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2019年12月27日金曜日

[東方閃電]全能神教会 クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(3)受肉の奥義を明らかにする



主を信じる人々は皆、主イエスが神の受肉された姿であることを知っていますが、受肉の真理を本当に理解できている人はひとりもいません。聖書の預言では、主は再び肉体の姿となり、終わりの日に御言葉を表し、働きをなさる、とあります。受肉された神を知らなければ、私たちには主の再臨を歓迎する術がありません。そのため、神の受肉を知ることが主の再臨を歓迎するための鍵となります。では私たちはどうしたら受肉された神を知ることができるのでしょうか?

2019年12月13日金曜日

[東方閃電]全能神教会 聖書映画「敬虔の奥義:続編」抜粋シーン(2)神様の受肉を理解する



終わりの日において、神様は人類を救うために受肉されました。しかし、私たちが受肉の真理を理解しないが故に神様の受肉を普通の人とみなし、恵みの時代において神様が主イエスとして受肉され、その働きを行われた時の状況と同じように、神様に反抗し、非難する宗教界や権力者たちに従ってしまうほどに神様の声を聞けないばかりか、歓迎することすらできないようにこなってさえいます。従って、受肉の真理を理解することが、神様を知る上で重要な鍵となるのです。では、受肉とは一体なんでしょうか?また、その真髄とは何でしょうか?

2019年9月2日月曜日

[東方閃電]全能神教会 キリスト教映画「待つ」抜粋シーン(5)神の声を聞き分ける方法(1)




「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録 2:29)聖霊が教会に語りかけるのを聴いたことがありますか。 全能神の御言葉と主イエスの御言葉は、同じ霊、同じ源から発せられたものなのでしょうか? この動画クリップでそれが明らかになります!


[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2019年8月2日金曜日

クリスチャン映画「天国の民」日本語吹き替え



主イエスはこうおっしゃいました。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイによる福音書18:3)。主イエスは私たちに、正直な人だけが天国に入れる、正直な人だけが天国の民になれるとおっしゃいました。このムービーは程諾というクリスチャンが神様の働きを経験したストーリーと、人生において正直な人になることを追い求める過程を明らかにします。 程諾はかつて医者でした。彼女は神様を信じるようになったあとも、日常生活で自分の利益や体面を害することに出会うたび、いまだに嘘をついたり騙したりせずにはいられません。試練や艱難に遭遇したときなど、神様についての誤解を膨らませて不平を言いさえしますが、何度も真理を探し求めることで自分の不正直さ根源、また自己中心的で欺瞞に満ちたサタン的な本性についての認識を得ます。彼女は嘘をつきがちな自分の傾向と心の中の不正直さを解消するため、真理を追い求めることに集中し始めます。その後、本分を尽くしているさなかに中国共産党政府によって逮捕され、過酷な拷問に苦しむとき、彼女は嘘をつくくらいならむしろ死のうと決心して神様を否定することを拒みます。鳴り響くような美しい神様の証しをするのです。程諾は徐々に正直な人になり、真に神様を愛し、神様に従うことができるようになります。では、彼女のストーリーとはいったいどのようなものでしょうか。

2019年7月28日日曜日

絵画展:全能神の現れ、働きと全能神教会の歴史


主イエスは預言しました。「見よ、わたしは、すぐに来る」。(ヨハネの黙示録 22:7)「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」。(マタイによる福音書 24 : 27)「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17 : 24-25)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 2:7)今日、この主イエスの預言がすべて成就しました。神の現れを待ち望み、主イエスが雲に乗って来ることを願う大勢の人々が、神の声を聞き、神の御座の前に上げられました。1991年、世界の東方である中国で、人の子が語り始め、夜明け前の暗い夜の沈黙を打ち砕き、中国のさまざまなキリスト教宗派を揺り動かしました。人々は大いに喜び、騒ぎながら語り合い、主イエスが再臨し、神が語り始めたことを証ししたのです。わずか10年余りで、この人の子が発した言葉は中国本土に広まりました。それは、中国における全能神の現れと働きでした。全能神の現れと働きは中国全土に興奮を巻き起こしただけでなく、世界中を揺り動かしました。全能神が表した数百万の言葉は、インターネットで公開され、各国で閲覧できます。神の現れと働きを待ち望んでいた大勢の人々がその言葉を求め、学び始めています。また、専門家や学者も注目しています。2018年10月下旬、「全能神の現れと働き」と題する絵画展が韓国ソウルの全能神教会(CAG)で開催されました。世界で名をはせる多くの専門家や学者が研究のために来場しました。当教会のクリスチャンが訪問者に、全能神の言葉と働きを体験してからの気持ちや認識を説明しました。
もっと注目:

「万物の主権を握るお方」上映 観客はいのちの神秘に思いをめぐらす

2019年6月8日土曜日

聖書映画「敬虔の奥義:続編」抜粋シーン(6)主イエスは神の子であるか、それとも神自身か?



 聖書には、主イエスはキリストであり、神の子であることが明確に書かれています。しかし東方閃電は、受肉されたキリストは神様の出現であり、また神様ご自身であると証言しています。受肉されたキリストは神の子でしょうか?それとも、神様ご自身なのでしょうか?全能神が言われます。「『イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である』と…神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。『父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある』というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。」       福音書|(『言葉は肉において現れる』より)



2019年5月22日水曜日

キリスト教映画「敬虔の奥義」抜粋シーン(3)神の受肉の奥義



恵みの時代には、神は受肉して主イエスとなられ、主は人類を贖いに来られたが、ユダヤ教のパリサイ人は主イエスがただの人間だと言った。終わりの日には、神は受肉して全能神となられ、全能神は裁きの働きを行いに来られたが、宗教界の牧師と長老は全能神がただの人だという。それでは何が問題なのか?外からは、受肉の神はごく普通の人間に見える。しかしその内には神の霊が宿っている:真理を表し、神の声を発し神の働きを行う。では、受肉の神とは人なのか神なのか?

2019年4月13日土曜日

福音書|イースターと真の意味を知っていますか

   復活祭とは、復活の主日とも呼ばれ、主イエスが十字架につけられた三日後に起こった主の復活を祝う祭日です。その正確な時期は、毎年春分になってから最初の満月の後の最初の日曜日です。イエスの復活を記念し、イエスが人類にもたらされた救いと希望を思い起こすために、毎年三月から四月に世界中のキリスト教徒が復活祭の日にお祝いをします。私たちキリスト教徒はイエスの復活を記念しますが、それでは、すでに贖いの働きを終えられたのになぜ主は死人の中から蘇って人の前に出現されたのかを私たちは知っているでしょうか。そして、主の復活と人の前での出現の背後にはどのような意味があるのでしょうか。



           主イエスの復活と人の前での出現の意味 
神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)「主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。……主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

神の御言葉から私たちに分かるのは、主イエスが死人の中から蘇られてから弟子たちに何度も出現されたことには深い意味があり、その背後には神の惜しみない気づかいと思慮が隠れてもいるということです。当時主イエスに付き従った人々は主の教えを多く聞き、主がなされた多くの奇跡を見て、イエスが自分たちの主であり、神の子であると主張しましたが、イエスがキリストで神ご自身であることについては本当に理解しておらず、イエスはこのことをご存知でした。イエスがローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑されたとき、主に付き従った人々の多くは主の身分を疑い始め、主への信仰が段々弱まりました。特に主イエスが十字架に付けられて死んだとき、多くの人々は主に全く失望し、疑いとして始まったものが主イエスの否定に変わったのです。このような状況を背景として、もし主イエスが復活後に人の前に出現されなかったなら、主に付き従った人々の多くはもはやイエス・キリストを信じず、律法の時代に戻って旧約聖書の律法を守り続けたでしょう。しかし神は人の心の奥深くを見極め、人の弱さを理解しておられ、人々の霊的背丈が小さいことをご存知でした。主イエスはそれゆえに、死人の中から蘇り、何度も弟子たちの前に出現されたのです。主は弟子たちと語り、復活後のご自身の霊体を彼らに見せ、彼らと食事を共にし、聖書を解説されました。こうしたことをなさった目的は、主に付き従った人々が、主イエスは本当に死人の中から蘇られ、この方は人を愛し憐れみをかけてくださったイエスとやはり同じ人であり、受肉された神ご自身であり、聖書で預言された人類を贖うために来られるメシアであることを心の底から確信できるようにすることでした。彼らはもはや主イエスを疑いも否定もせず、それどころか誠実に主を信じ、イエス・キリストを自分たちの主と認めました。このことから私たちに分かるのは、イエスは復活なさり人々の前に出現されることによって、人々の信仰を強め、主を信じて従えるようになさったのであり、人間を神に近づけてくださったということです。これがイエスの復活の意味の一側面です。
これに加えて、イエスは肉となって現れて働き、律法の時代を完全に終わらせ、恵みの時代を始められました。受肉されたイエス・キリストは十字架にかけられましたが、罪と死を克服してサタンを破り、贖いの働きを成し遂げて栄光を得られたのであり、復活後の主イエスは人々にこの事実がはっきりと分かるようになさったのです。主イエスは新たな時代を開き、人類を旧約聖書の律法の時代から完全に脱却させ、恵みの時代にしっかりと定着させ、恵みの時代において神の導きと牧養と潤しを受けられるようになさいました。これにより、たとえイエスが復活して昇天なさり、もはや人と食事や生活を共にされることがなくなっても、人は今もイエスに祈り、御名を呼び、主の教えを守り、揺るがない信仰をもってイエスに付き従い、福音を広めることができるのです。特に、主イエスが復活なさり主に付き従った弟子たちの前に出現された後は、彼らの信仰は高まりました。主の福音を広め証しをすることに何の困難も危険も恐れず、不屈の忍耐力を持ち、福音を広めることに自らの全てを捧げ、主のために殉教さえしました。最終的には、イエスの福音は宇宙全体、世界中に広がり、主イエスに従う人の数は増え続け、やがてどの家庭の誰もが主の福音を耳にするまで万人に知れ渡ったのです。
主イエスは死人の中から蘇られた後、人々の前に出現し、彼らと接触して語りかけ、聖書を解説して親しく交わり、食事を共にするといったことをなさいました。これらの御業のおかげで、主イエスに付き従った人々は主の人への気づかいと思いやりを感じ、イエスがまさしく神ご自身で、受肉されたキリストであると確証することができ、神に従う人々は恵みの時代にしっかりと定着したのです。しかも、イエスの贖いの働きはその時から広まり始め、やがて宇宙全体、世界中に及びました。従って、イエスの復活と人類への出現の背後に深い意味があるのは明白です。なぜならこれらの御業には神の惜しみない気づかいと思慮だけでなく、神の知恵と全能性もこめられているからです。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスの復活の意味を理解し、主の働きの中に神の私たち人類への気づかいと思いやりを改めて感じることができるようにしてくださった神の啓きと導きに感謝しましょう。神に感謝!

2019年2月24日日曜日

朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「ぺテロはどのようにイエスを知るようになったか」



朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「ぺテロはどのようにイエスを知るようになったか」

ペテロはイエス様に付き従う間は、主の行いを認識しようともっとも重視しています。そうすると、神を究極に愛し、十字架に釘つけられるまで、証をしています。いくら外見を捨てるよりも、神の働きを経験し、そして神を認識することだけが、神を従う真の道であることがわかりました。

全能神は言われた「あなたがたは自分が歩く道について明確でなければならない。あなたがたがこれから歩く道について、神が完全にさせること、あなたが任されたことなどについても明確でなければならない。いつか、おそらくあなたがたが試されるとき、あなたがたがペテロの体験から霊感を得ることができるなら、あなたがたはペテロの道を歩こうとしていることを示している。ペテロは彼の真の信仰、愛、神への忠誠のために、神に褒められた、そしてそれは神が彼を完全にした彼の実直さ、彼の心の神へのあこがれであった。もしあなたが本当にペテロと同じ愛、信仰を持っているなら、イエスは必ずあなたを完全にしてくれるであろう。」
         『言葉は肉において現れる』より

2019年2月23日土曜日

キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする 日本語吹き替え



キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする 日本語吹き替え
終わりの日、主イエスの再来を待つキリスト教徒たちの間で緊張感が高まる中、実際に主はいかにして再来されるのかという疑問が出る。「雲に乗ってお見えになる」と言う者もいるが、それに対し、再来の預言が他にもあると指摘して異議を唱える声もある。「見よ、わたしは盗人のように来る」(黙示録
16:15)、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカ 17:25)、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイ25:6)もし主が誰にでも見えるように雲に乗って来られるなら、主が密かに現れ、苦しみ、捨てられるという奥義や、再来の証しをする者たちが出て来るという御言葉はどう説明できるのだろうか。主はどのような形でお姿を表されるのか。本作「主の到来の形」は、私たちの疑問にユーモラスに答えていく。

2019年2月16日土曜日

キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 日本語吹き替え





キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 日本語吹き替え
終わりの日、主イエスの再来を待つキリスト教徒たちの間で緊張感が高まる中、実際に主はいかにして再来されるのかという疑問が出る。「雲に乗ってお見えになる」と言う者もいるが、それに対し、再来の預言が他にもあると指摘して異議を唱える声もある。「見よ、わたしは盗人のように来る」(黙示録
16:15)、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカ 17:25)、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイ25:6)もし主が誰にでも見えるように雲に乗って来られるなら、主が密かに現れ、苦しみ、捨てられるという奥義や、再来の証しをする者たちが出て来るという御言葉はどう説明できるのだろうか。主はどのような形でお姿を表されるのか。本作「主の到来の形」は、私たちの疑問にユーモラスに答えていく。

2018年11月21日水曜日

全能神の発表「救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た」


 数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。同様に、イエスは再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。

 「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしのすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを顕示する義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

 終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行ったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを救済し、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを作った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行う。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終りの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖罪の働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行い、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行ってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行い、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から救われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度救うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行われるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。

2018年11月3日土曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 6」3


 これらの社会的動向は、あなたがたにとって今では分かりやすいものです。簡単で、人々にとって身近でよく見られる一般的な例を挙げました。これらの社会的動向は、人間に大きな影響を及ぼしますか。(はい。)これらの社会的動向は、人間に深刻な悪影響を及ぼしますか。(はい。)人々にとって、極めて深刻な悪影響です。サタンは、こうした社会的動向を次々と用いて、人間の何を堕落させますか。(良心、理知、人間性、倫理です。)他には。(人間の人生観です。)社会的動向は人間の漸進的退廃をもたらしますか。(はい。)サタンはこうした社会的動向を用いて、少しずつ人間を誘惑して悪の巣窟へと誘い、社会的動向に捕らわれた人間は、気付かぬうちに金銭や物欲、邪悪と暴力を擁護するようになります。ひとたびこうした物事が人間の心に入ると、人間はどうなりますか。人間は邪悪なサタンと化すのです。それは、人間の心のどのような心理的傾向に起因しますか。人間は何を擁護しますか。人間は邪悪と暴力を好むようになるのです。人間は美や善を嫌い、またそれ以上に平和を嫌います。人間は通常の人間性による質素な生活を送ろうとせず、高い地位や大きな富を得ることを望み、肉の享楽に耽溺し、自分の肉を際限も制約もなく満足させるために努力を惜しまず、すなわち自分の求めるあらゆる事を行います。それならば、人間がこうした動向に没頭した場合、取得した知識はあなたが自由になるのに役立ちますか。あなたが知る伝統文化や迷信は、この窮地を投げ捨てるのに役立ちますか。人間が把握している伝統的な倫理や儀式は、人間が自制する上で役立ちますか。例として、『三字経』を考えてみましょう。三字経は、人間がこうした社会動向の泥沼[b]から抜け出す上で、役立つことがありえますか。(ありえません。)このように、人間はますます邪悪で、傲慢で、尊大で、自己中心的で悪意に満ちてゆきます。人間同士の愛情も家族同士の愛情も無くなり、親戚や友人同士の理解も無くなり、人間関係は暴力に満ちたものとなっています。誰もが暴力的方法を使用して、他の人間のそばで生活することを望み、自分自身の生活を確保するために、暴力を使います。地位や利益を得るためにも暴力を用い、また暴力や邪悪な方法を用いてしたい放題です。このような人類は恐ろしいものではないですか。(その通りです。)今わたしが述べた事を聞いて、サタンが堕落させたこのような人々や世界、環境の中で暮らすのは恐ろしいと思いませんか。(思います。)それでは、あなたがたは自分達が哀れだと感じたことはあるでしょうか。今、少々そのように感じているはずです。(はい。)あなたがたの口調からすると、あなたがたは「サタンは実に様々な方法で人間を堕落させている。サタンはあらゆる機会を捉え、あらゆる所に存在する。それでも人間は救われることができるだろうか」と考えているようです。それでも人間は救われることができるでしょうか。人間は自分自身を救うことができるでしょうか。(できません。)玉皇大帝は人間を救うことができるでしょうか。孔子は人間を救うことができるでしょうか。觀世音菩薩は人間を救うことができるでしょう。(できません。)それでは、誰に人間を救うことができますか。(神様です。)しかし、一部の人々は心の中に疑問を抱いて、「サタンは人間を極めて激しく害しているので、わたしたちには生きていく希望も自信もない。人間は皆堕落のただ中で生活し、いずれにしても誰もが神を拒否している。今や、人間の心は落ち込めるところまで落ちてしまった。サタンが人間を堕落させている間、神はどこにいるのか。神は何をしているのか。神が人間のために何をしているとしても、人間にはそれを感じることができない」と思います。一部の人々はどうしても意気消沈し、ある程度落胆します。あなたがたにとって、この気持ちは極めて深いものです。なぜなら、わたしがずっと述べていることは、皆に徐々に理解させ、希望が無いことをますます強く感じさせ、神に見捨てられたとますます強く感じさせるためだからです。しかし、心配は無用です。今日の主題「サタンの邪悪さ」は、わたしたちの真の主題ではありません。とは言え、神の聖なる本質を議論するためには、まずサタンがどう人間を堕落させるのかやサタンの邪悪さについて議論し、人間が現在置かれている状況を明確にする必要があります。これらの事を議論する目的のひとつは、人間がサタンの邪悪さを理解することであり、もうひとつは、真の聖さとは何かを一層深く理解出来るようにすることです。

 わたしがここまで話した事は、前回よりもはるかに詳細なものですか。(はい。)それでは、あなたがたの認識は深まりましたか。(はい。)多くの人が今、神の聖さとは、正確には何なのかについて述べて欲しいと望んでいることは承知していますが、わたしが神の聖さについて述べる時、わたしはまず神の行なう業について話します。その後で神の聖さとは正確には何なのかをあなたがたに尋ねますので、注意して聞いてください。わたしは、あなたがたに直接述べず、あなたがたに自分で理解してもらいたいので、そのための余地を与えます。このやり方をどう思いますか。(良いと思います。)それでは注意して聞いてください。

 サタンが人間を堕落させるとき、あるいは留まることを知らない危害を加えるとき、神は何もせず傍観することも、神の選民を無視したり、見て見ぬふりをしたりすることもありません。サタンが行うことは、神にとって全て明瞭であり、神はその全てを理解しています。サタンが何をしても、サタンがどのような動向を引き起こしたとしても、神はサタンが何をしようとしているかを知っており、神はその選民を見捨てることは無いのです。神は、その代わりに、誰の気を引くこともなく、秘密裏に、静かに、必要なことすべてを行います。神が誰かに対して働き始める時、誰かを選ぶ時、神はそれを誰にも告げず、またサタンに告げることも無ければ、それを誇示することが無いのは、なおさらです。神は静かに、そして自然に必要なことを行うのみです。まず、神はあなたの家族を選びます。家族の背景はどのようなものか、あなたの両親や祖先は誰かといった事柄は、既に神により決定されています。つまり、そうした事柄は神が取り急ぎ決めたことではなく、遠い過去に始まった業です。神があなたの家族を選ぶと、神はあなたが生まれる日を選びます。今、神はあなたが産声を上げてこの世に生まれて来るのを、あなたの誕生を見、あなたが最初の言葉を口にするのを見、あなたが躓きながら歩くことを覚えるのを見ています。あなたは最初の一歩を踏み出し、その後もう一歩を踏み出し、今では走ったり、跳んだり、話をしたり、自分の感情を表現できます。こうして人間が成長するにつれて、サタンの眼差しは獲物を睨む虎のように、人間ひとりひとりに注がれています。しかし神は働く時、人間や出来事、物事、場所、時間の制限を受けることが一切無く、神が行うべきこと、行なわなくてはならないことを行います。成長過程において、人が自分が好まない物事や疾病、挫折に遭遇することがあります。しかし、その道を進む時、あなたのいのちと将来は、完全に神の慈しみのもとにあります。神は、人生全体にわたってあなたの傍らにあり、あなたを守り、見守るという真の保証をあなたに与えます。あなたは、それを知らずに育ちます。あなたは新たな物事に接し、この世の中と人間を知るようになります。あなたにとってすべてが新鮮です。あなたは自分のことや、好きなことをするのを好みます。あなたは自分の人間性と生活環境の中で生活し、神の存在については一切の認識をもちません。それでも神はあなたが成長し、前進してゆく過程のすべてを見ています。あなたが知識を習得したり、科学を学習したりしている時でさえ、神はあなたの側から一歩も離れることが無いのです。あなたは、他の人々と全く同様に、世界を知り、世界と接触するなかで、あなた自身の理想を確立し、趣味を持ち、興味の対象を持ち、高尚な大志を抱くようになります。あなたは、自分の将来について頻繁に思索し、自分の将来がどうなるかを思い描きます。しかし、その過程で何があったとしても、神は全てをはっきりと見ています。あなたは自分の過去について忘れたかもしれませんが、神以上にあなたを深く理解している者はありません。あなたは神の見守る中で生活し、成長し、成熟します。この間、神の最も重要事項は、誰も気付くことができず、誰も知らないことです。神がそれについて、あなたに伝えることは当然ありません。その最も重要な事とは何でしょうか。知っていますか。(人々を神の前に来させることです。)それでは、人々を神の前に来させるため、神は何をするのでしょうか。神は人々をいつ神の前に来させますか。知っていますか。それは神の主要事項ですか。それは神の行なう最も重要なことですか。それは、神がある人間を救うという保証であると言えます。つまり、神はその人を救うことを望むので、神はそれを行う必要があり、その務めは人間にとっても神にとっても極めて重要なのです。知っていますか。あなたがたは、このことについて実感や概念が全く無いようなので、わたしが話します。あなたが生まれた時から現在に至るまで、神はあなたに対して多くの働きを行なってきましたが、神が行ったことを全て詳しく伝えることはありません。神はあなたに知らせることはなく、あなたに伝えませんでした。しかし、人間にとって、神の行いは全て重要です。神にとって、それは行うべき事です。神の心中には、神がなすべきことで、それらよりも遙かに重要なことがあります。何でしょうか。それは、人間が生まれてから現在に至るまで、神は人間ひとりひとりの安全を保証する必要があるということです。これを聞いても、あなたがたは完全に理解できないと感じ、「その安全とは、それほど重要なものなのか」と言うかも知れません。「安全」という言葉の文字通りの意味は何ですか。あなたがたは、それを平安である、災害や災難に遭遇することが無いことである、良い生活を送ることである、普通に生活することであるなどと理解しているでしょう。しかし、安全とはそれほど単純なものではないということを、あなたがたの心中で知らなければなりません。それでは、わたしがこのように話している、神が行うべきこととは一体何でしょうか。安全は、神にとって何を意味するのでしょうか。本当にあなたがたの安全の保証のことでしょうか。ちょうど現在のように。いいえ。それでは、神が行なうことは何でしょうか。この安全とは、あなたがサタンにより食い尽くされない、ということなのです。これは重要ですか。あなたはサタンに食い尽くされていませんが、そうであれば、これはあなたの安全に関連するでしょうか。これはあなた個人の安全に関わり、それよりも重要な事はありません。サタンにより食い尽くされたなら、あなたの魂も肉も、もはや神に属しません。神はあなたをもはや救いません。神はそうした魂や人々を見捨てるのです。ですから、神が行うべき最も重要なことは、あなたの安全、あなたがサタンに食い尽くされないことを保証することだと言うのです。これは極めて重要ではありませんか。それでは、あなたがたはなぜ回答できないのですか。あなたがたは、神の大いなる優しさを感じることができないようですね。

 神は、人間の安全を保証すること、サタンに食い尽くされないことを保証すること以外にも、さらなることを行います。神は、誰かを選んで救う準備のために、数多くの働きを行います。まず、あなたはどのような性格か、どのような家庭に生まれるか、両親は誰か、兄弟姉妹は何名いるか、家庭の状況と経済的地位はどのようなものか、あなたの家庭状況はどうかなどは、神があなたのために、苦心して用意しました。あなたがたは、神の選民の大部分が、どのような家庭に生まれているかを知っています。名門の家庭でしょうか。そんな家も数件あるかも知れません。全くないとは断言できませんが、極めて少ないです。百万長者、あるいは億万長者など極めて裕福な家庭でしょうか。その種の家庭はまずほぼありません。それでは、神がそれらの人々のために用意するのは、どのような家庭でしょうか。(普通の家庭です。)それでは、普通の家庭とは、どのようなものですか。専ら労働者の家庭です。労働者は賃金に依存して生活し、基本的な必需品を購入することができます。労働者家庭は何があってもあなたを飢えさせることはありませんが、物質的必要性を全て満たすことは期待できません。また農家の家庭もあります。農家は作物の栽培に食糧を依存し、食糧として穀物があるので何があっても飢えることは無いですが、良い衣服はありません。また、事業や小規模商業を営む家庭や、両親が知能労働者である家庭などがあり、それらもまた普通の家庭と見なせます。また両親が事務職に従事する場合や、下級公務員である場合もあり、それらも名門とは見なすことはできません。多くの人々は普通の家庭に生まれ、それもまたすべて神が用意したことです。つまり、あなたの生活する環境は、あなたが想像するような資産家の家庭ではなく、神があなたのために決めた家庭であり、大部分の人々が、こうした家庭の制約範囲内で生活します。ここでは、例外は取り上げません。それでは、社会的地位はどうですか。ほとんどの場合、両親の経済状況は平均的であり、社会的地位は高くありません。彼らにとっては、職があるだけで十分です。長官はいるでしょうか。それでは総裁はいますか。(いません。)地位が高かったとしても、小企業の経営者や下位管理職にとどまり、社会的地位は中間で、経済状態は平均的です。もう一つの要素は家庭の生活環境です。まず、自分の子どもに影響を与えて易断や運勢判断などの道へ進ませる両親は極めて少ないか全くいません。大部分の両親は極めて普通であり、あなたがたに似ています。神は人間を選択すると同時に人間のためにこうした環境を用意しますが、それは神が人間を救う働きに大いに有益です。外面的には、神は人間のために何ら劇的なことをしていないように見えますが、神は全てを秘密裏かつ謙虚に、そして静かに行うからです。しかし実際には、神がすることは全て人間の救いのための基盤を築き、将来の道を用意し、救いに必要な全ての条件を用意するためのものです。神は、各人に指定された時間になると即時に人々を神の前に戻します。あなたが神の声を聞く時が来ると、それはあなたが神の前に行く時です。その時、ある者は既に人の親となり、ある者はまだ誰かの子のままです。換言すると、既に結婚して子をもうけた人もいれば、独身のままで自分の家庭を持っていない人もいます。しかし、人々の状況を問わず、神はあなたが選ばれる時期、神の福音と言葉があなたに届く時期を、既に決定しています。神は、あなたが神の言葉を聞くことができるよう、既に状況を設定し、あなたに福音をもたらす特定の人物や状況を決定しています。神は、あなたが知らないうちに神の前に来て神の家に戻るよう、必要とされる全ての条件を既に用意しています。また、あなたは知らないうちに神に付き従い、神があなたのために段階ごとに用意した、段階的な働きに入っていきます。神がこの時人間のために物事をおこなうのにはどのような方法があるのでしょうか。まず、神が最低限度として行うのは、人間が享受する慈悲と保護です。神は、人間が神の存在と神による業をそこに見出せるように、様々な人々や出来事、物事を用意します。たとえば、家族が病を患っているために神を信仰する人がいて、「家族が病気だが、いったいどうしたらよいのか」と言ったとします。誰かが「主イエスを信じよ」と言い、それゆえに神を信仰するようになります。その信仰は状況が原因となって生まれました。それでは、この状況を用意したのは、誰ですか。(神様です。)この病により、若い者も年老いた者も全員が信者である家庭が存在する一方で、信仰する者としない者がいる家庭も存在します。外見上は疾病のために神を信じるようになったけれど、実はその疾病は神の前へと行くように、あなたに与えられた条件であり、すなわちそれは神の優しさです。ある人々は、家庭生活が困難で平安を見出すことができないために、誰かが福音を伝える機会が訪れ、その誰かが「あなたの家庭には困難がある。主イエスを信じよ。主イエスを信じれば、平安が訪れる」と言います。その後、無意識のうちに、この人は極めて自然な状況下で神を信じるようになります。これは一種の条件ではありませんか。(その通りです。)それでは、その人の家庭に平安がないというのは、神がその人に与えた恵みではないですか。(その通りです。)それ以外の理由で神を信じるようになる人々もいます。信仰には様々な理由や在り方がありますが、神を信じるようになった理由がどのようなものであれ、実際には、それは全て神が用意し、導いたものなのです。最初、神は様々な方法であなたを選び、あなたを神の家に連れてきます。これが神があらゆる人に与える恵みです。



2018年10月12日金曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 5」4


 マタイ4:8~11)次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

 悪魔であるサタンは、それまで2度の謀略に失敗したにもかかわらず、もう一度試そうとする。サタンは世界の全ての国々とその繁栄ぶりを主イエスに見せた上で、悪魔を拝むよう求めた。こうした状況から、悪魔の真の特徴について、何が分かるであろうか。悪魔であるサタンは完全に無恥ではなかろうか。(無恥である。)サタンはどれほどまで無恥であろうか。すべて神により造られたものであるにもかかわらず、逆にサタンはそれを神に見せて「これらの国々の繁栄を見よ。私を拝むならば、これをみんな与えよう。」と述べた。これは立場が逆ではなかろうか。サタンは無恥ではないだろうか。神は全てを造ったが、それは神の享楽のためであっただろうか。神は人間に全てを与えたが、サタンはそれを全て奪った上で、「私を拝め。私を拝むならば、これをみんな与えよう。」と述べた。これが、サタンの醜悪な顔である。サタンは完全に無恥であろう、そうではないか。サタンは「恥」という言葉の意味すら知らず、これはサタンの邪悪さの一例にすぎない。サタンは「恥」が何であるかすら知らない。サタンは神が万物を造り、それを管理し、支配していることを明らかに知っている。すべての物事が神のものであり、人間のものではなく、ましてやサタンのものではないが、それにもかかわらず悪魔であるサタンは、厚かましくも、そのすべてを神に与えようと述べた。ここでも、サタンは不合理で無恥な業を行っていないだろうか。神は一層サタンを忌み嫌うであろう、そうではないか。しかし、サタンが何をしようとしても、主イエスはそれに屈することはなかったのではなかろうか。(なかった。)主イエスは何と言ったであろうか。(「主なるあなたの神を拝し」。)この言葉には実際的な意味があるだろうか。(ある。)その実際的な意味とは、どのようなものであろうか。サタンの発言からは、サタンの邪悪さと無恥さが分かる。したがって、人間がサタンを拝んだとしたら、どのような結果となるであろうか。全ての国々の富と栄光を与えられるであろうか。(与えられないであろう。)それでは、何を与えられるであろうか。人間はサタンと同様に無恥で滑稽な存在になるのではないか。(そうなるであろう。)そうした人間は、サタン同然となるであろう。したがって、主イエスは、人間ひとりひとりにとって重要な言葉「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と述べた。この言葉は、主すなわち神自身ではない、悪魔であるサタンを拝んだとしたら、サタンと同じ不浄の中を転げ回ることとなると述べている。サタンを拝むと、人間の無恥と邪悪はサタンと同じものとなり、サタン同様に神を試し、攻撃するようになるであろう。その結果、人間はどうなるであろうか。その人間は神に嫌悪され、打たれ、破壊されるのだろう。そうではないか。サタンが主イエスを何回か試し、失敗した後、サタンは再度試したであろうか。サタンは再度試さずにその場を去った。それは何を証明するであろうか。それはサタンの邪悪な本性、悪意、ばかばかしさと不条理さは、神の前で述べる価値が無いということを証明している。なぜなら、主イエスは僅か3つの文によりサタンを敗北させたからであり、その後サタンは顔を見せるのも憚られるほど恥らい、慌ててしっぽを巻き逃げ去り、二度と主を試さなかったからである。主イエスがこのサタンの誘惑を打ち破った後、主が必要な業を実施し、任務に取りかかるのが容易になった。この場面における主イエスのあらゆる言葉と業には、現在に当てはめた場合、人間全員にとって実際的な意義があるであろうか。(ある。)その実際的な意味とは、どのようなものであろうか。サタンを打ち破るのは容易なことであろうか。(容易ではない。)それでは、その意義は何であろうか。サタンの邪悪な本性に関し、人間は明瞭に理解する必要があるであろうか。サタンの誘惑に関し、人間は正確に理解する必要があるであろうか。(ある。)あなたが自分の人生でサタンの誘惑を経験し、サタンの邪悪な本性を見抜けるとしたら、あなたはそれを打ち破ることができるであろうか。サタンのばからしさと不条理さを知っているとしたら、それでもサタンと共に神を攻撃するであろうか。(しないだろう。)サタンの悪意と無恥さが、自分自身を通して明示されているのを理解し、明確に認識し、知っているとしたら、あなたはそれでもこのように神を攻撃し、試すであろうか。(そのようなことはしないだろう。)あなたはどうするであろうか。(サタンに反抗してサタンを捨てる。)それは容易なことであろうか。(容易ではない。)それは容易なことではなく、そのために人間は頻繁に祈り、神の前に出て、自分自身について常に検討する必要がある。人間は神の訓練と裁き、刑罰に従う必要があり、そうすることによって始めて、人間はサタンの領域と支配から次第に解放されることができる。

 サタンが述べた言葉から、サタンの本質を構成する物事を概括することができる。まず、サタンの本質は概して邪悪であり、それは神の聖さと対照を成す。わたしがサタンの本質が邪悪であると言う理由は何であろうか。それを知るためにはサタンの業の結果を検討する必要がある。サタンは人間を堕落させ、支配し、人間はサタンの腐敗した性質に従って行動し、サタンにより腐敗された世界で、腐敗した人々と共に生活する。多くの人々が無意識のうちにサタンにとりつかれ、吸収されているので、人間にはサタンの邪悪な本性がある。サタンの業と言葉の全てから、その傲慢さを知ることができ、狡猾さと邪悪さが理解できる。サタンの傲慢さは、主としてどのように示されるであろうか。サタンは常に神の地位を奪うことを望んでいるであろうか。サタンは、人々がサタンに従い、サタンを支持し、サタンを崇拝するよう、常に神の業と地位を崩壊させて自らがその座に就くことを望んでいるが、それがサタンの傲慢な本性である。しかし、サタンが人々を腐敗させる時、サタンは陰険で背信的な方法を採る。サタンが人間に業を行う場合、サタンは神を拒絶し、神に反逆する方法を直接的に人間に対して伝えない。サタンが神を試すとき、サタンは公然と「私はあなたを試し、攻撃する」と述べることは無いが、サタンはどのような方法を採るであろうか。(誘惑である。)サタンは誘惑し、試し、攻撃し、罠を仕掛け、さらには聖句を引用する。サタンは様々な言動と行動により邪悪な動機を実現させようとする。そうした言動や行動の後、人間に現れる事柄から分かることは何であろうか。人間は傲慢ではなかろうか。人間は数千年にわたってサタンの腐敗に苛まれてきたので、人間は傲慢になり、極めて高慢になり、狡猾で、邪悪で不合理になった、そうではないか。こうした物事は、全てサタンの本性によりもたらされたものである。サタンの本性は邪悪であるので、サタンは人間にこの邪悪な本性を与え、腐敗した邪悪な性質をもたらした。したがって、人間は腐敗した悪魔のような性質のなかで生活し、サタン同様に人間も神に反抗し、神を攻撃し、神を試し、その結果として神を拝まなくなり、心から神を敬うことが無くなった。そうではないだろうか。

 神の聖さに関しては、親しみ深い主題ではあるが、一部の人々にとっては多少抽象的となり、内容が多少深すぎるかも知れない。これまでは人々が神の聖さを取り扱うことが滅多に無かったので、人々はその聖さを理解できない。しかし、あなたがたが神の聖さを理解するのをわたしが助けるので、心配は無用である。これについて理解するのはあなたがたにとって多少困難であることは承知しているので、最初に話しておきたい。ある人物のことを知りたいと思った場合は、その者の行動や行動の結果を観察すれば、その人物の本質を理解できるであろう。したがって、ここではその観点から神の聖さを伝えることにする。サタンの本質は邪悪と悪意であり、現在まで、サタンの人間に対する行動は、人間を限りなく腐敗させることであったと述べた。サタンは邪悪であるので、サタンが腐敗させる人間もまた邪悪であろう。「サタンは邪悪であり、サタンが腐敗させる人間が聖なる存在ではないだろうか」と言う者はいるであろうか。それは冗談であることに相違ないであろう。そもそも、そのようなことがあり得るのだろうか。(有り得ない。)したがって、そのように考えてはならない。ここでは、サタンは邪悪であり、それが本質であり事実であり、それは空虚な話ではない、という側面から話をする。ここではサタンを中傷しようとしているのではなく、単に真理と現実と、それに関連する事実について話をする。こうすることにより一部の人々や一部のグループの人々が傷付く可能性もあるが、こうすることに悪意は無い。あなたがたは、今この話を聞くと多少不快になるかも知れないが、近い将来、あなたがたがこのことに気づいた時、自己嫌悪に陥り、本日話したことが極めて有用であり、貴重であると感じるであろう。

2018年10月8日月曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 5」3


 4.サタンの誘惑

 (マタイ4:1~4)さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

 これらの聖句は、悪魔が最初に主イエスを試そうとした時のものである。悪魔の発言内容はどのようなものであろうか。読み上げて欲しい。(「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。)悪魔の述べたことは至って簡潔であるが、この発言内容の趣旨には問題があるだろうか。(ある。)その問題は何であろうか。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と述べているが、悪魔は、主イエスが神の子であることを心の中で知っていたであろうか。悪魔は、彼がキリストであることを知っていたであろうか。(知っていた。)それではなぜ「もし」と述べたのであろうか。(悪魔は神を試そうとしたからである。)無論、悪魔は神を試そうとしていたが、その目的は何であっただろうか。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と述べている。悪魔は、心の中でイエス・キリストが神の子であることを知っており、それは極めて明瞭であったが、悪魔は主イエスに服従し、主イエスを礼拝したであろうか。(しなかった。)悪魔は何をしたかったのであろうか。悪魔はそのように述べて主イエスを怒らせ、罠にかけようと誘惑し、主イエスを騙し、自分の思うつぼにはめて行動させたいと考えていた。これがその言葉の意味ではなかっただろうか。悪魔は、心の中で、それが主イエス・キリストであることを明らかに知っていたにもかかわらず、そう述べたのであった。これはサタンの本性ではなかろうか。サタンの本性は、どのようなものであろうか。(悪賢く邪悪で神を全く敬わない。)サタンは、神を全く敬わない。この場面におけるサタンの邪悪な行動は、何であろうか。サタンは神を攻撃したかったのではなかろうか。サタンはそうした手段により神を攻撃したいと考えており、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」と述べたが、これはサタンの邪悪な意図ではなかろうか。(その通りである。)実のところ、サタンは何をしようとしていたのであろうか。サタンの目的は極めて明瞭である。サタンはそうした手段により、主イエス・キリストの地位と身分を否定しようとしていた。悪魔は「神の子なら、これらの石をパンにしてみよ。それが出来ないならば、おまえは神の子ではない。神の子でないならこの働きをする必要はない。」と述べている。これがその言葉の意味であっただろうか。サタンはこの方法で神を攻撃し、神の業を崩し、破壊することを望んでいた。それはサタンの悪意であり、狡猾さである。サタンの悪意は、サタンの本性が自然に表出されたものである。サタンは主イエス・キリストが神の子であり、受肉した神自身であることを知っていたにもかかわらず、こうした行動を取らずにはいられず、神をつけ回し、攻撃を続け、甚大な労力を払って神の業を妨害し、破壊して神と敵対した。

 ここで、サタンが述べた「これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」という言葉を分析する。石をパンにすることには、何か意味があるだろうか。それには意味が無い。食べ物があるならば、それを食べればよい。なぜ石を食べ物に変える必要があるのだろうか。これに何か意味があるだろうか。(無い。)この時、主イエスは断食していたが、間違いなく彼は食べ物を持っていたであろう。主イエスは食べ物を持っていたであろうか。(持っておられた。)それならば、ここでサタンがそう述べたのは、不合理であることが分かる。このようなサタンの不忠と悪意から、サタンがどれだけ矛盾していて不条理であるかが確認できるであろう。サタンは多くの業を行う。サタンの性質が悪意に満ちていること、そしてサタンが神の業を破壊することが分かる。サタンは憎むべきものであり、腹立たしいものである。しかしその一方、あなたはサタンの言葉と行動の根底にある稚拙で不合理な本性に気付くであろうか。(気付く。)これはサタンの本性の明示である。サタンの本性はそうしたものであり、サタンはそのような行動を取る。人間にとって、この言葉はばかげており、滑稽である。しかし、サタンはまさにそうした言葉を述べることがある。サタンは無知であると言えるであろうか。ばかげているだろうか。サタンの邪悪さは随所に見られ、継続的に明示されている。そして主イエスは、サタンに何と答えられているだろうか。(「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。)この言葉には、何かしらの力があるだろうか。(ある。)神の言葉に力があるというのは、何故だろうか。(それらは真理だからである。)その通りである。その神の言葉は真理である。それでは、人間はパンだけで生きるだろうか。主イエスは40日40夜断食した。主は飢え死にしたであろうか。(しなかった。)主は飢え死にしなかった。それ故、サタンが主に来て、主に対してそのような事を述べ、石を食べ物に変えるよう駆り立てた。「石を食べ物に換えれば、食べ物が得られるのではないか。そうすれば断食を止めて空腹になるのを防げるのではないか。」しかし、主イエスは「人はパンだけで生きるものではなく」、すなわち、人間は物理的な肉にあって生きるが、人間にいのちを与え、肉にある身体に息吹を与えるのは、食べ物ではなく、神が述べた言葉である、と答えた。一方で、人間はこの言葉を真理であるとみなす。この言葉は、人間に信仰を与え、神を頼れること、神が真理であることを実感させる。もう一方で、この言葉の実践的側面はあるだろうか。(ある。)それは何故だろうか。なぜなら、主イエスは40日40夜断食してなお、そこに立ち、生きていたからである。これは幻影であろうか。ここでの要点は、主は40日40夜、何も食べなかった。主はそれでも生きていた。これは、主の言葉の根底にある強力な根拠である。この言葉は簡潔であるが、主イエスに関する限り、主の言葉は、誰かから教えられたもの、あるいは単にサタンに言われた言葉が原因で主が考えられた言葉であっただろうか。それを考えて欲しい。神は真理である。神はいのちである。神の真理といのちは、後で追加されたものだろうか。それは経験から生まれたものであろうか。(そうではない。)それは神の本質的なものであり、真理といのちは神の本質の中に存在するものである。神に何があろうと、神が明示するのは、真理である。その内容の長短に関係なく、この真理、この言葉が、人間を生かし、いのちを与え、人間がその中に真理を見出し、人生の旅路の明瞭さを見出し、神を信仰することを可能とするのである。これが、神によるこの言葉の使用の源である。この源は良いものであるが、この良いものは聖なるものであろうか。(聖なるものである。)サタンの言葉は、サタンの本性に由来する。サタンはその邪悪な悪意に満ちた本性を、随所で継続的に明示する。それでは、サタンはこうした明示を自然に行うであろうか。(自然に行う。)誰かがそれを扇動するであろうか。誰かがそれを支援するであろうか。誰かがそれを強要するであろうか。(しない。)それは全てサタン自らが行うものである。これがサタンの邪悪な本性である。サタンは、神の業のすべてについて、その実施方法を問わず、ぴったりと神をつけ回している。サタンの言葉や行動の本質や真の特徴は、サタンの本質すなわち邪悪で悪意に満ちた本質である。それでは、その後サタンは何を述べたであろうか。続きを読もう。

 (マタイ4:5~6)それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。

 まず、サタンの言葉について話をしよう。サタンは「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。」と言い、次に聖句を引用して「神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう」と述べた。このサタンの言葉を聞いて、あなたはどのように感じるだろうか。この言葉は極めて幼稚ではなかろうか。この言葉は幼稚で、非常識で、忌まわしい。わたしがこう述べるのは何故であろうか。サタンは常に愚かなものごとを行い、自らを極めて賢いと考え、聖句を頻繁に引用し、さらには神の言葉までをも引用して、神を攻撃し、試そうとする。サタンのこうした行為の目的は、神の業の計画を破壊することである。しかし、あなたはサタンの言葉について何か気付くことはあるだろうか。(サタンの言葉には悪巧みがある。)サタンは常に誘惑する者であり、率直な発言をせず、試すこと、惑わすこと、誘惑することなどにより遠回しな口調で話す。サタンは神と人間の両方を等しく試す。サタンは、神と人間の両方ともが無知で、愚かで、物事をありのままで明確に見分けることが出来ないと考える。サタンは神も人間も、サタンの本質を見抜くことができず、サタンの狡猾さと邪悪な意図を見抜くことができないと考えている。これがサタンの愚かさの原因ではなかろうか。(その通りである。)さらに、サタンは公然と聖句を引用するが、サタンは聖句を引用することで、自らの信憑性が得られ、あなたが誤りを指摘したり、騙されるのを回避したりできなくなると考えている。サタンが不合理であり、稚拙な点は、こうした部分ではなかろうか。(その通りである。)これは、誰かが福音を伝え、神の証をした時に、信者以外の物がこうしたサタンの発言に類似したことを言うのと同様ではなかろうか。人々がこれと同様の発言をするのを聞いたことがあるだろうか。(ある。)こうした発言を聞いたとき、あなたは嫌悪を感じないだろうか。(感じる。)嫌悪感を覚えたとき、あなたは不快感や反感も覚えないであろうか。(覚える。)あなたがそのような感情を抱く時、あなたはサタンと、サタンが人間に付け入ろうとする腐敗した性質が邪悪であると認識できるであろうか。あなたは、心の中で「神はそのような話し方をされることは決して無い。サタンの言葉は攻撃し、誘惑するものであり、不合理であり、滑稽であり、稚拙であり、不快なものである。しかし、神の言葉や業において、神がこうした方法を採られることは決して無く、今までそのようなことは一度もなかった。」と気付いたことはあるだろうか。無論、こうした状況において人間は僅かに感じるのみであり、神の聖さに気付くことはない。人間は神の言葉が真理であると認めることしかできないが、真理そのものが聖さであることを知らない。あなたがたの現在の背丈では、単に「神の言葉は、全て真理であり、人間にとって有益であるから、受け容れるべきである」と感じるのみである。それを受け容れられるかどうかを問わず、あなたがたは、神の言葉は真理である、神は真理であると例外なく述べるが、真理自体が聖さであり、神が聖なる存在であることを知らない。そうしたわけで、イエスはサタンの言葉に、どう答えたであろうか。

 (マタイ4:7)イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。

 このイエスの言葉には真理があるであろうか。(ある。)この言葉には真理がある。この言葉は、表面的には、人間が従うべき命令であり、極めて簡明なもののように思われるが、この言葉は人間とサタンの両方が頻繁に破ってきた命令である。そこで、主イエスはサタンに対して「主なるあなたの神を試みてはならない」と言った。なぜなら、それはサタンが最大限の努力をもって頻繁に行うことであり、サタンは全く恥じることなくそれを行っているとも言えるからである。心の中で神を畏れず、敬わないことは、サタンの根本的な性質である。したがって、サタンが神の近くで神を見ることが出来た時、サタンは神を試さずにはいられなかった。それゆえに、主イエスはサタンに「主なるあなたの神を試みてはならない」と言った。これは、神が度々サタンに言った言葉である。現在においても、この言葉を用いるのは適切ではなかろうか。(適切である。)それは何故か。(人間も頻繁に神を試そうとするからである。)人間は頻繁に神を試そうとするが、それは何故であろうか。それは、人間がサタンの堕落した性質で満ちているからであろうか。(その通りである。)それでは、前述したサタンの言葉は、人間がしばしば言うことであろうか。(その通りである。)どのような状況で言うであろうか。人間は、時や場所を問わず、こうした言葉を述べ、自然に明示してきた、と言えるであろう。このことにより、人間の性質が、まさにサタンの腐敗した性質と同じであることが証明される。主イエスは、簡明で、真理を示す、人間に必要な言葉を述べた。しかし、この場合に主イエスはサタンと言い争っているだろうか。主のサタンに対する言葉には、何かしら対抗的な部分があるだろうか。(無い。)主は、その心において、サタンの誘惑をどのように考えただろうか。主は嫌悪し、反感を覚えただろうか。(その通りである。)主イエスは反感と嫌悪を覚えたが、サタンと争うことはなく、ましてや遠大な原則について何ら述べることは無かった。そうではないか。(その通りである。)それは何故であろうか。(主イエスはサタンを認めることを望まなかったからである。)主がサタンを認めることを望まなかったのは、何故であろうか。(サタンは常にそのような存在であり、それは変わり得ないからである。)サタンは不条理であると言えるであろうか。(そう言える。)サタンは神が真理であると認識できるのだろうか。サタンは決して神が真理であると認識したり認めたりすることはない。それがサタンの本性である。さらに、サタンには、そのほかにも人間が反感を抱く本性があるが、それは何であろうか。主イエスを試そうとした時、サタンは心の中で何を信じていたであろうか。サタンは、神を試し、たとえそれに失敗するとしても、神を試した。サタンは、たとえ罰を受けるとしても、神を試した。神を試しても何ら良い結果が得られないにもかかわらず、サタンは神を試し、しつこく最後まで神に対抗した。こうした本性は、どのようなものであろうか。それは邪悪ではないだろうか。(その通りである。)神について述べられる時に激怒する者は、神を見たことがあるであろうか。神について述べられる時に怒る者は、神を知っているであろうか。その者は神を知らず、神を信仰せず、神はその者に語ったことが無い。神はその者の邪魔をしたことがないのに、何故その者は怒っているのであろうか。その者は邪悪であると言えるであろうか。(言える。)この者は、本性が邪悪な者であろうか。娯楽、食事、有名人、美しい人々など、世の中で何が流行しているとしても、その者はそうした流行に煩わされることは無いが、「神」という言葉がひとたび述べられると、途端にその者は立腹する。これは邪悪な本性の例ではなかろうか。こうしたことにより、人間の邪悪な本性が十分に証明される。それでは、あなたがたについて尋ねるが、真理が述べられた時、神の人間に対する試練が行われた時、あるいは神の審判の言葉が人間に対して述べられた時、あなたがたが不快感や拒絶感を覚え、それを聞きたくないと思ったことがあるであろうか。あなたがたの心は、その真理とはどのようなものだろうか、人々は皆、神が真理であると言ったではないか、それは真理では無く、神の人間に対する忠告の言葉に過ぎないことは明らかだ、などと考えるであろう。さらには、嫌悪感を覚えて、これは日常的に起こることだ、神の試練も神の裁き同様、日常的に述べられている、何時それらが終わる時が来るのか、何時になったら良い終着点を得ることが出来るのだろう、などと思う者もいる。こうした不合理な怒りの原因は不明である。こうした本性は、どのようなものであろうか。(邪悪な本性である。)その本性はサタンの邪悪な本性により助長される。サタンの邪悪な本性と人間の腐敗した性質について、神が人間に異議を唱えたり言い争ったりすることは一切無く、人間が無知な行いをしても、騒ぎ立てることは一切無い。あなたがたは、神が人間と同様の見方をしたり、神が人間の見方、知識、科学、哲学、想像により物事に対処したりするのを見受けることは無いであろう。神の業や神が明示する物事は、すべてそうした人間の物事ではなく、真理と関連している。つまり、神が述べた言葉や行った業は、すべて真理に関連する。この真理は事実無根の幻想ではなく、この真理と言葉は、神の本質といのちにより表出される。こうした言葉や神が行った業の本質は、真理であり、したがって神の本質は聖なるものであると言える。換言すると、神の言葉や業は、すべて人間に生命力と光をもたらし、人間が良いものとそうした良い物の現実性を理解することを可能とし、人類が正しい道を進むように、人類を光の道へと導く。こうした事柄は、神の本質と神の聖なる本質により判断される。あなたがたはそのことを理解したであろう。引き続き聖句を読む。

2018年3月10日土曜日

【東方閃電】全能神の発表「宗教奉仕を取り締まるべきである」



全宇宙に於いて神が働き始めた最初から、神はあらゆる地位、職業の人たちを含めて、神に仕える多くの人たちを前もって選んだ。神の目的は自分の心を達成し、地上での働きが実を結ぶよう確証することである。神に仕える人々を選ぶにあたって、これが神の目的である。神に仕える人はすべて神の心を理解しなければならない。神の働きを通して、人々は神の知恵と神の全能をよく知ることができ、また地上での神の働きの原則をよく見ることができる。神は実際に働くため、また彼らが神の行いをもっとはっきり見ることができるように、地上に来て人々と接触する。今日、実際の神に仕えるのはあなたがたにとって名誉なことである。あなたがたにとって、これは素晴らしい祝福である。神はまことにあなたがたを高い地位につけようとしている。神に仕える人を選ぶ時、神はいつも自分の原則を持っている。神に仕えることは人々が想像するように、ただ熱心であるかどうかの問題ではない。あなたがたも知っているように、神の導きと聖霊の働きにより、人は今日神の前に神に仕えることができる。それはその人が真理を追い求めているからである。これらは神に仕える人の最低条件である。
神に仕えることは簡単なことではない。堕落した性質が変えられていない者は決して神に仕えることはできない。もしあなたの性質が神の言葉によって裁かれておらず、罰せられていないなら、あなたの性質は依然としてサタンを表している。これは、あなたの神への奉仕が自分自身の善意から出ているということの証明だ。あなたの奉仕は、あなたのサタンの性質に基づいた奉仕である。あなたは本来持っている性質と自分の好みによって、神に仕えているのである。またそれ以上に、あなたが好きなものは何でも神は愛され、あなたが嫌いなものは何でも神は憎まれると思い込み、そうしてあなたの働きはひたすら自分の好みによってなされていく。これで神に仕えていると言えるだろうか。結局のところ、あなたのいのちの性質はみじんも変えられていない。実際、あなたは神に仕えてきたことで更に頑固になり、あなたの堕落した性質が深く根差すことになる。あなたは神に仕える規定を持つようになる。それは正にあなたがた自身の性質から出たもので、あなたの性質に従って神に仕えた経験を基盤としている。これが人間の経験であり学び方である。それは人の人生哲学である。このような人々はパリサイ人や宗教家である。もし彼らが目を覚まし、悔い改めなければ、究極的には彼らは終わりの日に現れる偽キリストになってしまうだろう。彼らは惑わすものたちである。偽キリストや惑わす者たちとはこのような人たちから生まれるであろう。神に仕えようとする人たちが自身の性質のまま、自分たちの意思通りに行動するなら、神に見捨てられる危険が絶えず付いて回る。長年神に仕えた経験を利用して人々の心を誘惑し、人々に説教し支配し、自らを高める人々―決して悔い改めることもなく、罪を告白することもなく、自分の立場を利用し続ける人たち―そのような人たちは神の前で倒れるだろう。彼らはパウロと同じ種類の人々で、うぬぼれていて、自分たちの地位や経歴を自慢している。神はこのような人々を完全にすることはないだろう。この種の奉仕は神の働きを妨げる。人々は古い物にしがみつきたがる。過去の考え方、過去の物にしがみつきたがる。これは奉仕の大きな障害となる。そのような物事を捨てることが出来なければ、あなたの一生は、そのような物事に抑圧されることになる。神は少しもあなたを褒めることはないだろう。あなたがどんなに身を粉にして、骨を折って一生懸命働いたとしても、神の「奉仕」で殉教死までしたとしても。それどころか、神はあなたを、悪を行う者と呼ぶだろう。
今後、神は宗教的観念が無く、古い自分を捨てる用意ができていて、従順に神に従う人たちを正式に完全にする。神は言葉を慕う人たちを完全にする。そのような人たちは立ち上がり、神に仕えるべきである。神には、底知れない豊かさと計り知れない知恵がある。神の驚くべき働きや尊い言葉はもっと多くの人たちが享受するためにある。これらの新しいことは宗教観念を持った人たちや、当然のように優越感を持つ人たちや、古い自分を捨てることができない人たちによっては受け入れられない。聖霊がこのような人たちを完全にする機会はない。従う意思もなく、神の言葉に飢え渇いてもいないなら、彼らは新しいことを受け入れることはできないだろう。彼らは更に反抗的になり、更にずる賢くなるだけで、間違った道を歩むことになるだろう。神は今の働きの中で、自分を真に愛する人たちや、新しい光を受け入れることができる人たちを更に立てる。そして、神は自分たちの地位や立場を自慢する宗教家たちを完全に排除する。神は変化を拒絶する人を一人として求めてはいない。あなたはそのような人たちの一人になりたいか。あなたは自分の望み通りの奉仕をしたいと思っているだろうか。それとも神が望んでいることをしたいと思っているだろうか。この事は必ず知っていなくてはならない。あなたは宗教家の一人だろうか。それとも神によって完全にされる生まれたばかりの赤ん坊だろうか。あなたの奉仕のうちどれぐらい聖霊によって賞賛されるものがあるか。そのうち神が覚えてすらいないのはどれぐらいあるだろうか。何年も神に仕えて、あなた自身のいのちにどのくらい違いをもたらしただろうか。これらのことがはっきり分かるだろうか。もしあなたに本当に信仰があるなら、あなたは古い宗教観念を捨て、新しい方法で神によりよく仕えるだろう。もしあなたが今立ち上がるなら、決して遅くはない。古い宗教観念は人の一生を葬り去る。人が積む経験は、人を神から遠ざかり、自分のやり方で行動するようになってしまう。これらのことを手放さなければ、あなたのいのちの成長を妨げるだろう。神は常に自分に仕える人たちを完全にしてきた。神は彼らを簡単に見捨てたりはしない。もしあなたが神の言葉の裁きと刑罰を心から受け入れ、古い宗教行事や規定をわきに置き、古い宗教観念を持って神の言葉を測ることをやめるなら、あなたには将来が残されている。しかし、あなたが古いものに固執し大切にするなら、あなたは救われることはない。神はそのような人たちには注目しない。もしあなたが本当に完全にされたいなら、前からのもの全てを完全に捨てるよう決心しなければならない。たとえ以前行ったことが正しかったとしても、たとえそれが神の働きだったとしても、それをわきに置き、決してそれに固執してはいけない。たとえそれが明らかに聖霊の働きで、直接聖霊がなしたことでも、あなたはそれをわきに置かなくてはならない。あなたはそれにしがみついていてはならない。これは神が命じることである。すべてのものが刷新されなければならない。神の働きと神の言葉に於いて、神は以前あった古いものに言及していないし、歴史を掘り返すようなことはしない。神は常に新しく、決して古くはない。神は昔の自身の言葉にさえ固執してはいない。これは神がいかなる規定にも従わないことを示している。もはや神は従前のようには働きを行っていないにも関わらず、あなたが常に過去の物事に固執し、過去の物事を規定のように厳密に適用している場合、人間としてのあなたの言動は、妨害ではないだろうか。あなたは神の敵になってしまったのではないだろうか。あなたは古いもののために全人生を喜んで無駄にしたいと思っているのか。これらの古いものはあなたを神の働きの妨げにしてしまう。そんな人になりたいと思っているのだろうか。もしあなたが心からそんな人にはなりたくないと思っているなら、あなたがしている事をすぐに止め、向き直ってまた最初から始めなさい。神は昔のことは記憶にとどめないのだから。


[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。




2018年3月7日水曜日

【東方閃電】全能神の発表「信者はどんな見解を持つべきか」

人が初めて神を信じてから、受け取った物は何だろうか。あなたは神について何を知っただろうか。神を信じて、あなたはどれほど変わっただろうか。今、あなたがたは皆、神を信ずることは、ただ単に魂の救いや、肉の幸福のためでもなく、神の愛を通してあなたがたの人生が豊かになることなどでもないと分かっている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的快楽のために神を愛するなら、たとえ最後にあなたの神に対する愛が頂点に達し、あなたが何も求めないにしても、このあなたが求める「愛」は依然として汚れた愛であり、神には喜ばれない。自分たちのつまらない人生を豊かにするために神を愛したり、心にぽっかりあいた穴を埋めたりするために神を愛する人たちは楽な生き方を求める人たちで、神を本当に愛することを求める人たちではない。このような愛は人の意志に反し、感情的快楽を追求しており、神はこの種の愛を必要とはしない。では、あなたの愛とはどのようなものだろうか。あなたは何のために神を愛するのか。今あなたはどのくらい神に対して真の愛を持っているのか。あなたがたのほとんどが持っている愛については先に述べた通りだ。この種の愛は現状維持のままでしかない。それは永久的不変性を得ることも、人に定着することもあり得ない。この種の愛は花が咲いた後も実がならず、しぼんでしまう花のようである。すなわち、そのように神を一旦愛した後、誰もその道を導いてくれないと、あなたは倒れてしまうだろう。もし神を愛する時代に神を愛するだけで、その後のあなたのいのちの性質に何の変化も起こさないなら、あなたは引き続き暗闇の力に覆われ、逃れることもできず、サタンに操られ騙されることから解放されることはあり得ないだろう。そのような人は完全に神に得られることはできない。最終的には、彼らの霊、魂、体は依然としてサタンに属していることになる。これに議論の余地はない。完全に神に得られることができない人たちはすべて彼らの本来の場所に戻る。つまり、サタンの所に戻り、神からの次の段階の懲罰を受けるため、火と硫黄との燃える池に落ちるだろう。神に得られる人たちとは、サタンに逆らい、サタンの支配下から逃れる人たちのことである。そのような人たちは正式に神の国の民の中に数えられる。神の国の民はこのようになるのである。あなたはこの種の人になりたいだろうか。あなたは神に得られたいだろうか。サタンの支配下から逃れ、神の元に進んで戻りたいだろうか。あなたは今サタンに属しているだろうか、それとも神の国の民の中に数えられているだろうか。そのようなことは全て明白であるべきで、これ以上説明の必要はない。
かつて、多くの人たちは野心や観念、そして自分たちの希望のために追求した。これらの事を今ここで議論はしない。あなたがた一人一人が神の前で正常な状態を維持することができ、サタンの支配の足かせから次第に自由になることができる実践方法を見つけることが鍵である。そうすれば、あなたは神に得られ、神があなたがたに願っている通りの生き方ができる。これこそ神の願いが成就できる唯一の方法である。多くの人たちは神を信じているが、神が願っていることは何で、サタンが望んでいることは何かを知らない。彼らはばかげた信じ方をし、盲目的に周りの人間について行き、クリスチャンとしてのまともな生活を送ったことがない。彼らは正常な人間関係を持つこともなく、神と正常な関係を持つことなど無論なかった。このことから、私たちは人間の問題や欠陥、神の心を邪魔する要因がたくさんあることが分かる。これは人が正しい軌道に乗っておらず、本当の人生を経験していないことを証明するのに十分である。それでは正しい軌道に乗るとはどういうことだろうか。正しい軌道に乗るとはあなたが神の前でいつも心を静め、神と正常に交わり、自分には何が欠けているか次第に知るようになり、次第に神についてもっと深い認識を得ることである。これにより、あなたの霊は日ごとに新たに目が開かれ、導きと示しを与えられるだろう。あなたは更に切望し、真理に入ることを求めるようになる。毎日新しい光と新しい認識が存在する。この道を通して、あなたは次第にサタンの支配から自由になり、あなたは霊的に大きく成長する。このような人こそ正しい軌道に乗った人である。あなたの実体験を評価し、上記に述べたことに照らし合わせて、神の信仰においてあなたが取った道を考察しなさい。あなたは正しい軌道の乗っている人だろうか。どんな事において、あなたはサタンの足かせとサタンの支配から自由になったのだろうか。もしあなたがまだ正しい軌道に自分自身を乗せていないなら、あなたとサタンのつながりを切断していない。そうであれば、神への愛を追求することは、本物で、献身的で純粋な愛が結果として得られるだろうか。あなたの神への愛はゆるぎなく心から出ているとあなたは言うが、あなたはまだサタンの足かせから自由になっていない。あなたは神をからかっているのではないか。もしあなたが神への純粋な愛を手に入れ、完全に神に得られ、神の国の民の中に数えられたいなら、あなたはまず最初に自分自身を正しい軌道に乗せなければならない。

私たちについて:全能神教会の紹介
もっと知る:[東方閃電]全能神教会はどうやって創られたでしょうか

2018年2月20日火曜日

【東方閃電】全能神の発表「肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない」



今日は、あなたがた自身が生き残るために、わたしの働きが順調に進み、全宇宙にわたるわたしの幕開けの働きがより適切に、また完全に実現するように、すべての国家の人々に対するわたしの言葉、権威、威厳、裁きを明らかにし、あなたがたに警告を与える。あなたがたの間でわたしが実行する働きは、わたしの全宇宙にわたる働きの始まりである。今はすでに終わりの日であるが、「終わりの日」は時代の名前であり、この言葉は律法の時代や恵みの時代とまったく同じように時代を意味し、最後の数年間や数カ月ではなく、時代全体を表すことを知りなさい。ただし、終わりの日は、恵みの時代や律法の時代とはまったく異なる。終わりの日の働きはイスラエルで実行されるのではなく、異邦人の間で実行される。それはわたしの玉座の前でのイスラエル以外の全ての国々と人々に対する征服であり、これにより全宇宙にわたるわたしの栄光が宇宙全体に満ちるのである。これは、それによりわたしがさらに大きな栄光を得、地上のすべての被造物がすべての国家にわたしの栄光を、世代を超えて引き継ぎ、天と地のすべての被造物が、わたしが地上で得たすべての栄光を見ることができるようになるためである。終わりの日に実現される働きは、征服の働きである。これは地上のすべての人間の生活に対する導きではなく、人類の絶えることのない地上での数千年にわたる苦難の生活の結末である。そのため、終わりの日の働きは、イスラエルでの数千年にわたる働きや、ユダヤでの十年間の働き、それに続く、神の第二の受肉まで数千年続いた働きとは異なる。終わりの日の人々が出会うのはただ受肉した贖い主の再現であって、この人々は神から自ら働きと言葉を受ける。終わりの日が終結するまでに二千年はかからない。イエスがユダヤで恵みの時代の働きを実行したときと同様に、終わりの日は短い。これは、終わりの日は時代全体の結末だからである。終わりの日は六千年にわたる神の経営(救いの)計画の完了と終結であって、これによって人類の苦しみの人生の旅路が終わる。終わりの日は、人類のすべてを新時代に連れて行ったり、人類の生活を続けさせたりするわけではない。それはわたしの経営(救いの)計画や人類の存在にとって何の意味もない。人類がこのようであり続けるなら、遅かれ早かれ悪魔によって完全に食い尽くされ、わたしに属する魂は最終的に悪魔の手によって取り去られるだろう。わたしの働きは六千年しか続かない。そしてわたしは人類全体に対する悪い者の支配もまた、六千年より長くは続かないと約束した。もう時間はない。わたしはこれ以上続けたり遅らせたりはしない。終わりの日に、わたしはサタンを打ち負かし、わたしの栄光をすべて奪い回し、わたしに属する地上のすべての魂を取り戻して、これらの苦悩する魂が苦しみの海から逃れられるようにする。これにより地上におけるわたしの働き全体が結末を迎えるのである。この日より先、わたしは地上で再び受肉することはなく、すべてを支配するわたしの霊が地上で働くことは決してない。わたしが地上で行うのはひとつのことだけである。わたしは人類を、聖なる人類に造り直す。それは地上におけるわたしの忠実な都である。わたしは世界全体を滅ぼしたり、人類すべてを滅ぼしたりはしないことを知るべきである。わたしはその人類の残りの三分の一、わたしを愛し、完全にわたしに征服された人類の三分の一を保ち、イスラエル人が律法の下でそうであったように、この人類の三分の一を、多くの羊と家畜、そして土地のすべての実りにより育み、豊かにし繁栄させる。この人類はわたしのもとに永遠にとどまる。ただし、この人々は今日のどうしようもなく汚れた人類ではなく、わたしに得られたすべての人の集まりである。この人類はサタンにより傷つけられ、混乱させられ、包囲されることはない。彼らはわたしがサタンに勝利した後も地上に存在する唯一の人類となる。これは今日わたしに征服され、わたしの約束を得た人々である。そのため、終わりの日に征服された人間は、永遠に続くわたしの恵みも受ける。これはサタンに対するわたしの勝利の唯一の証拠であり、わたしのサタンとの戦いの唯一の戦利品である。これらの戦利品はサタンの支配下からわたしにより救われたのであり、わたしの六千年にわたる経営(救いの)計画の唯一の結晶であり実りである。この人々はあらゆる国家と教派から、また全宇宙のあらゆる場所と国から来る。彼らはさまざまな人種、さまざまな言語、習慣、肌の色を持ち、地球のあらゆる国家と教派、世界のあらゆる場所に広がっている。彼らは、完全な人類、サタンの力が及ばない人間の集合を形成するために集まって来る。人々の内でわたしに救われ征服されていない者は、海の深みに音もなく沈み、永遠にわたしの焼き尽くす火により焼かれる。わたしは、エジプトで初子と牛、羊の初子を滅ぼし、子羊の肉を食べて子羊の血を飲み、かもいに子羊の血を塗ったイスラエル人だけを残したのとまったく同じように、この古い、きわめて汚れた人々を滅ぼす。わたしに征服され、わたしの家族である人々はまた、子羊であるわたしの肉を食べ、子羊であるわたし血を飲み、わたしに贖われ、わたしを礼拝する人々でもあるのではないか。このような人々は常にわたしの栄光に伴われていたのではないのか。子羊であるわたしの肉を持たぬ者はすでに、海の深みに音もなく沈んだのではないか。今日、彼らはわたしに反対し、わたしの言葉はちょうどヤーウェがイスラエルの子孫に語った言葉のようである。あなたがたの心の深みにある頑なさによりわたしの怒りが蓄えられ、あなたがたの肉体にさらなる苦しみが生じ、あなたがたの罪に対してさらなる裁きが、不義に対してさらなる怒りがもたらされる。今日わたしをこのように扱うなら、誰がわたしの怒りの日に赦されるというのだろうか。わたしの刑罰の目を誰の不義が逃れられるだろうか。誰の罪が全能者であるわたしの手を避けられるだろうか。誰の反逆が全能者であるわたしの裁きを受けられるだろうか。わたしヤーウェが異邦人の家族の末裔であるあなたがたに話す。わたしがあなたがたに語る言葉は、律法の時代と恵みの時代のすべての言葉を超えるものである。しかしあなたがたは、エジプトのすべての人々よりもさらに頑なである。わたしが穏やかに働いている間にも、あなたがたはわたしの怒りを蓄えているではないか。どうやってあなたがたは、全能者であるわたしの日から無事に逃れられるというのか。
わたしはこのようにあなたがたの中で働き、話した。わたしは多くの力と努力をつぎ込んだが、あなたがたはわたしがはっきりと語った言葉に耳を傾けたことがあっただろうか。あなたがたはどこで全能者であるわたしにひれ伏したか。なぜあなたがたはわたしをこのように扱うのか。なぜあなたがたが話すことすることすべてがわたしの怒りを呼び起こすのか。なぜあなたがたの心はそれほど頑ななのか。わたしはあなたがたを撃ったか。なぜあなたがたはわたしを悲しませ心配させることしかしないのか。あなたがたはわたしヤーウェの怒りの日があなたがたに及ぶのを待っているのか。あなたがたの不服従により呼び起こされた怒りをわたしがあらわすのを待っているのか。わたしがするすべてのことはあなたがたのためではないのか。それなのにあなたがたはいつもわたしヤーウェをこのように扱ってきた。わたしの捧げ物を盗み、わたしの祭壇のいけにえを家に持って帰り、オオカミの巣にいる子や孫を養った。「人々」は互いに戦い、怒りに満ちたまなざしで、剣と槍を持って向かい合い、全能者であるわたしの言葉を便所に投げ込み、排泄物のようにけがれたものにしてしまった。あなたがたの人格はどこにあるのか。あなたがたの人間性は獣性になってしまった。あなたがたの「心」はずっと前に石になってしまっている。あなたがたは、わたしの怒りの日が来るときこそ、今日あなたがたが全能者であるわたしに対して行う悪をわたしが裁くときであることを知らないのか。このようにわたしをだまし、わたしの言葉を沼地に投げ込んで耳を傾けず、わたしの背後でこのようにふるまって、わたしの怒りの目を逃れられると思うのか。あなたがたがわたしのいけにえを盗み、わたしの物を欲しがったとき、あなたがたはわたしヤーウェの目に既に見られていたことを知らないのか。あなたがたがわたしのいけにえを盗んだとき、それはいけにえが捧げられた祭壇の前であったことを知らないのか。このようにわたしをだませるほど自分たちが賢いなどとなぜ思うのか。あなたがたの憎むべき罪からどうやってわたしの怒りをそらせるだろうか。どうしてわたしの怒りがあなたがたの悪行を見逃せるだろうか。あなたがたが今日行う悪は、あなたがたに逃げ道を用意することはなく、あなたがたの明日に刑罰を積み重ねる。それは、あなたがたに対して全能者であるわたしの刑罰を招く。あなたがたの悪行と悪しき言葉が、どうしてわたしの刑罰から逃れられるだろうか。どうしてあなたがたの祈りがわたしの耳に届くだろうか。どうしてあなたがたの不義に、わたしが逃げ道を用意するだろうか。どうしてわたしに逆らって行うあなたがたの悪行をそのままにしておけるだろうか。蛇の舌のように毒に満ちたあなたがたの舌を切らずにいられるだろうか。あなたがたは自分の義のためにわたしに依り頼まず、自分の不義の結果としてわたしの怒りを積んでいる。どうしてわたしがあなたがたを赦せるだろうか。全能者であるわたしの目には、あなたがたの言葉と行いは汚れている。全能者であるわたしの目は、あなたがたの不義を無限の刑罰とみなす。どうしてわたしの義なる刑罰と裁きがあなたがたから離れるだろうか。あなたがたがわたしにこれを行い、わたしを悲しませ怒らせるのに、わたしがあなたがたをわたしの手から逃れさせ、わたしヤーウェがあなたがたを罰し、呪う日から離れさせることなどできようか。あなたがたのすべての悪しき言葉が、すでにわたしの耳に届いていることを知らないのか。あなたがたの不義がすでにわたしの聖なる義の衣を汚したことを知らないのか。あなたがたの不服従がすでにわたしの激しい怒りを呼び起こしたことを知らないのか。あなたがたがわたしを怒ったまま長いこと放置し、わたしの忍耐をずっと試してきたことを知らないのか。既にあなたがたがわたしの肉体をぼろぼろに傷つけたことを知らないのか。わたしはこれまで我慢してきたが、わたしはわたしの怒りを解放し、あなたがたに対してもはや寛大ではいない。あなたがたの悪行がすでにわたしの目に届き、わたしの叫びがすでにわたしの父の耳に届いていることを知らないのか。どうして彼が、あなたがたがわたしをこのように扱うことを許すだろうか。わたしがあなたがたに行うすべての働きはあなたがたのためではないか。それなのにあなたがたのうち誰が、わたしヤーウェの働きをさらに愛するようになっただろうか。わたしが弱いために、わたしが受けた苦しみのために、わたしの父の心に忠実でないことができるだろうか。わたしの心が分からないのか。わたしはヤーウェがしたのと同じようにあなたがたに話す。あなたがたのためにわたしは多くを捧げたではないか。わたしが父の働きのためにこの苦しみすべてに喜んで耐えるとしても、わたしの苦しみの結果としてあなたがたの上にもたらす刑罰を、どうしてあなたがたが免れられるだろうか。あなたがたはわたしの多くを享受したではないか。今日、わたしはわたしの父によってあなたがたに与えられた。あなたがたは、わたしの気前の良い言葉より、はるかに多くを享受していることを知らないのか。わたしの命が、あなたがたの命とあなたがたが享受する事柄と引き換えられたことを知らないのか。わたしの父がサタンと戦うためにわたしの命を使い、またわたしの命をあなたがたに与えて、あなたがたが百倍も受けるように、多くの誘惑を避けられるようにしたことを知らないのか。あなたがたが多くの誘惑と、また多くの火の刑罰を免れたのは、ただわたしの働きによってであることを知らないのか。あなたがたがこれまで楽しむことをわたしの父が許していたのは、ただわたしの故であることを知らないのか。どうしてあなたがたの心は、たこができてしまったかのように、頑ななままでいられるのか。あなたがたが今日行う悪が、わたしが地上から去った後に来る怒りの日を、どうして逃れられるだろうか。これほど心の頑なな者を、どうしてヤーウェの怒りから逃れさせることができるだろうか。
過去のことを思い出してみなさい。あなたがたに対していつわたしの視線が怒りに満ちており、わたしの声が厳しかったか。いつわたしがあなたがたにささいなことを言い立てたか。いつわたしがあなたがたを理不尽に叱責したか。いつわたしがあなたがたを面と向かって叱責したか。わたしの働きのために、わたしが父にあなたがたをすべての誘惑から守ってくれるように頼むのではないか。なぜあなたがたはわたしをこのように扱うのか。わたしが、あなたがたの肉体を撃つためにわたしの権威を使ったことがあるだろうか。なぜあなたがたはそのようにわたしに報いるのか。わたしに対する態度をころころ変えた後で、あなたがたは熱くも冷たくもない。そしてあなたがたはわたしをだまし、わたしから物事を隠す。あなたがたの口は不義の唾で満ちている。あなたがたは自分の舌でわたしの霊をだませると思うのか。あなたがたの舌がわたしの怒りを逃れられると思うのか。あなたがたはあなたがたの舌が望みのままに、わたしヤーウェの業をさばかれると思うのか。わたしは人がさばかれる神であろうか。どうして小さな蛆虫がわたしを冒涜するのを許せるだろうか。どうしてこのような不従順な者たちをわたしの永遠の恵みの中に置けるだろうか。あなたがたの言葉と行いはずっと前から白日の下にさらされており、あなたがたを罪に定めた。わたしが天を拡げ、万物を創造したとき、わたしはどの被造物にも彼らの望みのままに参加することを許せず、ましてやどの被造物にも、その望むままにわたしの働きとわたしの経営を妨げさせたりはしなかった。わたしは人間にも物にも我慢しなかった。どうしてわたしに対して残酷で無慈悲な者を見逃せるだろうか。どうしてわたしの言葉に逆らう者を見逃せるだろうか。どうしてわたしに対して不従順な者を見逃せるだろうか。人間の運命は全能者であるわたしの手の内にあるのではないか。どうしてあなたの不義と不服従を聖であると見なせるだろうか。どうしてあなたの罪がわたしの聖さを汚せるだろうか。わたしは不義の汚れ不純によって汚されることはなく、不正を行う者の捧げものを喜ぶこともない。あなたがわたしヤーウェに忠実であるのなら、わたしの祭壇のいけにえを取って自分のものとすることなどできるだろうか。あなたは毒のある舌を使って、わたしの聖なる名を冒涜できただろうか。このようにわたしの言葉に反逆できただろうか。わたしの栄光と聖なる名を悪い者であるサタンに仕える道具として使えるのだろうか。わたしのいのちは聖なる者たちの喜びのために与えられた。どうしてあなたの望むままにわたしのいのちをもてあそび、それをあなたがた同士の争いの道具として使うのを許せるだろうか。なぜわたしに対してそのように心無く不親切になれるのか。わたしがすでにこれらのいのちの言葉にあなたがたの悪行を書いたことを知らないのか。わたしがエジプトを罰するとき、あなたがたがどうして怒りの日から逃れることができようか。このように繰り返し、あなたがたに敵対され反逆されることがどうしてあるのだろうか。はっきり言うが、その日が来ると、あなたがたへの刑罰はエジプトのそれよりも耐えがたいものになるだろう。わたしの怒りの日をどうして逃れられようか。まことにわたしは言う。わたしの忍耐はあなたがたの悪行のために用意されているのであり、その日のあなたがたの刑罰のために存在するのである。いったんわたしが忍耐の限界に達したら、怒りに満ちた裁きに苦しむことになるのはあなたがたではないのか。すべてのことは全能であるわたしの手の内にあるのではないのか。どうして、天の下であなたがたがそのようにわたしに逆らうのを許すことができるだろうか。来ると言われていながら来たことのないメシアに出会ったので、あなたがたの人生は非常に困難なものになるだろう。あなたがたは彼の敵ではないのか。イエスはあなたがたの友だったが、あなたがたはメシアの敵である。あなたがたがイエスの友であっても、あなたがたの悪行が嫌悪されるべき人々の器を満たしたことを知らないのか。あなたがたがヤーウェと非常に親しくても、あなたがたの悪しき言葉がヤーウェの耳に届き、彼の怒りを招いたことを知らないのか。どうして彼があなたがたと親しくあれるだろうか。どうして悪行で満たされたあなたがたの器を焼かずにいられようか。どうして彼はあなたがたの敵とならずにいられようか。


[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年2月12日月曜日

【東方閃電】全能神教会歌と踊り「キリストの王国は人間の間で実現する」


I 受肉した全能神は 終わりの日、東洋に現れる ちょうど義の太陽が昇るように 人類は真の光が現れるのを見た 威厳と愛と憐みに満ちた義なる神は 謙り人の間に隠れ 語りかけ、働き、真理を伝える 全能神は我々と顔を合わせて下さる あなたが渇望し、私が待ち望んだ神は 今実際に現れる 我々は真理を求め義を切望した 真理と義は人のところへ来た あなたも私も神を愛し 人類は新たな希望に満ち溢れている 受肉した実際の神に人々は従い 国々は崇拝する II 全能神は真理を表し 裁きをもたらし 神の正しい性質を明らかにする 裁き、懲らしめ、試練の言葉によって 神は一群の勝者を征服し完全にして下さる 神のみ言葉は怒りと威厳に満ち 人類の不義を裁き浄める そして暗闇の時代を完全に滅ぼす 真理と義が地上を支配し 全世界が歓呼し全ての人々が喜ぶ 神の幕屋が人々の間に来る 宇宙は揺れ動き国々は讃美し 神の意志が地上で成し遂げられる 全世界が歓呼し全ての人々が喜ぶ 神の幕屋が人々の間に来る 宇宙は揺れ動き国々は讃美し 神の意志が地上で成し遂げられる キリストの王国は人間の間で実現する 『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年2月3日土曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「このように神は全てを統べ治める」



このように神は全てを統べ治める Ⅰ 産声を上げ この世に生まれた時から  人は自分の義務を行う  神の計画と采配の中  自分の役割を担い 人生の旅を始める  どんな経歴・旅路があろうと 誰も天にある指揮と采配を逃れられない 誰も運命をコントロールできない 全てを統べ治める方のみ  全てなすことができる  Ⅱ 人間が存在するようになった日から  神の業はゆるがない この宇宙を営みを  万物の変転と運行を見守り指揮している 全ての被造物と 同じように 人は知らずに  甘美な滋養・雨・露を神から受け 全ての被造物と 同じように 人は知らずに 神の指揮のもと 生かされているのだ  Ⅲ 人の心と霊は神の手の中にある 神の眼は人の全生涯を 見通しているのだ それをあなたが 信じようと信じまいと  生きているもの 死んでいるもの  あらゆるものが 神の意思により移り変わり  新たになりそしてやがて消えてゆく  いつもこのように神は全てを 統べ治めている 『言葉は肉において現れる』より



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もっと知る: [東方閃電]全能神教会はどうやって創られたでしょうか