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2020年8月28日金曜日

東方閃電 全能神教会 日々の神の御言葉「働きと入ること(10)」抜粋197


日々の神の御言葉「働きと入ること(10)」抜粋197
神の受肉は、あらゆる教派や宗派に衝撃波を及ぼし、それらの元来の秩序を「混乱に陥れ」、神の出現を待ち望んでいた者全ての心を揺るがした。慕わない者は居るだろうか。神に会うのを待ち焦がれない者はいるであろうか。神は長年にわたり自ら人間のもとにいるが、人間はまだそれに気付かない。現在、神自身が現れ、大衆に対して自らの身分を示した。それが人間の心に喜びをもたらさないことが、どうして有り得ようか。神はかつて喜びと悲しみを人間と共にし、現在、人間と再び共にあり、昔の物語を人間と分かち合っている。神がユダヤから去った後、人間は神の消息を全く掴めなくなった。人間は神との再会を待ち望んでいるが、今日神と既に再会し、再び神が人間と共にあることをほとんど知らない。このことが過去の思いを想起しないことが有り得ようか。今から二千年前の今日、ユダヤ人の末裔バルヨナ・シモンは救主イエスを見て、主と同じ食卓で食事をし、長年にわたって主に付き従った後、主に対する一層深い愛慕を抱いた。シモンは心底から主イエスを愛し、主イエスを深く愛した。ユダヤ人は、寒い飼葉おけに生まれた金色の髪の赤ん坊がどういうわけで神の受肉の最初の姿であるのかを全く知らなかった。ユダヤ人はイエスが自分達と同様であり、違うと考える者はいなかった。人々がこんな平凡で普通なイエスに、どうして気付き得ようか。ユダヤ人は、主を当時のユダヤ人の息子のひとりと考えた。イエスを愛しむべき神として見上げる者はいなかった。そして人々は主に対して、富と豊かな恵み、平和と喜びを授けて欲しいなど、盲目に要求するだけであった。そうした者は、億万長者のように主には自分達が望むものの全てあることしか知らなかった。しかし、人間は主を愛されている存在として扱ったことは無かった。当時の人々は主を愛さず、主に反抗し、不合理な要求を神に突き付けるだけであった。また主は決して拒まず、人間は主を知らなかったにもかかわらず、人間に対して恵みを与え続けた。主は黙して人間に温もりと愛、慈しみを与えたほか、人間に新たな実践方法を与え、人間を律法の呪縛から解放したのであった。人間は主を愛さず、主を羨み、主の特別な才能を認めるのみであった。愛しむべき救主イエスが人間のもとに来た時に受けた屈辱がどれほど大きかったかを、どうして盲目な人類が理解することが出来ようか。主の苦痛を考えた者も、父なる神に対する主の愛を知る者も、主の孤独を知り得る者もいなかった。マリアが主の産みの母親であったが、慈悲深い主イエスの心にある考えを、どうしてマリアが知り得たであろうか。人の子が耐えた筆舌に尽くしがたい苦難を、誰が知っていたというのか。当時の人間は、主に要求を突き付けた後、冷酷にも主を心の奥へと追いやり、外へ追い出した。それゆえに主は来る日も来る日も、毎年毎年、往来を長い年月彷徨いながら、苦難のうちに三十三年を過ごしたが、その期間は長くもあり短くもあった。主を求める時、人々は笑顔で主を自宅に招き、主に要求しようとした。そして主が施しをした後、彼らは直ちに主を家から追い出した。人々は主の口から授けられた物を食べ、主の血を飲み、主が授けた恵みを享受する一方で、主に反抗した。なぜなら人々は自分にいのちを与えたのが誰かを知らなかったからである。最終的に、人間は主を十字架に架けたが、主は騒がなかった。現在も依然として主は黙している。人々は主の肉を食べ、主が人々のために作る食べ物を食べ、主が人々のために拓いた道を歩み、主の血を飲んでいる。しかし人間は依然として主を拒もうとし、実際に、自分にいのちを授けた神を敵とみなし、自分と同様の奴隷を天の父として扱う。人間は、そうした行動を取ることで、故意に神に反抗しているのではなかろうか。イエスは、どのようにして十字架で死ぬことになったであろうか。あなたがたは知っているであろうか。主は、自分に最も親しく、かつ主を食べ、主を享受したユダに裏切られたのではないか。ユダの裏切りの理由は、イエスが取るに足らない教師に過ぎなかったことでは無かろうか。仮に、イエスが特別であり、天に由来する者であることを人々が本当に理解していたとすれば、どうして人々は主の身体が息をしなくなるまで、二十四時間にわたり十字架に架けることが出来たのであろうか。誰が神を知り得ようか。人間は飽くことの無い欲で神を授かるのみで、未だに神を知らない。人々は一寸を与えられて一里を奪い、イエスを自分の指令、命令に完全服従させる。これまでに誰が、枕する所も無いこの人の子に対して憐れみといえるものを示したというのか。これまでに誰が、主と力を合わせて父なる神の委託を完遂しようと考えたというのか。かつて誰が神のことを少しでも考えたというのか。かつて誰が、神の困難に配慮したというのか。微塵の愛もなく、人間は神を苦しめる。人間は、自分の命と光が何処から来たかを知らず、人間のもとで苦難を受けた二千年前のイエスを再び磔刑にするかを謀るだけである。イエスは本当にそうした敵意を喚起するというのか。イエスの行ったことは、遠い昔に全て忘れ去られたのであろうか。数千年にわたって募った敵意は、遂に爆発するであろう。あなたがたはユダヤ人と同類である。あなたがたがイエスを憎むようになる程までに、あなたがたに対して何時イエスが敵意を抱いたというのか。イエスはあれほどにも行い、語った。そのどれもが、あなたがたにとって有益では無いというのか。主は自らのいのち何も見返りを求めずに、あなたがたに授けた。主は自らの全てをあなたがたに授けた。あなたがたは本当に主を生きたまま食べたいというのか。主は自らの全てを少しも余すこと無く、またこの世の栄光や人間の温もり、人間の愛、あるいは人間の恵みを得ること無く、あなたがたに与えた。人間は主に対して極めてさもしく、主は決して地上の富を享受せず、主はその誠実で熱意ある心の全てを人間に捧げた。主はその全てを人類に捧げた。それで、主に対して温もりを与えた者がいるだろうか。誰が主に快適さを与えたというのか。人間は主にあらゆる圧力をかけ、あらゆる不幸を与え、人間の中で最も不幸な経験を押し付け、あらゆる不義を主のせいにし、そして神はそれを無言で受け容れてきた。かつて主が誰かに反抗したであろうか。かつて主が誰かから少しの返報を求めたことがあるだろうか。神に同情を示した者がこれまでいるであろうか。普通の人間として、あなたがたの中で、空想的な幼時を過ごさなかった者がいるであろうか。色鮮やかな青春を過ごさなかった者がいるであろうか。愛する者の温もりを知らない者はいるであろうか。誰が親戚や友人の愛を知らないというのか。誰が他人に尊敬されていないというのか。暖かい家庭が無いというのか。誰が腹心の友をもつ心地よさを知らないというのか。しかるに、そうした物事のうちどれかを神は享受したであろうか。誰が主に少しでも温もりを与えたというのか。誰が主に少しでも快適さを与えたというのか。誰が主に少しでも人間の倫理を示したというのか。かつて誰が、主に対して寛容であったというのか。かつて誰が、困難な時に主と共にあったというのか。かつて誰が、主と共に困難な生活を送ったというのか。人間は、主に対する要求を少しも和らげたことが無い。人間は何の良心の呵責も無く、主に対して要求を突き付けるのみであり、それはあたかも、主が人間の世界に来たのだから人間の牛馬や囚人となって、その全てを人間に与える必要があるかのようである。さもなければ、人間は決して主を許さず、主に対して寛容になる事は無く、主を神と呼ばず、主をそれほど尊重することは無いであろう。人間は、神に対して厳しすぎる態度を取り、それはあたかも人間が神を苦しめて殺すことに注力しているかのようであり、そうした後に人間は初めて神に対する要求を緩め、さもなければ人間は神に対する要求基準を決して下げないかのようである。そのような人間が神により忌み嫌われないことが、どうして有り得ようか。それが現在の悲劇ではなかろうか。人間の良心は何処にも見られない。人間は神の愛に報いると言い続けるが、神を切り裂き、苦しめて死に至らしめる。これは人間が祖先から受け継いだ、神への信仰の「秘訣」ではなかろうか。「ユダヤ人」が見受けられない場所は無く、彼らは現在も同様の働きを、神に反抗する働きを行っているが、自分達は神を高く掲げていると信じている。人間が自らの眼で神を知ることが、どうして出来ようか。霊に由来し受肉した神を、肉にある人間が神として扱うことが、どうして出来ようか。人間のうち、誰が神を知ることが出来るというのか。人間の真理はどこにあるのか。真の義はどこにあるのか。誰が神の性質を知り得ようか。誰が天の神と争うことが出来ようか。神が人間のもとに来た時、誰も神を知らず、神は拒まれたのも不思議では無い。人間が神の存在を容認することが、どうして出来るだろうか。光が闇を追い払うことを、どうして人間が許すことが出来ようか。これらは人間の貴ぶべき献身では無いのか。それは人間がいのちに入る正しい道では無いのではなかろうか。そして、神の働きは人間がいのちに入ることを中心としているのではなかろうか。あなたがたが神の働きを人間がいのちに入ることと融合し、人間と神の良好な関係を築き、人間が行うべき本分を能力が及ぶ限り尽くすことを、わたしは望む。そうした後に、神の栄光の讃美をもって、神の働きは完了するであろう。


2019年6月8日土曜日

聖書映画「敬虔の奥義:続編」抜粋シーン(6)主イエスは神の子であるか、それとも神自身か?



 聖書には、主イエスはキリストであり、神の子であることが明確に書かれています。しかし東方閃電は、受肉されたキリストは神様の出現であり、また神様ご自身であると証言しています。受肉されたキリストは神の子でしょうか?それとも、神様ご自身なのでしょうか?全能神が言われます。「『イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である』と…神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。『父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある』というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。」       福音書|(『言葉は肉において現れる』より)



2019年5月13日月曜日

受肉の奥義(1)

 


 恵みの時代に、ヨハネはイエスのために道を整えた。ヨハネは神自身の働きをすることはできず、ただ人の本分を尽くしただけであった。ヨハネは主の先駆者であったが、神を表すことはできなかった。彼はただ聖霊に用いられた人間であった。イエスのバプテスマに続いて、「聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り」、それからイエスは自分の働きを開始した。すなわち、キリストとしての職分を始めたのである。それがイエスが神の身分を取った理由である。イエスは神から来たからである。これ以前のイエスの信仰がどのようであったとしても──おそらく時には弱く、時には強かったのであろうが──それはすべてイエスが職分を始める前の普通の人の生活であった。イエスがバプテスマを受けた(油を注がれた)後、直ちに神の力と栄光が備わり、それにより職分を始めた。イエスはしるしと不思議、奇跡を行い、力と権威をそなえていた。神の代わりに自ら働きを行なったからである。イエスは神の代わりに霊の働きをし、霊の声を表現した。よって、イエスは神自身であった。これは争う余地がない。ヨハネは聖霊に用いられた。彼は神を表すことはできず、神を表すことは彼にとって不可能であった。もしヨハネが神を表すことを望んだとしても、聖霊はそれを許さなかったであろう。というのは、神自身が成就するはずの働きをヨハネがすることはできなかったからである。おそらく、彼には多くの人間としての意思、あるいは何か逸脱したものがあったであろう。どんな状況下においてもヨハネは神を直接表すことはできなかった。彼の過ちや間違いは自分自身を表していたが、働きは聖霊の象徴であった。それでも尚、彼のすべてが神を代表していたと言うことはできない。彼の逸脱や間違いも神を表していたであろうか。人を表すことにおいて間違いがあるのは普通のことであるが、神を表しながら逸脱しているなら、それは神に対して不名誉なことにならないであろうか。それは聖霊に対する冒涜ではないであろうか。たとえ人が他人に称賛されても、人が神の代わりをすることを聖霊は軽々しく許可しない。人が神でないなら、最後まで立ち続けることはないであろう。聖霊は人が気の向くままに神を表すことを許さない。たとえば、聖霊はヨハネに証しし、彼がイエスの道を整える者であることを明らかにしたが、聖霊によって彼になされた働きはよく釣り合いのとれたものであった。ヨハネに求められたことはイエスのために道を整える者になること、イエスのために道を備えることだけであった。すなわち、聖霊は道を整えるというヨハネの働きだけを支え、彼にそのような働きをすることだけを許した。ヨハネは他のことをすることを許されなかった。ヨハネは道を整えた預言者エリヤを表していた。これにおいて聖霊はヨハネを支えた。働きが道を整えることである限り、聖霊はヨハネを支えた。しかし、もしヨハネが自分自身が神であり贖いの働きを完成するために来たのだと主張していたなら、聖霊は彼を戒めなければならなかったであろう。ヨハネの働きがどれほど偉大であったにせよ、また聖霊に支えられていたとしても、その働きには境界がなかったわけではない。ヨハネの働きが聖霊に支えられていたことは確かに真実だが、当時彼に与えられていた力は道を整えることに限られていた。ヨハネはその他の働きは全くできなかった。というのは、彼はイエスではなく、道を整えるヨハネにすぎなかったからである。よって、聖霊による証が鍵であるが、人が聖霊により行なうことを許された働きは、それよりはるかに重要である。ヨハネも当時は確固とした証しを立てられていたのではないのか。ヨハネの働きも偉大ではなかったのか。ヨハネの働きはイエスの働きを超えることはできなかった。なぜなら、ヨハネは聖霊によって用いられた人間にすぎず、直接神を現わすことはできなかったからである。そのため、ヨハネの成した働きは限られていた。ヨハネが道を整える働きを終えた後、彼の証しを支える者はなく、新たな働きが続くこともなく、神自身の働きが始まったときに、ヨハネは去った。

 悪霊に取りつかれ「私が神だ!」としつこく叫んでいる人たちがいる。しかし、最後まで彼らは立ち続けていることはできない。というのは、彼らは自分が何を表しているかに関して誤っているからである。彼らはサタンを表し、聖霊は彼らに何の注意も払わない。自分をどれほど高く褒めたてても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、「わたしは神である、わたしは神の愛するひとり子である」と叫ぶことはない。しかし、わたしがする働きは神の働きである。わたしは叫ぶ必要があるだろうか。褒めたてる必要はない。神はその働きを自分で行なうのであり、人に地位や敬称を与えてもらう必要はない。神の働きは神の身分と地位を表すのに十分である。バプテスマの前、イエスは神そのものではなかったのか。イエスは受肉した神の肉体ではなかったのか。イエスは証をされて初めて神のひとり子となったのだ、などと言うことは到底できない。イエスという名の人がイエスが働きを開始する前には存在しなかったのだろうか。あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたが神であると主張しようとするのは意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神と認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神に関する限り、その人は神の霊の受肉した肉体である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。新しい時代のために道をつけることができない、あるいは古い時代を終わらせたり、新しい時代の到来を告げたり、新しい働きをすることはできないのであれば、あなたは神と呼ばれることはできない。

 聖霊に用いられる人でさえ神を表すことはできない。そして、その人は神を表すことができないだけではなく、その働きも直接神を表すことはできない。すなわち、人の体験は神の経営(救い)の内部に直接置くことはできないし、神の経営(救い)を表すこともできない。神自身が行なう働きはすべて、神の経営(救いの)計画の中で神が行なおうとする働きであり、偉大な経営(救い)に関係している。人(聖霊に用いられる人)によってなされる働きは、その人の個人的体験を提供することである。それは以前の人たちが歩いた道を越えて新しい体験の道を見つけ、兄弟姉妹を聖霊の指導の下で導くことである。この人たちが提供するのは、彼ら個人の体験や霊的な人たちの霊的書物である。彼らは聖霊によって用いられているが、その働きは六千年計画の偉大な経営(救い)の働きとは関係していない。彼らはただ自分たちが果たしている役目が終わるか、自分たちの生涯が終わるまでの間、聖霊の流れの中で人々を導くために、様々な時代に聖霊によって立てられている人たちにすぎない。彼らが行なう働きはただ神のために適切な道を用意するか、あるいは地上における神自身による経営(救い)のある側面を続けていくことだけである。そのような人たちは、神の経営(救い)の中で偉大な働きをすることはできず、新しい道を開拓することもできず、ましてや前の時代からの神のすべての働きを終わらせることなどできない。よって、彼らがする働きはただ被造物が己の役目を果たすことを表しているだけで、神自身が行なう職分を表すことはできない。これは、彼らがする働きは神自身の行なうものとは同じではないからである。新しい時代を招き入れる働きは神に代わって人がすることはできない。神以外の誰によってもなされることはない。人がする働きのすべては被造物の一人としての本分を果たすことだけで、聖霊によって動かされ、啓かれたときに果たされる。そのような人たちが与える指導は、人が日常生活でどのように実践し、神の心に一致してどのように行動すべきかということを人に示すことである。人の働きは神の経営(救い)に関わることも霊の働きを表すこともない。たとえば、ウィットネス・リー(李常受)やウオッチマン・ニー(倪柝聲)の働きは道を先導することであった。道が新しいものであろうと古いものであろうと、働きの前提は聖書の原則を超えないということであった。地方教会の復興であれ設立であれ、彼らの働きは教会を築くことであった。彼らの働きは、イエスや弟子たちが恵みの時代にやり終えなかった働き、或いはさらに展開しなかった働きを引き継いでいた。彼らがその働きにおいて行なったのは、頭を覆うこと、バプテスマを受けること、パンをさくこと、ぶどう酒を飲むことなど、イエスがその初期の働きにおいて自分以降の世代の人々に行なうように命じたことを復活させることであった。彼らの働きは単に聖書を守り、聖書の中に道を求めることであったと言うことができる。彼らは新しい進歩を一切遂げなかった。したがって、彼らの働きには聖書内における新しい道の発見と、以前よりは良い現実的な実践しか見受けられない。彼らの働きには、神の現在の意図を見受けることはできず、ましてや終わりの日に神が行なうである新しい働きに関しては何もない。これは、彼らが歩んだ道はやはり古い道であったので、刷新や進歩はなかったからである。彼らはイエスの磔刑の事実にこだわり、人々に悔い改め罪を告白させるという実践や、最後まで耐えるものが救われるということわざや「男は女の頭である」「妻は夫に従え」といった聖句、さらに女性信者は説教できず、従うことのみできるという伝統的な観念を維持した。もしもこのような指導が継続していたなら、聖霊が新しい働きを行ない人々を教義から解放し、自由と美の領域へと導くことはできなかったであろう。そういうわけで、時代が変わるこの段階の働きは、神自身が行ない語らなくてはならないのである。そうしなければ、神の代わりにこれらの働きを行なえる人はいない。今までは、この流れの外側では聖霊のあらゆる働きは行き詰まり、聖霊に使われていた人々は道に迷ってしまった。よって、聖霊に用いられた人の働きは神自身による働きと同じではないので、その身分や誰に代わって行動しているかもまた異なっている。これは聖霊が意図する働きが異なるため、働くすべての人たちに異なった身分や地位が与えられるためである。聖霊によって用いられる人たちはまた新しい働きをするかもしれないし、また昔なされた働きを排除するかもしれないが、彼らの働きは新しい時代の神の性質や心を表現することはできない。彼らはただ前代の働きを取り除くためだけに働き、神の性質を直接表すために新しい働きをするわけではない。このように、彼らがどれだけ多くの時代遅れの実践を廃止し、新しい実践を導入しようとも、彼らは依然として人や被造物を代表しているのである。しかし、神自身が働くとき、神は公然と古い時代の実践の撤廃を宣言したり、新しい時代の始まりを直接宣言することはない。神はその働きにおいて直接的で率直である。神は意図する働きを遂行する上で率直である。すなわち、神は自身がもたらした働きを直接表現し、本来意図したように自身の働きを遂行し、神であることと神の性質を表現する。人の見方では、神の性質、また神の働きはかつての時代とは異なっている。しかし、神の見地からは、これは神の働きの継続でありさらなる展開に過ぎない。神自身が働くとき、神はその言葉を表現し、直接新しい働きをもたらす。それとは対照的に、人が働くときは、熟考と研究によってなされるか、あるいは他人の働きに基づいて築かれた知識の発展と実践の体系化である。すなわち、人によってなされる働きの本質は設立された秩序に従い「新しい靴で古い道を歩く」ことである。これは聖霊に用いられる人が歩く道でさえ神自身によって開かれたものに基づいているという意味である。所詮人は人であり、神は神である。

 ヨハネは、アブラハムにイサクが生まれたように、約束によって生まれた。ヨハネはイエスのために道を整え、多くの働きを成したが、神ではなかった。むしろ、ヨハネは預言者であった。イエスのために道を整えたからである。ヨハネの働きも偉大であり、ヨハネが道を整えた後初めて、イエスは公に自分の働きを始めた。実質的には、ヨハネは単にイエスのために働いただけであり、ヨハネの働きはイエスの働きのためであった。ヨハネが道を整えた後、イエスは自分の働きを始めた。それはより新しく、より具体的で、より細かい働きだった。ヨハネが行なったのは、最初の働きだけだった。それより多くの新たな働きは、イエスによって成された。ヨハネも新たな働きを成したが、新たな時代へと案内した者ではなかった。ヨハネは約束の下に生まれ、その名前は天使が与えた。当時、彼の父ザカリヤの名をつけたかった人たちもいたが、ヨハネの母は「この子をその名前で呼ぶことはできません。ヨハネという名にしなければなりません」と主張した。これはすべて聖霊によって命じられたのである。それでは、ヨハネはなぜ神と呼ばれなかったのだろうか。イエスの名もまた聖霊に命じられた。そして、イエスは聖霊から、聖霊の約束によって生まれた。イエスは神であり、キリストであり、人の子であった。ヨハネの働きも偉大であったが、なぜ彼は神と呼ばれなかったのだろうか。イエスの働きとヨハネの働きの違いは正確に言って何だったのだろうか。ヨハネはイエスのために道を整える人であったことが唯一の理由だろうか。あるいは、神にあらかじめ定められたからだろうか。ヨハネはまた「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、天の国の福音も宣べ伝えたが、彼の働きはさらに展開されず、導入部分だけであった。それとは対照的に、イエスは新しい時代を切り開き古い時代を終わらせたが、イエスはまた旧約聖書の律法を成就した。イエスの働きはヨハネの働きより偉大で、さらにイエスは全人類を贖うために来たのであり、その段階の働きを達成した。ヨハネはただ道を整えただけであった。彼の働きは偉大で、言葉もたくさん語り、彼に従った弟子たちも数多かったが、ヨハネの働きは人に新しい始まりをもたらす以上のことは何もなかった。人は彼からいのちも、道も、より深い真理も受けておらず、彼を通して神の旨の理解を得ることもなかった。ヨハネはイエスの働きのために新境地を切り開き、選ばれた人を準備した偉大な預言者(エリヤ)であった。ヨハネは恵みの時代の先駆者であった。そのような事柄はただ彼らの普通の人間の外観を見ていても分からない。特にヨハネは、極めて偉大で、その上聖霊に約束され、聖霊によって支えられた働きをしていたので余計にそうである。だから彼らのそれぞれの身分はその働きを通してでなければ区別することはできない。というのは人の外観からその人の本質を知ることはできないし、人は聖霊の真の証を確認することはできないからである。ヨハネによってなされた働きとイエスの働きとは同じではなく、性質が違っている。それが、神であるかどうかを決定するものである。イエスの働きとは、始めて、続けて、終わらせて、達成することであった。これらの段階をそれぞれイエスは実行したが、一方ヨハネの働きは、始まりの働き以上ではなかった。最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。イエスは人々に説教し、あらゆる場所で天の国の福音を宣べ伝えた。この点ではイエスとヨハネは同じであったが、イエスは新しい時代の到来を告げ、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が恵みの時代に実践すべきことと従うべき道に関する言葉がイエスの口から発せられた。そして、最終的にイエスは贖いの働きを終えた。ヨハネはそのような働きを決して実行することはできなかった。だから、神自身の働きを行なったのはイエスで、イエスが神自身であり、神を直接表すのもイエスである。人の観念では、約束によって生まれた者、霊から生まれた者、聖霊によって支えられている者、新たな道を開く者は神であると言う。このような論法によれば、ヨハネも神であり、モーセもアブラハムもダビデも神である、ということになる。これは、よくできた冗談ではないのか。

 イエスも伝道を行う前は普通の人間に過ぎず、聖霊のすることに従って行動していただけであった。イエスが当時自分の身分を意識していたかどうかはともかく、神から示されたことにはすべて従っていた。聖霊は、イエスがその職分を開始する前には、その身分を決して明かさなかった。イエスがこのような律法や掟を廃止したのは、職分を始めた後であり、イエスが公に働きを始めた後に、彼の言葉は権威や力に満ちた。イエスの働きが始まった後初めて、新たな時代を生み出すという彼の業が始まった。それ以前の二十九年間、聖霊はイエスの中に隠れたままであり、その間イエスは人を表していただけであり、神の身分や働きは持たなかった。イエスがその働きと職分を始めた時点から、イエスは、自分がどれほど人に知られているかに関わらず、自身の内部の計画通りに働きを行ったが、そのイエスの働きは、神自身を直接表したものであった。イエスはその頃、周囲の者に「あなたがたはわたしをだれと言うか」と尋ねた。彼らは答えた。「あなたは最も偉大な預言者であり、私たちのよき医者です」、また「あなたは大祭司です」と答えた者もいた。様々な答えが出た。イエスはヨハネであるとか、エリヤであるとか言う者もいた。イエスはそれからシモン・ペテロの方を向いて「あなたはわたしをだれと言うか」と尋ねると、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えた。その時から、人々はイエスが神であることを知った。イエスの身分が知られたとき、その認識に最初に至ったのはペテロであり、それを口に出したのもペテロだった。そしてイエスは言った。「あなたにこの事をあらわしたのは、肉血ではなく、わたしの父である」。イエスがバプテスマを受けた後、他の者が認識していたかどうかはさておき、イエスの働きは神に代わっての働きであった。イエスが来たのは、自らの働きを行うためであって、自分の身分を明らかにするためではない。イエスの身分が公に人に知られるようになったのは、ペテロのこの言葉の後であった。イエスが神自身であることを人間が認識していたかどうかに関わらず、イエスは時が来ると自分の働きを始めた。そして、人間が認識していたかどうかに関わらず、イエスは自分の働きを以前のように続けた。たとえ人が拒否したとしても、イエスは自分の働きを行い、成すべき時にそれを遂行する。イエスが来たのは働き、職分を果たすためであり、人間が神の肉を知るためではなく、人間が神の働きを受けるためであった。もしあなたが今日の段階の働きは、神自身の働きであることを認識できないなら、それはあなたにはビジョンが欠けているからである。それでもこの段階の働きを否定することはできない。あなたがそれを認識できないからと言って、聖霊が働いていないとか、神の働きは間違っているとかいう証明にはならない。聖書の中のイエスの働きに照らし合わせて現在の働きを調べ、矛盾している点を用いてこの段階の働きを否定しようとする人々さえいる。これは目が見えない者のすることではないだろうか。聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。

 イエスが地上にいた時間は三十三年半だった。つまり、イエスは地上で三十三年半暮らした。そのうちイエスが自身の働きを成したのは三年半だけだった。そして、残りの年月は、普通の人間の生活をしていた。はじめのうち、イエスはシナゴーグの礼拝に出席し、そこで祭司の聖書の解説や他者の説教を聞いた。イエスは聖書について多くの知識を得た。イエスは生まれつきそのような知識を持っていたわけではなく、読んだり聞いたりすることでそのような知識を得た。イエスが十二歳のときにシナゴーグでラビに質問をしたことは、聖書にはっきり記録されている。昔の預言者の預言はどのようなものだったか。モーセの律法はどのようなものか。旧約聖書とは。そして、神殿で祭司の服を着て神に仕えることの意味は何だったのか等、イエスはたくさんの質問をした。そのような知識も理解もなかったからだ。イエスは聖霊により母胎に宿ったが、まったく普通の人として生まれた。多少の個性はあったものの、イエスは依然として普通の人だった。イエスの知恵は身長や年齢とともに続けて増し、イエスは普通の人と同じような人生の過程を通過した。人は、イエスが幼児期、青春期、中年期を経験していないと想像する。イエスは生まれるなり三十歳の人として生涯を始め、業を完了して十字架につけられたと人は思っている。おそらくイエスの人生は、普通の人の人生と同じようには流れなかっただろうと信じている。おそらく、イエスは食べもせず、人と交際もせず、人に簡単に姿を見られることもなかったのだろうと信じている。イエスは神なのだから、見るものを恐れさせるような奇人だろうと信じている。肉となった神は絶対に人間のような生活をしないと人々は信じている。彼らは、イエスは聖なる人なので、歯を磨いたり、顔を洗ったりしなくてもきれいであると信じている。これは純粋に人の観念ではないだろうか。聖書には人としてのイエスの生涯についての記録はなく、イエスの働きについてしか記録がないが、このことでイエスが普通の人間性をもっていなかったとか、三十歳になるまで普通の人間の生活をしなかったという証明にはならない。イエスは二十九歳で公に働きを始めたが、それ以前のイエスの人としての全生涯を否定することはできない。聖書はただその時期のことは記録から取り除いているだけである。それは普通の人性としてのイエスの生涯で、神性としての働きの時期ではなかったので、それを記録しておく必要はなかったのである。イエスのバプテスマ前には聖霊は直接には働かず、職分を始めるべき日までイエスを普通の人としてのその生活に留めた。イエスは受肉した神であったが、普通の人として成熟過程を経た。この過程は聖書から省かれている。というのは、人のいのちの成長に大きな助けにはならないから省かれたのである。イエスのバプテスマ以前は隠された時期で、イエスはしるしも不思議も行わなかった。イエスがバプテスマを受けて初めて、恵み、真理、愛、憐みが豊かに溢れた人類の贖いの働きのすべてを開始した。この働きの始まりはまさに恵みの時代の始まりでもあった。このため、それは書き留められ、現在に至るまで受け継がれてきた。それは恵みの時代の人々がその時代の道を歩み、十字架の道を歩むために、道を開き、すべてを完成させるためであった。そのような記録は人によって書かれたものだが、すべては事実の記述であり、ところどころに小さな誤りがあるだけである。とにかく、これらの記録を誤りとすることはできない。これらは人によって書かれたため誤りも見られるが、完全に事実である。イエスは平凡な普通の人性だったと言う者もいるかもしれないが、それならば、どうしてしるしや不思議を行なうことができたのだろうか。イエスが経験した四十日間の誘惑は、奇跡のしるしであり、普通の人には達成することができないものだ。イエスの受けた四十日間の誘惑は、聖霊の業であった。では、イエスの中に超自然的なものがまったくないとどうして言えるだろうか。イエスがしるしや不思議を行なえたことは、彼が普通の人ではなく超越的な人であることの証明ではない。それは聖霊が彼のような普通の人の中で働き、それにより、イエスは奇跡を起こして、より偉大な業を成すことができたというだけである。イエスがその職分を果たす前、あるいは聖書に記されているように聖霊がイエスに降りる前は、イエスは普通の人で、超自然的なところは少しもなかった。聖霊の降臨により、すなわち、イエスがその職分を始めた時、イエスは超自然的なもので満たされた。そのように人は、神の受肉した肉体は普通の人間性は全くなく、さらに受肉した神には人間性がないと誤って信じるようになる。確かに、神が地上にくると、神の働きと人が神に関して見る全てのことは超自然的である。目で見、耳で聞くことはすべて超自然的なことであるのは、神の働きと言葉は人には理解できず、達成不可能なことであるからである。もし天の何かが地上にもたらされるなら、超自然的以外のものであり得ようか。天の国の奥義が地上にもたらされたなら、それは人が理解したり推測したりすることのできない奥義であり、あまりにも素晴らしく知恵に満ちているが、それらはすべて超自然ではないであろうか。しかし、たとえどんなに超自然的でも、それらは神の普通の人間性において行なわれるということを知らなければならない。神の受肉した体は人間性を備えている。そうでなければ、それは神の受肉した体ではないであろう。当時、イエスは非常に多くの奇跡を行なった。当時のイスラエル人が見たものは、超自然的なものに満ちていた。彼らは天使や使者を見、ヤーウェの声を聞いた。これらはすべて超自然的なことではなかっただろうか。確かに、現在では人間を騙すために超自然的なものを通して働く邪悪な霊がいる。これは、現在は聖霊が行わない働きを通して人間を騙そうとする邪悪な霊による模倣にすぎない。多くの邪悪な霊が奇跡や病の癒しなどの働きを模倣する。これは邪悪や霊の働き以外の何物でもない。現在は聖霊はもはやこのような働きをしないからである。以降、聖霊の働きを模倣するのは、すべて邪悪な霊である。当時イスラエルで行なわれた働きはすべて、超自然的なものであった。だが今では、聖霊はそのようなやり方では働かない。これ以上のそのような働きはサタンによる業と妨害であり、悪霊から来る。しかし、超自然的なものの全てが悪霊の行為であるとは言えない。それは、神の働きのどの時代かによる。現在の受肉した神による働きを考えてみよ。そのうちどの部分が超自然的でないであろうか。神の言葉は、あなたには理解できず、到達不可能である。そして、神の働きはだれにもできない。神が理解することを人が理解することはできず、人は神の知識がどこから来るのかを知ることもできない。「私もあなたと同じように普通なのに、あなたの知っていることを私が知らないのはどういうことか。私の方が年上で経験も豊富なのに、どうして、私の知らないことをあなたが知っているのだろうか」と言う人がいる。これはすべて、人間に関する限り、人間にはできないことなのだ。また、「イスラエルで行われた働きについて本当に知っている人は誰もいないのに、どうしてあなたは知っているのですか。聖書解説者すら説明できないのに、あなたはどうして知っているのですか」と言う人もいる。これらはすべて超自然の問題ではないのだろうか。今日の受肉した神はいかなる不思議も経験しなかったが、あらゆることを知っており、神から言葉がいとも簡単に発せられる。これは超自然的なものではないのか。神の働きは、肉により達成可能な範囲を超えている。そのような働きは、肉による者の考えでは達成できず、人の知力や理屈ではまったく考えが及ばない。今日の受肉した神は聖書を読んだことがなかったが、イスラエルでの神の働きについて理解している。そして、地上で語っているにもかかわらず、第三の天の奥義について話す。人がこれらの言葉を読むと、「これは第三の天の言語ではないだろうか」という思いで圧倒される。これらはすべて、普通の人にできることを超えた事柄ではないだろうか。また、イエスが四十日間断食したことは、超自然的なことではなかっただろうか。四十日間の断食があらゆる場合において超自然的で、悪霊の行為であると言うなら、イエスを非難したことにならないだろうか。イエスがその働きを始める前は、まったく普通の人のようだった。イエスも学校で勉強した。それ以外にどうして読み書きを習得できたというのか。神が肉となったとき、霊は肉の中に隠されていた。だが、普通の人間として、イエスも成長と成熟の過程を経る必要があった。そして、イエスの認知能力が成熟し、物事の分別がつくまでは、イエスは普通の人と見なされていた。イエスの人間性が成熟した後初めて、職分を開始することができた。イエスの普通の人間性がまだ成熟しておらず、物事の道理もよく分からないときに、どうして職分を果たすことができただろうか。イエスが六歳か七歳で働きをすることなど考えられないはずである。神はなぜ、受肉してすぐに自身を明らかにしなかったのだろうか。それは、神の肉の人間性がまだ成熟していなかったからである。肉の認知過程、またその肉の普通の人間性がまだ完全に神のものになっていなかったのである。このため、イエスが肉による働きを行うには、それに相応しいだけの普通の人間性と常識を身に付けることがどうしても必要だったのである。そうして初めてイエスはその働きを開始することができたのである。イエスが働きに適していなければ、更に成長、成熟する必要があった。イエスが七歳か八歳で自分の働きを始めても、人は彼を天才児として扱わなかっただろうか。誰もがイエスを子供だと考えたのではないだろうか。イエスに説得力のあると誰が思っただろうか。その身長は演壇ほどもない七、八歳の子供に説教ができたであろうか。その人間性が成熟するまでは、イエスはその働きに適していなかった。イエスの人間性がまだ未熟だったのだから、その働きの大部分が到底成し遂げられなかった。肉体にある神の霊の働きもまたそれ自体の原理に従っている。イエスが普通の人間性を備えて初めて、父なる神の働きや義務を行なうことができたのである。そうしてはじめて、イエスはその働きを始めることができた。イエスは幼年時代には、古代に起こったことのほとんどを全く理解できず、ラビに聞いて初めて理解することができたのである。もしもイエスが言葉を話すようになってすぐ働きを始めていたなら、どうして誤りを犯さないでいられただろうか。神が間違えることなどあり得ようか。よって、イエスが働きを開始したのは、イエスにとって可能になってからであった。働きを行なうことが完全に可能になるまでその働きを実行しなかったのである。二十九歳で、イエスはすでにかなり成熟しており、その人間性はイエスが行うべき働きを遂行するには十分であった。三十年間隠されていた聖霊はその時初めて現われ、神の霊は正式にイエスの中で働き始めた。当時ヨハネはイエスのために道を用意するべく七年間働いていた。そして、この仕事を終えると、ヨハネは投獄された。それから重荷はすべてイエスにふりかかった。もしイエスが人間性にも欠けるところが多く、青年になったばかりの二十一、二十二歳で、まだ多くのことの理解に欠けるままでこの働きを遂行していたならば、イエスは取り仕切ることができなかったであろう。当時、イエスが中年になって働きを始めたとき、ヨハネは働き始めてすでにかなりの時が経っていた。その年齢では、イエスの普通の人間性はなすべき働きを遂行するには十分であった。今や受肉した神も正常な人間性を持つ。あなたがたと比べれば成熟してはいないが、その人間性はその状態で自らの働きに着手するにはすでに十分である。今日の働きを取り巻く状況はイエスの時代とは全く同じではない。イエスはなぜ十二人の弟子を選んだのであろうか。すべてはイエスの働きを支え、協力するためであった。ひとつには当時のイエスの働きの基礎作りをするためであり、同時に、その後のイエスの働きの基礎作りをするためでもあった。当時のイエスの働きに合わせて十二人の弟子を選ぶことは、イエスの考えであったが、それは同時に神自身の考えでもあったからである。イエスは十二人の弟子を選んで、あらゆる場所で説教ができるように彼らを導く必要があると信じていた。だが今日、あなたがたに同じようにする必要はない。受肉した神の働きには多くの原則があり、人間にはどうしても分からないことがたくさんある。人間は自分の観念を絶えず用いて分からないことを推し量ったり、あるいは神に過度の要求をする。そして今日にいたるまで、自分の知識が自分の観念だけで成り立っていることに全く気づいていない人たちが多数いる。神が受肉する時代や場所に関わらず、肉における神の働きの原則は変わらない。神は肉となりながら、働きにおいて肉体を超越することはできない。また神は肉となりながら、肉体の普通の人間性の中で働かないことはできない。そうでなければ、神の受肉の意義は全くなくなり、ことばが肉となったことは全く無意味になってしまう。さらに、天の父(霊)だけが神の受肉を知っており、他の誰も、肉となった神自身さえも、あるいは天の使者たちさえも知らない。そのように、神の肉における働きはもっと普通のことであり、確かにことばが肉となることを申し分なく証明することができる。なお肉とは、平凡で普通の人を意味する。

 なぜ神自身が時代の到来を告げなければならないのかと不思議に思う人がいるかもしれない。被造物が神の代わりをすることはできないのであろうか。神が新しい時代の到来を告げるために、わざわざ肉となることをあなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代に案内するとき、同時に前の時代を終わらせる。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身であるので、前の時代を終わらせるのも神でなければならない。それは神がサタンを負かし、世界を征服する証拠である。神が人々のもとで働くときはいつも、新しい戦いの始まりである。新しい働きの始まりがなくては、当然古い働きの終結もないということである。古い働きの終わりがないということは、サタンとの戦いの終わりがまだ来ていないという証拠である。神自身が人のもとに来て新しい働きを実践して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しいいのち、新しい始まりを獲得することができる。そうでなければ人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。一つの時代が神によって導かれるたびに、人間の一部は自由にされ、それによって人間は新しい時代に向けて神の働きと共に前進する。神の勝利は神に従うすべての人たちの勝利でもある。もし被造物である人類が時代を終えることを任されたなら、人間の視点からであろうとサタンの視点からであろうと、それは神に反抗するか裏切る行為でしかなく、神に対する従順から出たものではなく、そのような人間の働きはサタンの道具にされてしまうことになる。人が神によって案内された時代において神に服従してついて行くときにのみ、サタンは完全に納得させられることができる。それが被造物の本分だからである。そして、あなたがたに必要なのは服従することだけで、それ以上にはあなたがたは何も求められていない、とわたしは言う。それこそ各自が自分の本分をわきまえ、自分の役目を果たすことの意味である。神は自身の働きを行ない、人が神の働きを神に代わってすることは必要としておらず、被造物の働きに神が関与することもない。人は自分自身の本分を果たし、神の働きに関与しない。これが本当の服従であり、サタンが敗北したという証拠である。神自身が新しい時代に案内したあとは、神はもはや人のもとで働くために到来することはない。そうして初めて、人は自分の本分を果たすために、新しい時代に正式に一歩踏み出し、被造物としての使命を果たすのである。これがだれも背くことのできない働きの原則である。このように働くことだけが賢明で道理にかなっている。神の働きは神自身が行なう。神の働きを始動させるのは神で、それを終わらせるのも神である。働きを計画し管理するのも神であり、それ以上に、働きを成就するのも神である。それは聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営(救い)の働きに関連する全てのことは神自身により行なわれる。神は六千年の経営(救いの)計画の支配者で、誰も神の代わりに働くことはできず、神の働きを終わらせることはできない。というのは、すべてを支配するのは神だからである。神は世界を創造し、神は全世界が神の光の中に生きるよう導き、全時代を終わらせ、それにより神の計画すべてを成就させるであろう。

2019年4月2日火曜日

ゴスペル音楽 ワーシップソング 「神の国での新しい生活のために賛美しよう」



ゴスペル音楽 ワーシップソング 「神の国での新しい生活のために賛美しよう」 私たちは神様の御声を聞き 神の家に帰ってきた 私たちは集まって御言葉を食べ飲みし 祝宴に参加する 私たちは、悲しみや混乱に別れを告げ新しい人生を送る 日々御言葉が共にあり それをいっぱいに浴びる 真理についての交わりで心を開き 私たちの心はとても明るくなる 私たちは御言葉を黙想して 聖霊が私たちを啓く 私たちの障壁や偏見は取り除かれ私たちは神様の愛の中に住む 私たちは真理を理解し自由にされ心は蜜のように甘い 私たちは愛し合い、互いに距離はない 私たちは神様の心を理解しもはや消極的ではない 御言葉の中に生き 私たちは神の麗しさを見る 私たちは人生で光の道を歩んだがこれはすべて神様の導き 私たちは神様への賛美を大声で歌い 踊りまた踊る 私たちは神の国での新しい生活を賛美し 心は真に幸せ 私たちを救ったのは神様で 私たちは神様の民になった 神様の御座の前に引き上げられることは 比類なき楽しさ 御言葉はとても貴く、そのすべてが真理 御言葉の裁きを受け入れて 私たちの堕落が完全に暴かれた 傲慢な性質により 私たちは実に理性に欠けている 御言葉が私たちを刈り込み取り扱い自己を知るようになった 私たち顧み、自己を理解し、真に悔い改める 裁きと刑罰を通して 私たちの堕落は清められる 私たちは堕落した性質を捨て去り 新しい人間になる 私たちは合格できるように本分を尽くし神様の愛に報いる 私たちはそれぞれなすべきことをして神様に忠誠を尽くす 証しに固く立ち、神様の御心を達成する 私たちはそれぞれ自分の光と熱を放ち 神様のために証しを広める 神様への純粋で誠実な愛は幸福で甘い 私たちは神様への賛美を大声で歌い 踊りまた踊る 私たちは神の国での新しい生活を賛美し 心は真に幸せ 私たちを救ったのは神様で 私たちは神様の民になった 神様の御座の前に引き上げられることは 比類なき楽しさ 私たちは、心と手をつなぎ神様を証しする 私たちは、御国の福音を広め 苦難や疲労を決して恐れない 患難や試練を通して 私たちは祈り、神様に頼る その道は辛く険しいが 神様は道を開いてくださる 御言葉の真理を知ると 私たちの心は力を得る 御言葉は私たちを勇気づけ 私たちは前へと突き進む 私たちは肩を並べて手と手をとりあって 神様のために証し体と心を神様にささげる 苦しみがどんなに大きくても 私たちは心から喜ぶ 御言葉の導きで、私たちはサタンに勝利する 真に神様を愛し、それを決して悔やまない 私たちは赤い大きな竜を完全に見捨てた 私たちは勝利の兵士だ 私たちは、神様を愛する道において証しし 決して引き下がらない 私たちは神様への賛美を大声で歌い 踊りまた踊る 私たちは神の国での新しい生活を賛美し 心は真に幸せ 私たちを救ったのは神様で 私たちは神様の民になった 神様の御座の前に引き上げられることは 比類なき楽しさ 私たちは神様への賛美を大声で歌い 踊りまた踊る 私たちは神の国での新しい生活を賛美し 心は真に幸せ 私たちを救ったのは神様で 私たちは神様の民になった 神様の御座の前に引き上げられることは 比類なき楽しさ 『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2019年4月1日月曜日

キリスト教讃美歌「神は静かにすべての人を満たす」神の愛は非常に美しく善良なものである



キリスト教讃美歌「神は静かにすべての人を満たす」神の愛は非常に美しく善良なものである
Ⅰ
神はいつも
あらゆる所ですべての人の必要を満たす
神は人の思いと心の変化を観察し
必要な慰めを与え
人を勇気づけ導く
神を愛し神に従う者には
神は惜しみなく与え 祝福が現される
神は皆に恵みを与え 憐みは流れ広がる
神が持つもの 存在そのものを惜しみなく与える
Ⅱ
人が神の思いを無視しても
神は人を光の中で導き 満たし
神の道を歩み従うように助ける
決められた最高の行く末を
神の手から受けられるように
神を愛し神に従う者には
神は惜しみなく与え 祝福が現される
神は皆に恵みを与え 憐みは流れ広がる
神が持つもの 存在そのものを惜しみなく与える
神は自分の痛みや心を明かしたことがない
誰も気にせず理解しなくても
愚痴ひとつ言わない
いつの日か彼らが目覚めるのを神はただ待つ
神を愛し神に従う者には
神は惜しみなく与え 祝福が現される
神は皆に恵みを与え 憐みは流れ広がる
神が持つもの 存在そのものを惜しみなく与える
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2019年3月24日日曜日

【アカベラ】讃美歌「創られた者の心の声」神の愛を賛美する



【アカベラ】讃美歌「創られた者の心の声」神の愛を賛美する
I
叫びたくても相応しい場所がなかった
歌いたくても歌いたい歌がなかった
創られた者として愛を表したかった
至る所を捜しても言葉は見つからなかった
言うことができたのは私の気持ちだけだ
現実的で真実なる神よ
私の心の内なる愛よ
私は両手を上げてあなたを賛美して
あなたがこの世に来たことを喜ぶ
Ⅱ
神は人を創造した
神は再び肉となる程人を愛している
よい時も悪い時も 逆境と悲しみに絶えて
私たちを救い美しい場所へ導いた
だからいつも感謝する 
現実的で真実なる神よ
私の心の内なる愛よ
堕落してしまった私をあなたは救ってくれた
あなたを礼拝せずにはいられない
Ⅲ
被造物は神を崇める それが使命だ
サタンは笑い安逸に祝福をする
しかし私は嫌悪し
サタンの支配の中で
この世・肉・安逸や快楽を渇望するより
神を愛するために裁きの中で生きたい
現実的で真実なる神よ
私の心の内なる愛よ  
土で作られた私でもあなたを愛してる
これこそが最高の祝福なのである
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2019年3月13日水曜日

キリスト教讃美歌「人の子が現れました」神の祝福がゆえに本当の楽しみがある



キリスト教讃美歌「人の子が現れました」神の祝福がゆえに本当の楽しみがある
世界の東から(東…東…)
一筋の光が現われ(光…光…)
西の果てまで照らします
人の子が地に降臨しました
Ⅰ
救い主が戻られました、彼は全能神
真理を表し、新時代を始めました
人の子が現れました。(本当?)
神が来られました。(おお!)
神は人類に永遠のいのちの道をもたらします
新しい天と地、新しい時代
新しい人間、新しい道、新しい生活
新しいエルサレムが地に降臨しました

私達は神の家へ戻り
教会生活をおくり
神の言葉を毎日飲み食いし
神の愛の中で育ちます
さあ、来て歌いましょう!(よし!)
私は踊ります!(踊ろう!)
私達の生活はまことに楽しい。(真に楽しい)
私達は神と一緒にいます。(真に楽しみます。)
私達は神の祝福を得ています。(真に幸せ)
キリストの国は暖かい家庭です

全能神、終わりの日のキリスト
私達がお慕いする最愛の人
神が発するあらゆる言葉は真理で
私達を潤します
神は振る舞い方、正直になる方法を
私達に教えてくださいます
神の祝福の中で生き
私達は心から神を愛します

神の言葉の裁きは全ての人々の心を征服します
神の民は清められ、神を証しします
心を一つにし(本分を尽くす)
神の愛に報い(神を証しする)
神の国の福音を宣べ伝えよう。(神の国の福音)
神の言葉は世界中に伝わります
神の聖き名は皆に賛美されます
キリストの国はこの地に実現されます
心を一つにし(本分を尽くす)
神の愛に報い(神を証しする)
神の国の福音を宣べ伝える。(神の国の福音)
神の言葉は世界中に伝わります
神の聖き名は皆に賛美されます
キリストの国はこの地に実現されます
キリストの国はこの地に実現されます
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2019年3月11日月曜日

キリスト教 美しい讃美歌 「各国から来た神の民が、ひとつとなって心情を表現する」神の愛を感謝し、賛美する



キリスト教 美しい讃美歌 「各国から来た神の民が、ひとつとなって心情を表現する」神の愛を感謝し、賛美する
神の国を見よ
そこで神は万物を統べ治める
創造の始めから現代まで
神の息子たちは苦難の中を導かれた
行くところ山あり谷あり
だが今神の光の中に住む
昨日の不正にすすり泣かない者は誰か?
今日苦心して勝ち取った生活に涙しない者は誰か?
この機会に心を神に捧げない者は誰か?
自分の情熱と体験を声にしたくないのは誰か?
昨日の不正にすすり泣かない者は誰か?
今日苦心して勝ち取った生活に涙しない者は誰か?
この機会に心を神に捧げない者は誰か?
自分の情熱と体験を声にしたくないのは誰か?

彼らの心には神が住む
それは神の業が成就したからだ
昨日の不正にすすり泣かない者は誰か?
今日苦心して勝ち取った生活に涙しない者は誰か?
この機会に心を神に捧げない者は誰か?
自分の情熱と体験を声にしたくないのは誰か?
昨日の不正にすすり泣かない者は誰か?
今日苦心して勝ち取った生活に涙しない者は誰か?
この機会に心を神に捧げない者は誰か?
自分の情熱と体験を声にしたくないのは誰か?
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より



2019年3月5日火曜日

全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 9」4




 ここで話をしたことは、すべてが人間ひとりひとりの生存と密接に関連している。あなたがたには「あなたの言うことは話が大きすぎて理解できない」という意見があったり、あるいは「あなたの言うことは私と無関係だ」という者が居たりするかも知れない。しかし、あなたは万物のひとつとして生きているということ、神の支配下にある万物のひとつであるということを忘れてはならない。万物は神の支配から切り離すことが出来ないので、神の支配から自分を切り離すことが出来る人間は居ない。神による支配と供給を失うと、人間の命、すなわち人間の肉にある命は消滅するであろう。これが、神が人間の生活環境を定めたことの重要性である。人種を問わず、また東洋、西洋など居住地域を問わず、人間は、神が人類のために用意した自らの生存環境から自らを切り離すことはできず、神が用意した生存環境による養育と供給から自らを切り離すことができない。あなたの生活手段や、あなたが生活を依存している物事、肉にある命の維持を依存している物事が何であれ、あなたは神による支配と管理から自らを切り離すことが出来ない。一部の人々は、「私は農民では無く、作物を栽培して生計を立てていない。私は食料を天に依存していないので、神により定められた生存環境で生存していない、と言えるであろう。そうした環境からは、何も与えられていない。」などと言う。しかし、それは誤っている。それが誤っているのは何故か。あなたは作物を栽培して生計を立てていないと言うが、穀類を食べないだろうか。あなたは、肉を食べないだろうか。あなたは、卵を食べないだろうか。あなたは、野菜や果物を食べないだろうか。あなたの食べ物や必需品は、全て神が人間のために定めた生存環境と切り離すことが出来ない。人間に必要な物の源は、神が造った万物やこうした生存環境と切り離せない。あなたが飲む水、着ている衣服、使っているあらゆる物のうち、万物から得た物では無いものは、あるだろうか。一部の人々は、「万物から得た物以外の物が多少ある」と言うかもしれない。それは何であろうか。例を挙げられるだろうか。一部の人々は、「プラスチックは万物から得た物以外の物だ。プラスチックは人間が造った化学物質だ」と言うかもしれない。しかし、それは誤っている。それは何故であろうか。プラスチックは人間が造った化学物質だが、プラスチックの原材料は、何に由来するであろうか。(原材料は、最初に神が造られた物に由来する。)原材料は、神が造った物質から得たものである。あなたが享受するもの、見るもの、使うものは、全て神が造った万物から得たものである。つまり、人種、生活手段、居住する生存環境の種類を問わず、人間は自分自身を神から供給される物事から切り離すことが出来ない。そうしたわけで、本日話をしている事項は「神が万物の生命の源である」という主題に関連していると言えるであろうか。本日話をしている事柄は、この大きな主題に含まれるであろうか。本日このような話をしたのは、ひとえにこの関連性があるからである。本日の話には、多少抽象的で話が難解な部分もあるかも知れない。しかし、この主題に関するあなたがたの理解が多少向上したことであろう。

 前回まで数回の話で説明した事項は、比較的広範囲におよぶものであり、その対象も幅広いものであったので、理解するには多少の努力が必要である。なぜなら、これらの事項は、人間の神に対する信仰のなかで嘗て直面したことの無いものだからである。この話を神秘であると捉える者と、話として捉える者が居るが、どちらの観点が正しいであろうか。あなたがたは、この話をどのような観点で聞いているだろうか。この話から何が分かったであろうか。誰かに述べて貰いたい。(神の権威の一側面を認識し、神の高潔を知り、それらを知ったことにより人間に対する神の愛を認識した。神の業には、それぞれに、人間に対する神の周到な采配と計画が含まれている。神は人間を愛し、慈しんでいるので、十分に配慮して人間の食料を与えた。)(神の業と、神が万物を整然と整えたこと、万物に律法があることを理解した。また本日の話により、神の業と、人間の救いのための神による周到な采配について理解が深まった。)数回にわたり話をしてきたなかで、神による万物支配の範囲がどのようなものかを理解したであろうか。(それは人類と物事のすべてである。)神はあるひとつの人種の神であるだろうか。神はあるひとつの種類の人間の神であるだろうか。神は限られた一部の人間の神であるだろうか。(そうではない。)そうではないので、人間の神に関する認識において、神が限られた一部の人間の神であるか、あるいは神があなたがただけの神であるという見解は正しいであろうか。神は万物を管理し、支配しているので、人間は神による万物支配で明示された神の業、知恵、全能性を理解できるはずである。これは人間が理解すべき事柄である。神が万物と人間を管理し、支配していると言いながら、神による人間支配に関する認識が皆無であるとすれば、神が万物を支配していることを真に認識できるであろうか。あなたには、それが出来るだろうか。あなたは心の中で「私の一生も神により支配されていることは分かるので、そのように認識出来る」と考えるかも知れない。しかし、神はそれほど小さな存在であるだろうか。神はそのような存在ではない。あなたは、自分自身に対する神の救いと業のみを理解し、そうした救いと業から神による支配を認識している。それでは範囲が小さすぎるので、あなたの神に関する真の認識に悪影響を与える。またこれは、神による万物支配に関するあなたの真の認識を制限する。あなたの認識を、神があなたに与える物事と救いに限定した場合、あなたは神が万物と人間を支配していることを認識することは、決して出来ない。あなたがこうした事柄の全てを理解できなかった場合、あなたは神があなたの運命を支配していることを、真に認識出来るか、というと、それは出来ない。その側面は、決して心の中で理解することが出来ない。あなたがその段階の理解に達することは、決して無い。これについては理解したことと思う。(理解した。)事実、わたしが話をしている事項、内容について、わたしはあなたがたがどの程度理解できるかを知っている。それではその事項についてわたしが話し続けているのは何故であろうか。なぜなら、これらの事項は、神に付き従い、神に救い出されることを求める全ての者が理解すべき事柄だからである。これらの者は、これらの事項を知っている必要がある。こうした事項について、あなたは現時点において理解していないが、いつかあなたのいのちと真理の経験が一定の段階に達し、あなたのいのちの性質の変化が一定のレベルに達し、そしてあなたの背丈が一定のレベルに達した時に初めて、ここでわたしがあなたがたに伝えている事項に関する話により、あなたの神に関する認識の追求に役立ち、あなたの神の認識への追求を満足させるであろう。そうしたわけで、これらの話は、あなたがたの今後における神による万物支配の理解、そして神自身に関する理解の基礎を固め、準備することを目的とするものであった。

 ある者の心の中にある神に関する認識の程度により、神がその者の心をどの程度掴んでいるかが決まる。その者の心の中の神に関する認識の量は、神のその者の心の中における地位の高さである。あなたの知る神が空虚で曖昧な場合、あなたの心の中の神もまた空虚で曖昧である。あなたの知る神が、あなたの範囲に限定されている場合、あなたの神は極めて小さい神であり、その神と真の神との間には何の関連性も繋がりも無い。ゆえに、神の実際の業や神の実際、神の全能性、神自身の真の身分、神が持っているものや神が何であるか、神が万物において示した事柄を知ることは、神の認識を求める者それぞれにとって、極めて重要である。これらの事柄は、人間それぞれのいのち、すなわち真理を追求する実際のいのちと不可分である。神に関する認識を、言葉だけに限定した場合、あるいは自分自身の数少ない経験やあなた自身が数えるだけの神の恵み、神への証しだけに限定した場合、あなたの神は、間違い無く真の神では無いと言える。あなたの神は間違い無く真の神自身ではなく、またあなたがたが信じる神は、神では無いとも言えるであろう。それは、わたしが話をしている神は、万物を支配し、万物と共にあり、万物を管理する神であるからである。その神こそが、人類全体と万物の運命を握っている神である。わたしが話をしている神の業は、ごく一部の人々に限定されていない。つまり、そうした業は、現在神に付き従う者に限定されていない。神の業は、万物に、すなわち万物の生存、万物の変化の律法において表されている。あなたが神の万物における業を認識出来ないのであれば、あなたは神の業の証に立つことは出来ない。あなたが神の証に立つことが出来ない場合、自分が知っている小さな神、自分だけの考えに限定された、自分の狭い心の中に居る神とやらについて語り続ける場合、神があなたの信仰を讃えることは決して無いであろう。あなたが神の証に立つ時、自分がいかにして神の恵みを享受し、神の鍛錬と懲らしめを受け、神の祝福を享受しているかだけで神の証をするのであれば、それは甚だ不適切であり、神に満足してもらうには程遠いものである。神の心に沿う方法で神の証をすること、真の神自身の証に立つことを望むのであれば、神の業から神が持っているものや神が何であるかを理解する必要がある。あなたは、神による万物支配から神の権威を理解し、神が全人類に対して施すという事実を理解する必要がある。自分の食料や飲料、生活必需品が神に由来することを認めるのみで、神が万物により全人類に対して施すという事実、神が万物を支配することにより全人類を導いているという事実を理解しないのであれば、神の証に立つことは決して出来ない。あなたがたは、これで完全に理解したであろう。わたしは、何を目的として話をしているであろうか。わたしの話の目的は、あなたがたがこの真理を軽視しないようにすること、わたしが話をしている事柄が、あなたがた自身がいのちに入ることと無関係であると考えないようにすること、そしてこれらの事項が単なる知識や原理であると思わないようにすることである。そうした態度でこの話を聞いた場合、あなたがたが得るものは皆無である。あなたがたは神を知る好機を失うであろう。これで理解できただろうか。
 わたしは、何を目的としてこれらの事項について話をしているであろうか。わたしの目的は、人々に神を知らしめること、神の実際の業について理解せしめることである。あなたに神を知る機会や可能性があるのは、神と神の業について理解した時のみである。たとえば、ある者について理解したい場合、あなたがたはどのような方法でその者を理解するであろうか。その者の外観を観察することによってであろうか。その者の着衣や着こなし方を観察することによってであろうか。その者の歩き方を観察することによってであろうか。その者の知識の範囲を考察することによってであろうか。そのような方法でないことは間違い無いだろう。それでは、あなたがたはどのような方法でその者を理解するであろうか。あなたがたは、その者の思想や話、態度、その者が表出ないし明示する事柄により判断するであろう。これが、あなたがたがその者を知り、理解する方法である。それと同様に、神や、神の実践的側面、神の真の側面について知りたい場合は、神の業など、神が行う実践的な事柄の全てにより神を知る必要がある。これが最適かつ唯一の方法である。これで理解できただろうか。神は万物に対して神の業を示し、万物を支配し、万物の律法を制御している。人間にとって、神を理解し知ることは、絶対的に必要なことである。

2019年2月13日水曜日

キリスト教讃美歌「最も人を愛するのは神だけである」



Ⅰ
終わりの日に神は肉となる
愛する人を救うため
愛に駆られ、愛を基礎として
神は今日の業を行う
神は肉となり、恥辱を受け
汚れ傷ついた者達を救う
この痛みに耐え
神は、何度も計り知れない愛を示す
どの魂も神は失くしたくない
自分の将来を気にせず
いのちをどう慈しむのか知らない
人を、神だけが愛す Oh..oh...
Ⅱ
癒し、励まし、裁きと呪い
暴露、そして約束
どの神のことばもみな、神の愛による
神の業の真髄だ
こんなにも大勢が、近づいて従い
力を得ているのはなぜ?
それは、神の愛と救いを見たから
神は遅れず、タイミングは完璧だ
どの魂も神は失くしたくない
自分の将来を気にせず
いのちをどう慈しむのか知らない
人を、そう神が、神だけが愛す
Ⅲ
自分を一番愛するとは
どんな愛なのか?
神の愛こそ真実だと、あなたは知るだろう
受肉せず、導かず、人と生きぬ神なら
その愛を知ることは出来ない
どの魂も神は失くしたくない
自分の将来を気にせず
いのちをどう慈しむのか知らない
人を、そう神が、神だけが愛す
そう、神だけが愛す。ああ神は
こんなにも人を愛している
『言葉は肉において現れる』より

2019年2月12日火曜日

終わりの日のキリストの語られる言葉 「神の働き、神の性質、そして神自身 1」 その4



全能神は言われます「神は虹を用いて人間との契約を結んだが、神はなぜそうしたのか、なぜその契約を打ち立てたのかを誰にも言っていない。つまり、神は自身の本当の考えを誰にも話していない。それは、神が自らの手で創造した人間への愛の深さを真に知ることができる者は一人としておらず、そして人間を滅ぼした時にどれほどその心が痛み、苦しんだかを理解できる者はいないからである。したがって、神がたとえ自分がどのように感じるかを人間に伝えたとしても、彼らにはその信頼を受け止めることができないのである。痛みを感じているにも関わらず、神は次の段階へと自身の働きを進める。神は全ての苦しみを静かに負いながらも、人間には自身の最善の側面を与え、最善のものを与えてくれる。神は決してこれらの苦しみを広く打ち明けることはない。むしろ、神はそれらに耐え、静かに待つ。神の忍耐は冷たくはなく、無感覚なものでもなく、無力なものでもなく、弱さの印でもない。それは神の愛と本質が無私であるという印である。これは神の本質と性質の自然な現れ、そして創造主なる神の身分を真に具現化したものである。」

2019年1月4日金曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 8」1


神は万物の生命の源である (2)
 前回伝えた事項について、引き続き話をする。前回伝えた事項を覚えているだろうか。(神は万物の生命の源である、だった。)「神は万物の生命の源である」は、あなたがたにとって極めて関係の薄い事項であろうか。この事項について前回伝えた事柄の要点を述べることが出来る者は居るだろうか。(神による万物創造により、神が万物や人間を養われていることが分かる。従前は、神が人間に施される時、神は、神の選民に対し、神の御言葉を与えられるのみであると、常に考えていたが、神が万物の律法により人類を養われているということは気付かなかった。真理のこの側面に関する話によって、万物の生命が神に施されていること、神がその律法を操られていること、神が万物を養われていることを、はじめて理解できた。神の万物創造から、神の愛を理解し、神は万物の源であると感じる。)フム、前回はおもに神の万物創造、そして神が万物の律法と原則をどのようにして確立したかについて話をした。そうした律法や原則に基づき、万物は神の支配下において、そして神の見守るなかで、人間とともに生き、死に、共存する。最初に話をした話題は何であっただろうか。神は万物を創造し、独自の方法により万物の成長の律法やその成長の軌跡と成長様式を定め、また万物が継続して生存し、依存し合うよう、万物が地上に存在する形態を定めた。そうした方法と律法により、万物は地上で無事に平和に存在して成長することが可能となる。人間が安定した住居と生活環境を得て、神の導きにより継続的に発展し、進歩し続けることができるのは、ひとえにそうした環境があるからである。

 前回は、神が万物に全ての必要を与えたことの基本的概念の話をした。神は、まずこのようにして万物に全ての必要を与えたので、万物は人間のために存在し生きる。こうした環境が存在するのは、神により定められた律法があるからである。人間の現在の生活環境が存在するのは、ひとえに神がこうした律法を維持し、管理しているからである。前回話をした内容は、従前に話をした神に関する認識から大きく飛躍した内容であった。そのような飛躍がある理由は何であろうか。それは、従前に神を知ることに関する話をした時、神が人間を救済し、経営する事、すなわち神の選民の救いと経営、神や、神の業、神の性質、神が持っているものや神自身、神の心、神がどのようにして人間に真理といのちを与えるかに関する範囲内で話をしたからである。しかし、前回話をした事項は、聖書や神による神の選民の救いの範囲だけに限定されていない。前回の話は、聖書や神の選民に対して神が行う3段階の業により神自身について話をするという制約を超えていた。したがって、わたしの話のうち、この部分を聴いた時、あなたがたは、自分が知っている神に関する認識を、聖書や神の業の3つの段階に限定してはならない。むしろ、あなたがたは視野を制限せず、万物の中にあって神の業、神の持つものと神そのものを理解し、神がどのように万物を支配し、管理するかを知る必要がある。あなたがたは、それを手段とし、基礎として、神がどのように万物に施すかを理解することができる。こうすることにより、人間は、神が万物のいのちの真の源であり、それが神自身の真の身分であることが理解できる。つまり、神の身分、地位、権威など、神の全ては、現在神に付き従っている者だけを対象とするものではない、つまりあなたがただけでなく、万物を対象としているということである。それでは、万物の範囲は何であろうか。万物の範囲は極めて広い。わたしは神の万物支配の範囲を説明するために「万物」という語を用いているが、それは、あなたがたに、神により支配されている物事は、あなたがたの目に見えるものだけではなく、人間全員に見える物質世界とともに、それと別の、人間の目には見えない、物質世界以外の世界、そして人間が現在存在する範囲外の宇宙や惑星も含まれる、ということである。それが、神の万物支配と、神が万物を支配しているという概念の範囲である。神による万物支配の範囲は極めて広い。あなたがたが理解すべきこと、知るべきこと、そして何によって認識を得るか―これが、ここに座っているあなたがたが理解し、知り、明確にしなければならない事柄である。この「万物」の範囲は極めて広いものの、わたしはあなたがたが全く見たり接したりすることが出来ない物事については話をしない。わたしは、人間が接する可能性のある事柄、理解できる事柄の範囲について話をするので、全員が「神は万物の生命の源である」という言葉の本当の意味を実感できる。こうすることにより、わたしがあなたがたに伝える事柄は、空虚な言葉ではなくなる。前回は、神が万物に施すことについて、基本的な認識を得ることが出来るように、物語を使って、「神は万物の生命の源である」という主題の概要を説明した。こうした基本概念をあなたがたの身に付けさせたことの目的は何であろうか。それは、聖書や神の業の3段階以外に、神は人間が見たり接したり出来ない業を、それ以上に行っているということを、あなたがたに知らせることである。そうした業は神が個人的に実施しているものである。もし神が、経営の働き以外の業無しで選民だけを導いているとすれば、あなたがたを含めた人類にとって、前進することは極めて困難となり、人類や世界は発展を継続できなくなるであろう。これが、本日話をしている「神は万物の生命の源である」という言葉の重要性である。

1.神が人類のために造った基本的な生活環境
 「神は万物の生命の源である」という言葉に関連する主題と内容について多くの事柄を話したが、神の言葉と神の刑罰、そして裁きの業のほかに、神が人間に与える事柄を、あなたがたは心得ているであろうか。一部の者は「神は恵みと祝福、鍛錬とやすらぎ、労りと保護をあらゆる方法で与えてくださる」と答えるであろう。また、「神は日々の食べ物や飲み物を与えてくださる」と答える者や、「神は全てを与えてくださる」と答える者も居るであろう。こうした人間が日常的に接する物事に関しては、あなたがた全員が、自分の物理的な生活体験から何らかの答えがあるであろう。神は、人間それぞれに対し、多数の物事を与えるが、ここで話をする物事は、人間が日常的に必要とする物事の範囲だけではなく、あなたがた全員が視野を広げることのできる物事である。マクロ的な観点からすると、神は万物の生命の源であるのであれば、神はどのようにして万物のいのちを維持しているのであろうか。神は、万物の存在と、万物の存在に関する律法を維持するために万物に対して何を与えているであろうか。それが、本日の話の主眼である。あなたがたはわたしが述べたことを理解できるだろうか。わたしの話の速さについて来ることが出来るであろうか。(出来る。)あなたがたが話を聞いていることを確認したので、話を先へ進める。この事項は、あなたがたにとって極めて馴染みが薄いかも知れないが、深刻すぎる教義などについては一切話をしない。あなたがたが話を聞いて理解できるよう、努力する。あなたがたは負担を感じる必要は無い。ただ注意して聞いてくれればよい。しかし、ここでもう一度強調しておく必要がある。わたしの話はどのような事項に関するものであろうか。答えて欲しい。(神は万物の生命の源である、という事項である。)それでは、神はどのようにして万物に施すであろうか。神は万物に何を与えるであろうか。「神は万物の生命の源である」と言えるのは何故だろうか。この事柄について、あなたがたには何かしらの概念や思想があるであろうか。わたしが話そうとしている事柄について、あなたがたは全く白紙の状態のようである。しかし、わたしが話す事柄を、知識と関連づけたり、人間の文化や調査研究と結びつけたりするのではなく、神の業と関連づけることが出来ることを願っている。わたしは神と神自身についてのみ話をしている。それが、あなたがたに対するわたしの提案である。あなたがたは理解しているであろうか。(理解している。)



2018年12月15日土曜日

全能神教会のいのちの経験讃美歌「神の愛は私の心を溶かした」


あなたの呼びかけを聞いて 私は御前に帰る 御言葉は私を照らし 自らの堕落を悟る Ⅰ 私はあなたに冷たく あなたを傷つけ 悲しませた 頑なに反抗して あなたを独りにした 人間への愛は何故痛みで報われるのか? 自分の頑なさと ひどい堕落を私は憎む 私はあなたに会う価値もなく その愛にも価しない 私はこんなにも 反抗的な人間なのだ どのようにして私はあなたの心を知り どのようにして私はあなたの愛を悟れようか? あなたの愛は真実で 私は多くの借りがある Ⅱ あなたは誰のために 肉となり恥を忍ばれたのか? 人間の拒絶に苦しみ 惨めな生活だったが あなたは一度も 不平を言われなかった あなたは天から来て 頭を休める場所さえない 世の楽しみを味わったこともなく ただ人々を救い 心を得るために静かに真理を表わす 私が罰せられる時 あなたはそばにいて下さり 精錬される時 あなたの心は痛む 私が悲しい時 あなたはそこにおられる 私に欠けるところを あなたは埋めて下さり 愛に直面する時 心は引き裂かれる あなたの愛は心を溶かし 私の心は変わった Ⅲ どうして待ち続け 遅らせることが出来ようか? 御心を思いやり 愛に報い 精錬と苦痛に耐え 満足させるために証ししよう! あなたを愛し生きるため 私の心は覚まされた 真理を追求し 御言葉によって生きよう あなたを愛し ついて行き 永久に証ししよう! 『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2018年11月24日土曜日

全能神教会御言葉「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」


 主イエス・キリストに従う他の何億人もの人々と同じように、私達も聖書の律法と戒めに従い、主イエス・キリストの豊かな恵みを受け、主イエス・キリストの名の下に集まり、祈り、賛美し、仕えている。そして、これら全てを私達は主の配慮と加護の下に行っている。私達は時として弱くなったり、強くなったりするが、自分達の行動のすべては主の教えに従うものであると信じている。言うまでもなく、天の父の心にかなう道を歩んでいることも信じている。私達は主イエスの再来を、その輝かしい降臨を待ち望み、また地上における生活の終り、神の国の出現、そしてヨハネの黙示録に予言されていることが全てその通りに実現することを待ち望んでいる。つまり、主が到来し、災いをもたらし、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、そして主に従い、主の再臨を歓迎する全ての人々を天に引き上げ主に会わせる。このことを考えるたびに感動せずにいられない。この世の終りに生まれ、主の来られるのを幸運にも見ることができることに感謝する。確かに私達は迫害の苦難を受けているが、それは「永遠の重い栄光をあふれるばかりに」受けるための代償なのだ。何と素晴らしい祝福だろうか。この切なる願望と主によって授けられた恵みによって、私たちは油断なく祈るようになり、さらに頻繁に集うのである。もしかしたら来年、明日、いや、ひょっとしたらもっと早く、誰も予期していないときに、主は突然やって来て、主をひたすら待ち望んでいる人々の集団のもとに現れるかもしれない。主の出現を見る最初の集団となるために、天に引き上げられる人々のうちの一人となるために、遅れを取りたくないから皆我先にと争っている。私達はその日のために、どんな犠牲もいとわず、全てを捧げてきた。仕事をあきらめた者や家族を捨てた者もいるし、結婚を放棄した者、蓄えを全て寄付した者もいる。何という無私無欲な献身であろう。このような誠実さ、忠誠心は、過去の聖人さえも超えるに違いない。主が望む相手に恵みを与え、哀れみをかけるので、私達の献身や支出は既に神の目に留まっているものと私達は信じている。だから、私達の心を込めた祈りも神の耳に届いているし、主が私達の献身に報いてくださると信じている。しかも、神はこの世を造る前から既に私達を慈しんでいたので、私達に与えられている神の祝福や約束を誰も取り上げることはできない。私達は皆、未来のための計画を立てており、自分達の献身や支出は、天に引き上げられ主に会うための交渉の切り札または蓄えであると当然のごとく思っている。さらには何のためらいもなく、私達は将来玉座に就き全ての国と全ての民族を支配する、あるいは王として治めるものと考えている。私達はこれらのことを全て当然のこと、当たり前に期待できるものとして捉えているのである。

 私達は主イエスに逆らうすべての人々を軽蔑するが、彼らは皆最後には滅ぼされるのである。一体誰が主イエスが救い主であることを信じるなと彼らに言ったのか。もちろん私達は主イエスに習って、世間に対し思いやりをもつときもある。彼らは何も知らないからであり、私達は寛容で彼らを許すべきである。私達の行いは全て聖書の言葉に従っている。聖書と一致しないものはすべて異端であり、邪教だからである。私達一人ひとりの心の中にはそのような信念が深く根付いている。私達の主は聖書の中にあり、聖書から離れなければ、主からも離れないのである。この原則に忠実であれば、私達は救われるのである。私達は互いに励まし合い、支え合っており、一緒に集まる時はいつでも私達の言動の全てが主の心にかなっていること、そして主に受け入れてもらえるよう願っている。過酷な環境の中にあっても、私達の心は喜びに満ちている。こんなにも簡単に手に届く祝福のことを思うと、断念できないものなど何もないのではないだろうか。手放すのが耐えられないものなど何もないのではないだろうか。これらは全て暗に示唆されるものであるが、全ては神の目に見られている。掃きだめから引き上げられた一握りの貧しい者である私達は、すべての主イエスの信奉者と同じである。私達は天に引き上げられることを、祝福を受けることを、そして全ての国を治めることを夢見ている。私達の堕落は神の目にはさらけ出されており、私達の欲望と貪欲さは神の目からみれば断罪されている。それでも、これらは全てごく自然に、そして論理的に起こることなので、私達のうち誰も自分達の望んでいることが正しいことなのかどうか疑問をもたないし、ましてや私達の誰一人として、自分達の固執していること全ての的確さを疑いもしない。誰が神の心を知ることができるのだろう。誰も自分たちが歩いている道を求めることも、探究することも、関心を持つこともしない。なぜなら私達が気にするのは自分達が天に引き上げられるかどうか、祝福が受けられるかどうか、天国には自分の場所があるかどうか、いのちの川の水の分け前にあずかり、いのちの木の果実を手にできるかどうかということだけだからである。私達はこれらのことを得るために主を信じ、そして主に従っているのではないのか。私達の罪は赦されて、私達は罪を悔い改め、苦き杯から飲み十字架を背負った。私達の払った代価が主に受け入れてもらえないなどと誰が言えるだろう。私達は油を十分準備していなかったなどと誰が言えるだろう。私達はあの愚かな乙女にも、あの捨てられた者の一人にもなりたくない。しかも、私達はしばしば神に祈り、偽キリストに騙されることがないようにと求めている。それは、聖書の中に「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24:23-24)と書いてあるからである。私達はこれらの聖書の言葉を記憶に留め、隅から隅まで知っており、貴重な宝として、いのちとして、天上に引き上げられ、救われるための保証として考えている。

 何千年もの間、生者はその願望や夢を携えて亡くなっていったが、その人達が天国へ行ったのかどうか本当に知る者はいない。死者は戻って来ているが、過去に起こったことは全て忘れてしまっていて、依然として先人の教えや歩んだ道に従っている。それだから、どれほど月日が経っても、主イエスが、神が、私達のすることを全て本当に受け入れてくれるかどうかは誰にもわからない。私達は一つの結果を待ち望み、これから起こるすべてのことを想像するだけだ。にもかかわらず神は沈黙を守り通して、人間の前には姿を現さず、言葉を発することもない。だから私達は自らの意志で神の心と性質を、聖書や印に基づいて判断するのである。私達は今では神の沈黙に慣れてしまった。自分達の行動が正しいか間違っているかの判断を自らの見方で測ることに慣れてしまった。神が私達に要求していることの代わりに私達の知識、観念、道徳的倫理を使うことに慣れてしまった。神の恵みを享受することに慣れてしまった。神の助けが必要な時にいつでも神が与えてくれることに慣れてしまった。ありとあらゆることを求めて神に向かって両手を差し出し、神にあれこれ指図することに慣れてしまった。教義を守り、聖霊の導きに注意を払わないことにも慣れてしまった。その上、私達自身が自分の主人である日々に慣れてしまった。私達はこのような神を、一度も会ったことがないのに、信じている。神の性質はどのようなものか、神のもつもの、神であるものは何か、神はどのような姿をしているか、神が現れるとき私達はそれが神であるとわかるだろうかなどの疑問はどれも重要ではない。重要なのは、神が私達の心の中にいるということ、私達は皆、神を待ち望んでいること、そして私達は神の姿を想像することができるということである。私達は自分の信仰を評価し、自分の霊性を大切にする。私達は全てを不潔なものと見なし、全てのものを踏みつけて行く。私達は栄光なる主を信じ従う者なので、その過程がいかに長く困難であろうとも、いかなる苦難と危険に晒されようとも、私達が主に従って行く時、何も私達の歩みを止めることはできない。「いのちの水の川は、水晶のように輝き、神と小羊の御座から出ていた。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。」(ヨハネの黙示録22:1-5)これらの言葉を唱える度に、私達の胸は無限の喜びと満足感で溢れ、目からは涙がこぼれる。主が私達を選ばれたことに感謝し、主の恵みに感謝する。私達は神からこの世では百倍もの報いを受け、その後に来る世では永遠の命を与えられている。だから、もし神が今私達に死になさいと言えば一言の文句も言わずそうするであろう。主よ、どうぞ今すぐに来てください。一分も引き延ばさないでください。私達は主が来られるのを待ち焦がれており、主のために全てを捨てたのですから。

 神は沈黙していて、私達に姿を現したことはない。しかし神の働きは止むことがない。神は全世界を見ているし、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神の経営は計画に従って段階的に行われる。それは静かにまた特に驚くような成果もなく進行するが、神の歩みはますます人類に接近し、神の裁きの座が電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座も私達のもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげているライオンのように、聖霊は私達すべてのもとにやって来る。神は賢く、義に満ちて、威厳がある。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちて私達の間に静かにやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰も神を歓迎せず、その上、誰も神がこれからしようとしていることをまったく知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は、神に従う取るに足らない者として、平凡な一信者として、普通の人のように私達の間に生きている。神には神が従事するものごとや目標があり、その上に普通の人にはない神性を有している。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も神と人の本質の違いを見抜いていない。私達は神を取るに足らない一人の信者としてしか見ていないので、のびのびと恐れることもなく神と共に暮らしている。神は私達の一挙一動を観察しており、私達の考えや思いつきはすべて神の前に晒されている。誰一人として神の存在に注意を払わないし、その役割を想像すらしない。さらに、誰一人としてそれが誰であるか疑っていない。私達は、単純に自分達の活動を継続している。あたかも神と私達には何の関係もないとでも言うように。

 たまたま、聖霊がこの人を「通して」一遍の言葉を発することがある。意外なことのように思われるが、私達はこれを神の発した声であると認め、神から出たものであるとすぐに受け入れる。なぜなら、これらの言葉を誰が発しようと、聖霊から出たものである限り、私達はそれを受け入れるべきであり、否定することはできない。次回の発言は、私を通して出されるかもしれないし、あなた、あるいは他の誰かを通して出されるかもしれない。それが誰であるかにかかわらず、全ては神の恵みである。しかしその人物が誰であろうと、その人を崇拝してはならない。なぜならほかのことにかかわらず、その人が神であるということはとうていありえないし、このようなごく普通の人を選んで私達の神とすることは決してできないからである。私達の神は非常に偉大で尊い。どうしてこのような小さく取るに足らない人が神に代わることなどできようか。加えて、私達は皆、神がこの世に来て私達を天国へ引き上げてくれるのを待っているのだが、そのような重大で困難な仕事に、この小さく取るに足らない人が適格であることがどうしてありえようか。もし主が再臨するならば、白い雲の上に乗って現れ、全ての人に見えるようでなければならない。それは何と荘厳なことだろうか。どうして神が平凡な人々の一群の中に静かに隠れていることなどできようか。

 それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが私達を救うための新しい働きを行っているのだ。この人は私達のために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、私達の中に深く隠された秘密に命中し、それは私達の心を突き刺し、霊を突き刺し、私達を恥ずかしく、みじめな気持ちにする。この人物の心の中にある神は本当に私達を愛しているのか、そして一体何をしようとしているのかと私達は疑い始める。もしかしたら、そのような痛みを耐えなければ天国に引き上げてもらえないのではないだろうか。これからの行く先や未来の運命について…私達は頭の中で思案するようになる。それでもまだ、誰一人として神が肉体を得て私達の間で働きを行っているとは考えない。神がいかに長い期間私達と一緒であっても、どれほど多くの言葉を私達に面と向かって語っていても、私達はそのあまりにも平凡な人を、自分達の未来の神と喜んで認めることはないし、ましてその小さな取るに足らない人に私達の未来と運命の支配を任せたくないのである。私達は、彼から絶えることのないいのちの水を喜んで享受し、彼のおかげで神と向かい合って生活している。私達は天におられる主イエスの恵みには感謝するが、神性を備えたこの普通の人の気持ちには注意を払ってこなかった。それでもなお、彼は肉体の中に隠れて謙虚に仕事を続け、その心の声を発し、人類が彼を拒んでも表向きは気にかけず、また人の稚拙さも無知も見たところは永久に赦して、そして人々の非礼をひたすら黙認している。

 私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。それにもかかわらず、私達の心の中では虚栄心がはびこり、このような人を神として喜んで受け入れることができないでいる。この人が私達にどんなに多くのマナ、どんなに多くの喜びを与えても、私達の心の内に在る主の地位を奪うことができないのである。私達はこの人の特別な身分と地位を嫌々ながらに尊重しているのである。もし彼がはっきりと語り、自分が神であることを私達に納得させなければ、私達は決してこの人を神として、つまりもうすぐ現れるはずであったが既に私達のもとで長く働いてきた神として、思い切って認めることはないだろう。

 神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。その時、私達の心は完全に彼に征服された。私達はもはや彼が誰であるか疑わず、その働きや言葉にもはや反抗することもなく、彼の前に完全にひれ伏す。私達の望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、神の恵みと私達への愛に報い、神の指揮と計画に従い、神の働きに協力し、神が私達に委ねたことを完成するためにできる限りのことを行うことだけである。

 神に征服されるのは、武術の試合のようである。

 神の言葉の一つ一つが私達の急所を突き、私達は悲嘆にくれ、恐れる。神は私達の観念を明らかにし、想像を明らかにし、堕落した性質を明らかにする。私達の言動の全て、思いや考えの一つ一つを通して、私達の本性や本質は神の言葉によって明らかにされ、私達は辱められ、恐怖で震える。神は、私達の行動、目的と意図、それに自分でも知らなかった堕落した性質までを私達に示し、私達を徹底的にさらけ出された気持ちにさせ、さらには完全に納得した気持ちにさせる。神は、私達が神に反抗したことを裁き、神に対する冒涜と糾弾を理由に私達を罰し、私達は神の目には何の価値もなく、生きたサタンそのものであると思わせる。私達の希望は粉々にされ、もはや神に対する理不尽な要求や企てはしなくなり、私達の夢さえも一夜にして消える。これは、私達の誰も想像できず、受け入れることのできない事実である。一瞬、私達は心のバランスを失い、この先どうやって続けていけば良いのか、どうやって私達が信じることがらを保ちつつ続けていけば良いのか分らなくなる。まるで自分達の信仰が振り出しに戻り、主イエスに出会ったことも、親しんだこともなかったような気持ちになる。目の前のこと全てが私達を混乱させ、どこか漂流しているような気持ちにさせられる。私達は狼狽し、落胆し、そして心の奥深くには押さえきれない憤りと屈辱がある。私達はうっぷんを晴らそうと試み、出口を探そうと試み、その上、救い主イエスを待ち続けて、胸の中を打ち明けようと試みる。表面上は放漫にも謙虚にも見えないときもあるが、私達は心の中でこれまでにない喪失感に苦しんでいる。ときには表面上はいつになく冷静に見えるかもしれないが、内面では波打つ海原のような苦悶に耐えている。神の裁きと刑罰は、私達の希望と夢の全てを奪い去り、私達の途方もない望みはもはや無く、あの人が救い主で、私達を救うことができるということを信じようとはしない。神の裁きと刑罰は私達と神との間に深い溝を広げ、誰もそれを渡ろうとさえしない。神の裁きと刑罰によって、これほどの挫折と屈辱を初めて感じたのである。私達は、神の裁きと刑罰によって、神の名誉と人による侮辱に対する神の不寛容を本当に認識した。それと比べて私達はなんと卑しく汚れていることか。神の裁きと刑罰によって私達は初めて、いかに自分達が傲慢で尊大であるか、そして人間は決して神と同等ではなく、神と肩を並べることはないことを悟らされた。神の裁きと刑罰によって、私達はこのような堕落した性質の中でもはや生きていかないことを切望するようになり、そのような本性と本質からできるだけ早く抜け出し、もう神から憎まれたり、神に嫌悪感を起こさせることのないようにと願うようになった。神の裁きと刑罰によって、私達は神の言葉に喜んで従うようになり、もはや神の指揮と計画に反抗する気持はなくなった。彼の裁きと刑罰によって、私達は再びいのちを追い求めるようになり、喜んで彼を救い主として受け入れるようになった。私達は、征服する働きから立ち去り、地獄から抜け出し、死の影の谷から抜け出た…全能神は、私達この集団に属する人間を得たのだ。神はサタンに打ち勝ち、全ての敵を倒したのだ。

 私達は、堕落したサタンのような性質を持っている人のごく普通の集団で、ずっと前から神によって既に運命が決められていた、神が掃きだめからすくい上げた貧しい者である。私達は、かつて神を拒絶し、糾弾したが、今は神に征服されている。私達は、神よりいのちを受け、そして永遠のいのちの道を授かった。私達がこの地球上のどこに居ようとも、迫害や試練を受けても、全能神の救いから離れることはできない。なぜならこの神こそ私達の創造主であり、唯一の贖い主であるからだ。

 神の愛は泉の水のように溢れ出て、あなたや私や他の誰かに、そして真理を求め、神の出現を待ち望む全ての人に与えられる。

 月がいつも太陽を追いかけているように、神の働きは決して止むことはなく、あなたや私や他の誰かの上に、そして神の足跡に従い、神の裁きと刑罰を受け入れる全ての人に対して行われる。

2010年3月23日発表

2018年11月2日金曜日

全能神教会の御言葉讃美歌「汚れなき純粋な愛」


愛は汚れなき純粋な感情である 愛し 感じ 思いやるためには あなたの心を使いなさい 愛に条件や障壁や隔たりはない 愛し 感じ 思いやるためには あなたの心を使いなさい もしあなたが愛するなら あなたは欺かず 不平をこぼさず 背を向けることなく 何の見返りも求めない もしあなたが愛するなら あなたは喜んで犠牲を払い 困難を受け入れ 神と調和して一つになる 愛には疑い 狡さや偽りなどない 愛し 感じ 思いやるためには あなたの心を使いなさい 愛に距離はなく 汚れたものは何もない 愛し 感じ 思いやるためには あなたの心を使いなさい もしあなたが愛するなら あなたは欺かず 不平をこぼさず 背を向けることなく 何の見返りも求めない もしあなたが愛するなら あなたは喜んで犠牲を払い 困難を受け入れ 神と調和して一つになる あなたは自らの家族や青春 将来の展望や結婚 そして自らの全てを神に捧げるだろう そうでなければあなたの愛は愛ではなく 神への偽り 神への裏切りだ 愛は汚れなき純粋な感情である 愛し 感じ 思いやるためには あなたの心を使いなさい 愛に条件や障壁や隔たりはない 愛し 感じ 思いやるためには あなたの心を使いなさい 『言葉は肉において現れる』より


もっと見る 受肉した神は静かに救いの業を為す

2018年10月21日日曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 5」7



 以前に説明した、サタンが人間を腐敗させる幾つかの方法は、明瞭なものであり、誰もが経験したことのあるものである。サタンはそうした方法を用い、それらの方法から逃れることは出来ない。人間には知識と多少の科学的理論があり、伝統文化の影響を受けて生活し、誰もが伝統文化の継承者である。人間はサタンに与えられた伝統文化を継承することを強制されると同時に、サタンが人類に与えた社会動向と強調した行動を取る。サタンから逃れることができず、サタンの業に常に協力し、その狡猾さ、傲慢さ、悪意と邪悪さを受け容れ、こうしたサタンの性質を身に付けた後、人間はこうした人類の中で、こうした世界で生活していて、幸福であろうか、それとも悲しくなるであろうか。(悲しくなる。)そう言うのは何故であろうか。(人間はそうした物事に束縛され、その人生は酷く困難なものだからである。)眼鏡をかけた賢明ないでたちの者を見かけるかも知れない。その者は声を荒げる事なく、常に雄弁で、合理的であり、なにより年輩なので、おそらく様々なところを通り、経験豊富である。大小様々な事柄について詳細に話すことができるであろうし、その発言には確固たる根拠があり、物事の信憑性や理由を評価する様々な理論を身に付けているであろう。人々は、その者の行動や外観、態度、誠実さ、性格を見て、その者に何ら欠点を見出すことが出来ない。特にこうした者が現在の社会動向に迎合し、こうした者は時代遅れであるとみなされることは無く、前衛的で洗練されているとされる。こうした者は年輩であっても、決して時流に遅れることなく、年を重ねても常に新しいことを学んでいる。表面的には、誰もその者の欠点を指摘することは出来ないが、こうした者の内面はサタンにより完全に腐敗させられている。表面的には欠陥が無く、柔和で洗練され、知識があり、ある程度の倫理もわきまえている。誠実であり、知識は若者の知識と比べて引けを取らない。しかし、この者の本性と本質に関しては、サタンの完全なる化身であり、分身である。この者は、サタンによる人間腐敗の「成果」である。あなたがたにとって心が痛むかも知れないが、わたしの話は全て真実である。人間が学習する知識、理解する科学、社会動向に合わせた方向性は、例外無くサタンによる腐敗の道具である。これは絶対的に正しい。したがって、人間はサタンにより完全に腐敗された性質のなかで生活し、神の聖さや本質とは何かを知る術は無い。なぜなら、人間はサタンが人間を腐敗させる手段について、表面的には欠点を見つけられないからであり、誰かの行動から何か誤りがあることを指摘できないからである。人々はそれぞれいつも通りに職務に精を出し、普通の生活を送り、普通に書籍や新聞を読み、普通に学習して発言する。さらに、表面的な道義を装うことを覚えて、挨拶をし、礼儀正しく丁寧な態度で、他人に対する思いやりを持って、友好的に振る舞い、他人の役に立ち、寛大に振る舞うことが可能であり、他人に対して気難しい態度で接したり、利用したりすることを避ける人々もいる。しかし、サタンの腐敗した性質は人々の中に深く根ざしており、それは外部的な努力に依存して変えることができない。こうした本質が原因となって、人間は神の聖さを知ることができず、また神の聖さの本質が人間に対して公表されているにもかかわらず、人間はそれを真剣に考慮しない。それは、様々な手段により、既にサタンが人間の感情や概念、観点、思想を完全に掌握しているからである。この掌握と腐敗は一時的なものでも偶発的なものでも無く、至る所に常に存在する。したがって3年から4年、あるいは5年から6年程度にわたって神を信仰する人々の多くは、依然としてサタンがその人々に浸透させた思想や観点に、あたかも宝を握りしめているかのように、固執している。人間はサタンの邪悪で傲慢な悪意に満ちたサタンの本性を受け容れたため、必然的に人間同士の関係には対立、論争、不和があるが、これはサタンの傲慢な本性の結果として生まれる。サタンが人間に肯定的な物事を与えていたとしたら、すなわち例として人間が受け容れた伝統文化の儒教や道教が肯定的なものであると考えられるとしたならば、そうした物事を受け容れた後、同じ種類の人間同士は互いに仲が良いはずであろう。それならば、そうした共通の物事を受け容れた人々が大いに分裂するのは何故であろうか。それは何故であろうか。それは、そうした物事がサタンに由来し、サタンが人間同士を分裂させるからである。サタンが与える物事は、如何に表面的には高潔で偉大に見えたとしても、人間や人間の生活には傲慢さしかもたらさず、サタンの邪悪な本性の狡猾さでしか無い。そうではないだろうか。自分を偽ることが出来て、教養が深い者、あるいは育ちの良い者は、自分の邪悪な本性を隠すのに苦労する。いくら数多くの手だてを用いてそうした者が自分を隠したとしても、あなたが、その者が聖人である、完璧である、あるいは天使であると考えたとしても、あなたのその者に対する考えがいかに純粋であったとしても、そうした者の生活の裏舞台は、どのようなものであろうか。そうした者の本性が明示されることにより、あなたには、どのような本質が見えるであろうか。間違い無く、あなたはサタンの邪悪な本性を見るであろう。そう言えるであろうか。(言える。)たとえば、あなたがたに親しい者で、あなたが善人である、あるいは善人であると考えたことがある者、あなたが崇拝したような人がいたとしよう。現在におけるあなたの背丈では、その者をどう思うであろうか。まず、あなたはその者に人間性があるか、誠実であるか、人々に対する真の愛があるか、その者の言動が他人のためになるかどうかを考えてみよう。(そのようなことはない。)ここで表現されている、いわゆる親切、愛や善良さは、本当は何であろうか。それは見かけであり、偽のものである。そうした舞台裏の見かけには、隠れた邪悪な目的がある。その目的は、その者を愛され、崇拝される存在とすることである。あなたがたには、それがはっきりと分かるであろうか。(分かる。)

 人間を腐敗させるためにサタンが用いる方法が人間にもたらすものは、何であろうか。何かしら肯定的なものは、あるだろうか。(無い。)第一に、人間は善と悪を区別できるであろうか。(出来ない。)あなたも知っているとおり、この世界では、偉人や新聞、ラジオ局などが、あれが善良なもので、これが邪悪なものだ、などと述べているが、それは正確であろうか。(正確ではない。)それは正しいであろうか。(正しくない。)そうした事件や人々に関する評価は公正であろうか。(公正ではない。)そこには真理があるであろうか。(無い。)この世や人類では、善良なものと邪悪なものが真理を基準として評価されているだろうか。(そうではない。)人間にそうした能力が無いのは、何故だろうか。人間は多くの知識を習得し、科学の知識を身に付けているが、人間の能力は十分ではないのだろうか。人間が肯定的な物事や否定的な物事を区別できないのは何故だろうか。それは何故であろうか。(人間には真理が無いからである。科学や知識は真理ではない。)サタンが人類にもたらす物事は、すべて邪悪であり、腐敗であり、真理やいのち、道が欠如している。サタンが人間にもたらす邪悪と腐敗から考えると、サタンには愛があると言えるであろうか。人間には愛があると言えるであろうか。一部の人々は「あなたは間違っている。世の中には貧しい人々やホームレスの人々を支援している人々が多数いる。こうした人々は善人ではないか。そのほかにも、好ましい取り組みを行っている慈善団体があるが、それらの団体の取り組みは善行であろう。」と言うかもしれない。これについては、何が言えるであろうか。サタンは様々な方法や理論を用いて人間を腐敗させるが、この人間の腐敗は曖昧な概念であるか、というと、曖昧ではない。サタンは実践的な物事も行っており、好ましい物事を装う偽物や、極めて詐欺的な行為も多数含まれており、サタンはそうした行為を自らの意図と目的で行う。腐敗した人間はサタンと同様であり、この世界と社会に存在し、何らかの観点や理論を促進している。それぞれの王朝や時代において、そうした人々は何らかの理論を推進し、人間に何らかの思想を浸透させる。そうした思想や理論は、次第に人間の心に根ざしてゆき、人間はその理論や思想に基づいて生活するようになるが、人間は気付かぬうちにサタンとなっているのではないか。人間はサタンと一体化していないであろうか。人間がサタンと一体化すると、最終的にそうした人間は神に対してどのような姿勢となるであろうか。その姿勢は、サタンの神に対する姿勢と同じではないだろうか。敢えてそれを認めようとする者はいないであろう。それは極めて恐ろしいことである。人間はサタンであり、その本性はサタンの本性そのものである。わたしがサタンの本性が邪悪であると言う理由は何であろうか。それは、サタンのなした業と明示した事柄に基づいて判断され、分析されたことである。サタンが邪悪であると述べることには、意義がある。わたしが単にサタンが邪悪であると言った時、あなたがたはどう思うであろうか。「サタンが邪悪であるのは明らかだ。」と思うかも知れない。そこで、あなたに質問する。「サタンのどの側面が邪悪なのであろうか。」あなたが「サタンの神を拒絶する側面が邪悪である」と言うようであれば、あなたの話は明瞭ではない。ここでその詳細を説明したが、あなたがたはサタンの邪悪の本質に関する具体的な内容について理解しているであろうか。(理解した。)あなたがたは、サタンの邪悪な本性に関して理解した後、あなたがた自身について、どの程度理解したであろうか。これらの事柄に関連性があるだろうか。(ある。)あなたがたは、その関連性により傷付くであろうか。(傷付かない。)その関連性はあなたがたの助けとなるであろうか。(なる。)それは、どの程度の助けとなるであろうか。(極めて大きな助けとなる。)それでは具体的に話そう。曖昧な言葉は聞かないことにする。その「極めて大きな」とは、どの程度を指しているか。(神が忌み嫌われる事柄や神に対抗して作用する事柄について知り、心の中でそれらの事柄について少し明瞭に理解した。)それ以外に回答はあるだろうか。わたしが神の聖い本質について伝える時、わたしはサタンの邪悪な本質について伝える必要があるだろうか。あなたがたはどう考えるだろうか。(伝える必要がある。)それは何故か。(サタンの邪悪さにより、神の聖さが浮き彫りとなるからである。)そうであろうか。サタンの邪悪さ無くして、人間は神の聖さを知ることができないという意味において、それは部分的に正解である。しかし、神の聖さは、サタンの邪悪との対比によってのみ存在する、と言った場合、それは正しいであろうか。この主張は誤りである。神の聖さは、神に内在する本質である。神はそれを明示し、あるいは業を行うが、この聖さは神に内在する本質であり、それが自然に明示されるのであり、それは神自身に固有のものであり、常に存在するが、人間が見ることの出来ないものである。人間はサタンの腐敗した性質と本質の中で生きているので、聖さや神の聖さの具体的な内容について知らない。そうではないだろうか。それでは、あなたは、ここで最初にサタンの邪悪な性質に関して伝える必要があると思うであろうか。(そう思う。)あなたも知っているとおり、神の唯一性に関する側面をいくつか伝えたが、サタンの本質については述べなかったであろう。「あなたは神自身について伝えているのに、なぜ常にサタンが人間を腐敗させる方法やサタンの本性がいかに邪悪であるかについて話をするのか」という疑念を抱く者がいるかもしれない。こうした疑念は払拭されたであろうか。(払拭された。)こうした疑念はどのようにして払拭されたであろうか。(神との交わりにより邪悪な物事を区別することで払拭された。)人間に邪悪を識別する能力があり、人間が邪悪の正確な定義を知っていて、邪悪の具体的な内容と顕現、根源と本質を明瞭に理解している場合、ここで神の聖さについて議論した時に、人間は神の聖さを、真の聖さとして明確に認識するであろう。サタンの邪悪さについて話をしなかった場合、人間がこの社会や人々の中でとる行動、あるいはこの世界の何らかの物事が、聖さと関連するものであるかもしれないと、誤解する者がいるであろう。この見方は誤っているであろうか。(誤っている。)それ故に、わたしはサタンの本質について伝えた。あなたがたは、自分自身の近年における経験や神の言葉を理解すること、神の業を体験することによって、神の聖さについてどのような認識を得たであろうか。あなたがたに発言して欲しい。聞こえの良い言葉を用いる必要は無い。あなた自身の経験から話をして欲しい。神の聖さは、単に神の愛であろうか。人間が聖さと呼ぶのは、単に神の愛であろうか。そう呼ぶのは、極めて一面的であろう。それは一面的ではなかろうか。(一面的である。)あなたがたが見た神の本質は、神の愛以外の側面があるであろうか。(ある。)どのような側面を見たことがあるであろうか。(神は祭礼や祝祭日、慣習、迷信を嫌悪する。そのことは神の聖さである。)あなたは神が特定の物事を嫌悪していると言っているに過ぎない。あなたが述べているのは、神は聖なる存在であり、そのために物事を嫌悪する、ということであろうか。(その通りである。)その根底にある神の聖さは、何であろうか。神の聖さの内容には実体が無く、単に神が物事を嫌悪するのであろうか。あなたがたは、自分の心のなかで「神はこうした邪悪な物事を嫌悪するので、神は聖なる存在であるということが出来る」と考えているであろうか。それは推測ではないであろうか。それはある種の推論と意見ではなかろうか。神の本質を理解することに関し、最も固く禁じられている事は何であろうか。(現実を無視することである。)現実を無視して理論を述べることは最も固く禁じられている行動である。その他にはあるだろうか。(憶測と想像である。)憶測と想像もまた固く禁じられている。憶測と想像が役立たないのは何故であろうか。憶測したり想像したりする物事は、実際に見ることのできる物事であろうか。(そうではない。)そうした物事は、本当に神の本質であろうか。(そうではない。)そのほかに固く禁じられている物事はあるだろうか。神の本質に関する美辞麗句を列挙することは、固く禁じられている事であろうか。(その通りである。)そうした行動は自慢であり、無意味な事ではなかろうか。意見や憶測も、美辞麗句を並べることと同様に無意味である。それ以外に回答はあるだろうか。空虚な讃美もまた無意味であろう。(その通りである。)こうした無意味な事柄を人間が話すのを聞いて、神は喜ぶであろうか。(喜ばない。)何かを「喜ばない」ということの同義語は何であろうか。(不快に感じるということである。)神はそれを聞いて不快になるのだ。神はひとつの群れの人々を導き、救うが、その人々が神の言葉を聞いても、その意味を全く理解していない。誰かが「神は善良であるか」と尋ねると、その人々は「善良である」と答える。「どのように善良であられるだろうか」「極めて善良である」「神は人間を愛しているだろうか」「愛している」「どの程度愛しているだろうか」「非常に深く愛している」「神の愛を説明してもらえるだろうか」「神の愛は海よりも深く空よりも高い」これは戯言ではなかろうか。この戯言は、あなたがたが今述べた「神はサタンの腐敗した性質を忌み嫌うので、神は聖なる存在である」ということと類似していないであろうか。(類似している。)あなたがたが述べたことは、戯言ではなかろうか。述べられた無意味な事柄の大部分は、何に由来するであろうか。(サタンに由来する。)そうした事柄の大部分は、サタンに由来する。述べられた無意味な事柄は、主として人間の無責任さと神に対する不敬が原因である。そう言えるであろうか。(言える。)あなたは何も理解していないのに、戯言を述べたが、それは無責任ではないだろうか。それは神に対する不敬ではないか。あなたは多少の知識を得て、その理由と理論を多少理解し、それらをここで用い、神を知るためにそれを用いた。あなたは、神がそれを聞いて不快になると思うであろうか。あなたがたは、そうした方法により神を知ることなどできることがあろうか。それは不自然だと思わないであろうか。ゆえに、神に関する認識については大いに注意する必要がある。神について知っている範囲のみを述べるように。正直かつ実際的に話をし、ありきたりの褒め言葉や、媚びへつらうような言葉を述べてはならない。神はそうしたことを必要とせず、またそうしたことはサタンに由来する物事である。サタンの性質は傲慢であり、サタンはお世辞や美辞麗句を好む。サタンは、人間が美辞麗句を並べ、それをサタンに用いたならば、満足して喜ぶであろう。しかし、神はそうしたことを必要としない。神はへつらいやお世辞を必要とせず、人間に無意味な言葉で盲目的に神を讃美することを要求しない。神は、現実離れした讃美やお世辞を嫌悪し、聞こうともしない。したがって、誰かが神を盲目的に讃美し、心にもない言葉を発し、盲目的に神の前にひれ伏し、神に対して不用意に祈りを捧げた場合、神は全く聞かない。あなたは、自分の言葉に責任を持つ必要がある。知らない事がある場合、知らないと述べ、知っていることがある場合、実際的な方法でそれを示す必要がある。ここまでの話で、あなたがたは神の聖さの実際の内容について、具体的な認識を得たであろうか。これで、今後あなたがたは敢えて無意味な事を述べることは無いであろう。あなたがたは無意味な事を言わないが、喋るのを止めることは出来ない。したがってある程度の認識を得る必要があるであろう。あなたがたは、そのことについて考えているであろうか。あなたがたは誠意を持ってそのことに対処しているであろう。ここで、あなたがたに発言して欲しい。(私が反抗を示したり、罪を犯したりした場合、私は神の裁きと懲らしめを受けるが、そこに神の聖さを見出した。そして、私が自分の期待通りではない状況や環境に陥った場合、私はそうした物事について神に祈りを捧げ、神の御旨を求め、神は私に示しを与え、導かれ、私は神の聖さを見た。)なるほど、それはあなた自身の経験に由来するであろう。(私は、神が人間を導かれ、神が人間を支配されていることに、神の聖さを見出す。実際に、サタンが人間を腐敗させることや、人間がサタンの腐敗と被害を受けながら生活していること、人間にはそれを制御出来ないことに関して神が話されたことから、神の人間に対する御業を通して私は本当に神の聖さを理解した。)(私は神が述べられた事柄から、人間はそのようにサタンに腐敗させられ、侵害されているということを理解した。しかし、神は全てを与えられて人間を救おうとされており、私はそのことから神の聖さを理解した。)それは実際的な話し方であり、真の認識である。これについて、その他の意見はあるだろうか。(私は自分が正しく理解しているかどうかが分からない。たった今神が私達に述べられたことでは、サタンの言葉や業からサタンの邪悪さが分かる。最初の話では、神は人間に対し、食べて良い物と食べてはならない物について述べられた、また神の御言葉では清さと率直さが明示されている、という話であったが、その話から、神の聖さを理解した。それが私の追加意見である。)なるほど。これらの者の意見を聞いて、あなたがたが最もアーメンと言える意見は、どれであろうか。本日伝えた内容に最も近く、現実的な話は、誰の話であっただろうか。最後に話をした姉妹の話はどうであろうか。(良いであろう。)あなたは、この姉妹の話にアーメンと言うなら、彼女の話のなかで、まさに的中している事柄は何であろうか。あなたがたは、率直に意見を述べてよい。誤りを恐れず自分の意見を述べるように。(最後に話をした姉妹の言葉のなかで、サタンの回りくどい話とは全く異なり、神の御言葉は率直で極めて明瞭であると言っていた。私はそのことに神の聖さがあると思う。)なるほど、それは神の聖さの一部である。あなたがたは、今述べられた意見を聞いていただろうか。(聞いていた。)これは正しいであろうか。(正しい。)この姉妹を讃えよう。素晴らしい。あなたがたは最近行われた2回の話から何かを得たようである。しかし、あなたがたは努力を続ける必要がある。あなたがたが努力を続けなければならないのは、神の本質を理解することは、極めて奥の深い学びであり、一夜にして理解できるものでも、わずかな言葉で明瞭に述べることができるものでも無いからである。

 人間の腐敗したサタンのような性質、知識、哲学、人間の思想、観点のあらゆる側面、そしてそれぞれの解釈が、神の本質を知る上で大きな障害となる。したがって、あなたがたがこうした主題に関する話を聞く時は、あなたがたの手が届かない主題や、理解できない主題や、現実と一致させることが根本的に出来ない主題があるかも知れない。それにかかわらず、神の聖さに関するあなたがたの理解について聞き、あなたがたは、神の聖さについてわたしが話した事柄を心の中で認め始めていることが分かる。あなたがたの心の中では、神の聖さの本質を理解したいという願望が芽生えていることが、わたしには分かる。しかし、わたしがそれ以上に喜んでいる事柄は何であろうか。それは、あなたがたのうちに、神の聖さに関する認識を最も簡潔な言葉で説明できる者がいることである。これは述べるのは簡単な事であり、わたしが依然述べた事であるが、あなたがたのうち殆どの者の心の中では、このことは未だに認められておらず、印象に残っていない。それでもなお、あなたがたの中には、これらの言葉を心に留めている者もいるというのは好ましいことであり、最初の一歩としては極めて良好である。あなたがたが深い主題である、自分には手が届かないと感じる主題について、話のなかであなたがたが引き続き取り組み、より深く交わりを行うことを願っている。あなたがたの手が届かない問題については、あなたがたを更に導く者がいるであろう。現在、手の届く範囲に関する話に一層取り組んでゆけば、聖霊の業により、更に理解できるようになるであろう。神の本質を理解することと知る事により、人間の霊的成長にもたらされる助けは計り知れない。あなたがたがそのことを無視したり、余興であると考えたりしないことを願っている。なぜなら、神を知る事は人間の神に対する信仰や、真理と救いを追求することにとって必要不可欠な基礎であり、なくてはならないものだからである。人間が神を信仰しつつ神を知らず、文字や理論だけで生活しているのであれば、たとえ表面的な真理の言葉に従って生きていたとしても、決して救いを得ることは出来ない。つまり、あなたの神の信仰が、神を知る事に基づくものでなければ、その信仰は無意味である、ということである。これについては理解したことと思う。(はい、理解した。)本日のフェローシップはこれで終わりである。

2014年1月4日

2018年9月12日水曜日

【東方閃電】全能神教会のいのちの経験讃美歌MV「神の民たちの祈り」


I 神の民たちは多くの祈りを心に抱いて神の御座の前に上げられる 神はご自分のもとに立ち帰る全ての人を祝福し 彼らは皆、光の中に生きる 聖霊が神のみ言葉を照らし 我々が十分に神のみ心を悟るように祈りなさい 全ての人々が神のみ言葉を大切にし 神を知ることを求めてやって来ますように 神が私たちにより多くの恵みを与え 我々の性質が変わりますように 神が私たちを完全にし 私たちの心と知性を神と一つにして下さるように 神が私たちを鍛え 私たちが神への使命を果たすことが出来ますように 聖霊が日々私たちを導き 神を述べ伝え証しすることが出来ますように II 全ての人々が善悪を区別し 真理を実践しますように 神が悪を行う者どもを罰し 神の教会が煩わされることがありませんように 全ての人々が愛すべき神に真の愛を捧げますように 神が全ての妨げをとり除いて下さり 私たちが自分の全てを神に捧げることができますように 私たちの心が神を愛し続けるように 神から離れることのないようにして下さいますように 神によって予め定められた者たちが 神のおられる所へ立ち帰りますように 人々が皆、栄光を得られた神に賛美の歌を歌いますように 神がいつも神の民たちと共にいて下さり 私たちが神の愛の中に生き続けられますように 神がいつも神の民たちと共にいて下さり 私たちが神の愛の中に生き続けられますように 『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2018年9月3日月曜日

【東方閃電】全能神教会いのちの経験の讃美歌「神の真の愛」


Ⅰ 今日私は再び神の御前に来たり そして神の見目麗しき御顔を見る 今日私は再び神の御前に来たり そして彷徨うばかりの過去に別れを告げる 今日私は再び神の御前に来たり 甘美な神の御言葉により心は喜び満たされます 今日私は再び神の御前に来たり 語りきれないほどの思いが心の中にあふれている 神の優しい言葉は水のように 私を養い、育ててくれる 神の厳しい言葉は私を励まし 倒れた私を再び立ち上がらせる おお神よ!私たちは讃えます あなたは私たちを引き上げて下さった! 私たちが今日あなたを誉め讃えられるのは すべてあなたの祝福と憐みのおかげなのです! Ⅱ 神よ!あなたは私たちをこんなにも愛し 私たちは日々御言葉を楽しみます 神よ!あなたは私たちをこんなにも愛し 日々新しい啓示を与えて下さいます 神よ!あなたは私たちをこんなにも愛し 神の民に水と食べ物を豊かに与えられるのです 私たちをサタンの勢力から解き放って下さいます 兄弟姉妹たちよ、今、立ち上がれ! 共に私たちの神を讃美しよう ここに集う私たちは 神に与えられた良い機会を大切にすべきである 全ての肉の重荷を捨て去り 全能神を心から讃えよ 全身全霊で私たちの使命を果たして 実際の行為をもって神を愛していくのだ! 私たちは永遠にあなたを愛します 全能なる真の神よ! 『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2018年7月18日水曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「最も人を愛するのは神だけである」


Ⅰ
終わりの日に神は肉となる
愛する人を救うため
愛に駆られ、愛を基礎として
神は今日の業を行う
神は肉となり、恥辱を受け
汚れ傷ついた者達を救う
この痛みに耐え
神は、何度も計り知れない愛を示す
どの魂も神は失くしたくない
自分の将来を気にせず
いのちをどう慈しむのか知らない
人を、神だけが愛す Oh..oh...
Ⅱ
癒し、励まし、裁きと呪い
暴露、そして約束
どの神のことばもみな、神の愛による
神の業の真髄だ
こんなにも大勢が、近づいて従い
力を得ているのはなぜ?
それは、神の愛と救いを見たから
神は遅れず、タイミングは完璧だ
どの魂も神は失くしたくない
自分の将来を気にせず
いのちをどう慈しむのか知らない
人を、そう神が、神だけが愛す
Ⅲ 
自分を一番愛するとは
どんな愛なのか?
神の愛こそ真実だと、あなたは知るだろう
受肉せず、導かず、人と生きぬ神なら
その愛を知ることは出来ない
どの魂も神は失くしたくない
自分の将来を気にせず
いのちをどう慈しむのか知らない
人を、そう神が、神だけが愛す
そう、神だけが愛す。ああ神は
こんなにも人を愛している
『言葉は肉において現れる』より

2017年12月24日日曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「神が肉となった時だけ人は神の親しい友となる」


神が肉となった時だけ人は神の親しい友となる Ⅰ 計り知れない程 神が大いなる霊である時 どうしたら人は 神の 友になれるのか 神が自ら へりくだった時だけ 神は自ら 肉となり側にいる それは人が 神の親しい友となれる時 人が神の 深い友となれる時なのだ 計り知れない程 神が大いなる霊である時 どうしたら人は 神の 友になれるのか 人と同じように 神が肉となった時にだけ 神を理解できる 神のものとなれる Ⅱ 喜び悲しみ 苦しみさえ分かち合い 神は自ら 肉となり語り働く そして側で 人を守り導き清める 人が神の 祝福と救いを得られるように 計り知れない程 神が大いなる霊である時 どうしたら人は 神の 友になれるのか 人と同じように 神が肉となった時にだけ 神を理解できる 神のものとなれる Ⅲ 人がこうして 神の意志を理解することが 唯一神の 深い友となれる道なのだ 実体のない 神と友になどどうやってなれよう その様な 教えはただ虚しいだけ 計り知れない程 神が大いなる霊である時 どうしたら人は 神の 友になれるのか 人と同じように 神が肉となった時にだけ 神を理解できる 神のものとなれる 神が肉となった時だけ人は神の親しい友となる 『言葉は肉において現れる』より


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