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2019年4月16日火曜日

復活後のイエスによる弟子達に対する言葉


 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネによる福音書20:26-29)

 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。」(ヨハネによる福音書21:16-17)
 これらの聖句により述べられている事柄は、主イエスが復活した後に、弟子達に対して行った業と言葉である。まず、復活の前後における主イエスの相違点について検討する。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わりないであろうか。この聖句には、復活後のイエスに関する「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。」という件が含まれている。この時の主イエスは肉にある存在ではなく、霊の存在となっていたことは明らかである。なぜなら、主が肉の限界を超越し、扉が閉ざされていたにもかかわらず、主は人々の前に来て自身の姿を見せたからである。これが復活前の肉にあった主イエスと、復活後の主イエスの、最大の相違点である。その時の霊的存在の外観と、それ以前の主イエスの外観には何ら相違はなかったが、その時のイエスは人々にとって見知らぬ人と感じられるような存在となっていた。なぜなら、主は死から復活した後に霊的存在となり、従前の身体と比較すると、その霊的存在は人々にとって謎めいた理解し難い存在となっていたからである。またそれが原因となり、主イエスと人々との間に、一層の隔たりが生じ、人々はその時の主イエスが一層不思議な存在になったと感じた。人々のこうした認識と感覚により、人々は、目に見えず触れることの出来ない神を信仰していた時代へと、突如として戻された。そうしたわけで、主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。

 主は霊の存在であったとすると、なぜ人々は主に触れ、主を見ることが出来たのであろうか。それは主イエスが人間の前に現れたことの意味に関連する問題である。これら2つの聖句について、何か気付くことがあるだろうか。通常、霊の体は見ることも触れることも出来ず、また主の復活後、主イエスの業は既に完了していた。したがって理論的には、主が復活前の姿で人々の前に再び現れ、人々に会う必要は全く無かった。しかし、主イエスの霊の存在がトマスなどの人々の前に現れたことにより、その意味が一層具体的なものとなり、人々の心に一層深く刻み込まれた。主がトマスの前に現れた時、疑念を抱いていたトマスに自身の手に触れさせ、「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言った。この言葉や業は、主イエスが復活した後に伝えたい、行いたいと思ったものではなく、主が十字架にはり付けられる前に伝え、行いたいと思っていたものである。十字架にはり付けられる前の主イエスが、トマスのような者に関して理解していたことは明らかである。このことから何が分かるであろうか。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わらなかった、ということである。主の真髄は、変わっていなかった。トマスの疑念は、この時始まったのではなく、主イエスに付き従っている時分からあったものだが、主は死から復活して霊的世界から、復活前の外観、性質、そして肉にあった時の人間に対する認識で戻って来た。故に主イエスはまず最初にトマスのこところへ行き、自身のわき腹をトマスに触れさせて復活後の主の霊的存在に触れさせるだけでなく、主の霊的存在に触れて実感させ、トマスの疑念を完全に払拭させたのである。主イエスが十字架にはり付けられる前、トマスは常に主がキリストであるということに疑念を抱き、信じることが出来なかった。トマスの神に対する信仰は、トマスが見ること、手で触れることが出来ることのみに基づいていた。主イエスは、この種の人間の信仰について、よく知っていた。この種の人々は天の神のみを信じ、神が送った肉にあるキリストを受け容れることが出来なかった。主イエスの存在と、イエスが真に受肉した神であることをトマスに理解させ、信じさせるため、イエスはトマスに対し、手で自身のわき腹に触れさせた。主イエスの復活の前後で、トマスの疑念に異なる点はあったであろうか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊的存在がトマスの前に直接現れ、トマスに自身の身体に残された釘あとを触れさせる以外に、トマスの疑念を払拭することは誰にも出来なかった。そうしたわけで、主イエスがわき腹と残された釘あとをトマスに触れさせてからは、トマスの疑念は消え、トマスは主イエスが復活されたことを真に知り、また主イエスが真のキリストであり、受肉した神であったことを理解し、信じるようになった。この時トマスに疑念はなかったが、キリストに会う機会を永遠に失ってしまった。トマスはキリストと共にあり、キリストに付き従い、知る機会、そしてキリストにより全きものとされる機会を永遠に失ってしまった。主イエスの現れと言葉により、疑念を抱いている者の信仰に対する主の結論と審判が下された。主は自身の言葉と業により、疑念を抱く者に対して、天の神のみを信じ、キリストを疑う者に対し、そうした者の信仰や、疑念を抱きつつ付き従うことを好まないということを伝えた。そうした者たちが神とキリストを完全に信じるようになる時、それは他でもない、神の大いなる業が完了した時である。もちろん、大いなる業が完了した時は、そうした者たちの疑念に対する審判が下る時でもある。その者たちのキリストに対する態度により、その者たちの運命が決められ、そうした頑なな疑念の結果としてその者達が得るものは無く、頑固さゆえ、そうした者たちの希望は報われない。そうした者たちの天の神に対する信仰は幻により育まれており、またそうした者たちのキリストに対する疑念がそうした者たちの神に対する実際の態度であるため、そうした者たちは実際に主イエスの釘跡に触れたにもかかわらず、そうした者たちの信仰は無駄であり、そうした者たちの結末は無駄な努力をしているとしか言いようが無い。主イエスがトマスに対して述べたことにより、全ての者に対して、復活した主イエスが人間の中で33年と半年にわたって業を行っていた主イエスである、と明確に伝えられている。イエスは十字架に釘ではり付けられ、死の陰の谷を歩んだ後に復活したにもかかわらず、イエスのあらゆる側面は変わることがなかった。イエスの身体には釘あとが付き、復活して墓から出てきたにもかかわらず、その性質、人間に対する認識、人間に対する旨は全く変わることがなかった。また、イエスは十字架から下ろされ、罪や苦難、そして死に打ち克ったと人々に伝えた。その釘あとは、サタンに対する勝利の証しであり、人類すべてを贖うための罪のいけにえとなった証であった。イエスは、人類の罪を既に負い、贖いの業を成し遂げたことを人々に告げていた。イエスが使徒たちの前に戻って来た時、イエスが出現されたことによって、使徒たちに対して「依然としてわたしは生きている。わたしは、あなたがたがわたしを見て触れることができるよう、実際にあなたがたの前に立っている。わたしは常にあなたがたと共に居る」と伝えた。また、主イエスはトマスの例を「主イエスを信じていたとしても、主を見ることも、主に触れることも出来ないが、あなたは、あなた自身の真の信仰により祝福され、あなたの真の信仰により主イエスを見ることが可能であり、それが可能な人は恵まれている」という、その後の人々に対する警告として用いたいと考えた。
……

 これが疑い深い者に対する主イエスの姿勢である。それでは、主イエスを心から信じて付き従う者に対し、主はどのような言葉を述べ、どのような業を行ったであろうか。次に、その言葉と業について、主イエスがペテロに対して述べた言葉を検討する。

 この対話のなかで、主イエスは繰り返し「ペテロよ、わたしを愛するか」と尋ねている。これは、主イエスが復活した後に、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような者に対して主イエスが求めた、比較的高い基準である。この質問は、ある種の調査であり、ある種の尋問であったが、それ以上に、ペテロのような者に対する要求であり、期待であった。イエスはこのような方法により、人々に自分自身を省みて「主イエスが人々に要求していることは何であろうか。私は主を愛しているか。私は神を愛する者であろうか。私はどのように神を愛するべきであろうか。」と自問自答させた。主イエスがこう質問したのはペテロだけであったが、神はその心の中で、神を愛することを追い求める更に多くの人々に、同様の質問を投げかけることを望んでいた。ペテロは、この種の人々の代表として、主イエスから直接この質問を受ける祝福にあずかったというだけのことである。

 主イエスがトマスに対して「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と復活後に述べたのに対し、ペテロに対しては3回「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか。」と尋ねている。この質問により、主イエスの厳格さと、主が質問した時の切迫性を、一層感じ取ることができる。狡猾で不正な性格のトマスの疑念について、主イエスはトマスを主の釘あとに触れさせることで、主イエスが復活した人の子であり、主イエスがキリストであることをトマスに確信させた。主イエスはトマスを厳しく非難することも、審判を明確に述べることもなかったが、イエスは実際の行動により、自分がトマスを理解していることをトマスに知らせつつ、この種の人々に対する主の姿勢と判断を示した。この種の人々に対する主イエスの要求は、主の言葉には見られない。これは、トマスのような人々には真の信仰が全く無いためである。こうした人々に対する主イエスの要求は真の信仰あるのみであるが、ペテロのような人々に対する啓示は全くこれと異なる。イエスは、ペテロに対して釘あとに触れるよう要求することも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言うこともなかった。そのかわりに、イエスはペテロに対し、同じ質問を繰り返した。これは、思考を刺激すると同時に、キリストに付き従う者すべてが自責の念にとらわれ、畏れを感じ、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じざるを得ないような、意味深い問いかけであった。そして、キリストに付き従う者たちは、大いなる痛みと苦しみに苛まれている時に、主イエス・キリストの懸念と労り一層深く理解することが出来るで、イエスの純粋で誠実な人々に対する熱心な教えと厳格な要求を認識する。主イエスの問いかけにより、人々はこうした簡潔な言葉により啓示された主の人々に対する期待は、主を信じ、付き従うことだけでなく、愛ある人間となり、主を愛し、神を愛することであることを感じることができる。この種の愛は、慈しみと服従である。それは人類が神のために生き、死に、全てを神の前に差し出し、尽くし、捧げることである。また、この種の愛により、神は慰めを得、自身に対する証を喜び、そして安息を得る。この種の愛は、人類の神に対する返報であり、責任であり、義務であり、本分であり、人類がその生涯を通して従うべき道である。この3回の問いかけは、ペテロをはじめとする完全な存在となる人々に対する主イエスの要求であり、警告であった。ペテロがその人生の道を完遂するよう導き、励ましたのは、この3回の問いかけであった。また、完全な存在となる道を歩み始めるようペテロを導いたのも、ペテロの主に対する愛ゆえに、主の心を労り、主に服従し、主に慰めを与え、この愛ゆえに自分の生涯と自分自身の全てを捧げるようペテロを導いたのも、主イエスが去る際の、この問いかけであった。

 恵みの時代では、神の業は専ら2種類の人々を対象とするものであった。その2種類の人々のうちの1つは、神を信じて付き従い、神の戒めを守り、十字架を負い、恵みの時代の道を守ることのできる人々であった。この種の人々は、神の祝福を得て、神の恵みを享受した。2つ目の種類の人々は、ペテロのように完全な存在となる人々であった。そうしたわけで、主イエスが復活した後、主は最初にこの2つの極めて有意義な業を行ったのである。そのうちの1つはトマスに対してであり、もう1つはペテロに対してであった。この2つの業は何を表しているであろうか。神が人間を救う真の旨を表しているであろうか。神の人間に対する誠実さを表しているであろうか。神がトマスに対して行った業は、疑うことなく、ひたむきに信じるよう人々に警告するためのものであった。主がペテロに対して行った業は、ペテロのような人々の信仰を強化し、この種の人々に対する要求を明確化し、この種の人々が目指すべき目標を示すためのものであった。

 主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。仮にあなたが当時のトマスやペテロであって、人生のなかでこのような極めて意義深い出来事に遭遇したとしたら、それはあなたにどのような影響を及ぼすであろうか。その出来事は、神を信じる生活において最も素晴らしい、至高のビジョンである、と認識するであろうか。人生において神に付き従い、神を満たすために努力し、神への愛を追求する上で励みになると認識するであろうか。この至高のビジョンを広めるため、一生涯をかけて努力するであろうか。主イエスの救いを広めることを、神から授けられた命令として受け入れるであろうか。あなたがたはこうした業を経験していないが、トマスとペテロの業の事例は、現代の人々にとって、神の旨と、神自身を明瞭に理解するに十分である。神が受肉して人間として人間の中で生活を経験し、人間の腐敗や人間生活の惨状を目の当たりにした後、受肉した神は、人間の絶望や悲しみ、哀れさを深く感じた。受肉して生活した際の人性と直感が原因となって、神は人間の惨状に対する憐れみを一層深めた。その結果として、神は、神に付き従う者に対する懸念を深めた。こうした事柄は理解できないかもしれないが、神に付き従う者全てに対する受肉した神の懸念と慈しみは、「極めて強い懸念」という表現で表わすことができるであろう。強い懸念という言葉は人間の言葉であり、極めて人間的な言葉ではあるが、神に付き従う者に対する神の気持ちを真に表現している。人間に対する神の強い懸念は、経験を重ねてゆくにつれて感じ取ることができるであろう。しかし、それを感じ取るには、あなたがた自身の性質の変化を追求することによって神の性質を徐々に理解することによるほかにない。主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。
       『言葉は肉において現れる』より


2019年4月13日土曜日

福音書|イースターと真の意味を知っていますか

   復活祭とは、復活の主日とも呼ばれ、主イエスが十字架につけられた三日後に起こった主の復活を祝う祭日です。その正確な時期は、毎年春分になってから最初の満月の後の最初の日曜日です。イエスの復活を記念し、イエスが人類にもたらされた救いと希望を思い起こすために、毎年三月から四月に世界中のキリスト教徒が復活祭の日にお祝いをします。私たちキリスト教徒はイエスの復活を記念しますが、それでは、すでに贖いの働きを終えられたのになぜ主は死人の中から蘇って人の前に出現されたのかを私たちは知っているでしょうか。そして、主の復活と人の前での出現の背後にはどのような意味があるのでしょうか。



           主イエスの復活と人の前での出現の意味 
神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)「主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。……主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

神の御言葉から私たちに分かるのは、主イエスが死人の中から蘇られてから弟子たちに何度も出現されたことには深い意味があり、その背後には神の惜しみない気づかいと思慮が隠れてもいるということです。当時主イエスに付き従った人々は主の教えを多く聞き、主がなされた多くの奇跡を見て、イエスが自分たちの主であり、神の子であると主張しましたが、イエスがキリストで神ご自身であることについては本当に理解しておらず、イエスはこのことをご存知でした。イエスがローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑されたとき、主に付き従った人々の多くは主の身分を疑い始め、主への信仰が段々弱まりました。特に主イエスが十字架に付けられて死んだとき、多くの人々は主に全く失望し、疑いとして始まったものが主イエスの否定に変わったのです。このような状況を背景として、もし主イエスが復活後に人の前に出現されなかったなら、主に付き従った人々の多くはもはやイエス・キリストを信じず、律法の時代に戻って旧約聖書の律法を守り続けたでしょう。しかし神は人の心の奥深くを見極め、人の弱さを理解しておられ、人々の霊的背丈が小さいことをご存知でした。主イエスはそれゆえに、死人の中から蘇り、何度も弟子たちの前に出現されたのです。主は弟子たちと語り、復活後のご自身の霊体を彼らに見せ、彼らと食事を共にし、聖書を解説されました。こうしたことをなさった目的は、主に付き従った人々が、主イエスは本当に死人の中から蘇られ、この方は人を愛し憐れみをかけてくださったイエスとやはり同じ人であり、受肉された神ご自身であり、聖書で預言された人類を贖うために来られるメシアであることを心の底から確信できるようにすることでした。彼らはもはや主イエスを疑いも否定もせず、それどころか誠実に主を信じ、イエス・キリストを自分たちの主と認めました。このことから私たちに分かるのは、イエスは復活なさり人々の前に出現されることによって、人々の信仰を強め、主を信じて従えるようになさったのであり、人間を神に近づけてくださったということです。これがイエスの復活の意味の一側面です。
これに加えて、イエスは肉となって現れて働き、律法の時代を完全に終わらせ、恵みの時代を始められました。受肉されたイエス・キリストは十字架にかけられましたが、罪と死を克服してサタンを破り、贖いの働きを成し遂げて栄光を得られたのであり、復活後の主イエスは人々にこの事実がはっきりと分かるようになさったのです。主イエスは新たな時代を開き、人類を旧約聖書の律法の時代から完全に脱却させ、恵みの時代にしっかりと定着させ、恵みの時代において神の導きと牧養と潤しを受けられるようになさいました。これにより、たとえイエスが復活して昇天なさり、もはや人と食事や生活を共にされることがなくなっても、人は今もイエスに祈り、御名を呼び、主の教えを守り、揺るがない信仰をもってイエスに付き従い、福音を広めることができるのです。特に、主イエスが復活なさり主に付き従った弟子たちの前に出現された後は、彼らの信仰は高まりました。主の福音を広め証しをすることに何の困難も危険も恐れず、不屈の忍耐力を持ち、福音を広めることに自らの全てを捧げ、主のために殉教さえしました。最終的には、イエスの福音は宇宙全体、世界中に広がり、主イエスに従う人の数は増え続け、やがてどの家庭の誰もが主の福音を耳にするまで万人に知れ渡ったのです。
主イエスは死人の中から蘇られた後、人々の前に出現し、彼らと接触して語りかけ、聖書を解説して親しく交わり、食事を共にするといったことをなさいました。これらの御業のおかげで、主イエスに付き従った人々は主の人への気づかいと思いやりを感じ、イエスがまさしく神ご自身で、受肉されたキリストであると確証することができ、神に従う人々は恵みの時代にしっかりと定着したのです。しかも、イエスの贖いの働きはその時から広まり始め、やがて宇宙全体、世界中に及びました。従って、イエスの復活と人類への出現の背後に深い意味があるのは明白です。なぜならこれらの御業には神の惜しみない気づかいと思慮だけでなく、神の知恵と全能性もこめられているからです。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスの復活の意味を理解し、主の働きの中に神の私たち人類への気づかいと思いやりを改めて感じることができるようにしてくださった神の啓きと導きに感謝しましょう。神に感謝!

2018年6月18日月曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉カード

【東方閃電】全能神は言われた。「大波もまた何世紀経っても相変わらずで、領地を広げるのを止めなかった。大波は何度も山へと押し寄せたが、山は全く不動のままであった。山は海を見守り、そのために海中の生物が増加し、繁栄した。大波と大きな山は互いに信頼し合い、制限し合い、頼り合っていた。」





私たちについて:全能神教会の紹介
世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しましょう

2018年6月17日日曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「キリストの本質は彼の働きと表現によって決定される」


Ⅰ キリストの本質は彼の働きと表現によって決定される キリストは真の心で 彼に委ねられた事を 成し遂げ 天の神を敬い 父なる神の意志をも 探し求めるのである これらは 全てキリストの 本質により決められる ものであり 彼の生まれ持った 啓示も 同じである 何故ならば 彼の表現は 模倣ではなく  長年に渡る 人間の教養や 教育から  来るものでは ないからである それらの事は 教えられたり 自己の経歴ではなく 生まれ持ったものである それらの事は 教えられたり 自己の経歴ではなく 生まれ持ったものである Ⅱ 人々は キリストの働き 表現や人間性 そして 普通の人間性を 持つキリストの 生涯をも 否定するかもしれない しかし天の 神を崇める 時のキリストの真の 心を 否定する事は 誰にも出来ないのだ キリストは 天の父の意志を 為し遂げる為に ここにいるのであり 父なる神を求める 誠実さを 否定する事は出来ない  彼の姿は 多くの人に  快い印象を 与えないかもしれない 彼の語り方は 多くの人を 驚かせるような 感じはないかもしれない 彼の働きは 人々が 想像の中で 信じている 天地を揺るがすような ものではないかもしれない 父の意志を 真の心と 完全なる服従と そして 命がけの従順さで 成し遂げるのが キリスト・・それがキリストなのだ 彼の本質はキリストの本質であり 信じ難いが確かに存在する真実なのである それは・・信じ難いが確かに存在する真実なのである  『言葉は肉において現れる』より




私たちについて:全能神教会の起源
更に多くの内容:「東方閃電」全能神教会はどうやって創られたでしょうか

2018年6月15日金曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉カード

【東方閃電】全能神は言われた。「強風は何世紀経っても相変わらず山に吹き付けていた。強風は、それ以前と同様に山の所へと「訪れる」時に大きな渦を巻く砂を吹き込んだ。強風は山を脅したが、山の中を割って吹くことは出来なかった。強風と大きな山は互いに信頼し合い、制限し合い、頼り合っていた。」






私たちについて:全能神教会の紹介
世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しましょう

2018年6月14日木曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「パリサイ人たちがイエスに反抗した理由の根拠」


Ⅰ あなたは何故パリサイ人たちが イエスに反抗したのか知りたいか? 彼らの本質が何であるのか知りたいか? 彼らはメシアへの幻想と メシアの到来を信じるだけで いのちの真理は求めていなかった 彼らは救い主を待っているが まだ真理やいのちの道を知らない Ⅱ これ程愚かで・・頑なで・・ 無知な 彼らが神の祝福を得られようか? メシアをその目で 見ることなどありえようか? 彼らがイエスに背いたのは イエスが彼らに語った 真理の道を知らなかったからだ 彼らはメシアまたは聖霊の働きを理解していなかったのだ 彼らはメシアを見たことも 一緒にいたこともないまま メシアの名に虚しい敬意を払い その一方で あらゆる手段を使って メシアの本質に抵抗した Ⅲ 不従順で・・頑なで・・傲慢な 彼らは 「あなたの説教は深遠で高い権威があるが もしメシアと呼ばれていないなら あなたはキリストではない」と信じていたが これらのことは嘲笑すべきたわ言であり 誇大妄想である 今・・神は問いかけている あなたはパリサイ人たちの過ちを繰り返すのではないか? イエス・キリストを理解していないのに 真理の道を見極められるのか? 聖霊の働きに ついて行くことができるのか? あなたはキリストに逆らわないと 保証できるのか? できないならいのちではなく死が間近に迫っているのだ 『言葉は肉において現れる』より




私たちについて:全能神教会の紹介
世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しましょう

2018年6月12日火曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉カード

【東方閃電】全能神は言われた。「強風は何世紀経っても相変わらず山に吹き付けていた。強風は、それ以前と同様に山の所へと「訪れる」時に大きな渦を巻く砂を吹き込んだ。強風は山を脅したが、山の中を割って吹くことは出来なかった。強風と大きな山は互いに信頼し合い、制限し合い、頼り合っていた。」




全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年6月11日月曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「神が人に授ける最高の祝福」


キリスト教讃美歌「神が人に授ける最高の祝福」 Ⅰ 神のことばの完成により 神の国が形成する 人が正常に戻るとともに 神の国がここにある 神の国の民は 正常な生活を取り戻し 今日は神の前に生き 明日は神の国で生きる 全地は喜びと温かい心で満ちる 神の国がこの地上にある 神の国がこの地上にある Ⅱ 凍える冬は 常春の世界となり 人は悲惨なめに遭うことも 凍えることもない 人の間に争いも 国の間に戦争もなく 殺りくや流血もない 明日は神の国で生きる 全地は喜びと温かい心で満ちる 神の国がこの地上にある 神の国がこの地上にある Ⅲ 神は世界を くまなく巡り その玉座から楽しむ 神は星の間に住み 天使は神のために歌い踊る 天使はもはや弱さのゆえに泣き叫ばない 天使は神のために歌い踊る 天使は神のために歌い踊る 神は天使の嘆きを決して聞くことはない 天使は神のために歌い踊る 天使は神のために歌い踊る Ⅳ 誰も労苦を訴えなくなる 今日は神の前に生き 明日は神の国で生きる これは神が人に与えた最高の祝福ではないか? 神の国の民は 正常な生活を取り戻し 今日は神の前に生き 明日は神の国で生きる 全地は喜びと温かい心で満ちる 神の国がこの地上にある 神の国がこの地上にある 『言葉は肉において現れる』より




私たちについて:全能神教会の紹介
世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しましょう

2018年6月10日日曜日

【東方閃電】全能神の発表「神の国の時代に神に選ばれし人々が従わなければならない行政命令10項目」


 1. 人は自分を大きく見せてはならないし、崇めてもいけない。人は神を崇め、賛美するべきである。

 2. あなたは神の働きのためになることは何でもするべきであり、神の働きに有害なことはしてはならない。あなたは神の名、神の証し、神の働きを守るべきである。

 3. 金銭、物質、神の家のすべての財産は、人が提供すべき捧げものである。これらの捧げものを享受するのは祭司と神だけである。人からの捧げものは神が享受するためのものであり、神はこれらの捧げものを祭司と分かち合うだけで、ほかの誰も、捧げもののいかなる部分であれ、享受する資格はないからである。人からの捧げものはすべて(金銭や物質的に享受できるものを含め)神に捧げられ、人には与えられない。そこで、これらのものを人は享受すべきではない。人が捧げものを享受するとしたら、その人は捧げものを盗んでいるのである。このようなことをする人は誰でもユダである。ユダは裏切り者であることに加えて、金袋に入っているものも勝手に使ったからである。

 4. 人の性質は堕落している。その上、人はさまざまな感情を持っている。そこで神に仕える時、男女が二人一緒に働くことは絶対に禁止されている。一緒に働いていることが見つかった者は誰でも除名され、例外はない―誰も免除されない。

 5. あなたは神を批判してはならないし、不用意に神に関連する事柄について話し合ってはならない。あなたは人がすべきことをし、話すべきことを話し、自分の限度を越えてはならないし、自分の境界を逸脱してはならない。口を慎み、自分の歩みに気をつけなさい。このすべてを守れば、あなたが神の性質を犯すことを防げるだろう。

 6. あなたは、人が行うべきことを行い、自分の責務を実行し、責任を果たし、本分を守るべきである。あなたは神を信じているので、神の働きに貢献するべきである。そうしなければ、あなたは神の言葉を飲食する資格がなく、神の家で暮らす資格もない。

 7. 教会の仕事や事柄に関し、あなたは神に従うことは別として、すべてのことで聖霊に用いられている人の指示に従うべきである。ほんのわずかな違反も受け入れられない。あなたは無条件に順守しなければならないし、正しいか間違っているか分析してはいけない。何が正しいか、間違っているかはあなたに関係ない。あなたは全面的に服従することだけに関心を持たなければならない。

 8. 神を信じる人々は神に従い、神を礼拝すべきである。どんな人物に対しても、あなたは崇めたり、仰ぎ見たりするべきではない。神を第1位と位置付け、仰ぎ見る人々を第2位とし、自分自身を第3位と位置付けることは、すべきではない。誰もあなたの心の中に場所を占めるべきではないし、あなたは人々を―とりわけあなたが崇拝する人々を―神と劣らないもの、神と同等なものと考えてはならない。これは神にとって耐えられないことである。

 9.あなたは教会の仕事を中心として考えるべきで、自分の肉体の見通しは脇にどけておき、家族の問題については決然とし、心から神の働きに専心し、神の働きを第1にし、自分自身の生活は第2にするべきである。これが聖徒の礼儀正しさである。

 10. 信仰のない家族(あなたの子供たち、夫または妻、姉妹または両親など)を無理に教会に行かせるべきではない。神の家はメンバーに不足はないし、役に立たない人々で数を作り出す必要もない。喜んで信じる人々でなければすべて教会に導きいれてはならない。この命令はすべての人々に向けられる。この件に関し、あなたたちはお互いにチェックし、観察し、気付かせるべきである。だれでもそれを犯してはいけない。信仰のない家族が嫌々教会に入る時でさえ、彼らに本を与えたり、新しい名前を与えたりしてはならない。そのような人々は神の家には属しておらず、必要ないかなる手段を用いても彼らが教会に入ることは止めなければならない。悪魔が侵入したために教会に問題が持ち込まれたら、あなた自身が除名されるか、またはいくつかの制約が課せられるだろう。要するに、誰もがこの件に関して責任があり、あなたは自分勝手なことをしてはならないし、個人的恨みを晴らすために使ってはならない。




[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年6月9日土曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉カード

【東方閃電】全能神は言われた。「小川は何世紀にもわたって山の麓を優しく撫でて流れ続けた。山が造った経路をたどり、小川は大河と合流し、故郷である海へと流れ込んだ。小川は、山の慈しみを受け、道を見失うことが無かった。小川と山は互いに信頼し合い、制限し合い、頼り合っていた。」




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2018年6月8日金曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「神を畏れる事によってのみ 悪を避ける事が出来る」


Ⅰ 神の性質は 威厳があり 怒りに満ちている  神は誰かに屠られる羊でも 操り人形でもなく 人々の言いなりになって動く 空気のような存在でもない あなたが 神の存在を信じるなら   神を畏れる心を 持つべきである  神の本質を 怒らせてはならない事を 知るべきである   神の怒りを 引き起こすものは 言葉や考え・・  教義や理論・・卑劣な行いである   そしてまた 道徳的には許される 些細な言動によっても生じる  しかしあなたがひとたび神の 怒りに触れれば あなたは救いの機会を失うだろう  そしてすぐに 終わりが訪れるだろう・・ これは実に恐ろしい事である もしもあなたが神に反する事は 許されないという事を 知らずにいたら あなたは神を畏れず 常に神に反するだろう・・ 神に反するだろう Ⅱ あなたが神を どのように 畏れたらよいのか 分からないなら 神を畏れる事は 決して出来ないだろう 神を畏れ 悪を避ける神の道に 従う事も出来ないだろう あなたが 神を怒らすべきではないと   ひとたび心に留めて 認識したなら   神を畏れ 悪を避けるという意味が 分かるだろう 神の本質を 怒らせてはならない事を 知るべきである 神の怒りを 引き起こすものは 言葉や考え・・  教義や理論・・卑劣な行いである   あなたが 神の存在を信じるなら 神を畏れる心を持つべきである 神の怒りを 引き起こすものは 言葉や考え・・  教義や理論・・卑劣な行いである   あなたが 神の存在を信じるなら 神を畏れる心を持つべきである 『言葉は肉において現れる』より




[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年6月6日水曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉カード

【東方閃電】全能神は言われた。「生けるもの、存在するものは、全て神の支配権の下にある。万物は、神が造った後に命を与えられている。それは神から与えられた命であり、その命は、その命のために神が定めた律法と道に従う。この律法と道を人間が変える必要は無く、人間による支援も不要である。神は、このようにして万物に与える。」





全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年6月5日火曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「創造主だけがこの人類にあわれみを持つ」


讃美歌「創造主だけがこの人類にあわれみを持つ」神がこの世を愛された Ⅰ 創造主だけが とめどない愛とあわれみの絆を 人と分かち合う 創造主だけが 創造主だけが 全ての創造物を慈しむ 神のひとつひとつの思いは いつもいつも人のため 神の喜怒哀楽は 人の生存と絡み合う 神の存在と性質の表れは人のため すべて人のために Ⅱ 神は心の奥底で 人の行いの全てを感じる 人の背きは 神の義憤と悲しみを呼び覚ます 悔い改める者は神の赦しを得て 神を喜ばせる 神は常に駆け巡り いつどこにでも存在する いつもいつも人のため 神は全ての感情と 命の全ての瞬間を捧げる そして神は無言のまま 命の全てを犠牲にする すべて人のために Ⅲ 神は自分の命を 不憫に思うことはなく 人を慈しむ 創造主はその手で 人という奇跡を形造った あわれみと寛大さを 無条件に授ける 報われるかなど考えもせず 人が神に見守られて生き続けることができるように そして彼らはいつの日か服従し 神こそが人を養う者であると認めるのだ 神こそがその者であると、、、 神は創造物の命を満たす すべての創造物の命を すべての創造物の命を 神のひとつひとつの思いは いつもいつも人のため 神の喜怒哀楽は 人の生存と絡み合う 神の存在と性質の表れは人のため すべて人のために すべて人のために 『言葉は肉において現れる』より



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2018年6月3日日曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉カード

【東方閃電】全能神は言われた。「神は、万物が相互に関連し、依存して存在することが出来るように、万物を支配する規則を決めているということを、人間は明確に理解する必要がある。神が造った物には、その全てに価値と意味がある。神が意味の無いものを造ったとしたら、神はそれを消滅させるであろう。これは、神が万物を与える際に用いる方法のひとつである。」





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2018年6月2日土曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「神は人の将来を嘆き悲しむ」


キリスト教会讃美歌「神は人の将来を嘆き悲しむ」 Ⅰ 数多く変転してきたこの広い世界で 歴史が始まるずっと前から 人を導く者は誰もいなかった 全てを支配する神以外は 人の必要を満たすため 苦労し備える君主はいない 人を輝く未来へ導き 不正から解き放つ者はなかった 神は人の将来を嘆き 堕落し引き返せない人のため どれだけ悲しむことか 人は神に背きその心を引き裂き 喜んでサタンの悪の道を行く 立ち止まり人類の行く末を見極める者はいない Ⅱ 立ち止まり神の怒りを感じるのは誰か そばに来て喜ばせるのは誰か その悲しみと痛みが解かる者はどこか 神の呼ぶ声を聞いても 恵・真理・見守りから それた道を人は歩み続ける 彼らは進んでサタンに身を売る 彼らは進んでサタンに身を売る Ⅲ 反抗的で神を退ける者に 神はどう対処するのだろうか 神の呼びかけと警告の後には 恐ろしく耐えがたい災いが来るだろう それは人の肉体と魂を罰する 神の計画を無にし声を無視する時 どんな怒りが蓄えられているか誰も知らない 初めて経験した怒り これは類なき災いである 最初であり最後である 神はたった一度の創世と救いを計画した 心で感じる者は誰もいない 人を救うための神の悲痛な愛と情熱を 『言葉は肉において現れる』より





[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年5月31日木曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉カード

【東方閃電】全能神は言われた。「神は、万物を支配する規則の主であり、神は万物の存続を律する規則を支配し、また神は宇宙や万物も、共生できるように支配する。神はそれらの物事が絶滅したり消滅したりしないよう、支配するので、人類は存続することが可能であり、そうした環境で神の主導のもとに生活できる。」



全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年5月30日水曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「あなたが神に心を開く時」



キリスト教讃美歌「あなたが神に心を開く時」神の愛を見た ミュージックビデオ

神の性質を知らず理解しないと
あなたが神に心開くことはできない
神を理解すれば
信仰で神の心を知り
又それを味わえるだろう
神の心を日ごとに味わえば
心は神に開くだろう
本当に神に心を開く時
本当に神に心を開く時
贅沢で利己的な願いを恥ずかしく思う
真に心を開けば
真に心を開けば
神の心に驚くべき無限の世界を見出す
神に心を開くと、闇、悪、欺きはなくなり
真実・信仰・光のみ残り 全てが義となる
神は愛である。神は思いやりがあり
無限の哀れみを持つお方である
人生、喜びに溢れるだろう
神の知恵・力・権威と愛が世に満ちる
あなたは神が何を持ち
どのような方であるか知ることができる
神が何に喜び、悩み、悲しみ、怒るのか知るだろう
あなたが神に心を開き、受け入れる時
『言葉は肉において現れる』より




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2018年5月29日火曜日

【東方閃電】全能神の発表「二十三番目の言葉」


 わたしの声が響き渡り、わたしの目が火を放ち、わたしは全地を見渡す。わたしは全宇宙を見ている。人間はみな、わたしに向かって祈り、仰ぎ見て、怒りを鎮めるよう懇願し、もう逆らわないと誓っている。しかし、今はもう昔ではない。これは今のことだ。誰がわたしの心を元に戻すことができるのか。人間の心の祈りではないし、また、彼らの唇から出る言葉でもない。わたしなしで、誰が今まで生き延びることができたろう。わたしの口からのことばなしに、誰が生き延びることができるのか。誰が、わたしの憤りの目の下に倒れ伏さないでいるのか。わたしが全地の上に新たな働きを行うとき、誰がそれから逃れることができただろう。山々は高いからといって、それを避ける事ができるのだろうか。水は膨大な広がりがあるからといって、それを避けることができるだろうか。わたしの計画では、けっして被造物を軽々しく手放しはしない。だから、一人の人間も、一つの被造物も、わたしの手を逃れたものはない。今日、わたしの聖い名が全人類の間に讃えられているが、また、わたしに対する抗議の声が、人々の中に起こっている。そして、わたしが地上にいるという伝説が、全人類の間で盛んに語られている。わたしは、人間がわたしについて裁くのを許さないし、また、彼らがわたしを分析することを許さない。まして、彼らがわたしについて悪口を言うことも許さない。人間はけっして真にわたしを知っていないので、わたしの霊を愛さず、わたしのことばを大切にすることもせず、人間は、いつも、わたしに逆らい、欺こうとしている。人間のすることなすことすべて、また、わたしに対する態度に対して、わたしは相応の「報い」を与える。そこで、人間はみな報い目当てに行動するが、自己犠牲を必要とする働きをする者は、一人もいない。人間は利他的献身をしたがらず、価なしに得られる報酬を喜ぶ。ペテロはわたしの前に自分をささげたが、それは、明日の報酬のためではなく、今日の知識のためなのである。人間は、けっしてわたしと真のつながりをもっていない。しかし、容易にわたしに認められようと、うわべだけ、わたしと関わろうとしたことが何度もある。そこで、わたしは人間の心の深奥を覗き込み、そこで、その最も深い奥底に、「多くの富の鉱脈」を見つけた。人間自身、その存在に気づいていないのだが、わたしは新たに見出したのだ。そこで、人間たちは「物証」を見つけて、はじめて、聖人ぶった卑下をやめ、手のひらを差し伸べて、自身の汚れた状態を認めるのだ。人間たちの中には新しく新鮮なもの、すべての人間が享受するべきものがあって、わたしが「引き出す」のを待っている。人間の無能力さゆえにわたしの働きをやめるどころか、わたしはもともとの計画のとおり、人間を修理し、保全することを続ける。人間は果樹のようなものだ。刈り込みや剪定なしでは、木は実をつけることができず、結局、地面に果実はひとつも落ちておらず、ひからびた枝と落ち葉しか見えないということになる。

 わたしは、わたしの国の「奥の部屋」を日々に装飾しているが、いきなりわたしの「作業場」に飛び込んできて仕事の邪魔をした者は、誰もいない。人間はみな、全力でわたしに協力しようとし、「お払い箱にされ」、「地位を失う」ことを恐れ、生の行き止まりに着くと、サタンの支配する「砂漠」に陥りさえするのだ。人間が恐れるので、わたしは毎日慰める。毎日、愛するように仕向け、さらに、日々の生活の中で指導する。人間はみな、生まれたての赤ん坊のようなものだ。ミルクを与えられなければ、すぐにこの地上を去り、二度と見られない。人間の嘆願の中、わたしは人間の世界に来る。すると、人間はただちに光の世界に生きるようになり、もはや彼らが天に向かって嘆願の声を上げていた「部屋」に閉じ込められてはいない。彼らはわたしを見ると、胸にたまっていた「苦情」をしつこく訴える。わたしの前で口を開き、食物を投げ入れてくれるよう、願う。しかし、その後、「恐怖が静まって落ち着く」と、もはやわたしから何も求めない。ぐっすりと眠るか、そうでなければ、わたしの実在を否定し、自分たちの用事をしに行ってしまう。人間の「放棄」のさまから、人間がわたしに対する「公平な裁き」を「感情」のかけらもなく行っているのは明らかである。だから、人間の不快な面を見て、わたしは黙って立ち去り、もはや、彼らがどんなに懇願しても、そうやすやすとは降りて来ない。人間がそれと知らないうちに、日ごとに問題が積もっていく。そこで、艱難辛苦の最中に突然、わたしの存在を見出す。「だめだ」と言われても承知せず、わたしの襟首を掴み、自分の家に客として引っ張り込む。しかし、わたしのために豪勢な料理を並べはしても、けっしてわたしを身内とは考えず、何かしらの助けを得るために、客人としてもてなすのだ。そこで、この時に、人間は突然自分の惨めな状態をわたしに示し、わたしの「署名」を得ようとし、事業に融資が必要な人物のように、全力で交渉にあたる。その人物の一挙手一投足から、その人物の意図がちらちらと見える──人間の表情の意味することや、言葉の裏の意味、あるいはどうやって人間の心の底を読み取るかなど、わたしにはわからないと思い込んでいるようだ。そこで人間は、これまでの経験・出来事を事細かに正確に内密で打ち明ける。その後で、わたしに要求を持ち出す。わたしは人間の行為の一つ一つを憎み嫌う。人間の中には、わたしの愛することをした者は一人もいない。人間たちは意図的にわたしを敵に回し、わざとわたしを憤らせているかのようだ。彼らはみな、わたしの前を意気揚々と歩き回り、わたしの目の前でやり放題をする。人間たちの中には、わたしのために生きている者は一人もいない。そのため、全人類の存在は無価値・無意味であり、だから、人間は虚無の中に生きているのだ。それでも、人間はまだ目覚めることを拒み、虚栄を張り、わたしに逆らい続ける。

 その経てきた試練の中で、人間は一度たりとわたしを満足させなかった。彼らの残酷な悪行のため、人間はわたしの名を証しようと思わない。そうではなくて、生存をわたしに頼りながら、反対側に走っているのだ。人間の心は、わたしに完全に向いていない。そこで、サタンが、人間の体が傷だらけで、すっかり汚物にまみれるほどに痛めつける。しかし、それでも人間は、自分がどれほど不快な存在であるか、気づかない。そうして、わたしの後ろでサタンを崇め続けているのだ。そのため、わたしは怒りをもって人間を底なしの淵に投げ入れ、けっして自分では脱出できないようにする。それでも、その哀れな嘆きの中、人間は心を改めようとはしない。惨めな最期に至るまでわたしに敵対しようとし、そうして、わざとわたしの憤りをかきたてようとしているのだ。人間のしたことに関しては、その行いに鑑み、罪人として扱い、わたしの温かい抱擁を与えない。そもそものはじめから、天使たちは、わたしに仕え、変わることなく、たゆみなく、わたしに従ってきた。しかし、人間はいつも正反対で、まるで、わたしから出たのではなく、サタンから生まれたかのようだ。それぞれの持ち場にいる天使たちはみな、最高の奉仕をする。サタンの力に動かされることなく、本分を果たすことにのみ努力する。天使に養育されて、無数のわたしの子らと民はみな強く健康になり、その一人も力弱く虚弱な者はいない。これがわたしの働きであり、わたしの奇跡である。わたしの国の始まりを祝う祝砲が鳴り響く中、天使たちは伴奏に合せてきびきびと歩き、わたしの壇の前に来て居並ぶ。彼らの心には不純物や偶像のけがれがないので、わたしに見られることを嫌がらないのだ。

 疾風のうなりとともに天は一瞬の内に降りてきて、すべての人類を窒息させ、もはやそうしたくとも、わたしに呼びかけることができないようにする。気がつかないうちに人間はみな倒れる。木々は風の中で激しく揺れ、時折、枝の折れる音が聞こえる。そして、しおれた木の葉はみな吹き飛ばされる。地上は突然、寒々と荒廃した感じになり、人々は互いにしがみつき、身構える。秋の後に訪れる災害がいつ襲い来るか、わからないからだ。丘の鳥たちはあちこち飛び回り、誰かに悲しみを訴えているかのようだ。山々の洞窟では、ライオンが、骨の髄までぞっとして髪がそば立つような声で吼える。まるで、凶兆がすぐ近くに迫った終わりの時を人間に告げているかのようだ。わたしが自分の定めた時に彼らを処理する時を待とうとせず、人間はみな、沈黙のうちに天の「支配者である主」に祈る。しかし、小川を流れる水の音が、どうして疾風を止められよう。どうして人間の祈りの声で突然に止められよう。人間が怯えているからといって、どうして雷鳴の中心にある憤怒を鎮められよう。人間は風の中でふらふらと揺れる。雨から身を守ろうと右往左往する。わたしの怒りの下、人間たちは、わたしの手が彼らに触れるのではないかと深く恐れて、震えおののく。まるでわたしがいつでも彼らの胸に突きつけられている銃口ででもあるかのように。また、わたしの敵なのに、それでもわたしの友であるかのように。人間はけっして、人間についてのわたしの真の意図を見出さなかったし、けっしてわたしの目的を理解しなかった。そこで、知らないうちにわたしを怒らせ、知らないうちに、わたしに敵対する。それでいて、それと知らずに、わたしの愛を見もしたのだ。わたしが憤怒しているとき、人間がわたしの顔を見るのは困難だ。わたしは怒りの黒い雲の中に隠れている。そして、立ち、雷鳴の中、全宇宙に人間への慈悲を送る。人間はわたしを知らないのだから、わたしの意図を理解しないからといって、わたしは人間を罰しはしない。人間の目には、わたしは時折憤りを表す。わたしは時には微笑む。しかし、人間がわたしを見るときにも、人間はあまりに無感覚で冷酷になっているので、けっしてわたしの全性質を見はしないし、いまだに、明るいクラリオンの音を聞くことができないのだ。まるで、わたしの姿が人間の記憶の中に、わたしの形が人間の考えの中に存在しているかのようだ。しかしながら、人類の進化を通じて、ほんとうにわたしを見た者は、ただのひとりもいなかった。なぜなら、人間の脳はあまりに貧弱だからだ。人間はわたしを大解剖しようとしたが、人類の科学はあまりに原始的で、今まで、人間の科学的研究は最終的な結果を生み出さなかった。そこで、「神の姿」という問題はずっと全くの空白で、誰一人埋められなかったし、世界記録を更新する者はいない。人間が現在の足場を保っているだけでも、不幸の中では、すでに計り知れない慰めなのだから。

1992年 3月23日



[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年5月27日日曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「神はいつも人を思いやる」


キリスト教讃美歌「神はいつも人を思いやる」神の愛は決してあなたの側を離れない
Ⅰ
神は創造物を日々見守り吟味する
謙り隠れて人の生活を味わい
全ての行いを見守る
誰が真理を追求したか
誰が自分を神に捧げたか
神を真摯に思い約束を守り
使命に従ったのは誰か
神を住まわせ命同様に貴んだのは誰か
神性の全てを見て
神自身に触れたいと願うのは誰か
神は人々が溺れそうな時救い
人生に行き詰った時引き上げ
再び生きる勇気とチャンスを与える
だから彼らは神を礎とする
従わない時はそれを機会に
彼らが神を知るようにする
Ⅱ
神は人の古い性質を見て憐れみ
悔い改め新しく始める機会を与える
最後の息がある限り
神は人を死から救う
何度神の差し伸べる手を見たか
何度神の目の優しさを見たか
何度神の笑顔を見たか
何度神の怒りや威厳をその目で見ただろう
人が神を知らずとも  神は人の弱さを悪用しない
人の苦難に同情し
背く時だけ懲らしめる
神は人々が溺れそうな時救い
人生に行き詰った時引き上げ
再び生きる勇気とチャンスを与える
だから彼らは神を礎とする
従わない時はそれを機会に
彼らが神を知るようにする
『言葉は肉において現れる』より




[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年5月25日金曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉カード

【東方閃電】全能神は言われた。「神が人間を神に親しい存在とみなしているかも知れないが、人間は神を友達や親戚のように扱ってはならないことを意味する。神を友達のように扱ってはならない。あなたが如何に多くの愛情を神から受けていたとしても、如何に多くの寛容さを与えられていたとしても、決して神を友達のように扱ってはならない。これが神の義なる性質である」





全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。