人間を腐敗させるためにサタンが用いる方法が人間にもたらすものは、何であろうか。何かしら肯定的なものは、あるだろうか。(無い。)第一に、人間は善と悪を区別できるであろうか。(出来ない。)あなたも知っているとおり、この世界では、偉人や新聞、ラジオ局などが、あれが善良なもので、これが邪悪なものだ、などと述べているが、それは正確であろうか。(正確ではない。)それは正しいであろうか。(正しくない。)そうした事件や人々に関する評価は公正であろうか。(公正ではない。)そこには真理があるであろうか。(無い。)この世や人類では、善良なものと邪悪なものが真理を基準として評価されているだろうか。(そうではない。)人間にそうした能力が無いのは、何故だろうか。人間は多くの知識を習得し、科学の知識を身に付けているが、人間の能力は十分ではないのだろうか。人間が肯定的な物事や否定的な物事を区別できないのは何故だろうか。それは何故であろうか。(人間には真理が無いからである。科学や知識は真理ではない。)サタンが人類にもたらす物事は、すべて邪悪であり、腐敗であり、真理やいのち、道が欠如している。サタンが人間にもたらす邪悪と腐敗から考えると、サタンには愛があると言えるであろうか。人間には愛があると言えるであろうか。一部の人々は「あなたは間違っている。世の中には貧しい人々やホームレスの人々を支援している人々が多数いる。こうした人々は善人ではないか。そのほかにも、好ましい取り組みを行っている慈善団体があるが、それらの団体の取り組みは善行であろう。」と言うかもしれない。これについては、何が言えるであろうか。サタンは様々な方法や理論を用いて人間を腐敗させるが、この人間の腐敗は曖昧な概念であるか、というと、曖昧ではない。サタンは実践的な物事も行っており、好ましい物事を装う偽物や、極めて詐欺的な行為も多数含まれており、サタンはそうした行為を自らの意図と目的で行う。腐敗した人間はサタンと同様であり、この世界と社会に存在し、何らかの観点や理論を促進している。それぞれの王朝や時代において、そうした人々は何らかの理論を推進し、人間に何らかの思想を浸透させる。そうした思想や理論は、次第に人間の心に根ざしてゆき、人間はその理論や思想に基づいて生活するようになるが、人間は気付かぬうちにサタンとなっているのではないか。人間はサタンと一体化していないであろうか。人間がサタンと一体化すると、最終的にそうした人間は神に対してどのような姿勢となるであろうか。その姿勢は、サタンの神に対する姿勢と同じではないだろうか。敢えてそれを認めようとする者はいないであろう。それは極めて恐ろしいことである。人間はサタンであり、その本性はサタンの本性そのものである。わたしがサタンの本性が邪悪であると言う理由は何であろうか。それは、サタンのなした業と明示した事柄に基づいて判断され、分析されたことである。サタンが邪悪であると述べることには、意義がある。わたしが単にサタンが邪悪であると言った時、あなたがたはどう思うであろうか。「サタンが邪悪であるのは明らかだ。」と思うかも知れない。そこで、あなたに質問する。「サタンのどの側面が邪悪なのであろうか。」あなたが「サタンの神を拒絶する側面が邪悪である」と言うようであれば、あなたの話は明瞭ではない。ここでその詳細を説明したが、あなたがたはサタンの邪悪の本質に関する具体的な内容について理解しているであろうか。(理解した。)あなたがたは、サタンの邪悪な本性に関して理解した後、あなたがた自身について、どの程度理解したであろうか。これらの事柄に関連性があるだろうか。(ある。)あなたがたは、その関連性により傷付くであろうか。(傷付かない。)その関連性はあなたがたの助けとなるであろうか。(なる。)それは、どの程度の助けとなるであろうか。(極めて大きな助けとなる。)それでは具体的に話そう。曖昧な言葉は聞かないことにする。その「極めて大きな」とは、どの程度を指しているか。(神が忌み嫌われる事柄や神に対抗して作用する事柄について知り、心の中でそれらの事柄について少し明瞭に理解した。)それ以外に回答はあるだろうか。わたしが神の聖い本質について伝える時、わたしはサタンの邪悪な本質について伝える必要があるだろうか。あなたがたはどう考えるだろうか。(伝える必要がある。)それは何故か。(サタンの邪悪さにより、神の聖さが浮き彫りとなるからである。)そうであろうか。サタンの邪悪さ無くして、人間は神の聖さを知ることができないという意味において、それは部分的に正解である。しかし、神の聖さは、サタンの邪悪との対比によってのみ存在する、と言った場合、それは正しいであろうか。この主張は誤りである。神の聖さは、神に内在する本質である。神はそれを明示し、あるいは業を行うが、この聖さは神に内在する本質であり、それが自然に明示されるのであり、それは神自身に固有のものであり、常に存在するが、人間が見ることの出来ないものである。人間はサタンの腐敗した性質と本質の中で生きているので、聖さや神の聖さの具体的な内容について知らない。そうではないだろうか。それでは、あなたは、ここで最初にサタンの邪悪な性質に関して伝える必要があると思うであろうか。(そう思う。)あなたも知っているとおり、神の唯一性に関する側面をいくつか伝えたが、サタンの本質については述べなかったであろう。「あなたは神自身について伝えているのに、なぜ常にサタンが人間を腐敗させる方法やサタンの本性がいかに邪悪であるかについて話をするのか」という疑念を抱く者がいるかもしれない。こうした疑念は払拭されたであろうか。(払拭された。)こうした疑念はどのようにして払拭されたであろうか。(神との交わりにより邪悪な物事を区別することで払拭された。)人間に邪悪を識別する能力があり、人間が邪悪の正確な定義を知っていて、邪悪の具体的な内容と顕現、根源と本質を明瞭に理解している場合、ここで神の聖さについて議論した時に、人間は神の聖さを、真の聖さとして明確に認識するであろう。サタンの邪悪さについて話をしなかった場合、人間がこの社会や人々の中でとる行動、あるいはこの世界の何らかの物事が、聖さと関連するものであるかもしれないと、誤解する者がいるであろう。この見方は誤っているであろうか。(誤っている。)それ故に、わたしはサタンの本質について伝えた。あなたがたは、自分自身の近年における経験や神の言葉を理解すること、神の業を体験することによって、神の聖さについてどのような認識を得たであろうか。あなたがたに発言して欲しい。聞こえの良い言葉を用いる必要は無い。あなた自身の経験から話をして欲しい。神の聖さは、単に神の愛であろうか。人間が聖さと呼ぶのは、単に神の愛であろうか。そう呼ぶのは、極めて一面的であろう。それは一面的ではなかろうか。(一面的である。)あなたがたが見た神の本質は、神の愛以外の側面があるであろうか。(ある。)どのような側面を見たことがあるであろうか。(神は祭礼や祝祭日、慣習、迷信を嫌悪する。そのことは神の聖さである。)あなたは神が特定の物事を嫌悪していると言っているに過ぎない。あなたが述べているのは、神は聖なる存在であり、そのために物事を嫌悪する、ということであろうか。(その通りである。)その根底にある神の聖さは、何であろうか。神の聖さの内容には実体が無く、単に神が物事を嫌悪するのであろうか。あなたがたは、自分の心のなかで「神はこうした邪悪な物事を嫌悪するので、神は聖なる存在であるということが出来る」と考えているであろうか。それは推測ではないであろうか。それはある種の推論と意見ではなかろうか。神の本質を理解することに関し、最も固く禁じられている事は何であろうか。(現実を無視することである。)現実を無視して理論を述べることは最も固く禁じられている行動である。その他にはあるだろうか。(憶測と想像である。)憶測と想像もまた固く禁じられている。憶測と想像が役立たないのは何故であろうか。憶測したり想像したりする物事は、実際に見ることのできる物事であろうか。(そうではない。)そうした物事は、本当に神の本質であろうか。(そうではない。)そのほかに固く禁じられている物事はあるだろうか。神の本質に関する美辞麗句を列挙することは、固く禁じられている事であろうか。(その通りである。)そうした行動は自慢であり、無意味な事ではなかろうか。意見や憶測も、美辞麗句を並べることと同様に無意味である。それ以外に回答はあるだろうか。空虚な讃美もまた無意味であろう。(その通りである。)こうした無意味な事柄を人間が話すのを聞いて、神は喜ぶであろうか。(喜ばない。)何かを「喜ばない」ということの同義語は何であろうか。(不快に感じるということである。)神はそれを聞いて不快になるのだ。神はひとつの群れの人々を導き、救うが、その人々が神の言葉を聞いても、その意味を全く理解していない。誰かが「神は善良であるか」と尋ねると、その人々は「善良である」と答える。「どのように善良であられるだろうか」「極めて善良である」「神は人間を愛しているだろうか」「愛している」「どの程度愛しているだろうか」「非常に深く愛している」「神の愛を説明してもらえるだろうか」「神の愛は海よりも深く空よりも高い」これは戯言ではなかろうか。この戯言は、あなたがたが今述べた「神はサタンの腐敗した性質を忌み嫌うので、神は聖なる存在である」ということと類似していないであろうか。(類似している。)あなたがたが述べたことは、戯言ではなかろうか。述べられた無意味な事柄の大部分は、何に由来するであろうか。(サタンに由来する。)そうした事柄の大部分は、サタンに由来する。述べられた無意味な事柄は、主として人間の無責任さと神に対する不敬が原因である。そう言えるであろうか。(言える。)あなたは何も理解していないのに、戯言を述べたが、それは無責任ではないだろうか。それは神に対する不敬ではないか。あなたは多少の知識を得て、その理由と理論を多少理解し、それらをここで用い、神を知るためにそれを用いた。あなたは、神がそれを聞いて不快になると思うであろうか。あなたがたは、そうした方法により神を知ることなどできることがあろうか。それは不自然だと思わないであろうか。ゆえに、神に関する認識については大いに注意する必要がある。神について知っている範囲のみを述べるように。正直かつ実際的に話をし、ありきたりの褒め言葉や、媚びへつらうような言葉を述べてはならない。神はそうしたことを必要とせず、またそうしたことはサタンに由来する物事である。サタンの性質は傲慢であり、サタンはお世辞や美辞麗句を好む。サタンは、人間が美辞麗句を並べ、それをサタンに用いたならば、満足して喜ぶであろう。しかし、神はそうしたことを必要としない。神はへつらいやお世辞を必要とせず、人間に無意味な言葉で盲目的に神を讃美することを要求しない。神は、現実離れした讃美やお世辞を嫌悪し、聞こうともしない。したがって、誰かが神を盲目的に讃美し、心にもない言葉を発し、盲目的に神の前にひれ伏し、神に対して不用意に祈りを捧げた場合、神は全く聞かない。あなたは、自分の言葉に責任を持つ必要がある。知らない事がある場合、知らないと述べ、知っていることがある場合、実際的な方法でそれを示す必要がある。ここまでの話で、あなたがたは神の聖さの実際の内容について、具体的な認識を得たであろうか。これで、今後あなたがたは敢えて無意味な事を述べることは無いであろう。あなたがたは無意味な事を言わないが、喋るのを止めることは出来ない。したがってある程度の認識を得る必要があるであろう。あなたがたは、そのことについて考えているであろうか。あなたがたは誠意を持ってそのことに対処しているであろう。ここで、あなたがたに発言して欲しい。(私が反抗を示したり、罪を犯したりした場合、私は神の裁きと懲らしめを受けるが、そこに神の聖さを見出した。そして、私が自分の期待通りではない状況や環境に陥った場合、私はそうした物事について神に祈りを捧げ、神の御旨を求め、神は私に示しを与え、導かれ、私は神の聖さを見た。)なるほど、それはあなた自身の経験に由来するであろう。(私は、神が人間を導かれ、神が人間を支配されていることに、神の聖さを見出す。実際に、サタンが人間を腐敗させることや、人間がサタンの腐敗と被害を受けながら生活していること、人間にはそれを制御出来ないことに関して神が話されたことから、神の人間に対する御業を通して私は本当に神の聖さを理解した。)(私は神が述べられた事柄から、人間はそのようにサタンに腐敗させられ、侵害されているということを理解した。しかし、神は全てを与えられて人間を救おうとされており、私はそのことから神の聖さを理解した。)それは実際的な話し方であり、真の認識である。これについて、その他の意見はあるだろうか。(私は自分が正しく理解しているかどうかが分からない。たった今神が私達に述べられたことでは、サタンの言葉や業からサタンの邪悪さが分かる。最初の話では、神は人間に対し、食べて良い物と食べてはならない物について述べられた、また神の御言葉では清さと率直さが明示されている、という話であったが、その話から、神の聖さを理解した。それが私の追加意見である。)なるほど。これらの者の意見を聞いて、あなたがたが最もアーメンと言える意見は、どれであろうか。本日伝えた内容に最も近く、現実的な話は、誰の話であっただろうか。最後に話をした姉妹の話はどうであろうか。(良いであろう。)あなたは、この姉妹の話にアーメンと言うなら、彼女の話のなかで、まさに的中している事柄は何であろうか。あなたがたは、率直に意見を述べてよい。誤りを恐れず自分の意見を述べるように。(最後に話をした姉妹の言葉のなかで、サタンの回りくどい話とは全く異なり、神の御言葉は率直で極めて明瞭であると言っていた。私はそのことに神の聖さがあると思う。)なるほど、それは神の聖さの一部である。あなたがたは、今述べられた意見を聞いていただろうか。(聞いていた。)これは正しいであろうか。(正しい。)この姉妹を讃えよう。素晴らしい。あなたがたは最近行われた2回の話から何かを得たようである。しかし、あなたがたは努力を続ける必要がある。あなたがたが努力を続けなければならないのは、神の本質を理解することは、極めて奥の深い学びであり、一夜にして理解できるものでも、わずかな言葉で明瞭に述べることができるものでも無いからである。
人間の腐敗したサタンのような性質、知識、哲学、人間の思想、観点のあらゆる側面、そしてそれぞれの解釈が、神の本質を知る上で大きな障害となる。したがって、あなたがたがこうした主題に関する話を聞く時は、あなたがたの手が届かない主題や、理解できない主題や、現実と一致させることが根本的に出来ない主題があるかも知れない。それにかかわらず、神の聖さに関するあなたがたの理解について聞き、あなたがたは、神の聖さについてわたしが話した事柄を心の中で認め始めていることが分かる。あなたがたの心の中では、神の聖さの本質を理解したいという願望が芽生えていることが、わたしには分かる。しかし、わたしがそれ以上に喜んでいる事柄は何であろうか。それは、あなたがたのうちに、神の聖さに関する認識を最も簡潔な言葉で説明できる者がいることである。これは述べるのは簡単な事であり、わたしが依然述べた事であるが、あなたがたのうち殆どの者の心の中では、このことは未だに認められておらず、印象に残っていない。それでもなお、あなたがたの中には、これらの言葉を心に留めている者もいるというのは好ましいことであり、最初の一歩としては極めて良好である。あなたがたが深い主題である、自分には手が届かないと感じる主題について、話のなかであなたがたが引き続き取り組み、より深く交わりを行うことを願っている。あなたがたの手が届かない問題については、あなたがたを更に導く者がいるであろう。現在、手の届く範囲に関する話に一層取り組んでゆけば、聖霊の業により、更に理解できるようになるであろう。神の本質を理解することと知る事により、人間の霊的成長にもたらされる助けは計り知れない。あなたがたがそのことを無視したり、余興であると考えたりしないことを願っている。なぜなら、神を知る事は人間の神に対する信仰や、真理と救いを追求することにとって必要不可欠な基礎であり、なくてはならないものだからである。人間が神を信仰しつつ神を知らず、文字や理論だけで生活しているのであれば、たとえ表面的な真理の言葉に従って生きていたとしても、決して救いを得ることは出来ない。つまり、あなたの神の信仰が、神を知る事に基づくものでなければ、その信仰は無意味である、ということである。これについては理解したことと思う。(はい、理解した。)本日のフェローシップはこれで終わりである。
2014年1月4日

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