2020年3月27日金曜日
[東方閃電]全能神教会 神様を褒め称えて証しする私の実践はとても馬鹿げていた
教会の一部の指導者や同労者が、いつも自分の証しをして自分の前に兄弟姉妹を連れてきたせいで反キリストになり、神様によって淘汰されるのを見るたび、私は自分に警告しました。万事においても必ず神様を褒め称え、神様の証しをしなければならない。敗者の道に足を踏み入れないよう、どんな状況でも自分を誇示したり褒め称えたりしてはならない。そのため、私は交わりを行なうたび、自分の堕落を露わにすることだけに集中し、実践や入りについて好ましい側面から語ることはありませんでした。私に小さな入りや変化があったと他の人たちが言っても、すぐさまそれを否定しました。このように実践することが神様を褒め称えて証しすることだと信じていたのです。
ある日の交わりで次のような話を聞きました。「神様を褒め称えて証しすることについて、一部の人の認識は不完全です。そのため、そのような人の実践することは完全に正しいとは言えません。そのような人は、神様の働きの経験について話すとはおもに自分の堕落を知っていること、自分の堕落を露わにすること、己をさらけ出すことを実践することについて語り、露わになった自分の堕落を解剖することだと考えています。それだけが神様を褒め称えて証しすることだと考えているのです。そのような経験の側面と証しを、自分における変化や自分が変わる過程、あるいは自分の現実への入りとして語ることは、神様ではなく自分への証しをしているようなものです。この認識は正しいですか。自分が変化を経験した過程について語るのは、自分の証しをすることに相当しますか。しません……私たちが理解しなければならないのは、最も効果的に人々を神様の御前へと導くためには、否定的な経験しか語らず、好ましい入りについて何も言わないなら、その効果は限られ、理想的でなく、人々には道がないままであるということです。交わりのあいだ、他の人はあなたがどのように自分をさらけ出し、どのように自分を解剖し、どのように自分をむき出しにするかしかわかりません。あなたの好ましい入りについてはどうですか。あなたの実践についてはどうですか。どのような実践の道を人々にもたらしますか。今からどのように実践すべきかを、あなたは人に語っていません……自分への証しをするとはどういうことかがわからない人がいます。そのような人は、自分の好ましい側面や現実への入りの側面について語ることが、自分への証しをすることだと考えます。しかし実際には、こちらの方が神様へのよりよい証し、より完全な証しなのです。私たちがわずかでも現実を得、いくらかの善行をなし、本分を尽くすにあたって忠実でいられることは、神様の愛ではないでしょうか。神様のお恵みではないでしょうか。聖霊の働きの成果ではないでしょうか。こうしたことについて語ることで、神様の全能性、神様の働きがいかに人間の救いの働きであるのか、神様の御言葉がいかに人間を変え、完全にし、救えるのかについての証しをもさらにできるようになります。ゆえに、神様の働きの証しをするには、自分自身の好ましい入りについて、それまで入れなかったのが、どのようにして最終的に入れるようになったのかについて、自分を認識できなかったのが、どのようにして最終的に認識できるようになり、また自分の本性の本質を認識できるようになったのかについて、神様に抵抗したり反抗したりしていたのが、どのようにして神様に従い、満足していただき、神様の証しをできるようになったのかについて話すことも求められます。こうした経験や証しをそっくりそのまま交わりにおいて語ることができれば、あなたの神様への証しは完全無欠です。それだけが、本当の意味で神様を褒め称えて証しすることなのです……自分の堕落や醜さばかり話し続けて、それから十年以上経っても自分の変化について何も話せないなら、それは神様を褒め称えて証しすることでしょうか。神様を讃えることでしょうか。神様の働きの全能性を証しできるでしょうか……あなたの証しによって人々が否定的になって神様から離れるなら、それは証しではありません。あなたの働きは神様に反対するものであり、サタンの働きです。神様に反対する働きなのです」(『いのちに入ることに関する交わりと説教(3)』の「問答集」より)私はこれを聞いて、頑なに自分を暴いたり、自分の堕落が明らかにされたことについて語ったりすることは、神様を褒め称えて証しすることではないと突如気づきました。真に神様の証しをして神様を褒め称えるのは、神様の裁きと刑罰の働きを経験する中で、自分の堕落した本質を知るようになったことを語ることだけではありません。それより大事なのは、自分の好ましい実践や入りについて何かを語ることなのです。例えば、自分はどのような真理を知るようになったのか、神様について何を知るようになったのか、神様の働きがどのような成果を自分にもたらしたのか、自分の古い性質がどのように変化したのか、などです。経験や認識のこのような側面を誠実に語れば、あなたが話す実際の経験を通じて、兄弟姉妹は神様についての認識を得、神様の働きが本当に人を救って変えることができることを知るようになり、かくして彼らの中に神様への真の信仰が生じると同時に、実践と入りの道を彼らに与え、いかにして神様に満足していただくか、いかにして神様の御言葉の現実に入るべきかを教えるのです。これだけが真に神様を褒め称えて証しすることであり、そのような証しだけがサタンに恥をかかせることができます。一方、神様を褒め称えて証しすることに関する私の認識はあまりに偏り、あまりに馬鹿げていました。兄弟姉妹が自分を軽んじるよう、彼らの前で自分自身の堕落についてもっと語ることが神様を褒め称えて証しすることであると思い、自分の入りの好ましい側面について語るのは、自分を褒め称えて自分自身に証しすることだと考えていたのです。私は何と愚かだったのでしょう。神様を褒め称えて証しする自分の実践とその成果について、ここで考えずにはいられません。
あるとき、私を自宅に招いてくれていた姉妹がこう言ったのを覚えています。「指導者の皆さんは家族と仕事を捨てて家から離れた場所で本分を尽くし、多くの苦しみを受け、多くのことを経験し、多くの真理を理解するようになられました。皆さんには入りと変化が生じています。でも、自宅にとどまっている私は肉体に束縛され過ぎで、神様の御前で心が落ち着くこともほとんどなく、何の変化も生じていません。私も皆さんのようになりたいです」私はこれを聞いて考えました。「神様を褒め称えて証ししなければならない。自分の堕落について話し、自分の変化を語ってはいけない。さもないとこの姉妹は私を尊敬してしまう」その結果、自分がかつてはどのように傲慢で、本分を尽くすときも教会の采配に従わず、兄弟姉妹と仲良くできなかったこと、自分の言葉にどれほど偽りが混じっているかということ、どのようにして人を騙し、人を疑ったかということを語るようにしました……私の交わりを聞いたあと、姉妹は言いました。「指導者の皆さんはほぼ完全に変わったのだと思ってましたが、実は変わっていなかったんですね。なんだ。誰も変わっていない。ということは、私はもっとひどいんですね」その後、その姉妹はもはや私を尊敬せず、仰ぎ見ることもありませんでしたが、結果として否定的になってしまい、自分が救われる望みはないと考えてしまいました。ある集まりで、私は自分の堕落の一側面、つまり神様について観念を抱いていたことを兄弟姉妹に語ったことがあります。そのときは神様について観念を抱いていたことについて語っただけで、その観念をどのように解決したかは語りませんでした。その結果、そのような観念など抱いていなかった兄弟姉妹が、私の交わりを聞いて観念を抱くようになってしまいました。そうした例は他にもあります。これが、神様を褒め称えて証しすることだと自分で思い込んでいたことの効果だったのです。神様を褒め称えて証しする私の実践は、神様の御言葉の権威と威厳を証ししなかっただけでなく、人々を救い、変え、完全にする神様の働きについて、兄弟姉妹に疑いと観念を抱かせてしまいました。彼らは救いへの信仰を失ったばかりか、真理を追い求める動機も積極的に協力する決意も持たなくなりました。神様を褒め称えて証しする私の実践は、神様の優しさや美しさや義を人々に証しすることなく、人を救い、人にご自身の愛を示し、人がご自身を知るようになさろうとする神様の愛情深い意図の証しもしませんでした。その代わりに神様への観念と誤解を兄弟姉妹に生じさせ、彼らは間違った状態の中で生きるようになりました。どうして私が神様を褒め称えて証ししていたのでしょうか。私は単に消極性を広め、死を放っていたのです。実質的には、人を傷つけ破壊をもたらしていたのです。外面的には明らかな悪事など何一つしていないように見えるものの、私の行為の本質は神様への反抗であり、人と神様との関係に不和の種を蒔き、兄弟姉妹の積極性を攻撃し、彼らが神様から離れるようにしていました。私は純然たる悪事を働いていたのです。これはまことに神様に嫌われ、憎まれる行ないです。
真に神様を褒め称えて証しするとはどういうことなのかを私に照らし、神様を褒め称えて証しすることについての私の理解がどれほど馬鹿げていたかを知らしめ、神様を褒め称えて証しすることだと自分で思い込んでいたことが実質的には神様への深刻な抵抗であると気づかせてくださった神様に感謝いたします。以前のまま続けていたならば、私に起こり得たことは最終的に淘汰され、懲罰されることだけだったでしょう。神様に仕えながら神様に抵抗していたからです。その日以来、私は自分の馬鹿げた実践の方法を変えようと望みました。自分を知ることについて話すときは、好ましい入りへの道や、神様の御言葉を経験して実践することの証しについてもっと語らなければなりません。そして自分が知るようになったことを残らず証ししなければなりません。それにより、兄弟姉妹は私の経験と認識に助けられ、神様の御心を認識し、神様の働きを経験し、神様についての認識を獲得することができ、真に神様の御前へと導かれることでしょう。
2020年1月30日木曜日
[東方閃電]全能神教会 ゴスペル音楽 「失われた時は二度と戻ってこない」神からの終わりの日の警告
Ⅰ
目覚めよ!兄弟姉妹たち!
神の日は遅れることがない
時は命、時をとらえることは命を救い
その時は近い
試験なら、落ちたとしても
学び直し、再挑戦できるが
神の日は決して遅れないことを
あなたは知らなければならない
Ⅱ
覚えておくように
神のこれらの良い言葉は
あなたを促すためにある
終わりは目前で
災害が近づいている
大切なのはあなたの命か
それとも食べ物や衣服だろうか
今、熟考するべき時が来たのだ
Ⅲ
人類は何と惨めで
貧しく盲目で、残酷なのか!
神の言葉は耳のそばを吹きゆく
風のようなものなのか
神の話は無駄だろうか
何故あなたはまだ怠慢なのか
神がこれらを誰に言っているのか
一度も考えたことはないのか?
神を信じなさい
神はあなたの救い主
そして全能者なのである
見張り続けよ
失われた時は戻らず
後悔に効く薬はない
神はどのようにあなたに告げるのか?
神の言葉は熟考に値しないのか?
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
場所:
日本
2020年1月7日火曜日
[東方閃電]全能神教会 「覚醒」から、その二「救われることと救いを得ることの違い」
救われるとはどういうことで、救いを得るとはどういうことでしょうか。あなたはその区別が分かりますか。本短編映画があなたと一緒にこの問題を討議します。
[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。
2019年11月20日水曜日
[東方閃電]全能神教会 ゴスペル キリスト教映画「呪縛を解く」抜粋シーン(2)主が再臨した時、人の前にどのように現れるのか
終わりの日は既に来ており、多くの信者たちは、主が再臨し天国へ連れて行ってくれることを強く願っています。しかし、主が再来されても、どのように私たちの前に現れるのか知っていますか?想像した通りに、雲に乗って降りて来て、私達の目の前に公然と現われるのでしょうか?全能神は言われます。「あなたはイエスに会いたいと思うか。イエスと共に生きたいと思うか。イエスの語った言葉を聞きたいか…イエスはどのように来るのか。あなたがたはイエスが白い雲の上に再臨すると信じているが、わたしはあなたがたに問う。この白い雲とは何を意味しているのか。イエスの再臨を待つ多くの信者がいる中、どの人々のところにイエスは降臨するのか。」「天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることである…それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人がしるしを見る前、真理の現れだけがある時に終わる。」(『言葉は肉において現れる』より)
2019年8月9日金曜日
キリスト教会賛美歌「終わりの日に神は言葉を通して全てを成し遂げる」
キリスト教会賛美歌「終わりの日に神は言葉を通して全てを成し遂げる」
1
終わりの日に 神は肉体となり
言葉を通して 全てを成し遂げ
言葉を通して 全てを啓示する
彼の言葉の 中でのみ人々は
彼の全てと
彼が神自身であるという事を 見る事が出来る
神の言葉を 話すためだけに
肉体となった 神が地上に来る
言葉だけで 充分であるので
しるしはもう 示される事はない
言葉によって 人は神の働きを 知るようになる
神の性質と 人の本質と そして
人が入るべき ところを知るのである
言葉によって 神が言葉の時代に 為そうとしている
全ての事が 成し遂げられる そして
人は顕わにされ・・取り除かれ・・試される
神の言葉を 人々はその目で見て その耳で聞き
そして今まさに 神の言葉の 存在を知った
それゆえ人は 神の存在と 神の全能と 神の知恵を信じる
人を愛し 救いたいと願う 神の心も 人々は信じる
神の言葉が 神の権威と 力を示す時
古代から 今この時までに
神が語った 全ての事は 必ず起こり
その一つひとつが 為されるのである
やがて栄光が 地上の神を訪れ
神の言葉は そこで崇高なる ものとして 統治を行う
神の口から 語られる言葉は 全ての悪い 人々を懲らしめ
一方で 全ての正しい 人々には 祝福を与える
言葉によって 全てが打ち立てられ 完成される
奇蹟ではなく 言葉によって 神は
全てを為し遂げ 真実をもたらす
神の国の 時代を通して神は その働きを
成し遂げる為 言葉を使う そして
神は言葉によって その働きの 成果を得る
奇蹟も行わず・・唯一言葉を通して・・神は働く
『言葉は肉において現れる』より
2019年4月12日金曜日
キリスト教 美しい讃美歌 「あなたは真理を受け入れる人になるべきだ」 イエスキリストの再臨をどのように扱うか
キリスト教 美しい讃美歌 「あなたは真理を受け入れる人になるべきだ」 イエスキリストの再臨をどのように扱うか Ⅰ 自分自身の道を選びなさい 真理を拒んだり聖霊を冒瀆せずに 無知にならないで、傲慢にならないで 聖霊の導きに従いなさい イエスの再臨は 真理を受け入れる全ての人にとって 大いなる救いだ イエスの再臨は 真理を受け入れられない人を罪に定める Oh… Ⅱ 真理を渇望し、求めなさい あなたのためになる唯一の道だから 真理を聞いてもそれを鼻であしらう者は とても愚かで無知だ イエスの再臨は 真理を受け入れる全ての人にとって 大いなる救いだ イエスの再臨は 真理を受け入れられない人を罪に定める Oh…真理を受け入れる Oh…真理を受け入れる Ⅲ 神への信仰の道を軽やかに歩みなさい 勝手に結論を下さずに 神への信仰において、いい加減にならないで 神を信じる人は敬虔で謙虚であるべきだ 真理を聞いても勝手に結論を下したり 真実を罪に定める者は傲慢だ イエスの再臨は 真理を受け入れる全ての人にとって 大いなる救いだ イエスの再臨は 真理を受け入れられない人を罪に定める キリストを信じる者には 他人を呪ったり咎めたりする資格はない あなたは理性を備え、真理を受け入れるべきだ イエスの再臨は 真理を受け入れる全ての人にとって 大いなる救いだ 『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
2019年3月13日水曜日
キリスト教讃美歌「人の子が現れました」神の祝福がゆえに本当の楽しみがある
キリスト教讃美歌「人の子が現れました」神の祝福がゆえに本当の楽しみがある
世界の東から(東…東…)
一筋の光が現われ(光…光…)
西の果てまで照らします
人の子が地に降臨しました
Ⅰ
救い主が戻られました、彼は全能神
真理を表し、新時代を始めました
人の子が現れました。(本当?)
神が来られました。(おお!)
神は人類に永遠のいのちの道をもたらします
新しい天と地、新しい時代
新しい人間、新しい道、新しい生活
新しいエルサレムが地に降臨しました
私達は神の家へ戻り
教会生活をおくり
神の言葉を毎日飲み食いし
神の愛の中で育ちます
さあ、来て歌いましょう!(よし!)
私は踊ります!(踊ろう!)
私達の生活はまことに楽しい。(真に楽しい)
私達は神と一緒にいます。(真に楽しみます。)
私達は神の祝福を得ています。(真に幸せ)
キリストの国は暖かい家庭です
全能神、終わりの日のキリスト
私達がお慕いする最愛の人
神が発するあらゆる言葉は真理で
私達を潤します
神は振る舞い方、正直になる方法を
私達に教えてくださいます
神の祝福の中で生き
私達は心から神を愛します
神の言葉の裁きは全ての人々の心を征服します
神の民は清められ、神を証しします
心を一つにし(本分を尽くす)
神の愛に報い(神を証しする)
神の国の福音を宣べ伝えよう。(神の国の福音)
神の言葉は世界中に伝わります
神の聖き名は皆に賛美されます
キリストの国はこの地に実現されます
心を一つにし(本分を尽くす)
神の愛に報い(神を証しする)
神の国の福音を宣べ伝える。(神の国の福音)
神の言葉は世界中に伝わります
神の聖き名は皆に賛美されます
キリストの国はこの地に実現されます
キリストの国はこの地に実現されます
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
場所:
日本
2019年2月1日金曜日
キリスト教 素晴らしい讃美歌「おお神よ、私はあなたの愛に値しません!」 神の愛は決してあなたの側を離れない
キリスト教 素晴らしい讃美歌「おお神よ、私はあなたの愛に値しません!」 神の愛は決してあなたの側を離れない
Ⅰ
私は自分のために大いに泣き
大きな痛みに耐え
長い道を歩いて
得たものと失くしたものを数えました
私の望みは幾度もくじかれ
神から離れることさえ考えたが
神は私の手を取り、愛により
私を引き止めて下さいました
神は私が受身にならぬよう 一歩ずつ導かれました
幾度背を向け 去ろうとしても
神の愛に引き止められました
罪深い魂はみ言葉に引き裂かれ
恥を抱えて隠れる場所はありませんでした
Ⅱ
私は幾度も疑い、さまよいました
サタンの誘惑に負け
名声と地位を求め
頑なに手放しませんでした
あぁ神よ これが私です
あなたの愛や救いに値しません
あなたのみ言葉の導きなくしては
一歩も進めなかったでしょう
Ⅲ
あぁ神よ、私はもはや受身ではなく
逆戻りもしません
私は真理を実行し み言葉によって生きていきます
どうか私を懲らしめ、裁き、鍛錬し
救いのために清めて下さい
神は私が受身にならぬよう 一歩ずつ導かれました
神は私が受身にならぬよう 一歩ずつ導かれました
幾度背を向け去ろうとしても
あなたの愛に引き止められました
あなたのいのちと真理を与えられ
私は今あなたに救われています
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
Ⅰ
私は自分のために大いに泣き
大きな痛みに耐え
長い道を歩いて
得たものと失くしたものを数えました
私の望みは幾度もくじかれ
神から離れることさえ考えたが
神は私の手を取り、愛により
私を引き止めて下さいました
神は私が受身にならぬよう 一歩ずつ導かれました
幾度背を向け 去ろうとしても
神の愛に引き止められました
罪深い魂はみ言葉に引き裂かれ
恥を抱えて隠れる場所はありませんでした
Ⅱ
私は幾度も疑い、さまよいました
サタンの誘惑に負け
名声と地位を求め
頑なに手放しませんでした
あぁ神よ これが私です
あなたの愛や救いに値しません
あなたのみ言葉の導きなくしては
一歩も進めなかったでしょう
Ⅲ
あぁ神よ、私はもはや受身ではなく
逆戻りもしません
私は真理を実行し み言葉によって生きていきます
どうか私を懲らしめ、裁き、鍛錬し
救いのために清めて下さい
神は私が受身にならぬよう 一歩ずつ導かれました
神は私が受身にならぬよう 一歩ずつ導かれました
幾度背を向け去ろうとしても
あなたの愛に引き止められました
あなたのいのちと真理を与えられ
私は今あなたに救われています
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
2019年1月28日月曜日
朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「全宇宙に向かって語った神の言葉 ·十三番目の言葉」
朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「全宇宙に向かって語った神の言葉 ·十三番目の言葉 」
実際の経験なしには、人間はけっしてわたしを知るようにならない。また、わたしの言葉によってわたしを知るようにもなれない。しかし、今日わたしは、自らあなたがたの間を訪れている。これで、わたしのことがわかりやすくなるのではないか。わたしの受肉はあなたがたにとっての救いでもあるのではないか。もしわたしが自ら人間の中に来ることがなければ、全人類はとうにもろもろの観念に満たされていただろう。つまり、サタンのものになっていただろうということである。あなたの信じるものは、サタンの姿でしかなく、神自身とは何らの関わりもないからだ。これはわたしによる救いではないのか。
『言葉は肉において現れる』より
場所:
日本
2019年1月23日水曜日
全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 8」7
5.気流
五番目は何でしょうか。これは一人ひとりの日常生活に深く関係していて、この関係は強く、それなしでは、この物質世界で人体が生きて行けないものです。それは気流です。「気流」は、おそらくすべての人が理解する言葉です。では、気流とは何ですか。あなたがた自身の言葉で説明してみなさい。(気流とは空気の流れです。)そう言うことができます。空気の流れを「気流」と呼びます。気流とは、人間の目に見えない風です。またそれは、気体の運動形態のひとつでもあります。しかし、わたしたちがここでおもに話し合っている気流とは、何ですか。わたしが言えば、あなたがたはすぐに分かります。地球は回りつつ、山や海や万物を抱えており、地球が回るとき、速度があります。あなたが回転を感じなくても、地球は確かに回転しています。この回転により、何が発生しますか。人間が走ると、何が起きますか。走ると耳に風が起こりますか。(はい。)人間が走ると風が発生するのが可能なら、地球が回転した時に風が発生しないということがどうして有り得るでしょうか。地球が回転する時、万物は運動しています。運動し、一定の速度で回転していますが、それと同時に地上の万物はまた継続的に繁殖し、発展しています。したがって、一定速度で移動すると、当然気流が発生します。これが気流です。この気流は人体に何らかの影響を及ぼすでしょうか。台湾と香港は、どちらも台風があります。台風はそれほど強力ではないですが、台風に見舞われると、人間は立っていることができず、風の中を歩くのに困難を感じます。一歩進むのさえも困難です。あまりに強くて人が風で何かに押し付けられ動くことができなくなることがあります。これは、気流が人類に影響を与える形態のひとつです。もし地球全体が平野であったならば、ある程度の速度で地球の回転と万物の動きで発生する気流に人体が耐えるのは極めて困難となるでしょう。それに対処するのは、極めて困難です。そうであれば、この気流は人類に危害を及ぼすだけでなく、破壊してしまいます。このような環境では、誰も生存できないでしょう。そうしたわけで、神は様々な地理的環境を用いて、こうした気流を解消し、気流の方向や速度、威力を変え、緩和させるのです。山、山脈、平野、丘陵、盆地、峡谷、高原、川などの様々な地理的環境が見られるのは、そのためです。神はこうした様々な地理的環境を適用して気流の速度、方向、威力を変化させ、このような方法を用いて気流を適切な風速、風向、風力へと縮小あるいは操作するので、人間は通常の生活環境を得ることができます。そうすることは必要ですか。(はい。)こうしたことを行うのは、人間にとって困難に思われますが、神にとっては容易です。なぜなら神は万物を監督しているからです。神にとって、人類に適した気流のある環境を創ることは極めて単純かつ容易です。したがって、神が創ったこのような環境において、万物のそれぞれひとつひとつが不可欠なのです。それらのすべてその存在に価値と必要性があります。しかし、サタンと堕落した人類は、こうした思想を理解しません。彼らは破壊と開発を続け、むやみに山々を平野へと換え、峡谷を埋め立て、平野に高層ビルを建て、コンクリートジャングルを造り出します。神が人間のために用意した人間に最適な環境において、人間が幸福に暮らし、幸福に成長し、幸福な毎日を送れることが神の望みです。人類の生活環境を扱うことに関して、神が不注意であったことが決してないのはこのためです。人類の生活環境と身体が自然条件に起因する障害の影響を一切受けず、人類が正常に生活し、繁殖し、万物と調和して共に正常に生活できるように、神は気温から空気、音、光にいたるまで、精緻な計画を立て、精緻な采配を行なってきました。これらはすべて神により万物と人類に与えられています。
人間の生存のためのこれら五つの基本的条件を神が取り扱った方法から、神が人類に与えるものが分かりますか。(はい。)つまり、神は人間生存のための最も基本的条件を作ったのです。同時に、神はこれらを管理し、制御し、人間が存在するようになって数千年を経た今も、依然として継続的に人間の生活環境を変化させ、人類にとって最善かつ最適な生活環境を与え、人間の生活が普通に維持されることができるようにしています。これはいつまで維持されるでしょうか。言い換えるなら、どれくらいのあいだ神はそうした環境を与えるでしょうか。神がその経営(救い)の働きを完了するまでです。その後は、神は人類の生活環境を変化させます。それは同様の方法によるかもしれませんし、あるいは異なる方法によるかもしれませんが、今人間が真に知る必要のある事は、神は人類に必要なものを与え続け、人類の生活環境を管理し、保存し、保護し、維持しているということです。神の選民がこのように普通に生活し、神の救いと刑罰、そして裁きを受けることができるのは、こうした環境のゆえです。神の支配のおかげで万物は存続し、また神がこうして与えているおかげで全人類は進歩を続けています。
たった今わたしが話をした部分は、あなたがたに何か新たな考えをもたらしましたか。あなたがたは、今では神と人類の最大の違いを感じますか。それでは、万物の支配者は誰ですか。それは人間ですか。(いいえ。)それでは、万物の取り扱い方における神と人間の相違が何かを知っていますか。(神様は万物を支配して取り決められ、人間はそのすべてを享受します。)あなたがたはこの意見に賛成ですか。(はい。)神と人類の最大の相違点は、神は万物を支配し、すべてを与えるということです。神は万物の源であり、人間は神が与える万物を享受します。つまり、神が万物に与えるいのちを人間が受け入れる時、人間は万物を享受するということです。人類は神の万物創造の成果を享受するのに対し、神は主です。それでは、万物の立場から見ると、神と人類の相違点は何ですか。神は万物の成長様式を明瞭に見ることができ、万物の成長様式を制御し、支配します。すなわち、万物は神の目の中にあり、神の監視範囲内にあります。人間には万物が見えますか。人間に見えるものには制限があります。それを「万物」と呼ぶことはできません。それはただ人間の目に見えるものに過ぎません。もし人間が山に登ると、人間に見えるのは、その山です。その山の反対側にあるものは見えません。人間が海岸へ行くと、人間に見えるのは目の前にある海ですが、その対岸の海がどのようであるかは知りません。人間が森に辿り着くと、人間には自分の周囲と目の前にある植物が見えますが、その先に何があるかは見えません。人間は高い場所、遠い場所、深い場所を見ることができません。人間に見えるものは、目の前にあるものと、視野の中にあるものだけです。人間が一年間の四季の様式や万物の成長様式を知っていたとしても、万物を管理したり支配したりすることはできません。その一方、神の万物の見方は、あたかも神が自ら製作した機械を見るようなものです。神はそれぞれの部品について熟知しているのです。その原則が何か、その様式は何か、その目的は何かについて、神はこれらのことすべてを明白に知っています。それゆえに、神は神であり、人間は人間なのです。たとえ人間が科学や万物の法則の研究を続けたとしても、それは依然として限界のある範囲内であり、その一方で神は万物を支配しています。それは人間にとって無限です。もし人間が神が行った極めて小さな何かを研究したならば、生涯を研究に捧げても、何ら実質的な成果を達成しないことがありえます。もしあなたが知識や学習した事柄を用いて神を研究しても、神を知ることも理解することも決してできないのは、このためです。しかし、もし真理を求め、神を求める道を用い、神を知ろうとするという観点から神を見つめるのならば、やがて神の業と知恵が随所にあることを認め、また神が万物の主、そして万物の生命の源であると言われるのはなぜかを知るでしょう。そうした認識をさらに得れば得るほど、神がなぜ万物の主と呼ばれるのかを一層理解するでしょう。あなた自身を含めた万物、すべてのものは、神から安定した施しを間断なく受け取っています。また、あなたはこの世界で、人類の只中に、万物の存在を支配し、管理し、維持するこのような力と本質をもつことのできるのは、神を除いて存在しないことを明らかに感じることができます。あなたがこうした理解を得る時、あなたは神があなたの神であることを真に認めるでしょう。あなたがこの点に達する時、あなたは神を真に受け入れ、神をあなたの神であり主であるとしたのです。あなたがそうした認識を得、あなたのいのちがそのような点に達した時、神はもはやあなたを試したり、裁いたりせず、またあなたに対して要求しなくなります。なぜなら、あなたは神を理解し、神の心を知り、神をあなたの心の中で真に受け入れたからです。このことは、神の万物支配と管理に関するこれらのことを伝える重要な理由です。このことは、人々により一層の認識と理解を与えるためであり、単にあなたに神の業を認めさせるだけでなく、それについてのさらなる実践的な認識と理解を与えるためです。
2019年1月1日火曜日
全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 2」9
(3) 人間の5つの種類
ここで、神の義なる性質に関するフェローシップを一旦終了する。次に、あなたがたがどの段階に属するか、あなたがたの熟成度がどの程度であるかを把握することが出来るようにするため、神に付き従う人間の神に関する理解と、神の義なる性質に関する認識と経験に基づいて数種類に分類する。神に関する信者の認識と、神の義なる性質に関する信者の認識や経験に関しては、一般に人々の段階と熟成度を5つに大別できる。この論題は、唯一の神と神の義なる性質を心得ていることに基づいて議論されている。したがって、以下の内容を読み進めるに当たっては、神の独自性と神の義なる性質について、自分には正確にどの程度の認識があるかを注意深く確認する必要がある。その後、確認した内容で、自分が実際にどの段階にあるか、自分が実際にどの程度成熟しているか、自分がどのような種類の人間であるかを判断すること。
最初に説明する類型は、「布でくるまれた赤子」の段階として知られる。
布でくるまれた赤子とは、どのようなものであろうか。布でくるまれた赤子とは、この世に生を受けたばかりの新生児である。布でくるまれた赤子は、人間が最も小さく未熟な時期である。
この段階の人間は、基本的に神の信仰に関する認識や意識が皆無である。この段階の人間は道に迷い、あらゆる物事について無知である。これらの人々は、長期間にわたり神を信じてきた場合と、そうではない場合があるが、道に迷い、無知な状態により、布にくるまれた赤子の段階に分類される。布にくるまれた赤子の段階の状態の正確な定義は、次の通りである:この段階の人間は、神を信仰してきた期間を問わず、常に考えが混乱し、低能である。この者は、自分が神を信仰する理由も、神が誰であるかも、神についても、何も知らない。この者は神に付き従うが、自分の心に神という存在の具体的な定義が無く、自分が付き従っているのが神であるかどうかを判断出来ず、したがって神を信仰し、神に付き従うべきかを知らないことは尚更である。これが、この種の人間の実情である。この種の人々の考えは不明瞭であり、端的に言えば、この種の人々の信仰は一種の混乱である。この種の人々は常に当惑と空虚の状態にある。すなわち、こうした人々は、概して混乱、誤解、低能さといった状況にある。こうした人々は神の存在を見たり感じたりしたことが無いので、こうした人々と神を知ることを議論することは、象形文字で書かれた書籍を読ませるに等しい。すなわち、こうした人々はそうした議論を理解することも、受け容れることもない。こうした人々にとって、神を知るということは、架空の神話を聞いているに等しい。こうした人々の思想には不明瞭な部分があるものの、実のところ、神を知ることは時間と労力の無駄であると固く信じている。これが、布でくるまれた赤子という種類の人間である。
次に議論する種類は、「乳飲み子」の段階にある人間である。
布でくるまれた赤子の段階にある人々と比較すると、乳飲み子の段階にある人々は、ある程度の進歩がある。しかし、残念ながら、この段階の人々は、神に関する認識が一切無い。こうした人々は、依然として神に関する明瞭な理解や洞察力が欠如し、神を信じるべき理由について、それほど確信していないが、自分の心には、独自の目的と明瞭な考えがある。こうした人々は、神を信じるのが正しいかどうかについては、懸念が無い。この種の人々が神への信仰により求める目的は、神の恵みに与り、喜びと平安を得て、快適な生活を送り、神の慈悲と保護を得て、神の祝福の下で生活することである。この種の人々は、神を知っている程度については懸念していない。この種の人々は神の認識を求める衝動が無く、神が何をしているか、神が何をしたいと望んでいるかに懸念が無い。この種の人々は、ただ盲目に神の恵みを享受し、神の祝福を多く得ることを求めている。この種の人々はこの時代に100倍の恵みと祝福を求め、将来的に永遠の命を求める。こうした人々の思想、消費、献身、そして苦難には、神の恵みと祝福を得るという、共通する目的がある。こうした人々は、それ以外のことに無関心である。この種の人々が確信しているのは、神が自分の安全を守り、恵みを与えるということのみである。こうした人々は神が人類を救いたいと望む理由や、神が言葉や業により達成することを望んでいる結果については興味が無く、それほどの確信も無い。こうした人々は、神の本質や義の性質を知るために努力したことが無く、知ることに関心を抱くことも無い。こうした人々はこれらの問題に関して意識しようとせず、知りたいとも思わない。こうした人々は神の業、神の人間に対する要求、神の心、その他神に関する事柄について問いかけることを望まず、また問いかけることも無い。なぜなら、こうした人々は、これらの問題が、自分達が神の恵みを享受することとは無関係だと考えているからである。こうした人々が関心を抱くのは、恵みを与えることが可能な、自分の個人的利益に関連する神に限られている。こうした人々には、それ以外のことに一切興味が無いので、神を何年信仰しても、現実の真理に入ることが出来ない。こうした人々に対して頻繁に神の言葉を注いだり授けたりする者が居なければ、こうした人々が神への信仰の道を継続することは、困難になる。こうした人々は、従前の喜びと平安、神の恵みを享受できない場合、信仰を辞める傾向が強い。これが、2番目の種類である乳飲み子の段階にある人々である。
3番目の種類の人間は、乳離れした子供、幼年期の段階である。
この種類の人々には、ある程度の明瞭な意識がある。これらの人々は、神の恵みを享受するということが、自分自身にその実体験があるということではない、ということを認識している。これらの人々は、喜びと平安、恵みを求めることに飽き足らないとしても、または神の恵みを享受した体験談を語ること、あるいは神が自分達に与えた恵みを讃えることにより証をすることが出来るとしても、そうした物事は、自分達にいのちや真理の現実があることを意味するものではない、ということを心得ている。こうした人々の意識からは、神から与えられるものは全てが恵みであるという野性的な希望はなくなっている。神からの恵みを愉しみながら神のために何かをしたいと考える。彼らは本分を尽くし、少しの試練と疲労に耐え、神とある程度協調することを願っている。しかし、こうした人々は、神への信仰の追求が極めて不純であり、心の中にある個人的な意図や望みが極めて強く、また性質が極めて傲慢であるため、こうした人々が神の望むことを満足させること、神に忠誠であることは、極めて困難である。したがって、こうした人々は、自分達の個人的な望みを実現することも、神との約束を守ることも出来ないことが、多々ある。多くの場合、こうした人々は自己矛盾に陥る。すなわち、こうした人々は出来る限り神を満足させたいと願う一方で、持てる力の全てで神に反対する。こうした人々は、神に忠誠を誓うが、すぐに誓いを撤回してしまう。さらにこうした人々は、もう一つ別の自己矛盾に陥ることも、ことさらに多い。すなわち、こうした人々は真摯に神を信じる一方で、神と神に由来するもの全てを否定する。こうした人々は、自分達が神により啓かれ、導かれ、施され、助けられることを切望する一方で、自分達の逃げ道を求める。こうした人々は神を知りたいと願う一方で、神に近づくことを避けようとする。こうした人々は、近づくのではなく、常に神を回避し、神に対して心を閉ざしている。こうした人々には、神の言葉や真理に関する表面的な認識と経験があり、神と真理に関する表面的な理論をわきまえている一方で、こうした人々は潜在的に、神が真理であることを確認することも、判断することも出来ない。こうした人々は、神が真に義であることを確認できず、また神の性質と本質が事実であると判断出来ない。ましてや神の真の存在を確認することも判断することも出来ないのは当然である。こうした人々の神の信仰には、常に疑念と誤解、想像や空想が伴う。こうした人々は、神の恵みを享受するとともに、自分の信仰を豊かにするため、また神への信仰における経験を積むため、神への信仰に関する理解を確認するため、そして自ら決めた人生を歩み、人間にとって義なる動機を達成させて虚栄心を満たすため、自分が実行可能な真理であると信じる物事をしぶしぶ行う。また、こうした人々は、祝福を得たいという自らの欲望を満たすため、人間の祝福を一層多く得ることに賭けるため、また神を得るまで生きながらえるという大きな志と一生涯の願望を叶えるため、自分が実行可能な真理であると信じる物事を行う。こうした人々が神の啓示を得ることは、殆ど無い。なぜなら、こうした人々の願望と、神の祝福を得るという目的が、自分達にとって極めて重要だからである。こうした人々は、その願望を諦めず、また諦めることに耐えられない。こうした人々は、恵みを得る願望や、神を得るまで生きながらえるという長年にわたり大事にしてきた願望が無ければ、神を信仰する動機を喪失すると考え、恐れている。従って、こうした人々は真理と対峙することを望まない。こうした人々は、神の言葉や業に対峙することを望まない。こうした人々は神の性質や本質を認めることを望まず、ましてや神を知るという問題に取り組もうとすることなどは一切ない。それは、自分の想像が神、神の本質、神の義なる性質に置き換えられた場合、自分達の望みが煙のように消えて無くなってしまうからである。またそれは、自分達が純粋な信仰と呼んでいるものや、何年もの努力の末に築き上げた「功績」が消滅し、無価値なものとなってしまうからである。またそれは、自分達が長年にわたる血と汗をもって勝ち得てきた「領域」が崩壊寸前のものとなってしまうからである。これは、こうした人々の長年にわたる重労働と努力が、何の役にも立たないこと、一から再出発する必要があることを意味するからである。こうした人々にとって、それが最も耐えがたい心の苦痛であり、それは自分達が最も恐れる結果である。したがって、こうした人々は常に膠着状態にあり、譲ることは無い。これが、3番目の種類である乳離れした子供の段階にある人々である。
ここまで述べてきた3種類の状態にある人間は、神の身分や地位、義なる性質に関して、いかなる真の信仰も無い。また、こうした人々は、これらの物事について、明確かつ絶対的な認識も確信も無い。したがって、こうした3種類の人々にとって、現実的に真理に入ることは極めて困難であり、神の憐れみ、啓き、光を得ることも、極めて困難である。なぜなら、こうした人々が神を信仰する方法と、神に対する誤解のある姿勢により、神がこうした人々の心の中で業を行うことは不可能だからである。こうした人々の神に関する疑念、誤解、想像は、こうした人々の神への信仰や認識を凌駕している。これら3種類の人々は、極めて危険な種類の人々であり、この3種類は、極めて危険な段階である。ある者が神、神の本質、神の身分、神は真理であるか、神の存在は現実であるかといったことに対して疑念ある態度を取り、これらの事柄について確信出来なかったとしたら、どうして神から出たものを全て受け容れることができようか。神が真理であり、道であり、いのちであるという事実を、どうして受け容れることが出来ようか。神の刑罰や裁きを、どうして受け容れることが出来ようか。神の救いを、どうして受け容れることが出来ようか。このような者は、どうして神の真の導きと施しを得ることが出来ようか。これら3種類の段階にある人間は、いつでも神に反抗し、神を裁き、冒涜し、裏切ることができる。こうした人間は、いつでも真理の道を離れ、神を捨てることができる。これら3つの段階にある人々は、危機的時期にあると言うことができるであろう。なぜなら、こうした人々は、神への信仰の正しい道へと入っていないからである。
4番目の種類の人間は、成熟中の子供、少年期の段階である。
ある者が離乳した後、つまり豊富な恵みを享受した後、その者は、神への信仰とは何かについての追求を始め、人間は何故生きているのか、人間はどのように生きるべきか、神が人間に対して業を行うのは何故か、など、様々な問題について理解したいと思うようになる。こうしたおぼろげで困惑した考えが浮かび、そのまま心に残った時でも、人間は引き続き神からの言葉を享受し、自分の本分を尽くすことができる。この時期になると、人間は神の存在の真実に関する疑念が無くなり、神への信仰が何を意味するかを正確に把握している。それを基礎として、人間は神に関する認識を漸進的に身に付け、神の性質と本質に関して抱いているおぼろげで困惑した考えの一部に対する回答を徐々に得てゆく。こうした人間の性質の変化と神に関する認識については、この段階の人々は正しい方向性に進み始め、過渡期に入る。人間のいのちが真に始まるのは、この時期である。神を知ることに関して、心の中にある様々な疑問、すなわち、神に関する誤解、想像、観念、不明瞭な定義が解決してゆくこと、すなわち神の存在の事実を心から信じ、知ることのみならず、神に関する明瞭な定義と方向性も心の中に存在し、おぼろげな信仰が、真に神に付き従うことに変化することが、いのちがあることの顕著な徴候である。この段階において、人間は神に対する自分の誤解や誤った追求と信仰のあり方を認識するようになる。こうした人々は、真理と神の裁き、懲らしめ、訓練を受けることや、自らの性質を変えることを欲するようになる。やがてこうした人々は、この段階において、神に関する観念と想像を徐々に捨てるようになる。それと同時に、こうした人々は神に関する自分の誤った認識を正し、神に関する正しい基本情報を得る。この段階の人々が持つ認識は、それほど詳細でも正確でも無いが、少なくとも神に関する自分の観念や誤った認識や誤解を徐々に捨てるようになり、神に関して自分の観念や想像を保持しなくなる。こうした人々は、捨てる術を覚える。すなわち、自らが持つ観念に含まれる事柄や、知識やサタンから得たものを捨てる方法を知る。こうした人々は正しく、肯定的な事柄、神の言葉に由来する物事にも従うこと、真理に適合することを望むようになる。また、こうした人々は神の言葉を体験して、神の言葉を知り、実行して、自らの行動の原則そして自らの性質を変更する際の基礎として神の言葉を受け容れようとするようになる。この時期に、こうした人々は無意識のうちに神の裁きと刑罰、そして神の言葉を自分のいのちとして受け容れる。こうした人々が神の裁き、刑罰、そして神の言葉を受け容れる時、こうした人々は、自分の心の中で信じる神が実在されることを認識し、感じることができるようになってゆく。神の言葉と自分自身の経験と生活の中で、こうした人々は、自分の運命の上には、神が常にあり、人間を導き、人間に必要なものを施していることを、次第に強く感じるようになる。自分と神との関係のなかで、こうした人々は次第に神の存在を確認するようになる。したがって、こうした人々は神の業と言葉を、自分で気付く前に、無意識のうちに既に受け容れている。人間がひとたび神の言葉と業を受け容れると、人間は自分自身や、自分の持つ観念、自分の知識、想像を、終わること無く否定し続けると同時に、真理とは何か、神の心とは何かを終わること無く求め続けるようになる。人間が持つ神に関する認識は、発達のこの時期では極めて表層的であり、その認識を明確に説明したり、具体的に説明したりできない。また、この時期の人間は、感覚的にしか理解していない。しかしながら、この段階と、その前の3段階を比較すると、この段階は未熟ではあるが、既に成長に必要な要素と神の言葉による施しを享受して芽が出始めている。この段階は、地中の種のようなもので、水分と栄養素を得ると、土を割って芽を出す。そしてこの萌芽が、新たないのちの誕生を意味する。新たないのちの誕生により、人間はいのちの徴候を感じることができるようになる。いのちを得た人間は、そのいのちにより成長する。したがって、こうした基礎の上で、人間は次第に神への信仰の然るべき道へと進み、自分の持つ観念を捨て、神の導きを得て、必然的に一歩ずつ成長を遂げてゆく。この成長は、何を基準として計測されるであろうか。この成長は、神の言葉に関する人間の経験と、神の義の性質の真の理解にしたがって計測される。この成長段階では、神と神の本質に関する自分の認識を自分自身の言葉で正確に説明するのが極めて困難であると感じるものの、こうした人々は神の恵みにより悦楽を追求しようとすることも、神への信仰の背後にある自分自身の目的、すなわち神の恵みの獲得を追求することも無くなる。その代わりに、こうした人々は、神の言葉に基づいて生活することを求め神の救いの対象となることを求める。さらに、こうした人々は自信を持って神の裁きと懲罰を受ける準備が出来ている。これが、この成長段階にある人々を示す徴候である。
この段階にある人々は、神の義なる性質に関する認識を一部持っているものの、その認識は極めて不明瞭である。こうした人々は、その認識を明瞭に説明することができない一方、自分自身の中に何かを得たと感じる。なぜなら、神の刑罰と裁きにより神の義なる性質に関して、ある程度の認識と理解を得たからである。しかしながら、その認識は極めて表面的であり、初歩段階のものに過ぎない。こうした人々には、神の恵みを取り扱う上での具体的な意見を持つ。この意見は、自分が追求する目的とその追求方法に表出される。こうした人々は、もし自分達が神の言葉を体験してなお、自分達が真理を追究せず、現実的に真理に入ることを追求せず、神を満足させ、知ろうとしないままで居たならば、神への信仰に莫大な損失が生まれるということを、神の言葉や業、人間に対する様々な必要条件や露呈により、理解している。これらの人々は、神の恵みを享受している量にかかわらず、自分の性質を変えること、神を満足させ、神を知ることは不可能であることを心得ており、自分達が引き続き神の恵みのなかで生活したならば、自分達が成長し、いのちを獲得し、救いを得ることが出来ないことを、心得ている。要するに、神の言葉を真に体験することが出来ず、神の言葉を通して神を知ることが出来ない場合、永遠に赤子の段階に留まり、いのちにおいて一歩も成長することが無い。あなたが永遠に赤子の段階に留まり、神の言葉の現実に入ることが出来ず、あなたのいのちとして神の言葉を持つことがなく、神に対する真の信仰と認識を持つことがない場合、あなたには、神により完全な者とされる可能性があるだろうか。したがって、神の言葉の現実に入る者、神の言葉を自分のいのちとして受け容れる者、神の刑罰と裁きを受け容れ始める者、腐敗した性質が変化を始めている者、真理を求める心があり、神を知りたい、神の救いを享受したいという望みがある者は、全て真のいのちを持つ人々である。これが、4番目の種類の成長する子供の段階、少年期にある人々である。
5番目の種類の人間は、成熟した、成年の段階である。
この成長段階では、まだよちよち歩きの前進と後退を繰り返す幼児期を終え、人々のいのちは安定し、停滞することなく前進し、前進を阻むことが出来るものは誰も居ない。前途には依然として険しい苦難が待ち受けているが、これらの人々はもはや弱くもなく、恐れることもなく、手探りで前進することも、方向を見失うことも無くなる。こうした人々の基礎は神の言葉の実経験に深く根ざしている。こうした人々の心は、神の威厳と偉大さに引かれ続けている。こうした人々は、神の後に続き、神の本質を知り、神の全てを知ることを切望する。
この段階の人々は、自分が信じている相手のこと、神を信じるべき理由、自分のいのちの意味を、既に明確に認識しており、また神が表出することがすべて真理であることも、明確に認識している。こうした人々は、長年の経験から、神の裁きと刑罰無しでは、神を満足させることも、神を知ることも、神の前に実際に出ることも決して出来ないことを理解している。こうした人々の心には、試されることにより神の義なる性質を知り、純粋な愛を得ると同時に、神を真に深く理解し知るために、神によって試されたいという強い願望がある。この段階の人々は、神の恵みを享受してパンを食べて満足する幼児の段階に、既に完全に別れを告げている。こうした人々は、もはや神に対して寛容さと憐れみを求めて法外な望みをかけるようなことはせず、むしろ自分達の腐敗した性質を離れ、神を満足させるために、終わることの無い刑罰と裁きを受けることを望むだけの自信を身に付けている。こうした人々の神に関する認識や追求、そして自分の最終目標の追求は、全て自分の心の中で完全に明瞭な状態にある。したがって、成人期段階の人々は、おぼろげな信仰の段階、その後の恵みにより救いを獲得する段階、試練に耐えられない未熟な段階、不明瞭な段階、手探りで進む段階、頻繁に進むべき方向を見失う段階、突然の高熱や低温が繰り返される不安定な段階、目隠しされたまま神に付き従う段階を、既に完了している。この種の人々は、神の啓示と光を頻繁に受け、神との真の関係と交わりを頻繁に行う。この段階で生活する人々は、神の心の一部を既に把握し、自分達の行動の中に、真理の原則を見出すことが可能であり、神の望みを満足させる方法を心得ている、と言えるであろう。それに加えて、既にこうした人々は神を知る道を見出し、自分が持つ神に関する認識について証をし始めている。段階的な成長過程のなかで、こうした人々は、人間を創造した神の心、人間を経営する神の心など、神の心に関する漸進的な理解と認識を身に付けて来た。さらに、こうした人々は、本質という意味での神の義なる性質に関する漸進的な理解と認識も身に付けてきた。この認識は、人間の観念や想像により代えることの出来ないものである。この段階では、ある者のいのちが完全に成熟している、またはその者を義である、完全であるとは言えないものの、こうした人々は、既にいのちの成熟段階に向けて歩み出している。こうした人々は、既に神の前に来て、神と、その言葉と向かい合うことが出来る。この種の人間は、従前に沢山の神の言葉や、多くの試練と鍛錬、裁きと刑罰を極めて多く経験しているため、この種の人間の神への服従は、相対的ではなく、絶対的である。こうした人々の神に関する認識は、無意識から明瞭かつ正確な認識へ、表面的なものから深層的なものへ、不明瞭から詳細かつ具体的なものへ、と変化している。また、困難な手探りによる前進と受動的な要求から、努力不要の認識と積極的に証をすることへと変化している。この段階の人々は、神の言葉の真理に関する真実を持ち、ペテロのような完全への道を歩み始めていると言えるであろう。これが、成熟した成人の段階、5番目の種類の人間である。
2018年12月31日月曜日
全能神教会の御言葉の朗読動画「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」 その2
全能神は言われた。「三つの段階の働きは、神の経営(救い)全体の核心にあるもので、 その三つの段階の中に、神の性質、そして神であるものが表されているのである。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにしてその性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの英知も知らず、そして神が人類を救う様々なやり方や、人類全体に対する神の心を知らないままでいる。三つの段階の働きは、人類を救う働きの完全な表明といえる。三つの段階の働きを知らない人々は、聖霊の働きの様々な手段や原則を知らないままでいる。つまり、一つの段階の働きからそのまま残っている教義に厳格にこだわる人々は、神を教義に限定する人たちであり、神に対する彼らの信仰は曖昧で不確かである。そのような人たちは、決して神の救いを得ることがないだろう。」
『言葉は肉において現れる』より
場所:
日本
2018年12月19日水曜日
全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 2」5
(2) 人間は誠心誠意の悔い改めにより神の憐れみと寛容を獲得する
以下に、「神によるニネベの救い」の聖句を上げる。
(ヨナ書1:1-2)ヤーウェの言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。
(ヨナ書3章)時にヤーウェの言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナはヤーウェの言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。
(ヨナ書4章)ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、ヤーウェに祈って言った、「ヤーウェよ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それでヤーウェよ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。ヤーウェは言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。時にヤーウェ神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。ヤーウェは言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。
ニネベの聖句の概要
「神によるのニネベの救い」の聖句は長いものではないが、この聖句から神の義なる性質の別の側面を垣間見ることができる。その側面とは具体的に何を指すかを理解するためには、聖句で神の業を確認する必要がある。
それでは、この聖句の冒頭部分を検討する。(ヨナ書1:1-2)「ヤーウェの言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである』。」この部分では、ヤーウェ神がニネベの都へ向かうようヨナに命じたことが分かる。神がヨナにニネベへ向かうよう命じたのはなぜだろうか。それは聖書に明記されている。ニネベの町の人々の悪がヤーウェ神の目に留まり、神はヨナを遣わし、ヤーウェが行おうとしている業について人々に知らせようとした。ヨナが何者かについては記述が無いが、無論それは神を知ることとは無関係である。したがって、ヨナについて知る必要は無い。必要なのは、神がヨナに命じた内容と、命じた理由を理解することである。
ニネベに届いたヤーウェ神の警告
この聖句の次の部分、ヨナ書第3章に進む。「ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、『四十日を経たらニネベは滅びる』と言った。」この言葉は、神がニネベの人々に伝えるために直接ヨナに託した言葉である。またこの言葉は、当然ながら、ヤーウェがニネベの人々に伝えることを望んでいたものであった。この言葉からは、ニネベの人々の悪が神の目に触れたため、神がニネベの人々に嫌悪感を抱き、ニネベを滅ぼすことを望んでいたことが分かる。しかし、神がニネベを滅ぼす前に、神はニネベの人々にその旨を通知すると同時に、ニネベの人々に、悪を悔い改め、再出発する機会を与えた。この機会は40日間であった。つまり、ニネベの人々が悔い改めて罪を認め、40日以内にヤーウェ神の前にひれ伏さなかった場合、神はニネベの町を、ソドムと同様に滅ぼそうとしていた。これがヤーウェ神がニネベの人々に伝えることを望んだ内容であった。これは単なる宣告ではなかったことは明白である。この宣告はヤーウェ神の怒りを伝えるのみならず、ニネベの人々に対するヤーウェ神の姿勢を伝えるものでもあり、同時にこの簡単な宣告は、ニネベの町で生活する人々への厳粛な警告としての作用もあった。この警告では、ニネベの町の人々の悪がヤーウェ神の嫌悪を買うに至ったこと、人々の悪業により、人々は程なくして滅びの危機に見舞われること、したがって、ニネベの人々は喫緊の大惨事が待ち受けていることが伝えられた。
ヤーウェ神の警告に対するニネベとソドムの反応の明らかな相違点
滅びる、とは何を意味するであろうか。言葉通りに解釈すれば、消滅するということである。しかし、どのようにして消滅するであろうか。一体誰が町全体を滅びさせることができようか。当然、そのようなことは人間には不可能である。ニネベの人々は愚かではなかったので、この宣告を聞いてすぐに、その旨を理解した。ニネベの人々は、その宣告が神から伝えられたものであること、神が業を行うつもりであること、自分達の邪悪さがヤーウェ神の怒りに触れ、その怒りが自分達に対するもので、程なくしてニネベの町も自分達も滅ぼされるであろうことを理解した。ヤーウェ神の警告に対し、ニネベの人々はどのように行動したであろうか。聖書では、王から一般人まで、ニネベの人々の反応が詳細に記載されている。聖句には、「そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、『人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。…』とある。
ヤーウェ神の宣告を聞いた後、ニネベの人々はソドムの人々が見せた態度とは正反対の態度を取った。ソドムの人々は、何の躊躇もなく、神に反抗し、邪悪を重ねたが、ニネベの人々は、この宣告を聞いた後、それを無視することも、それに反抗することも無く、神を信じ、断食を命じた。ここで「信じ」、とは何を意味するであろうか。言葉自体は、信仰と服従を意味する。ニネベの人々が実際に取った行動で説明すれば、ニネベの人々は、神は言葉通りの業を行うことが可能であり、またその通り実行することを信じ、悔い改めることを望んだ、という意味である。ニネベの人々は喫緊の災いに瀕して恐れを感じていたであろうか。ニネベの人々が恐れたのは、信仰のためである。ニネベの人々の信仰と恐れは、何によって証明することが出来るであろうか。それは聖句にある通りである。すなわち、「断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。」つまり、ニネベの人々には真の信仰があり、その信仰から恐れが生まれ、その結果として、断食と粗布の着用が行われた。ニネベの人々は、こうして悔い改めの開始を示した。ソドムの人々とは全く対照的に、ニネベの人々は神に反抗しなかっただけでなく、自分達の行動により悔い改めを明示した。無論、これはニネベの一般人だけでなく、王も例外ではなかった。
2018年12月18日火曜日
全能神教会の御言葉の朗読動画「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」 その1
全能神は言われた。「三つの段階の働きは、神の経営(救い)全体の核心にあるもので、 その三つの段階の中に、神の性質、そして神であるものが表されているのである。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにしてその性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの英知も知らず、そして神が人類を救う様々なやり方や、人類全体に対する神の心を知らないままでいる。三つの段階の働きは、人類を救う働きの完全な表明といえる。三つの段階の働きを知らない人々は、聖霊の働きの様々な手段や原則を知らないままでいる。つまり、一つの段階の働きからそのまま残っている教義に厳格にこだわる人々は、神を教義に限定する人たちであり、神に対する彼らの信仰は曖昧で不確かである。そのような人たちは、決して神の救いを得ることがないだろう。」
『言葉は肉において現れる』より
場所:
日本
2018年12月15日土曜日
全能神教会のいのちの経験讃美歌「神の愛は私の心を溶かした」
あなたの呼びかけを聞いて
私は御前に帰る
御言葉は私を照らし
自らの堕落を悟る
Ⅰ
私はあなたに冷たく
あなたを傷つけ 悲しませた
頑なに反抗して あなたを独りにした
人間への愛は何故痛みで報われるのか?
自分の頑なさと ひどい堕落を私は憎む
私はあなたに会う価値もなく
その愛にも価しない
私はこんなにも 反抗的な人間なのだ
どのようにして私はあなたの心を知り
どのようにして私はあなたの愛を悟れようか?
あなたの愛は真実で
私は多くの借りがある
Ⅱ
あなたは誰のために
肉となり恥を忍ばれたのか?
人間の拒絶に苦しみ 惨めな生活だったが
あなたは一度も 不平を言われなかった
あなたは天から来て
頭を休める場所さえない
世の楽しみを味わったこともなく
ただ人々を救い
心を得るために静かに真理を表わす
私が罰せられる時 あなたはそばにいて下さり
精錬される時 あなたの心は痛む
私が悲しい時 あなたはそこにおられる
私に欠けるところを あなたは埋めて下さり
愛に直面する時 心は引き裂かれる
あなたの愛は心を溶かし
私の心は変わった
Ⅲ
どうして待ち続け 遅らせることが出来ようか?
御心を思いやり 愛に報い
精錬と苦痛に耐え
満足させるために証ししよう!
あなたを愛し生きるため 私の心は覚まされた
真理を追求し 御言葉によって生きよう
あなたを愛し ついて行き
永久に証ししよう!
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
2018年12月5日水曜日
全能神教会の御言葉カード
2018年12月4日火曜日
全能神の発表「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」
受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊にまとわれた肉である。この肉はどのような肉の人間とも異なっている。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が肉となったものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はどのような人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性であれ、神性であれ、いずれも天の父の心に従う。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。ゆえに、受肉した神は神自身の経営(救い)を妨げるような働きは絶対に行わない。このことをすべての人が理解すべきである。聖霊の働きの本質は人を救うことであり、また神自身の経営のためである。同様に、キリストの働きは人を救い、神の心を達成するためのものである。神が肉となったので、キリストは自身の肉のうちにある本質を知っており、よってキリストの肉は神の働きを引き受けるに充分である。神の霊のなすすべての働きは受肉の期間にキリストがなす働きに取って代わられる。受肉の期間を通してすべての働きの核心にあるのはキリストの働きである。それはほかのどの時代の働きとも混同することはできない。そして神が肉となるのであるから、神は肉としての働きをする。神は肉の形をとって来るので、自身のなすべき業を肉となったままで成し遂げる。神の霊であれ、キリストであれ、どちらも神自身であり、神はなすべき働きをし、果たすべき宣教の働きをする。
神の本質そのものが権威を行使するが、キリストは神によってもたらされる権威に完全に服従することができる。霊の働きであれ、肉の働きであれ、互いに相反するものではない。すべての被造物におよぶ権威となるのは神の霊である。神の本質を持った肉も権威を持っているが、肉を持った神は父なる神の心に沿ったすべての働きをすることができる。こうしたことは人にはすることも考えることもできない。神自身が権威であるが、神の肉は神の権威に服従することができる。この言葉に秘められた意味はこうである。「キリストは父なる神の心に服従する」。神は霊であり、救いの働きができるように、受肉した神も救いの働きをなすことができる。いずれにしても、神自身が神自身の働きをする。神は阻止することも、干渉することもせず、まして互いに対立する働きをすることはない。霊と肉による働きの本質は似ているからである。霊であれ、肉であれ、どちらも一つの心を満たし、同じ働きを管理するために働くからである。霊と肉とは二つの異なる性質を持っているが、その本質は同じである。どちらも神自身の本質を持ち、神自身の身分を持っている。神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善良さと、すべての愛の現れである。肉の体を持っていても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてさえも、神は心底から父なる神に従い、他の選択肢は考慮しない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうすべてのものはサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンに似た特質を持っている理由は、サタンが人に働き、サタンによって堕落させられたからである。キリストはサタンによって堕落させられていない。ゆえにキリストは神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。どんなに働きが困難で、肉が弱くても、キリストは肉のうちに生きながら、神自身の働きを阻止するようなことは決してせず、ましてや不従順な行いで父なる神の心を無視するようなことは行わない。キリストは父なる神の心に逆らうくらいならむしろ肉の痛みに耐える。イエスが祈って「父よ、もしできることならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。けれどわたしの思いのままにではなく、心のままにしてください。」と言ったようにである。人は意志で選択するが、キリストはそうしない。キリストは神自身の身分を持っているが、肉を持つ神の観点から、なお父なる神の心を求め、父なる神がキリストに委ねた任務を果たす。これは人には不可能なことである。サタンから発生するものは神の本質を持つことができず、神に逆らい、抵抗する性質しか持ちえない。その性質は完全に神に服従することができず、ましてや神の心に進んで従うことなどできない。キリスト以外の人間はみな神に反する行いをすることができ、神に委ねられた働きを直接引き受けることのできる者はひとりもおらず、神の計画を自分自身がなすべき本分と考えることのできる者もひとりもいない。父なる神の心に服従することはキリストの本質である。そして神への不従順はサタンの特性である。この二つの性質は相いれないものであり、サタンの特質を持つものでキリストと呼ばれ得るものはひとりもいない。キリストの代わりとして人が神の働きをすることができないのは、人には神の本質がひとつも備わっていないからである。人は自己の利益と将来の可能性のために神に仕えて働くが、キリストは父なる神の心を遂行するために働く。
キリストの人間性はキリストの神性によって支配されている。キリストは肉を持っているが、その人間性は肉を持った人間のそれとはまったく同じではない。キリストは特有の性格を持っており、これもキリストの神性によって支配されている。キリストの神性は弱さを持たない。キリストの弱さはキリストの人間性の持つ弱さを指す。この弱さはある程度キリストの神性を制限するが、そのような限界は一定範囲内、一定時間内に限られ、際限のないものではない。キリストが神性による働きをする時が来ると、それはキリストの人間性とは関係なく行われる。キリストの人間性はすべてキリストの神性によって指示される。キリストの人間性による普通の生活とは別に、人間性によるほかのすべての行動はキリストの神性によって影響され、働きかけられ、指示される。キリストは人間性を持っているが、それは神性による働きを邪魔するものではない。それはキリストの人間性がキリストの神性によって指示されているからにほかならない。キリストの人間性は、ほかの人々の前ではその行いにおいて成熟していないが、それはキリストの神性のなす普通の働きに影響を与えることはない。キリストの人間性は堕落していないとわたしが言うのは、キリストの人間性はその神性によって直接指示され、普通の人のよりも高度な理知を持っていることを意味している。キリストの人間性は働きにおいて神性によって指示されることに最も適している。キリストの人間性は神性による働きを現し、神性による働きに服従することに最高の能力を発揮する。神が肉を持って働きをなす時、神は肉を持つ人が果たすべき本分を決して見失わない。キリストは天にいる神を真心で崇拝することができる。キリストは神の本質を持ち、その身分は神自身のそれと同じである。それは、キリストはこの地上に来、人の外観を持つ被造物となり、かつては持っていなかった人間性を今は持っているということでしかない。キリストは天にいる神を崇拝することができるということだ。これはキリストが神自身であるということで、人にはまねのできないことである。キリストの身分は神自身である。キリストが神を崇拝するのは、肉の観点からである。ゆえに、「キリストは天にある神を崇拝する」という言葉は間違いではない。キリストが人に要求するものはまさに神自身の存在である。キリストが人間に要求する事柄は、自身も既に成し遂げている。キリストは人間に要求しておきながら自らはそれらから免れるようなことはしない。そのようなすべてがキリストの存在を作り上げているからである。どのように働いても、神に敵対するようなやり方でキリストが働くことはない。キリストが人に何を要求しても、人がなしえる以上の要求はしない。キリストのすることはひたすら神の心を行うことであり、神の経営(救い)のためである。キリストの神性はすべての人を超越するもので、ゆえにキリストはあらゆる被造物の最高の権威である。この権威はキリストの神性、すなわち神自身の性質と存在そのものであり、それはキリストの身分を決定する。よってキリストの人間性がいかに普通であっても、キリストが神自身の身分を持っていることは否定できない。どのような観点からキリストが語っても、どのようにキリストが神の心に従っても、キリストは神自身ではないと言うことはできない。愚かで無知な者はしばしばキリストの普通の人間性を欠陥と見なす。どれほどキリストが自身の神性を現し、明らかにしても、人は彼がキリストであることを認めることができない。そしてキリストが服従と謙遜を示せば示すほど、愚かな人間は益々キリストを軽くあしらう。キリストに対して排他的、侮蔑的な態度をとり、一方で尊大な姿の「偉人たち」を高い地位に置いて崇拝する者たちさえいる。人の神に対する抵抗と不従順は、肉を持った神の本質が神の心に従うという事実とキリストの普通の人間性とから来る。ここに人の神に対する抵抗と不従順の根源がある。もしキリストが人間としての外観を持たず、被造物としての観点から父なる神の心を求めることもせず、超人間性を持っていたならば、不従順になる人間はおそらくいないだろう。人が常に天にいる目に見えない神の存在を信じようとする理由は、天にいる神は人間性を持たず、被造物としての性質を一つも持たないからである。そこで人は常に天にいる神には最大の尊敬を払い、キリストには侮蔑的な態度をとる。
キリストは地上で神自身の代わりに働くが、肉の姿を人々に見せようと来るのではない。すべての人がキリストの姿を見るために来るのではない。自身の手によって人が導かれ、新たな時代へ入ることができるように来るのである。肉なるキリストの役割は、神自身、つまり肉における神の働きを果たすことであり、人にキリストの肉の本質を十分理解させることではない。キリストがいかに働いても、それは肉の可能性を超えるものではない。キリストがいかに働いても、普通の人間性を持つ肉として働くのであり、神の真の姿を全て明らかにしてはいない。それに加えて、キリストの働きは、人間が思うような超自然的なものでも、計り知れないものでもない。キリストは肉において神自身を現わし、神自身のするべき働きを直接遂行するけれども、父なる神の存在を否定したり、自身の働きを誇示したりしない。むしろ、謙虚に肉のうちに自身を隠したままにする。キリスト自身以外でキリストを名乗る者はみな、キリストの性質を持ってはいない。そのような偽キリストたちの高慢で己を称えるような性質をキリストの性質と比べたならば、キリストの肉がどのようなものであるかは明白である。偽りの多い偽キリストであればあるほど自己を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の性質を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、キリストは働きを通して身分を明確にし、自身の現すものによって自身の本質を証明する。キリストの本質は根拠のないものではない。キリストの身分は自身の手によって握られてはいなかった。それはキリストの働きと本質によって決定される。キリストは神自身の本質を持っており、神自身の働きをすることができるが、やはりキリストは霊とは違って、肉である。キリストは霊の性質を持つ神ではない。肉の外殻を持った神である。したがって、いかに普通で弱くとも、どのように父なる神の心を求めても、キリストの神性は否定できない。肉となった神のうちにあるものは、普通の人間性とその弱さだけではない。そこにはキリストの肉における行いとともに、神性の素晴らしさと奥深さも存在する。ゆえに人間性と神性の両方が実際に、具体的にキリストのうちに存在する。これは無意味や超自然的なものでは全くない。キリストは働きを遂行するという本来の目的を持って地上に来る。地上での働きを遂行するためには普通の人間性を持っていることは必須である。そうでなければ、いかにキリストの神性が偉大であっても、その本来の機能を有効に使うことができない。キリストの人間性は非常に重要であるが、それはキリストの本質ではない。キリストの本質は神性である。ゆえに、キリストが地上で職分を始める瞬間はキリストがその神性を現し始める瞬間である。キリストの人間性は肉を持った普通の生活を維持するためだけにあり、それにより、キリストの神性が肉において普通に働きを行うことができるのである。キリストの働き全体を指示するのはキリストの神性なのである。キリストが働きを完了する時は、自身の宣教の働きを全うした時である。人が知るべきことはキリストの働き全体であり、働きを通して人間が自身を知るようにする。働きを行う過程で、キリストは自身の神性を充分に現す。それは人間性によって汚された性質でもなければ、人間の考えや振る舞いで汚されてもいない。キリストの職分が終わりを迎えるまでには、キリストは現わすべきその性質を全て表現し尽くすであろう。キリストの働きは人によって指示されない。キリストの性質の現れもいたって自由であり、精神で支配されることも、思考で処理されることもなく、自然に啓示する。これは人には成し遂げることができない。環境が厳しかったり、条件が合わなかったりしても、キリストは適切な時にその性質を現すことができる。キリストである者がキリストであることを現し、一方キリストでない者たちはキリストの性質を持たない。ゆえに、たとえすべての人たちがキリストに抵抗したり、キリストに対する見解を持ったりしたとしても、キリストによって現わされた性質が神の性質であるということを、人間の見解に基づいて否定できる者はいない。真心でキリストを求め、意志を持って神を求めるすべての者は、キリストの神性の現れに基づいて彼はキリストであると認めるであろう。人の観念と一致しないキリストの側面に基づいて彼らがキリストを否定することはない。人はとても愚かであるが、すべての人は、何が人の意志によるもので、何が神から出たものかをはっきりと知っている。多くの人々は自分の考えに基づいて、意図的にキリストを拒否しているというだけである。そうでなければ、キリストの存在を否定する理由など誰にもない。というのはキリストによって現わされた神性は確かに存在し、キリストの働きはすべての人が肉眼で確認できるものだからである。
キリストの働きと現れはキリストの本質を決定する。キリストは託された働きを真心を持って完成することができる。キリストは天にいる神を心から崇拝し、真心を持って父なる神の心を求めることができる。これはすべてキリストの本質によって決定されている。そしてキリストの自然な現れもキリストの本質によって決定されている。キリストの「自然な現れ」と呼ばれるのは、キリストの表現が模倣でも、人による教育の結果でも、長年に亘る人による育成の結果でもないからである。キリストはそれを学んだのでも、それでわが身を飾ったのでもない。むしろ、それはキリストのうちに本来的に備わっているものである。人はキリストの働き、表現、人間性、そして普通の人間性を持った全生涯を否定するかもしれないが、キリストが真心で天にいる神を崇拝することを否定できるものは一人もいない。キリストが父なる神の心を果たすために来たことを否定できる者はおらず、キリストが父なる神を心から求めていることを否定できる者もいない。人が想像するように、彼の姿は五感に心地よいわけでも、話す言葉に特別な重みがあるわけでも、その働きに地を揺るがし、天を揺さぶるほどの驚きがあるわけでもないが、彼は確かにキリストであり、真心で父なる神の心を全うし、父なる神に完全に服従し、死にまで従う者である。これは彼の本質がキリストの本質であるからである。この事実は人には信じがたいものだが、確かに存在する。キリストの職分が全うされた時、キリストの働きを通して、キリストの性質と存在は天にいる神の性質と存在を現すことを、人は知るであろう。その時、キリストがその働きを通して成し遂げたものを見て、この者はまことに肉となった言葉であり、血と肉による人間とは異なることがはっきりと分かるであろう。キリストの地上での働きの各段階はそれぞれ重要な意味を持つが、それぞれの段階における実際の働きを経験する人間は、彼の働きの意味を把握することができない。第二の受肉における数段階での働きに関してはとりわけそうである。キリストの言葉を見聞きしただけで、キリストに出会ったことのない者たちのほとんどは、キリストの働きについていかなる観念も持っていない。キリストに出会い、言葉を聞き、働きを経験した者たちにとっては、働きを受け入れることが難しい。これはキリストの外見と普通の人間性が人の好みに合わないせいではないのか。キリストが去ってからその働きを受け入れる者たちはそのような困難に出遭うことはないだろう。彼らはキリストの働きを単に受け入れ、キリストの普通の人間性に接することがないからだ。人は神に対する己の考えを捨てることができず、キリストをあれこれと入念に調べ上げる。これは人がキリストの外見だけに注目し、キリストの働きと言葉に基づいた本質を認めることができないことが原因だ。もし人がキリストの外見に目を閉じ、キリストの人間性を討論するのを避け、人には成し得ない働きをし、人には成し得ない言葉を語るその神性についてのみ語るのなら、人の観念は半分に減り、すべての人々の困難が解決することさえあり得るだろう。肉となった神が働きをする間、人はキリストに耐えることができず、キリストについてさまざまな考えを抱き、しばしば抵抗し、不従順になる。人は神の存在に耐えられず、キリストの人間性と隠れた性質に「寛容」を示すことができず、父なる神に従うキリストの本質を「赦す」ことができない。したがって、キリストは働きを終えた後、永遠に人と共に留まることができない。人はキリストが傍らで生活することを許そうとしないからである。キリストが働きをする間、人が「寛容を示す」ことができなければ、キリストが職分を全うした後、彼らの傍らで生活を続け、彼らがキリストの言葉を徐々に経験していくのを見るなど、耐えられるだろうか。そうなれば、多くの者がキリスト故に躓くのではないだろうか。人はキリストが地上で働くことだけを許す。これが人の寛容の最大許容範囲である。働きのためでなければ、人はとっくにキリストを地上から追放しているだろう。それほどであれば、働きを終えてしまった後にどれだけ人は寛容を示すことができるだろうか。人はキリストを処刑し、死に至るまで拷問するのではないだろうか。この者がキリストと呼ばれなければ、人間の中で働きをすることはまず出来なかった。もしキリストが神自身の身分を持って働きをせず、普通の人間としてのみ働いたなら、人はキリストが発する言葉にひとつも耐えることはせず、ましてや働きとなればほんの一部でさえ耐えることはしなかっただろう。そのようなわけで、キリストは働きのうちにのみ身分を持つことができる。このようにして、キリストの働きは、こうしなかった場合よりも強力である。それは、人はみな立派な身分や地位のある者に従おうとするからである。キリストが神自身の身分を持って働かなかったなら、神自身として現れなかったなら、キリストが働くチャンスは全くなかったであろう。神の本質を持ち、キリストであるという事実にもかかわらず、人がその態度を和らげてキリストが人間の間で容易に働けるようにはしない。キリストは神自身の身分を持って働く。そのような働きは、身分を持たずになされる働きよりも何十倍も強力だが、それでも人はキリストに完全には服従しない。人はキリストの身分にのみ従い、キリストの本質には従わないからである。そうであれば、キリストがその地位から身を引く時がくるならば、人は一日たりともキリストが生き長らえることを許せるだろうか。神は人と共に地上に生き、自身の手でなした働きが後年もたらす効果を見たいと考える。しかしながら、人はキリストがたった一日でも留まることに耐えられないため、キリストは諦めるしかなかった。神が人の中でするべき働きをなし、職分を全うすることを許すのが人の寛容と優しさの限界である。キリストに直接征服された者たちはそのような優しさを示すが、彼らでもキリストが働きを終えるまで留まることを許すだけで、その後はたった一瞬でも留まることを許さない。そうであれば、キリストに征服されていない者たちはどうだろう。人が肉となった神をこのように扱うのは、彼が普通の人の外殻を持ったキリストであるからなのではないのだろうか。彼が神性だけを持ち、普通の人間性を持たなかったならば、人にとっての困難はいとも容易に解決されるのではないのだろうか。彼の本質はまさに父なる神の心に従うキリストの本質であるにもかかわらず、人は彼の神性をしぶしぶ認めるだけで、普通の人としての彼の外殻には興味を示さない。そのようなわけで、キリストは人の中で喜びも悲しみも分かち合うために人の間に住まうという働きを取り消すしかなかった。人はもはやキリストの存在に耐えられなかったからである。
神の本質そのものが権威を行使するが、キリストは神によってもたらされる権威に完全に服従することができる。霊の働きであれ、肉の働きであれ、互いに相反するものではない。すべての被造物におよぶ権威となるのは神の霊である。神の本質を持った肉も権威を持っているが、肉を持った神は父なる神の心に沿ったすべての働きをすることができる。こうしたことは人にはすることも考えることもできない。神自身が権威であるが、神の肉は神の権威に服従することができる。この言葉に秘められた意味はこうである。「キリストは父なる神の心に服従する」。神は霊であり、救いの働きができるように、受肉した神も救いの働きをなすことができる。いずれにしても、神自身が神自身の働きをする。神は阻止することも、干渉することもせず、まして互いに対立する働きをすることはない。霊と肉による働きの本質は似ているからである。霊であれ、肉であれ、どちらも一つの心を満たし、同じ働きを管理するために働くからである。霊と肉とは二つの異なる性質を持っているが、その本質は同じである。どちらも神自身の本質を持ち、神自身の身分を持っている。神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善良さと、すべての愛の現れである。肉の体を持っていても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてさえも、神は心底から父なる神に従い、他の選択肢は考慮しない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうすべてのものはサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンに似た特質を持っている理由は、サタンが人に働き、サタンによって堕落させられたからである。キリストはサタンによって堕落させられていない。ゆえにキリストは神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。どんなに働きが困難で、肉が弱くても、キリストは肉のうちに生きながら、神自身の働きを阻止するようなことは決してせず、ましてや不従順な行いで父なる神の心を無視するようなことは行わない。キリストは父なる神の心に逆らうくらいならむしろ肉の痛みに耐える。イエスが祈って「父よ、もしできることならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。けれどわたしの思いのままにではなく、心のままにしてください。」と言ったようにである。人は意志で選択するが、キリストはそうしない。キリストは神自身の身分を持っているが、肉を持つ神の観点から、なお父なる神の心を求め、父なる神がキリストに委ねた任務を果たす。これは人には不可能なことである。サタンから発生するものは神の本質を持つことができず、神に逆らい、抵抗する性質しか持ちえない。その性質は完全に神に服従することができず、ましてや神の心に進んで従うことなどできない。キリスト以外の人間はみな神に反する行いをすることができ、神に委ねられた働きを直接引き受けることのできる者はひとりもおらず、神の計画を自分自身がなすべき本分と考えることのできる者もひとりもいない。父なる神の心に服従することはキリストの本質である。そして神への不従順はサタンの特性である。この二つの性質は相いれないものであり、サタンの特質を持つものでキリストと呼ばれ得るものはひとりもいない。キリストの代わりとして人が神の働きをすることができないのは、人には神の本質がひとつも備わっていないからである。人は自己の利益と将来の可能性のために神に仕えて働くが、キリストは父なる神の心を遂行するために働く。
キリストの人間性はキリストの神性によって支配されている。キリストは肉を持っているが、その人間性は肉を持った人間のそれとはまったく同じではない。キリストは特有の性格を持っており、これもキリストの神性によって支配されている。キリストの神性は弱さを持たない。キリストの弱さはキリストの人間性の持つ弱さを指す。この弱さはある程度キリストの神性を制限するが、そのような限界は一定範囲内、一定時間内に限られ、際限のないものではない。キリストが神性による働きをする時が来ると、それはキリストの人間性とは関係なく行われる。キリストの人間性はすべてキリストの神性によって指示される。キリストの人間性による普通の生活とは別に、人間性によるほかのすべての行動はキリストの神性によって影響され、働きかけられ、指示される。キリストは人間性を持っているが、それは神性による働きを邪魔するものではない。それはキリストの人間性がキリストの神性によって指示されているからにほかならない。キリストの人間性は、ほかの人々の前ではその行いにおいて成熟していないが、それはキリストの神性のなす普通の働きに影響を与えることはない。キリストの人間性は堕落していないとわたしが言うのは、キリストの人間性はその神性によって直接指示され、普通の人のよりも高度な理知を持っていることを意味している。キリストの人間性は働きにおいて神性によって指示されることに最も適している。キリストの人間性は神性による働きを現し、神性による働きに服従することに最高の能力を発揮する。神が肉を持って働きをなす時、神は肉を持つ人が果たすべき本分を決して見失わない。キリストは天にいる神を真心で崇拝することができる。キリストは神の本質を持ち、その身分は神自身のそれと同じである。それは、キリストはこの地上に来、人の外観を持つ被造物となり、かつては持っていなかった人間性を今は持っているということでしかない。キリストは天にいる神を崇拝することができるということだ。これはキリストが神自身であるということで、人にはまねのできないことである。キリストの身分は神自身である。キリストが神を崇拝するのは、肉の観点からである。ゆえに、「キリストは天にある神を崇拝する」という言葉は間違いではない。キリストが人に要求するものはまさに神自身の存在である。キリストが人間に要求する事柄は、自身も既に成し遂げている。キリストは人間に要求しておきながら自らはそれらから免れるようなことはしない。そのようなすべてがキリストの存在を作り上げているからである。どのように働いても、神に敵対するようなやり方でキリストが働くことはない。キリストが人に何を要求しても、人がなしえる以上の要求はしない。キリストのすることはひたすら神の心を行うことであり、神の経営(救い)のためである。キリストの神性はすべての人を超越するもので、ゆえにキリストはあらゆる被造物の最高の権威である。この権威はキリストの神性、すなわち神自身の性質と存在そのものであり、それはキリストの身分を決定する。よってキリストの人間性がいかに普通であっても、キリストが神自身の身分を持っていることは否定できない。どのような観点からキリストが語っても、どのようにキリストが神の心に従っても、キリストは神自身ではないと言うことはできない。愚かで無知な者はしばしばキリストの普通の人間性を欠陥と見なす。どれほどキリストが自身の神性を現し、明らかにしても、人は彼がキリストであることを認めることができない。そしてキリストが服従と謙遜を示せば示すほど、愚かな人間は益々キリストを軽くあしらう。キリストに対して排他的、侮蔑的な態度をとり、一方で尊大な姿の「偉人たち」を高い地位に置いて崇拝する者たちさえいる。人の神に対する抵抗と不従順は、肉を持った神の本質が神の心に従うという事実とキリストの普通の人間性とから来る。ここに人の神に対する抵抗と不従順の根源がある。もしキリストが人間としての外観を持たず、被造物としての観点から父なる神の心を求めることもせず、超人間性を持っていたならば、不従順になる人間はおそらくいないだろう。人が常に天にいる目に見えない神の存在を信じようとする理由は、天にいる神は人間性を持たず、被造物としての性質を一つも持たないからである。そこで人は常に天にいる神には最大の尊敬を払い、キリストには侮蔑的な態度をとる。
キリストは地上で神自身の代わりに働くが、肉の姿を人々に見せようと来るのではない。すべての人がキリストの姿を見るために来るのではない。自身の手によって人が導かれ、新たな時代へ入ることができるように来るのである。肉なるキリストの役割は、神自身、つまり肉における神の働きを果たすことであり、人にキリストの肉の本質を十分理解させることではない。キリストがいかに働いても、それは肉の可能性を超えるものではない。キリストがいかに働いても、普通の人間性を持つ肉として働くのであり、神の真の姿を全て明らかにしてはいない。それに加えて、キリストの働きは、人間が思うような超自然的なものでも、計り知れないものでもない。キリストは肉において神自身を現わし、神自身のするべき働きを直接遂行するけれども、父なる神の存在を否定したり、自身の働きを誇示したりしない。むしろ、謙虚に肉のうちに自身を隠したままにする。キリスト自身以外でキリストを名乗る者はみな、キリストの性質を持ってはいない。そのような偽キリストたちの高慢で己を称えるような性質をキリストの性質と比べたならば、キリストの肉がどのようなものであるかは明白である。偽りの多い偽キリストであればあるほど自己を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の性質を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、キリストは働きを通して身分を明確にし、自身の現すものによって自身の本質を証明する。キリストの本質は根拠のないものではない。キリストの身分は自身の手によって握られてはいなかった。それはキリストの働きと本質によって決定される。キリストは神自身の本質を持っており、神自身の働きをすることができるが、やはりキリストは霊とは違って、肉である。キリストは霊の性質を持つ神ではない。肉の外殻を持った神である。したがって、いかに普通で弱くとも、どのように父なる神の心を求めても、キリストの神性は否定できない。肉となった神のうちにあるものは、普通の人間性とその弱さだけではない。そこにはキリストの肉における行いとともに、神性の素晴らしさと奥深さも存在する。ゆえに人間性と神性の両方が実際に、具体的にキリストのうちに存在する。これは無意味や超自然的なものでは全くない。キリストは働きを遂行するという本来の目的を持って地上に来る。地上での働きを遂行するためには普通の人間性を持っていることは必須である。そうでなければ、いかにキリストの神性が偉大であっても、その本来の機能を有効に使うことができない。キリストの人間性は非常に重要であるが、それはキリストの本質ではない。キリストの本質は神性である。ゆえに、キリストが地上で職分を始める瞬間はキリストがその神性を現し始める瞬間である。キリストの人間性は肉を持った普通の生活を維持するためだけにあり、それにより、キリストの神性が肉において普通に働きを行うことができるのである。キリストの働き全体を指示するのはキリストの神性なのである。キリストが働きを完了する時は、自身の宣教の働きを全うした時である。人が知るべきことはキリストの働き全体であり、働きを通して人間が自身を知るようにする。働きを行う過程で、キリストは自身の神性を充分に現す。それは人間性によって汚された性質でもなければ、人間の考えや振る舞いで汚されてもいない。キリストの職分が終わりを迎えるまでには、キリストは現わすべきその性質を全て表現し尽くすであろう。キリストの働きは人によって指示されない。キリストの性質の現れもいたって自由であり、精神で支配されることも、思考で処理されることもなく、自然に啓示する。これは人には成し遂げることができない。環境が厳しかったり、条件が合わなかったりしても、キリストは適切な時にその性質を現すことができる。キリストである者がキリストであることを現し、一方キリストでない者たちはキリストの性質を持たない。ゆえに、たとえすべての人たちがキリストに抵抗したり、キリストに対する見解を持ったりしたとしても、キリストによって現わされた性質が神の性質であるということを、人間の見解に基づいて否定できる者はいない。真心でキリストを求め、意志を持って神を求めるすべての者は、キリストの神性の現れに基づいて彼はキリストであると認めるであろう。人の観念と一致しないキリストの側面に基づいて彼らがキリストを否定することはない。人はとても愚かであるが、すべての人は、何が人の意志によるもので、何が神から出たものかをはっきりと知っている。多くの人々は自分の考えに基づいて、意図的にキリストを拒否しているというだけである。そうでなければ、キリストの存在を否定する理由など誰にもない。というのはキリストによって現わされた神性は確かに存在し、キリストの働きはすべての人が肉眼で確認できるものだからである。
キリストの働きと現れはキリストの本質を決定する。キリストは託された働きを真心を持って完成することができる。キリストは天にいる神を心から崇拝し、真心を持って父なる神の心を求めることができる。これはすべてキリストの本質によって決定されている。そしてキリストの自然な現れもキリストの本質によって決定されている。キリストの「自然な現れ」と呼ばれるのは、キリストの表現が模倣でも、人による教育の結果でも、長年に亘る人による育成の結果でもないからである。キリストはそれを学んだのでも、それでわが身を飾ったのでもない。むしろ、それはキリストのうちに本来的に備わっているものである。人はキリストの働き、表現、人間性、そして普通の人間性を持った全生涯を否定するかもしれないが、キリストが真心で天にいる神を崇拝することを否定できるものは一人もいない。キリストが父なる神の心を果たすために来たことを否定できる者はおらず、キリストが父なる神を心から求めていることを否定できる者もいない。人が想像するように、彼の姿は五感に心地よいわけでも、話す言葉に特別な重みがあるわけでも、その働きに地を揺るがし、天を揺さぶるほどの驚きがあるわけでもないが、彼は確かにキリストであり、真心で父なる神の心を全うし、父なる神に完全に服従し、死にまで従う者である。これは彼の本質がキリストの本質であるからである。この事実は人には信じがたいものだが、確かに存在する。キリストの職分が全うされた時、キリストの働きを通して、キリストの性質と存在は天にいる神の性質と存在を現すことを、人は知るであろう。その時、キリストがその働きを通して成し遂げたものを見て、この者はまことに肉となった言葉であり、血と肉による人間とは異なることがはっきりと分かるであろう。キリストの地上での働きの各段階はそれぞれ重要な意味を持つが、それぞれの段階における実際の働きを経験する人間は、彼の働きの意味を把握することができない。第二の受肉における数段階での働きに関してはとりわけそうである。キリストの言葉を見聞きしただけで、キリストに出会ったことのない者たちのほとんどは、キリストの働きについていかなる観念も持っていない。キリストに出会い、言葉を聞き、働きを経験した者たちにとっては、働きを受け入れることが難しい。これはキリストの外見と普通の人間性が人の好みに合わないせいではないのか。キリストが去ってからその働きを受け入れる者たちはそのような困難に出遭うことはないだろう。彼らはキリストの働きを単に受け入れ、キリストの普通の人間性に接することがないからだ。人は神に対する己の考えを捨てることができず、キリストをあれこれと入念に調べ上げる。これは人がキリストの外見だけに注目し、キリストの働きと言葉に基づいた本質を認めることができないことが原因だ。もし人がキリストの外見に目を閉じ、キリストの人間性を討論するのを避け、人には成し得ない働きをし、人には成し得ない言葉を語るその神性についてのみ語るのなら、人の観念は半分に減り、すべての人々の困難が解決することさえあり得るだろう。肉となった神が働きをする間、人はキリストに耐えることができず、キリストについてさまざまな考えを抱き、しばしば抵抗し、不従順になる。人は神の存在に耐えられず、キリストの人間性と隠れた性質に「寛容」を示すことができず、父なる神に従うキリストの本質を「赦す」ことができない。したがって、キリストは働きを終えた後、永遠に人と共に留まることができない。人はキリストが傍らで生活することを許そうとしないからである。キリストが働きをする間、人が「寛容を示す」ことができなければ、キリストが職分を全うした後、彼らの傍らで生活を続け、彼らがキリストの言葉を徐々に経験していくのを見るなど、耐えられるだろうか。そうなれば、多くの者がキリスト故に躓くのではないだろうか。人はキリストが地上で働くことだけを許す。これが人の寛容の最大許容範囲である。働きのためでなければ、人はとっくにキリストを地上から追放しているだろう。それほどであれば、働きを終えてしまった後にどれだけ人は寛容を示すことができるだろうか。人はキリストを処刑し、死に至るまで拷問するのではないだろうか。この者がキリストと呼ばれなければ、人間の中で働きをすることはまず出来なかった。もしキリストが神自身の身分を持って働きをせず、普通の人間としてのみ働いたなら、人はキリストが発する言葉にひとつも耐えることはせず、ましてや働きとなればほんの一部でさえ耐えることはしなかっただろう。そのようなわけで、キリストは働きのうちにのみ身分を持つことができる。このようにして、キリストの働きは、こうしなかった場合よりも強力である。それは、人はみな立派な身分や地位のある者に従おうとするからである。キリストが神自身の身分を持って働かなかったなら、神自身として現れなかったなら、キリストが働くチャンスは全くなかったであろう。神の本質を持ち、キリストであるという事実にもかかわらず、人がその態度を和らげてキリストが人間の間で容易に働けるようにはしない。キリストは神自身の身分を持って働く。そのような働きは、身分を持たずになされる働きよりも何十倍も強力だが、それでも人はキリストに完全には服従しない。人はキリストの身分にのみ従い、キリストの本質には従わないからである。そうであれば、キリストがその地位から身を引く時がくるならば、人は一日たりともキリストが生き長らえることを許せるだろうか。神は人と共に地上に生き、自身の手でなした働きが後年もたらす効果を見たいと考える。しかしながら、人はキリストがたった一日でも留まることに耐えられないため、キリストは諦めるしかなかった。神が人の中でするべき働きをなし、職分を全うすることを許すのが人の寛容と優しさの限界である。キリストに直接征服された者たちはそのような優しさを示すが、彼らでもキリストが働きを終えるまで留まることを許すだけで、その後はたった一瞬でも留まることを許さない。そうであれば、キリストに征服されていない者たちはどうだろう。人が肉となった神をこのように扱うのは、彼が普通の人の外殻を持ったキリストであるからなのではないのだろうか。彼が神性だけを持ち、普通の人間性を持たなかったならば、人にとっての困難はいとも容易に解決されるのではないのだろうか。彼の本質はまさに父なる神の心に従うキリストの本質であるにもかかわらず、人は彼の神性をしぶしぶ認めるだけで、普通の人としての彼の外殻には興味を示さない。そのようなわけで、キリストは人の中で喜びも悲しみも分かち合うために人の間に住まうという働きを取り消すしかなかった。人はもはやキリストの存在に耐えられなかったからである。
場所:
日本
2018年11月30日金曜日
全能神の発表「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」
神が受肉したのは、その働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体をもち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体をもつ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象であるため、神は救済の働きの全段階で、人間をその働きの唯一の対象としている。人間は死すべき存在で、生身の体をもっているが、人間を救える唯一の存在は神なのである。そこで、その働きでよりよい成果が得られるよう、神は働きを行うために人間と同じ属性をもつ肉体をもたなければならない。神がその働きを行うために受肉しなければならないのは、人間が肉体をもっていて、罪を克服することも、肉体を捨て去ることもできないためだ。受肉した神の本質と存在は人間の本質や存在とは全く異なるものなのだが、神の外見は人間と変わらず、通常の人間と同じように見える。神は普通の人間のように生活し、神を見る者は、普通の人間との違いを見いだせない。この普通の外見と普通の人間性とは、普通の人間として神がその神性の働きをするには十分である。神の受肉は普通の人間として働くことを可能にし、人々の間での働きを容易にし、さらに、その普通の人間性は人々の間で救いの働きを進めることの役に立つ。神の普通の人間性は人間の間に多くの混乱を招いたが、そうした混乱は神の働きの成果に影響を与えていない。つまり、神の普通の肉体の働きは人間に素晴らしく有益なのである。たいていの人は神が普通の人間であることを受け入れないが、それでも神の働きは効果的であることができ、そうした効果は神が普通の人間であることで達成される。この点に疑問の余地はない。神の肉体における働きから、人間は、神の普通の人間性について人間の間に存在する観念から受けるよりも十倍、数十倍のものを得る。そして、そうした観念はいずれ、すべて神の働きに吸収されることだろう。また、神の働きが達成した成果、つまり、人間がもつ神についての認識は、人間が神についてもっている観念をはるかに超える。神の肉体における働きは想像もできないし、測りようもない。神の体はどの人間の肉体とも異なっているからだ。外見は同じでも、本質は異なっている。神の肉体は、神について、人間の間に多くの観念を生み出す。しかし、神の肉体はまた、人間が多くの認識を得ることを可能にする。そして、似たような外見をもつどの人間をも征服できる。神は単なる人間ではなく、人間の外見をもつ神であり、誰も神を完全に理解することはできないからである。目に見えず、触れることもできない神を誰もが愛し、歓迎する。もし神が人間の目には見えない、ただの霊であるならば、人間が神を信じることは容易である。人間は自分の想像力を自由に働かせることができる。神の姿として、どんな姿でも好きなものを選び、それで喜んで満足していられる。このように、人間は自分の神に対して何でも思いのままに、この神が望むとおりのことを、何のとがめもなく行うことができる。さらに、人間は、自分よりも神に忠実で信心深い者は誰もいない、他の人はみな異邦の犬で、神に背いていると信じている。これが、神について漠然と教義に基づいた信仰をもつ人々が求めているものであると言える。彼らの求めているのは、どれも同じようなもので、ほとんど違いがない。これは単に、人々の想像している神の姿が異なっているというだけで、その本質は、実際のところ、同じなのだ。
人間は自分の信仰がいいかげんなものであっても気にとめない。そして、好きなように神を信じている。これは誰も妨げることのできない「人間の権利と自由」の一つなのだ。なぜなら人間は他の誰のものでもない、自分の独自の神を信じているからである。これは私有財産であって、ほとんど誰でも、こうした私有財産をもっている。人間はこれを自分の貴い宝だとみなしているが、神にとっては、これ以上卑しく無価値なものはない。この人間の私有財産以上にはっきりと神に敵対するものはないからである。なぜなら、神が受肉してその働きを行うため、神は触れることのできる形を持ち、人が見、触れることのできる肉体になるからである。神は形のない霊ではなく、人間がさわり、見ることのできる肉体である。しかしながら、人々の信じる神々のほとんどは、生身の体をもたず、形がなく、不定形である。このように、受肉した神は、神を信じる者ほとんどの敵となり、同様に、受肉した神という事実を受け入れることのできない人々も、神の敵となった。人間は考え方や反抗心からではなく、この私有財産のために観念にとらわれているのだ。この私有財産のせいで、たいていの人は死に、この漠然とした、触れることができず、目にも見えない、実際に存在しない神のために、人間のいのちは損なわれている。人間のいのちが失われるのは、受肉した神のためではなく、まして、天の神のせいでもなく、人間が思い描いている神のせいなのである。神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人間のためであって、神自身のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもともと自分のものであるもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人間のためにすること、犠牲とすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人間のためである。受肉した神の働きには想像を超える困難が数多く伴うのだが、それが最終的に達成するものは、霊による直接の働きの成果をはるかに超える。肉の体の働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分をもたないし、霊のような超自然的な業は行えない。まして、霊と同じ権威をももたない。しかし、この平凡な肉の行う働きの本質は、霊が直接行う働きの本質をはるかに上回る。この神の肉体は、すべての人間の必要に応えるものなのだ。救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉にはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山々、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きで神は、触れるすべての人と効果的に交流できる。そのうえ、触れることのできる形をもつ神の体は、人間には理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識を深めることができ、神の実際の業の深い印象を植え付けられる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかしながら、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊かな知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間はその身で神の働きの知恵を経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要もない。これが受肉した神の働きの正確さ、本物の価値である。霊には、人間の目に見えず、想像しにくいことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊の動き、それに霊の導きなど。しかし、知性のある人間には、こうしたものは何ら明瞭な意味をもたない。こうしたものは一つの動き、あるいは漠然とした意味しか提供せず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは、大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、そして、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りして歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、まして、推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きと置き換えることができない。肉の働きは、霊の働きよりはるかに正確で、必要な目標とずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与え、そして見て触ることのできるものである。実際の働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間をその堕落した邪悪な性質から救える。これを成し遂げられるのは受肉した神だけである。受肉した神だけが、人間をかつて堕落した邪悪な性質から救えるのだ。霊は神に備わった本質であるが、こうした働きは受肉した神にしかできない。もし霊だけで働いたなら、神の働きは効果的なものではないだろう──これは明確な事実である。大方の人は、肉のために神の敵になっているが、神がその働きを完了するとき、神に敵対する者たちは敵であることをやめるだけではなく、それどころか神の証人になるだろう。そうした人たちは神に征服された証人、神の心にかない、神と分かちがたい証人になる。神はその肉体における働きの重要性を人間に知らせる。そして人間は、人間存在の意味にとってのこの肉体がどれほど重要であるかを知り、人間のいのちの成長のために神の肉体がどれほど価値あるものであるを知り、そのうえ、この肉体が、離れることが到底できない、生きるいのちの泉となることを知るだろう。受肉した神は、本来の神の身分と地位には遠く及ばないし、人間からすると神の本来の地位と相容れないものと思われるだろうが、この肉体、すなわち神の真の姿や身分をもたないこの存在は、神の霊には直接できない働きができるのである。それが神の受肉の真の意味と価値であり、そしてこの意味と価値を人間は理解し、受け入れることができない。すべての人間は神の霊を仰ぎ、受肉した神を見下すが、彼らがどう判断し、どう考えるかに関わりなく、この肉体の真の意味と価値とは霊にはるかに優る。もちろん、これは堕落した人間との関連においてのみ言えることだ。真理を求め、神の現れを待ち望む者すべてにとって、霊の働きは感動と啓示、理解不能で想像もできない不思議な感覚、偉大で超越的で崇めるべきものであるが誰にも達成できず手に入れることのできないものという感覚だけを与える。人間と神の霊とは、遠くから互いを見ることしかできない。まるで両者の間に遠い隔たりがあるように。そして、けっして似ることがない。まるで、目に見えない境界で隔てられているかのように。実は、これは霊が人間に与えた幻影である。なぜならば、霊と人間とは種類を異にするものであり、霊と人間はけっして同じ世界で共存できず、霊には人間的な要素は何もないからである。だから、人間には霊は必要ではない。霊には、人間に最も必要な働きを直接することができないからである。肉の働きは求めるべき真の目標、明確な言葉、そして、神が現実的かつ正常で謙虚で普通であるという感覚を人間に与える。人間は神を恐れはするだろうが、たいていの人は神と心安く付き合える。人間は神の顔を見、神の声を聞くことができるし、遠くから見る必要はない。この肉体は人間にとって近づきやすいように思われる。遠くの不可思議な存在ではなく、目に見え、触れられるのだ。この肉体は人間と同じ世界にあるのだから。
肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには目指すべき目標が必要だ。そして、神を知るには、神の本当の業を見、神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した体でのみ可能なことだ。そして、いずれも普通の現実の体でのみ成し遂げられる。だから受肉が必要なのであり、すべての堕落した人間はこれを必要としているだ。人々は神を知る必要があるので、漠然とした超自然的な神の表象を心から消し去らなければならない。そして、堕落した性質を捨て去る必要があるのだから、まずその堕落した性質を知らなければならない。人間の力だけで漠然とした神の表象を心から消し去ろうとしても、望ましい成果は得られないだろう。人々の心にある漠然とした神の表象は、言葉だけではさらけ出したり、消し去ったり、完全に除いたりすることはできない。そうしてみても、人間の中に深く根付いているものを消し去るのは不可能だろう。実践の神と神の真の姿だけが、そうした漠然とした超自然的なものと入れ替わり、徐々に人々に教え、そうした方法によってのみ、目指すべき結果が得られるのだ。人間は、過去に求めていた神が漠然とした超自然なものであったことに気づく。これを成し遂げるのは、霊による直接の導きではなく、まして、特定の個人の教えでもなく、受肉した神なのである。受肉した神が本格的にその働きを行うとき、人間の固定観念が露わになる。なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然な神とは正反対なものだからだ。人間の元来からの固定観念は、受肉した神との対照によってのみ明らかになる。受肉した神と比較することなしには、人間の固定観念は明らかにならない。言い換えれば、現にそこにあるものと比較しなければ、漠然とした物事は明らかにならない。言葉によってこの働きのできる者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者は誰もいない。ただ神自身がその働きができるのであって、ほかの誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がどんなに豊かであろうと、神の現実性と正常性を言い表すことはできない。神が人間のもとで自ら働き、自分の姿と実在とをすっかり示してはじめて、人間はもっと実際的に神を知ることができ、もっとはっきり神を見られるのだ。肉体をもつ人間には、この成果を成し遂げられない。もちろん、神の霊もまた、これを成し遂げることはできない。神は堕落した人間をサタンの影響から救うことができるが、この働きは、神の霊には直接できないことだ。そうではなく、神の霊のまとう人間の体だけが、受肉した神の肉体だけができることだ。この生身の体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備えている一人の人間であるが、また、完全な神性を備えた神でもあるのだ。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、それでも、人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。どのような名で呼ばれようと、つまるところ、それは人間を救う神そのものだ。神の霊は肉体から切り離すことはできず、肉の働きはまた、神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊として行われるのではなく、人間として行われるということである。霊が直接行う必要のある働きは、受肉を必要としない。また、生身の体を必要とする働きは霊には直接できないもので、受肉した神だけが可能なのだ。これがこの働きに必要なものであり、また、堕落した人間に必要なものなのだ。神の働きの三つの段階では、一つの段階だけが霊によって直接行われた。そして残りの二つの段階は受肉した神が実行し、霊が直接働くことはない。霊の行った律法の働きは、堕落した人間の性質を変えることを伴わず、神について人間が知ることと何の関わりもないものだった。しかしながら、恵みの時代と神の国の時代の受肉した神の働きは、人間の堕落した性質と神についての認識に関わるもので、救済の働きにおける重要かつ不可欠な部分である。だから、堕落した人間は受肉した神による救いを、受肉した神の直接的な働きをさらに必要とする。人間には、受肉した神が導き、支え、水をやり、養い、裁き、罰する必要がある。そして、受肉した神からのさらなる恵みと贖いが必要だ。受肉した神だけが人間の親友となり、牧者となり、現実に存在する助けとなることができる。これらすべてが現在と過去において受肉が必要とされる所以である。
人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物のうちで最高のものだ。そこで、人間には神による救済が必要だ。神の救済の対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉、人間の魂であり、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神に救われる者である。人間の肉はサタンによって堕落させられた。だから、まず人間の肉が救われなければならない。人間の肉は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっている。そして、公然と神に敵対し、神の存在を否定しさえする。この堕落した肉は、まったく手に負えない。堕落した肉の性質以上に扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の体に入って混乱させ、人間の体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。このため、神は挑戦に立ち上がり受肉した。働きを行い、サタンと戦うためである。神の目的は堕落した人類の救済と、自分に抵抗するサタンを打ち破り、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人間を救う。そうして、神は二つの問題を一度で解決する。神は肉において働き、肉において語り、すべての働きを肉において行う。人間とよりよく交わり、よりよく征服するためである。この神の最後の受肉において、世の終わりの神の働きは肉において完了する。神は受肉したままですべての人間を種類によって分け、すべての経営(救い)の働きを終え、また、肉における働きをもみな終える。地上での働きがすべて終わると、神は完全な勝利者となる。受肉して働いた神は完全に人間を征服し、人間をすべて自分のものとしている。これは、神による救済の計画がすべて終わるということではないか。神が肉における働きを終えるとき、サタンを完全に打ち破り、勝利するので、サタンには、もはや人間を堕落させる機会がない。神が最初に受肉したときの働きは、人間の罪の贖いと赦しであった。次の働きでは、人間を征服し、完全に自分のものとし、サタンがもはや働けないようになって完全に敗れ、神が完全な勝利者となる。これが肉の働きであり、神自身が行う働きなのだ。神の三段階の働きの最初のものは、霊が直接行ったもので、肉によるものではなかった。しかしながら、神の三段階の働きの最後のものは受肉した神が行うもので、霊が直接行うものではない。中間段階の贖いの働きもまた、神が受肉して行った。全経営(救い)の計画を通して、最も重要な働きは人間をサタンの影響から救う働きである。重要な働きは堕落した人間を完全に征服することで、それによって、征服された人間の心に本来あった神への崇敬の念を回復し、正常な生き方ができるようにする、つまり、神の被造物として正常な生き方ができるようにするのだ。この働きは最も重要なもので、経営(救い)の働きの核心である。救済の三段階の働きのうち、最初の段階の律法の働きは、救済の働きの核心から遠いものだった。ただ救済の働きをわずかに現したにすぎないし、人間をサタンの領域から救う働きの始まりではなかった。最初の段階の働きは、霊が直接行ったが、それは、律法の下で人間は律法を守ることだけしか知らず、それ以上の真理を知らなかったからであり、律法の時代の働きは、人間の性質の変更はほとんど伴っておらず、どのようにして人間をサタンの領域から救うかという働きとは、さらに関わりがなかったからだ。そのため、神の霊は極めて単純な、人間の堕落した性質とは関わらない段階の働きを終えた。この段階の働きは、経営(救い)の核心にほとんど関係がなく、人間救済という公式の働きとはあまり関係がなかった。だから、神が自ら受肉して働く必要がなかった。霊の行った働きは隠された、測り難いものであり、人間には恐ろしくて近寄りがたいものであった。霊は直接救済の働きをするには適していないし、直接人間にいのちを与えるにも適していない。人間に最も適しているのは、霊の働きを人間に近い形に変えることで、それはつまり、最も人間に適しているのは、神が普通の正常な人間になって働きをするということである。これには、神が受肉して霊の代わりに働くことが必要であり、人間のために神が働くのに、これ以上ふさわしい方法はない。こうした三段階の働きの中で、二つの段階は、肉体によって行われたが、その二つの段階は経営(救いの)計画の中の肝要な部分である。二回の受肉はそれぞれ補い合うもので、補完的である。神が最初に受肉した段階は、第二の段階の基礎を敷いたのだが、これは、神の二回の受肉が一つの全体をなし、互いに相容れないものではないと言える。この二つの段階は全経営(救い)の計画の中でまことに重要なものであるため、神が受肉してこの二つの段階を実行する。こう言ってもいいだろう──神の二回の受肉の働きがなければ、経営(救い)の計画全体は停止し、人類救済の働きは空虚な言葉でしかなかっただろう。この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。誰が任務にふさわしいかは、その働きの性質と重要性とによって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊の働きの性質対肉の働きという観点からは、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉とどちらの働きをするかの決定の際の、これが神の判断であった。各段階の働きには意味と根拠がある。それらは根拠のない想像ではなく、また、恣意的に行われたことでもない。そこにはある種の知恵が働いている。それが神の働きの背後にある真実である。とりわけ、神自らが受肉して人間の間で働くような偉大な働きにおいては、さらなる神の計画がある。そこで、神の知恵と神の存在すべてがあらゆる行為、考え、働きの構想に反映されている。これは神のより確固として体系的なありかたである。こうした緻密な考えや構想は人間には想像しにくく、信じ難いし、そのうえ、知ることも困難だ。人間の行う働きは一般的な原則によるもので、それは人間には極めて満足のいくものだ。しかし、神の働きと比べると、あまりに大きな隔たりがある。神の業は偉大で、神の働きは規模が壮大であるが、その陰には人間には想像もできないような多くの綿密な計画や工夫がある。神の働きの各段階までもが原則に則っているだけではなく、人間の言語では表現できないようなことが数多く含まれている。そして、そうしたものは、人間には見えないものなのだ。霊の働きであろうと、受肉した神の働きであろうと、いずれも神の働きの計画を含んでいる。神は無意味に働きをせず、取るに足りない働きもしない。霊が直接働く時、神の目的を伴っている。神が働きのために人間になるとき(つまり外形を変える時)は、それ以上に目的があってのことである。そうでなければ、どうして進んで身分を変えるだろう。そうでなくて、どうして進んで卑しくみなされ迫害される人になるのか。
受肉した神の働きは最も意義深い。それは働きについての語りであり、最終的に働きを終えるのは受肉した神であって、霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く──例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が証しする受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きである。これは、中国に対してのみ行われるものではなく、少数の人々にだけ下るものでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きではなく、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうしたことばについての観念をもっているが、受肉した神がすべての人間を裁き、征服することは誰も否定できない。それがどう評価されるかに関わらず、事実は、結局のところ、事実である。誰ひとり、「働きは神によるが、その肉体は神ではない」とは言えない。これは戯言だ。この働きは、受肉した神以外にはできないものだからだ。この業はすでに完了しているのだから、この働きの後で神が再び人間を裁く働きをすることはあり得ない。二度目の受肉した神はその経営(救いの)計画全体のすべての働きをすでに完成したのだから、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上にふさわしいものはいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでもない。まして、人間が神の侵しがたい性質をより明確に目にすることはできないであろう。もし受肉した神が人間の堕落を裁くなら、はじめてサタンを完全に打ち負かせる。受肉して普通の人間性をもった神は、直接人間の不義を裁くことができる。これが神本来の聖さ、すばらしさである。神だけが人間を裁く資格があり、その地位にいる。神には真理と義があるから、人間を裁くことができる。真理と義のない者には他人を裁くことができない。この働きが神の霊によって行われたなら、それはサタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉に優る。もしこの働きを霊が直接行ったならば、神は人間の不服従のすべてを裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた人間の神についての観念を通して行われるからである。人間は霊について何の観念も抱いたことがない。そのため霊には、人間の不義をよりよく露わにすることができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らない者すべての敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人間のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、すべての人間の裁きは霊が直接するのではなく、受肉した神の働きなのである。人間の体をもつ神は、人間が目で見、触れることができる。また、受肉した神は完全に人間を征服できる。この受肉した神と人間との関係において、人間は敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして、拒否から愛へと変わっていく。これが受肉した神の働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることによってのみ救われ、神の口から出ることばによって徐々に神を知るようになり、神に敵対している間に神に征服され、神の罰を受けている間にいのちの糧を受ける。この働きはみな受肉した神の働きであって、霊としての神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深い働きであり、神の働きの三段階のうちの最も大事な部分は、受肉による働きの二つの段階である。人間の甚だしい堕落は、受肉した神にとって大きな障害である。とりわけ、世の終わりの人々に対する働きは極めて困難で、敵意に満ちた環境で、どの種類の人々の能力もまことに乏しい。しかし、この働きの終わりには、とどこおりなく望ましい結果を得る。これが肉の働きの成果であり、この成果は霊の働きの成果よりも説得力がある。神の働きの三つの段階は、受肉した神が終えられるだろうし、そうでなければならないのだ。最も重要かつ肝要な働きは受肉した神が行い、人間の救済は神が受肉して自ら行わなければならない。人間はみな、受肉した神が人間と関わりがないと感じるだろうが、実際は、この肉体が、全人類の運命と存在に関わっているのだ。
神の働きのどの段階も、人間のために行われるもので、それはすべての人間のためなのだ。それは受肉した神の働きであるが、それでもすべての人間を対象とする。神はすべての人間の神であり、すべての被造物とそうでないものの神である。受肉した神の働きは限られた範囲のものであるし、この働きの目的もまた限られているが、神が働きのために受肉するたびに、神は、その働きの対象として究極的な代表を選ぶ。神は単純で平凡な集団を働きの対象とはせず、肉の働きの代表となるだけの能力ある集団を選ぶ。この集団が選ばれるのは、神が受肉して行う働きの範囲が限られているためで、受肉した神のために特に用意され、受肉した神の働きのために特に選ばれるのである。神が働きの対象を選ぶのは、根拠のないことではなく、原則による。働きの対象は、受肉した神の働きに有益なものでなければならず、また、すべての人間を代表する者でなければならない。たとえば、ユダヤ人はイエス自らによる贖罪を受け容れることで全人類を代表することができた。また、中国人は受肉した神自身による征服を受け容れることで全人類を代表できる。ユダヤ人が全人類を代表したことには根拠がある。また中国人が、神自らによる征服を受け容れることで全人類を代表することにも根拠がある。ユダヤ人の間で行われた贖いの働き以上に贖いの意義を示すものはない。また、中国人の間での征服以上に征服の働きの完全性と成功を明らかにするものもない。受肉した神の働きと言葉は、少数の集団にだけ向けられているもののように見えるが、実際は、この小集団のもとでの神の働きは全宇宙の働きであって、その言葉は全人類に向けられたものなのだ。受肉しての神の働きが終わった後、神に従う人々は、自分たちの間で神が行った働きを広めることとなる。受肉した神の働きで最もよい点は、神に従う人々に正確な言葉と勧告、人類への正確な心を残せるため、受肉した神の働きと全人類に向けられた心とを、後に信者たちがこの道を受け入れる人々により正確に、具体的に伝えられる点にある。受肉した神の人間の間での働きだけが、神が人間と共に存在し、生きている事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きに立会い、神の直接的な言葉を聞きたいという人間の欲求を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人間に示された時代を終わらせ、また、漠然とした神への人間の信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な快い時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけではなく、もっと重要なことに、現実的で正常で、義であり聖なる神、経営(救いの)計画を明らかにし奥義と人類の運命を示す神、人間を創り、救済の働きを完了し、数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにするのだ。神は漠然の時代を完全に終わらせ、全人類が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、すべての人間がサタンに仕えた時代を終わらせ、すべての人間をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな神の霊ではなく、受肉した神の働きの結果なのだ。神が受肉して働くと、神に従う者たちは、もはや漠然とした不可解なものを手探りで求める事をせず、漠然の神の心を推測することをやめる。神が肉体をもってその働きを広めると、神に従う人々は、神が受肉して行った働きをすべての教派、分派に伝え、その言葉全部をすべての人間の耳に伝えるだろう。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実で、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、事実であって、噂ではない。こうした事実は神がその働きを広める証拠であり、また、その働きを広めるために用いる道具である。事実がなければ、神の福音はすべての国々、あらゆる場所に伝わらない。事実なしで人間の想像だけであれば、神はけっして全宇宙を征服する働きを行うことはできない。霊は人間には理解のできないもので、人間には不可視で、霊の働きは神の働きのそれ以上の証拠も事実も人間に残せない。人間はけっして神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じているだろう。人間はけっして神の顔を見ないし、また、直接神が語る言葉を聞くこともない。人間の想像するものは、結局のところ、むなしく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質は、神自身の働きは、人間がまねる事ができない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が自ら人間の間で働いて、はじめて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法により人間は神を見て、神の真の顔を知る。そして、これは受肉しない神では不可能なことだ。神はこの段階まで働きを実行しているので、その働きはすでに最高の結果を生み出しており、完全な成功である。神が受肉して直接行った働きは、すでに経営(救い)全体の働きの90%を完了している。この肉体は神の働きすべての良き始まりと神の働き全部のまとめを提供してきたのであり、神の働きすべてを広め、この働き全体に最終的かつ周到な付け足しをした。だから、もう神の働きには、また神が受肉して行う第四の段階はなく、三度目に受肉した神が驚くべき働きを行うこともない。
受肉しての神の働きの各段階は、その時代全体の働きを代表するもので、人間の働きのように特定の期間を代表するものではない。だから、神の最後の受肉の働きの終わりは、神の働きが完了したということではない。受肉しての神の働きは、時代全体を代表するもので、神が人間として働いた期間だけを代表するものではないからだ。これは、神は受肉している期間に、その時代のすべての働きを終えるというだけで、そのあとは、その働きはあらゆるところに広まる。受肉した神はその任務を終えた後、将来の働きを神に従う人々に託す。このようにして、その時代全体の神の働きが途絶えることなく続けられる。受肉した時代全体の働きは、それが全宇宙に広まってはじめて完了したとみなされる。受肉した神の働きは新たな時代を開き、神の働きを続ける人々は、神に用いられる者たちだ。人間による働きはみな、受肉した神の職分の範囲内で、その範囲を出るものではない。もし受肉した神が働きを行うために来なければ、人間は古い時代を終わらせることができず、新たな時代を開くこともできない。人間による働きは、単に人間に可能な範囲の任務であり、神の働きの代わりにはならない。受肉した神だけが、するべき働きを完了するべく来ることができるのであり、神をおいては誰一人代わってその働きをすることができない。もちろん、わたしの言っているのは、受肉しての働きのことである。この受肉した神は、人間の観念に合致しない段階の働きを行い、その後、神はさらに別の、人間の観念に合致しない働きをする。働きの目的は人間を征服することである。ある意味で、神の受肉は人間の観念に合致しない。さらに、神は人間の観念に合致しない働きをするので、人間は神についてますます批判的な意見をもつようになる。神はただ、神についてさまざまな観念を持っている人間の間で、人間を征服する仕事をする。人間がどのように神を扱おうと、神はその務めを果たし、人間はみな、神の支配下に入っていることだろう。この働きの事実は、中国人の間に反映されるだけではなく、すべての人間がいかに征服されるかをも表している。こうした人々になされた成果は、すべての人間になされる働きの成果を予め告げるものであり、神が将来行う働きの成果は、こうした人々に対する成果を上回るだろう。受肉した神の働きは鳴り物入りで宣伝されるようなものではないし、神秘の霧に包まれているものでもない。それは具体的な事実であって、一足す一が二である働きなのである。それはすべての人から隠されているものではなく、また、誰をも欺くものではない。人々が見るのは事実であり、現実的なものであって、人間が得るものは、本当の真理と認識である。働きが終わると、人間は神について新たな認識を得、真に神を求める者は、もはや神に関して何の観念ももたない。これは、神の働きの中国人に対する影響だけではなくて、人類全体を征服する神の働きの効果を表すものだ。人類全体を征服する働きにとって、この肉体、この肉体の働き、肉体のすべて以上役立つものはない。それらは今日の神の働きに有益で、将来の神の働きにも役立つ。この肉体はすべての人々を征服し、すべての人々を自分のものとする。人類全体が神を見、神に従い、神を知るためにこれより優れた働きはない。人間のする働きは単に限られた範囲のものであるが、神がその働きを行うときは、特定の人にだけ語りかけるのではなく、全人類、神の言葉を受け入れる者すべてに語りかけるのである。神の告げる終わりはすべての人間の終わりであって、特定の人だけの終わりではない。神は誰かを特別扱いしないし、誰かを犠牲にすることもない。そして、神は人類全体のために働き、話しかける。だから、この受肉した神は、すでに全人類をその種類によって分け、すでにすべての人々を裁き、全人類に相応の終着点を定めている。神はその働きを中国でだけ行っているが、実際は、すでに全宇宙の働きを定めている。神は、言葉を発して計画を一歩一歩進める前に、自分の働きがすべての人間に広まるのを待つわけにはいかない。それでは遅すぎるのではないか。今、神は将来の働きを予め終えることが完全に可能だ。働いているのは受肉した神なのだから、無限の働きを限られた範囲で行い、その後で、人間がするべき務めを人間が果たすようする。これが、神の働きの方針である。神は一時的に人間とともに生活できるだけで、時代全部の働きが完了するまで人間と共にいることはできない。それは、神が予め自分の働きを予言する神だからである。後に、神は言葉によってすべての人類をその種類にしたがって分け、人類は言葉にしたがって、神の順を追った働きに入る。誰一人免れない。誰もがその通りに行わなければいけない。だから、将来、時代は言葉によって導かれるのであって、霊によって導かれるのではない。
受肉した神の働きは、肉において行われなければいけない。もし霊が直接行ったとしても、それは何の成果も得られないだろう。たとえ霊が行ったとしても、その働きはこれといった意味をもたず、結局は説得力を欠くであろう。被造物はみな、創造主の働きが有意義なものであるかどうか、それは何を示すのか、それは何が目的なのか、神の働きは権威と知恵に満ちたものなのかどうか、また、それが最高の価値と意義のあるものなのかを知りたいと願う。神が行う働きはすべての人間の救済のためであり、サタンを打ち破るためであり、そして万物のもとで自身の証をするためである。だから、神の行う働きにはまことに重要な意味があるはずだ。人間の肉はサタンによって堕落し、最も深く盲い、まことに深く損なわれた。神自らが受肉して働く最も根本的な理由は、救済の対象が肉の体をもつ人間であり、サタンもまた人間の肉を用いて神の働きを妨げているためである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救済の対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉を堕落させ、人間はサタンの体現者となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければいけない。この働きは極めて実際的なものだ。神が受肉して働いている時、神は実際はサタンと肉において戦っている。神が肉において働くとき、神は霊的領域の働きをしており、霊的領域での働きのすべてを地上で現実的なものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの体現者(もちろん、これもまた人間)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形をもつ人間になることがますます必要なのは、神がサタンと真の戦いを行えるようにであり、それにより神に対して不服従で神と同じ姿をもつ人間を征服し、神と同じ姿をもちサタンによって損なわれた人間を救うためである。神の敵は人間、その征服の対象は人間、救済の対象も神の被造物である人間だ。そこで、神は人間とならなければいけない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなるのだ。神はサタンに勝利し、人間を征服し、そのうえ、人間を救うことができる。この肉は普通で現実のものであるが、神はありふれた肉体ではない。神は単に人間である肉体なのではなく、人間と神の両方ある肉体なのだ。これは神と人間との違いであり、これが神の身分のしるしなのだ。このような肉体にだけ、神の意図する働きができ、肉における神の務めを果たし、人間たちの間での働きを完了できる。そうでなければ、神の人間たちの間での働きは、いつも空虚で不完全なものとなる。神がサタンの霊と戦って勝利者となることができても、それでは堕落した人間の古い性質はけっして直せないし、神に不服従で敵対する者たちは、けっして完全に神の支配下に入ることもできない。つまり、神はけっして人類を征服することができず、けっして人類全体を得られないということだ。神の地上での働きが完了しなければ、神の経営(救い)はけっして終わらず、全人類は安息に入ることができない。もし神がすべての被造物と共に安息に入れなければ、このような経営(救い)の成果はなく、神の栄光はその結果消える。神の肉体には何の権威もないが、神の行う働きは成果を達成していることだろう。これが神の働きの明確な方向である。神の肉体に権威があるかどうかにかかわらず、神としての働きを遂行できるならば、それは神そのものだ。この肉体がどれほど普通で平凡なものであっても、神がするべき働きができるのは、この肉が単なる人間ではなく、神だからだ。この肉が人間にはできない働きができるのは、その内なる性質が人間のそれと異なっているためで、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからだ。この肉の体が人類にとって極めて重要なのは、それは人間である、かつそれ以上に神であるからだ。それは通常の人間には不可能な働きが可能だからであり、神には地上で共に暮らす堕落した人間を救うことが可能なためである。神は人間と同じ外見をもつが、受肉した神はどんな重要人物よりも人間にとって重要である。それは神の霊には不可能な働きが可能だからであり、神自身について霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人間を得ることができるからだ。その結果、この肉は普通で平凡であっても、その人類への貢献と人類存在にとっての意義により、この肉体は極めて尊いものとなる。そしてこの肉の真の価値と意味は誰にとってもはかりしれないものがある。この肉は直接サタンを滅ぼすことはできないが、神はその働きによって、人間を征服し、サタンを打ち負かせる。サタンを完全に支配下に下せる。これは、神が受肉したから、サタンに勝利して人類を救うことができるのだ。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きをするため受肉する。このようにして、神は被造物のもとで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、被造物のもとでよりよく神自身を証しできる。
人間は自分の信仰がいいかげんなものであっても気にとめない。そして、好きなように神を信じている。これは誰も妨げることのできない「人間の権利と自由」の一つなのだ。なぜなら人間は他の誰のものでもない、自分の独自の神を信じているからである。これは私有財産であって、ほとんど誰でも、こうした私有財産をもっている。人間はこれを自分の貴い宝だとみなしているが、神にとっては、これ以上卑しく無価値なものはない。この人間の私有財産以上にはっきりと神に敵対するものはないからである。なぜなら、神が受肉してその働きを行うため、神は触れることのできる形を持ち、人が見、触れることのできる肉体になるからである。神は形のない霊ではなく、人間がさわり、見ることのできる肉体である。しかしながら、人々の信じる神々のほとんどは、生身の体をもたず、形がなく、不定形である。このように、受肉した神は、神を信じる者ほとんどの敵となり、同様に、受肉した神という事実を受け入れることのできない人々も、神の敵となった。人間は考え方や反抗心からではなく、この私有財産のために観念にとらわれているのだ。この私有財産のせいで、たいていの人は死に、この漠然とした、触れることができず、目にも見えない、実際に存在しない神のために、人間のいのちは損なわれている。人間のいのちが失われるのは、受肉した神のためではなく、まして、天の神のせいでもなく、人間が思い描いている神のせいなのである。神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人間のためであって、神自身のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもともと自分のものであるもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人間のためにすること、犠牲とすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人間のためである。受肉した神の働きには想像を超える困難が数多く伴うのだが、それが最終的に達成するものは、霊による直接の働きの成果をはるかに超える。肉の体の働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分をもたないし、霊のような超自然的な業は行えない。まして、霊と同じ権威をももたない。しかし、この平凡な肉の行う働きの本質は、霊が直接行う働きの本質をはるかに上回る。この神の肉体は、すべての人間の必要に応えるものなのだ。救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉にはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山々、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きで神は、触れるすべての人と効果的に交流できる。そのうえ、触れることのできる形をもつ神の体は、人間には理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識を深めることができ、神の実際の業の深い印象を植え付けられる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかしながら、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊かな知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間はその身で神の働きの知恵を経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要もない。これが受肉した神の働きの正確さ、本物の価値である。霊には、人間の目に見えず、想像しにくいことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊の動き、それに霊の導きなど。しかし、知性のある人間には、こうしたものは何ら明瞭な意味をもたない。こうしたものは一つの動き、あるいは漠然とした意味しか提供せず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは、大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、そして、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りして歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、まして、推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きと置き換えることができない。肉の働きは、霊の働きよりはるかに正確で、必要な目標とずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与え、そして見て触ることのできるものである。実際の働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間をその堕落した邪悪な性質から救える。これを成し遂げられるのは受肉した神だけである。受肉した神だけが、人間をかつて堕落した邪悪な性質から救えるのだ。霊は神に備わった本質であるが、こうした働きは受肉した神にしかできない。もし霊だけで働いたなら、神の働きは効果的なものではないだろう──これは明確な事実である。大方の人は、肉のために神の敵になっているが、神がその働きを完了するとき、神に敵対する者たちは敵であることをやめるだけではなく、それどころか神の証人になるだろう。そうした人たちは神に征服された証人、神の心にかない、神と分かちがたい証人になる。神はその肉体における働きの重要性を人間に知らせる。そして人間は、人間存在の意味にとってのこの肉体がどれほど重要であるかを知り、人間のいのちの成長のために神の肉体がどれほど価値あるものであるを知り、そのうえ、この肉体が、離れることが到底できない、生きるいのちの泉となることを知るだろう。受肉した神は、本来の神の身分と地位には遠く及ばないし、人間からすると神の本来の地位と相容れないものと思われるだろうが、この肉体、すなわち神の真の姿や身分をもたないこの存在は、神の霊には直接できない働きができるのである。それが神の受肉の真の意味と価値であり、そしてこの意味と価値を人間は理解し、受け入れることができない。すべての人間は神の霊を仰ぎ、受肉した神を見下すが、彼らがどう判断し、どう考えるかに関わりなく、この肉体の真の意味と価値とは霊にはるかに優る。もちろん、これは堕落した人間との関連においてのみ言えることだ。真理を求め、神の現れを待ち望む者すべてにとって、霊の働きは感動と啓示、理解不能で想像もできない不思議な感覚、偉大で超越的で崇めるべきものであるが誰にも達成できず手に入れることのできないものという感覚だけを与える。人間と神の霊とは、遠くから互いを見ることしかできない。まるで両者の間に遠い隔たりがあるように。そして、けっして似ることがない。まるで、目に見えない境界で隔てられているかのように。実は、これは霊が人間に与えた幻影である。なぜならば、霊と人間とは種類を異にするものであり、霊と人間はけっして同じ世界で共存できず、霊には人間的な要素は何もないからである。だから、人間には霊は必要ではない。霊には、人間に最も必要な働きを直接することができないからである。肉の働きは求めるべき真の目標、明確な言葉、そして、神が現実的かつ正常で謙虚で普通であるという感覚を人間に与える。人間は神を恐れはするだろうが、たいていの人は神と心安く付き合える。人間は神の顔を見、神の声を聞くことができるし、遠くから見る必要はない。この肉体は人間にとって近づきやすいように思われる。遠くの不可思議な存在ではなく、目に見え、触れられるのだ。この肉体は人間と同じ世界にあるのだから。
肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには目指すべき目標が必要だ。そして、神を知るには、神の本当の業を見、神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した体でのみ可能なことだ。そして、いずれも普通の現実の体でのみ成し遂げられる。だから受肉が必要なのであり、すべての堕落した人間はこれを必要としているだ。人々は神を知る必要があるので、漠然とした超自然的な神の表象を心から消し去らなければならない。そして、堕落した性質を捨て去る必要があるのだから、まずその堕落した性質を知らなければならない。人間の力だけで漠然とした神の表象を心から消し去ろうとしても、望ましい成果は得られないだろう。人々の心にある漠然とした神の表象は、言葉だけではさらけ出したり、消し去ったり、完全に除いたりすることはできない。そうしてみても、人間の中に深く根付いているものを消し去るのは不可能だろう。実践の神と神の真の姿だけが、そうした漠然とした超自然的なものと入れ替わり、徐々に人々に教え、そうした方法によってのみ、目指すべき結果が得られるのだ。人間は、過去に求めていた神が漠然とした超自然なものであったことに気づく。これを成し遂げるのは、霊による直接の導きではなく、まして、特定の個人の教えでもなく、受肉した神なのである。受肉した神が本格的にその働きを行うとき、人間の固定観念が露わになる。なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然な神とは正反対なものだからだ。人間の元来からの固定観念は、受肉した神との対照によってのみ明らかになる。受肉した神と比較することなしには、人間の固定観念は明らかにならない。言い換えれば、現にそこにあるものと比較しなければ、漠然とした物事は明らかにならない。言葉によってこの働きのできる者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者は誰もいない。ただ神自身がその働きができるのであって、ほかの誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がどんなに豊かであろうと、神の現実性と正常性を言い表すことはできない。神が人間のもとで自ら働き、自分の姿と実在とをすっかり示してはじめて、人間はもっと実際的に神を知ることができ、もっとはっきり神を見られるのだ。肉体をもつ人間には、この成果を成し遂げられない。もちろん、神の霊もまた、これを成し遂げることはできない。神は堕落した人間をサタンの影響から救うことができるが、この働きは、神の霊には直接できないことだ。そうではなく、神の霊のまとう人間の体だけが、受肉した神の肉体だけができることだ。この生身の体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備えている一人の人間であるが、また、完全な神性を備えた神でもあるのだ。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、それでも、人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。どのような名で呼ばれようと、つまるところ、それは人間を救う神そのものだ。神の霊は肉体から切り離すことはできず、肉の働きはまた、神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊として行われるのではなく、人間として行われるということである。霊が直接行う必要のある働きは、受肉を必要としない。また、生身の体を必要とする働きは霊には直接できないもので、受肉した神だけが可能なのだ。これがこの働きに必要なものであり、また、堕落した人間に必要なものなのだ。神の働きの三つの段階では、一つの段階だけが霊によって直接行われた。そして残りの二つの段階は受肉した神が実行し、霊が直接働くことはない。霊の行った律法の働きは、堕落した人間の性質を変えることを伴わず、神について人間が知ることと何の関わりもないものだった。しかしながら、恵みの時代と神の国の時代の受肉した神の働きは、人間の堕落した性質と神についての認識に関わるもので、救済の働きにおける重要かつ不可欠な部分である。だから、堕落した人間は受肉した神による救いを、受肉した神の直接的な働きをさらに必要とする。人間には、受肉した神が導き、支え、水をやり、養い、裁き、罰する必要がある。そして、受肉した神からのさらなる恵みと贖いが必要だ。受肉した神だけが人間の親友となり、牧者となり、現実に存在する助けとなることができる。これらすべてが現在と過去において受肉が必要とされる所以である。
人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物のうちで最高のものだ。そこで、人間には神による救済が必要だ。神の救済の対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉、人間の魂であり、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神に救われる者である。人間の肉はサタンによって堕落させられた。だから、まず人間の肉が救われなければならない。人間の肉は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっている。そして、公然と神に敵対し、神の存在を否定しさえする。この堕落した肉は、まったく手に負えない。堕落した肉の性質以上に扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の体に入って混乱させ、人間の体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。このため、神は挑戦に立ち上がり受肉した。働きを行い、サタンと戦うためである。神の目的は堕落した人類の救済と、自分に抵抗するサタンを打ち破り、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人間を救う。そうして、神は二つの問題を一度で解決する。神は肉において働き、肉において語り、すべての働きを肉において行う。人間とよりよく交わり、よりよく征服するためである。この神の最後の受肉において、世の終わりの神の働きは肉において完了する。神は受肉したままですべての人間を種類によって分け、すべての経営(救い)の働きを終え、また、肉における働きをもみな終える。地上での働きがすべて終わると、神は完全な勝利者となる。受肉して働いた神は完全に人間を征服し、人間をすべて自分のものとしている。これは、神による救済の計画がすべて終わるということではないか。神が肉における働きを終えるとき、サタンを完全に打ち破り、勝利するので、サタンには、もはや人間を堕落させる機会がない。神が最初に受肉したときの働きは、人間の罪の贖いと赦しであった。次の働きでは、人間を征服し、完全に自分のものとし、サタンがもはや働けないようになって完全に敗れ、神が完全な勝利者となる。これが肉の働きであり、神自身が行う働きなのだ。神の三段階の働きの最初のものは、霊が直接行ったもので、肉によるものではなかった。しかしながら、神の三段階の働きの最後のものは受肉した神が行うもので、霊が直接行うものではない。中間段階の贖いの働きもまた、神が受肉して行った。全経営(救い)の計画を通して、最も重要な働きは人間をサタンの影響から救う働きである。重要な働きは堕落した人間を完全に征服することで、それによって、征服された人間の心に本来あった神への崇敬の念を回復し、正常な生き方ができるようにする、つまり、神の被造物として正常な生き方ができるようにするのだ。この働きは最も重要なもので、経営(救い)の働きの核心である。救済の三段階の働きのうち、最初の段階の律法の働きは、救済の働きの核心から遠いものだった。ただ救済の働きをわずかに現したにすぎないし、人間をサタンの領域から救う働きの始まりではなかった。最初の段階の働きは、霊が直接行ったが、それは、律法の下で人間は律法を守ることだけしか知らず、それ以上の真理を知らなかったからであり、律法の時代の働きは、人間の性質の変更はほとんど伴っておらず、どのようにして人間をサタンの領域から救うかという働きとは、さらに関わりがなかったからだ。そのため、神の霊は極めて単純な、人間の堕落した性質とは関わらない段階の働きを終えた。この段階の働きは、経営(救い)の核心にほとんど関係がなく、人間救済という公式の働きとはあまり関係がなかった。だから、神が自ら受肉して働く必要がなかった。霊の行った働きは隠された、測り難いものであり、人間には恐ろしくて近寄りがたいものであった。霊は直接救済の働きをするには適していないし、直接人間にいのちを与えるにも適していない。人間に最も適しているのは、霊の働きを人間に近い形に変えることで、それはつまり、最も人間に適しているのは、神が普通の正常な人間になって働きをするということである。これには、神が受肉して霊の代わりに働くことが必要であり、人間のために神が働くのに、これ以上ふさわしい方法はない。こうした三段階の働きの中で、二つの段階は、肉体によって行われたが、その二つの段階は経営(救いの)計画の中の肝要な部分である。二回の受肉はそれぞれ補い合うもので、補完的である。神が最初に受肉した段階は、第二の段階の基礎を敷いたのだが、これは、神の二回の受肉が一つの全体をなし、互いに相容れないものではないと言える。この二つの段階は全経営(救い)の計画の中でまことに重要なものであるため、神が受肉してこの二つの段階を実行する。こう言ってもいいだろう──神の二回の受肉の働きがなければ、経営(救い)の計画全体は停止し、人類救済の働きは空虚な言葉でしかなかっただろう。この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。誰が任務にふさわしいかは、その働きの性質と重要性とによって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊の働きの性質対肉の働きという観点からは、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉とどちらの働きをするかの決定の際の、これが神の判断であった。各段階の働きには意味と根拠がある。それらは根拠のない想像ではなく、また、恣意的に行われたことでもない。そこにはある種の知恵が働いている。それが神の働きの背後にある真実である。とりわけ、神自らが受肉して人間の間で働くような偉大な働きにおいては、さらなる神の計画がある。そこで、神の知恵と神の存在すべてがあらゆる行為、考え、働きの構想に反映されている。これは神のより確固として体系的なありかたである。こうした緻密な考えや構想は人間には想像しにくく、信じ難いし、そのうえ、知ることも困難だ。人間の行う働きは一般的な原則によるもので、それは人間には極めて満足のいくものだ。しかし、神の働きと比べると、あまりに大きな隔たりがある。神の業は偉大で、神の働きは規模が壮大であるが、その陰には人間には想像もできないような多くの綿密な計画や工夫がある。神の働きの各段階までもが原則に則っているだけではなく、人間の言語では表現できないようなことが数多く含まれている。そして、そうしたものは、人間には見えないものなのだ。霊の働きであろうと、受肉した神の働きであろうと、いずれも神の働きの計画を含んでいる。神は無意味に働きをせず、取るに足りない働きもしない。霊が直接働く時、神の目的を伴っている。神が働きのために人間になるとき(つまり外形を変える時)は、それ以上に目的があってのことである。そうでなければ、どうして進んで身分を変えるだろう。そうでなくて、どうして進んで卑しくみなされ迫害される人になるのか。
受肉した神の働きは最も意義深い。それは働きについての語りであり、最終的に働きを終えるのは受肉した神であって、霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く──例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が証しする受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きである。これは、中国に対してのみ行われるものではなく、少数の人々にだけ下るものでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きではなく、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうしたことばについての観念をもっているが、受肉した神がすべての人間を裁き、征服することは誰も否定できない。それがどう評価されるかに関わらず、事実は、結局のところ、事実である。誰ひとり、「働きは神によるが、その肉体は神ではない」とは言えない。これは戯言だ。この働きは、受肉した神以外にはできないものだからだ。この業はすでに完了しているのだから、この働きの後で神が再び人間を裁く働きをすることはあり得ない。二度目の受肉した神はその経営(救いの)計画全体のすべての働きをすでに完成したのだから、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上にふさわしいものはいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでもない。まして、人間が神の侵しがたい性質をより明確に目にすることはできないであろう。もし受肉した神が人間の堕落を裁くなら、はじめてサタンを完全に打ち負かせる。受肉して普通の人間性をもった神は、直接人間の不義を裁くことができる。これが神本来の聖さ、すばらしさである。神だけが人間を裁く資格があり、その地位にいる。神には真理と義があるから、人間を裁くことができる。真理と義のない者には他人を裁くことができない。この働きが神の霊によって行われたなら、それはサタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉に優る。もしこの働きを霊が直接行ったならば、神は人間の不服従のすべてを裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた人間の神についての観念を通して行われるからである。人間は霊について何の観念も抱いたことがない。そのため霊には、人間の不義をよりよく露わにすることができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らない者すべての敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人間のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、すべての人間の裁きは霊が直接するのではなく、受肉した神の働きなのである。人間の体をもつ神は、人間が目で見、触れることができる。また、受肉した神は完全に人間を征服できる。この受肉した神と人間との関係において、人間は敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして、拒否から愛へと変わっていく。これが受肉した神の働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることによってのみ救われ、神の口から出ることばによって徐々に神を知るようになり、神に敵対している間に神に征服され、神の罰を受けている間にいのちの糧を受ける。この働きはみな受肉した神の働きであって、霊としての神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深い働きであり、神の働きの三段階のうちの最も大事な部分は、受肉による働きの二つの段階である。人間の甚だしい堕落は、受肉した神にとって大きな障害である。とりわけ、世の終わりの人々に対する働きは極めて困難で、敵意に満ちた環境で、どの種類の人々の能力もまことに乏しい。しかし、この働きの終わりには、とどこおりなく望ましい結果を得る。これが肉の働きの成果であり、この成果は霊の働きの成果よりも説得力がある。神の働きの三つの段階は、受肉した神が終えられるだろうし、そうでなければならないのだ。最も重要かつ肝要な働きは受肉した神が行い、人間の救済は神が受肉して自ら行わなければならない。人間はみな、受肉した神が人間と関わりがないと感じるだろうが、実際は、この肉体が、全人類の運命と存在に関わっているのだ。
神の働きのどの段階も、人間のために行われるもので、それはすべての人間のためなのだ。それは受肉した神の働きであるが、それでもすべての人間を対象とする。神はすべての人間の神であり、すべての被造物とそうでないものの神である。受肉した神の働きは限られた範囲のものであるし、この働きの目的もまた限られているが、神が働きのために受肉するたびに、神は、その働きの対象として究極的な代表を選ぶ。神は単純で平凡な集団を働きの対象とはせず、肉の働きの代表となるだけの能力ある集団を選ぶ。この集団が選ばれるのは、神が受肉して行う働きの範囲が限られているためで、受肉した神のために特に用意され、受肉した神の働きのために特に選ばれるのである。神が働きの対象を選ぶのは、根拠のないことではなく、原則による。働きの対象は、受肉した神の働きに有益なものでなければならず、また、すべての人間を代表する者でなければならない。たとえば、ユダヤ人はイエス自らによる贖罪を受け容れることで全人類を代表することができた。また、中国人は受肉した神自身による征服を受け容れることで全人類を代表できる。ユダヤ人が全人類を代表したことには根拠がある。また中国人が、神自らによる征服を受け容れることで全人類を代表することにも根拠がある。ユダヤ人の間で行われた贖いの働き以上に贖いの意義を示すものはない。また、中国人の間での征服以上に征服の働きの完全性と成功を明らかにするものもない。受肉した神の働きと言葉は、少数の集団にだけ向けられているもののように見えるが、実際は、この小集団のもとでの神の働きは全宇宙の働きであって、その言葉は全人類に向けられたものなのだ。受肉しての神の働きが終わった後、神に従う人々は、自分たちの間で神が行った働きを広めることとなる。受肉した神の働きで最もよい点は、神に従う人々に正確な言葉と勧告、人類への正確な心を残せるため、受肉した神の働きと全人類に向けられた心とを、後に信者たちがこの道を受け入れる人々により正確に、具体的に伝えられる点にある。受肉した神の人間の間での働きだけが、神が人間と共に存在し、生きている事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きに立会い、神の直接的な言葉を聞きたいという人間の欲求を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人間に示された時代を終わらせ、また、漠然とした神への人間の信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な快い時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけではなく、もっと重要なことに、現実的で正常で、義であり聖なる神、経営(救いの)計画を明らかにし奥義と人類の運命を示す神、人間を創り、救済の働きを完了し、数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにするのだ。神は漠然の時代を完全に終わらせ、全人類が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、すべての人間がサタンに仕えた時代を終わらせ、すべての人間をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな神の霊ではなく、受肉した神の働きの結果なのだ。神が受肉して働くと、神に従う者たちは、もはや漠然とした不可解なものを手探りで求める事をせず、漠然の神の心を推測することをやめる。神が肉体をもってその働きを広めると、神に従う人々は、神が受肉して行った働きをすべての教派、分派に伝え、その言葉全部をすべての人間の耳に伝えるだろう。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実で、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、事実であって、噂ではない。こうした事実は神がその働きを広める証拠であり、また、その働きを広めるために用いる道具である。事実がなければ、神の福音はすべての国々、あらゆる場所に伝わらない。事実なしで人間の想像だけであれば、神はけっして全宇宙を征服する働きを行うことはできない。霊は人間には理解のできないもので、人間には不可視で、霊の働きは神の働きのそれ以上の証拠も事実も人間に残せない。人間はけっして神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じているだろう。人間はけっして神の顔を見ないし、また、直接神が語る言葉を聞くこともない。人間の想像するものは、結局のところ、むなしく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質は、神自身の働きは、人間がまねる事ができない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が自ら人間の間で働いて、はじめて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法により人間は神を見て、神の真の顔を知る。そして、これは受肉しない神では不可能なことだ。神はこの段階まで働きを実行しているので、その働きはすでに最高の結果を生み出しており、完全な成功である。神が受肉して直接行った働きは、すでに経営(救い)全体の働きの90%を完了している。この肉体は神の働きすべての良き始まりと神の働き全部のまとめを提供してきたのであり、神の働きすべてを広め、この働き全体に最終的かつ周到な付け足しをした。だから、もう神の働きには、また神が受肉して行う第四の段階はなく、三度目に受肉した神が驚くべき働きを行うこともない。
受肉しての神の働きの各段階は、その時代全体の働きを代表するもので、人間の働きのように特定の期間を代表するものではない。だから、神の最後の受肉の働きの終わりは、神の働きが完了したということではない。受肉しての神の働きは、時代全体を代表するもので、神が人間として働いた期間だけを代表するものではないからだ。これは、神は受肉している期間に、その時代のすべての働きを終えるというだけで、そのあとは、その働きはあらゆるところに広まる。受肉した神はその任務を終えた後、将来の働きを神に従う人々に託す。このようにして、その時代全体の神の働きが途絶えることなく続けられる。受肉した時代全体の働きは、それが全宇宙に広まってはじめて完了したとみなされる。受肉した神の働きは新たな時代を開き、神の働きを続ける人々は、神に用いられる者たちだ。人間による働きはみな、受肉した神の職分の範囲内で、その範囲を出るものではない。もし受肉した神が働きを行うために来なければ、人間は古い時代を終わらせることができず、新たな時代を開くこともできない。人間による働きは、単に人間に可能な範囲の任務であり、神の働きの代わりにはならない。受肉した神だけが、するべき働きを完了するべく来ることができるのであり、神をおいては誰一人代わってその働きをすることができない。もちろん、わたしの言っているのは、受肉しての働きのことである。この受肉した神は、人間の観念に合致しない段階の働きを行い、その後、神はさらに別の、人間の観念に合致しない働きをする。働きの目的は人間を征服することである。ある意味で、神の受肉は人間の観念に合致しない。さらに、神は人間の観念に合致しない働きをするので、人間は神についてますます批判的な意見をもつようになる。神はただ、神についてさまざまな観念を持っている人間の間で、人間を征服する仕事をする。人間がどのように神を扱おうと、神はその務めを果たし、人間はみな、神の支配下に入っていることだろう。この働きの事実は、中国人の間に反映されるだけではなく、すべての人間がいかに征服されるかをも表している。こうした人々になされた成果は、すべての人間になされる働きの成果を予め告げるものであり、神が将来行う働きの成果は、こうした人々に対する成果を上回るだろう。受肉した神の働きは鳴り物入りで宣伝されるようなものではないし、神秘の霧に包まれているものでもない。それは具体的な事実であって、一足す一が二である働きなのである。それはすべての人から隠されているものではなく、また、誰をも欺くものではない。人々が見るのは事実であり、現実的なものであって、人間が得るものは、本当の真理と認識である。働きが終わると、人間は神について新たな認識を得、真に神を求める者は、もはや神に関して何の観念ももたない。これは、神の働きの中国人に対する影響だけではなくて、人類全体を征服する神の働きの効果を表すものだ。人類全体を征服する働きにとって、この肉体、この肉体の働き、肉体のすべて以上役立つものはない。それらは今日の神の働きに有益で、将来の神の働きにも役立つ。この肉体はすべての人々を征服し、すべての人々を自分のものとする。人類全体が神を見、神に従い、神を知るためにこれより優れた働きはない。人間のする働きは単に限られた範囲のものであるが、神がその働きを行うときは、特定の人にだけ語りかけるのではなく、全人類、神の言葉を受け入れる者すべてに語りかけるのである。神の告げる終わりはすべての人間の終わりであって、特定の人だけの終わりではない。神は誰かを特別扱いしないし、誰かを犠牲にすることもない。そして、神は人類全体のために働き、話しかける。だから、この受肉した神は、すでに全人類をその種類によって分け、すでにすべての人々を裁き、全人類に相応の終着点を定めている。神はその働きを中国でだけ行っているが、実際は、すでに全宇宙の働きを定めている。神は、言葉を発して計画を一歩一歩進める前に、自分の働きがすべての人間に広まるのを待つわけにはいかない。それでは遅すぎるのではないか。今、神は将来の働きを予め終えることが完全に可能だ。働いているのは受肉した神なのだから、無限の働きを限られた範囲で行い、その後で、人間がするべき務めを人間が果たすようする。これが、神の働きの方針である。神は一時的に人間とともに生活できるだけで、時代全部の働きが完了するまで人間と共にいることはできない。それは、神が予め自分の働きを予言する神だからである。後に、神は言葉によってすべての人類をその種類にしたがって分け、人類は言葉にしたがって、神の順を追った働きに入る。誰一人免れない。誰もがその通りに行わなければいけない。だから、将来、時代は言葉によって導かれるのであって、霊によって導かれるのではない。
受肉した神の働きは、肉において行われなければいけない。もし霊が直接行ったとしても、それは何の成果も得られないだろう。たとえ霊が行ったとしても、その働きはこれといった意味をもたず、結局は説得力を欠くであろう。被造物はみな、創造主の働きが有意義なものであるかどうか、それは何を示すのか、それは何が目的なのか、神の働きは権威と知恵に満ちたものなのかどうか、また、それが最高の価値と意義のあるものなのかを知りたいと願う。神が行う働きはすべての人間の救済のためであり、サタンを打ち破るためであり、そして万物のもとで自身の証をするためである。だから、神の行う働きにはまことに重要な意味があるはずだ。人間の肉はサタンによって堕落し、最も深く盲い、まことに深く損なわれた。神自らが受肉して働く最も根本的な理由は、救済の対象が肉の体をもつ人間であり、サタンもまた人間の肉を用いて神の働きを妨げているためである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救済の対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉を堕落させ、人間はサタンの体現者となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければいけない。この働きは極めて実際的なものだ。神が受肉して働いている時、神は実際はサタンと肉において戦っている。神が肉において働くとき、神は霊的領域の働きをしており、霊的領域での働きのすべてを地上で現実的なものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの体現者(もちろん、これもまた人間)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形をもつ人間になることがますます必要なのは、神がサタンと真の戦いを行えるようにであり、それにより神に対して不服従で神と同じ姿をもつ人間を征服し、神と同じ姿をもちサタンによって損なわれた人間を救うためである。神の敵は人間、その征服の対象は人間、救済の対象も神の被造物である人間だ。そこで、神は人間とならなければいけない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなるのだ。神はサタンに勝利し、人間を征服し、そのうえ、人間を救うことができる。この肉は普通で現実のものであるが、神はありふれた肉体ではない。神は単に人間である肉体なのではなく、人間と神の両方ある肉体なのだ。これは神と人間との違いであり、これが神の身分のしるしなのだ。このような肉体にだけ、神の意図する働きができ、肉における神の務めを果たし、人間たちの間での働きを完了できる。そうでなければ、神の人間たちの間での働きは、いつも空虚で不完全なものとなる。神がサタンの霊と戦って勝利者となることができても、それでは堕落した人間の古い性質はけっして直せないし、神に不服従で敵対する者たちは、けっして完全に神の支配下に入ることもできない。つまり、神はけっして人類を征服することができず、けっして人類全体を得られないということだ。神の地上での働きが完了しなければ、神の経営(救い)はけっして終わらず、全人類は安息に入ることができない。もし神がすべての被造物と共に安息に入れなければ、このような経営(救い)の成果はなく、神の栄光はその結果消える。神の肉体には何の権威もないが、神の行う働きは成果を達成していることだろう。これが神の働きの明確な方向である。神の肉体に権威があるかどうかにかかわらず、神としての働きを遂行できるならば、それは神そのものだ。この肉体がどれほど普通で平凡なものであっても、神がするべき働きができるのは、この肉が単なる人間ではなく、神だからだ。この肉が人間にはできない働きができるのは、その内なる性質が人間のそれと異なっているためで、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからだ。この肉の体が人類にとって極めて重要なのは、それは人間である、かつそれ以上に神であるからだ。それは通常の人間には不可能な働きが可能だからであり、神には地上で共に暮らす堕落した人間を救うことが可能なためである。神は人間と同じ外見をもつが、受肉した神はどんな重要人物よりも人間にとって重要である。それは神の霊には不可能な働きが可能だからであり、神自身について霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人間を得ることができるからだ。その結果、この肉は普通で平凡であっても、その人類への貢献と人類存在にとっての意義により、この肉体は極めて尊いものとなる。そしてこの肉の真の価値と意味は誰にとってもはかりしれないものがある。この肉は直接サタンを滅ぼすことはできないが、神はその働きによって、人間を征服し、サタンを打ち負かせる。サタンを完全に支配下に下せる。これは、神が受肉したから、サタンに勝利して人類を救うことができるのだ。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きをするため受肉する。このようにして、神は被造物のもとで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、被造物のもとでよりよく神自身を証しできる。
2018年11月21日水曜日
全能神の発表「救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た」
数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。同様に、イエスは再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。
「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしのすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを顕示する義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。
終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行ったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを救済し、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを作った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行う。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終りの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖罪の働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行い、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行ってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行い、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から救われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度救うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行われるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。
場所:
日本
2018年11月13日火曜日
全能神教会の御言葉カード
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