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2020年3月9日月曜日

[東方閃電]全能神教会 キリスト教映画「終電に乗る」抜粋シーン(3 )主が再来される時の働きの方式



キリスト教映画「終電に乗る」抜粋シーン(3 )主が再来される時の働きの方式
終わりの日において、主イエスは肉となってお戻りになり、真理を表されて神様の家から始まる裁きの働きをなさってきました。しかし主を信じる多くの兄弟姉妹が、ヤーウェ神は旧約聖書における霊として働きをなさったとか、神様は終わりの日に受肉なさる必要がなく、霊の形で働きをお続けになるとか信じています。受肉した神様の働きと霊の働きとの違いは何でしょうか。


2020年2月11日火曜日

キリスト教会寸劇2019「戸を叩かれる主」神の羊は神の御声を聞き分ける 日本語吹き替え



キリスト教会寸劇2019「戸を叩かれる主」神の羊は神の御声を聞き分ける  日本語吹き替え
本劇「戸を叩かれる主」では、終わりの日に主が御言葉によって私たちの心の戸を叩いてくださり、賢い乙女が神の御声を聞き、子羊と婚宴を共にするということが、どのように実現するかが明らかにされる。
チャン・ショウダオ牧師は日頃から主の再来を待ちわびていたが、信徒のチェンによる「主が既に再来された」という証を聞いても、「主は雲に乗って戻られるはずだ」と自分の観念や想像に頑なに執着し、真の道へ通じる心の戸を閉ざし続ける。しかし今回、チェンが主の再来に関する聖句を参照してチャン・ショウダオと議論し、チャン・ショウダオは聖書に、終わりの日に主は受肉して密かに再来し、新しい御言葉を語り人を清められた後、初めて公にお姿を表し、善に報い、悪を罰せられる、というような預言があることを学ぶ。また、「主が戸を叩かれる」ことの真の意味を理解し、主の再来をお迎えするには神の御声を聞くことが大切であると悟る。全能神の御言葉において神の御声を聞いた牧師は、ついに心の戸を開き、主の再来をお迎えする。

2019年12月27日金曜日

[東方閃電]全能神教会 クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(3)受肉の奥義を明らかにする



主を信じる人々は皆、主イエスが神の受肉された姿であることを知っていますが、受肉の真理を本当に理解できている人はひとりもいません。聖書の預言では、主は再び肉体の姿となり、終わりの日に御言葉を表し、働きをなさる、とあります。受肉された神を知らなければ、私たちには主の再臨を歓迎する術がありません。そのため、神の受肉を知ることが主の再臨を歓迎するための鍵となります。では私たちはどうしたら受肉された神を知ることができるのでしょうか?

2019年12月13日金曜日

[東方閃電]全能神教会 聖書映画「敬虔の奥義:続編」抜粋シーン(2)神様の受肉を理解する



終わりの日において、神様は人類を救うために受肉されました。しかし、私たちが受肉の真理を理解しないが故に神様の受肉を普通の人とみなし、恵みの時代において神様が主イエスとして受肉され、その働きを行われた時の状況と同じように、神様に反抗し、非難する宗教界や権力者たちに従ってしまうほどに神様の声を聞けないばかりか、歓迎することすらできないようにこなってさえいます。従って、受肉の真理を理解することが、神様を知る上で重要な鍵となるのです。では、受肉とは一体なんでしょうか?また、その真髄とは何でしょうか?

2019年12月12日木曜日

[東方閃電]全能神教会 「神はただサタンを打ち負かし、全人類を救うために受肉する 」キリストの人間に対する真の愛


Ⅰ
神が肉体として地上にいる間
人々の間で神の業を行なう
全ての業にはたった一つの目的がある
それは悪魔サタンを打ち倒すこと
神は人を征服することでサタンを倒す
また人々を完全な存在にすることで
世界に鳴り響くような証しとするならば
これもサタンの敗北のしるし
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった

Ⅱ
悪魔のサタンを打ち倒すためには
まず人を征服し完全なものにする
本質的にサタンを打ち破ると同時に
神は人を苦悩の世界から救う
この業を為すのが中国でも全宇宙でも
すべてサタンを倒し人々を救うために
人々が安息の地へ入ることができるように
神は人類を救おうとする
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
神が普通の肉体に宿たのは
サタンを打ち倒すためである
この受肉の神の業は
天の下で神を愛する全ての者を救うこと
人類を征服して サタンを打ち破るため
人類を救うためにサタンを倒すことは
神の業全ての真髄から切り離せない
神は全人類を救うため
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
『言葉は肉において現れる』より

2019年7月17日水曜日

聖書映画「敬虔の奥義:続編」抜粋シーン(2)神様の受肉を理解する




終わりの日において、神様は人類を救うために受肉されました。しかし、私たちが受肉の真理を理解しないが故に神様の受肉を普通の人とみなし、恵みの時代において神様が主イエスとして受肉され、その働きを行われた時の状況と同じように、神様に反抗し、非難する宗教界や権力者たちに従ってしまうほどに神様の声を聞けないばかりか、歓迎することすらできないようにこなってさえいます。従って、受肉の真理を理解することが、神様を知る上で重要な鍵となるのです。では、受肉とは一体なんでしょうか?また、その真髄とは何でしょうか?
もっと注目:
キリスト教会映画「敬虔の奥義:続編」主イエスが戻って来られた


2019年5月24日金曜日

キリスト教映画「敬虔の奥義」抜粋シーン(4)受肉の神だけが終わりの日の裁きの働きを行える



東方閃電は、神が自ら裁きの働きを行うため終わりの日に受肉されたと証しした。しかし、律法の時代における神の働きはモーセを用いてなされた。では、終わりの日の神の裁きの働きも同様に人を用いて行うことはできないのか?なぜ神が受肉して自ら行う必要があるのか?全能神は仰せられる、「裁きの働きは神自身の働きなので、当然、神自身が行う。神の代わりに人が行うことはできない。裁きは真理を通した人への征服なので、人の間でこの働きを行うため、神はやはり受肉した姿で現れることは疑う余地がない。」(『言葉は肉において現れる』より)

2019年4月14日日曜日

福音書|イエスキリストが復活後に人の前に出現された意味は何か

    聖書にはこう記されています。「こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」(ルカ24:36–43)。


     私はこの聖句を読むと、いつもペテロやヨハネたちをうらやましく思います。イエスはユダヤでお働きになっているあいだ、常に昼夜を問わず弟子たちと共におられ、復活後は以前同様に彼らに目をかけられ、彼らの前に出現なさり、聖書を解説し、教えを与えられました。ペテロたちは幸運にも主によって弟子に選ばれ、自らの耳で主イエスの教えを聞くことができました。実に祝福されていたのです。その後、私は神の御言葉を読み、イエスキリストが復活後に人の前に出現されたことの背後には実は主イエスの御心があったということ、この行いには神の全能性と知恵が更に込められていることが分かりました。復活後の主イエスの出現は本当に意義深かったことが真に分かるようになったのです。


    神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、イエスキリストが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、イエスキリストが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    私は神の御言葉を読んで、イエスキリストが復活後四十日間人の前に出現されたことには意味が二つあることがようやく分かりました。一つは、神が律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始め、人類を新しい時代へと導かれると人に告げるためであったことです。もう一つの意味は、神がそうなさったのは、人々が主イエスは受肉された神ご自身だと確めることで神への信仰を強められるようにするためです。

    1.主イエスが復活し人の前に出現されたのは、人を新たな時代に導き、恵みの時代にしっかりと定着させるため

 主イエスは恵みの時代を開き、律法の時代を終えられました。主は「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)という道を示し、人々が神からの豊かな恵みを享受できるように、病人を癒し、悪霊を追い払い、足なえを歩かせ、盲人の目を治すなど多くの奇跡を行われました。しかし当時の人々は神の働きを知らず、イエスが神の受肉であることを真に理解していませんでした。主イエスが十字架につけられたとき、それは神が贖いの働きを終えられたことを意味していましたが、人々はそのことを全く知らなかったため、否定的で弱気になりました。そして主イエスの身分を疑い、神殿に戻って旧約聖書の律法を守り始める者もいました。

    このようにして、人々はなおも自らの罪のために律法によって死に定められる危険にさらされ、主イエスが人類を贖うために行なわれた働きは中途半端なままでした。主イエスは人の心の奥底を探り、人の必要と欠点を完全に理解されていました。それゆえ、主は復活後、先ず弟子たちの前に出現して語られ、彼らと実際に接触し、そのおかげで彼らには主が本当に死人の中から蘇り、人類を贖う働きを成し遂げて新たな時代を始められたことが分かったのです。その後、人類は律法を離れて新たな時代に入りました。それが恵みの時代です。

    主イエスの働きと言葉のお導きの下、人々は主の教え通りに実践し始め、十字架を負って主に付き従い、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)という主の教えを守りました。こうして彼らは天の国の福音を広め始め、万人が主イエスの御名を受け入れて主の救いを得ることができるように、主イエスの御名を証ししました。現在、主イエスの福音は全世界に広がっています。これは全てイエスが死人の中から蘇られた後に人の前にお姿を表された結果です。このことから、復活後の出現がどれほど意義深かったかが分かります。

     2.イエスキリストが復活後に人々の前に出現されたおかげで、人は主が神ご自身の受肉だと断定し、主への信仰を強めることができた

    神の御言葉にはこうあります。「受肉した主イエスが業を行っていた間、イエスに付き従う者の殆どが、イエスの身分やその言葉を完全に認識できなかった。イエスが十字架にかけられた時、イエスに付き従っていた者たちの態度は、何らかの期待であった。イエスが十字架に釘で打ち付けられたときから墓に入れられた時まで、人々の主に対する態度は、落胆であった。この時、受肉したイエスが言われた言葉に関し、人々の心は疑念から否定へと移り変わり始めていた。そして主が墓から出て、ひとりずつ人々の前に現れた時、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々の殆どが、否定から懐疑へと次第に変わっていった。主イエスがトマスにわき腹を手で触れさせた時、また復活した主イエスがパンを裂いて人々の前で食べた時、そしてその後人々の前で焼き魚を食べた時、そこで初めて人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け容れた。それは、人々の前に現れた、肉と血のある霊的存在が、その人々をひとり残らず夢から醒めさせたようであった、と言うことが出来るであろう。人々の前に立っている人の子は、永遠の過去から存在していた神であった。神には形も、肉と骨もあり、また長いこと人間と生きて食事をしていた。この時、人々は、イエスの存在は全くの真実であり、実に素晴らしいと感じた。また人々は大きな喜びと幸福にあふれ、同時に感極まった。イエスが再び現れたことにより、人々はイエスの謙遜を真に理解し、人間に対する近親さ、ひたむきな望みと愛情を感じることができた。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、自分が既にこの世を去ったかのように感じた。人々の心は、迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、愚鈍になっていたが、そうした人々の心は安息を得た。人々は、疑うことや落胆することを止めた。なぜなら、その時希望が生まれ、信じることのできるものが生まれたからである。人々の前に立っている人の子は、永遠に人々の味方となり、人々の堅固なやぐらとなり、常に存在する逃げ場となる。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    神の御言葉は、復活後の主イエスの出現のもう一つの意味も明らかにしています。主イエスは人のもとで受肉し、三年半のあいだ働きを行われ、多くの人が主の救いを受け入れて主に付き従います。しかしほとんどの人は主イエスがキリストであり、神ご自身であることを真に理解していませんでした。そのため、主イエスが十字架につけられようとしていたとき、彼らは一連の出来事が起こるのを見て、「主イエスは本当に神なのか。もしキリストで神ご自身なら、どうしてローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑された挙句、十字架にかけられるのだ」と心に疑問を抱いたのです。

    特に、主イエスが十字架につけられているとき、彼らは主に全く失望し、主が神の受肉であることを否定し、主が表された御言葉を否定しました。逆に、イエスは普通の人のように死に、生き残るはずがないと信じたのです。主イエスは人々がその程度の信仰しか持たず、主を知らなかったことも、主が十字架につけられたためにさらに多くの人が弱気になって意気消沈することもご存知でした。そのため主イエスは死人の中から蘇られた後、弟子たちと接触して彼らに語りかけ、聖書を解説し、彼らと親しく交わり、食事を共にし、トマスにご自身の手と脇を触らせるといったことをなさいました。

    イエスキリストが復活後に語られた御言葉と行われた御業から、弟子たちはイエスが本当に復活されたと断定し、「この方こそ、以前我々と食事をし、同じ住処で生活を共にされたあの主だ。我々に説教し、養い、導いてくださったあの主であり、以前のように愛してくださるのだ」と悟り、「主は我々のことを気づかってくださり、我々のもとを離れられたのではなく、我々のすぐ側に一緒にいてくださっている」とも確信しました。主イエスは神ご自身の受肉であり、永遠なる御方、人の永遠の支え、人の強き塔であり避難所だったのです。

    主イエスは十字架につけられても、死後の鍵の番人であり、蘇る力を持っておられました。なぜなら神ご自身だったからです。以後、人々はもはや迷いも戸惑いもせず、もはや主イエスを疑わず、むしろ心の底からイエスを信じ頼ることができました。これは全て、主イエスが死人の中から蘇られた後に弟子たちの前に出現し、彼らと語られた結果です。

    主イエスの復活後の出現のこれら二つの意味から、私は主はそのような形で出現することで人々の心を目覚めさせ、そのおかげで私たちは神の配慮と愛を経験できるのだとやっと悟りました。このような配慮と愛は単なる伝説ではなく、事実なのです。また、このことから神が私たちを親類のようにみておられることも認識できます。神はいつも人と共におられ、私たちから離れられたことがありません。なぜなら、ご自身のものにするために私たちを創られたのであり、私たちが御言葉を聞いて神に従い、絶対的に崇拝し、神と心を一つにすることを望まれているからです。

    ですから、主イエスが肉となって働きを行い、御言葉を語られたときも、復活後に霊として人の前に出現されたときも、常に人類を思い、特にご自身に付き従う者たちを気づかわれました。なぜなら人には罪を克服する能力がなく、神の導きも真理の施し供給なしには、自らの堕落を脱して神の真の救いを得る術がないからです。私たちは誤解して、神が贖いの働きを終えた後に私たちを離れ、それ以降もう私たちに何の注意も向けられなかったと信じていますが、事実は、私たちの想像通りではないのです。

    主イエスは人類を贖う働きを成し遂げられましたが、人を離れられたわけではありません。主イエスは今も以前と同様に人と共におられ、私たちを気づかい、養い、導いてくださっています。主イエスはいざという時に私たちを助けて支えてくださり、どのように出現されても、いつも私たちと共におられます。それはまさに神の御言葉通りです。「主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における人生では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の慈しみがあり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    実は、主イエスを信じる私たち一人ひとりにとって明白なのは、神への信仰の道において、いつ金や名声や富などの誘惑に遭遇しても、主は私たちを守ってくださり、誘惑を避けて克服することができるようにしてくださるということです。私たちがいつ挫折や失敗に遭遇しても、主は御言葉で導き、信仰と力を与え強くしてくださいます。私たちが生活の中で困難に遭遇しても、主は常にまさかの時の助けであり、道を開いてくださいます。私たちが試練で苦しんでも、主の御言葉が十分に照らして導いてくださるおかげで、私たちは神の御心を理解し、霊における平安と喜びを感じることができるのです。神が側にいて毎日を私たちと共にいて導いてくださるおかげで、真理を理解し、御心を理解できるようになると本当に実感できます。

    私は主の愛に深く感動し、なぜイエスキリストが復活後四十日間、人の前にお姿を表わし、弟子たちの前で食事をし、聖書を語り、彼らと親しく交わり、弟子たちにいくつもの要求を告げるといったことをなさったかがよく分かるようになりました。主イエスが言われ、なされたことの一つひとつが大いなる配慮と思慮に満ち溢れており、主の業は全て非常に意義深いものだったのです。今私は、神の御言葉を読むことで、復活後の主イエスの出現をより深く理解しています。神に感謝します。

2019年3月31日日曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 3




1) 信仰の無い人々の生死の周期

    それでは、まず信仰の無い人々の生死の周期の話をする。ある者が死ぬと、その者は霊界の執行官により取り去られる。それでは、その者の何が取り去られるか、というと、それはその者の肉体ではなく、魂である。その者の魂が取り去られると、死んだばかりの者の魂を受け付けることを専門とする霊界の部局に辿り着く。(注:死者が死後最初に行く場所は、死者の魂にとって未知の場所である。)魂がこの場所へと持ち込まれた時、役人が最初の検査を行い、名前や住所、年齢、その者が生涯に行ってきた物事が確認される。死者の生前の行動は、全て帳簿に記録され、それが正確であることが確認される。それらの確認が完了した後、その者の生前の態度や行動により、罰を受けるか、人間として再び肉体を与えられるかが判断される。これが第一段階である。この第一段階は恐ろしいであろうか。この段階はそれほど恐ろしいものではない。なぜなら、この段階では、その者が暗く馴染みの無い場所に到着するだけだからである。それほど恐ろしいものではない。

    第二段階では、その者が生前多くの悪業を行った場合、あるいは多くの邪悪な所行があった場合、その者は刑場へと連れられて罰せられる。こうした者が連れて行かれるのは、明白に人間を処罰する場所である。人間がどのように罰せられるかに関する具体的な内容は、その者が生前犯した罪や、邪悪な所行を行った回数により異なる。これが第二段階で最初に行われる事である。その者が生前行った物事や邪悪な所行が原因となって、その者が罰を受けた後に再び受肉して物質世界に再び生まれたとき、一部の者は引き続き人間となり、別の一部の者は動物となる。つまり、ある者が霊的世界に戻った後、その者は、自分が行った悪業のために罰せられた上、その悪業のため、その後再び受肉する際に、人間では無く動物となる。こうした者が生まれ変わる動物の範囲には、牛、馬、豚、犬などがある。一部の者は空を飛ぶ鳥や、アヒル、ガチョウなどになる。こうした者が動物として生まれ変わった後に死ぬと、霊的世界に還り、従前と同様に、その者の行いに基づいて霊的世界において人間として生まれ変わるかどうかが決定される。

    大部分の人々は、邪悪な行いが多すぎるため、また罪が深すぎるため、生まれ変わった時に7回から12回は動物となる。7回から12回とは、恐ろしいことではないか。あなたがたにとって、恐ろしいことは何であろうか。人間が動物となるとは、恐ろしいことである。人間にとって、動物となって最も辛い事柄は何であろうか。言葉が無く、単純な考えしか無く、動物が行う行動しか出来なくなり、動物の食べものを食べ、単純な精神を持ち、動物の身振りによる言葉を用い、直立歩行や人間との意思疎通が不可能となり、人間の行動や活動は動物と全く無関係である。つまり、動物となると、あなたがたは生き物のうち最低の存在となり、それは人間であることよりも遙かに辛いことである。これが、邪悪な行動を多く行い、深刻な罪を犯した者に対する霊的世界の罰の一側面である。罰の重さに関しては、人間がどのような動物となるかで決定される。たとえば、豚となるのは、犬となるよりも良いであろうか。豚の生活は、犬の生活よりも良いであろうか、それとも悪いであろうか。間違い無く悪いであろう。人間が牛や馬になった場合、豚よりも良い生活を送ることが出来るであろうか。(良い生活を送ることが出来る。)あなたがたには、選択肢がある場合、好みがあるようである。猫になった者は、比較的快適であろうか。猫になるのは、馬や牛になるよりも大幅に快適であろう。様々な動物から選択できるとしたら、猫を選ぶのが快適であろう。なぜなら、殆どの時間を怠けて寝て過ごすことができるからである。牛や馬になると、労働が比較的多いので、人間が牛や馬に生まれ変わった場合、勤勉に働く必要があり、それは重い罰のように思われる。犬になるのは、牛や馬になるよりも僅かに良いであろう。なぜなら、犬は飼い主と親しい関係にあるからである。さらに、現在、多くの人々が犬を飼い、3年、5年経つと犬は人間の言うことの多くを理解するようになる。犬は飼い主の言葉を数多く理解できるので、飼い主の事を十分理解し、飼い主の気分や要求に合わせることが出来る。したがって飼い主は犬の扱いを向上し、犬の食べ物や飲み物も向上し、犬に痛みがある場合には比較的手厚く看護される。したがって、犬は幸福な生涯を送るのではなかろうか。ゆえに、犬になるのは、牛や馬になるよりも良い。こうして、ある者の罰の重さが、その者が何回動物に生まれ変わるか、どのような動物として生まれ変わるかを決定する。これについては理解したであろう。

   一部の人々は、生前に犯した罪の回数が多すぎるため、7回から12回、動物に生まれ変わる罰を受ける。十分な回数の罰を受けて霊的世界に戻った時、こうした人々は別の場所へと連れて行かれる。この場所の様々な魂は既に罰を受け、人間として生まれ変わる準備をしている種類のものである。この場所では、どのような家庭に生まれるか、生まれ変わった時にどのような役割を担うかなどにより、それぞれの魂が分類される。たとえば、この世に生まれた時に歌手となる人々は他の歌手達と一緒にされ、この世に生まれた時に実業家となる人々は他の実業家と一緒にされ、人間として生を受けた時に科学研究者となる人々は、他の科学研究者と一緒にされる。魂が分類された後は、丁度現在の人々が電子メールを送信する時のように、それぞれ異なる時期に送り出される。これで生死の周期の一巡が完了するが、極めて劇的である。ある者が霊的世界に到着したその日から、その者に対する罰が終わるまで、その者は何度も動物として生まれ変わり、そしてその者が人間として生まれ変わるよう準備される。これがその過程の全てである。

   それでは、罰を受け終えて動物として生まれ変わることが無くなった者は、すぐに物質世界へと送られて人間となるであろうか。その者が人間となるまでには、どの程度の期間を要するであろうか。こうした者が人間になる頻度はどの程度であろうか。[a]これには、時期的な制限がある。霊的世界で発生する事柄には、それに関連する時期的な制限と規則が適用されるが、それは数値で説明すれば、理解できるであろう。短期間のうちに生まれ変わった者については、その者が死んだ時に人間として生まれ変わる準備が行われる。その期間は、最短で3日である。その期間が3ヵ月の人々も居れば、3年の人々も、30年の人々も、300年の人々も、3000年の人々も居る。それでは、こうした時期的な規則について、どのようなことが言えるであろうか。またその規則の詳細はどのようなものであろうか。人間の世界である物質世界への魂の到来は、必要性に基づくものである。それは、その魂がこの世で担う役割に準じたものである。人々が普通の人間として生まれ変わった場合、大部分の人々が極めて短い期間を経て生まれ変わる。なぜなら、人間の世界には、こうした普通の人々に対する差し迫った需要があるからである。そうしたわけで、こうした人々は、3日後に、死ぬ前の家庭とは全く異なる家庭へと送られる。しかし、この世の中で特別な役割を担うべき人々も居る。「特別な」というのは、人間の世界には、そうした人々に対する大きな需要は無く、そうした役割を担うために必要とされる人々は、それほど多く無いので、そうした人々が生まれ変わるのは300年後となる場合もある。[b]すなわち、こうした魂は、300年に1度、あるいは3000年に1度、この世に現れる、ということである。それは何故だろうか。それは、300年間あるいは3000年間、そうした役割は人間の世界で必要とされず、したがってそうした魂は霊的世界のどこかに留められているからである。たとえば、孔子は中国の伝統文化に甚大な影響を及ぼした。あなたがたは皆、孔子のことを知っているであろう。孔子の出現は、当時の人々の文化、知識、伝統、思想に大きな影響を及ぼした。しかし、そのような人間は、それぞれの時代に必要とされることは無く、したがって孔子は霊的世界に留められ、300年、あるいは3000年にわたって待機した後に生まれ変わる必要がある。人間の世界では、孔子のような人間を必要としていないため、孔子は何もせずに待機している必要があった。なぜなら、孔子のような役割は極めて少なく、孔子のような人間がなすべきことは少ないので、孔子は殆どの期間、霊的世界のどこかで、何もせずに留められ、人間の世界で孔子が必要となった時に送られる必要があったからである。霊的領域における時間的な規則はこのようなものであり、大部分の人々がそれに従って生まれ変わる。普通の人間か特別な人間かを問わず、霊的世界には、人間の生まれ変わりの処理に関する適切な規則と慣行があり、そうした規則と慣行は神に由来し、神から送られたものであり、霊的世界の執行官その他の存在により決定されたり管理されたりするものでは無い。これで、あなたがたはこのことを理解したであろう。

   あらゆる魂にとって、生まれ変わった後に担う役割、その魂の生涯における役割、その魂が生まれる家庭、その魂の人生がどのようなものかは、それ以前の人生と密接に関連している。様々な人々が人間の世界に現れ、人々が担う役割や行う任務も異なる。それでは、その任務とは何であろうか。一部の人々は、負債返済のために現れる。つまり、前世において他人からの借入額が多すぎた場合、その負債を返済する。その一方で、債権回収のために現れる人々も居る。こうした人々は前世において様々な事柄で騙されて金銭を巻き上げられたので、霊的世界に到着した後、霊的世界による公平に基づいて、その生涯で債権を回収することが許可されている。一部の人々は、恩返しをするために現れる。すなわち、死ぬ前に前世で誰かの厚意を受け、生まれ変わってその恩を返す素晴らしい機会を与えられる。その一方で、命を奪うために生まれ変わった人々も居る。それでは、こうした人々は誰の命を奪うのであろうか。それは、前世でそうした人々を殺した者の命である。つまり、各人の現在における人生には、前世との密接な関連性があり、断つことの出来ないつながりがある。すなわち、各人の現在における人生は、前世により大きく影響される。たとえば、チャン氏が生前に巨額の金銭をめぐってリー氏を騙したとする。チャン氏はリー氏に負債があるであろうか。負債がある場合、当然リー氏はチャン氏の負債を回収すべきである。したがって、両氏の死後には解消すべき負債が残されるが、両氏が生まれ変わった時、チャン氏が人間として生まれ変わった時、リー氏はどのようにしてチャン氏の負債を回収するであろうか。回収方法のひとつとして、リー氏がチャン氏を父として、その息子となって生まれ変わり、負債を回収するというのがある。それが現在の人生において実現されることがらである。リー氏の父親チャン氏は多くの収入を得るが、息子のリー氏がそれを浪費する。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、息子のリー氏がそれを消費してチャン氏を「助ける」。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、決して十分ということは無く、何故か、最終的には常にその息子が父親の金銭を、様々な事柄や方法で使う。チャン氏は不思議に思う。「いったいどうなっているのだ。なぜ、私の息子は常に問題を起こすであろうか。他の人々の息子が立派なのは何故だろうか。私の息子は野心が無く、役立たずで収入を得られず、常に私が金銭的支援をしなければならないのは何故だろうか。私は息子を支援する必要があるので支援するが、私がいくら金銭を渡しても、息子には常にそれ以上の金額が必要となるのは何故だろうか。息子がまともに働けないのは何故だろうか。息子が怠惰で飲み食いをしては風俗や賭博に明け暮れるのは何故だろうか。一体どうなってしまっているのだろうか。」チャン氏は暫く考える。「それは、前世において私には息子に借りがあるからではないだろうか。そうだ、前世において私には息子に借りがあるからというのは、あり得る。それならば、借りを返そうではないか。これは、私が借りを完済するまで終わることがないであろう。」やがて、リー氏が債務を回収し終え、40代、50代になって、突然目覚める日が来るであろう。「自分の半生では、何も善い行いをしなかった。父が稼いだ金を、すべて浪費してしまった。私は善人になる必要がある。私は決心した。私は正直に、正しい生活を送り、二度と父を悲しませない。」リー氏は、なぜこのように考えるのであろうか。突然リー氏が変わり、向上するのは何故であろうか。それには何か理由があるであろうか。その理由とは何であろうか。実は、それはリー氏が債権を回収し終えたことが、その理由である。これについては、因果関係がある。話の発端は、両氏が生まれる前にまで遡り、両氏の前世における経緯が現在の人生にまで持ち越されているので、どちらも相手を責めることは出来ない。チャン氏が息子に何を諭しても、息子は一切聞こうとせず、真面目に働こうとはしなかったが、負債が返済された日には、息子を諭す必要は無く、息子は自然と理解した。これは簡単な例だが、当然この他にも類似する事例が多数ある。それでは、この例から何が分かるであろうか。(両者は善良で無ければならない。)両者は悪業を行ってはならず、悪業には、それに対する報いがあるということである。信仰の無い者は、お分かりの通り、悪業を数多く行い、その悪業に相応する報いがあるであろう。しかし、こうした報いは自主的なものであろうか。報いのある物事には、すべてその背景と原因がある。あなたは、誰かに対して金銭関連で不正を行っても、自分には何も起こらないと思うであろうか。金銭をめぐって誰かを騙し、金銭を騙し取った後に、あなたには何の報いも無いと思うのか。それは有り得ない。した事には、必ず結果がある。誰であれ、神を信じるか否かにかかわらず、誰もが自分の行動に責任を負わなければならない。その行動による結果と対峙しなければならない。ここで挙げた簡単な例では、チャン氏が罰を受け、リー氏が償還を受けているが、これは公平であるか、というと、公平である。人間がこのような行動を取った場合、そのような結果となる。それでは、このことは霊的世界の管理と無関係であるか、というと、このことは霊的世界の管理と不可分の関係にある。神を信じない、信仰の無い者であっても、その存在は、誰も逃れることの出来ない天の命令や規則の対象となる。いかに人間の世界において地位が高い者であっても、この事実から逃れられる者は居ない。

2019年3月30日土曜日

朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「受肉した神の職分と人間の本分の違い」 その2



朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「受肉した神の職分と人間の本分の違い」 その2
全能神は言われた「語ることであれ、業を為すことであれ、奇跡を現すことであれ、それは受肉の神が救いの業の中で偉大な働きを行っているのであり、このような働きは、人間が受肉の神に代わってすることはできない。人間の働きは、神の救いの働きの段階に応じて被造物としてただその本分を尽くすことである。そうした経営なしに、つまり、受肉の神の職分がなければ、被造物の本分もまたなくなる。自分の職分を遂行する受肉の神の働きは人間を救うことであり、他方、本分を尽くしている人間は、創造主の要求に応えるために自分の義務を実行しているのであって、神のように職分を果たしているとはいわれないのだ。神の本質、つまり、神の霊にとって、神の働きとは、経営のことであるが、創られたものと同じ外形を持った受肉の神にとって、その働きとは、職分を果たすことである。どんな業であれ、受肉の神の業は自分の職分を果たすことであり、人間は神の経営の範囲内で神に導かれて最善を尽くすだけである。」
『言葉は肉において現れる』より

2019年3月20日水曜日

「神はただサタンを打ち負かし、全人類を救うために受肉する 」キリストの人間に対する真の愛



Ⅰ
神が肉体として地上にいる間
人々の間で神の業を行なう
全ての業にはたった一つの目的がある
それは悪魔サタンを打ち倒すこと
神は人を征服することでサタンを倒す
また人々を完全な存在にすることで
世界に鳴り響くような証しとするならば
これもサタンの敗北のしるし
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
Ⅱ
悪魔のサタンを打ち倒すためには
まず人を征服し完全なものにする
本質的にサタンを打ち破ると同時に
神は人を苦悩の世界から救う
この業を為すのが中国でも全宇宙でも
すべてサタンを倒し人々を救うために
人々が安息の地へ入ることができるように
神は人類を救おうとする
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
神が普通の肉体に宿たのは
サタンを打ち倒すためである
この受肉の神の業は
天の下で神を愛する全ての者を救うこと
人類を征服して サタンを打ち破るため
人類を救うためにサタンを倒すことは
神の業全ての真髄から切り離せない
神は全人類を救うため
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
『言葉は肉において現れる』より

2019年2月7日木曜日

クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(2) 受肉による神の再臨について、聖書にはその根拠があるのか





クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(2) 受肉による神の再臨について、聖書にはその根拠があるのか
主の再臨を歓迎する人の多くは、聖書にある「神は雲に乗って降りてこられ、再臨される」という預言のみに重点を置き、主は肉において再臨なされるという預言を蔑ろにしています。彼らは、神が肉体をもって再臨されるという証はすべて偽りであると断言していますが、はたして彼らの見解と行いは聖書と合致しているでしょうか。受肉による主の再臨に関して、聖書では具体的にどのように預言されているのでしょうか。

2019年1月28日月曜日

朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「全宇宙に向かって語った神の言葉 ·十三番目の言葉」




朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「全宇宙に向かって語った神の言葉 ·十三番目の言葉 」
実際の経験なしには、人間はけっしてわたしを知るようにならない。また、わたしの言葉によってわたしを知るようにもなれない。しかし、今日わたしは、自らあなたがたの間を訪れている。これで、わたしのことがわかりやすくなるのではないか。わたしの受肉はあなたがたにとっての救いでもあるのではないか。もしわたしが自ら人間の中に来ることがなければ、全人類はとうにもろもろの観念に満たされていただろう。つまり、サタンのものになっていただろうということである。あなたの信じるものは、サタンの姿でしかなく、神自身とは何らの関わりもないからだ。これはわたしによる救いではないのか。
『言葉は肉において現れる』より

2019年1月13日日曜日

クリスチャンの証し「対話」抜粋シーン(3)中共のうわさや中傷に対するクリスチャンの驚くべき反撃




クリスチャンを騙し、神を裏切らせ、信仰を捨てさせるために、中国共産党は終わりの日のキリストと主イエスを受肉した神ではなくただの人だと言って公けに冒涜しました。共産党はクリスチャンは神ではなく只の人を信仰していると言いふらし、神に使われている男が教会の管理事務をすべて行っていることを根拠にその人が全能神教会を設立したとの噂をたてました。受肉とはいったい何でしょう?全能神教会は如何にして出来、だれが設立したのでしょうか?信徒は如何にして真理と事実をもって中国共産党がキリストや全能神教会について広めるの噂や中傷に反論していくのでしょうか?

2018年12月4日火曜日

全能神の発表「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」

 受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊にまとわれた肉である。この肉はどのような肉の人間とも異なっている。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が肉となったものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はどのような人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性であれ、神性であれ、いずれも天の父の心に従う。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。ゆえに、受肉した神は神自身の経営(救い)を妨げるような働きは絶対に行わない。このことをすべての人が理解すべきである。聖霊の働きの本質は人を救うことであり、また神自身の経営のためである。同様に、キリストの働きは人を救い、神の心を達成するためのものである。神が肉となったので、キリストは自身の肉のうちにある本質を知っており、よってキリストの肉は神の働きを引き受けるに充分である。神の霊のなすすべての働きは受肉の期間にキリストがなす働きに取って代わられる。受肉の期間を通してすべての働きの核心にあるのはキリストの働きである。それはほかのどの時代の働きとも混同することはできない。そして神が肉となるのであるから、神は肉としての働きをする。神は肉の形をとって来るので、自身のなすべき業を肉となったままで成し遂げる。神の霊であれ、キリストであれ、どちらも神自身であり、神はなすべき働きをし、果たすべき宣教の働きをする。

 神の本質そのものが権威を行使するが、キリストは神によってもたらされる権威に完全に服従することができる。霊の働きであれ、肉の働きであれ、互いに相反するものではない。すべての被造物におよぶ権威となるのは神の霊である。神の本質を持った肉も権威を持っているが、肉を持った神は父なる神の心に沿ったすべての働きをすることができる。こうしたことは人にはすることも考えることもできない。神自身が権威であるが、神の肉は神の権威に服従することができる。この言葉に秘められた意味はこうである。「キリストは父なる神の心に服従する」。神は霊であり、救いの働きができるように、受肉した神も救いの働きをなすことができる。いずれにしても、神自身が神自身の働きをする。神は阻止することも、干渉することもせず、まして互いに対立する働きをすることはない。霊と肉による働きの本質は似ているからである。霊であれ、肉であれ、どちらも一つの心を満たし、同じ働きを管理するために働くからである。霊と肉とは二つの異なる性質を持っているが、その本質は同じである。どちらも神自身の本質を持ち、神自身の身分を持っている。神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善良さと、すべての愛の現れである。肉の体を持っていても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてさえも、神は心底から父なる神に従い、他の選択肢は考慮しない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうすべてのものはサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンに似た特質を持っている理由は、サタンが人に働き、サタンによって堕落させられたからである。キリストはサタンによって堕落させられていない。ゆえにキリストは神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。どんなに働きが困難で、肉が弱くても、キリストは肉のうちに生きながら、神自身の働きを阻止するようなことは決してせず、ましてや不従順な行いで父なる神の心を無視するようなことは行わない。キリストは父なる神の心に逆らうくらいならむしろ肉の痛みに耐える。イエスが祈って「父よ、もしできることならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。けれどわたしの思いのままにではなく、心のままにしてください。」と言ったようにである。人は意志で選択するが、キリストはそうしない。キリストは神自身の身分を持っているが、肉を持つ神の観点から、なお父なる神の心を求め、父なる神がキリストに委ねた任務を果たす。これは人には不可能なことである。サタンから発生するものは神の本質を持つことができず、神に逆らい、抵抗する性質しか持ちえない。その性質は完全に神に服従することができず、ましてや神の心に進んで従うことなどできない。キリスト以外の人間はみな神に反する行いをすることができ、神に委ねられた働きを直接引き受けることのできる者はひとりもおらず、神の計画を自分自身がなすべき本分と考えることのできる者もひとりもいない。父なる神の心に服従することはキリストの本質である。そして神への不従順はサタンの特性である。この二つの性質は相いれないものであり、サタンの特質を持つものでキリストと呼ばれ得るものはひとりもいない。キリストの代わりとして人が神の働きをすることができないのは、人には神の本質がひとつも備わっていないからである。人は自己の利益と将来の可能性のために神に仕えて働くが、キリストは父なる神の心を遂行するために働く。

 キリストの人間性はキリストの神性によって支配されている。キリストは肉を持っているが、その人間性は肉を持った人間のそれとはまったく同じではない。キリストは特有の性格を持っており、これもキリストの神性によって支配されている。キリストの神性は弱さを持たない。キリストの弱さはキリストの人間性の持つ弱さを指す。この弱さはある程度キリストの神性を制限するが、そのような限界は一定範囲内、一定時間内に限られ、際限のないものではない。キリストが神性による働きをする時が来ると、それはキリストの人間性とは関係なく行われる。キリストの人間性はすべてキリストの神性によって指示される。キリストの人間性による普通の生活とは別に、人間性によるほかのすべての行動はキリストの神性によって影響され、働きかけられ、指示される。キリストは人間性を持っているが、それは神性による働きを邪魔するものではない。それはキリストの人間性がキリストの神性によって指示されているからにほかならない。キリストの人間性は、ほかの人々の前ではその行いにおいて成熟していないが、それはキリストの神性のなす普通の働きに影響を与えることはない。キリストの人間性は堕落していないとわたしが言うのは、キリストの人間性はその神性によって直接指示され、普通の人のよりも高度な理知を持っていることを意味している。キリストの人間性は働きにおいて神性によって指示されることに最も適している。キリストの人間性は神性による働きを現し、神性による働きに服従することに最高の能力を発揮する。神が肉を持って働きをなす時、神は肉を持つ人が果たすべき本分を決して見失わない。キリストは天にいる神を真心で崇拝することができる。キリストは神の本質を持ち、その身分は神自身のそれと同じである。それは、キリストはこの地上に来、人の外観を持つ被造物となり、かつては持っていなかった人間性を今は持っているということでしかない。キリストは天にいる神を崇拝することができるということだ。これはキリストが神自身であるということで、人にはまねのできないことである。キリストの身分は神自身である。キリストが神を崇拝するのは、肉の観点からである。ゆえに、「キリストは天にある神を崇拝する」という言葉は間違いではない。キリストが人に要求するものはまさに神自身の存在である。キリストが人間に要求する事柄は、自身も既に成し遂げている。キリストは人間に要求しておきながら自らはそれらから免れるようなことはしない。そのようなすべてがキリストの存在を作り上げているからである。どのように働いても、神に敵対するようなやり方でキリストが働くことはない。キリストが人に何を要求しても、人がなしえる以上の要求はしない。キリストのすることはひたすら神の心を行うことであり、神の経営(救い)のためである。キリストの神性はすべての人を超越するもので、ゆえにキリストはあらゆる被造物の最高の権威である。この権威はキリストの神性、すなわち神自身の性質と存在そのものであり、それはキリストの身分を決定する。よってキリストの人間性がいかに普通であっても、キリストが神自身の身分を持っていることは否定できない。どのような観点からキリストが語っても、どのようにキリストが神の心に従っても、キリストは神自身ではないと言うことはできない。愚かで無知な者はしばしばキリストの普通の人間性を欠陥と見なす。どれほどキリストが自身の神性を現し、明らかにしても、人は彼がキリストであることを認めることができない。そしてキリストが服従と謙遜を示せば示すほど、愚かな人間は益々キリストを軽くあしらう。キリストに対して排他的、侮蔑的な態度をとり、一方で尊大な姿の「偉人たち」を高い地位に置いて崇拝する者たちさえいる。人の神に対する抵抗と不従順は、肉を持った神の本質が神の心に従うという事実とキリストの普通の人間性とから来る。ここに人の神に対する抵抗と不従順の根源がある。もしキリストが人間としての外観を持たず、被造物としての観点から父なる神の心を求めることもせず、超人間性を持っていたならば、不従順になる人間はおそらくいないだろう。人が常に天にいる目に見えない神の存在を信じようとする理由は、天にいる神は人間性を持たず、被造物としての性質を一つも持たないからである。そこで人は常に天にいる神には最大の尊敬を払い、キリストには侮蔑的な態度をとる。

 キリストは地上で神自身の代わりに働くが、肉の姿を人々に見せようと来るのではない。すべての人がキリストの姿を見るために来るのではない。自身の手によって人が導かれ、新たな時代へ入ることができるように来るのである。肉なるキリストの役割は、神自身、つまり肉における神の働きを果たすことであり、人にキリストの肉の本質を十分理解させることではない。キリストがいかに働いても、それは肉の可能性を超えるものではない。キリストがいかに働いても、普通の人間性を持つ肉として働くのであり、神の真の姿を全て明らかにしてはいない。それに加えて、キリストの働きは、人間が思うような超自然的なものでも、計り知れないものでもない。キリストは肉において神自身を現わし、神自身のするべき働きを直接遂行するけれども、父なる神の存在を否定したり、自身の働きを誇示したりしない。むしろ、謙虚に肉のうちに自身を隠したままにする。キリスト自身以外でキリストを名乗る者はみな、キリストの性質を持ってはいない。そのような偽キリストたちの高慢で己を称えるような性質をキリストの性質と比べたならば、キリストの肉がどのようなものであるかは明白である。偽りの多い偽キリストであればあるほど自己を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の性質を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、キリストは働きを通して身分を明確にし、自身の現すものによって自身の本質を証明する。キリストの本質は根拠のないものではない。キリストの身分は自身の手によって握られてはいなかった。それはキリストの働きと本質によって決定される。キリストは神自身の本質を持っており、神自身の働きをすることができるが、やはりキリストは霊とは違って、肉である。キリストは霊の性質を持つ神ではない。肉の外殻を持った神である。したがって、いかに普通で弱くとも、どのように父なる神の心を求めても、キリストの神性は否定できない。肉となった神のうちにあるものは、普通の人間性とその弱さだけではない。そこにはキリストの肉における行いとともに、神性の素晴らしさと奥深さも存在する。ゆえに人間性と神性の両方が実際に、具体的にキリストのうちに存在する。これは無意味や超自然的なものでは全くない。キリストは働きを遂行するという本来の目的を持って地上に来る。地上での働きを遂行するためには普通の人間性を持っていることは必須である。そうでなければ、いかにキリストの神性が偉大であっても、その本来の機能を有効に使うことができない。キリストの人間性は非常に重要であるが、それはキリストの本質ではない。キリストの本質は神性である。ゆえに、キリストが地上で職分を始める瞬間はキリストがその神性を現し始める瞬間である。キリストの人間性は肉を持った普通の生活を維持するためだけにあり、それにより、キリストの神性が肉において普通に働きを行うことができるのである。キリストの働き全体を指示するのはキリストの神性なのである。キリストが働きを完了する時は、自身の宣教の働きを全うした時である。人が知るべきことはキリストの働き全体であり、働きを通して人間が自身を知るようにする。働きを行う過程で、キリストは自身の神性を充分に現す。それは人間性によって汚された性質でもなければ、人間の考えや振る舞いで汚されてもいない。キリストの職分が終わりを迎えるまでには、キリストは現わすべきその性質を全て表現し尽くすであろう。キリストの働きは人によって指示されない。キリストの性質の現れもいたって自由であり、精神で支配されることも、思考で処理されることもなく、自然に啓示する。これは人には成し遂げることができない。環境が厳しかったり、条件が合わなかったりしても、キリストは適切な時にその性質を現すことができる。キリストである者がキリストであることを現し、一方キリストでない者たちはキリストの性質を持たない。ゆえに、たとえすべての人たちがキリストに抵抗したり、キリストに対する見解を持ったりしたとしても、キリストによって現わされた性質が神の性質であるということを、人間の見解に基づいて否定できる者はいない。真心でキリストを求め、意志を持って神を求めるすべての者は、キリストの神性の現れに基づいて彼はキリストであると認めるであろう。人の観念と一致しないキリストの側面に基づいて彼らがキリストを否定することはない。人はとても愚かであるが、すべての人は、何が人の意志によるもので、何が神から出たものかをはっきりと知っている。多くの人々は自分の考えに基づいて、意図的にキリストを拒否しているというだけである。そうでなければ、キリストの存在を否定する理由など誰にもない。というのはキリストによって現わされた神性は確かに存在し、キリストの働きはすべての人が肉眼で確認できるものだからである。

 キリストの働きと現れはキリストの本質を決定する。キリストは託された働きを真心を持って完成することができる。キリストは天にいる神を心から崇拝し、真心を持って父なる神の心を求めることができる。これはすべてキリストの本質によって決定されている。そしてキリストの自然な現れもキリストの本質によって決定されている。キリストの「自然な現れ」と呼ばれるのは、キリストの表現が模倣でも、人による教育の結果でも、長年に亘る人による育成の結果でもないからである。キリストはそれを学んだのでも、それでわが身を飾ったのでもない。むしろ、それはキリストのうちに本来的に備わっているものである。人はキリストの働き、表現、人間性、そして普通の人間性を持った全生涯を否定するかもしれないが、キリストが真心で天にいる神を崇拝することを否定できるものは一人もいない。キリストが父なる神の心を果たすために来たことを否定できる者はおらず、キリストが父なる神を心から求めていることを否定できる者もいない。人が想像するように、彼の姿は五感に心地よいわけでも、話す言葉に特別な重みがあるわけでも、その働きに地を揺るがし、天を揺さぶるほどの驚きがあるわけでもないが、彼は確かにキリストであり、真心で父なる神の心を全うし、父なる神に完全に服従し、死にまで従う者である。これは彼の本質がキリストの本質であるからである。この事実は人には信じがたいものだが、確かに存在する。キリストの職分が全うされた時、キリストの働きを通して、キリストの性質と存在は天にいる神の性質と存在を現すことを、人は知るであろう。その時、キリストがその働きを通して成し遂げたものを見て、この者はまことに肉となった言葉であり、血と肉による人間とは異なることがはっきりと分かるであろう。キリストの地上での働きの各段階はそれぞれ重要な意味を持つが、それぞれの段階における実際の働きを経験する人間は、彼の働きの意味を把握することができない。第二の受肉における数段階での働きに関してはとりわけそうである。キリストの言葉を見聞きしただけで、キリストに出会ったことのない者たちのほとんどは、キリストの働きについていかなる観念も持っていない。キリストに出会い、言葉を聞き、働きを経験した者たちにとっては、働きを受け入れることが難しい。これはキリストの外見と普通の人間性が人の好みに合わないせいではないのか。キリストが去ってからその働きを受け入れる者たちはそのような困難に出遭うことはないだろう。彼らはキリストの働きを単に受け入れ、キリストの普通の人間性に接することがないからだ。人は神に対する己の考えを捨てることができず、キリストをあれこれと入念に調べ上げる。これは人がキリストの外見だけに注目し、キリストの働きと言葉に基づいた本質を認めることができないことが原因だ。もし人がキリストの外見に目を閉じ、キリストの人間性を討論するのを避け、人には成し得ない働きをし、人には成し得ない言葉を語るその神性についてのみ語るのなら、人の観念は半分に減り、すべての人々の困難が解決することさえあり得るだろう。肉となった神が働きをする間、人はキリストに耐えることができず、キリストについてさまざまな考えを抱き、しばしば抵抗し、不従順になる。人は神の存在に耐えられず、キリストの人間性と隠れた性質に「寛容」を示すことができず、父なる神に従うキリストの本質を「赦す」ことができない。したがって、キリストは働きを終えた後、永遠に人と共に留まることができない。人はキリストが傍らで生活することを許そうとしないからである。キリストが働きをする間、人が「寛容を示す」ことができなければ、キリストが職分を全うした後、彼らの傍らで生活を続け、彼らがキリストの言葉を徐々に経験していくのを見るなど、耐えられるだろうか。そうなれば、多くの者がキリスト故に躓くのではないだろうか。人はキリストが地上で働くことだけを許す。これが人の寛容の最大許容範囲である。働きのためでなければ、人はとっくにキリストを地上から追放しているだろう。それほどであれば、働きを終えてしまった後にどれだけ人は寛容を示すことができるだろうか。人はキリストを処刑し、死に至るまで拷問するのではないだろうか。この者がキリストと呼ばれなければ、人間の中で働きをすることはまず出来なかった。もしキリストが神自身の身分を持って働きをせず、普通の人間としてのみ働いたなら、人はキリストが発する言葉にひとつも耐えることはせず、ましてや働きとなればほんの一部でさえ耐えることはしなかっただろう。そのようなわけで、キリストは働きのうちにのみ身分を持つことができる。このようにして、キリストの働きは、こうしなかった場合よりも強力である。それは、人はみな立派な身分や地位のある者に従おうとするからである。キリストが神自身の身分を持って働かなかったなら、神自身として現れなかったなら、キリストが働くチャンスは全くなかったであろう。神の本質を持ち、キリストであるという事実にもかかわらず、人がその態度を和らげてキリストが人間の間で容易に働けるようにはしない。キリストは神自身の身分を持って働く。そのような働きは、身分を持たずになされる働きよりも何十倍も強力だが、それでも人はキリストに完全には服従しない。人はキリストの身分にのみ従い、キリストの本質には従わないからである。そうであれば、キリストがその地位から身を引く時がくるならば、人は一日たりともキリストが生き長らえることを許せるだろうか。神は人と共に地上に生き、自身の手でなした働きが後年もたらす効果を見たいと考える。しかしながら、人はキリストがたった一日でも留まることに耐えられないため、キリストは諦めるしかなかった。神が人の中でするべき働きをなし、職分を全うすることを許すのが人の寛容と優しさの限界である。キリストに直接征服された者たちはそのような優しさを示すが、彼らでもキリストが働きを終えるまで留まることを許すだけで、その後はたった一瞬でも留まることを許さない。そうであれば、キリストに征服されていない者たちはどうだろう。人が肉となった神をこのように扱うのは、彼が普通の人の外殻を持ったキリストであるからなのではないのだろうか。彼が神性だけを持ち、普通の人間性を持たなかったならば、人にとっての困難はいとも容易に解決されるのではないのだろうか。彼の本質はまさに父なる神の心に従うキリストの本質であるにもかかわらず、人は彼の神性をしぶしぶ認めるだけで、普通の人としての彼の外殻には興味を示さない。そのようなわけで、キリストは人の中で喜びも悲しみも分かち合うために人の間に住まうという働きを取り消すしかなかった。人はもはやキリストの存在に耐えられなかったからである。

2018年11月30日金曜日

全能神の発表「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」

 神が受肉したのは、その働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体をもち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体をもつ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象であるため、神は救済の働きの全段階で、人間をその働きの唯一の対象としている。人間は死すべき存在で、生身の体をもっているが、人間を救える唯一の存在は神なのである。そこで、その働きでよりよい成果が得られるよう、神は働きを行うために人間と同じ属性をもつ肉体をもたなければならない。神がその働きを行うために受肉しなければならないのは、人間が肉体をもっていて、罪を克服することも、肉体を捨て去ることもできないためだ。受肉した神の本質と存在は人間の本質や存在とは全く異なるものなのだが、神の外見は人間と変わらず、通常の人間と同じように見える。神は普通の人間のように生活し、神を見る者は、普通の人間との違いを見いだせない。この普通の外見と普通の人間性とは、普通の人間として神がその神性の働きをするには十分である。神の受肉は普通の人間として働くことを可能にし、人々の間での働きを容易にし、さらに、その普通の人間性は人々の間で救いの働きを進めることの役に立つ。神の普通の人間性は人間の間に多くの混乱を招いたが、そうした混乱は神の働きの成果に影響を与えていない。つまり、神の普通の肉体の働きは人間に素晴らしく有益なのである。たいていの人は神が普通の人間であることを受け入れないが、それでも神の働きは効果的であることができ、そうした効果は神が普通の人間であることで達成される。この点に疑問の余地はない。神の肉体における働きから、人間は、神の普通の人間性について人間の間に存在する観念から受けるよりも十倍、数十倍のものを得る。そして、そうした観念はいずれ、すべて神の働きに吸収されることだろう。また、神の働きが達成した成果、つまり、人間がもつ神についての認識は、人間が神についてもっている観念をはるかに超える。神の肉体における働きは想像もできないし、測りようもない。神の体はどの人間の肉体とも異なっているからだ。外見は同じでも、本質は異なっている。神の肉体は、神について、人間の間に多くの観念を生み出す。しかし、神の肉体はまた、人間が多くの認識を得ることを可能にする。そして、似たような外見をもつどの人間をも征服できる。神は単なる人間ではなく、人間の外見をもつ神であり、誰も神を完全に理解することはできないからである。目に見えず、触れることもできない神を誰もが愛し、歓迎する。もし神が人間の目には見えない、ただの霊であるならば、人間が神を信じることは容易である。人間は自分の想像力を自由に働かせることができる。神の姿として、どんな姿でも好きなものを選び、それで喜んで満足していられる。このように、人間は自分の神に対して何でも思いのままに、この神が望むとおりのことを、何のとがめもなく行うことができる。さらに、人間は、自分よりも神に忠実で信心深い者は誰もいない、他の人はみな異邦の犬で、神に背いていると信じている。これが、神について漠然と教義に基づいた信仰をもつ人々が求めているものであると言える。彼らの求めているのは、どれも同じようなもので、ほとんど違いがない。これは単に、人々の想像している神の姿が異なっているというだけで、その本質は、実際のところ、同じなのだ。

 人間は自分の信仰がいいかげんなものであっても気にとめない。そして、好きなように神を信じている。これは誰も妨げることのできない「人間の権利と自由」の一つなのだ。なぜなら人間は他の誰のものでもない、自分の独自の神を信じているからである。これは私有財産であって、ほとんど誰でも、こうした私有財産をもっている。人間はこれを自分の貴い宝だとみなしているが、神にとっては、これ以上卑しく無価値なものはない。この人間の私有財産以上にはっきりと神に敵対するものはないからである。なぜなら、神が受肉してその働きを行うため、神は触れることのできる形を持ち、人が見、触れることのできる肉体になるからである。神は形のない霊ではなく、人間がさわり、見ることのできる肉体である。しかしながら、人々の信じる神々のほとんどは、生身の体をもたず、形がなく、不定形である。このように、受肉した神は、神を信じる者ほとんどの敵となり、同様に、受肉した神という事実を受け入れることのできない人々も、神の敵となった。人間は考え方や反抗心からではなく、この私有財産のために観念にとらわれているのだ。この私有財産のせいで、たいていの人は死に、この漠然とした、触れることができず、目にも見えない、実際に存在しない神のために、人間のいのちは損なわれている。人間のいのちが失われるのは、受肉した神のためではなく、まして、天の神のせいでもなく、人間が思い描いている神のせいなのである。神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人間のためであって、神自身のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもともと自分のものであるもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人間のためにすること、犠牲とすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人間のためである。受肉した神の働きには想像を超える困難が数多く伴うのだが、それが最終的に達成するものは、霊による直接の働きの成果をはるかに超える。肉の体の働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分をもたないし、霊のような超自然的な業は行えない。まして、霊と同じ権威をももたない。しかし、この平凡な肉の行う働きの本質は、霊が直接行う働きの本質をはるかに上回る。この神の肉体は、すべての人間の必要に応えるものなのだ。救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉にはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山々、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きで神は、触れるすべての人と効果的に交流できる。そのうえ、触れることのできる形をもつ神の体は、人間には理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識を深めることができ、神の実際の業の深い印象を植え付けられる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかしながら、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊かな知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間はその身で神の働きの知恵を経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要もない。これが受肉した神の働きの正確さ、本物の価値である。霊には、人間の目に見えず、想像しにくいことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊の動き、それに霊の導きなど。しかし、知性のある人間には、こうしたものは何ら明瞭な意味をもたない。こうしたものは一つの動き、あるいは漠然とした意味しか提供せず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは、大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、そして、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りして歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、まして、推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きと置き換えることができない。肉の働きは、霊の働きよりはるかに正確で、必要な目標とずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与え、そして見て触ることのできるものである。実際の働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間をその堕落した邪悪な性質から救える。これを成し遂げられるのは受肉した神だけである。受肉した神だけが、人間をかつて堕落した邪悪な性質から救えるのだ。霊は神に備わった本質であるが、こうした働きは受肉した神にしかできない。もし霊だけで働いたなら、神の働きは効果的なものではないだろう──これは明確な事実である。大方の人は、肉のために神の敵になっているが、神がその働きを完了するとき、神に敵対する者たちは敵であることをやめるだけではなく、それどころか神の証人になるだろう。そうした人たちは神に征服された証人、神の心にかない、神と分かちがたい証人になる。神はその肉体における働きの重要性を人間に知らせる。そして人間は、人間存在の意味にとってのこの肉体がどれほど重要であるかを知り、人間のいのちの成長のために神の肉体がどれほど価値あるものであるを知り、そのうえ、この肉体が、離れることが到底できない、生きるいのちの泉となることを知るだろう。受肉した神は、本来の神の身分と地位には遠く及ばないし、人間からすると神の本来の地位と相容れないものと思われるだろうが、この肉体、すなわち神の真の姿や身分をもたないこの存在は、神の霊には直接できない働きができるのである。それが神の受肉の真の意味と価値であり、そしてこの意味と価値を人間は理解し、受け入れることができない。すべての人間は神の霊を仰ぎ、受肉した神を見下すが、彼らがどう判断し、どう考えるかに関わりなく、この肉体の真の意味と価値とは霊にはるかに優る。もちろん、これは堕落した人間との関連においてのみ言えることだ。真理を求め、神の現れを待ち望む者すべてにとって、霊の働きは感動と啓示、理解不能で想像もできない不思議な感覚、偉大で超越的で崇めるべきものであるが誰にも達成できず手に入れることのできないものという感覚だけを与える。人間と神の霊とは、遠くから互いを見ることしかできない。まるで両者の間に遠い隔たりがあるように。そして、けっして似ることがない。まるで、目に見えない境界で隔てられているかのように。実は、これは霊が人間に与えた幻影である。なぜならば、霊と人間とは種類を異にするものであり、霊と人間はけっして同じ世界で共存できず、霊には人間的な要素は何もないからである。だから、人間には霊は必要ではない。霊には、人間に最も必要な働きを直接することができないからである。肉の働きは求めるべき真の目標、明確な言葉、そして、神が現実的かつ正常で謙虚で普通であるという感覚を人間に与える。人間は神を恐れはするだろうが、たいていの人は神と心安く付き合える。人間は神の顔を見、神の声を聞くことができるし、遠くから見る必要はない。この肉体は人間にとって近づきやすいように思われる。遠くの不可思議な存在ではなく、目に見え、触れられるのだ。この肉体は人間と同じ世界にあるのだから。

 肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには目指すべき目標が必要だ。そして、神を知るには、神の本当の業を見、神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した体でのみ可能なことだ。そして、いずれも普通の現実の体でのみ成し遂げられる。だから受肉が必要なのであり、すべての堕落した人間はこれを必要としているだ。人々は神を知る必要があるので、漠然とした超自然的な神の表象を心から消し去らなければならない。そして、堕落した性質を捨て去る必要があるのだから、まずその堕落した性質を知らなければならない。人間の力だけで漠然とした神の表象を心から消し去ろうとしても、望ましい成果は得られないだろう。人々の心にある漠然とした神の表象は、言葉だけではさらけ出したり、消し去ったり、完全に除いたりすることはできない。そうしてみても、人間の中に深く根付いているものを消し去るのは不可能だろう。実践の神と神の真の姿だけが、そうした漠然とした超自然的なものと入れ替わり、徐々に人々に教え、そうした方法によってのみ、目指すべき結果が得られるのだ。人間は、過去に求めていた神が漠然とした超自然なものであったことに気づく。これを成し遂げるのは、霊による直接の導きではなく、まして、特定の個人の教えでもなく、受肉した神なのである。受肉した神が本格的にその働きを行うとき、人間の固定観念が露わになる。なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然な神とは正反対なものだからだ。人間の元来からの固定観念は、受肉した神との対照によってのみ明らかになる。受肉した神と比較することなしには、人間の固定観念は明らかにならない。言い換えれば、現にそこにあるものと比較しなければ、漠然とした物事は明らかにならない。言葉によってこの働きのできる者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者は誰もいない。ただ神自身がその働きができるのであって、ほかの誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がどんなに豊かであろうと、神の現実性と正常性を言い表すことはできない。神が人間のもとで自ら働き、自分の姿と実在とをすっかり示してはじめて、人間はもっと実際的に神を知ることができ、もっとはっきり神を見られるのだ。肉体をもつ人間には、この成果を成し遂げられない。もちろん、神の霊もまた、これを成し遂げることはできない。神は堕落した人間をサタンの影響から救うことができるが、この働きは、神の霊には直接できないことだ。そうではなく、神の霊のまとう人間の体だけが、受肉した神の肉体だけができることだ。この生身の体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備えている一人の人間であるが、また、完全な神性を備えた神でもあるのだ。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、それでも、人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。どのような名で呼ばれようと、つまるところ、それは人間を救う神そのものだ。神の霊は肉体から切り離すことはできず、肉の働きはまた、神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊として行われるのではなく、人間として行われるということである。霊が直接行う必要のある働きは、受肉を必要としない。また、生身の体を必要とする働きは霊には直接できないもので、受肉した神だけが可能なのだ。これがこの働きに必要なものであり、また、堕落した人間に必要なものなのだ。神の働きの三つの段階では、一つの段階だけが霊によって直接行われた。そして残りの二つの段階は受肉した神が実行し、霊が直接働くことはない。霊の行った律法の働きは、堕落した人間の性質を変えることを伴わず、神について人間が知ることと何の関わりもないものだった。しかしながら、恵みの時代と神の国の時代の受肉した神の働きは、人間の堕落した性質と神についての認識に関わるもので、救済の働きにおける重要かつ不可欠な部分である。だから、堕落した人間は受肉した神による救いを、受肉した神の直接的な働きをさらに必要とする。人間には、受肉した神が導き、支え、水をやり、養い、裁き、罰する必要がある。そして、受肉した神からのさらなる恵みと贖いが必要だ。受肉した神だけが人間の親友となり、牧者となり、現実に存在する助けとなることができる。これらすべてが現在と過去において受肉が必要とされる所以である。

 人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物のうちで最高のものだ。そこで、人間には神による救済が必要だ。神の救済の対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉、人間の魂であり、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神に救われる者である。人間の肉はサタンによって堕落させられた。だから、まず人間の肉が救われなければならない。人間の肉は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっている。そして、公然と神に敵対し、神の存在を否定しさえする。この堕落した肉は、まったく手に負えない。堕落した肉の性質以上に扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の体に入って混乱させ、人間の体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。このため、神は挑戦に立ち上がり受肉した。働きを行い、サタンと戦うためである。神の目的は堕落した人類の救済と、自分に抵抗するサタンを打ち破り、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人間を救う。そうして、神は二つの問題を一度で解決する。神は肉において働き、肉において語り、すべての働きを肉において行う。人間とよりよく交わり、よりよく征服するためである。この神の最後の受肉において、世の終わりの神の働きは肉において完了する。神は受肉したままですべての人間を種類によって分け、すべての経営(救い)の働きを終え、また、肉における働きをもみな終える。地上での働きがすべて終わると、神は完全な勝利者となる。受肉して働いた神は完全に人間を征服し、人間をすべて自分のものとしている。これは、神による救済の計画がすべて終わるということではないか。神が肉における働きを終えるとき、サタンを完全に打ち破り、勝利するので、サタンには、もはや人間を堕落させる機会がない。神が最初に受肉したときの働きは、人間の罪の贖いと赦しであった。次の働きでは、人間を征服し、完全に自分のものとし、サタンがもはや働けないようになって完全に敗れ、神が完全な勝利者となる。これが肉の働きであり、神自身が行う働きなのだ。神の三段階の働きの最初のものは、霊が直接行ったもので、肉によるものではなかった。しかしながら、神の三段階の働きの最後のものは受肉した神が行うもので、霊が直接行うものではない。中間段階の贖いの働きもまた、神が受肉して行った。全経営(救い)の計画を通して、最も重要な働きは人間をサタンの影響から救う働きである。重要な働きは堕落した人間を完全に征服することで、それによって、征服された人間の心に本来あった神への崇敬の念を回復し、正常な生き方ができるようにする、つまり、神の被造物として正常な生き方ができるようにするのだ。この働きは最も重要なもので、経営(救い)の働きの核心である。救済の三段階の働きのうち、最初の段階の律法の働きは、救済の働きの核心から遠いものだった。ただ救済の働きをわずかに現したにすぎないし、人間をサタンの領域から救う働きの始まりではなかった。最初の段階の働きは、霊が直接行ったが、それは、律法の下で人間は律法を守ることだけしか知らず、それ以上の真理を知らなかったからであり、律法の時代の働きは、人間の性質の変更はほとんど伴っておらず、どのようにして人間をサタンの領域から救うかという働きとは、さらに関わりがなかったからだ。そのため、神の霊は極めて単純な、人間の堕落した性質とは関わらない段階の働きを終えた。この段階の働きは、経営(救い)の核心にほとんど関係がなく、人間救済という公式の働きとはあまり関係がなかった。だから、神が自ら受肉して働く必要がなかった。霊の行った働きは隠された、測り難いものであり、人間には恐ろしくて近寄りがたいものであった。霊は直接救済の働きをするには適していないし、直接人間にいのちを与えるにも適していない。人間に最も適しているのは、霊の働きを人間に近い形に変えることで、それはつまり、最も人間に適しているのは、神が普通の正常な人間になって働きをするということである。これには、神が受肉して霊の代わりに働くことが必要であり、人間のために神が働くのに、これ以上ふさわしい方法はない。こうした三段階の働きの中で、二つの段階は、肉体によって行われたが、その二つの段階は経営(救いの)計画の中の肝要な部分である。二回の受肉はそれぞれ補い合うもので、補完的である。神が最初に受肉した段階は、第二の段階の基礎を敷いたのだが、これは、神の二回の受肉が一つの全体をなし、互いに相容れないものではないと言える。この二つの段階は全経営(救い)の計画の中でまことに重要なものであるため、神が受肉してこの二つの段階を実行する。こう言ってもいいだろう──神の二回の受肉の働きがなければ、経営(救い)の計画全体は停止し、人類救済の働きは空虚な言葉でしかなかっただろう。この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。誰が任務にふさわしいかは、その働きの性質と重要性とによって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊の働きの性質対肉の働きという観点からは、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉とどちらの働きをするかの決定の際の、これが神の判断であった。各段階の働きには意味と根拠がある。それらは根拠のない想像ではなく、また、恣意的に行われたことでもない。そこにはある種の知恵が働いている。それが神の働きの背後にある真実である。とりわけ、神自らが受肉して人間の間で働くような偉大な働きにおいては、さらなる神の計画がある。そこで、神の知恵と神の存在すべてがあらゆる行為、考え、働きの構想に反映されている。これは神のより確固として体系的なありかたである。こうした緻密な考えや構想は人間には想像しにくく、信じ難いし、そのうえ、知ることも困難だ。人間の行う働きは一般的な原則によるもので、それは人間には極めて満足のいくものだ。しかし、神の働きと比べると、あまりに大きな隔たりがある。神の業は偉大で、神の働きは規模が壮大であるが、その陰には人間には想像もできないような多くの綿密な計画や工夫がある。神の働きの各段階までもが原則に則っているだけではなく、人間の言語では表現できないようなことが数多く含まれている。そして、そうしたものは、人間には見えないものなのだ。霊の働きであろうと、受肉した神の働きであろうと、いずれも神の働きの計画を含んでいる。神は無意味に働きをせず、取るに足りない働きもしない。霊が直接働く時、神の目的を伴っている。神が働きのために人間になるとき(つまり外形を変える時)は、それ以上に目的があってのことである。そうでなければ、どうして進んで身分を変えるだろう。そうでなくて、どうして進んで卑しくみなされ迫害される人になるのか。

 受肉した神の働きは最も意義深い。それは働きについての語りであり、最終的に働きを終えるのは受肉した神であって、霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く──例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が証しする受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きである。これは、中国に対してのみ行われるものではなく、少数の人々にだけ下るものでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きではなく、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうしたことばについての観念をもっているが、受肉した神がすべての人間を裁き、征服することは誰も否定できない。それがどう評価されるかに関わらず、事実は、結局のところ、事実である。誰ひとり、「働きは神によるが、その肉体は神ではない」とは言えない。これは戯言だ。この働きは、受肉した神以外にはできないものだからだ。この業はすでに完了しているのだから、この働きの後で神が再び人間を裁く働きをすることはあり得ない。二度目の受肉した神はその経営(救いの)計画全体のすべての働きをすでに完成したのだから、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上にふさわしいものはいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでもない。まして、人間が神の侵しがたい性質をより明確に目にすることはできないであろう。もし受肉した神が人間の堕落を裁くなら、はじめてサタンを完全に打ち負かせる。受肉して普通の人間性をもった神は、直接人間の不義を裁くことができる。これが神本来の聖さ、すばらしさである。神だけが人間を裁く資格があり、その地位にいる。神には真理と義があるから、人間を裁くことができる。真理と義のない者には他人を裁くことができない。この働きが神の霊によって行われたなら、それはサタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉に優る。もしこの働きを霊が直接行ったならば、神は人間の不服従のすべてを裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた人間の神についての観念を通して行われるからである。人間は霊について何の観念も抱いたことがない。そのため霊には、人間の不義をよりよく露わにすることができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らない者すべての敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人間のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、すべての人間の裁きは霊が直接するのではなく、受肉した神の働きなのである。人間の体をもつ神は、人間が目で見、触れることができる。また、受肉した神は完全に人間を征服できる。この受肉した神と人間との関係において、人間は敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして、拒否から愛へと変わっていく。これが受肉した神の働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることによってのみ救われ、神の口から出ることばによって徐々に神を知るようになり、神に敵対している間に神に征服され、神の罰を受けている間にいのちの糧を受ける。この働きはみな受肉した神の働きであって、霊としての神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深い働きであり、神の働きの三段階のうちの最も大事な部分は、受肉による働きの二つの段階である。人間の甚だしい堕落は、受肉した神にとって大きな障害である。とりわけ、世の終わりの人々に対する働きは極めて困難で、敵意に満ちた環境で、どの種類の人々の能力もまことに乏しい。しかし、この働きの終わりには、とどこおりなく望ましい結果を得る。これが肉の働きの成果であり、この成果は霊の働きの成果よりも説得力がある。神の働きの三つの段階は、受肉した神が終えられるだろうし、そうでなければならないのだ。最も重要かつ肝要な働きは受肉した神が行い、人間の救済は神が受肉して自ら行わなければならない。人間はみな、受肉した神が人間と関わりがないと感じるだろうが、実際は、この肉体が、全人類の運命と存在に関わっているのだ。

 神の働きのどの段階も、人間のために行われるもので、それはすべての人間のためなのだ。それは受肉した神の働きであるが、それでもすべての人間を対象とする。神はすべての人間の神であり、すべての被造物とそうでないものの神である。受肉した神の働きは限られた範囲のものであるし、この働きの目的もまた限られているが、神が働きのために受肉するたびに、神は、その働きの対象として究極的な代表を選ぶ。神は単純で平凡な集団を働きの対象とはせず、肉の働きの代表となるだけの能力ある集団を選ぶ。この集団が選ばれるのは、神が受肉して行う働きの範囲が限られているためで、受肉した神のために特に用意され、受肉した神の働きのために特に選ばれるのである。神が働きの対象を選ぶのは、根拠のないことではなく、原則による。働きの対象は、受肉した神の働きに有益なものでなければならず、また、すべての人間を代表する者でなければならない。たとえば、ユダヤ人はイエス自らによる贖罪を受け容れることで全人類を代表することができた。また、中国人は受肉した神自身による征服を受け容れることで全人類を代表できる。ユダヤ人が全人類を代表したことには根拠がある。また中国人が、神自らによる征服を受け容れることで全人類を代表することにも根拠がある。ユダヤ人の間で行われた贖いの働き以上に贖いの意義を示すものはない。また、中国人の間での征服以上に征服の働きの完全性と成功を明らかにするものもない。受肉した神の働きと言葉は、少数の集団にだけ向けられているもののように見えるが、実際は、この小集団のもとでの神の働きは全宇宙の働きであって、その言葉は全人類に向けられたものなのだ。受肉しての神の働きが終わった後、神に従う人々は、自分たちの間で神が行った働きを広めることとなる。受肉した神の働きで最もよい点は、神に従う人々に正確な言葉と勧告、人類への正確な心を残せるため、受肉した神の働きと全人類に向けられた心とを、後に信者たちがこの道を受け入れる人々により正確に、具体的に伝えられる点にある。受肉した神の人間の間での働きだけが、神が人間と共に存在し、生きている事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きに立会い、神の直接的な言葉を聞きたいという人間の欲求を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人間に示された時代を終わらせ、また、漠然とした神への人間の信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な快い時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけではなく、もっと重要なことに、現実的で正常で、義であり聖なる神、経営(救いの)計画を明らかにし奥義と人類の運命を示す神、人間を創り、救済の働きを完了し、数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにするのだ。神は漠然の時代を完全に終わらせ、全人類が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、すべての人間がサタンに仕えた時代を終わらせ、すべての人間をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな神の霊ではなく、受肉した神の働きの結果なのだ。神が受肉して働くと、神に従う者たちは、もはや漠然とした不可解なものを手探りで求める事をせず、漠然の神の心を推測することをやめる。神が肉体をもってその働きを広めると、神に従う人々は、神が受肉して行った働きをすべての教派、分派に伝え、その言葉全部をすべての人間の耳に伝えるだろう。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実で、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、事実であって、噂ではない。こうした事実は神がその働きを広める証拠であり、また、その働きを広めるために用いる道具である。事実がなければ、神の福音はすべての国々、あらゆる場所に伝わらない。事実なしで人間の想像だけであれば、神はけっして全宇宙を征服する働きを行うことはできない。霊は人間には理解のできないもので、人間には不可視で、霊の働きは神の働きのそれ以上の証拠も事実も人間に残せない。人間はけっして神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じているだろう。人間はけっして神の顔を見ないし、また、直接神が語る言葉を聞くこともない。人間の想像するものは、結局のところ、むなしく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質は、神自身の働きは、人間がまねる事ができない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が自ら人間の間で働いて、はじめて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法により人間は神を見て、神の真の顔を知る。そして、これは受肉しない神では不可能なことだ。神はこの段階まで働きを実行しているので、その働きはすでに最高の結果を生み出しており、完全な成功である。神が受肉して直接行った働きは、すでに経営(救い)全体の働きの90%を完了している。この肉体は神の働きすべての良き始まりと神の働き全部のまとめを提供してきたのであり、神の働きすべてを広め、この働き全体に最終的かつ周到な付け足しをした。だから、もう神の働きには、また神が受肉して行う第四の段階はなく、三度目に受肉した神が驚くべき働きを行うこともない。

 受肉しての神の働きの各段階は、その時代全体の働きを代表するもので、人間の働きのように特定の期間を代表するものではない。だから、神の最後の受肉の働きの終わりは、神の働きが完了したということではない。受肉しての神の働きは、時代全体を代表するもので、神が人間として働いた期間だけを代表するものではないからだ。これは、神は受肉している期間に、その時代のすべての働きを終えるというだけで、そのあとは、その働きはあらゆるところに広まる。受肉した神はその任務を終えた後、将来の働きを神に従う人々に託す。このようにして、その時代全体の神の働きが途絶えることなく続けられる。受肉した時代全体の働きは、それが全宇宙に広まってはじめて完了したとみなされる。受肉した神の働きは新たな時代を開き、神の働きを続ける人々は、神に用いられる者たちだ。人間による働きはみな、受肉した神の職分の範囲内で、その範囲を出るものではない。もし受肉した神が働きを行うために来なければ、人間は古い時代を終わらせることができず、新たな時代を開くこともできない。人間による働きは、単に人間に可能な範囲の任務であり、神の働きの代わりにはならない。受肉した神だけが、するべき働きを完了するべく来ることができるのであり、神をおいては誰一人代わってその働きをすることができない。もちろん、わたしの言っているのは、受肉しての働きのことである。この受肉した神は、人間の観念に合致しない段階の働きを行い、その後、神はさらに別の、人間の観念に合致しない働きをする。働きの目的は人間を征服することである。ある意味で、神の受肉は人間の観念に合致しない。さらに、神は人間の観念に合致しない働きをするので、人間は神についてますます批判的な意見をもつようになる。神はただ、神についてさまざまな観念を持っている人間の間で、人間を征服する仕事をする。人間がどのように神を扱おうと、神はその務めを果たし、人間はみな、神の支配下に入っていることだろう。この働きの事実は、中国人の間に反映されるだけではなく、すべての人間がいかに征服されるかをも表している。こうした人々になされた成果は、すべての人間になされる働きの成果を予め告げるものであり、神が将来行う働きの成果は、こうした人々に対する成果を上回るだろう。受肉した神の働きは鳴り物入りで宣伝されるようなものではないし、神秘の霧に包まれているものでもない。それは具体的な事実であって、一足す一が二である働きなのである。それはすべての人から隠されているものではなく、また、誰をも欺くものではない。人々が見るのは事実であり、現実的なものであって、人間が得るものは、本当の真理と認識である。働きが終わると、人間は神について新たな認識を得、真に神を求める者は、もはや神に関して何の観念ももたない。これは、神の働きの中国人に対する影響だけではなくて、人類全体を征服する神の働きの効果を表すものだ。人類全体を征服する働きにとって、この肉体、この肉体の働き、肉体のすべて以上役立つものはない。それらは今日の神の働きに有益で、将来の神の働きにも役立つ。この肉体はすべての人々を征服し、すべての人々を自分のものとする。人類全体が神を見、神に従い、神を知るためにこれより優れた働きはない。人間のする働きは単に限られた範囲のものであるが、神がその働きを行うときは、特定の人にだけ語りかけるのではなく、全人類、神の言葉を受け入れる者すべてに語りかけるのである。神の告げる終わりはすべての人間の終わりであって、特定の人だけの終わりではない。神は誰かを特別扱いしないし、誰かを犠牲にすることもない。そして、神は人類全体のために働き、話しかける。だから、この受肉した神は、すでに全人類をその種類によって分け、すでにすべての人々を裁き、全人類に相応の終着点を定めている。神はその働きを中国でだけ行っているが、実際は、すでに全宇宙の働きを定めている。神は、言葉を発して計画を一歩一歩進める前に、自分の働きがすべての人間に広まるのを待つわけにはいかない。それでは遅すぎるのではないか。今、神は将来の働きを予め終えることが完全に可能だ。働いているのは受肉した神なのだから、無限の働きを限られた範囲で行い、その後で、人間がするべき務めを人間が果たすようする。これが、神の働きの方針である。神は一時的に人間とともに生活できるだけで、時代全部の働きが完了するまで人間と共にいることはできない。それは、神が予め自分の働きを予言する神だからである。後に、神は言葉によってすべての人類をその種類にしたがって分け、人類は言葉にしたがって、神の順を追った働きに入る。誰一人免れない。誰もがその通りに行わなければいけない。だから、将来、時代は言葉によって導かれるのであって、霊によって導かれるのではない。

 受肉した神の働きは、肉において行われなければいけない。もし霊が直接行ったとしても、それは何の成果も得られないだろう。たとえ霊が行ったとしても、その働きはこれといった意味をもたず、結局は説得力を欠くであろう。被造物はみな、創造主の働きが有意義なものであるかどうか、それは何を示すのか、それは何が目的なのか、神の働きは権威と知恵に満ちたものなのかどうか、また、それが最高の価値と意義のあるものなのかを知りたいと願う。神が行う働きはすべての人間の救済のためであり、サタンを打ち破るためであり、そして万物のもとで自身の証をするためである。だから、神の行う働きにはまことに重要な意味があるはずだ。人間の肉はサタンによって堕落し、最も深く盲い、まことに深く損なわれた。神自らが受肉して働く最も根本的な理由は、救済の対象が肉の体をもつ人間であり、サタンもまた人間の肉を用いて神の働きを妨げているためである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救済の対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉を堕落させ、人間はサタンの体現者となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければいけない。この働きは極めて実際的なものだ。神が受肉して働いている時、神は実際はサタンと肉において戦っている。神が肉において働くとき、神は霊的領域の働きをしており、霊的領域での働きのすべてを地上で現実的なものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの体現者(もちろん、これもまた人間)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形をもつ人間になることがますます必要なのは、神がサタンと真の戦いを行えるようにであり、それにより神に対して不服従で神と同じ姿をもつ人間を征服し、神と同じ姿をもちサタンによって損なわれた人間を救うためである。神の敵は人間、その征服の対象は人間、救済の対象も神の被造物である人間だ。そこで、神は人間とならなければいけない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなるのだ。神はサタンに勝利し、人間を征服し、そのうえ、人間を救うことができる。この肉は普通で現実のものであるが、神はありふれた肉体ではない。神は単に人間である肉体なのではなく、人間と神の両方ある肉体なのだ。これは神と人間との違いであり、これが神の身分のしるしなのだ。このような肉体にだけ、神の意図する働きができ、肉における神の務めを果たし、人間たちの間での働きを完了できる。そうでなければ、神の人間たちの間での働きは、いつも空虚で不完全なものとなる。神がサタンの霊と戦って勝利者となることができても、それでは堕落した人間の古い性質はけっして直せないし、神に不服従で敵対する者たちは、けっして完全に神の支配下に入ることもできない。つまり、神はけっして人類を征服することができず、けっして人類全体を得られないということだ。神の地上での働きが完了しなければ、神の経営(救い)はけっして終わらず、全人類は安息に入ることができない。もし神がすべての被造物と共に安息に入れなければ、このような経営(救い)の成果はなく、神の栄光はその結果消える。神の肉体には何の権威もないが、神の行う働きは成果を達成していることだろう。これが神の働きの明確な方向である。神の肉体に権威があるかどうかにかかわらず、神としての働きを遂行できるならば、それは神そのものだ。この肉体がどれほど普通で平凡なものであっても、神がするべき働きができるのは、この肉が単なる人間ではなく、神だからだ。この肉が人間にはできない働きができるのは、その内なる性質が人間のそれと異なっているためで、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからだ。この肉の体が人類にとって極めて重要なのは、それは人間である、かつそれ以上に神であるからだ。それは通常の人間には不可能な働きが可能だからであり、神には地上で共に暮らす堕落した人間を救うことが可能なためである。神は人間と同じ外見をもつが、受肉した神はどんな重要人物よりも人間にとって重要である。それは神の霊には不可能な働きが可能だからであり、神自身について霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人間を得ることができるからだ。その結果、この肉は普通で平凡であっても、その人類への貢献と人類存在にとっての意義により、この肉体は極めて尊いものとなる。そしてこの肉の真の価値と意味は誰にとってもはかりしれないものがある。この肉は直接サタンを滅ぼすことはできないが、神はその働きによって、人間を征服し、サタンを打ち負かせる。サタンを完全に支配下に下せる。これは、神が受肉したから、サタンに勝利して人類を救うことができるのだ。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きをするため受肉する。このようにして、神は被造物のもとで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、被造物のもとでよりよく神自身を証しできる。

2018年11月20日火曜日

全能神教会の御言葉讃美歌「人々が成熟すればするほど赤い大きな竜は崩壊する」


人々が皆完全にされ
全ての地の国々がキリストの王国となる時
七つの雷が轟く
今がまさにその段階への大きな一歩であり
今こそ来たるべき日に向かって歩き出す時だ
これが神の計画であり  近い将来実現される
それは近い将来実現される
神の計画を確かに  成功させるために
天使たちが地上に舞い降り
受肉した神自身は  敵と戦うために戦場についた
神は言ったこと全てを  すでに成し遂げたので
地の国々は明らかに  砂上の楼閣に過ぎず
押し寄せる高潮に揺らいでいる
終わりの日は迫り
赤い大きな竜は神の言葉の下に倒れる
受肉の神が現れるところはどこでも 敵は滅ぼされる
まず初めに神の手によって  中国が廃墟となる
赤い大きな竜が崩壊しつつある証拠は人の成熟に見られる
これが敵の滅ぶしるしであり
戦うこと・・戦うことの意味である
全人類が肉において神を知り
全人類が神の業を見る時
赤い大きな竜の住みかは灰となり
跡形もなく消え去る
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2018年10月23日火曜日

全能神教会の御言葉讃美歌「『真理の道』を追い求めるための原則」

I 真理の道示す 基本の原則 まずは聖霊が働いてるか 見さだめることだ 真理が正しく 表されてるか よく見ることだ 誰が証しされ それが何をもたらすか悟りなさい 神を信じることは その霊を信じることであり 受肉した神への 信仰はその体が 霊の体現だから 受肉した肉体 その源こそ神の霊 この肉体となったものは まさしく神の言葉なのだ II この道に真理が あるかを知りなさい それは正常な人間性の 命の性質 正しい知性と 見識と知恵と 人の常識 ずっと昔の 創造のときに神が望んだもの その道は生活を 正しく導いてくれるもの その真理はあなたに 正常な人として 生きるよう求めてくれているか? 現実的であり 時期や時代に即してるか? そのような真理ならあなたの 経験は現実味帯びる あなたの人間性と理知は完全になる あなたの霊と、肉体の生活は より秩序だったものになり 喜怒哀楽はより正常なものとなるだろう III 真理を見極める 基準はもう一つ 神をいっそう 深く知る助けとなったかどうかだ 真理は心の中 神への愛吹き込んでくれる 神のもとに近づけ 実在感を与え 生命を充実させてくれる この原理を見出し 真理の道を見つけなさい 真理の道を見つけなさい 真理の道を見つけなさい 『言葉は肉において現れる』より

2018年8月21日火曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「肉となった神を知る者は誰か」


I あなたは神の家の民であり 神の国で忠実であるべきだから あなたが為す全てのことは 神に要求された基準に 適わなくてはならない 神はあなたに漂う雲ではなく 白く輝く雪になることを求める 本質とその価値を持ち合わせる雪になれ それは神が聖なる地から来たからである 本質がない名ばかりの蓮の花ではない 蓮の花は聖なる地からではなく 泥沼から来たのだから II 新しい天が地上に降りる時 新しい地が空の上に広がる時 神が公に人の間で 業を始める時でもある 神を知る者がいるか 神の到来の瞬間を誰か見たか 名だけではなく本質を持ち合わせる そんな神を見た者は誰かいるだろうか 神は白い雲を払い空を間近に見る 全てのものが神の手で整えられている 神の偉大な計画の完成のため 全ての者が努力する 神は地上の人々に多くは求めない なぜなら神はいつでも現実的であり 神は人を創造し全てを知るから 神は全能者である 『言葉は肉において現れる』より

2018年7月31日火曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「神の受肉の権威と意義」



I 人の霊的器、認識、愛、忠誠 従順さ、そして人が見る全てのものは 神の言葉による裁きからきた あなたの信仰は、神の言葉の上に成り立ち それを通して神の驚くべき業を見る 業は理解を超えたものばかり また大いなる奥義と奇跡で溢れる そう、だから多くの者が服従した 神の言葉による裁きをしのぐ者も 彼の権威にまさる闇も無い 神の受肉と権威、そして 言葉による裁きの故に人は服従する II 神の言葉の前では、かつて服従したことのない者さえ跪く 神の言葉による裁きの前に 彼らはひれ伏し その言葉を詮索せず、自らの舌で裁くこともしない 神の肉を見ると、まるで神が平凡であるかのよう だが、神の言葉は人に見せる 彼が権威に満ち溢れていることを 彼が神自身であることを言葉は表す 彼に背ける者はいない、彼は肉なる神そのものである III 受肉の神は言葉を語る 耳のある者全てが聞き彼の裁きを受けるために 神は霊の姿で人をおびえさせて 服従などさせない 人の奥深くの隠れた古い性質が この真実で類ない業により明示される 人がそれを認め自分を 改めるために 神の裁きは実践的で言葉により下される Ⅳ これが神の受肉の権威と重要性だ これが神の受肉の権威と重要性だ 神の言葉による裁きをしのぐ者も 彼の権威にまさる闇も無い 神の受肉と権威、そして 言葉による裁きの故に人は服従する 『言葉は肉において現れる』より