせるか、あるいは教会を復活させるか、教会に奉仕させる。しかし、こうした業を行う事が出来る人々は、何度も生まれ変わる信仰の無い人々ほど頻繁に生まれ変わらず、そうした人々は神の業の必要性と段階に従って地上へと戻り、頻繁に生まれ変わることは無い。それでは、選民の生まれ変わりの時期には、規則があるだろうか。神の選民は数年ごとに生まれ変わるか、神の選民は、そうした頻度で生まれ変わるか、というと、そうしたことは無い。それは何に基づくものであろうか。それは神の業や、業の段階、神の必要性に基づき、規則は無い。唯一の規則は何であろうか。神が終わりの日に業の最終段階を行う時、神の選民は、全員人間の世界に現れる。選民が全員現れたとき、それは選民が最後に生まれ変わるときである。それは何故であろうか。これは、神の業の最終段階において実現されるべき結果に基づく。この業の最終段階において、神はこうした選民達を、全員完全な存在とする。それは何を意味するであろうか。もし、その最終段階において選民が完全な存在にされるのであれば、選民は従前のように生まれ変わることは無い。人間として存在する過程と生まれ変わりは、完了する。このことは、留まる者に関連する。それでは、留まることの出来ない者は、どこへ行くのであろうか。留まることの出来ない者は、その者に適切な場所へ行く。まず、他の者と同様、こうした者も、自分の邪悪な行いや犯した過ちや罪の結果として罰を受ける。こうした者が罰せられた後、神はこうした者を信仰の無い人々の所へと送り、状況に応じて信仰の無い者や様々な宗教の信者と同じ所へと送る采配を行う。つまり、こうした者には2つの選択肢がある。その1つは、罰を受けた後、ある宗教の信者として生きること、もう1つは、信仰の無い者となることである。信仰の無い者となった場合、こうした者は全ての機会を失う。しかるに、たとえばキリスト教などの信者となった場合、こうした者には依然として神の選民に戻る機会がある。このことには、極めて複雑な関係がある。簡潔に言うと、神の選民が神に反する行為を行った場合、こうした者は他の者と同様に罰せられる。たとえば、先述したパウロは、罰を受けた者の例である。わたしが言っていることの意味が理解できるであろうか。神の選民の範囲は、一定であろうか。(ほぼ一定である。)ほぼ一定であるが、わずかに一定でない部分がある。それは何故であろうか。それは、選民が悪業を行ったからである。ここでは最も分かりやすい例として、悪業を行うことを挙げた。こうした選民が悪業を行うと、神はその選民を獲得したいと思わなくなり、そうなった時、神はその選民を様々な人々と一緒にし、その選民には望みが無くなり、選民にとって戻ることが困難となる。これは、神の選民の生死周期と関連することである。
 次に、奉仕者の生死周期について話をする。奉仕者については話をしたが、奉仕者の起源は何であるだろうか。(信仰の無い者が起源であったり、動物が起源であったりする。)こうした奉仕者は信仰の無い者や動物から生まれ変わる。業の最終段階となると、神は信仰の無い者から奉仕者達を選択するが、その奉仕者達は特別な存在である。神が奉仕者を選ぶのは、奉仕者を神の業に従事させることを目的とする。「奉仕」という言葉は、それほど美しいものでも、誰かが望むようなものでも無いが、その対象となる者を検討する必要がある。神の奉仕者の存在には、特別な意味がある。奉仕者は神により選択された者であるので、その役割を果たせるものは他には居らず、そのことに奉仕者の存在の意味がある。それでは、奉仕者の役割は何であろうか。それは、神の選民に奉仕することである。奉仕者の役割は、主に神の業のために仕え、協調し、神の選民を完全な存在とする神の業に協力することである。奉仕者が働いているか、業を行っているか、任務を遂行しているかを問わず、神が奉仕者に対して要求するのは何であろうか。神の奉仕者に対する要求事項は多いであろうか。(神は奉仕者が忠実であることを要求される。)奉仕者もまた忠実である必要がある。あなたの起源や、神があなたを選んだ理由を問わず、あなたは忠実である必要がある。あなたは、神や、神があなたに託した事柄、あなたが担当する業や行う任務に対して忠実である必要がある。奉仕者が忠実であり、神を満足させることが出来る場合、その奉仕者の終わりは、どのようなものとなるであろうか。こうした奉仕者は、留まることができる。留まる奉仕者たることは、祝福ではなかろうか。留まるということは、何を意味するであろうか。その祝福は何を意味するであろうか。奉仕者の地位は、神の選民と異なるように思われる。しかし、実際には、その生涯において奉仕者が享受するものは、神の選民と同じではなかろうか。少なくとも、その生涯において享受するものは同じである。それについては異論が無いであろう。神の言葉、神の恵み、神に与えられたもの、神の祝福などを享受しない者は居るであろうか。全ての人々が、そうしたものの豊かさを享受する。奉仕者の身分は奉仕者であるが、神にとって、奉仕者は神が造った万物のひとつであり、単にその者の役割が奉仕者であるというだけである。あなたに尋ねるが、神に造られたものとして、奉仕者と神の選民との間に相違点はあるだろうか。事実上、そうした相違は無い。名目上、両者が果たす役割については相違があり、本質にも相違があるが、神は両者を差別しない。それでは、これらの人々が奉仕者に定められているのは何故だろうか。それを理解する必要がある。奉仕者は、信仰の無い者に由来する。信仰の無い者に関する話によれば、そうした者の従前は好ましくない事が分かる。奉仕者は全員かつて無神論者であり、神を信じず、神や真理、肯定的な物事に敵意を抱いていた。過去において奉仕者は神を信じず、神が存在することを信じていなかったが、それならば、奉仕者は神の言葉を理解できるだろうか。大まかに言えば、奉仕者は理解できないと言える。ちょうど動物が人間の言葉を理解できないように、奉仕者は神の言葉や神の要求、神がそうした要求をする理由などを理解できず、こうした事柄は奉仕者にとって理解不能であり、奉仕者はそうした物事を知らないままである。そのため、奉仕者はわたしたちの言ういのちを持っていない。いのち無くして、人間は真理を理解できるであろうか。奉仕者は真理を得ているであろうか。奉仕者には神の言葉の経験や認識があるであろうか。無論そのようなものは無い。これが奉仕者の由来である。しかし、神はこうした人々を奉仕者とするので、やはり神には奉仕者に対する必要条件の基準がある。神は奉仕者を無下にすることも、いい加減な姿勢を取ることも無い。奉仕者は神の言葉を理解できず、いのちも無いにもかかわらず、神は依然として奉仕者を親切に扱い、また奉仕者に対する神の必要条件の基準が存在する。そうした基準は、たった今話をした通り、神に対して忠実であること、神の言葉に従うことである。奉仕を行うにあたっては、必要に応じて行わなくてはならず、また、最後まで続けて行わなくてはならない。あなたが最後まで奉仕可能であり、忠実な奉仕者であり、最後まで続けて奉仕可能であり、かつ神により託された物事を完遂できる場合、あなたは価値のある人生を送り、留まることが出来るであろう。それに加えてもう少し努力し、神を知る取り組みを倍増させ、神に関する認識を多少話すことが可能で、神を証しすることが可能で、更には神の心に関して何かしら理解し、神の業に協力可能であり、神の心を多少心に留めることが可能である場合、その奉仕者の運命は変わるであろう。それでは、その運命の変化とは何であろうか。こうした奉仕者は、留まることができるのみでは無くなる。あなたの行動と個人的な熱意と追求に基づき、神はあなたを選民とするであろう。これが、その運命の変化である。奉仕者にとって、この変化による最大の利益は何であろうか。それは、神の選民となることが可能であることである。それでは、神の選民となることに、どのような意味があるであろうか。それは、信仰の無い者のように、動物として生まれ変わる必要が無くなる、ということである。これは良いことではないか。これは良い知らせである。つまり、奉仕者は鍛錬される。奉仕者は、神が奉仕するよう定められた場合に永遠に奉仕を続ける、ということは、必ずしも無い。個人の行動に基づき、神はあなたを異なる方法で扱い、対応する。
 しかし、最後の時まで奉仕出来ない奉仕者も居る。途中で諦めて神を捨てる奉仕者、悪業を多数行う奉仕者、さらには神の業に対して甚大な害を与える奉仕者、神を呪う奉仕者さえも居る。そして、そうした取り返しのつかない悪影響の結果は、どのようなものとなるであろうか。こうした邪悪な行動の結果、その奉仕者の任務を解除される。つまり、奉仕中における行動が極めて悪く、度が過ぎた場合、あるいはあなたの奉仕が基準以下であることを神が知った場合、神はあなたの奉仕者としての資格を剥奪し、あなたが奉仕するのを許さず、あなたを神の前、神の家から消滅させる。あなたは奉仕したくないのではないのか。常に邪悪な行動をしたいと願っているのではないのか。常に不忠ではないのか。そうであれば、簡単な解決策が実施される。それは、あなたが奉仕する資格が、剥奪される、ということである。神にとって、奉仕者から奉仕する資格を剥奪することは、奉仕者の終わりの時が宣告されることを意味し、したがってこうした奉仕者は神に奉仕する資格が無くなり、神はそうした者の奉仕を必要としなくなり、こうした者がいかに美辞麗句を並べても無駄である。このような事態となった場合は、そうした状況から回復することは不可能となり、そうした奉仕者は元に戻ることが出来なくなる。それでは、神はこうした奉仕者をどのように扱うであろうか。神は単にこうした者の奉仕を停止するだけか、というと、そうではない。単にこうした者を留まらせないようにするだけか、あるいはこうした者を一箇所に移動させ、改善するのを待つか、というと、そのようなことは無い。実のところ、神は奉仕者に対し、そこまでの愛情をかけない。したがって、神に奉仕する際にそうした態度である場合、神は、その態度の結果として、その者が奉仕する資格を剥奪し、その者を再び信仰の無い者の所へと戻す。それでは、信仰の無い者の所に戻された奉仕者の運命は、どのようなものであろうか。その運命は信仰の無い者と同じであり、動物として生まれ変わり、霊的世界において信仰の無い者の罰を受ける。神はその罰に対し、個人的な関心を示さない。なぜなら、その者は神の業との関係が無くなったからである。それは、その者にとって神を信仰する生活の終焉となるのみならず、その者自身の運命の終焉であり、その者の運命の宣告であるので、奉仕者が劣悪な奉仕を行った場合、その者は自分自身でその報いを受ける必要がある。奉仕者が最後まで奉仕できなかった場合、あるいは途中で奉仕する資格を剥奪された場合、その者は信仰の無い者の所に戻される。信仰の無い者の所に戻された場合、その者は家畜や知性や理性の無い人々と同様に扱われる。このように説明すれば、あなたがたにも理解できるであろう。

 これが、神の選民と奉仕者の生死の周期を神が取り扱う方法である。こうした話を聞いて、あなたがたはどう感じているであろうか。今話をした、神の選民と奉仕者に関する事項を、嘗てわたしが話したことはあっただろうか。実は、嘗て話をしたことがあるが、あなたがたは覚えていない。神は、神の選民と、奉仕者に対して義である。あらゆる面において、神は義であるが、それについては何も疑う余地が無い。おそらく、「それならば、神が選民に対して寛容であるのは何故か。また神が奉仕者に対し、少ししか寛容でないのは何故か。」と言う者が居るであろう。誰か奉仕者の肩を持ちたい者は居るだろうか。「神は奉仕者に対して追加で時間を与え、もう少し寛容であることが出来ないだろうか。」こうした発言は正しいであろうか。(誤っている。)何故それは誤っているのであろうか。(奉仕者とされたことだけでも、その厚意を示すものであるから。)実際には、その者が奉仕できることだけでも、その厚意を示すものであるからである。「奉仕者」という言葉も、奉仕者の働きも無かったとしたら、そうした奉仕者は、どこに居るはずであったであろうか。その場合、奉仕者は、信仰の無い者の所で、家畜同様に生き、死んでいたはずである。神の前、神の家に来ることが許されている奉仕者達は、何と大きな恵みを享受していることであろう。これは極めて大きな恵みである。神があなたに奉仕する機会を与えなかったとしたら、あなたには神の前に来る機会は一切無かったであろう。少なくとも、あなたが仏教徒であって、永遠の命を得たとしても、せいぜい霊的世界の使い走りとなる程度であり、神に会うことも、神の声や言葉を聞くことは無く、また神の愛と祝福を感じることも、神と対面することも、まず出来ないであろう。仏教徒には、単純な使命があるのみである。仏教徒は神を知る事が出来ず、盲目的に服従するのみであるが、奉仕者はこの段階の業において多くの物事を得る。まず、奉仕者は、神と対面し、神の声や言葉を聞き、神が人間に与える恵みと祝福を体験することができる。さらに、奉仕者は神に与えた言葉や真理を享受することができる。奉仕者が得るものは、実に多い。したがって、もしあなたが奉仕者として正しい取り組みを行えなかったとしたら、神はあなたを奉仕者として留めるであろうか。神があなたに要求することは、極めて少ない。神はあなたを留めることが出来ない。あなたは神が求めている事柄を何も正しく行わず、自分の本分を尽くすことも無かったならば、神があなたを留めておくことが出来ないのは、当然である。これが神の義なる性質である。神があなたを甘やかすことは無いが、あなたを差別することも無い。神はこのような原則に従って行動する。神は、あらゆる人間や被造物に対して、このように行動する。

 霊的世界については、様々な生き物が誤った行動を取った場合、あるいは任務を適切に遂行しなかった場合、神はそれに応じた天の命令と規則をもってそうした生き物に対処する。これは絶対的な事柄である。したがって、神の数千年にわたる経営の業の期間においては、過ちを犯した執行官の一部は排除され、一部は現在も拘留されて罰を受けている。これは、霊的世界において、生ける全てのものにとって不可避なことがらである。ある者が何かしらの過ちを犯したり、邪悪な行動を取った場合、その者は罰せられるが、これは神の選民や奉仕者に対する神の姿勢と全く同じである。したがって、それが霊的世界であるか、物質世界であるかを問わず、神が業を行う原則は変わらない。あなたが神の業を理解できるかどうかを問わず、その業の原則は変わることが無い。神の万物に対する姿勢と処遇には、一貫して同じ原則がある。これは変わることが無い。神は、信仰の無い者のうち、比較的真面目に生活している者に対しては親切であり、また様々な宗教の信者のうち、行いが正しく、悪業を行わない者から機会を奪われることは無く、こうした者は神が経営している全ての物事において役割を担うこと、なすべき事を行うことを許されている。同様にして、神に付き従う者、神の選民についても、神は差別すること無く、神の原則に従う。神は、心から神に従うことの出来る者全てに対して親切であり、またその者を愛する。ただし、信仰の無い者、様々な宗教の信者、そして神の選民といった様々な種類の人々について、神が与える物事は異なる。たとえば信仰の無い者については、こうした者は神を信じておらず、神はこうした者を家畜と考えているにもかかわらず、そうした者それぞれに食糧や住居、通常の生死周期などを与えている。邪悪な行いをする者は罰せられ、善い行いをするものは祝福されて神の親切を受ける、といった状況である。信仰のある者については、生まれ変わる度に、信仰上の教訓を遵守する事が出来る場合、神はそうした数回の生まれ変わりの後、最終的に神の宣言を与える。同様にして、この場に居る者各人についても、神の選民であるか、奉仕者であるかを問わず、神はその者に同じ指針を適用され、神が定めた規則と行政命令に従ってその終わりを決定する。様々な種類の人々のうち、各種宗教の信者の人々について見ると、神はそうした人々に生活環境を与えているであろうか。ユダヤ教はどこに存在するであろうか。神は嘗て、ユダヤ教を妨げたことがあっただろうか。そうしたことは一切ない。それでは、キリスト教はどうであろうか。神は少しも妨げたことは無い。神はこうした信徒の人々が独自の手続に従うことを許し、そうした信徒に言葉を述べたことも、導き示したこともなく、さらには何も明示したことも無く、「それが正しいと思うのであれば、そう信じなさい。」という姿勢でいる。カトリックの教徒はマリアを信仰し、マリアを通してイエスに知らせが伝えられたと信じている。それがカトリックの教徒の信条である。それでは、神は嘗て、カトリックの信仰を正したことがあっただろうか。神はこうした信徒に行動の自由を与え、こうした人々に全く留意することなく、こうした信徒に一定の生活空間を与えている。それでは、イスラム教徒や仏教徒に対しても、神は同様であろうか。神はそれぞれの信仰を阻害せず、そうした信徒にも領域を設け、その生活空間で生活することを許している。全て十分な秩序がある。それでは、これらのことから何が分かるであろうか。それは、神には権威があるが、神はその権威を濫用することが無い、ということである。神は万物の秩序を完璧に調整し、系統的であり、そこには神の知恵と全能性がある。

 本日は新たに特別な事項、すなわち霊的世界に関する事項について話をしているが、それは神の霊的世界に対する管理と支配に関する一側面である。こうした事を理解していないと、「それに関する事柄は、全て神秘であり、私達がいのちに入ることとは無関係である。こうしたことは人間が実際にどのように生活するかとは切り離されており、理解する必要がなく、聞きたくない。こうしたことは神を知ることとは全く関連性が無い。」などと言うかもしれない。あなたがたは、こうした考え方に問題があると思うだろうか。これは正しいであろうか。こうした考え方は正しくない上、深刻な問題がある。それは、神が万物を支配する方法を理解したいと思うのであれば、単に目に見える物事と考えただけで得ることが可能な物事だけを理解するだけでは不十分だからである。それには目に見えないながらも、目に見える世界と不可分の関連性がある世界も理解する必要がある。このことは、神の統治と、本日話をしている事項「神は万物の生命の源である」にも関連し、それらに関する情報である。この情報が無ければ、神が万物の生命の源であるのは何故かに関する人々の認識には、誤りや不足がある。したがって、本日話をした事項は、従前話をした内容、また「神は万物の生命の源である」の内容を締めくくるものである、と言えるであろう。これを理解した上で、この内容により神を知ることが出来るであろうか。それよりも重要な事は何であろうか。本日、わたしは、奉仕者の秘密という、極めて重要な情報をあなたがたに伝えた。あなたがたはこうした事項の話を好み、真剣に考慮していることは知っているが、本日話をした事に満足しているであろうか。(満足した。) その他の物事に対して強い印象を受けないかも知れないが、特に奉仕者に関する話は、あなたがたの魂に触れるので、強く印象に残ったであろう。

2019年4月16日火曜日

復活後のイエスによる弟子達に対する言葉


 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネによる福音書20:26-29)

 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。」(ヨハネによる福音書21:16-17)
 これらの聖句により述べられている事柄は、主イエスが復活した後に、弟子達に対して行った業と言葉である。まず、復活の前後における主イエスの相違点について検討する。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わりないであろうか。この聖句には、復活後のイエスに関する「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。」という件が含まれている。この時の主イエスは肉にある存在ではなく、霊の存在となっていたことは明らかである。なぜなら、主が肉の限界を超越し、扉が閉ざされていたにもかかわらず、主は人々の前に来て自身の姿を見せたからである。これが復活前の肉にあった主イエスと、復活後の主イエスの、最大の相違点である。その時の霊的存在の外観と、それ以前の主イエスの外観には何ら相違はなかったが、その時のイエスは人々にとって見知らぬ人と感じられるような存在となっていた。なぜなら、主は死から復活した後に霊的存在となり、従前の身体と比較すると、その霊的存在は人々にとって謎めいた理解し難い存在となっていたからである。またそれが原因となり、主イエスと人々との間に、一層の隔たりが生じ、人々はその時の主イエスが一層不思議な存在になったと感じた。人々のこうした認識と感覚により、人々は、目に見えず触れることの出来ない神を信仰していた時代へと、突如として戻された。そうしたわけで、主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。

 主は霊の存在であったとすると、なぜ人々は主に触れ、主を見ることが出来たのであろうか。それは主イエスが人間の前に現れたことの意味に関連する問題である。これら2つの聖句について、何か気付くことがあるだろうか。通常、霊の体は見ることも触れることも出来ず、また主の復活後、主イエスの業は既に完了していた。したがって理論的には、主が復活前の姿で人々の前に再び現れ、人々に会う必要は全く無かった。しかし、主イエスの霊の存在がトマスなどの人々の前に現れたことにより、その意味が一層具体的なものとなり、人々の心に一層深く刻み込まれた。主がトマスの前に現れた時、疑念を抱いていたトマスに自身の手に触れさせ、「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言った。この言葉や業は、主イエスが復活した後に伝えたい、行いたいと思ったものではなく、主が十字架にはり付けられる前に伝え、行いたいと思っていたものである。十字架にはり付けられる前の主イエスが、トマスのような者に関して理解していたことは明らかである。このことから何が分かるであろうか。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わらなかった、ということである。主の真髄は、変わっていなかった。トマスの疑念は、この時始まったのではなく、主イエスに付き従っている時分からあったものだが、主は死から復活して霊的世界から、復活前の外観、性質、そして肉にあった時の人間に対する認識で戻って来た。故に主イエスはまず最初にトマスのこところへ行き、自身のわき腹をトマスに触れさせて復活後の主の霊的存在に触れさせるだけでなく、主の霊的存在に触れて実感させ、トマスの疑念を完全に払拭させたのである。主イエスが十字架にはり付けられる前、トマスは常に主がキリストであるということに疑念を抱き、信じることが出来なかった。トマスの神に対する信仰は、トマスが見ること、手で触れることが出来ることのみに基づいていた。主イエスは、この種の人間の信仰について、よく知っていた。この種の人々は天の神のみを信じ、神が送った肉にあるキリストを受け容れることが出来なかった。主イエスの存在と、イエスが真に受肉した神であることをトマスに理解させ、信じさせるため、イエスはトマスに対し、手で自身のわき腹に触れさせた。主イエスの復活の前後で、トマスの疑念に異なる点はあったであろうか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊的存在がトマスの前に直接現れ、トマスに自身の身体に残された釘あとを触れさせる以外に、トマスの疑念を払拭することは誰にも出来なかった。そうしたわけで、主イエスがわき腹と残された釘あとをトマスに触れさせてからは、トマスの疑念は消え、トマスは主イエスが復活されたことを真に知り、また主イエスが真のキリストであり、受肉した神であったことを理解し、信じるようになった。この時トマスに疑念はなかったが、キリストに会う機会を永遠に失ってしまった。トマスはキリストと共にあり、キリストに付き従い、知る機会、そしてキリストにより全きものとされる機会を永遠に失ってしまった。主イエスの現れと言葉により、疑念を抱いている者の信仰に対する主の結論と審判が下された。主は自身の言葉と業により、疑念を抱く者に対して、天の神のみを信じ、キリストを疑う者に対し、そうした者の信仰や、疑念を抱きつつ付き従うことを好まないということを伝えた。そうした者たちが神とキリストを完全に信じるようになる時、それは他でもない、神の大いなる業が完了した時である。もちろん、大いなる業が完了した時は、そうした者たちの疑念に対する審判が下る時でもある。その者たちのキリストに対する態度により、その者たちの運命が決められ、そうした頑なな疑念の結果としてその者達が得るものは無く、頑固さゆえ、そうした者たちの希望は報われない。そうした者たちの天の神に対する信仰は幻により育まれており、またそうした者たちのキリストに対する疑念がそうした者たちの神に対する実際の態度であるため、そうした者たちは実際に主イエスの釘跡に触れたにもかかわらず、そうした者たちの信仰は無駄であり、そうした者たちの結末は無駄な努力をしているとしか言いようが無い。主イエスがトマスに対して述べたことにより、全ての者に対して、復活した主イエスが人間の中で33年と半年にわたって業を行っていた主イエスである、と明確に伝えられている。イエスは十字架に釘ではり付けられ、死の陰の谷を歩んだ後に復活したにもかかわらず、イエスのあらゆる側面は変わることがなかった。イエスの身体には釘あとが付き、復活して墓から出てきたにもかかわらず、その性質、人間に対する認識、人間に対する旨は全く変わることがなかった。また、イエスは十字架から下ろされ、罪や苦難、そして死に打ち克ったと人々に伝えた。その釘あとは、サタンに対する勝利の証しであり、人類すべてを贖うための罪のいけにえとなった証であった。イエスは、人類の罪を既に負い、贖いの業を成し遂げたことを人々に告げていた。イエスが使徒たちの前に戻って来た時、イエスが出現されたことによって、使徒たちに対して「依然としてわたしは生きている。わたしは、あなたがたがわたしを見て触れることができるよう、実際にあなたがたの前に立っている。わたしは常にあなたがたと共に居る」と伝えた。また、主イエスはトマスの例を「主イエスを信じていたとしても、主を見ることも、主に触れることも出来ないが、あなたは、あなた自身の真の信仰により祝福され、あなたの真の信仰により主イエスを見ることが可能であり、それが可能な人は恵まれている」という、その後の人々に対する警告として用いたいと考えた。
……

 これが疑い深い者に対する主イエスの姿勢である。それでは、主イエスを心から信じて付き従う者に対し、主はどのような言葉を述べ、どのような業を行ったであろうか。次に、その言葉と業について、主イエスがペテロに対して述べた言葉を検討する。

 この対話のなかで、主イエスは繰り返し「ペテロよ、わたしを愛するか」と尋ねている。これは、主イエスが復活した後に、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような者に対して主イエスが求めた、比較的高い基準である。この質問は、ある種の調査であり、ある種の尋問であったが、それ以上に、ペテロのような者に対する要求であり、期待であった。イエスはこのような方法により、人々に自分自身を省みて「主イエスが人々に要求していることは何であろうか。私は主を愛しているか。私は神を愛する者であろうか。私はどのように神を愛するべきであろうか。」と自問自答させた。主イエスがこう質問したのはペテロだけであったが、神はその心の中で、神を愛することを追い求める更に多くの人々に、同様の質問を投げかけることを望んでいた。ペテロは、この種の人々の代表として、主イエスから直接この質問を受ける祝福にあずかったというだけのことである。

 主イエスがトマスに対して「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と復活後に述べたのに対し、ペテロに対しては3回「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか。」と尋ねている。この質問により、主イエスの厳格さと、主が質問した時の切迫性を、一層感じ取ることができる。狡猾で不正な性格のトマスの疑念について、主イエスはトマスを主の釘あとに触れさせることで、主イエスが復活した人の子であり、主イエスがキリストであることをトマスに確信させた。主イエスはトマスを厳しく非難することも、審判を明確に述べることもなかったが、イエスは実際の行動により、自分がトマスを理解していることをトマスに知らせつつ、この種の人々に対する主の姿勢と判断を示した。この種の人々に対する主イエスの要求は、主の言葉には見られない。これは、トマスのような人々には真の信仰が全く無いためである。こうした人々に対する主イエスの要求は真の信仰あるのみであるが、ペテロのような人々に対する啓示は全くこれと異なる。イエスは、ペテロに対して釘あとに触れるよう要求することも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言うこともなかった。そのかわりに、イエスはペテロに対し、同じ質問を繰り返した。これは、思考を刺激すると同時に、キリストに付き従う者すべてが自責の念にとらわれ、畏れを感じ、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じざるを得ないような、意味深い問いかけであった。そして、キリストに付き従う者たちは、大いなる痛みと苦しみに苛まれている時に、主イエス・キリストの懸念と労り一層深く理解することが出来るで、イエスの純粋で誠実な人々に対する熱心な教えと厳格な要求を認識する。主イエスの問いかけにより、人々はこうした簡潔な言葉により啓示された主の人々に対する期待は、主を信じ、付き従うことだけでなく、愛ある人間となり、主を愛し、神を愛することであることを感じることができる。この種の愛は、慈しみと服従である。それは人類が神のために生き、死に、全てを神の前に差し出し、尽くし、捧げることである。また、この種の愛により、神は慰めを得、自身に対する証を喜び、そして安息を得る。この種の愛は、人類の神に対する返報であり、責任であり、義務であり、本分であり、人類がその生涯を通して従うべき道である。この3回の問いかけは、ペテロをはじめとする完全な存在となる人々に対する主イエスの要求であり、警告であった。ペテロがその人生の道を完遂するよう導き、励ましたのは、この3回の問いかけであった。また、完全な存在となる道を歩み始めるようペテロを導いたのも、ペテロの主に対する愛ゆえに、主の心を労り、主に服従し、主に慰めを与え、この愛ゆえに自分の生涯と自分自身の全てを捧げるようペテロを導いたのも、主イエスが去る際の、この問いかけであった。

 恵みの時代では、神の業は専ら2種類の人々を対象とするものであった。その2種類の人々のうちの1つは、神を信じて付き従い、神の戒めを守り、十字架を負い、恵みの時代の道を守ることのできる人々であった。この種の人々は、神の祝福を得て、神の恵みを享受した。2つ目の種類の人々は、ペテロのように完全な存在となる人々であった。そうしたわけで、主イエスが復活した後、主は最初にこの2つの極めて有意義な業を行ったのである。そのうちの1つはトマスに対してであり、もう1つはペテロに対してであった。この2つの業は何を表しているであろうか。神が人間を救う真の旨を表しているであろうか。神の人間に対する誠実さを表しているであろうか。神がトマスに対して行った業は、疑うことなく、ひたむきに信じるよう人々に警告するためのものであった。主がペテロに対して行った業は、ペテロのような人々の信仰を強化し、この種の人々に対する要求を明確化し、この種の人々が目指すべき目標を示すためのものであった。

 主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。仮にあなたが当時のトマスやペテロであって、人生のなかでこのような極めて意義深い出来事に遭遇したとしたら、それはあなたにどのような影響を及ぼすであろうか。その出来事は、神を信じる生活において最も素晴らしい、至高のビジョンである、と認識するであろうか。人生において神に付き従い、神を満たすために努力し、神への愛を追求する上で励みになると認識するであろうか。この至高のビジョンを広めるため、一生涯をかけて努力するであろうか。主イエスの救いを広めることを、神から授けられた命令として受け入れるであろうか。あなたがたはこうした業を経験していないが、トマスとペテロの業の事例は、現代の人々にとって、神の旨と、神自身を明瞭に理解するに十分である。神が受肉して人間として人間の中で生活を経験し、人間の腐敗や人間生活の惨状を目の当たりにした後、受肉した神は、人間の絶望や悲しみ、哀れさを深く感じた。受肉して生活した際の人性と直感が原因となって、神は人間の惨状に対する憐れみを一層深めた。その結果として、神は、神に付き従う者に対する懸念を深めた。こうした事柄は理解できないかもしれないが、神に付き従う者全てに対する受肉した神の懸念と慈しみは、「極めて強い懸念」という表現で表わすことができるであろう。強い懸念という言葉は人間の言葉であり、極めて人間的な言葉ではあるが、神に付き従う者に対する神の気持ちを真に表現している。人間に対する神の強い懸念は、経験を重ねてゆくにつれて感じ取ることができるであろう。しかし、それを感じ取るには、あなたがた自身の性質の変化を追求することによって神の性質を徐々に理解することによるほかにない。主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。
       『言葉は肉において現れる』より


2019年4月11日木曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 4

 信仰の無い者は、しばしば目に見える物全てが存在し、目に見えない物や人間から遠く離れた物は存在しないと考える。信仰の無い者は、「生死の周期」も「罰」も存在しないと考えたがり、良心の呵責無く罪を犯し、悪業を行い、その後罰を受け、動物に生まれ変わる。信仰の無い者のうち殆どの者が、この悪循環に陥っている。それは何故であろうか。それは、こうした人々は、生きる物全ての管理に対し、霊的世界が厳格であることを知らないからである。信じるかどうかを問わず、この事実は存在し、神の目により確認される物事の範囲から逃れられる人や物、天の命令や神の規則によるきまりや制限から逃れられる人や物は存在しない。したがって、あなたがた各人に、この簡単な例について話をする。神を信じるかどうかを問わず、罪を犯し、悪業を行うことは認められず、そうした行動には報いがある、ということは、絶対的である。金銭をめぐって他人に対して不正を行った者が罰せられる時、その罰は公平妥当であり、かつ義である。こうした典型的な行動は、霊的世界において神による規則と天の命令により罰せられ、いわんや強姦や強奪、詐欺や欺き、窃盗や強盗、殺人や放火など、重篤な犯罪や邪悪な行いに対しては、それにも増して様々な重さの罰の対象となる。それでは、こうした様々な重さの罰には、どのようなものがあるだろうか。その期間により重さが決まる罰もあれば、様々な方法で重さが決まる罰、生まれ変わるときの行き先で重さが決まる罰もある。たとえば、一部には、口汚い人がいる。ここで「口汚い」、とは何を意味するであろうか。それはしばしば他人に暴言を吐いたり、汚い言葉を使ったり、他人を罵倒するような言葉を使うことである。汚い言葉により示される事は何であろうか。それは、その人の心が汚れていることを示す。他人を罵倒する汚い言葉は、しばしばそうした人々が口にするが、そうした汚い言葉には、厳しい報いが伴う。そうした人々が死んで相応の罰を受けた後、口の利けない人として生まれ変わる可能性がある。一部の人々は生前極めて計算高く、他人を利用することが多い。そうした人々の手口は、極めて周到であり、他人を傷つけることを数多く行う。こうした人々が生まれ変わる時、知能や精神に障害がある者として生まれ変わる可能性がある。一部の人々は、他人のプライバシーを頻繁にのぞき見て、見るべきでは無い内情を見たり、知るべきでは無い事柄を知ったりすることが多々あるが、そうした人々は、生まれ変わると全盲者となる可能性がある。生前は短気で喧嘩をすることが多く、邪悪な行いを多数行った者は、それに準じて身体障害や手足の不自由を持って生まれ変わったり、背むしや斜頸となったり、肢体不自由になったり、一方の足が他方よりも短くなったりする。こうした人々は、この場合、生前に行った邪悪な行動の程度に基づいて、様々な罰の対象となっている。それでは、斜視の人々が居るのは何故だと言えるだろうか。斜視の人は多数居るであろうか。現在、斜視の人々が多数いる。そうした人々は、生前に目を使いすぎたり、悪業が多すぎたりしたために斜視となって生まれ変わり、重篤な場合は全盲者となる。斜視の人々を見るのは気持ちの良いものだろうか。斜視の人々は好印象を与えるであろうか。こうした人々は、顔立ちが美しく、肌がきれいで色が明るく、目が大きく二重だが、残念ながら片方の目が斜視となっている。斜視の人々は、どのように見えるであろうか。斜視はその者の表情に全面的な影響を与えるのではないか。こうした影響を受けている人々は、どのような人生を送るであろうか。斜視の人々は、他の人と会う時に「私は斜視だ。あまり頻繁に他人を見てはならない。他人に自分の目を見られたくない。私は前にかがんで話をする必要がある。相手の顔を見てはならない。」などと考えるであろう。斜視は、その人の物の見方や、相手の顔を見る能力に影響を与える。この点について、斜視の人々は目の機能を喪失していないだろうか。こうした人々の前世における行き過ぎた行為は、それにより贖われていないだろうか。したがって、こうした人々は、その次の人生では、従前ほど悪業を行わなくなる。これが報いである。

 一部の人々は、生前には他の人々と仲良くできて、自分の周囲の人々や家族、友人、同僚やその関係者に対して親切な行為を多数行う。こうした人々は他人を助け、思いやりと配慮を与え、金銭的に支援し、他人はこうした人々を高く評価するが、こうした人々は、霊的世界に戻った時、罰を受けることはない。信仰の無い人々が何らかの方法で罰を免れるということは、その人々が極めて善人であったことを意味する。こうした人々は、神の存在を信じず、蒼天のみを信じる。こうした人々は、天に自分達を見守る魂があると信じているが、こうした人々が信じるのはそれが全てである。それでは、その結果はどうなるであろうか。こうした人々は極めて行いが良い。こうした人々は親切で思いやりがあり、最終的に霊的世界に戻ったとき、霊的世界ではこうした人々を極めて厚遇し、こうした人々はやがて生まれ変わる。それでは、こうした人々はどのような家庭に生まれるであろうか。その家庭は裕福では無いものの、家族生活は平和であり、家族の者同士は調和し、平穏で幸福な日々を送り、皆幸せで良い生活を送るであろう。こうした人々が成人すると、多数の息子と娘を授かり、大家族となって、子供達は皆才能に溢れて成功し、子供達とその家族は幸運に恵まれるであろう。そして、こうした結果は、その者の前世と密接に関連している。つまり、死後に生まれ変わって行く先まで、ある者の人生全体、すなわち、男になるか、女になるか、またその者の使命や将来の人生で経験すること、障壁や、どのような祝福を享受するか、誰に出会うか、何が起こるかについては、誰もそれを予測したり、回避したり、逃げ隠れしたり出来ない。すなわち、あなたの人生が決定された後は、あなたに何が起こるかについて、どれほど懸命に、またどのような方法を用いてそれを避けようとしたとしても、霊的世界で神により定められた人生の進路を外れることは決して出来ない。なぜなら、生まれ変わった時、あなたの運命は既に決定されているからである。それが良いか悪いかを問わず、全員がそれに直面し、前進し続ける必要がある。これは、この世に生きる者全員にとって不可避な問題であり、それよりも現実的な問題は存在しない。これらのことは全て理解できたであろう。

 それを踏まえて、あなたがたは、信仰の無い者の生と死の周期について、神が極めて正確で厳格な検査と管理を行っていることを理解できるであろうか。まず、神は霊的世界における様々な天の命令や規則、組織を定め、そうした天の命令や規則、組織が宣言された後、それらは霊的世界の様々な役務を担当する者により、神が定めた通り厳密に施行され、敢えてそれらに違反する者は居ない。したがって、人間の世界における人間の生死の周期、そしてある者が動物として生まれ変わるか、人間として生まれ変わるかについては、その両方に法則が存在する。これらの法則は神に由来するため、敢えてそれに背く者は居らず、背くことが出来る者も居ない。人間が見ることの出来る物質世界が規則正しく秩序が保たれているのは、こうした神の統治と法則のためである。人間が全く見ることの出来ない別の世界と平和に共存し、そこで調和して生活出来るのは、こうした神の統治のためであり、これらは全て神の統治と不可分のものである。肉にある魂の命が死んだ後も、魂には命があるとすれば、神の管理が無かったとしたら、その魂はどうなるであろうか。その魂は様々な場所をさまよい、様々な所に入り込んで、人間の世界の生き物を害することすらあるであろう。こうした危害は人間だけでなく、植物や動物も対象となるが、最初に害を受けるのは、人間であろう。こうした魂が管理されておらず、人間に危害を加え、極めて邪悪な物事を行ったとしたら、霊的世界にこうした魂の適切な処遇も存在するであろう。事態が深刻な場合、その魂はやがて消滅し、破壊されるであろう。可能であれば、どこかに置かれた後に生まれ変わるであろう。つまり、霊的世界における様々な魂の管理は、様々な段階と規則に従って命じられ、実施されている。人間の物質世界が混沌としたものとならず、物質世界の人間が正常な精神と分別を持ち、肉体にあって秩序ある生活を送っているのは、こうした管理があるために他ならない。人間がそうした通常の生活を送ることによって初めて、肉体にあって生活する者は繁栄し、何世代にもわたって繁殖を続けることができる。

 たった今話した事について、あなたがたはどう思うであろうか。そうした内容はあなたがたにとって新たなものであろうか。また、そのような話を聞いて、どう感じているであろうか。新しいということ以外に、何か感想はあるであろうか。答えて欲しい。(人間は正しく行動する必要があると思った。また神は偉大であられ、畏るべきお方であると感じた。)(神に対する敬意が増した。今後自分に何かあった時は一層注意しようと思う。自分の言動を向上させようと思う。) (神が様々な種類の人間の終わりの時をどのように扱われるかに関する神のお話を聞いて、神のご性質はいかなる反抗をも許されず、神を敬うべきであると感じた。また神が好まれる人間の種類、神が好まれない人間の種類について認識し、神が好まれる人間になりたいと思った。)この範囲に関して神の行動には原則があることを理解できたであろうか。神はどのような原則に従って行動しているであろうか。(神は人間の終わりの時を、その人間のすべての行いにしたがって決められる。) それは今話をした、信仰の無い人々の様々な終わりの時に関する事柄である。信仰の無い人々について、神の業が基づく原則は、善良を讃え、邪悪を罰するものであるだろうか。神の業には原則があることを理解したであろうか。あなたがたは、原則があるということを理解できるであろう。信仰の無い人々は、実際に神を信じて居らず、神の指揮に従わず、神の統治を認識しておらず、ましてや神を認めることなど無い。さらに深刻なことには、こうした人々は神を冒瀆し、神を呪い、神を信じる者に対して敵意を持っている。こうした人々は、神に対してそのような姿勢であるが、こうした人々に対する神の統治は、神の原則から逸脱することが無い。神は、神の原則と性質に従い、こうした人々を規則的に管理する。神は、こうした人々の敵意をどのように見なすか、というと、それを無知とみなす。そうしたわけで、神はこうした人々すなわち信仰の無い人々の大部分を、1回動物として生まれ変わらせられる。それではあなたに尋ねるが、神は信仰の無い人々をどのように見ているであろうか。(家畜として見ている。)神の目から見ると、こうした人々は、家畜の類いである。神は家畜を管理し、人間を管理するので、神はこの種の人々に対しても同じ原則がある。こうした人々に対する神の管理とこうした人々に対する神の業においても、やはり神の性質と神の万物支配の法則が存在することが分かる。これで、あなたがたはわたしが今話をした信仰の無い者を神が管理する原則における神の統治を理解したであろうか。神の義なる性質を理解したであろうか。(理解した。) あなたがたは神の統治と神の性質を理解した。つまり、神が取り扱う物が、万物のうち何であれ、神は神自身の原則と性質にしたがって業を行う。これは神の本質である。神は、こうした人々を家畜とみなすことで神が定めた規則や天の命令に何気なく反することは、決して無い。神は全く秩序を乱すことなく、原則に従って業を行い、神の業はいかなる要素にも影響されることが一切なく、業が何であるかを問わず、すべて神自身の原則に従うものである。これは、神には、いかなる創造物も持ち得る事の無い、神自身に特有の本質があるという事実により判断される。神は、神が造ったあらゆる物や人間、生き物について、その取り扱い、それに対する姿勢、経営、管理、支配について、誠実で、責任を持っており、決して不注意でいることはない。神は善良な人々に対して慈悲深く親切であり、邪悪な人々に対しては容赦ない罰を与える。そして様々な生き物については、人間の世界における、その時々の必要性に従い、時宜を得た規則的な方法で、適切な采配を行うので、そうした様々な生き物は、それぞれが受け持つ役割に従い、秩序をもって生まれ変わり、秩序をもって物質世界と霊的世界の間を行き来する。これは、人間が理解し、知るべきことである。

 生き物の死、すなわち物理的な生命の終焉は、その生き物が物質世界から霊的世界へと移動したことを示す一方、物理的な生命の誕生は、生き物が霊的世界から物質世界に来て、その役割を負い、果たし始めるということを示す。それが生き物の出発であるか、到着であるかを問わず、そうした出発と到着は両方とも霊的世界における業と不可分である。ある者が物質世界に到来した時、霊的世界において、その者が生まれる家庭、その者が現れる時代、時期、そしてその者が担う役割に関して、その者に適した采配と定義は、神により既に完了されている。そうしたわけで、その者の生涯全体、その者の行動や、その者が進む方向性は、霊的世界における采配に従い、一切の誤り無く進行してゆく。その一方で、物理的な生命が終焉を迎える時、そして終焉のかたちと場所は、霊的世界においては明瞭で認識可能である。神は物質世界を支配し、また霊的世界を支配し、また神は通常における魂の生死の周期を遅延させることは一切無く、ある魂の生死の周期に関する采配において誤ることも一切無い。霊的世界の当局に仕える執行官は、それぞれ神の指示と支配に従い任務を遂行し、なすべき事を行う。そのため、人間の世界では、人間が認識するあらゆる物質的現象は秩序があり、混沌は一切存在しない。こうしたことは、すべて神の秩序ある万物支配と、神の権威による万物支配のおかげであり、神の支配下にある物事には、人間が生活する物質世界のほか、人類の背後にある目に見えない霊的世界がある。そうしたわけで、人間が良い生活を望み、好ましい環境を望むのであれば、物質世界全体において与えられることに加え、誰も見ることが出来ず、人間のためにあらゆる生き物を統治し、秩序のある霊的世界においても与えられる必要がある。ここまでの話で、神が万物の生命の源である、と言った時の、「万物」に対する意識と知識が増えたのではないだろうか。

2019年3月30日土曜日

朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「受肉した神の職分と人間の本分の違い」 その2



朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「受肉した神の職分と人間の本分の違い」 その2
全能神は言われた「語ることであれ、業を為すことであれ、奇跡を現すことであれ、それは受肉の神が救いの業の中で偉大な働きを行っているのであり、このような働きは、人間が受肉の神に代わってすることはできない。人間の働きは、神の救いの働きの段階に応じて被造物としてただその本分を尽くすことである。そうした経営なしに、つまり、受肉の神の職分がなければ、被造物の本分もまたなくなる。自分の職分を遂行する受肉の神の働きは人間を救うことであり、他方、本分を尽くしている人間は、創造主の要求に応えるために自分の義務を実行しているのであって、神のように職分を果たしているとはいわれないのだ。神の本質、つまり、神の霊にとって、神の働きとは、経営のことであるが、創られたものと同じ外形を持った受肉の神にとって、その働きとは、職分を果たすことである。どんな業であれ、受肉の神の業は自分の職分を果たすことであり、人間は神の経営の範囲内で神に導かれて最善を尽くすだけである。」
『言葉は肉において現れる』より

2019年3月20日水曜日

「神はただサタンを打ち負かし、全人類を救うために受肉する 」キリストの人間に対する真の愛



Ⅰ
神が肉体として地上にいる間
人々の間で神の業を行なう
全ての業にはたった一つの目的がある
それは悪魔サタンを打ち倒すこと
神は人を征服することでサタンを倒す
また人々を完全な存在にすることで
世界に鳴り響くような証しとするならば
これもサタンの敗北のしるし
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
Ⅱ
悪魔のサタンを打ち倒すためには
まず人を征服し完全なものにする
本質的にサタンを打ち破ると同時に
神は人を苦悩の世界から救う
この業を為すのが中国でも全宇宙でも
すべてサタンを倒し人々を救うために
人々が安息の地へ入ることができるように
神は人類を救おうとする
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
神が普通の肉体に宿たのは
サタンを打ち倒すためである
この受肉の神の業は
天の下で神を愛する全ての者を救うこと
人類を征服して サタンを打ち破るため
人類を救うためにサタンを倒すことは
神の業全ての真髄から切り離せない
神は全人類を救うため
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
『言葉は肉において現れる』より

2019年2月27日水曜日

全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 9」3



 神はすべてを造り、そしてすべては神が配置した異なった場所で生き残りました。誰もが超越することはできません、これは創造主の権威です。


 『4番目の事項は、神が様々な人種の間に境界を定めたことである。地球上には、白色人種、黒色人種、褐色人種、黄色人種が存在する。これらは異なる人種である。神は、これらの人種についても、範囲を定め、人間は無意識のうちに神の管理に基づく適切な生存環境の中で生活する。この範囲から逸脱出来る者は居ない。たとえば、白色人種つまり白人は、主としてどの地域で生活しているであろうか。白人は主としてヨーロッパとアメリカの諸国で生活している。黒色人種は主としてアフリカ大陸内で生活している。褐色人種は主としてどの地域で生活しているであろうか。褐色人種は、主としてタイ、インド、ミャンマー、ベトナム、ラオスなどの東南アジアで生活している。つまり、東南アジア地域である。黄色人種は、主としてアジアすなわち中国、日本、韓国といった国で生活している。神はこうした様々な人種を、すべて適切に分布させたので、これらの人種は世界各地に分布している。こうした世界各地において、神は遠い昔に各人種に適した生存環境を用意した。これらの生存環境において、神は土の色と成分を用意した。白人の身体と黒人の身体の構成要素は同じでは無く、それ以外の人種の身体とも異なる。神が万物を創造した時、神はこうした生存環境を既に用意していた。こうした神の業の目的は、それぞれの人種が増え始めた時、その人数が増加し始めた時、そうした人々がその範囲に固定されるようにすることであった。神が人間を創る前に、神は既にそうしたことを十分に考えていた。神は白人に対して一定の地域を与え、白人が発展し、生存できるようにした。そうしたわけで、神が地球を造った時、どの地域に何を置き、どの地域で何を育成するかなどについて、既に神の計画、意図、目的が存在した。たとえば、神は遠い昔に、ある地域に、どの山を置き、何か所の平野や水源を置き、どのような鳥や獣、魚、植物を置くかを決めていた。ある種類の人間すなわち人種の生存環境を用意するにあたり、地理的環境、土の構成成分、鳥と獣の種類、様々な魚の大きさ、魚の構成成分、様々な水質、様々な種類の植物など、神は様々な問題について検討した。神はそうしたこと全てを遠い昔に用意していた。その種類の環境は、神が白人のために造り、用意した生存環境であった。

     神が全ての生き物を創造した時、神はその創造において多くの物事に配慮したことが分かるであろう。神は、計画をもって業を行った。これで、そのことが理解できたであろう。(様々な種類の人間に対する神の配慮は、極めて周到であった。様々な種類の人間のための生存環境のために、神は様々な鳥、獣、魚を用意し、また山がいくつあるか、平野がいくつあるかなどを決めた。それらは全て極めて周到かつ緻密に配慮された。)たとえば、白人の主な食料は何であろうか。(主に高タンパクな食料すなわち様々な肉、乳製品、小麦を原料とする食料である。)白人が食べる食料は、アジア人が食べる食料とは極めて異なるものである。白人が食べる食料は、主に肉、卵、ミルク、家禽である。パンや米などの穀類は、一般に主食ではなく、付け合わせとして皿に盛られる。野菜を用いて作られたサラダを食べる時でも、焼いた牛肉や鶏肉を加える。小麦を原料とする食料を食べる時でも、チーズや卵、肉を加える。つまり、白人の主食は小麦を原料とする食料や米ではなく、肉やチーズを大量に食べる。白人は、極めて高カロリーな食料を食べるので、頻繁に氷水を飲む。白人が食事をする時は、食べ物が食卓に出される前に、皆最初に氷水を飲む。そうしたわけで、白人は体格が良い。これらの食品は白人の生活の源であり、神が白人のために用意した生活環境であり、その生活環境によりそうした白人の生活様式が実現されている。その生活様式は、他の人種の人々の生活様式とは異なる。こうした生活様式が良いか悪いかは問題ではなく、その生活様式は神が予定した、神の支配と采配に起因する生来のものである。この種の人種すなわち白人には、特定の生活様式と生活の糧を得る源があるが、それらは、白人という人種と、神が白人のために用意した生存環境に起因するものである。神が白人のために用意した生存環境や、白人がその環境から得る日常の食品は豊富であると言える。

    神は、他の人種についても生存に必要な環境を用意した。黒人も存在するが、黒人は、主にどこで生活しているであろうか。黒人は主にアフリカの中央部と南部に分布している。神は黒人のためにどのような生活環境を用意したであろうか。熱帯雨林、様々な鳥や獣、砂漠、そして様々な植物である。黒人には水源があり、生活の糧があり、食料がある。神は黒人に対して偏見を持っていない。黒人の人々が何をしたとしても、黒人の生存は嘗て問題となったことが無い。黒人もまた、世界のなかで特定の場所や地域を占めている。

    ここで、黄色人種について簡単に話をする。黄色人種は主として東洋に分布している。環境と地理的位置に関して、オリエントとオクシデントの相違点は何であろうか。オリエントは、土地の大部分が肥沃であり、資源や鉱床に恵まれている。つまり、地上および地中の様々な資源が豊富である。神は、この種の人間すなわち黄色人種のためにも、黄色人種に適した土、気候、様々な地理的環境を用意した。そうした地理的環境と、オクシデントの地理的環境との間には大きな差異があるものの、人間に必要な食料や生活の糧、生存のための食料源が神により用意された。そうした環境がオクシデントの白人の環境とは異なるというだけである。ともあれ、わたしがここで注目して貰いたいこと、話をする必要があることは、何であろうか。東洋の人種の人口は比較的多いので、神はその地域に、西洋とは異なる要素を数多く追加した。神は、様々な地形と豊富な資源を東洋に追加した。東洋の自然資源は極めて豊富である。地形もまた多様性が高く、東洋の人種の莫大な人口を育むのに適している。東洋における西洋との相違点として、東洋は東西南北全域にわたり西洋よりも気候が良好である。四季は明瞭に区分され、気温は快適であり、自然資源は豊富であり、自然の景観や地形の種類は西洋よりも格段に良好である。神がこのようにしたのは何故だろうか。神は、白人と黄色人種との間で、極めて合理的な釣り合いを取るようにしたからである。それは何を意味するであろうか。白人が享受している物事のあらゆる側面は、黄色人種が享受している物事よりも良好である。白人の食料や白人が使用しているものは格段に優れている。しかし、神はいかなる人種もひいきすることは無い。神は、黄色人種に対し、白人のためのそれよりも美しく良好な生存環境を与えた。これが先述した釣り合いである。これで、あなたがたは理解したであろう。

    神は、どの人種が世界のどの地域に住むかを予め定めたので、人間はその範囲を超えることが出来ない。それは極めて素晴らしいことである。たとえ時代の流れの中で、ある時期に戦乱や侵略があったとしても、神が各人種に対して予め定めた生存環境は、そうした戦乱や侵略により破壊されない。つまり、神は、どの人種が世界のどの地域に住むかを定めたので、人間はその範囲を超えることが出来ない。たとえこの領域を変えたり拡大したりしようとする、ある種の野望が人間にあったとしても、神の許可なくして、その野望を果たすのは極めて困難である。そのようなことは極めて困難である。たとえば、白人は領域を拡大しようとして、他国を植民地化した。ドイツ人は数カ国を侵略し、イギリスはインドを占領した。その結果、どうなったであろうか。そうした活動は失敗に終わった。この失敗から何が分かるであろうか。神が予め定めた事柄を破壊することは許されない。従って、イギリスの拡大勢力が如何に強力であったとしても、最終的にイギリスは撤退せざるを得ず、その地は未だにインドの領地である。その地に住む者は依然としてインド人であり、イギリス人ではない。これは、そうした侵略は、神が許可した活動ではなかったからである。歴史や政治を調査研究する一部の者が、これに関する論文を発表した。これらの者は、イギリスが失敗した原因は、特定の民族を征服することが不可能であるためである、あるいはその他人間が考えつく理由が原因であるなどとしている。それらの理由は、真の原因ではない。真の理由は神であり、神がそれを許可しなかったためである。神が特定の民族を特定の場所で生活させ、その民族をそこに定住させており、その民族が移動することを許可しなかった場合、その民族は移動することが出来ない。神がその民族の範囲を定めた場合、その民族はその範囲内で生活する。人間は、こうした範囲を超えたりその範囲から出たりすることが出来ない。それは確かである。侵略者の勢力がどれほど強力であったとしても、あるいは侵略される者がどれほど脆弱であったとしても、侵略が成功するか如何は、最終的には神にかかっている。神はこうした事柄を予め定めており、それを変えることが出来るものは居ない。これが、神が行った様々な人種の配置方法である。神はどのような業を行って、様々な人種を配置したであろうか。まず、神は比較的大きな地理的その他の環境を用意し、人間のための様々な場所を割り当て、そこで人間は何世代にもわたり生存してきた。生存のための範囲は決定されている。そして人間の食事、生活、何を食べるか、何を飲むか、生活手段など、神はこれらの事柄も遠い昔に決定した。そして、神が万物を創造した時、神は様々な人種のために様々な用意を行った。土壌の構成成分、気候、植物、地理的環境には、様々なものがある。異なる場所には異なる鳥、獣が居り、異なる水域には異なる種類の魚や水産物があり、昆虫の種類でさえも神により決定された。たとえば、アジアにはカササギが居るが、おそらくアメリカには居ないであろう。カササギはアジア固有である。そしてアメリカのスズメは中国本土のスズメとは違う。アメリカ大陸で育つ物は、全て極めて大型で背が高く、がっしりしている。森の木々の根は浅いが、木々は極めて高い木々に育つ。木々は高さ30メートルを超えることもあるが、アジアの森の殆どの木々は、そこまで高くない。アロエという植物については聞いたことがあると思う。日本のアロエは極めて細身で薄いが、アメリカのアロエは極めて大型である。これはアメリカのアロエと日本のアロエとの違いである。アメリカのアロエは、日本のアロエと同じ名称の同種の植物であるが、アメリカ大陸では、アロエは比較的大型であり、明らかに違いがある。こうした様々な側面の相違点は、人間が見たり感じたり出来ない場合もあるが、神が万物を作っている最中に、神はこれらの側面を決め、異なる地理的環境、地形、生物、人種を用意した。神は様々な種類の人間を造ったので、神はそれぞれの人種に必要とされる物事やその生活様式について知っていた。従って、神が造った物事は、極めて善良である。あなたがたは、これについて明確に理解している必要がある。
 これらの物事の一部について話をしたが、話の内容の主題について多少の認識が得られたであろうか。主題について何かしらの知識が得られたであろうか。わたしがより広範な主題の中からこうした物事に関して話をしたことには理由がある。ここまでの話で、あなたがたは基本的な概要を理解したはずである。あなたがたが得た知識を発言してほしい。(人類は、すべて神の万物に対する律法のみに基づいて育まれてきた。神がこれらの律法を定めている時、神は様々な人種に対し、様々な環境、生活様式、食料、気候、気温を与えた。これは、全ての人間が地球に住み、存続出来るようにするためであった。このことから、神の経営(救いの)計画と周到な采配、神の知恵と完璧さを知ることができる。)(人間を育むため、神はそうした人間のための律法を定め、地理的環境や様々な食料を用意した。そしてその環境で、より良く生存できるよう、神は様々な生活空間を用意した。このことから、神の業と計画が緻密であること、また神の人類に対する愛がわかる。)それ以外に回答はあるだろうか。(いかなる人間や物事も、神が定めた律法と範囲を変えることは出来ない。それらは皆神の支配下にある。)神により定められた、万物の成育に関する律法の観点から見ると、種類を問わず、全人類が神による供給、神による養育の下で生活しているのではなかろうか。これらの律法が破られたり、神がこの種の律法を定めなかったとしたら、人類の将来的見通しはどのようなものになるであろうか。人類の基本的な生存環境を人類が喪失したとしたら、人類には食料源があるであろうか。食料源が問題になる可能性があるであろう。もし人間が食料源を失ったとしたら、すなわち人間が食べ物を得る事が全く出来なかったとしたら、人間は1か月間存続出来ないであろう。人間の生存が問題となるだろう。したがって、神が人間の生存、継続的な存在と増殖のために行う業のそれぞれが、極めて重要である。神が万物に対して行う業のそれぞれが、人間の生存と密接に関連し、人間の生存と不可分である。そうした業は、人間の生存と不可分である。人間の生存が問題となった場合、神の経営は続行可能であろうか。神の経営は、その後も存在するだろうか。神の経営は、神が育む全人類と共存し、神が万物に対して用意した物や神の人間に対する業が何であるかを問わず、これらの物事は神にとって必要であり、人間の生存に不可欠である。もし神が万物のために定めた律法が守られなかった、つまり律法が破られた、あるいは乱されたとしたら、万物は存続が不可能となり、人間の生存環境や日常の糧、そして人間自身も、すべて存続不可能となるであろう。そのため、神による人間の救いの経営もまた消滅するであろう。これは人間が明瞭に理解すべき事柄である。』
もっと注目:唯一の神自身 3『言葉は肉において現れる』より

2019年2月13日水曜日

キリスト教讃美歌「最も人を愛するのは神だけである」



Ⅰ
終わりの日に神は肉となる
愛する人を救うため
愛に駆られ、愛を基礎として
神は今日の業を行う
神は肉となり、恥辱を受け
汚れ傷ついた者達を救う
この痛みに耐え
神は、何度も計り知れない愛を示す
どの魂も神は失くしたくない
自分の将来を気にせず
いのちをどう慈しむのか知らない
人を、神だけが愛す Oh..oh...
Ⅱ
癒し、励まし、裁きと呪い
暴露、そして約束
どの神のことばもみな、神の愛による
神の業の真髄だ
こんなにも大勢が、近づいて従い
力を得ているのはなぜ?
それは、神の愛と救いを見たから
神は遅れず、タイミングは完璧だ
どの魂も神は失くしたくない
自分の将来を気にせず
いのちをどう慈しむのか知らない
人を、そう神が、神だけが愛す
Ⅲ
自分を一番愛するとは
どんな愛なのか?
神の愛こそ真実だと、あなたは知るだろう
受肉せず、導かず、人と生きぬ神なら
その愛を知ることは出来ない
どの魂も神は失くしたくない
自分の将来を気にせず
いのちをどう慈しむのか知らない
人を、そう神が、神だけが愛す
そう、神だけが愛す。ああ神は
こんなにも人を愛している
『言葉は肉において現れる』より

2019年2月11日月曜日

全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 9」1


                             神は万物の生命の源である (3)
   
     一定期間にわたって、神を知ることに関する様々な事項について話をしているが、最近は神を知るという主題に関して極めて重要な事項、すなわち、「神は万物の生命の源である」について話をした。前回は神が人間のために造った生存環境と、神が人間の生活必需品を全て用意していることについて、それらの側面数件に関する話をした。実際のところ、神の業は、人間の生存環境を用意することや、日常の生活必需品を用意することだけでなく、人間の生存と生活に必要とされる多数の神秘的かつ必要な業の様々な側面を完了するためのものであった。これらは全て神の業である。これらの神の業は、人間の生存環境や人間の日常的な必需品を用意することに限らず、業の範囲は、それよりも遥かに広い。これら2種類の業のほか、神は人間の生活に必要とされる数多くの環境と条件も用意した。これが、本日話をする新しい事項であるが、この事項も神の業に関連するものである。そうでなければ、ここで話をしても無意味である。人間が神を知ることを望んでいても、「神」という言葉、あるいは神が持っているものや神が何であるかのあらゆる側面に関する文献的、教義的な認識しか無かったとしたら、それは真の認識ではない。それでは、神に関する認識を得る方法とは、どのようなものであろうか。それは、神の業から神を知り、神のあらゆる側面を知ることである。そこで、次に神の万物創造時における神の業について話をする。


     神が万物を造って以来、神が定めた律法に基づき、万物は機能を続け、常に発展してきた。神に見守られ、神に支配されて、万物は人間の生存とともに常に発展し続けて来た。いかなる物も、これらの律法を変えたり破壊したり出来ない。あらゆる生き物が増殖できるのは、神による支配があるからであり、あらゆる生き物が生存できるのは、神の支配と管理があるからである。つまり、神の支配下においては、あらゆる生き物が規則正しく現れ、繁栄し、消滅し、復活する、ということである。春になると降り注ぐ雨が春特有の感覚をもたらし、地を潤す。地では雪解けが始まり、草が土の中から芽吹き、木々も次第に緑色へと変わる。こうした生き物全てが、地に新鮮な活力をもたらす。これが、あらゆる生き物が現れて繁栄している光景である。様々な動物も巣穴から出て春の温もりを感じ、新しい年を始める。全ての生き物が夏の暑さのなかで日差しを浴び、夏の温かさを楽しむ。様々な草木や植物は急速に生長し、花を咲かせて実を結ぶ。夏は、人間を含めて全ての生き物が活発である。秋には雨が涼しさをもたらし、様々な生き物が刈り入れの時期を迎える。あらゆる生き物が実を結び、こうした生き物が秋の実りを迎えるので、人間もまた冬の食料を準備するために刈り入れを始める。冬になると、全ての生き物が寒さの中で次第に休息し始め、静寂が訪れ、人間もまた休息して冬を過ごす。こうした春夏秋冬の移り変わりは、すべて神が定めた律法により行われる。神はこの律法によりあらゆる生き物と人間を導き、人間のために豊かで色彩に富んだ生活形態を設け、様々な気温と季節のある生存環境を用意した。こうした規律ある生存環境では、人間の規律ある生存と繁殖も可能となる。人間はこの律法を変えることができず、この律法に反することが出来る者は皆無である。この世にどれほど大規模な変革があろうと、これらの律法は存続する。なぜなら、これらの律法が存在するのは、神が存在するからである。その理由は、神の支配と管理である。この種の秩序ある、より広範な環境の中で、人間の生活は、そうした律法と規則の中で進歩する。これらの律法により何世代もの人間が培われ、また何世代もの人間がこれらの律法の中で生存してきた。人間は、何世代にもわたり、神が造った物事と秩序ある環境を享受してきた。人間がこれらの律法を元来のものであると感じたり、それを完全に軽視していたり、あるいはそれが神により指揮されている、支配されていると感じることが出来なかったとしても、いかなる場合も、神は常にこの変わることの無い業を常に行っている。こうした変わらない業における神の目的は、人間の生存と、人間が存続することが出来るようにすることである。

      1.神は人類全体を育むために万物の境界を定めている

   
     本日は、こうした神が人間と万物に与えた律法により、どのようにして人類が育まれているかについて話をする。それでは、この主題はどのようなものであろうか。この主題は、こうした神が万物に対して与えた律法が、どのようにして人間を育んでいるか、ということである。これは極めて大きな主題なので、いくつかの部分に分け、それらの各部分をあなたがたに分かりやすく説明するため、ひとつずつ話をする。この方法であれば、あなたがたにとって把握しやすくなり、徐々に理解できるであろう。


    まず、神は、万物創造時に、山、平野、砂漠、丘、河川、湖沼の境界を定めた。地上には山、平野、砂漠、丘、そして様々な水域が存在するが、これらは何であろうか。これらは地形ではなかろうか。神は、様々な地形全ての間に、境界を定めた。境界の設定といった場合、それは何を意味するだろうか。それは、山や平野、砂漠、丘にはそれぞれ領域、範囲ないし一定の面積がある。さらに、河川や湖沼などの水域にも一定の水量がある。つまり、神が万物を造った時、神は全てを明確に分割した。神は、ある山の半径が何キロメートルであるか、その範囲はどのようなものかを、既に決めていた。また神は、ある平野の半径が何キロメートルであるか、その範囲はどのようなものかも決めていた。様々な物を造った時も、神は砂漠の範囲、丘の範囲やその割合、そしてそれらの境界が何により定められるかなどの事柄を、全て決めていた。神は、河川や湖沼を造った時に、それらの範囲を決めた。それらの物には、全て境界が存在する。それでは「境界」とは何を意味するであろうか。つい先ほど、万物に対する律法が、いかにして万物に対する神の支配により定められているかに関して話をした。たとえば、山の範囲と境界は地球の回転や時間の経過により広がることも狭くなることも無い。山の範囲と境界は固定されている。この「固定されている」というのが神の支配である。平野に関する範囲や、何がその境界となっているかについては、神により固定されている。平野には境界があり、平野の中央に、勝手に土が盛り上がることは無い。突如として平野が山になることは無い。ここで言う律法と境界は、このことを指す。砂漠に関しては、その役割や地形、位置などについては、ここでは話をせず、境界のみについて話をする。神の支配の下では、砂漠の範囲もまた拡大することは無い。なぜなら、神は砂漠にその律法と範囲を与えたからである。砂漠の面積、役割、砂漠の境界にある物、所在地などは、神によって既に定められている。砂漠はその範囲を超えることも、移動することも、勝手に面積が広がることも無い。河川や湖沼の水流には秩序があり、水流は継続しているものの、河川や湖沼の水はその範囲から出たり、境界を越えたりすることは、嘗て無かった。河川や湖沼は、すべて秩序をもって、それぞれ流れるべき単一の方向に流れている。神の支配の律法下において、勝手に干上がったり、あるいは地球の回転や時間の経過が原因で方向を変えたり、流量を変えたりする河川や湖沼は存在しない。こうした事柄は、全て神が掌握しており、神の支配下にある。つまり、神によって造られ、人間の世界にある万物には、それぞれ固定された場所、地域、そして範囲がある。すなわち、神が万物を造った時に、万物の境界が定められ、その境界は勝手に変えたり、更新したり出来ない。ここで「勝手に」、とは何を意味するであろうか。それは、天候や気温、地球の回転速度などが原因で、こうした境界がやみくもに移動したり、拡大したり、変形したりすることは無い、ということである。ある山を例に挙げると、その山には、特定の高さ、特定の裾野の面積、特定の標高、特定の植生がある。これは全て神により計画され、計算されたものであり、高さや面積は勝手に変わることが無い。平野については、人類の大部分が平野に住んでおり、気候の変化により平野の面積やその存在価値が変わることは無い。こうした様々な地形や地理環境に含まれている物事は神が造ったものであり、そうした物事でさえも、勝手に変わることは無い。たとえば、砂漠の構成要素、その下にある鉱床の種類、砂漠の砂の量、色、厚さなどは、勝手に変わることが無い。こうした物事が勝手に変わらないのは、何故であろうか。その理由は、神の支配と管理である。こうした神が造った様々な地形や地理的環境の中では、あらゆる物事を、計画された秩序ある方法で神が管理している。そうしたわけで、これら全ての地理的環境は、それを神が造ってから数千年、数万年後の現在も依然として存在する。こうした地理的環境は、依然としてそれぞれの役割を果たしている。ある期間に火山が噴火したり、地震が発生したり、地面が大きく動くことがあるが、それでもなお神は地形がその機能を喪失することを許さない。人間が享受し、見ることのできるこれら全てが地球上で秩序をもって存在することができるのは、ひとえにこのような神の管理とそれらのものに対する神の支配、そして律法を掌握しているからである。それでは、神はなぜ、地上にある全ての地形を、このような方法で管理するのであろうか。その目的は、様々な地理的環境で生存している生き物全てが安定した環境を得られること、それらの生き物全てが安定した環境の中で継続して生活し、増えることが出来るようにすることである。移動出来るものと出来ないもの、鼻孔で呼吸するものとそうでないものなど、こうした全ての生き物が、人間の生存のための、独自の環境を構成している。何世代にもわたって人間を育むことが可能であり、また人間が何世代にもわたり継続して平和に生存することが出来るのは、こうした環境のみである。

    今わたしが話した事から分かったことは何であろうか。神の万物支配における神の律法は、極めて重要である、ということである。この律法に従って育つ全ての生き物の前提条件は何であろうか。その前提条件は、神による支配である。全ての生き物がこの支配に従って、それぞれの役割を果たしているのは、神の支配があるからである。たとえば、山は森を育む。そして森はその森に棲む様々な鳥や獣を育み、守る。平野は人間が作物を栽培するために用意された場所であり、また様々な鳥や獣のために用意された場所でもある。平野では、大部分の人間が平らな地面で生活することができるので、人間生活に便宜がもたらされる。また、平野には、広大な草原が含まれる。草原は地球の植生である。草原は土を守り、草原に棲む牛、羊、馬を育む。砂漠もまた、その役割を果たす。砂漠は人間の住む場所では無く、その役割は多湿な気候を乾燥させることである。河川や湖沼の水流は、人間の飲料水として便利であり、またあらゆる生き物の水の需要のために存在する。人間は、水が流れている所であれば、どこでも飲料水を得ることができる。様々な地形に対して神が定めた境界は、こうしたものである。こうした神が定めた境界のため、様々な地形により様々な生存環境があり、そうした生存環境は様々な鳥や獣にとって好都合であり、鳥や獣に生存空間を与える。このようにして、様々な生き物の生存環境の境界が発展した。次に話をするのは、このことである。

2019年2月5日火曜日

全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 8」10



     たった今わたしたちは何について話ましたか。最初に、人間の生活環境やその環境のために神が何を行い、用意し、取り扱ったことについて話し、また、神が人類のために用意したあらゆるものの関係、そして万物が人類に危害を加えるのを防ぐために、神がこれらの関係をどのように取り扱ったかについても話しました。また神は、万物がもたらす様々な要素が人類の環境に与える悪影響を解決し、万物がそれぞれの機能を最大化することを実現し、好ましい環境とあらゆる有益な要素を人間に与え、よって人類がそうした環境に順応して、繁殖と生命の周期を正常に繰り返すことができるようにしました。次は、人体が必要とする食料、すなわち日常の食料と飲料でした。これもまた人類の生存の必要条件です。つまり、人体は、呼吸するだけ、日光や風だけ、あるいは適切な気温だけでも生きられないということです。人間はまた腹を満たす必要もあるのです。人間の腹を満たす食料や飲料もまた、すべて神が人類のために用意したものであり、それが人類の食料源です。こうした豊富で潤沢な産物、すなわち人類の食料や飲料の源を確認した後、神は人類と万物の供給源であると言うことができますか。(はい。)もし万物を創造した時に、神が草木だけ、あるいは様々な生き物だけを創り、人類がそれらのうち何も食べられなかったとしたら、人間は現在まで生存できたでしょうか。もし、神が創った万物のうち、様々な生き物や植物が、牛や羊、シマウマ、鹿その他の種類の動物のためのだけであったとしたら、たとえば、ライオンはシマウマや鹿を食べ、虎は羊や豚を食べるが、人間の食料として適したものがひとつもなかったとしたら、どうでしょうか。それでうまく行くでしょうか。うまく行かないでしょう。人類は生存を続けられなかったでしょう。もし人間が木の葉だけを食べたとしたら、どうでしょうか。それでうまく行くでしょうか。人間の胃はそれに耐えられないでしょう。試してみなければ分かりませんが、一旦試せばよく分かります。それでは羊のために用意された草を食べられますか。少し試すだけなら大丈夫でしょうが、長期間にわたって食べ続けるとしたら、先は長くないでしょう。動物は食べることができても、人間が食べるには有毒なものさえあります。毒があり、人間は食べられなくても、動物は影響を受けることなく食べられるものもあります。言い換えると、神は人間を創ったので、人体の原則や構造、人間に必要なものを最も良く知っているのです。人体の構成、成分、必要なもの、人体の内臓がどのように機能し、吸収し、排出し、代謝するかを神は完全に把握しています。人間はこのことについてそれほど把握しておらず、やみくもに食べたり補給したりすることがあります。補給しすぎて、結果として不均衡を引き起こします。もし神が人間のために用意したものを普通に食べ享受していれば、何も問題は起こりません。たとえ時に気分がすぐれず、鬱血があったとしても、それは問題ではありません。ただ特定の植物を食べなくてはならないだけで、それで鬱血は解消されます。神はこうしたことをすべて用意したのです。それで、神の目から見ると、人類はその他のどの生き物よりも遙かに優れています。神は、ありとあらゆる植物の生息環境を用意し、ありとあらゆる動物の棲息環境と食料を用意しましたが、人類の生活環境に対する必要条件は最も厳格で、軽視が許されません。そうでなければ、人類は発展と生殖、正常な生活を継続できないでしょう。神は心の中でこれを一番良く知っています。このことを行った時、神はそれを他の何よりも重要視しました。あなたが見て享受するとりとめのないもの、あるいは自分がもって生まれてきたので享受できるように感じる何かの重要性を、おそらくあなたは感じられないかもしれませんが、遠い昔に、神はその知恵をもってそれらのものをあなたのために既に用意していたのです。神は、人類にとって好ましくなく人体に危害を加える可能性のある否定的な要素をすべて最大限に除去し、解消しました。これは何を明らかにしますか。神が今回人類を創った時の神の人類への姿勢が明らかになりますか。その姿勢はどのようなものでしたか。神は、厳格かつ真剣な姿勢であり、神以外のいかなる要素や条件、勢力の妨害を一切容赦しませんでした。このことから、今回神が人類を創ったときと、今回の人類の経営における神の姿勢が分かります。神の姿勢とは何ですか。人類が享受する生活環境や生存環境、日常の食料や飲料、必需品を通して、人類を創造して以来神が有してきた人類に対する責任の態度と、さらに今回人間を救うことへの神の決意が分かります。こうした物事から、神の真実性が分かりますか。神の驚異性が分かりますか。神の無限の遠大性が分かりますか。神の全能性が分かりますか。神はその全能かつ知恵深い仕方で、全人類に与え、また万物にも与える。このことに関して、わたしがこれだけ話した後、神が万物の生命の源であるとあなたがたは言うことができますか。(はい。)それは確実です。疑いがありますか。(いいえ。)神が万物の生命の源であることは、神がすべてのものを供給することが十分示しています。なぜなら、神は万物が存在し、生き、繁殖し、継続することを可能にした供給の源だからです。神以外には存在しません。神は、それが最も基本的に必要なものであれ、人間が日常的に必要なものであれ、人々の霊への真理の供給であれ、すべてのものが必要なものと人類が必要なものすべてを与えます。あらゆる視点から見て、人類にとっての神の身分と地位に関しては、万物の生命の源は神自身のみです。これは正しいですか。(はい。)つまり、神は人間が目で見て感じることのできるこの物質世界の支配者であり、主であり、供給者です。人類にとって、これは神の身分ではありませんか。これは完全に正しいです。したがって、空を飛ぶ鳥が見えれば、神は空を飛べるものを創ったことを理解しなければなりません。しかし、水中を泳ぐものも存在し、それらもまた様々な仕方で生存しています。土中で生きる草木は春に芽吹き、秋に結実して落葉し、冬には完全に落葉して冬を過ごします。これが、それらの生存の仕方です。神は万物を創り、万物はそれぞれ異なる形態と方法により生き、様々な方法を用いてその生命の力と形態を示します。その方法が何であれ、それはすべて神の支配下にあります。神が様々な形態の生命体と生き物を支配する目的は何ですか。それは人類の生存のためですか。(はい。)神は人類の生存のために、生命の法則のすべてを支配します。これは、神にとって人類の生存がいかに重要であるかを示しています。

    人間が正常に生存し、繁殖することは、神にとって最も重要です。したがって、神は常に人類と万物に与えます。神はあらゆるものを様々な方法で与え、万物の生存維持の状況下において、人類の正常な存在を維持するために、神は人間が前進を続けられるようにします。これらが、今日わたしたちが話し合っている二つの側面です。その二側面とは何ですか。(巨視的観点からは、神様は人類のために生活環境をお創りになりました。これが最初の側面です。また、神様は人間が必要とし、目で見て触れることのできる物質的なものを用意なさいました。)それら二側面を通して、わたしたちは本日の主題を話し合いました。主題は何ですか。(神様は万物の生命の源である、です。)今では、わたしがそのような主題の下になぜこうした内容を伝えたのかについて、あなたがたはある程度の認識を得ているはずです。これまで、その主題と無関係の話がありましたか。ありませんでした。そうですね。これらの事柄を聞いて、おそらくある程度の認識を得てこれらの言葉が重要であると感じている人もあなたがたのうちにいるでしょうが、他の人たちは文字通りに受け取った知識を少し得ただけで、それらの言葉はどうでもよいと感じているかも知れません。あなたがたがこれを今どのように理解しているかに関わらず、あなたがたの経験の過程において、やがてあなたがたの認識がある点に達する時、つまり、神の業と神自身に関する認識がある特定の点に達し、あなたがたは自分自身の実践的な言葉を用いて神の業の深い真の証しをするでしょう。

    現在におけるあなたがたの認識はいまだに極めて単純で、文字通りに受け取っているだけであるとわたしは思います。しかし、わたしがこれら二側面をあなたがたに話すのを聞いた後では、あなたがたは少なくとも神が人類に与えるためにどのような方法を用いるかや、神が人類に何を与えるかを認識することができますか。あなたがたには基本的な概念と理解がありますか。(はい。)しかし、わたしが伝えたこれら二側面は、聖書と関連していますか。(いいえ。)神の国の時代における神の裁きと刑罰に関連していますか。(いいえ。)それでは、なぜわたしはこの二側面について話をしたのでしょうか。それは、神を知るためには人間はこれらの側面を理解しなければならないからですか。(はい。)これらを知り、理解することはとても必要です。神に関するすべてを理解するために、聖書に、神の人間への裁きと刑罰だけに限っていてはいけません。わたしがこう言うことの背後にある目的は何ですか。それは、神は、ただ神の選民だけの神ではないことを人々に知らせることです。現在あなたがたは神に付き従っており、神はあなたがたの神ですが、神に付き従う人々以外の人々にとって、神は彼らの神でもありますか。神は、神に付き従う人々以外の、あらゆる人々の神ですか。(はい。)それでは、神は万物の神ですか。(はい。)それでは、神は神に付き従う人々だけに対して働きや業を行いますか。(いいえ。)その範囲は宇宙全体です。狭い観点から見ると、その範囲は人類全体と万物です。広い観点から見ると、その範囲は宇宙全体です。したがって、神は全人類のあいだで働きと業を行うと言うことができます。人々に神自身に関するすべてを知らせるには、これで十分です。神を知りたい、神を真に知りたいのであれば、ただ神の働きの三段階に限っていてはいけません。神が以前に行なった働きの話だけに限っていてはいけません。そのようにして神を知ろうとするのならば、神を一定の制限内に留めていることになります。神をあまりに無意味にみなしています。そうした結果は、あなたにどのような影響を及ぼすでしょうか。あなたは神の驚異性や崇高性、神の力や全能性、そして神の権威の範囲を決して知ることはないでしょう。そのような認識は、神が万物の支配者であるという真理をあなたが受け入れる能力、そして神の真の身分と地位に関するあなたの認識に影響を及ぼすでしょう。すなわち、もし神に関するあなたの認識の範囲が限られているならば、あなたが受け取ることのできるものも限られています。範囲を拡張して視野を広げる必要があるのは、このためである。それが神の働きの、神の経営の、神の支配の、あるいは神に支配され管理されている万物の範囲であるかに関わらず、あなたはそれらすべてを知り、その中にある神の業を知るべきです。そのような理解方法により、あなたは神が万物を支配し、管理し、万物にあらゆるものを供給しているということを知らないうちに感じるでしょう。それと同時に、あなたは自分が万物の一部であり、万物の一員であることを実感するでしょう。神は万物を供給するので、あなたも神の支配と供給を受け入れます。これは誰も否定することのできない事実です。万物はそれぞれの法則にさらされていて、その法則は神の支配の下にであり、また万物にはそれぞれの生存のための規則があり、それもまた神の規則のもとにあります。その一方で、人類の運命や人類に必要なものもまた神の規則や神による供給と密接に関連しています。このため、神の統治と支配下において、人類と万物は相互に関連し、相互に依存し、織り交ぜられているのです。これが、神による万物創造の目的と価値です。これを今では理解していますか。(はい。)理解しているのならば、本日のわたしたちの話をここで終わりにしましょう。さようなら。(神様に感謝。)


2014年2月2日

2019年1月31日木曜日

全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 8」9




    さらに、動物であるか植物であるか草であるかを問わず、万物の中に神はまた、人体の負傷や疾病を癒すために必要とされる植物も創りました。たとえば、火傷したらどうしますか。水で洗えますか。ただ布切れを見つけて巻くだけでいいですか。そのようなことをすれば膿が溜まって化膿するかもしれません。たとえば、誤って裸火や熱湯で火傷したらどうしますか。水ですすげますか。たとえば、発熱したり、風邪をひいたり、肉体労働で負傷したり、悪いものを食べて胃の病気になったり、生活習慣や情緒的問題のせいで、脈管病や精神疾患、内臓疾患などの病気になった場合、これらすべてを癒すための植物があります。血行を促進して血行不良を改善する植物、痛みを緩和する植物、止血する植物、麻酔効果のある植物、正常な皮膚の回復を促進する植物、鬱血を解消する植物、解毒する植物などがあります。要するに、これらすべては日常生活で使用できるのです。これらは人間にとって役に立ち、必要な場合に備えて人体のために神が用意しました。神により人間が偶然発見できるようにされた植物もあれば、特殊な現象により発見された植物もあり、神が用意した特定の人間により発見された植物もあります。発見の後、人類はそれらを伝えて多くの人々が知るようになるのです。このように、神によるこうした植物の創造には、価値と意味があります。すなわち、これらはすべて神に由来し、神が人類のための生活環境を創った時に用意し、植え付けられたものです。これらはすべて極めて必要性が高いです。神の配慮は人間の配慮よりもよく考えつくされていますか。神が行ったことのすべてを見る時、神の実際的な側面を感じることができますか。神は密かに働いたのです。この世界に人間がまだ現れていない時、神がこの人類と接する前に、神は既にこれらすべてを創っていました。神が行ったことは、すべて人類と、人類の生存のためであり、また人類の存在のために配慮されたものであるので、人類は、神が人類のために用意したこのような豊富で潤沢な物質世界で、食料や衣料について心配することなく、何かに不足することなく、幸せに生活することができるのです。人類はそうした環境の中で繁殖し、生存し続けています。

    神が行うことで、その大小を問わず、価値や意義がないものがありますか。神のすることにはすべて価値と意義があります。このことについて、人々が頻繁に口にする疑問から話しましょう。ニワトリと卵はどちらが先に現れたか、と多くの人はいつも尋ねます。(ニワトリです。)これにはどう答えますか。ニワトリが先です。これは確実です。なぜニワトリが先ですか。なぜ卵が先であるはずがないのですか。ニワトリは卵から生まれるのではないのですか。卵からニワトリが生まれ、ニワトリは卵を孵化させます。卵を二十一日間抱いた後に、ニワトリが生まれます。そのニワトリは卵を産み、その卵から再びニワトリが生まれます。それでは、ニワトリと卵のどちらが先に現れたのですか。あなたがたは自信をもって「ニワトリ」と答えましたが、なせですか。(聖書には、神様が鳥と獣を創られたと書いてあるからです。)それは聖書に基づいています。神の業に関する実際の認識があなたがたにあるかどうかを見るために、あなたがた自身の認識について話しなさい。自分の答えに確信していますか、確信していませんか。(神様により創られた万物は互いに補強し合い、抑制し合い、相互に依存しています。神様はニワトリをお創りになり、ニワトリは卵を産むことができ、雌鳥は卵を孵化させます。そうした必要性と実際性があります。)兄弟姉妹の中に笑った人がいます。あなたがたが発言してはどうですか。(神様はニワトリをお創りになり、ニワトリに繁殖する能力をお与えになりました。それは卵を孵化させる能力と、生命を継続させる能力です。)その説明は概して正しいです。その他の兄弟姉妹は意見がありますか。自由に発言して、話し合いなさい。ここは神の家です。教会です。何が言うことがあれば、言いなさい。(私が思うには、神は万物をお創りになり、神がお創りになったものはすべて善良で完璧です。ニワトリは有機的な創造物で、増殖し卵を孵化させる機能を備えています。それは完璧です。したがって、ニワトリが先に現れ、次に卵が現れました。これが順番です。)それは確かです。これはそれほど遠大な奥義ではありませんが、この世の人々は、極めて深いものと捉えて、論法に哲学を用います。結局、彼らはいまだに結論に達していません。これはいかにもニワトリが神に創られたことを知らない人々らしいです。人間はこの原則を知らず、また卵とニワトリのどちらが先に現れるはずかもはっきり分からないのです。何が先に現れるべきかを知らないので、いつも答えを見出すことができません。ニワトリが先だったことは、極めて普通です。もし卵がニワトリよりも先であったとしたら、それは異常です。絶対にニワトリが先に現れました。これは非常に単純なことです。博識である必要はありません。神はそれらすべてを創ったのです。神の当初の意図は、それを人間が享受することでした。一旦ニワトリが現れると、必然的に卵が現れます。明白ではありませんか。もし卵が先に創れたなら、卵を孵化させるニワトリが必要ではありませんか。直接ニワトリを創るほうが、はるかに容易です。ニワトリは卵を産み、ひよこをかえすこともできると同時に、人間がニワトリを食べることもできます。これはとても便利ではありませんか。神がものごとを行なう方法は簡明で、煩わしくありません。卵はどこから来ますか。ニワトリからです。ニワトリなしには卵はありません。神が創ったのは、生き物でした。こうした単純な問題にはまり込み、挙げ句の果てに数々の邪論さえ生み出す人類は、愚かで滑稽です。なんと子供っぽいことでしょう。卵とニワトリの関係は明白です。ニワトリが先に現れた。これが最も正確な説明であり、理解の仕方であり、回答です。これが正しいのです。

2019年1月25日金曜日

素晴らしい讃美聖歌 「どんな権力も神が成し遂げようと願っていることを妨げられない」



素晴らしい讃美聖歌 「どんな権力も神が成し遂げようと願っていることを妨げられない」
Ⅰ
神は業を為すために この世界に再来した
最初に留まったのは独裁者たちの集まり 中国
それは無神論の要塞だ
知恵と力によって神は一群の人々を得た
この間中国共産党は
あらゆる方法で神を狩り出そうとした
休む場所なく 苦しみに耐えながら
声を発し 福音を広め
神は為すべき業を続ける
神の全能の力を推し量れる者はいない
神を敵と見なす中国のような国で
神は業をやめようとはしなかった
神は業を為すことを決してやめようとはしなかった
ますます多くの人々が
神の業と言葉を受け入れるようになった
なぜなら神は人々を救うために
一人一人を救うために
神はできること全てを為すからである
神が成し遂げたい願っていることは
どんな国も権力も妨げられない
神の働きを妨げ 神の言葉に逆らい
計画を混乱させる者は神に罰せられる
誰かが神の業を拒むなら
神はその人を地獄へ投げ込むだろう
国が神の業を拒むなら
神はその国を滅亡させるだろう
民族が神の業に抗うなら
神はその民族を地上から消し去るだろう
神が成し遂げたいと願っていることは
どんな国も権力も妨げられない
神の働きを妨げ 神の言葉に逆い
計画を混乱させる者は神に罰せられる
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2019年1月23日水曜日

全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 8」7



5.気流

五番目は何でしょうか。これは一人ひとりの日常生活に深く関係していて、この関係は強く、それなしでは、この物質世界で人体が生きて行けないものです。それは気流です。「気流」は、おそらくすべての人が理解する言葉です。では、気流とは何ですか。あなたがた自身の言葉で説明してみなさい。(気流とは空気の流れです。)そう言うことができます。空気の流れを「気流」と呼びます。気流とは、人間の目に見えない風です。またそれは、気体の運動形態のひとつでもあります。しかし、わたしたちがここでおもに話し合っている気流とは、何ですか。わたしが言えば、あなたがたはすぐに分かります。地球は回りつつ、山や海や万物を抱えており、地球が回るとき、速度があります。あなたが回転を感じなくても、地球は確かに回転しています。この回転により、何が発生しますか。人間が走ると、何が起きますか。走ると耳に風が起こりますか。(はい。)人間が走ると風が発生するのが可能なら、地球が回転した時に風が発生しないということがどうして有り得るでしょうか。地球が回転する時、万物は運動しています。運動し、一定の速度で回転していますが、それと同時に地上の万物はまた継続的に繁殖し、発展しています。したがって、一定速度で移動すると、当然気流が発生します。これが気流です。この気流は人体に何らかの影響を及ぼすでしょうか。台湾と香港は、どちらも台風があります。台風はそれほど強力ではないですが、台風に見舞われると、人間は立っていることができず、風の中を歩くのに困難を感じます。一歩進むのさえも困難です。あまりに強くて人が風で何かに押し付けられ動くことができなくなることがあります。これは、気流が人類に影響を与える形態のひとつです。もし地球全体が平野であったならば、ある程度の速度で地球の回転と万物の動きで発生する気流に人体が耐えるのは極めて困難となるでしょう。それに対処するのは、極めて困難です。そうであれば、この気流は人類に危害を及ぼすだけでなく、破壊してしまいます。このような環境では、誰も生存できないでしょう。そうしたわけで、神は様々な地理的環境を用いて、こうした気流を解消し、気流の方向や速度、威力を変え、緩和させるのです。山、山脈、平野、丘陵、盆地、峡谷、高原、川などの様々な地理的環境が見られるのは、そのためです。神はこうした様々な地理的環境を適用して気流の速度、方向、威力を変化させ、このような方法を用いて気流を適切な風速、風向、風力へと縮小あるいは操作するので、人間は通常の生活環境を得ることができます。そうすることは必要ですか。(はい。)こうしたことを行うのは、人間にとって困難に思われますが、神にとっては容易です。なぜなら神は万物を監督しているからです。神にとって、人類に適した気流のある環境を創ることは極めて単純かつ容易です。したがって、神が創ったこのような環境において、万物のそれぞれひとつひとつが不可欠なのです。それらのすべてその存在に価値と必要性があります。しかし、サタンと堕落した人類は、こうした思想を理解しません。彼らは破壊と開発を続け、むやみに山々を平野へと換え、峡谷を埋め立て、平野に高層ビルを建て、コンクリートジャングルを造り出します。神が人間のために用意した人間に最適な環境において、人間が幸福に暮らし、幸福に成長し、幸福な毎日を送れることが神の望みです。人類の生活環境を扱うことに関して、神が不注意であったことが決してないのはこのためです。人類の生活環境と身体が自然条件に起因する障害の影響を一切受けず、人類が正常に生活し、繁殖し、万物と調和して共に正常に生活できるように、神は気温から空気、音、光にいたるまで、精緻な計画を立て、精緻な采配を行なってきました。これらはすべて神により万物と人類に与えられています。

人間の生存のためのこれら五つの基本的条件を神が取り扱った方法から、神が人類に与えるものが分かりますか。(はい。)つまり、神は人間生存のための最も基本的条件を作ったのです。同時に、神はこれらを管理し、制御し、人間が存在するようになって数千年を経た今も、依然として継続的に人間の生活環境を変化させ、人類にとって最善かつ最適な生活環境を与え、人間の生活が普通に維持されることができるようにしています。これはいつまで維持されるでしょうか。言い換えるなら、どれくらいのあいだ神はそうした環境を与えるでしょうか。神がその経営(救い)の働きを完了するまでです。その後は、神は人類の生活環境を変化させます。それは同様の方法によるかもしれませんし、あるいは異なる方法によるかもしれませんが、今人間が真に知る必要のある事は、神は人類に必要なものを与え続け、人類の生活環境を管理し、保存し、保護し、維持しているということです。神の選民がこのように普通に生活し、神の救いと刑罰、そして裁きを受けることができるのは、こうした環境のゆえです。神の支配のおかげで万物は存続し、また神がこうして与えているおかげで全人類は進歩を続けています。

たった今わたしが話をした部分は、あなたがたに何か新たな考えをもたらしましたか。あなたがたは、今では神と人類の最大の違いを感じますか。それでは、万物の支配者は誰ですか。それは人間ですか。(いいえ。)それでは、万物の取り扱い方における神と人間の相違が何かを知っていますか。(神様は万物を支配して取り決められ、人間はそのすべてを享受します。)あなたがたはこの意見に賛成ですか。(はい。)神と人類の最大の相違点は、神は万物を支配し、すべてを与えるということです。神は万物の源であり、人間は神が与える万物を享受します。つまり、神が万物に与えるいのちを人間が受け入れる時、人間は万物を享受するということです。人類は神の万物創造の成果を享受するのに対し、神は主です。それでは、万物の立場から見ると、神と人類の相違点は何ですか。神は万物の成長様式を明瞭に見ることができ、万物の成長様式を制御し、支配します。すなわち、万物は神の目の中にあり、神の監視範囲内にあります。人間には万物が見えますか。人間に見えるものには制限があります。それを「万物」と呼ぶことはできません。それはただ人間の目に見えるものに過ぎません。もし人間が山に登ると、人間に見えるのは、その山です。その山の反対側にあるものは見えません。人間が海岸へ行くと、人間に見えるのは目の前にある海ですが、その対岸の海がどのようであるかは知りません。人間が森に辿り着くと、人間には自分の周囲と目の前にある植物が見えますが、その先に何があるかは見えません。人間は高い場所、遠い場所、深い場所を見ることができません。人間に見えるものは、目の前にあるものと、視野の中にあるものだけです。人間が一年間の四季の様式や万物の成長様式を知っていたとしても、万物を管理したり支配したりすることはできません。その一方、神の万物の見方は、あたかも神が自ら製作した機械を見るようなものです。神はそれぞれの部品について熟知しているのです。その原則が何か、その様式は何か、その目的は何かについて、神はこれらのことすべてを明白に知っています。それゆえに、神は神であり、人間は人間なのです。たとえ人間が科学や万物の法則の研究を続けたとしても、それは依然として限界のある範囲内であり、その一方で神は万物を支配しています。それは人間にとって無限です。もし人間が神が行った極めて小さな何かを研究したならば、生涯を研究に捧げても、何ら実質的な成果を達成しないことがありえます。もしあなたが知識や学習した事柄を用いて神を研究しても、神を知ることも理解することも決してできないのは、このためです。しかし、もし真理を求め、神を求める道を用い、神を知ろうとするという観点から神を見つめるのならば、やがて神の業と知恵が随所にあることを認め、また神が万物の主、そして万物の生命の源であると言われるのはなぜかを知るでしょう。そうした認識をさらに得れば得るほど、神がなぜ万物の主と呼ばれるのかを一層理解するでしょう。あなた自身を含めた万物、すべてのものは、神から安定した施しを間断なく受け取っています。また、あなたはこの世界で、人類の只中に、万物の存在を支配し、管理し、維持するこのような力と本質をもつことのできるのは、神を除いて存在しないことを明らかに感じることができます。あなたがこうした理解を得る時、あなたは神があなたの神であることを真に認めるでしょう。あなたがこの点に達する時、あなたは神を真に受け入れ、神をあなたの神であり主であるとしたのです。あなたがそうした認識を得、あなたのいのちがそのような点に達した時、神はもはやあなたを試したり、裁いたりせず、またあなたに対して要求しなくなります。なぜなら、あなたは神を理解し、神の心を知り、神をあなたの心の中で真に受け入れたからです。このことは、神の万物支配と管理に関するこれらのことを伝える重要な理由です。このことは、人々により一層の認識と理解を与えるためであり、単にあなたに神の業を認めさせるだけでなく、それについてのさらなる実践的な認識と理解を与えるためです。

2019年1月20日日曜日

全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 8」6



4.光

四番目は、人間の目に関係しています。それは光です。光もまた極めて重要です。眩しい光を見て、その光の明るさがある程度に達すると、人は失明します。つまるところ、人間の目は、肉の目なのです。損傷に耐えられません。誰か太陽の光を敢えて直視しますか。(いいえ。)誰か試したことがありますか。試した人はいます。サングラスをかければ、直視することができますね。道具の助けが必要となります。道具なしには、人間は裸眼で太陽を直視する能力がありません。けれど、神は人類に光を与えるために太陽を創ったのであり、この光も操作しました。神は太陽を創った後、太陽をそのまま放置して無視しませんでした。「人間の目が太陽に耐えられるかなんて、誰が気にするか」。神は決してこのように物事を行ないません。神は極めてきめ細やかに物事を行い、あらゆる側面を考慮します。物を見ることができるように、神は人類に目を与えましたが、人間が見ることのできる光度の範囲も設けました。光量が不足すると、うまくいきません。人間が目の前にある自分の手を見ることができないほど暗い場合、人間の目は機能しなくなり、役に立ちません。明る過ぎる場所は人間の目には耐えられず、何も見えなくなります。したがって、人類の生活環境において、神は人間の目に適した量の光を与えました。この光は、人間の目に損傷を与えません。さらに、この光は人間の目の機能を失わせることもありません。神が太陽と地球の周囲に雲を加えたのは、このためであり、また空気の濃度も人間の目や肌を傷つける光を普通に除去することができます。これは相互に関連しています。さらに、神が創った地上の色彩もまた太陽光やあらゆる種類の光を反射させ、人間の目を不快にする光の明るさの一部を除去します。こうしたわけで、人間は屋外を歩きまわり生活を営めるようにと、色の濃いサングラスを常時着用する必要がないのです。通常の条件下では、人間の目は視界内の物を見ることが可能であり、光により妨害されることはありません。つまり、この光は眩しすぎることも暗すぎることもないのです。光が暗すぎると、人間の目は損傷し、使えなくなり、間もなく目が機能しなくなります。光が明るすぎると、人間の目はそれに耐えきれず、30年から40年、あるいは40年から50年後には使えなくなります。つまり、この光は人間が見るのに適しており、光による目の損傷は、神により様々な方法を通して最低限度に抑制されています。光が人間の目に恩恵をもたらすか、不都合をもたらすかに関わらず、光は人間の目を人間の寿命に達するまでの期間にわたり耐用可能とするに十分です。神はこのことを極めて周到に考慮していたのではありませんか。しかし、サタンすなわち悪魔が業を行う時は、そうしたことは一切考慮しません。光は眩しすぎるか、暗すぎるかのどちらかです。これがサタンの物事の行ない方です。

神は視力、聴力、味覚、呼吸、感覚など、人体の全側面にこのようなことを行ない、人類の生存のための順応力を最大限にし、人間が生きられるように、普通に生活し、そうし続けることができるようにしています。つまり、神が創った、こうした現存する生活環境は、人類の生存に最適かつ最も有益な生活環境なのです。これは大したことではなく、すべて至って普通であると考える人もいるでしょう。音、光、そして空気は、人間が生来もっているもの、生まれた瞬間から享受できるものと感じるものです。しかし、人間がこれらのものを享受する陰で神が行った業は、人間が知り理解するべきことです。これを理解し知る必要があると感じるかどうかに関わらず、簡潔に言うと、神がこれらのものを創った時、神は配慮し、計画をもち、ある考えをもっていたのです。神は単純に、何気なく、あるいは何も考えることなしに、そうした環境の中に人間を置いたわけではないのです。わたしが話した物事のひとつひとつは、いずれも大したことがないとあなたがたは考えるかも知れませんが、わたしの考えでは、神が人類に与えた物事はひとつひとつが人類の生存に必要なものです。ここに神の業があります。

2019年1月17日木曜日

全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 8」5


3)音

     3番目の物事は、音である。音もまた、人間の通常の生活環境に備わっていることが必要とされるものである。音は、神が万物を造った時に出現した。その時、神は音を極めて周到に造った。それは、神にとって、そして人間の生存にとっても、極めて重要なものである。神が音の問題を周到に扱わなかったとしたら、人間の生存に対する大きな障壁となっていたことであろう。そうした状況は、人間の身体と生活に著しい悪影響を及ぼし、人類がそのような環境で生存することが不可能となっていたであろう。また、あらゆる生き物がそうした環境では生存できないと言えるであろう。それでは、音とは、どのようなものであろうか。それは、音である。神は万物を造り、万物は神の手の中で生きる。神の目から見ると、万物が動き、生きている。神は万物を創造し、万物の存在には、それぞれ価値と意義がある。つまり、万物には、すべてその存在の根底に必要性がある。しかし、神の創造物には、それぞれ命がある。万物はそれぞれ生きており、動いているので、必然的に音を発する。たとえば、地球も太陽も、そして月も自転している。万物のいのちと動きからは、常に音が発生する。地上にある物もまた常に繁殖し、成長し、動いている。たとえば、山の基盤は動いており、移動しており、海中の生き物はすべて移動し、遊泳している。こうした生き物や万物は、神の目から見ると、全て継続的かつ恒常的に運動している。それでは、こうした密かな拡張、成長、運動により、何が発生するだろうか。力強い音である。地球以外のあらゆる惑星もまた継続的に運動し、惑星上の生き物や有機体もまた継続的に拡張し、成長し、運動している。つまり、いのちのある物やいのちの無い物は、神の目から見るとすべて継続的に動いており、いのちのある物が全て動いている時、それらの物は同時に音を発生させる。神はこうした音についても取り扱っている。それは何故か。あなたがたはその理由を知っているはずであろう。あなたがたが航空機に近付いた時、航空機の轟音は、あなたがたにどのような影響を与えるであろうか。(私達は難聴になる。)その音は人間の聴覚を損傷させるであろうか。人間の心臓はその音に耐えきれるであろうか。(耐えきれない。) 心臓の弱い人間は耐えきれないであろう。無論、心臓の強い人間であっても、その音が長期化すると耐えられないであろう。つまり、音の人体に対する影響は、それが耳であるか、心臓であるかを問わず、各人にとって極めて甚大であり、音量が大きすぎる音は人間に危害を与える。したがって、神が万物を創造し、万物が正常に機能し始めた時、こうした音すなわち運動する物の音に、神は適切な処置を施した。こうしたことも、人間のための環境を造る時に、神にとって必要な配慮のひとつであった。

    まず、地上にある大気圏により音が消され、制限される。また地面の間にある空間すなわち土壌の隙間の大きさによって音が変化し、影響を受ける。さらに様々な地理環境が重なり、それも音に影響を与える。つまり、人間の耳や心臓が耐えることの出来る環境で人間が生存できるように、神は特定の方法を用いて音の一部を消している。さもなければ、人間の生存にとって音が大きな障害となり、音は生活上大問題となるであろう。これは大問題である。つまり、神は地面と大気、そして様々な地理的環境を造った時、極めて特定的であった。こうした物事すべてに神の知恵が含まれている。こうした事情に対する人間の理解は、それほど詳細である必要は無い。理解する必要があるのは、こうした物事に神の業が含まれて居るということのみである。神の万物創造は、まさに人間生存のためのものであった。さて、あなたがたに尋ねるが、音を変化させる神の業は必要であったであろうか。あなたがたは、神がこの業を行う必要性を感じることが出来るであろうか。神が行った業は、音を極めて正確に変化させることであった。神はこの業を行い、人間の生活環境と通常の生活を維持した。この業は必要だったであろうか。(必要だった。)この業が必要であるとすると、その観点から見て、神はそうした方法を用いて、万物に全ての必要を与えたと言えるであろうか。神は、人間の身体が静かな環境で極めて正常に生活出来るように、また人間に障害が無く、普通に存在して生活出来るように、人類のためにそうした環境を造り、そして与えた。これは神が人間に全ての必要を与える方法のひとつではないだろうか。(その通りである。)神が行ったこの業は極めて重要であろうか。(重要である。)その業は是非必要であった。それでは、あなたがたはその業に対して、どのように感謝しているであろうか。あなたがたは、それが神の業であると感じる事が無く、当時それを神がどのように行ったかを知らなかったとしても、神がこの業を行う必要性を感じることが出来るであろうか。こうした業に神が注ぎ込んだ知恵や配慮、そして思いを感じることが出来るだろうか。(出来る。)それを感じる事が出来れば、それでよい。それで十分である。人間が感じることの出来ない物事や、見ることの困難な物事で、神が行った業は多数ある。今わたしがこう述べるのは、単に神の業に関する情報をあなたがたに与え、あなたがたが神を知ることが出来るようになるためである。こうした手がかりにより、あなたがたは神の業を一層理解することができる。

2019年1月14日月曜日

全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 8」4



  また、そうした適切な気温の環境において人間が生活できるのは、その全ての側面についての神の
周到な計画、検討、采配のおかげである。したがって、太陽など人間が見るあらゆる物、南極や北極など人間が頻繁に話を聞く物、地上や地中、海中の様々な生き物、森その他の植生の面積、水源、様々な形態の水域、そうした水域の淡水や海水の量、さらに様々な地理的環境を用いて、神は人間の生存のための常温を維持している。これは絶対である。また、そうした適切な気温の環境において人間が生活できるのは、神の周到な検討のおかげである。そうした環境は寒すぎることも暑すぎることも無い。人体が順応出来る気温を超えるほど暑い場所は、間違い無く神が人間のために用意した場所では無い。気温が低すぎて寒すぎる場所、すなわち人間が到着して数分で凍えてしまい、話が出来ず、脳が凍り、思考不可能となり、息が詰まるような場所も、神が人間のために用意した場所ではない。人間がどのような調査を行うことを望んだとしても、現状を革新したい、あるいはこうした制約を打破したいと考えたとしても、人間がどう考えるかを問わず、人体が順応可能な限界を超えることは決して出来ない。人間は、こうした神が人間のために設けた限界を解消することは決して出来ない。神は人間を創ったので、神は人体が順応可能な温度について最も深く理解している。人間はその温度について知っているであろうか。(知らない。)知らないと言えるのは、何故であろうか。人間はどのような愚行を行って来たであろうか。北極や南極に常に挑んでいる人々は、これまで多数居なかったであろうか。そうした人々は北極や南極へ向かい、その地を占有して定住して開発することを常に望んでいる。これは自滅的行為ではないだろうか。(自滅的行為である。)仮にあなたが南極と北極を完全に調査したとしよう。しかし、あなたがそうした気温に順応できたとしても、南極や北極の生活環境や生存環境を変えることが、人類に何らかの利益をもたらすであろうか。南極や北極の氷が全て溶けたとしたら、あなたは満足であろうか。それは信じがたいことである。それは愚かな行為である。人間には、生存できる環境があるが、素直にそこで静かに誠実に留まっていることが出来ず、生存不可能な場所へ行かずには居られない。それは何故であろうか。人間は適切な気温の中で生活することに飽きている。人間が享受した祝福が多すぎるのである。また、この通常の生活環境は、人類によってかなり破壊されて来たので、南極や北極へ行って更なる破壊を行ったり、ある種の「先駆者」となることができるよう、何らかの「活動」を行ったりする。それは愚かではなかろうか。そうした人間の祖先であるサタンの指揮下において、そうした人間は次から次へと愚かな行動を続け、神が人間のために造った美しい住処を、見境無くみだりに破壊してゆく。それはサタンの業である。さらに、地球上における人類の生存が多少危うくなったのを見て、月へ行ってそこに住む方法を模索し、月に住めるのであれば地球から脱出しようとする者も大勢居る。だが結局月に欠如しているものは何であろうか。(酸素である。)酸素無しで人間は生存できるであろうか。(生存できない。) 月には酸素が無いので、人間が居留できる場所ではないが、人間は相変わらず月へ行きたがる。これは何であろうか。(自滅行為であり、悩み事を招く行為である。)それは自滅行為であろう。月は空気の無い場所であり、気温も人間の生存に不適であるので、月は神が人間のために用意した場所では無い。
つい先ほど話をした気温の問題は、人間が日常生活で接することの出来る問題で、「本日は素晴らしい空模様で、気温は23度である。好天快晴で空気は爽快だ。新鮮な空気を吸い込もう。太陽が光り輝いている。日の光が降り注ぐ中で、身体を伸ばそう。良い気分だ。」あるいは「本日は非常に寒い。手を出すと、すぐ冷たくなるだろう。寒いから屋外に長時間居てはならない。身体が冷えないうちに帰宅しよう。」というような会話を交わす。気温は全ての人間が体感できるものであるが、この気温がどのようにして現れたか、あるいは人間の生活に適した気温を制御しているのは誰かについては、誰も考えない。本日明らかにしようとしているのは、この問題である。気温には、神の知恵が含まれているであろうか。気温には、神の業が含まれているであろうか。(含まれている。)人間の生活に適した気温の環境は、神が造ったことを考えると、気温は神が万物に恵みを与えるひとつの方法だろうか。実際、それはひとつの方法である。このことにより、神が万物に恵みを与え、管理していることは、真に現実的なものであることが分かるのだ。

2018年12月29日土曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 2」8


人類に対する創造主の真摯な思い入れ

 人々は、神を知ることは簡単ではない、と言うことが多々ある。しかし、わたしは、神を知ることが困難なことは全く無い、と述べている。なぜなら、神は人間が業を目にすることを頻繁に許しているからである。現在に至るまで、神が人間との対話を辞めたことは無い。神が人間から隠れ去ったことも無く、自らが隠れたことも無い。神の心、神の言葉、神の業は、全て人間に対して明示されている。したがって、人間が神を知ることを望む限り、様々な方法で人間は神を知ることが出来る。神は人間をことさらに避けている、神は故意に人間から隠れている、神には人間が神を理解することを許可するつもりが全く無い、などと人間が盲目に考える理由は、人間が神の存在を知らず、神を知ることを望まず、そして何よりも人間が創造主の心、言葉、業などに無関心だからである。事実を述べると、もし誰かが、余暇に創造主の言葉や業について考え、理解し、創造主の心と、その心による言葉に注意を払ったとすれば、神の心、言葉、業は見ることが出来るものであり、明瞭なものであることに気付くのは困難ではない。同様に、創造主は常に人間の中にあり、人間や創造物すべてとの対話を行い、新たな業を毎日行っていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされない。神の本質と性質は、神と人間との対話の中で表出され、神の心と考えは、神の業においてすべて明示されており、神は常に人間と共にあり、人間を見守っている。神は人間や創造物のすべてに対して、落ち着いた声で静かに語りかけ、「わたしは天の上にあり、わたしは万物の中にある、わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある」と述べている。神の手は温かく力強い。神の足取りは軽やかである。神の声は温和で優しい。神の身体はすれ違いざまに振り向いて人類すべてを抱擁する。神の表情は優美である。神は、立ち去ることも、消え去ることも無かった。神は、夜明けから日没まで、常に人間と共にある。人間に対する神の心からの労りと並々ならぬ思い入れ、真の思いやりと愛は、神がニネベの町を救った時にも少しずつ示されていた。特に、ヤーウェ神とヨナの会話では、創造主が創造した人類に対する、創造主自身の同情が露見される。これらの言葉からは、人間に対する神の真摯な思い入れを知ることができる。

 次に挙げるのはヨナ書4:10~11に記された言葉である。「ヤーウェは言われた、『あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか。』」これは、ヤーウェ神とヨナとの会話における、ヤーウェ神自身の言葉である。この会話は短いものの、創造主の人間に対する思いやりと、ニネベの人々を見捨てることに対する抵抗感に溢れている。この言葉では、神の心の中にある神の創造物に対する神の姿勢と思い入れが表現されており、こうした言葉を人間が聞くことは滅多に無いが、その明瞭な言葉により、神の人間に対する意向が述べられている。この対話は、神のニネベの人々に対する姿勢が示されているが、その姿勢とはどのようなものであろうか。その姿勢とは、ニネベの人々が悔い改める前と後の、ニネベの人々に対する神の姿勢である。神は、それと同じ姿勢で人類を扱う。この言葉から神の心と神の性質を見出すことができる。

 この言葉には、神のどのような心が示されているであろうか。十分に注意して読めば、すぐに神が「惜しむ」という語を用いていることが分かる。この語を用いたことにより、人類に対する神の真の姿勢が示されている。

 語義的には、「惜しむ」という語は様々な解釈が可能である。第一に、愛して守ること、何かを貴く感じることの意味がある。第二に、深く愛慕することの意味がある。そして第三に、傷つけることができない、傷つけることに耐えられないという意味がある。つまり、この語は、愛慕の念と、人や物への愛着の含意がある。この語は、神の人間に対する憐れみと寛容さを意味する。神は人間が一般的に会話する語を用いたが、この語が用いられていることにより、神の心からの言葉と、神の人間に対する姿勢が明らかにされている。

 ニネベの町は、ソドムの人々と同様に腐敗し、邪悪で凶暴な人々で満ちていたのに対し、ニネベの人々の悔い改めにより、神の心が変わり、ニネベの人々を滅ぼさないことに決めた。神の言葉と命令に対するニネベの人々の反応は、ソドムの民の姿勢と比べると極めて対照的な姿勢であり、ニネベの人々の誠心誠意による神への服従と、罪の悔い改め、そしてあらゆる面における心からの行動のため、神は再び、心からの哀れみを示し、その哀れみをニネベの人々に与えた。神の人間に対する報いと哀れみは、誰も真似をすることが出来ない。神の憐れみと寛容さや、神の人間に対する真摯な思い入れを持つことが出来る者は、存在しない。あなたが偉大な人物あるいは超人であるとみなす男性や女性のうち、そうした偉大な人物あるいは超人としての高い立場、崇高な立場から、人類や創造物に対してこのような発言をする人が存在するであろうか。人間のうち、誰が人間の生活状況を自分の手のひらのように熟知できようか。誰が人類の存在に伴う負担と責任を負うことが出来ようか。誰がひとつの町の破壊を宣言できようか。そして、誰がひとつの町を赦すことが出来ようか。誰が、自分の創造物に愛着があるなどと言えようか。それが出来るのは、創造主だけである。人類に対する慈愛を感じるのは、創造主だけである。人類に対する優しさと愛慕を示すことができるのは、創造主だけである。人類に対する変えることのできない真の愛情があるのは、創造主だけである。同様に、人類に憐れみを与え、神の創造物の全てを愛慕することが出来るのは、創造主のみである。創造主の心は、人間の行動ひとつひとつに対し、ときめいたり、傷んだりする。創造主は、人間の邪悪と腐敗に対して怒り、苦しみ、悲しむ。また創造主は、人間の悔い改めと信仰に満足し、寛大であり、喜ぶ。創造主の心は、いずれも人間のために存在し、人間がその中心にある。創造主の存在とその中にある物事は、すべて人間のために表出される。創造主の心は、人間の存在と密接に結びついている。創造主が旅をし、忙しく動き回り、そのいのちのすべてを与え、一分一秒を捧げるのは、人間のためである。創造主は、自らの命を哀れむことを知らないにもかかわらず、自身が造った人間を常に哀れみ、慈しむ。創造主は、自らの全てを人類に捧げる。創造主は、無条件に、かつ見返りを期待することなく、憐れみと寛容さを与える。彼がこうした業を行う唯一の目的は、人間が引き続き彼の前で生きることができるようにし、いのちを受けることができるようにすることである。何時の日か、人間が彼に服従し、彼こそが人間が存在するための必要を施し、全てのもののいのちを与える存在であると認識出来るようにすることである。

人類に対する創造主の真の思い

 この聖句のヤーウェ神とヨナの対話は、創造主の真の思い入れを表出するものであることに異論は無い。この対話は一方では、神の支配下にある創造物全体に対する創造主の認識を人々に伝えるものであり、それはヤーウェ神が、「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベ…」とある通りである。つまり、ニネベに関する神の認識は、決して粗略なものではなかった。神はニネベの町の生物(人間のほか家畜など)の数を知っていただけでなく、右も左もわきまえることが出来ない者の人数、すなわち、子供や若者の人数も知っていた。これは、人間に関する神の卓越した知識を具体的に証明するものである。その一方で、この対話は、人間に対する創造主の姿勢、すなわち創造主の心における人類の重要さを人々に伝えるものである。それは聖句にあるヤーウェ神の言葉の通りである。すなわち、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは…この大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」これは、ヤーウェ神がヨナを非難して述べた言葉であるが、すべて真実である。

 ヨナはニネベの人々に伝えるヤーウェ神の言葉を託されたが、ヨナはヤーウェ神の意図も、ヤーウェ神のニネベの人々に対する懸念も理解していなかった。神は、この叱責により、人類が神自身の手により造られたものであること、また人間のひとりひとりについて、神が甚大な努力をしたこと、神の望みを負っていること、神のいのちの恵みを享受していること、神が大きな代償を払っていることを、ヨナに対して述べていた。また、ヨナがこのとうごまを愛慕するのと同様に、神自身の手により造られた人間を神が愛慕していることが、この叱責によりヨナに伝えられた。神は、最後の最後まで、ニネベの人々を安易に見捨てるつもりは一切無かった。さらに、ニネベには子供や何も知らない家畜も多数居た。神の創造物のうち、右も左も分からない子供や無知な動物を取り扱うとき、神が早まって子供や動物の生命を絶ち、その運命を決めることが出来なかったのは、なおさらである。神は、子供達の成長した姿を見ることを望んでいた。神は、子供達が将来大人達のような道へ進まないこと、ヤーウェ神の警告を二度と耳にする必要が無いこと、ニネベの歴史の証をすることを望んでいた。それにも増して、神は悔い改めた後のニネベとその将来の姿を見ること、そして何よりも、ニネベの人々が再び神の慈悲の許で生活するのを見ることを、望んでいた。したがって、神の見地からすると、神が造った物のうち、そうした右も左も分からない子供達が、ニネベの将来であった。こうした子供達は、ヤーウェ神の導きの許でニネベの過去と未来の証しとなる重要な任務を背負うことになるのと同時に、ニネベの卑劣な過去も背負うことになるのであった。このヤーウェ神の真の思い入れが述べられている部分において、ヤーウェ神は、創造主の人類全体に対する慈悲を提示した。この部分では、「創造主の慈悲」は虚言でも、空虚な誓いでもなく、具体的な原則であり、方法であり、目的であった。創造主は真実であり、実在し、嘘や偽りを行わない。そしてこのように、神の慈悲は、あらゆる時代において、人間に対して無限に与えられる。しかし、現在に至るまで、この創造主とヨナとの対話は、神が人類に対して慈悲をもって接する理由、神が人類に対して慈悲を示す方法、神が人類に対してどの程度寛容であるか、そして神の人間に対する真の思いに関する、神による、唯一の言葉である。ヤーウェ神の簡潔な対話では、自身の人間に対する完全な心が表出されている。この対話は人間に対する神の心の姿勢に関する真の表出であり、また人間に対する神による慈悲の豊かな付与に関する、、具体的な証明でもある。神の慈悲は、従前において世代から世代へと続いて来たのと同様に、人間のうち比較的高い年齢層のみに与えられるものではなく、人間のうち比較的若い層にも与えられる。多くの場合、神の怒りは特定の地域、特定の時代に人類に対してくだされるのに対し、神の慈悲は決して止まることが無い。神は、自身の慈悲により導き、施し、与え、そしてそれを神の創造物の世代から世代へと連綿と続けられる。なぜなら、神の人間に対する真の思い入れは、変わることが無いからである。「惜しまないでいられようか」というヤーウェ神の言葉が示す通り、神は常にご自身の創造物を愛慕してきた。これが創造主の義の性質による慈悲であり、この慈悲もまた、創造主の純然たる特質である。

2018年12月16日日曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 2」4


サタンは人道的で正しく、道徳があるように思われるが、その本質は残忍かつ邪悪である。

 サタンは、一般大衆を騙すことにより、名声を得る。通常、サタンは義の先導者的かつ模範的存在として、自分自身の立場を確立する。義を守るという旗印のもと、サタンは人間を傷つけ、その魂を食い物とし、また人間を麻痺させ、騙し、扇動するためにあらゆる手段を講じる。サタンの目標は、自分の邪悪な行いを人間に認めさせ、それに人間を従わせること、サタンと共に神の権威と支配に反対させることである。しかし、その陰謀や策略、下劣な特徴についてわきまえるようになり、サタンの踏み台にされ、騙され、奴隷として仕えること、あるいはサタンと共に罰を受けて滅ぼされることを望まなくなると、サタンは従前の聖なる特徴を一変させ、仮面を破り捨て、真の邪悪で残忍で醜い獣のような素顔を現す。サタンは、自分に従うことを拒んだ者と、サタンの邪悪な力に反対した者全てを皆殺しにすることを、何よりも好む。この段階で、サタンは信頼のおける紳士的姿を装うことは出来なくなり、被っている羊の皮の下の醜い悪魔のような特徴を持つ正体を現す。サタンの陰謀が明るみに出た時、その真の特徴が現れた時、サタンは激怒してその野蛮さを現し、人間を傷つけ、食い物にするサタンの欲望が強くなって行く。これは、サタンが人間が目覚めることに対して激怒するからである。サタンは、捕らわれの身から解き放たれて自由と光を得ようとする人間に、強い復讐の念を抱いている。サタンの怒りは、サタンの邪悪さを保護するためのものであり、またその獣のような性質を真に披瀝するものである。

 サタンの行動は、万事においてサタンの邪悪な性質を示す。サタンが人間を惑わせて自分に従わせようとする初期の取り組みから、サタンが自分の邪悪な行いに人間を引きずり込む、サタンによる人間の搾取や、サタンの真の姿が現れ、人間がそれを認めて見捨てた後のサタンの執念深さまで、サタンが人間に対して行うあらゆる邪悪な行いのうち、サタンの邪悪な本質が披瀝されないものは無く、サタンは肯定的な物事と全く関係が無いという事実を証明しないものは無く、サタンはあらゆる邪悪な物事の根源であることを証明しないものは無い。サタンの行動は、すべてサタンの邪悪さを守り、サタンの邪悪な行いを継続し、正しく肯定的な物事に反抗し、人間の通常の生活の律法や秩序を破綻させる。サタンの行いは、神への敵意であり、神の怒りが滅ぼすものである。サタンには自分自身の怒りがあるが、その怒りはサタンの邪悪な性質を発散させる手段である。サタンが憤慨し、激怒する理由は、サタンの陰謀が明らかになったことや、その策略を成功させるのが困難であること、神の代わりとして君臨するというサタンの向こう見ずな野心と願望が打ち砕かれ、阻止されたこと、人間を支配する目標が何の価値もないものとなり、永遠に達成出来なくなることなどである。サタンの陰謀が結実することや、サタンの邪悪が拡散するのを阻止して来たのは、神が度々召喚してきた、神の怒りであるため、サタンは神の怒りを嫌うと同時に畏れている。神の怒りが適用された時は常に、サタンの下劣な真の姿が披瀝されるだけでなく、サタンの邪悪な願望も明らかにされる。同時に、人類に対するサタンの怒りの理由が白日の下にさらされる。サタンの激昂は、サタンの邪悪な性質とサタンの謀略が、真に明示されたものである。無論、サタンが激怒した時は、毎回邪悪な物事の破壊を予告している。つまり、肯定的な物事に対する保護と維持、そして、反抗することが許されない、神の怒りの本質がその後に続く。

神の義の性質を知る上で、経験や想像に依存してはならない

 もし、自分が神の裁きと鍛錬を受けることになったとしたら、あなたは、神の言葉は不純だ、と言うであろうか。あなたは、神の怒りの根底は架空のもので、神の怒りは不純だ、と言うであろうか。あなたは、神の性質は必ずしも完全に義では無い、と言って、神を中傷するであろうか。神の業を解釈する時は、神の義なる性質にその他の要素が混入していないこと、そして神の業が聖であり完璧であることを確信している必要がある。神の業には、神による攻撃、神の罰や、神による人間の破壊などが含まれる。神の業は、それぞれ例外なく神が本来持っている性質と神の計画に厳密に従って行われる。これには、人間の知識や伝統、哲学は含まれない。また、神の業は、それぞれが神の性質と本質を表出するものであり、腐敗した人間のいかなる物事とも無関係である。人間の考えでは、完璧であり、かつ純粋であり、かつ聖なるものは、神の人間に対する愛、憐れみ、そして寛容さだけである。しかしながら、神の怒りが同様に純粋であることを知る者は居ない。さらに、神が決して反抗を甘受しないのは何故か、神の怒りがそこまで甚大なのは何故か、といった疑問について考える者は居ない。それとは逆に、神の怒りを腐敗した人間の態度として誤解し、神の怒りを、腐敗した人間の怒りであると思い込み、さらには神の怒りは腐敗した人間の性質の自然な表出と同じであると仮定したりする者が居る。こうした者は、神の怒りが発生するのは、不満により発生する腐敗した人間の怒りと同様であり、神の怒りが発生するのは神の気分の表出であると考えていることさえある。このフェローシップの後は、あなたがたそれぞれが、神の義なる性質について誤解や想像や仮定をしないこと、わたしの話を聴いた後、心の中で、神の怒りの真実を認識できること、神の怒りについて、従前の誤った考えを捨てること、神の怒りの本質に関する自分自身の誤った考えや見方を変えることが可能であることを願う。さらに、あなたがたが神の性質の正確な定義を心で理解すること、神の義なる性質について疑念を抱かないこと、神の真の性質に関して人間による理由付けや想像を適用しないことを願う。神の義の性質は、神自身の本質である。神の義の性質は、人間が造ったものでも、書き綴ったものでもない。神の義の性質は、神の義の性質であり、創造物とは何の関係も無い。神自身は、神自身である。神が創造物となることは決してあらず、神が創造物の中でその一員となった時であっても、神が本来持っている性質と本質は不変である。したがって、神を知ることは、ある物体について知ることではない。神を知ることは何かを分解することでも、人間を理解することでも無い。神を理解する上で、物体や人間を理解する方法を用いた場合、神に関する認識を得ることは不可能である。神を知ることは、経験や想像に依存することではなく、したがって神に関して自分が経験したことや想像したことを適用してはならない。どれほどの経験や想像力があったとしても、それには限界がある。さらに、自分の想像は事実に対応するものではなく、ましてや真理に対応するものでは無く、神の真の性質と本質とは相容れないものである。神の本質を理解する上で、想像に依存した場合、成功することは有り得ない。したがって、唯一の方法は、神から出た物すべてを受け容れ、徐々に経験し、理解に達する方法である。あなたが協力し、真理に対する飢えや渇きがあれば、何時の日か、神を真に理解し、知るよう、神が導き示すであろう。以上をもって、本件に関する議論の結論とする。