2020年10月7日水曜日

東方閃電 全能神教会 日々の神の御言葉「働きと入ること(3)」抜粋308



日々の神の御言葉「働きと入ること(3)」抜粋308
人間による入りの過程において、生活は常に退屈であり、祈りや神の言葉の飲み食い、あるいは集会の開催など、霊的生活の単調な要素で満たされている。そのため、人々は神への信仰が何も楽しみをもたらさないと絶えず感じる。そうした霊的活動は常に人間本来の性質に基づいて行なわれるが、その性質はサタンにより堕落させられている。人間は聖霊の啓きを時折授かることができるものの、人間本来の考え、性質、生活様式、慣習が依然として内部に根づいているので、人間の本性は変わらないままである。人々が行なう迷信的な行為は、神が最も忌み嫌うものである。しかし多くの人は、そうした迷信的行為が神によって定められたものだと考え、それを捨て去ることができず、今日に至っても完全に捨てられずにいる。若者が手配する婚礼の宴、嫁入り道具、祝儀、およびご馳走や、それと同様に祝われる慶事、継承されてきた古代の風習、死者のために行なわれる無意味な迷信的行為や葬式などは、それにも増して神が忌み嫌うものである。礼拝日(宗教界が守っている安息日を含む)でさえ、神にとって忌み嫌うべきものである。それにも増して、神は人間同士の社交関係や世俗的な付き合いを嫌悪し拒絶する。誰もが知っている春節やクリスマスは、神が定めたものではなく、ましてや二行連句、爆竹、灯籠、聖餐、クリスマスのプレゼントや催しなど、これらの祝日で用いられる玩具や装飾は、人間の心にある偶像ではないのか。安息日にパンを割くことや、ぶどう酒、亜麻布の衣服などは、それにも増して偶像である。龍擡頭、龍舟節、中秋節、臘八節、新年などといった、中国で一般的な伝統的祭日、そして復活祭、洗礼日、クリスマスなどの宗教的祭日は、どれも正当化しようのない祭日だが、昔から現在に至るまで、大勢の人によって制定され、受け継がれてきている。これらの祭日が現在まで受け継がれてきたのは、人間の豊かな想像力と巧妙な観念の賜物である。そうした祭日に欠点などないように思われるが、実際には人間に対するサタンの策略である。その地にサタンがはびこっていればいるほど、またその地が廃れて後進的であればあるほど、そこには封建的風習が一層深く根ざしている。そうした物事は人間を堅く縛り、そのために身動きする余地がまったくない。宗教界の祭祀の多くが、高い独創性を示し、神の働きへの架け橋を築いているように思われるが、それらは実のところサタンが人々を拘束し、神を知るようになることを妨げる、目に見えない紐であり、いずれもサタンの狡猾な策謀である。事実、神の働きのある段階が完了すると、神はすでにその時代の道具や様式を跡形もなく破壊し終えている。しかし「敬虔な信者」は、そうした有形の物体を崇拝し続ける。その一方で、彼らは神のもつものを心の奥へしまい込み、それ以上学ばず、神への愛で満ち溢れているかのような様子でいるが、実際にははるか以前に神を家から追い出し、卓上にサタンを据えて崇めている。人々はイエスの肖像、十字架、マリア、イエスの洗礼、最後の晩餐などを天の主として尊びつつ、「主よ、天なる父よ」と繰り返し呼び続ける。これはすべて冗談ではないのか。現在に至るまで、人類のあいだで受け継がれてきた同様の文言や実践は、神にとって憎むべきものである。それらは神の前途を大いに阻み、そしてさらに、人間の入りに巨大な障害をもたらす。サタンが人間を堕落させた程度を脇に置いても、人々の内面はウイットネス・リー(李常受)の掟やローレンスの経験、ウオッチマン・ニー(倪柝聲)の調査、そしてパウロの働きのような物事で満たされている。神が人間に働きを行なう術は一切ない。なぜなら、人々の内面には個人主義、掟、規則、規制、制度などが多過ぎるからである。人々がもつ封建的迷信の傾向に加え、そうした物事は人間を捕らえて食い尽くしてきた。それはあたかも、人々の考えが、とある寓話を極彩色で物語る、興味深い映画であるかのようである。想像上の生き物が雲に乗っているその寓話は極めて独創的であるために、人々は驚き、茫然として言葉を失う。実のところ、神が来て今日行なう働きは、主として人間の迷信的な特質を取り扱い、一掃し、その心構えを完全に変化させることである。神の働きが今日まで続いたのは、人間が何世代にもわたって受け継いできた遺産のためではない。その働きは、霊的偉人の遺産を継承する必要も、他の時代に神が行なった代表的な働きを受け継ぐ必要もなく、神が自ら開始し、完了させるものである。人間はそうした物事に一切関わる必要がない。現在の神は別の方法で語り、働きを行なう。それならば、なぜ人間が自ら苦労しなければならないのか。人間が自分たちの「祖先」の遺産を受け継ぎながら、この流れの中で今日の道を歩んだ場合、終着点にたどり着くことはないだろう。神は人間界の年月や日々を憎悪するのと同じく、人間が有するこの独自の行動形態を大いに忌み嫌っている。 『言葉は肉において現れる』より引用

2020年10月6日火曜日

東方閃電 全能神教会 日々の神の御言葉「聖書について(2)」抜粋270


日々の神の御言葉「聖書について(2)」抜粋270

聖書は旧約・新約聖書とも呼ばれる。あなたがたは「約」の意味を知っているだろうか。「旧約」の「約」は、ヤーウェがエジプト人を殺し、イスラエル人をパロから救ったときの、ヤーウェとイスラエルの民との契約に由来する。もちろん、この契約の証しは鴨居につけた子羊の血であり、神はそれをもって人間との契約を立てた。この契約は、戸枠のてっぺんと両側に子羊の血がついた家の者はみなイスラエル人で、彼らは神の選民であり、ヤーウェは彼らを見逃す(このとき、ヤーウェはエジプト人の初子および羊と牛の初子をみな殺そうとしていた)という内容だった。この契約には二重の意味がある。まず、ヤーウェはエジプトの民や家畜を一切救わず、男の初子および羊と牛の初子を残らず殺す。そのため多くの預言書の中で、エジプト人はヤーウェの契約のために厳しく罰せられると預言された。これが契約の第一層の意味である。ヤーウェはエジプト人の初子と家畜の初子をみな殺したが、イスラエルの民はすべて見逃した。つまり、イスラエルの地に住む民はみなヤーウェの慈しむ者であり、みな見逃されるということである。ヤーウェは彼らの中で長期にわたって働こうと思い、子羊の血で彼らと契約を立てた。それ以降、ヤーウェはイスラエル人を殺すことなく、彼らは永遠に我が選民であると告げた。つまり、イスラエルの十二部族の間で、律法の時代全体にわたる働きに乗り出し、イスラエル人に自身の律法をすべて明かし、彼らの中から預言者と士師を選び、彼らを自身の働きの中心に置くのである。ヤーウェは彼らと契約を立てた。時代が変わらない限り、ヤーウェは選民の間でだけ働く。ヤーウェの契約は変えられないものだった。なぜなら、それは血で作られ、自身の選民との間で立てられたからである。さらに重要なこととして、ヤーウェは時代全体を通じて働きに乗り出す適切な範囲と対象を選んだ。そのため、人々は契約をとりわけ重要なものと見た。これが契約の第二層の意味である。契約が立てられる前の創世記を例外として、旧約の他の書はみな、契約を立てた後のイスラエル人の間における神の働きを記録している。もちろん、異邦人のことを述べている箇所もあるが、総体的に言えば、旧約はイスラエルにおける神の働きを記録したものである。ヤーウェのイスラエル人との契約のため、律法の時代に書かれた書は旧約と呼ばれている。これはヤーウェのイスラエル人との契約に因んで名付けられた。

新約は、イエスが十字架の上で流した血と、イエスを信じるすべての人との契約に因んで名付けられた。イエスの契約はこうである。ただイエスを信じれば、人々はイエスの流した血のおかげで罪を赦され、ゆえに救われ、イエスを通じて生まれ変わり、もはや罪人でなくなる。イエスの恵みを受けるには彼を信じさえすればよい。そうすれば、死後に地獄で苦しまずに済む。恵みの時代に記された書はみな、この契約の後のものである。そのどれもが、そこに含まれる働きと発言を記録している。これらの書は主イエスの磔刑による救い、あるいは契約から先には進まない。これらはどれも、経験を有する、主における兄弟たちが記した書である。したがって、これらの書も契約に因んで名付けられ、新約と呼ばれる。これら二つの契約には、恵みの時代と律法の時代だけが含まれていて、最後の時代とは何のつながりもない。ゆえに、聖書は終わりの日の今日の人々にとってそれほど役に立たない。せいぜい、時おり参照する価値があるくらいで、基本的にはほとんど無価値である。しかし、宗教関係者は、依然としてそれを最も貴重なものとしている。彼らは聖書を知らず、聖書を説明する方法を知っているだけで、そのなりたちを根本的に知らない。聖書に対する彼らの態度は、聖書に書かれていることはすべて正しく、そこに不正確なことや誤りは一切ない、というものである。聖書は正しく、誤りはないと最初から決めてかかっているので、大いに興味をもって学び調べる。今日の働きの段階は、聖書で預言されていなかった。最も暗い場所における征服の働きについて、一切言及されることはなかった。それは最新の働きだからである。働きの時代が異なるので、イエス自身でさえ、この段階の働きが終わりの日に行なわれるとは知らなかった。ならば、終わりの日の人々がこの段階の働きを、聖書を調べることでその中に見つけることなどできるだろうか。

『言葉は肉において現れる』より引用

2020年10月5日月曜日

東方閃電. 全能神教会. 日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第三十章」抜粋387


日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第三十章」抜粋387

兄弟たちよ、目覚めなさい! 姉妹たちよ、目覚めなさい! わたしの日は遅れることはない。時は命であり、時を取り戻すことは命を救うことだ。その時はもう遠くない。大学の入学試験に落ちたなら、勉強して何度でも受け直すことができる。だがわたしの日には、これ以上の遅れは許されない。覚えておきなさい。もう一度言う、覚えておきなさい。わたしはこうした善き言葉で、あなたに強く求める。あなたがたの目の前でこの世の終わりが始まり、大きな災害が急速に迫っている。あなたがたにとって、大切なのはいのちか、それとも寝ること、食べること、飲むこと、着ることなのか。そうしたものを比較し吟味する時が来たのだ。これ以上疑っていてはならず、確信することを避けてはならない。

何と惨めなことか。何と哀れなことか。どこまで盲目なのか。どこまで人類は非情なのか。わたしの言葉に耳を貸さないとは。わたしは無駄に話しかけているのか。なぜそれほどまでに不注意なのか。一体どういうことなのか。本当にこれまで、一度もそのことを考えたことがないのか。わたしは誰のためにこうしたことを語っているのか。わたしを信じなさい。わたしはあなたがたの救い主である。わたしはあなたがたの全能者である。見ていなさい。しっかり見ていなさい。失われた時は二度と戻らない、そのことを覚えておきなさい。後悔を治す薬など世界中のどこにもない。あなたがたにはどう伝えればよいのか。わたしの言葉は、慎重に繰り返し考えるには値しないのか。あなたがたはわたしの言葉にあまりにも不注意で、自分のいのちに対して無責任すぎる。どうやってそれに我慢しろというのか。我慢などできるだろうか。

なぜこれまでずっと、あなたがたの間では正しい教会生活が生じられなかったのか。それはあなたがたが信仰に欠け、代価を払う覚悟がなく、自分を捧げる意志がなく、わたしの前で身を費やしたがらないからだ。子らよ、目を覚ましなさい! 子らよ、わたしを信じなさい! 愛するものたちよ、なぜわたしの心の中にあるものを考慮してくれないのか。

『言葉は肉において現れる』より

2020年10月4日日曜日

東方閃電 全能神教会 日々の神の御言葉「あなたは生き返った人か」抜粋537



日々の神の御言葉「あなたは生き返った人か」抜粋537
あなたが正常な人間性を持つ生き方を達成し、全き者にされたら、預言や玄義について話すことができなくても、人間の姿を生き、表しているのである。神は人を造ったが、その後人はサタンによって堕落させられ、この堕落が人々を死人にしてしまった——したがってあなたが変われば、あなたは「死人」とは違うものになるだろう。人々の霊にいのちを与え、人々を再生させるのは神の言葉であり、霊が再生した時、人々は生かされる。死人について言及する時は、霊を持たない死体のこと、霊が死んでいる人々のことを指している。霊にいのちが与えられると、人々は生かされる。以前語られた聖者は生かされた人々、サタンの支配下にあったがサタンを打ち負かした人々のことだ。中国の選ばれた人々は、赤い大きな竜による非人道的な迫害や策略に耐えてきた。その結果、精神はひどく荒廃させられ、生きる勇気を少しも持たなくなった。したがって彼らの霊を目覚めさせるには彼らの本質から始めなければならない。本質の中で少しずつ彼らの霊を目覚めさせなければならない。いつか彼らが生かされたら、障害物は何もなくなり、すべては順調に進むことだろう。今のところ、これは相変わらず達成不可能である。ほとんどの人は死の環境をかなり含んだ状況下で暮らし、死の雰囲気に包まれており、欠けているものがあまりにも多い。一部の人の語る言葉には死が含まれており、行動には死が含まれており、彼らの生き方のほとんどすべてが死である。今日、人々が公に神について証しをしようとしても、この働きは失敗するであろう。なぜなら彼らはまだ完全には生かされていないし、あなたがたの中にはあまりにも多くの死人がいるからだ。今日、一部の人は、「なぜ神はしるしや奇跡を示さないのだろう、異邦人たちの間に神の働きをすばやく広めることができるのに」と言う。死人は神について証しをすることはできない。生きている者はできるが、今日ほとんどの人は死んでいる、あまりにも多くの人が死に覆われて生きており、サタンの支配下にあり、勝利を得ることができない——それなら彼らは神について証しをすることなどできるだろうか。彼らは福音の働きを広げることなどできるだろうか。 暗黒の影響を受けて生きている人々は死の中に生きているのであり、サタンにとりつかれている。神に救われなければ、そして神の裁きを受け、刑罰を受けなければ、人々は死の権勢から逃れることはできず、生きている人にはなれない。こうした死人たちは神について証しをすることはできないし、神に用いられることもない。いわんや神の国に入ることはできない。神は死人ではなく、生きている人々の証しを望んでおり、死人ではなく生きている人々が神のために働くことを要求する。死人とは神に反対し、神に逆らう人々であり、霊が麻痺し、神の言葉を理解しない人々、真理を実践することはなく、神への忠誠心など微塵もない人々、サタンの支配下に住み、サタンに利用されている人々のことだ。死人は真理に反対し、神に逆らい、卑しく、卑劣で、悪意があり、野卑で、悪賢く、陰険であることで自らを表す。そのような人々はたとえ神の言葉を飲食しても、神の言葉の通りに生きることはできない。彼らは生きているが、歩いている死体、呼吸している死人である。死人は神を満足させることは全くできないし、いわんや神に完全に従うことなどできない。神をだまし、冒涜し、裏切ることしかできない。死人の生き方すべてはサタンの性質を明らかにする。もし、人々が生きている存在になり、神への証しとなり、神に認められることを望むならば、神の救いを受け入れ、神の裁きと刑罰に喜んで服従し、神による手入れや取り扱いを喜んで受け入れなければならない。そうして初めて神が要求した真理のすべてを実行することができ、そうして初めて神の救いを得て、本当に生きた存在になることができる。生きている人々は神によって救われ、神から裁きと刑罰を受けており、進んで神に身を捧げ、喜んで命を投げ出し、全人生を神に捧げるだろう。生きている人々が神について証しをする時にだけサタンを辱めることができ、生きている人々だけが神の福音の働きを広めることができ、生きている人々だけが神の心にかなう人であり、生きている人々だけが本当の人である。元々神によって造られた人は生きていたが、サタンに堕落させられたために死の中で暮らし、サタンの支配下で暮らすようになり、そこで人は霊のない死人となり、神に反対する敵となり、サタンの道具になり、サタンの囚われ人になってしまった。神が造った、生きている人々はすべて死人となり、そこで神は証しを失い、神が造って息を吹き込んだ唯一の人類を失ってしまった。もし神が証しを奪い返し、その手で造られたがサタンに奪われた人々を奪い返そうとするならば、神は彼らが生きている人々になるようによみがえらせなければならないし、神の光の中で生きるように彼らを奪い返さなければならない。死人とは霊を持たず、極端に無感覚で、神に反対する人々のことである。そのうえ、彼らは神を知らない。こうした人々は神に従う意思など微塵も持たず、神に反抗し、反対するだけであり、忠誠心はまったくない。生きている人々は霊が再生しており、神に従うことを知っており、神に忠実な人々である。彼らは真理と証しを所有しており、これらの人々だけが神の家で神に喜ばれる。神は生かされる人々、神の救いを見ることができる人々、神に忠実になることができ、進んで神を探し求める人々、神の受肉を信じる人々、神の出現を信じる人々を救う。生かされる人もいれば、生かされない人もいるが、それはその人の本性が救われるか否かによる。神の言葉を数多く聞いているにもかかわらず神の心を理解しない人が大勢いる。彼らは神の言葉を数多く聞いているが、実行することができず、真理の通りに生きることができず、さらに神の働きを故意に邪魔したりもする。彼らは神のために働くことは全くできず、神に何も捧げることができず、そのうえこっそり教会のお金を使ったり、ただで神の家で食べたりする。これらの人々はみな救われない死人である。神は自身の働きの中にいるすべての人々を救うが、一部の人は神の救いが得られない。神の救いが得られるのはほんの少数だけである。なぜならばほとんどの人はあまりにも死んでおり、救うことができないほど死んでいて、完全にサタンに利用されており、本質的に、あまりにも悪意がある。それら少数の人々も完全に神に従うことができたわけではなかった。彼らは最初から完全に神に忠実な人々、あるいは最初から神に最大限の愛をもっている人々ではなかった。それどころか、彼らは神の征服の働きのために神に従うようになったのであり、神の究極の愛のために神を見ているのであり、神の義である性質のために彼らの性質に変化が見られるのであり、実際的で、正常である神の働きのために彼らは神を知るようになる。神のこの働きがなければ、これらの人々がどんなに善良でも、まだサタンに属しており、まだ死に属しており、まだ死んでいるだろう。今日これらの人々が神の救いを得られるのは、彼らが進んで神と協力するからだということに尽きる。 神に忠実であるために、生きている人々は神に得られ、神の約束の中で暮らし、神に反対するために死人は神から嫌われ、拒絶され、神の懲罰と呪いの中で暮らすことになる。これが神の義の性質であり、いかなる人もそれを変えることはできない。自ら探し求めることにより、人々は神の承認を得て、光の中に暮らす。ずるい企みのために、人々は神に呪われ、懲罰の中に身を落とす。悪行のために、人々は神に懲罰される。神に対する切望と忠誠心により、人々は神の祝福を受ける。神は義である。生きている人々を祝福し、死人を呪うので、死人は永遠に死の中にとどまり、決して神の光の中では暮らさない。神はその国に生きている人々を連れていき、生きている人々を祝福へと連れて行き、永久に神の傍らに置く。死人は永遠の死に陥れられる。死人は神による破壊の対象であり、永遠にサタンに属する。神は誰も不当に扱わない。心から神を探し求める人はすべて必ず神の家に留まり、神に逆らい、神に味方しない人は必ず神の懲罰を受けながら過ごすことになるだろう。おそらくあなたは受肉した神の働きについて確信がないだろう——しかしいつか神の肉は直接人の終末を定めなく、その代わりに神の霊が人の終着点を定め、その時人々は神の肉と霊は一つのものであること、神の肉は間違いを犯すことはなく、神の霊はより一層間違いを犯すことがないことを知るだろう。最終的に神は必ず一人も余分はなく、一人も欠かすことはなく、生かされる者はだれでも神の国に連れていき、生かされなかった死人はサタンの洞窟に追いやられるであろう。 『言葉は肉において現れる』より

2020年10月3日土曜日

東方閃電 全能神教会 日々の神の御言葉「働きと入ること(3)」抜粋309



日々の神の御言葉「働きと入ること(3)」抜粋309

人間の性質を変化させる最善の策は、人々の心の奥深くにある、酷く毒された部分を回復させ、人々が考え方や倫理の変化を始められるようにすることである。まず何より、神がそうした宗教的な儀式や活動、そして年月や祭祀を憎んでいることを、人々は明瞭に知る必要がある。人々はそうした封建的思考の束縛から解放され、自分に深く根ざした迷信的傾向を跡形もなく一掃する必要がある。これらのことはすべて人間の入りに含まれるものである。あなたがたは、神が俗世から人間を導き出すのはなぜか、規則や規制から遠ざけるのはなぜかを理解する必要がある。これが、あなたがたが入る門である。これらの事柄はあなたがたの霊的経験と無関係でありながら、あなたがたの入りを妨げ、神を知ることを阻む最大の障害である。それらは人々を捕らえる網になる。多くの者が聖書を読み過ぎており、無数の聖句を暗唱することさえできる。今日の入りの中で、人々は無意識のうちに、あたかも神の働きの現段階の基礎が聖書であり、その根源が聖書であるかのように、聖書を用いて神の働きを測ろうとする。神の働きが聖書と一致していれば、人々はその働きを強く支持し、新たに神を尊ぶ。神の働きが聖書と一致していなければ、人々は不安のあまり汗が噴き出し、必死で神の働きの根拠を聖書から探し出そうとする。神の働きについて聖書に記載がなければ、人々は神を無視する。今日における神の働きに関する限り、大半の人がそれを注意深く慎重に受け入れ、選択した上で服従し、知ることには無関心だと言える。従来の物事について言えば、人々はその半分を固持し、もう半分を捨てる。これが入りと言えるのか。人々は他人の書物を宝とし、神の国の門を開ける黄金の鍵として扱いながら、神が今日要求していることに一切関心を示さない。その上、多数の「見識ある専門家」が、神の言葉を左手に、他人の「名著」を右手にもっているが、それはまるで、神による今日の言葉が正しいことを完全に証明すべく、その根拠をそれらの名著の中に見出そうとしているかのようである。彼らはまた、あたかもそれが仕事であるかのように、名著と組み合わせることで神の言葉を他人に解説しさえする。実のところ、現在における最先端かつ前例のない科学的業績(すなわち神の働き、神の言葉、いのちに入る道)を高く評価したことがない「科学研究者」が、人類の中に多数存在する。そのため、人々はみな「独立独歩」し、自分の雄弁さに頼って至るところで「説教」をして、「神の評判」を誇示している。その一方で、彼ら自身の入りは危うくなり、創世から現時点までがかけ離れているのと同じく、神の要求からかけ離れた所にいる。神の働きを行なうのは、どれほど容易なことか。人々はすでに自分の半分を過去に残し、残りの半分を現在に持ち込むとともに、半分をサタンに託し、現在に持ち込まれた半分を神に捧げようと決意したかのようである。それはあたかも、そうすることが自分の良心を癒やし、ある種の快適さを感じさせる術であるかのようである。人々の内面世界は極めて陰険であり、明日だけでなく過去をも失うことを恐れ、サタンに背くこと、そして存在するかどうかもわからない今日の神に背くことを強く恐れている。人々は自分自身の思考と倫理を正しく発達させることに失敗したので、並外れて識別力に欠けており、現在の働きが神のものであるかどうかを見極めることがまったくできない。それはおそらく、人々の封建的かつ迷信的な考えが極めて深く、そのために迷信と真理、神と偶像を長い間同類として扱い、区別する気にならなかったことが原因であり、どれほど頭を悩ませても明確に区別できないようである。人間が道を歩むのを止め、それ以上前進しなくなったのはこのためである。こうした問題はどれも、人々に正しい観念的教育が欠如していることに起因しており、それは人間の入りを大いに難しくする。その結果、人々は真の神の働きにまったく興味を抱かず、人間(たとえば人間が偉人とみなす者など)の働きには、あたかもそれに烙印を押されたかのようにあくまで固執する。これらは人間が入るべき最新の問題ではないのか。
『言葉は肉において現れる』より引用

2020年10月2日金曜日

東方閃電. 全能神教会 キリスト教賛美歌【神が出現することの意義】救い主の降臨を賛美しよう


王国新歌「神が出現することの意義」は、独特でやわらかい太極舞の形で、神様が二回受肉して働き、言葉を発する本当の意義をあなたの心に響くように語っている。舞台全体は青空広がる青草を背景にして、古典楽器の筝と蕭の調和が、のびやかで美しく、渾然一体となっている。メロディはしとやかで美しく、天からの音みたいで、あなたをこの混乱した世の中から離れて造物主のそばに戻るようにし、あなたに造物主が新しい時代に発表した命の御言葉を享受させる。 [東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2020年10月1日木曜日

東方閃電 全能神教会 ゴスペル音楽「失われた時は二度と戻ってこない」 MV 日本語字幕


ゴスペル音楽「失われた時は二度と戻ってこない」 MV 日本語字幕


目覚めよ!兄弟姉妹たち!
神の日は遅れることがない
時は命であり 時を掴むことは命を救うことである
その時はそう遠くない
大学の入学試験を受けて不合格であれば
猛勉強して再挑戦することができる
だが神の日にはそのような先延ばしはない
覚えておきなさい 神のこれらの良い言葉はあなたがたを促すためにある
あなたがたの目の前でこの世の終わりが始まり
大きな災害が急速に迫る
あなたがたにとって、いのちが大切か
それとも寝ること、食べること、飲むこと 着ることが大切か
あなたがたがそれらのものを 慎重に推し量る時が来た

何と惨めなことか 何と哀れなことか
どこまで盲目なのか どこまで人類は非情なのか
神の言葉に耳を貸さないとは
神は無駄に話しかけているのか
なぜそれほどまでに不注意なのか どういうことなのか
これまでその事を考えたことはあるのか
神は誰のためにこれらの言葉を語っているのか 神を信じなさい
神はあなたがたの救い主である
神はあなたがたの全能者である
見張り続けよ
失われた時は二度と戻らないことを 覚えておきなさい
悲嘆を和らげる薬など 地球上をくまなく探しても見つからない
それならば、あなたがたにどう伝えればよいのか
神の言葉はあなたがたが熟考し 繰り返し思い巡らすには値しないのか

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2020年9月30日水曜日

東方閃電 全能神教会 「神の足跡を探すなら」ワーシップソング 歌詞付き


「神の足跡を探すなら」ワーシップソング 歌詞付き

神の足跡を探すなら 探さねばならない 神の御心、神の御言葉、神の御声 神の新しい御言葉の中 神の御声がある 神の足跡があるところには 神の御業がある 神の印があるところ そこには神が現れる 神の現れるところには 真理、道、命がある 神の足跡を探す時 神の真理、生きる道、命さえも見失ったら 見つけることはできない 神の足跡 そして神の現れに気づくことはできない なんとそれは大きな過ちだろう 神は人の思いを遥かに超えて 人の思うようには現れない 神には自身の選択がある 神が働くときに 神には自身の目的がある 神の御業がある 神は誰にも話さない 神は誰にも伝えない それが神の性質 人は気づかなければ 神の現れを望むなら そして神の足跡を探すなら 自分を超えて求めてはならない 自分の望みを神を自分の心に閉じ込めないで 自分の世界に閉じ込めないで 神の足跡を探し求め 神の現れを受け止めて 神の新しい御業に従い それがあるべき道 人はみな誰も真理ではなく 真理を持たず 人は真理ではなく 真理を持たず だから探し求め、受け入れながら 探し求めて受け入れて 真理に身を委ねる 『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2020年9月29日火曜日

東方閃電 全能神教会 キリスト教讃美歌 「神の新しい業を受け入れる者は祝福される」


キリスト教讃美歌 「神の新しい業を受け入れる者は祝福される」

聖霊の現在の言葉に従うことができる人々は
みな祝福されている
そのような人々が過去どうであったか
聖霊が人々の中でどのように働いていたかは問題ではない
最新の働きを得た人々は最も祝福され
今日の最新の働きに従えない人々は排除される
神は新しい光を受け入れることができる人々を望んでおり
神の最新の働きを受け入れ知っている人を求めている

貞節な乙女は
貞節な乙女は
新しいことを理解することができる
古い観念を忘れ
今日の神の働きに従うことができる
今日の神の働きに従うことができる
今日の最新の働きを受け入れる人々のこの集りは
昔から神によって前もって決められており
人々のなかで最も祝福されている
あなたがたは神の声を直接聞き
神の出現を見て
そのため天と地を通じて、世代を通じて
あなたがたつまりこの集りよりも祝福された人々はいない
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2020年9月28日月曜日

東方閃電 全能神教会 キリスト教賛美歌「神は栄光と共に世界の東に現れた」歌詞付き


キリスト教賛美歌「神は栄光と共に世界の東に現れた」歌詞付き

神は全宇宙で業を為している 東で絶えず轟く音が全ての宗派と教派を揺さぶっている 神の声は皆を導き征服し 彼らはこの流れに落ち 神に従う 神は昔 地で栄光を取り戻し 東からそれを再び放った それを見たいと望まないのは誰か 熱心に神の帰りを待たず 神の再来を渇望せず その素晴らしさを恋慕わないのは誰か 光に来ず カナンの富を見ない者は誰か 贖い主が戻って来るのを切望せず 全能の神を讃えないのは誰か 神の声は全地に広まるべきだ 選民への神の言葉は更にある 山河を震わす雷のように 神は宇宙と人類全てに語り その言葉は皆に愛される宝となる 稲妻が東から西へ真直ぐ走る 皆神の言葉を手放したくない それは計り知れず、喜びをもたらす 生まれたての乳飲み子のように 喜び神の到来を祝う 神の声が人を神の前に惹きつける 今後神は正式に人の間に入る 皆が神を礼拝し 栄光と言葉ゆえ 神の前で東に光る稲妻を見る 神は東のオリーブ山に降り立った 長く地にいる 神はもはやユダヤ人の子でなく 東の稲妻である 神は人の元を去ったが 今栄光に満たされて再び現れた 神は幾時代も前に崇められ イスラエルに見捨てられた乳飲み子 栄光ある現代の全能神! これこそ神の成し遂げたいこと 神の計画の終結と絶頂 業の目的は人々が玉座の前で 神の顔と業を見てその声を聞くこと こうして全ての国は神を拝み認める 皆が神を信頼し神に従う! 『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2020年9月27日日曜日

東方閃電 全能神教会 キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする 日本語吹き替え


キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする 日本語吹き替え

終わりの日、主イエスの再来を待つキリスト教徒たちの間で緊張感が高まる中、実際に主はいかにして再来されるのかという疑問が出る。「雲に乗ってお見えになる」と言う者もいるが、それに対し、再来の預言が他にもあると指摘して異議を唱える声もある。「見よ、わたしは盗人のように来る」(黙示録16:15)、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカ 17:25)、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイ25:6)もし主が誰にでも見えるように雲に乗って来られるなら、主が密かに現れ、苦しみ、捨てられるという奥義や、再来の証しをする者たちが出て来るという御言葉はどう説明できるのだろうか。主はどのような形でお姿を表されるのか。本作「主の到来の形」は、私たちの疑問にユーモラスに答えていく。

2020年9月26日土曜日

東方閃電 全能神教会 キリスト教会寸劇2019「戸を叩かれる主」神の羊は神の御声を聞き分ける 日本語吹き替え


キリスト教会寸劇2019「戸を叩かれる主」神の羊は神の御声を聞き分ける 日本語吹き替え

本劇「戸を叩かれる主」では、終わりの日に主が御言葉によって私たちの心の戸を叩いてくださり、賢い乙女が神の御声を聞き、子羊と婚宴を共にするということが、どのように実現するかが明らかにされる。チャン・ショウダオ牧師は日頃から主の再来を待ちわびていたが、信徒のチェンによる「主が既に再来された」という証を聞いても、「主は雲に乗って戻られるはずだ」と自分の観念や想像に頑なに執着し、真の道へ通じる心の戸を閉ざし続ける。しかし今回、チェンが主の再来に関する聖句を参照してチャン・ショウダオと議論し、チャン・ショウダオは聖書に、終わりの日に主は受肉して密かに再来し、新しい御言葉を語り人を清められた後、初めて公にお姿を表し、善に報い、悪を罰せられる、というような預言があることを学ぶ。また、「主が戸を叩かれる」ことの真の意味を理解し、主の再来をお迎えするには神の御声を聞くことが大切であると悟る。全能神の御言葉において神の御声を聞いた牧師は、ついに心の戸を開き、主の再来をお迎えする。

2020年9月25日金曜日

東方閃電 全能神教会 キリスト教映画「神を再び磔にするのは誰か」終わりの日にパリサイ人が再び現れた 日本語吹き替え 完全な映画のHD2018


キリスト教映画「神を再び磔にするのは誰か」終わりの日にパリサイ人が再び現れた 日本語吹き替え 完全な映画のHD2018

古守城は中国の家庭教会の牧師です。長年にわたり主を信仰し続けており、常に説教の事におもいを巡らせ、周りに福音を説き続けてきました。彼は福音を説いたために逮捕され、12年間服役しました。刑務所から出所した後も、古守城は教会で働き続けました。しかしながら、全能神の王国の福音が古守城の属する教会にもたらされたとき、彼はそれについて求めたり調べたりせず、頑固に彼自身の思い込みと決めつけにこだわって終わりの日の神の働きを非難し、思い込みと誤謬を広めるためにあらゆる手を使い、信者が真実の道を受け入れるのを妨げようとします。更に古守城は全能神の言葉を読んだ後、その言葉が本当に権威と力を持ち、聞くものすべてを説得する力があることに気づき、全能神の言葉を読んだ者はみな全能神の信者になると深く怖れを抱くようになりました。そして、今の地位と生活が維持できないことを恐れるようになりました。そこで、古守城は長老の王森その他と協議し、全能神を非難し攻撃する中国共産党政府によって流布される噂を利用して人々を欺くことを決めました。古守城と王森は必死で教会に全能神の教えが入らないようにして人々が真実の道を受け入れるのを妨げ、中国共産党の悪魔的な政権と協力までし、全能神の証しをするものを逮捕し迫害します。彼らの行動は深刻に神の性情を侵し、神の呪いがふりかかります。王森は王国の福音を広める人たちを逮捕に向かう途中、交通事故に遭い、その場で亡くなります。古守城は恐怖と絶望の中でパニックに襲われます。彼は頻繁に自問します。「私の全能神への非難は神を再び十字架に磔にすることなのだろうか。」