2020年3月27日金曜日
[東方閃電]全能神教会 神様を褒め称えて証しする私の実践はとても馬鹿げていた
教会の一部の指導者や同労者が、いつも自分の証しをして自分の前に兄弟姉妹を連れてきたせいで反キリストになり、神様によって淘汰されるのを見るたび、私は自分に警告しました。万事においても必ず神様を褒め称え、神様の証しをしなければならない。敗者の道に足を踏み入れないよう、どんな状況でも自分を誇示したり褒め称えたりしてはならない。そのため、私は交わりを行なうたび、自分の堕落を露わにすることだけに集中し、実践や入りについて好ましい側面から語ることはありませんでした。私に小さな入りや変化があったと他の人たちが言っても、すぐさまそれを否定しました。このように実践することが神様を褒め称えて証しすることだと信じていたのです。
ある日の交わりで次のような話を聞きました。「神様を褒め称えて証しすることについて、一部の人の認識は不完全です。そのため、そのような人の実践することは完全に正しいとは言えません。そのような人は、神様の働きの経験について話すとはおもに自分の堕落を知っていること、自分の堕落を露わにすること、己をさらけ出すことを実践することについて語り、露わになった自分の堕落を解剖することだと考えています。それだけが神様を褒め称えて証しすることだと考えているのです。そのような経験の側面と証しを、自分における変化や自分が変わる過程、あるいは自分の現実への入りとして語ることは、神様ではなく自分への証しをしているようなものです。この認識は正しいですか。自分が変化を経験した過程について語るのは、自分の証しをすることに相当しますか。しません……私たちが理解しなければならないのは、最も効果的に人々を神様の御前へと導くためには、否定的な経験しか語らず、好ましい入りについて何も言わないなら、その効果は限られ、理想的でなく、人々には道がないままであるということです。交わりのあいだ、他の人はあなたがどのように自分をさらけ出し、どのように自分を解剖し、どのように自分をむき出しにするかしかわかりません。あなたの好ましい入りについてはどうですか。あなたの実践についてはどうですか。どのような実践の道を人々にもたらしますか。今からどのように実践すべきかを、あなたは人に語っていません……自分への証しをするとはどういうことかがわからない人がいます。そのような人は、自分の好ましい側面や現実への入りの側面について語ることが、自分への証しをすることだと考えます。しかし実際には、こちらの方が神様へのよりよい証し、より完全な証しなのです。私たちがわずかでも現実を得、いくらかの善行をなし、本分を尽くすにあたって忠実でいられることは、神様の愛ではないでしょうか。神様のお恵みではないでしょうか。聖霊の働きの成果ではないでしょうか。こうしたことについて語ることで、神様の全能性、神様の働きがいかに人間の救いの働きであるのか、神様の御言葉がいかに人間を変え、完全にし、救えるのかについての証しをもさらにできるようになります。ゆえに、神様の働きの証しをするには、自分自身の好ましい入りについて、それまで入れなかったのが、どのようにして最終的に入れるようになったのかについて、自分を認識できなかったのが、どのようにして最終的に認識できるようになり、また自分の本性の本質を認識できるようになったのかについて、神様に抵抗したり反抗したりしていたのが、どのようにして神様に従い、満足していただき、神様の証しをできるようになったのかについて話すことも求められます。こうした経験や証しをそっくりそのまま交わりにおいて語ることができれば、あなたの神様への証しは完全無欠です。それだけが、本当の意味で神様を褒め称えて証しすることなのです……自分の堕落や醜さばかり話し続けて、それから十年以上経っても自分の変化について何も話せないなら、それは神様を褒め称えて証しすることでしょうか。神様を讃えることでしょうか。神様の働きの全能性を証しできるでしょうか……あなたの証しによって人々が否定的になって神様から離れるなら、それは証しではありません。あなたの働きは神様に反対するものであり、サタンの働きです。神様に反対する働きなのです」(『いのちに入ることに関する交わりと説教(3)』の「問答集」より)私はこれを聞いて、頑なに自分を暴いたり、自分の堕落が明らかにされたことについて語ったりすることは、神様を褒め称えて証しすることではないと突如気づきました。真に神様の証しをして神様を褒め称えるのは、神様の裁きと刑罰の働きを経験する中で、自分の堕落した本質を知るようになったことを語ることだけではありません。それより大事なのは、自分の好ましい実践や入りについて何かを語ることなのです。例えば、自分はどのような真理を知るようになったのか、神様について何を知るようになったのか、神様の働きがどのような成果を自分にもたらしたのか、自分の古い性質がどのように変化したのか、などです。経験や認識のこのような側面を誠実に語れば、あなたが話す実際の経験を通じて、兄弟姉妹は神様についての認識を得、神様の働きが本当に人を救って変えることができることを知るようになり、かくして彼らの中に神様への真の信仰が生じると同時に、実践と入りの道を彼らに与え、いかにして神様に満足していただくか、いかにして神様の御言葉の現実に入るべきかを教えるのです。これだけが真に神様を褒め称えて証しすることであり、そのような証しだけがサタンに恥をかかせることができます。一方、神様を褒め称えて証しすることに関する私の認識はあまりに偏り、あまりに馬鹿げていました。兄弟姉妹が自分を軽んじるよう、彼らの前で自分自身の堕落についてもっと語ることが神様を褒め称えて証しすることであると思い、自分の入りの好ましい側面について語るのは、自分を褒め称えて自分自身に証しすることだと考えていたのです。私は何と愚かだったのでしょう。神様を褒め称えて証しする自分の実践とその成果について、ここで考えずにはいられません。
あるとき、私を自宅に招いてくれていた姉妹がこう言ったのを覚えています。「指導者の皆さんは家族と仕事を捨てて家から離れた場所で本分を尽くし、多くの苦しみを受け、多くのことを経験し、多くの真理を理解するようになられました。皆さんには入りと変化が生じています。でも、自宅にとどまっている私は肉体に束縛され過ぎで、神様の御前で心が落ち着くこともほとんどなく、何の変化も生じていません。私も皆さんのようになりたいです」私はこれを聞いて考えました。「神様を褒め称えて証ししなければならない。自分の堕落について話し、自分の変化を語ってはいけない。さもないとこの姉妹は私を尊敬してしまう」その結果、自分がかつてはどのように傲慢で、本分を尽くすときも教会の采配に従わず、兄弟姉妹と仲良くできなかったこと、自分の言葉にどれほど偽りが混じっているかということ、どのようにして人を騙し、人を疑ったかということを語るようにしました……私の交わりを聞いたあと、姉妹は言いました。「指導者の皆さんはほぼ完全に変わったのだと思ってましたが、実は変わっていなかったんですね。なんだ。誰も変わっていない。ということは、私はもっとひどいんですね」その後、その姉妹はもはや私を尊敬せず、仰ぎ見ることもありませんでしたが、結果として否定的になってしまい、自分が救われる望みはないと考えてしまいました。ある集まりで、私は自分の堕落の一側面、つまり神様について観念を抱いていたことを兄弟姉妹に語ったことがあります。そのときは神様について観念を抱いていたことについて語っただけで、その観念をどのように解決したかは語りませんでした。その結果、そのような観念など抱いていなかった兄弟姉妹が、私の交わりを聞いて観念を抱くようになってしまいました。そうした例は他にもあります。これが、神様を褒め称えて証しすることだと自分で思い込んでいたことの効果だったのです。神様を褒め称えて証しする私の実践は、神様の御言葉の権威と威厳を証ししなかっただけでなく、人々を救い、変え、完全にする神様の働きについて、兄弟姉妹に疑いと観念を抱かせてしまいました。彼らは救いへの信仰を失ったばかりか、真理を追い求める動機も積極的に協力する決意も持たなくなりました。神様を褒め称えて証しする私の実践は、神様の優しさや美しさや義を人々に証しすることなく、人を救い、人にご自身の愛を示し、人がご自身を知るようになさろうとする神様の愛情深い意図の証しもしませんでした。その代わりに神様への観念と誤解を兄弟姉妹に生じさせ、彼らは間違った状態の中で生きるようになりました。どうして私が神様を褒め称えて証ししていたのでしょうか。私は単に消極性を広め、死を放っていたのです。実質的には、人を傷つけ破壊をもたらしていたのです。外面的には明らかな悪事など何一つしていないように見えるものの、私の行為の本質は神様への反抗であり、人と神様との関係に不和の種を蒔き、兄弟姉妹の積極性を攻撃し、彼らが神様から離れるようにしていました。私は純然たる悪事を働いていたのです。これはまことに神様に嫌われ、憎まれる行ないです。
真に神様を褒め称えて証しするとはどういうことなのかを私に照らし、神様を褒め称えて証しすることについての私の理解がどれほど馬鹿げていたかを知らしめ、神様を褒め称えて証しすることだと自分で思い込んでいたことが実質的には神様への深刻な抵抗であると気づかせてくださった神様に感謝いたします。以前のまま続けていたならば、私に起こり得たことは最終的に淘汰され、懲罰されることだけだったでしょう。神様に仕えながら神様に抵抗していたからです。その日以来、私は自分の馬鹿げた実践の方法を変えようと望みました。自分を知ることについて話すときは、好ましい入りへの道や、神様の御言葉を経験して実践することの証しについてもっと語らなければなりません。そして自分が知るようになったことを残らず証ししなければなりません。それにより、兄弟姉妹は私の経験と認識に助けられ、神様の御心を認識し、神様の働きを経験し、神様についての認識を獲得することができ、真に神様の御前へと導かれることでしょう。
2019年5月13日月曜日
受肉の奥義(1)
恵みの時代に、ヨハネはイエスのために道を整えた。ヨハネは神自身の働きをすることはできず、ただ人の本分を尽くしただけであった。ヨハネは主の先駆者であったが、神を表すことはできなかった。彼はただ聖霊に用いられた人間であった。イエスのバプテスマに続いて、「聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り」、それからイエスは自分の働きを開始した。すなわち、キリストとしての職分を始めたのである。それがイエスが神の身分を取った理由である。イエスは神から来たからである。これ以前のイエスの信仰がどのようであったとしても──おそらく時には弱く、時には強かったのであろうが──それはすべてイエスが職分を始める前の普通の人の生活であった。イエスがバプテスマを受けた(油を注がれた)後、直ちに神の力と栄光が備わり、それにより職分を始めた。イエスはしるしと不思議、奇跡を行い、力と権威をそなえていた。神の代わりに自ら働きを行なったからである。イエスは神の代わりに霊の働きをし、霊の声を表現した。よって、イエスは神自身であった。これは争う余地がない。ヨハネは聖霊に用いられた。彼は神を表すことはできず、神を表すことは彼にとって不可能であった。もしヨハネが神を表すことを望んだとしても、聖霊はそれを許さなかったであろう。というのは、神自身が成就するはずの働きをヨハネがすることはできなかったからである。おそらく、彼には多くの人間としての意思、あるいは何か逸脱したものがあったであろう。どんな状況下においてもヨハネは神を直接表すことはできなかった。彼の過ちや間違いは自分自身を表していたが、働きは聖霊の象徴であった。それでも尚、彼のすべてが神を代表していたと言うことはできない。彼の逸脱や間違いも神を表していたであろうか。人を表すことにおいて間違いがあるのは普通のことであるが、神を表しながら逸脱しているなら、それは神に対して不名誉なことにならないであろうか。それは聖霊に対する冒涜ではないであろうか。たとえ人が他人に称賛されても、人が神の代わりをすることを聖霊は軽々しく許可しない。人が神でないなら、最後まで立ち続けることはないであろう。聖霊は人が気の向くままに神を表すことを許さない。たとえば、聖霊はヨハネに証しし、彼がイエスの道を整える者であることを明らかにしたが、聖霊によって彼になされた働きはよく釣り合いのとれたものであった。ヨハネに求められたことはイエスのために道を整える者になること、イエスのために道を備えることだけであった。すなわち、聖霊は道を整えるというヨハネの働きだけを支え、彼にそのような働きをすることだけを許した。ヨハネは他のことをすることを許されなかった。ヨハネは道を整えた預言者エリヤを表していた。これにおいて聖霊はヨハネを支えた。働きが道を整えることである限り、聖霊はヨハネを支えた。しかし、もしヨハネが自分自身が神であり贖いの働きを完成するために来たのだと主張していたなら、聖霊は彼を戒めなければならなかったであろう。ヨハネの働きがどれほど偉大であったにせよ、また聖霊に支えられていたとしても、その働きには境界がなかったわけではない。ヨハネの働きが聖霊に支えられていたことは確かに真実だが、当時彼に与えられていた力は道を整えることに限られていた。ヨハネはその他の働きは全くできなかった。というのは、彼はイエスではなく、道を整えるヨハネにすぎなかったからである。よって、聖霊による証が鍵であるが、人が聖霊により行なうことを許された働きは、それよりはるかに重要である。ヨハネも当時は確固とした証しを立てられていたのではないのか。ヨハネの働きも偉大ではなかったのか。ヨハネの働きはイエスの働きを超えることはできなかった。なぜなら、ヨハネは聖霊によって用いられた人間にすぎず、直接神を現わすことはできなかったからである。そのため、ヨハネの成した働きは限られていた。ヨハネが道を整える働きを終えた後、彼の証しを支える者はなく、新たな働きが続くこともなく、神自身の働きが始まったときに、ヨハネは去った。
悪霊に取りつかれ「私が神だ!」としつこく叫んでいる人たちがいる。しかし、最後まで彼らは立ち続けていることはできない。というのは、彼らは自分が何を表しているかに関して誤っているからである。彼らはサタンを表し、聖霊は彼らに何の注意も払わない。自分をどれほど高く褒めたてても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、「わたしは神である、わたしは神の愛するひとり子である」と叫ぶことはない。しかし、わたしがする働きは神の働きである。わたしは叫ぶ必要があるだろうか。褒めたてる必要はない。神はその働きを自分で行なうのであり、人に地位や敬称を与えてもらう必要はない。神の働きは神の身分と地位を表すのに十分である。バプテスマの前、イエスは神そのものではなかったのか。イエスは受肉した神の肉体ではなかったのか。イエスは証をされて初めて神のひとり子となったのだ、などと言うことは到底できない。イエスという名の人がイエスが働きを開始する前には存在しなかったのだろうか。あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたが神であると主張しようとするのは意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神と認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神に関する限り、その人は神の霊の受肉した肉体である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。新しい時代のために道をつけることができない、あるいは古い時代を終わらせたり、新しい時代の到来を告げたり、新しい働きをすることはできないのであれば、あなたは神と呼ばれることはできない。
聖霊に用いられる人でさえ神を表すことはできない。そして、その人は神を表すことができないだけではなく、その働きも直接神を表すことはできない。すなわち、人の体験は神の経営(救い)の内部に直接置くことはできないし、神の経営(救い)を表すこともできない。神自身が行なう働きはすべて、神の経営(救いの)計画の中で神が行なおうとする働きであり、偉大な経営(救い)に関係している。人(聖霊に用いられる人)によってなされる働きは、その人の個人的体験を提供することである。それは以前の人たちが歩いた道を越えて新しい体験の道を見つけ、兄弟姉妹を聖霊の指導の下で導くことである。この人たちが提供するのは、彼ら個人の体験や霊的な人たちの霊的書物である。彼らは聖霊によって用いられているが、その働きは六千年計画の偉大な経営(救い)の働きとは関係していない。彼らはただ自分たちが果たしている役目が終わるか、自分たちの生涯が終わるまでの間、聖霊の流れの中で人々を導くために、様々な時代に聖霊によって立てられている人たちにすぎない。彼らが行なう働きはただ神のために適切な道を用意するか、あるいは地上における神自身による経営(救い)のある側面を続けていくことだけである。そのような人たちは、神の経営(救い)の中で偉大な働きをすることはできず、新しい道を開拓することもできず、ましてや前の時代からの神のすべての働きを終わらせることなどできない。よって、彼らがする働きはただ被造物が己の役目を果たすことを表しているだけで、神自身が行なう職分を表すことはできない。これは、彼らがする働きは神自身の行なうものとは同じではないからである。新しい時代を招き入れる働きは神に代わって人がすることはできない。神以外の誰によってもなされることはない。人がする働きのすべては被造物の一人としての本分を果たすことだけで、聖霊によって動かされ、啓かれたときに果たされる。そのような人たちが与える指導は、人が日常生活でどのように実践し、神の心に一致してどのように行動すべきかということを人に示すことである。人の働きは神の経営(救い)に関わることも霊の働きを表すこともない。たとえば、ウィットネス・リー(李常受)やウオッチマン・ニー(倪柝聲)の働きは道を先導することであった。道が新しいものであろうと古いものであろうと、働きの前提は聖書の原則を超えないということであった。地方教会の復興であれ設立であれ、彼らの働きは教会を築くことであった。彼らの働きは、イエスや弟子たちが恵みの時代にやり終えなかった働き、或いはさらに展開しなかった働きを引き継いでいた。彼らがその働きにおいて行なったのは、頭を覆うこと、バプテスマを受けること、パンをさくこと、ぶどう酒を飲むことなど、イエスがその初期の働きにおいて自分以降の世代の人々に行なうように命じたことを復活させることであった。彼らの働きは単に聖書を守り、聖書の中に道を求めることであったと言うことができる。彼らは新しい進歩を一切遂げなかった。したがって、彼らの働きには聖書内における新しい道の発見と、以前よりは良い現実的な実践しか見受けられない。彼らの働きには、神の現在の意図を見受けることはできず、ましてや終わりの日に神が行なうである新しい働きに関しては何もない。これは、彼らが歩んだ道はやはり古い道であったので、刷新や進歩はなかったからである。彼らはイエスの磔刑の事実にこだわり、人々に悔い改め罪を告白させるという実践や、最後まで耐えるものが救われるということわざや「男は女の頭である」「妻は夫に従え」といった聖句、さらに女性信者は説教できず、従うことのみできるという伝統的な観念を維持した。もしもこのような指導が継続していたなら、聖霊が新しい働きを行ない人々を教義から解放し、自由と美の領域へと導くことはできなかったであろう。そういうわけで、時代が変わるこの段階の働きは、神自身が行ない語らなくてはならないのである。そうしなければ、神の代わりにこれらの働きを行なえる人はいない。今までは、この流れの外側では聖霊のあらゆる働きは行き詰まり、聖霊に使われていた人々は道に迷ってしまった。よって、聖霊に用いられた人の働きは神自身による働きと同じではないので、その身分や誰に代わって行動しているかもまた異なっている。これは聖霊が意図する働きが異なるため、働くすべての人たちに異なった身分や地位が与えられるためである。聖霊によって用いられる人たちはまた新しい働きをするかもしれないし、また昔なされた働きを排除するかもしれないが、彼らの働きは新しい時代の神の性質や心を表現することはできない。彼らはただ前代の働きを取り除くためだけに働き、神の性質を直接表すために新しい働きをするわけではない。このように、彼らがどれだけ多くの時代遅れの実践を廃止し、新しい実践を導入しようとも、彼らは依然として人や被造物を代表しているのである。しかし、神自身が働くとき、神は公然と古い時代の実践の撤廃を宣言したり、新しい時代の始まりを直接宣言することはない。神はその働きにおいて直接的で率直である。神は意図する働きを遂行する上で率直である。すなわち、神は自身がもたらした働きを直接表現し、本来意図したように自身の働きを遂行し、神であることと神の性質を表現する。人の見方では、神の性質、また神の働きはかつての時代とは異なっている。しかし、神の見地からは、これは神の働きの継続でありさらなる展開に過ぎない。神自身が働くとき、神はその言葉を表現し、直接新しい働きをもたらす。それとは対照的に、人が働くときは、熟考と研究によってなされるか、あるいは他人の働きに基づいて築かれた知識の発展と実践の体系化である。すなわち、人によってなされる働きの本質は設立された秩序に従い「新しい靴で古い道を歩く」ことである。これは聖霊に用いられる人が歩く道でさえ神自身によって開かれたものに基づいているという意味である。所詮人は人であり、神は神である。
ヨハネは、アブラハムにイサクが生まれたように、約束によって生まれた。ヨハネはイエスのために道を整え、多くの働きを成したが、神ではなかった。むしろ、ヨハネは預言者であった。イエスのために道を整えたからである。ヨハネの働きも偉大であり、ヨハネが道を整えた後初めて、イエスは公に自分の働きを始めた。実質的には、ヨハネは単にイエスのために働いただけであり、ヨハネの働きはイエスの働きのためであった。ヨハネが道を整えた後、イエスは自分の働きを始めた。それはより新しく、より具体的で、より細かい働きだった。ヨハネが行なったのは、最初の働きだけだった。それより多くの新たな働きは、イエスによって成された。ヨハネも新たな働きを成したが、新たな時代へと案内した者ではなかった。ヨハネは約束の下に生まれ、その名前は天使が与えた。当時、彼の父ザカリヤの名をつけたかった人たちもいたが、ヨハネの母は「この子をその名前で呼ぶことはできません。ヨハネという名にしなければなりません」と主張した。これはすべて聖霊によって命じられたのである。それでは、ヨハネはなぜ神と呼ばれなかったのだろうか。イエスの名もまた聖霊に命じられた。そして、イエスは聖霊から、聖霊の約束によって生まれた。イエスは神であり、キリストであり、人の子であった。ヨハネの働きも偉大であったが、なぜ彼は神と呼ばれなかったのだろうか。イエスの働きとヨハネの働きの違いは正確に言って何だったのだろうか。ヨハネはイエスのために道を整える人であったことが唯一の理由だろうか。あるいは、神にあらかじめ定められたからだろうか。ヨハネはまた「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、天の国の福音も宣べ伝えたが、彼の働きはさらに展開されず、導入部分だけであった。それとは対照的に、イエスは新しい時代を切り開き古い時代を終わらせたが、イエスはまた旧約聖書の律法を成就した。イエスの働きはヨハネの働きより偉大で、さらにイエスは全人類を贖うために来たのであり、その段階の働きを達成した。ヨハネはただ道を整えただけであった。彼の働きは偉大で、言葉もたくさん語り、彼に従った弟子たちも数多かったが、ヨハネの働きは人に新しい始まりをもたらす以上のことは何もなかった。人は彼からいのちも、道も、より深い真理も受けておらず、彼を通して神の旨の理解を得ることもなかった。ヨハネはイエスの働きのために新境地を切り開き、選ばれた人を準備した偉大な預言者(エリヤ)であった。ヨハネは恵みの時代の先駆者であった。そのような事柄はただ彼らの普通の人間の外観を見ていても分からない。特にヨハネは、極めて偉大で、その上聖霊に約束され、聖霊によって支えられた働きをしていたので余計にそうである。だから彼らのそれぞれの身分はその働きを通してでなければ区別することはできない。というのは人の外観からその人の本質を知ることはできないし、人は聖霊の真の証を確認することはできないからである。ヨハネによってなされた働きとイエスの働きとは同じではなく、性質が違っている。それが、神であるかどうかを決定するものである。イエスの働きとは、始めて、続けて、終わらせて、達成することであった。これらの段階をそれぞれイエスは実行したが、一方ヨハネの働きは、始まりの働き以上ではなかった。最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。イエスは人々に説教し、あらゆる場所で天の国の福音を宣べ伝えた。この点ではイエスとヨハネは同じであったが、イエスは新しい時代の到来を告げ、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が恵みの時代に実践すべきことと従うべき道に関する言葉がイエスの口から発せられた。そして、最終的にイエスは贖いの働きを終えた。ヨハネはそのような働きを決して実行することはできなかった。だから、神自身の働きを行なったのはイエスで、イエスが神自身であり、神を直接表すのもイエスである。人の観念では、約束によって生まれた者、霊から生まれた者、聖霊によって支えられている者、新たな道を開く者は神であると言う。このような論法によれば、ヨハネも神であり、モーセもアブラハムもダビデも神である、ということになる。これは、よくできた冗談ではないのか。
イエスも伝道を行う前は普通の人間に過ぎず、聖霊のすることに従って行動していただけであった。イエスが当時自分の身分を意識していたかどうかはともかく、神から示されたことにはすべて従っていた。聖霊は、イエスがその職分を開始する前には、その身分を決して明かさなかった。イエスがこのような律法や掟を廃止したのは、職分を始めた後であり、イエスが公に働きを始めた後に、彼の言葉は権威や力に満ちた。イエスの働きが始まった後初めて、新たな時代を生み出すという彼の業が始まった。それ以前の二十九年間、聖霊はイエスの中に隠れたままであり、その間イエスは人を表していただけであり、神の身分や働きは持たなかった。イエスがその働きと職分を始めた時点から、イエスは、自分がどれほど人に知られているかに関わらず、自身の内部の計画通りに働きを行ったが、そのイエスの働きは、神自身を直接表したものであった。イエスはその頃、周囲の者に「あなたがたはわたしをだれと言うか」と尋ねた。彼らは答えた。「あなたは最も偉大な預言者であり、私たちのよき医者です」、また「あなたは大祭司です」と答えた者もいた。様々な答えが出た。イエスはヨハネであるとか、エリヤであるとか言う者もいた。イエスはそれからシモン・ペテロの方を向いて「あなたはわたしをだれと言うか」と尋ねると、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えた。その時から、人々はイエスが神であることを知った。イエスの身分が知られたとき、その認識に最初に至ったのはペテロであり、それを口に出したのもペテロだった。そしてイエスは言った。「あなたにこの事をあらわしたのは、肉血ではなく、わたしの父である」。イエスがバプテスマを受けた後、他の者が認識していたかどうかはさておき、イエスの働きは神に代わっての働きであった。イエスが来たのは、自らの働きを行うためであって、自分の身分を明らかにするためではない。イエスの身分が公に人に知られるようになったのは、ペテロのこの言葉の後であった。イエスが神自身であることを人間が認識していたかどうかに関わらず、イエスは時が来ると自分の働きを始めた。そして、人間が認識していたかどうかに関わらず、イエスは自分の働きを以前のように続けた。たとえ人が拒否したとしても、イエスは自分の働きを行い、成すべき時にそれを遂行する。イエスが来たのは働き、職分を果たすためであり、人間が神の肉を知るためではなく、人間が神の働きを受けるためであった。もしあなたが今日の段階の働きは、神自身の働きであることを認識できないなら、それはあなたにはビジョンが欠けているからである。それでもこの段階の働きを否定することはできない。あなたがそれを認識できないからと言って、聖霊が働いていないとか、神の働きは間違っているとかいう証明にはならない。聖書の中のイエスの働きに照らし合わせて現在の働きを調べ、矛盾している点を用いてこの段階の働きを否定しようとする人々さえいる。これは目が見えない者のすることではないだろうか。聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。
イエスが地上にいた時間は三十三年半だった。つまり、イエスは地上で三十三年半暮らした。そのうちイエスが自身の働きを成したのは三年半だけだった。そして、残りの年月は、普通の人間の生活をしていた。はじめのうち、イエスはシナゴーグの礼拝に出席し、そこで祭司の聖書の解説や他者の説教を聞いた。イエスは聖書について多くの知識を得た。イエスは生まれつきそのような知識を持っていたわけではなく、読んだり聞いたりすることでそのような知識を得た。イエスが十二歳のときにシナゴーグでラビに質問をしたことは、聖書にはっきり記録されている。昔の預言者の預言はどのようなものだったか。モーセの律法はどのようなものか。旧約聖書とは。そして、神殿で祭司の服を着て神に仕えることの意味は何だったのか等、イエスはたくさんの質問をした。そのような知識も理解もなかったからだ。イエスは聖霊により母胎に宿ったが、まったく普通の人として生まれた。多少の個性はあったものの、イエスは依然として普通の人だった。イエスの知恵は身長や年齢とともに続けて増し、イエスは普通の人と同じような人生の過程を通過した。人は、イエスが幼児期、青春期、中年期を経験していないと想像する。イエスは生まれるなり三十歳の人として生涯を始め、業を完了して十字架につけられたと人は思っている。おそらくイエスの人生は、普通の人の人生と同じようには流れなかっただろうと信じている。おそらく、イエスは食べもせず、人と交際もせず、人に簡単に姿を見られることもなかったのだろうと信じている。イエスは神なのだから、見るものを恐れさせるような奇人だろうと信じている。肉となった神は絶対に人間のような生活をしないと人々は信じている。彼らは、イエスは聖なる人なので、歯を磨いたり、顔を洗ったりしなくてもきれいであると信じている。これは純粋に人の観念ではないだろうか。聖書には人としてのイエスの生涯についての記録はなく、イエスの働きについてしか記録がないが、このことでイエスが普通の人間性をもっていなかったとか、三十歳になるまで普通の人間の生活をしなかったという証明にはならない。イエスは二十九歳で公に働きを始めたが、それ以前のイエスの人としての全生涯を否定することはできない。聖書はただその時期のことは記録から取り除いているだけである。それは普通の人性としてのイエスの生涯で、神性としての働きの時期ではなかったので、それを記録しておく必要はなかったのである。イエスのバプテスマ前には聖霊は直接には働かず、職分を始めるべき日までイエスを普通の人としてのその生活に留めた。イエスは受肉した神であったが、普通の人として成熟過程を経た。この過程は聖書から省かれている。というのは、人のいのちの成長に大きな助けにはならないから省かれたのである。イエスのバプテスマ以前は隠された時期で、イエスはしるしも不思議も行わなかった。イエスがバプテスマを受けて初めて、恵み、真理、愛、憐みが豊かに溢れた人類の贖いの働きのすべてを開始した。この働きの始まりはまさに恵みの時代の始まりでもあった。このため、それは書き留められ、現在に至るまで受け継がれてきた。それは恵みの時代の人々がその時代の道を歩み、十字架の道を歩むために、道を開き、すべてを完成させるためであった。そのような記録は人によって書かれたものだが、すべては事実の記述であり、ところどころに小さな誤りがあるだけである。とにかく、これらの記録を誤りとすることはできない。これらは人によって書かれたため誤りも見られるが、完全に事実である。イエスは平凡な普通の人性だったと言う者もいるかもしれないが、それならば、どうしてしるしや不思議を行なうことができたのだろうか。イエスが経験した四十日間の誘惑は、奇跡のしるしであり、普通の人には達成することができないものだ。イエスの受けた四十日間の誘惑は、聖霊の業であった。では、イエスの中に超自然的なものがまったくないとどうして言えるだろうか。イエスがしるしや不思議を行なえたことは、彼が普通の人ではなく超越的な人であることの証明ではない。それは聖霊が彼のような普通の人の中で働き、それにより、イエスは奇跡を起こして、より偉大な業を成すことができたというだけである。イエスがその職分を果たす前、あるいは聖書に記されているように聖霊がイエスに降りる前は、イエスは普通の人で、超自然的なところは少しもなかった。聖霊の降臨により、すなわち、イエスがその職分を始めた時、イエスは超自然的なもので満たされた。そのように人は、神の受肉した肉体は普通の人間性は全くなく、さらに受肉した神には人間性がないと誤って信じるようになる。確かに、神が地上にくると、神の働きと人が神に関して見る全てのことは超自然的である。目で見、耳で聞くことはすべて超自然的なことであるのは、神の働きと言葉は人には理解できず、達成不可能なことであるからである。もし天の何かが地上にもたらされるなら、超自然的以外のものであり得ようか。天の国の奥義が地上にもたらされたなら、それは人が理解したり推測したりすることのできない奥義であり、あまりにも素晴らしく知恵に満ちているが、それらはすべて超自然ではないであろうか。しかし、たとえどんなに超自然的でも、それらは神の普通の人間性において行なわれるということを知らなければならない。神の受肉した体は人間性を備えている。そうでなければ、それは神の受肉した体ではないであろう。当時、イエスは非常に多くの奇跡を行なった。当時のイスラエル人が見たものは、超自然的なものに満ちていた。彼らは天使や使者を見、ヤーウェの声を聞いた。これらはすべて超自然的なことではなかっただろうか。確かに、現在では人間を騙すために超自然的なものを通して働く邪悪な霊がいる。これは、現在は聖霊が行わない働きを通して人間を騙そうとする邪悪な霊による模倣にすぎない。多くの邪悪な霊が奇跡や病の癒しなどの働きを模倣する。これは邪悪や霊の働き以外の何物でもない。現在は聖霊はもはやこのような働きをしないからである。以降、聖霊の働きを模倣するのは、すべて邪悪な霊である。当時イスラエルで行なわれた働きはすべて、超自然的なものであった。だが今では、聖霊はそのようなやり方では働かない。これ以上のそのような働きはサタンによる業と妨害であり、悪霊から来る。しかし、超自然的なものの全てが悪霊の行為であるとは言えない。それは、神の働きのどの時代かによる。現在の受肉した神による働きを考えてみよ。そのうちどの部分が超自然的でないであろうか。神の言葉は、あなたには理解できず、到達不可能である。そして、神の働きはだれにもできない。神が理解することを人が理解することはできず、人は神の知識がどこから来るのかを知ることもできない。「私もあなたと同じように普通なのに、あなたの知っていることを私が知らないのはどういうことか。私の方が年上で経験も豊富なのに、どうして、私の知らないことをあなたが知っているのだろうか」と言う人がいる。これはすべて、人間に関する限り、人間にはできないことなのだ。また、「イスラエルで行われた働きについて本当に知っている人は誰もいないのに、どうしてあなたは知っているのですか。聖書解説者すら説明できないのに、あなたはどうして知っているのですか」と言う人もいる。これらはすべて超自然の問題ではないのだろうか。今日の受肉した神はいかなる不思議も経験しなかったが、あらゆることを知っており、神から言葉がいとも簡単に発せられる。これは超自然的なものではないのか。神の働きは、肉により達成可能な範囲を超えている。そのような働きは、肉による者の考えでは達成できず、人の知力や理屈ではまったく考えが及ばない。今日の受肉した神は聖書を読んだことがなかったが、イスラエルでの神の働きについて理解している。そして、地上で語っているにもかかわらず、第三の天の奥義について話す。人がこれらの言葉を読むと、「これは第三の天の言語ではないだろうか」という思いで圧倒される。これらはすべて、普通の人にできることを超えた事柄ではないだろうか。また、イエスが四十日間断食したことは、超自然的なことではなかっただろうか。四十日間の断食があらゆる場合において超自然的で、悪霊の行為であると言うなら、イエスを非難したことにならないだろうか。イエスがその働きを始める前は、まったく普通の人のようだった。イエスも学校で勉強した。それ以外にどうして読み書きを習得できたというのか。神が肉となったとき、霊は肉の中に隠されていた。だが、普通の人間として、イエスも成長と成熟の過程を経る必要があった。そして、イエスの認知能力が成熟し、物事の分別がつくまでは、イエスは普通の人と見なされていた。イエスの人間性が成熟した後初めて、職分を開始することができた。イエスの普通の人間性がまだ成熟しておらず、物事の道理もよく分からないときに、どうして職分を果たすことができただろうか。イエスが六歳か七歳で働きをすることなど考えられないはずである。神はなぜ、受肉してすぐに自身を明らかにしなかったのだろうか。それは、神の肉の人間性がまだ成熟していなかったからである。肉の認知過程、またその肉の普通の人間性がまだ完全に神のものになっていなかったのである。このため、イエスが肉による働きを行うには、それに相応しいだけの普通の人間性と常識を身に付けることがどうしても必要だったのである。そうして初めてイエスはその働きを開始することができたのである。イエスが働きに適していなければ、更に成長、成熟する必要があった。イエスが七歳か八歳で自分の働きを始めても、人は彼を天才児として扱わなかっただろうか。誰もがイエスを子供だと考えたのではないだろうか。イエスに説得力のあると誰が思っただろうか。その身長は演壇ほどもない七、八歳の子供に説教ができたであろうか。その人間性が成熟するまでは、イエスはその働きに適していなかった。イエスの人間性がまだ未熟だったのだから、その働きの大部分が到底成し遂げられなかった。肉体にある神の霊の働きもまたそれ自体の原理に従っている。イエスが普通の人間性を備えて初めて、父なる神の働きや義務を行なうことができたのである。そうしてはじめて、イエスはその働きを始めることができた。イエスは幼年時代には、古代に起こったことのほとんどを全く理解できず、ラビに聞いて初めて理解することができたのである。もしもイエスが言葉を話すようになってすぐ働きを始めていたなら、どうして誤りを犯さないでいられただろうか。神が間違えることなどあり得ようか。よって、イエスが働きを開始したのは、イエスにとって可能になってからであった。働きを行なうことが完全に可能になるまでその働きを実行しなかったのである。二十九歳で、イエスはすでにかなり成熟しており、その人間性はイエスが行うべき働きを遂行するには十分であった。三十年間隠されていた聖霊はその時初めて現われ、神の霊は正式にイエスの中で働き始めた。当時ヨハネはイエスのために道を用意するべく七年間働いていた。そして、この仕事を終えると、ヨハネは投獄された。それから重荷はすべてイエスにふりかかった。もしイエスが人間性にも欠けるところが多く、青年になったばかりの二十一、二十二歳で、まだ多くのことの理解に欠けるままでこの働きを遂行していたならば、イエスは取り仕切ることができなかったであろう。当時、イエスが中年になって働きを始めたとき、ヨハネは働き始めてすでにかなりの時が経っていた。その年齢では、イエスの普通の人間性はなすべき働きを遂行するには十分であった。今や受肉した神も正常な人間性を持つ。あなたがたと比べれば成熟してはいないが、その人間性はその状態で自らの働きに着手するにはすでに十分である。今日の働きを取り巻く状況はイエスの時代とは全く同じではない。イエスはなぜ十二人の弟子を選んだのであろうか。すべてはイエスの働きを支え、協力するためであった。ひとつには当時のイエスの働きの基礎作りをするためであり、同時に、その後のイエスの働きの基礎作りをするためでもあった。当時のイエスの働きに合わせて十二人の弟子を選ぶことは、イエスの考えであったが、それは同時に神自身の考えでもあったからである。イエスは十二人の弟子を選んで、あらゆる場所で説教ができるように彼らを導く必要があると信じていた。だが今日、あなたがたに同じようにする必要はない。受肉した神の働きには多くの原則があり、人間にはどうしても分からないことがたくさんある。人間は自分の観念を絶えず用いて分からないことを推し量ったり、あるいは神に過度の要求をする。そして今日にいたるまで、自分の知識が自分の観念だけで成り立っていることに全く気づいていない人たちが多数いる。神が受肉する時代や場所に関わらず、肉における神の働きの原則は変わらない。神は肉となりながら、働きにおいて肉体を超越することはできない。また神は肉となりながら、肉体の普通の人間性の中で働かないことはできない。そうでなければ、神の受肉の意義は全くなくなり、ことばが肉となったことは全く無意味になってしまう。さらに、天の父(霊)だけが神の受肉を知っており、他の誰も、肉となった神自身さえも、あるいは天の使者たちさえも知らない。そのように、神の肉における働きはもっと普通のことであり、確かにことばが肉となることを申し分なく証明することができる。なお肉とは、平凡で普通の人を意味する。
なぜ神自身が時代の到来を告げなければならないのかと不思議に思う人がいるかもしれない。被造物が神の代わりをすることはできないのであろうか。神が新しい時代の到来を告げるために、わざわざ肉となることをあなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代に案内するとき、同時に前の時代を終わらせる。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身であるので、前の時代を終わらせるのも神でなければならない。それは神がサタンを負かし、世界を征服する証拠である。神が人々のもとで働くときはいつも、新しい戦いの始まりである。新しい働きの始まりがなくては、当然古い働きの終結もないということである。古い働きの終わりがないということは、サタンとの戦いの終わりがまだ来ていないという証拠である。神自身が人のもとに来て新しい働きを実践して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しいいのち、新しい始まりを獲得することができる。そうでなければ人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。一つの時代が神によって導かれるたびに、人間の一部は自由にされ、それによって人間は新しい時代に向けて神の働きと共に前進する。神の勝利は神に従うすべての人たちの勝利でもある。もし被造物である人類が時代を終えることを任されたなら、人間の視点からであろうとサタンの視点からであろうと、それは神に反抗するか裏切る行為でしかなく、神に対する従順から出たものではなく、そのような人間の働きはサタンの道具にされてしまうことになる。人が神によって案内された時代において神に服従してついて行くときにのみ、サタンは完全に納得させられることができる。それが被造物の本分だからである。そして、あなたがたに必要なのは服従することだけで、それ以上にはあなたがたは何も求められていない、とわたしは言う。それこそ各自が自分の本分をわきまえ、自分の役目を果たすことの意味である。神は自身の働きを行ない、人が神の働きを神に代わってすることは必要としておらず、被造物の働きに神が関与することもない。人は自分自身の本分を果たし、神の働きに関与しない。これが本当の服従であり、サタンが敗北したという証拠である。神自身が新しい時代に案内したあとは、神はもはや人のもとで働くために到来することはない。そうして初めて、人は自分の本分を果たすために、新しい時代に正式に一歩踏み出し、被造物としての使命を果たすのである。これがだれも背くことのできない働きの原則である。このように働くことだけが賢明で道理にかなっている。神の働きは神自身が行なう。神の働きを始動させるのは神で、それを終わらせるのも神である。働きを計画し管理するのも神であり、それ以上に、働きを成就するのも神である。それは聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営(救い)の働きに関連する全てのことは神自身により行なわれる。神は六千年の経営(救いの)計画の支配者で、誰も神の代わりに働くことはできず、神の働きを終わらせることはできない。というのは、すべてを支配するのは神だからである。神は世界を創造し、神は全世界が神の光の中に生きるよう導き、全時代を終わらせ、それにより神の計画すべてを成就させるであろう。
場所:
日本
2019年5月11日土曜日
全能神教会への迫害が国連で明らかに!中国共産党はなぜ宗教の信仰を迫害するのか
全能神教会への迫害が国連で明らかに!中国共産党はなぜ宗教の信仰を迫害するのか 6月19日、第38回国連人権理事会が開かれました。社団及び個人の良心の自由協会(CAP LC)の代表ティエリ・ヴァレ(Thierry Valle)氏が7つのNGO団体を代表して、人権理事会において口頭で声明を出しました。その声明の中で、中共が全能神教会を迫害し続けている問題を提起しました。さらに中国政府に対し信仰の自由を尊重し、迫害を止めるよう訴えました。
もっと注目:
中国共産党は招遠で起きたマクドナルド店殺人事件のフェイクニュースの策謀者——マッシモ・イントロヴィーニャ
2019年5月10日金曜日
クリスチャン映画「福音の使者」 抜粋シーン(1)主イエスは、十字架の上で「すべてが終った」と言われたとき、何を意味されたのでしょうか?
宗教界の多くの人々はこう考える、「主イエスが十字架の上で「すべてが終った」と仰せられたということは、人類を救う神の働きは終わった証拠だ。我々は主を信じるだけで、罪を赦され、信仰によって義とされ、恵みによって救われる。主が来られれば、我々を天の御国に引き上げてくださる。更なる救いの働きなどなさるはずがない。」この見解は神の働きの事実と合致しているだろうか?
ラベル:
,十字架,
救う,
信仰,
真理, 救い,主イエス
場所:
日本
2019年5月6日月曜日
全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 7
2.神の人間に対する要求
1) 神自身の身分と地位
これで、「神は万物の生命の源である」と、「神は唯一の神自身である」という主題は終了する。この主題の終わりにあたり、まとめを行う必要がある。このまとめは、何に関するものであろうか。神自身についてである。この主題は神自身に関するものであるので、まとめは神のあらゆる側面と、人間の神に対する信仰の形態に関連するものである必要がある。そこで、まずあなたがたに質問する。ここまでの話を聞いて、あなたがたの心の目に見える神は、誰であろうか。(創造主である。)心の目に見える神は創造主である。それ以外に回答はあるだろうか。神は万物の主である。万物を支配し、管理しているのは、神である。神は、存在するあらゆる物事を造り、管理し、また支配し、施す。これが神の地位であり、身分である。万物すなわち存在する全ての物事について、神の真の身分は創造主であり、支配者である。それが、神が所有する身分であり、神は万物にあって唯一の存在である。神の被造物のうちひとつとして、人間の世界にあるか、霊的世界にあるかを問わず、何らかの方法や申し開きにより、神の身分や地位を装ったり、神の代理となったりすることの出来るものはいない。なぜなら、万物を支配する身分と力、権威、そして能力を持つ者は、ただひとりしか存在せず、それが唯一の神自身であるからである。神は万物の中で生き、動いている。神は万物のうち最も高い場所へと昇ることができる。また神は、血と肉のある人間のひとりに身をやつし、人間と対面して苦楽を共にすることも可能である。それと同時に、神は万物に命じ、万物の運命や方向性を決定する。さらに、神は人類全体の運命と方向性を導く。このような神は、あらゆる生き物が崇め、付き従い、知るべき存在である。したがって、どの種類の人間に属するかを問わず、神を信じ、付き従い、敬うこと、またあなたの運命に対する神の支配と神の采配を受け容れることのみが、あらゆる人間や生き物にとって、必然の選択肢である。神の唯一性により、人間は神の権威、神の義なる性質、神の本質を理解し、そして神が万物に施す方法が全て独自のものであることを理解する。また神の唯一性により、神自身の真の身分と神の地位が決定される。そうしたわけで、あらゆる被造物のうち、霊的世界や人間の世界に存在する生き物が神の代わりとなろうとした場合、それは不可能であり、また神になりすますことも不可能である。これは事実である。神自身の身分、力そして地位を持つこのような創造主であり支配者が人間に要求することは何であろうか。このことは、今ここに居るあなたがた全員がはっきりと理解し、覚えておくべき事であり、神と人間の両方にとって極めて重要なことである。
2) 神に対する人間の様々な姿勢
人間の神に対する姿勢により、その人間の運命が決まり、その人間に対する神の姿勢と対処方法が決まる。ここで、人間の神に対する姿勢の例を数件挙げる。人間の神に対する様々な行儀と姿勢が正しいかどうかについて話をする。次に挙げる7種類の人間の行動について検討する。
A: 神に対する姿勢がことさらに不条理なタイプの人々が居る。こうした人間は、神が菩薩あるいは伝説に登場する聖なる存在のようなものであり、人間が神と会うときは三回礼をして、食事の後に香を焚かねばならないと考えている。したがって、こうした人間は、心中で神に感謝し、神の恵みに対する感謝の気持ちを頻繁に抱く場合、次のような衝動を感じる。こうした人々は、現在自分達が信じている神が、心の中で慕っている聖なる存在のように、神と会うときに3回礼をし、食後に香を焚くという神に対する自分達の行動を受け容れることが出来ることを願っている。
B: 神のことを生きている仏陀であり、あらゆる生き物の辛苦を解消して救うことが出来ると考えている人々が居る。こうした人々は、神を生きている仏陀であり、自分達を様々な困難から救うことが出来ると考えている。こうした人々の神に対する信仰は、神を仏陀として信仰することである。こうした人々は、香を焚くことは無く、叩頭せず、捧げ物もしないが、心の中では、自分達が信じる神は仏陀のような存在であり、自分達が親切であり、寛大であり、殺生を行わず、他人の悪口を言わず、誠実と思われる人生を送り、悪業を避けることができることだけを求める。これが、こうした人々の心の中の神である。
C: 神を偉人や有名人として崇拝する人々が居る。たとえば、こうした人々は、この偉人の話しかたの嗜好、すなわちこの偉人の発音や言い回し、語彙、語調、身振り、意見、行動、態度などを、全て模倣し、それがこうした人々の神に対する信仰の中で完全に実現させるべきこととなっている。
D: 神を君主と考えている人々が居る。こうした人々は神が誰よりも高位にあり、敢えて神に逆らおうとするものは居ないが、逆らった場合、自分達は刑を科されると感じている。こうした人々は、その君主を崇拝するが、それは自分達の心の一部にその君主が留まっているからである。君主の考え、作法、権威、性質、さらには関心事や個人生活までもが、すべて自分達が理解すべき事柄となり、考慮すべき問題となるので、こうした人々は神を君主として崇拝している。このような形態の信仰は滑稽である。
E: 神の存在について、高尚かつ確固とした特定の信仰がある人々がいる。こうした人々の神に関する認識は極めて表面的なものであり、神の言葉に関する経験が少ないため、こうした人々は神を偶像として崇拝する。こうした人々の心の中では、この偶像が神であり、自分達が畏れ、服従し、付き従い、模倣すべきものである。こうした人々は、神は偶像であり、生涯を通して付き従う必要のあるものと考えている。こうした人々は神の口調を模倣し、神が好む人々の外観を模倣する。こうした人々は、純粋無垢で正直と考えられる行為を頻繁に行い、決して離れることの出来ない仲間のように、この偶像に付き従う。これがこの種の人々の信仰形態である。
F: 神の言葉や説教を大量に聞いたにもかかわらず、神に対してこびへつらう、あるいは神を非現実的に讃美する必要がある、ということを原則とする姿勢の人々が居る。こうした人々は、神が自分達にこうした態度を要求していると考え、またそれを怠ると、神の怒りを買う可能性がある、それを怠ることが神に対する罪であり、罪の報いとして神が自分達を罰すると考えている。これが、こうした人々の心の中の神である。
G: 神が精神的な支えであると考えている人々が居るが、こうした人々は大部分を占めている。こうした人々は、この世で生活しているので、平和や幸福が欠如しており、慰めを見出すことが出来ない。こうした人々は、神の言葉を聞いて理解し、神を見出した後、心の中で密かな幸福を感じ、快活になる。それは何故であろうか。こうした人々は、幸福が与える場所、そして精神的な支えを与える神を、遂に見出したと考えている。それは、神を受け容れ、神に付き従い始めた後、幸福になり、生活が満たされ、あたかも動物のように人生を夢遊病の中で彷徨う信仰の無い者のような状態では無くなり、将来の人生に期待があると感じるからである。このように、そうした人々は神が自分の精神的な必要性を満たし、精神と魂の両方に大いなる幸福をもたらすことができると考えている。こうした人々は、無意識のうちに、この精神的な支えを与え、精神と家族全員に幸福をもたらす神から離れることが出来なくなる。こうした人々は、神への信仰から、精神的な支えをもたらすこと以外に何も求めることは無い。
こうした神に対する様々な姿勢があなたがたの中に存在するであろうか。(存在する。) こうした人々の信仰において、誰かの心にこうした姿勢のいずれかがある場合、こうした人々は真に神の前に来ることができるであろうか。心の中にこうした姿勢がある者は、神を信仰しているであろうか。こうした人々は唯一の神自身を信仰しているであろうか。唯一の神自身を信仰していないのであれば、あなたは何を信仰しているのであろうか。あなたが信仰しているのが唯一の神自身ではないとすれば、あなたは偶像、偉人、あるいは菩薩を信仰しており、心の中で仏陀を崇拝している可能性がある。さらに、あなたは普通の人間を信仰している可能性もある。要するに、人々の様々な信仰形態と神に対する態度が原因となって、人々は心の中で自分自身が認識する神を心に据え、神に自分の想像を強要し、自分の神に対する姿勢と想像を、唯一の神自身と同じ位置づけとして信奉している。神に対してこうした不適切な姿勢をとるということは、何を意味するであろうか。それは、真の神自身を否定し、偽の神を信仰していること、そして神を信じると同時に神を否定し、神に反抗していること、さらに真の神の存在を否定していることを意味する。もし人々がこうした信仰を続けたとしたら、こうした人々にはどのような結末が待ち受けているであろうか。こうした人々は、このような形態の信仰によって神の要求を少しでも満たすことが出来るだろうか。それとは反対に、そうした人々は概念や想像が原因となって、神の道から遠ざかってゆくだけであろう。なぜなら、そうした人々の方向性は神が求める方向性とは正反対のものだからである。あなたがたは「南轅北轍」の故事を聞いたことがあるだろうか。こうした人々は、まさに志と行動が相反する「南轅北轍」であると言える。こうした滑稽な方法で神を信仰した場合、信仰をすればするほど神から遠ざかってゆくであろう。そこで、あなたがたに忠告する。信仰を開始する前に、あなたの方向性が正しいかどうかを判断する必要がある。狙いを定めて努力し、必ず「自分が信仰している神は、万物の支配者であろうか。私が信仰している神は、単に精神的な支えを与えるのみの存在ではないだろうか。私が信仰している神は偶像ではないだろうか。私が信仰している神は、私に何を求めているだろうか。神は、私の行動すべてを認めているだろうか。私の行動と追求は、全て神を知ることを追求するものであろうか。私の行動は、神の私に対する要求に則しているだろうか。私が進んでいる道は、神により認識され認められているものだろうか。神は私の信仰に満足しているだろうか。」と自分自身に問い質すように。あなたは、常に、そして何度も、自分自身に対してこうした質問を問い質す必要がある。神に関する認識を追求することを望むのであれば、神に満足してもらうため、明確な意識と目標を持つ必要がある。
神が寛容であるため、先に述べたようなこれらの不適切な姿勢を神がしぶしぶ受け容れることは、あり得るであろうか。神がこのような人々の姿勢を称賛することがあり得るだろうか。人間そして神に付き従う人々に対する神の要求は何であろうか。神が人間に対して求める姿勢について、あなたがたは明瞭に理解しているであろうか。本日は、神自身や神の業、神が持っているものや神が何であるか、多くの事柄を話した。これで、あなたがたは神が人間から何を得る事を望んでいるかを認識したであろうか。神があなたに対して求めている事柄を知っているであろうか。意見を述べて欲しい。あなたがたの経験や実践から得た認識が無い場合や表面的である場合は、それらの言葉に関するあなたがたの認識を述べてもよい。あなたがたは、その概要を認識しているであろうか。神は人間に何を要求しているであろうか。(忠誠と服従を要求されている。)忠誠と服従以外に、何を要求しているであろうか。その他の兄弟姉妹の意見も聞こう。(これまで数回の話のなかで、神は、神、神の業、神が万物の生命の源であることを要求し、神の身分と地位、そして神の創造物としての人間の本分を人間が知ることを要求されている点を説明された。神は人間が全ての努力を何に捧げるべきか、神が人間に要求されている物事、神が好まれる人間、神が嫌悪される人間について明確にされた。)神が人間に対し、神を知る事を望んでいる場合、それは最終的にどのような結果となるであろうか。(人間は、神が創造主であり、人間は造られたものであることを知る。)人間がそうした認識を得た時、人間の神に対する態度、行動、実践方法、いのちの性質は、どのように変化するであろうか。あなたがたは、このようなことを考えたことがあるだろうか。人間は、神を知り、理解した後に善良な人間になる、と言えるであろうか。(神の信仰は善良な人間となることを追求するものではない。)それでは、こうした人々は、どのような人間であるべきであろうか。(こうした人々は、条件を満たした、神の被造物であるべきである。)(こうした人々は誠実で無ければならない。)それ以外に回答はあるだろうか。(神の采配に服従し、神を真に信仰し、愛することが出来る人間になるべきである。)(良心と分別を持ち、真に神に従うことが出来る必要がある。)その他の回答はあるだろうか。(真に正しく神を知ると、人間は神を神として振る舞うことができるようになり、その後永遠に神が神であること、人間が被造物であり、人間は神を崇拝すべきであることを知り、その身分を堅持するようになる。)素晴らしい。その他の者の意見を聞こう。(神との交わりにより、人間は万物を支配する神の権威を知り、神が万物の支配者であられることを確認することが可能となり、それによって日々神が人間のために用意された環境に従い、神が人間に与えられた使命に真に従うことが可能となる。)(人間は神を知っており、したがって最終的には真に神に従い、敬い、邪悪を避ける人間となることができる。)それは正しい。
場所:
日本
2019年5月5日日曜日
中国における宗教迫害の実録 その1「犯罪者は誰だ?」 日本語吹き替え 完全な映画のHD2018
中国における宗教迫害の実録 その1「犯罪者は誰だ?」 日本語吹き替え 完全な映画のHD2018
中国共産党は1949年に中国本土において政権を握って以来、宗教信仰を止むことなく迫害し続けてきました。彼らは狂気のようになって、クリスチャンたちを逮捕、殺害し、中国で活動していた宣教師たちを国外へ追放、虐待しました。また数え切れないほどの聖書を没収、廃棄処分し、教会の建物を封鎖したり破壊したりして、全ての家の教会(家庭集会)を根絶しようとしてきました。
このドキュメンタリーは、神への信仰と本分の遂行の故に中国共産党政府によって逮捕され、拷問を受け、そのひどい虐待によって死亡した、中国人クリスチャン周海江氏の実体験を描写します。周海江氏の死後、彼の家族もまた中国共産党によって監視され、脅迫され、恐怖に陥れられました。家族は亡き周海江氏のために法による正しい裁きを得ることはおろか、中国共産党の迫害によって、ばらばらに散らされてしまいました。
もっと見る:中国における宗教迫害の実録 その2「夜明け前の暗闇」 日本語吹き替え 完全な映画のHD2018
2019年5月3日金曜日
全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 6
3) 神に付き従う者の生死の周期
次に、神に付き従う人々の生死周期について話をする。これはあなたがたに関連する事柄なので、注意して聞いて欲しい。まず、神を信じる人々は、どのような種類に区分することができるかを検討しよう。神を信じる人々は、神の選民と、奉仕者という2種類に区分される。まずは、限られた人数しか居ない、神の選民について話をする。「神の選民」とは何を指すであろうか。神が万物を創造し、人類が現れた時、神は神に付き従うひとつのグループの人々を選び、その者達を「神の選民」と呼んだ。神がこれらの者を選ぶ際には、特別な範囲と意味がある。その範囲とは、神が重要な業を行う時、神の選民はそこに現れる必要がある。これが、神の選民の、ひとつ目の特別な部分である。それでは、神の選民の意味は何であろうか。神によりこれらの者が選ばれたということは、神の選民に大きな意味があることを意味する。つまり、神はこの者達を完全な存在とすることを望み、この者達を完璧な存在とし、神が経営の業を完了した後、神はこの者達を自身のものとする。この意味は偉大では無かろうか。したがって、これらの選民は神にとって極めて重要である。なぜなら、神はこれらの者を自身のものとしようと考えているからである。これに対し、奉仕者については、神の予定説の話を中断し、まず奉仕者の由来について話をする。「奉仕者」という言葉の意味は、奉仕を行う者である。奉仕を行う者は、長期的に、あるいは恒常的にではなく、一時的にその役割に起用された者である。奉仕者の大部分が、信仰の無い者のうちから選ばれる。奉仕者が地上に現れる時は、その者が神の業において奉仕者としての任務を命じられた時である。奉仕者は、前世において動物であった者である場合や、信仰の無い者であった場合もある。これが奉仕者の由来である。
それでは、神の選民の話に戻る。神の選民は、死んだ時に信仰の無い者や様々な宗教の信者とは全く異なる場所へ行く。その場所は、神の選民が天使と神の使いに付き添われ、神自身が管理している場所である。この場所において、神の選民は自らの目で神を見ることは出来ないが、その場所は霊的世界において他のどの場所とも異なる場所である。そこが、神の選民が死後に行く場所である。神の選民が死んだ時もまた、神の使いによる厳格な調査の対象となる。それでは、何が調査されるのであろうか。神の使いは、神の選民の生涯全体について、神の選民が神に反抗したり神を呪ったりしたことや、重度の罪や悪業を行うことが無かったかを調査する。この調査により、その者がそこを去るか、そこに留まるかが決定される。ここで「去る」、とは何を意味するであろうか。また、「留まる」、とは何を意味するであろうか。「去る」とは、彼らの行動に基づき、神の選民として留まることができるかどうかを意味する。「留まる」とは、終わりの日に、神により完全な存在となる人々として留まることができる、ということを意味する。留まる者について、神は特別な采配を行う。神の業の各期間において、神はそうした人々を送り、使徒としての役割を担わせるか、あるいは教会を復活させるか、教会に奉仕させる。しかし、こうした業を行う事が出来る人々は、何度も生まれ変わる信仰の無い人々ほど頻繁に生まれ変わらず、そうした人々は神の業の必要性と段階に従って地上へと戻り、頻繁に生まれ変わることは無い。それでは、選民の生まれ変わりの時期には、規則があるだろうか。神の選民は数年ごとに生まれ変わるか、神の選民は、そうした頻度で生まれ変わるか、というと、そうしたことは無い。それは何に基づくものであろうか。それは神の業や、業の段階、神の必要性に基づき、規則は無い。唯一の規則は何であろうか。神が終わりの日に業の最終段階を行う時、神の選民は、全員人間の世界に現れる。選民が全員現れたとき、それは選民が最後に生まれ変わるときである。それは何故であろうか。これは、神の業の最終段階において実現されるべき結果に基づく。この業の最終段階において、神はこうした選民達を、全員完全な存在とする。それは何を意味するであろうか。もし、その最終段階において選民が完全な存在にされるのであれば、選民は従前のように生まれ変わることは無い。人間として存在する過程と生まれ変わりは、完了する。このことは、留まる者に関連する。それでは、留まることの出来ない者は、どこへ行くのであろうか。留まることの出来ない者は、その者に適切な場所へ行く。まず、他の者と同様、こうした者も、自分の邪悪な行いや犯した過ちや罪の結果として罰を受ける。こうした者が罰せられた後、神はこうした者を信仰の無い人々の所へと送り、状況に応じて信仰の無い者や様々な宗教の信者と同じ所へと送る采配を行う。つまり、こうした者には2つの選択肢がある。その1つは、罰を受けた後、ある宗教の信者として生きること、もう1つは、信仰の無い者となることである。信仰の無い者となった場合、こうした者は全ての機会を失う。しかるに、たとえばキリスト教などの信者となった場合、こうした者には依然として神の選民に戻る機会がある。このことには、極めて複雑な関係がある。簡潔に言うと、神の選民が神に反する行為を行った場合、こうした者は他の者と同様に罰せられる。たとえば、先述したパウロは、罰を受けた者の例である。わたしが言っていることの意味が理解できるであろうか。神の選民の範囲は、一定であろうか。(ほぼ一定である。)ほぼ一定であるが、わずかに一定でない部分がある。それは何故であろうか。それは、選民が悪業を行ったからである。ここでは最も分かりやすい例として、悪業を行うことを挙げた。こうした選民が悪業を行うと、神はその選民を獲得したいと思わなくなり、そうなった時、神はその選民を様々な人々と一緒にし、その選民には望みが無くなり、選民にとって戻ることが困難となる。これは、神の選民の生死周期と関連することである。
次に、奉仕者の生死周期について話をする。奉仕者については話をしたが、奉仕者の起源は何であるだろうか。(信仰の無い者が起源であったり、動物が起源であったりする。)こうした奉仕者は信仰の無い者や動物から生まれ変わる。業の最終段階となると、神は信仰の無い者から奉仕者達を選択するが、その奉仕者達は特別な存在である。神が奉仕者を選ぶのは、奉仕者を神の業に従事させることを目的とする。「奉仕」という言葉は、それほど美しいものでも、誰かが望むようなものでも無いが、その対象となる者を検討する必要がある。神の奉仕者の存在には、特別な意味がある。奉仕者は神により選択された者であるので、その役割を果たせるものは他には居らず、そのことに奉仕者の存在の意味がある。それでは、奉仕者の役割は何であろうか。それは、神の選民に奉仕することである。奉仕者の役割は、主に神の業のために仕え、協調し、神の選民を完全な存在とする神の業に協力することである。奉仕者が働いているか、業を行っているか、任務を遂行しているかを問わず、神が奉仕者に対して要求するのは何であろうか。神の奉仕者に対する要求事項は多いであろうか。(神は奉仕者が忠実であることを要求される。)奉仕者もまた忠実である必要がある。あなたの起源や、神があなたを選んだ理由を問わず、あなたは忠実である必要がある。あなたは、神や、神があなたに託した事柄、あなたが担当する業や行う任務に対して忠実である必要がある。奉仕者が忠実であり、神を満足させることが出来る場合、その奉仕者の終わりは、どのようなものとなるであろうか。こうした奉仕者は、留まることができる。留まる奉仕者たることは、祝福ではなかろうか。留まるということは、何を意味するであろうか。その祝福は何を意味するであろうか。奉仕者の地位は、神の選民と異なるように思われる。しかし、実際には、その生涯において奉仕者が享受するものは、神の選民と同じではなかろうか。少なくとも、その生涯において享受するものは同じである。それについては異論が無いであろう。神の言葉、神の恵み、神に与えられたもの、神の祝福などを享受しない者は居るであろうか。全ての人々が、そうしたものの豊かさを享受する。奉仕者の身分は奉仕者であるが、神にとって、奉仕者は神が造った万物のひとつであり、単にその者の役割が奉仕者であるというだけである。あなたに尋ねるが、神に造られたものとして、奉仕者と神の選民との間に相違点はあるだろうか。事実上、そうした相違は無い。名目上、両者が果たす役割については相違があり、本質にも相違があるが、神は両者を差別しない。それでは、これらの人々が奉仕者に定められているのは何故だろうか。それを理解する必要がある。奉仕者は、信仰の無い者に由来する。信仰の無い者に関する話によれば、そうした者の従前は好ましくない事が分かる。奉仕者は全員かつて無神論者であり、神を信じず、神や真理、肯定的な物事に敵意を抱いていた。過去において奉仕者は神を信じず、神が存在することを信じていなかったが、それならば、奉仕者は神の言葉を理解できるだろうか。大まかに言えば、奉仕者は理解できないと言える。ちょうど動物が人間の言葉を理解できないように、奉仕者は神の言葉や神の要求、神がそうした要求をする理由などを理解できず、こうした事柄は奉仕者にとって理解不能であり、奉仕者はそうした物事を知らないままである。そのため、奉仕者はわたしたちの言ういのちを持っていない。いのち無くして、人間は真理を理解できるであろうか。奉仕者は真理を得ているであろうか。奉仕者には神の言葉の経験や認識があるであろうか。無論そのようなものは無い。これが奉仕者の由来である。しかし、神はこうした人々を奉仕者とするので、やはり神には奉仕者に対する必要条件の基準がある。神は奉仕者を無下にすることも、いい加減な姿勢を取ることも無い。奉仕者は神の言葉を理解できず、いのちも無いにもかかわらず、神は依然として奉仕者を親切に扱い、また奉仕者に対する神の必要条件の基準が存在する。そうした基準は、たった今話をした通り、神に対して忠実であること、神の言葉に従うことである。奉仕を行うにあたっては、必要に応じて行わなくてはならず、また、最後まで続けて行わなくてはならない。あなたが最後まで奉仕可能であり、忠実な奉仕者であり、最後まで続けて奉仕可能であり、かつ神により託された物事を完遂できる場合、あなたは価値のある人生を送り、留まることが出来るであろう。それに加えてもう少し努力し、神を知る取り組みを倍増させ、神に関する認識を多少話すことが可能で、神を証しすることが可能で、更には神の心に関して何かしら理解し、神の業に協力可能であり、神の心を多少心に留めることが可能である場合、その奉仕者の運命は変わるであろう。それでは、その運命の変化とは何であろうか。こうした奉仕者は、留まることができるのみでは無くなる。あなたの行動と個人的な熱意と追求に基づき、神はあなたを選民とするであろう。これが、その運命の変化である。奉仕者にとって、この変化による最大の利益は何であろうか。それは、神の選民となることが可能であることである。それでは、神の選民となることに、どのような意味があるであろうか。それは、信仰の無い者のように、動物として生まれ変わる必要が無くなる、ということである。これは良いことではないか。これは良い知らせである。つまり、奉仕者は鍛錬される。奉仕者は、神が奉仕するよう定められた場合に永遠に奉仕を続ける、ということは、必ずしも無い。個人の行動に基づき、神はあなたを異なる方法で扱い、対応する。
しかし、最後の時まで奉仕出来ない奉仕者も居る。途中で諦めて神を捨てる奉仕者、悪業を多数行う奉仕者、さらには神の業に対して甚大な害を与える奉仕者、神を呪う奉仕者さえも居る。そして、そうした取り返しのつかない悪影響の結果は、どのようなものとなるであろうか。こうした邪悪な行動の結果、その奉仕者の任務を解除される。つまり、奉仕中における行動が極めて悪く、度が過ぎた場合、あるいはあなたの奉仕が基準以下であることを神が知った場合、神はあなたの奉仕者としての資格を剥奪し、あなたが奉仕するのを許さず、あなたを神の前、神の家から消滅させる。あなたは奉仕したくないのではないのか。常に邪悪な行動をしたいと願っているのではないのか。常に不忠ではないのか。そうであれば、簡単な解決策が実施される。それは、あなたが奉仕する資格が、剥奪される、ということである。神にとって、奉仕者から奉仕する資格を剥奪することは、奉仕者の終わりの時が宣告されることを意味し、したがってこうした奉仕者は神に奉仕する資格が無くなり、神はそうした者の奉仕を必要としなくなり、こうした者がいかに美辞麗句を並べても無駄である。このような事態となった場合は、そうした状況から回復することは不可能となり、そうした奉仕者は元に戻ることが出来なくなる。それでは、神はこうした奉仕者をどのように扱うであろうか。神は単にこうした者の奉仕を停止するだけか、というと、そうではない。単にこうした者を留まらせないようにするだけか、あるいはこうした者を一箇所に移動させ、改善するのを待つか、というと、そのようなことは無い。実のところ、神は奉仕者に対し、そこまでの愛情をかけない。したがって、神に奉仕する際にそうした態度である場合、神は、その態度の結果として、その者が奉仕する資格を剥奪し、その者を再び信仰の無い者の所へと戻す。それでは、信仰の無い者の所に戻された奉仕者の運命は、どのようなものであろうか。その運命は信仰の無い者と同じであり、動物として生まれ変わり、霊的世界において信仰の無い者の罰を受ける。神はその罰に対し、個人的な関心を示さない。なぜなら、その者は神の業との関係が無くなったからである。それは、その者にとって神を信仰する生活の終焉となるのみならず、その者自身の運命の終焉であり、その者の運命の宣告であるので、奉仕者が劣悪な奉仕を行った場合、その者は自分自身でその報いを受ける必要がある。奉仕者が最後まで奉仕できなかった場合、あるいは途中で奉仕する資格を剥奪された場合、その者は信仰の無い者の所に戻される。信仰の無い者の所に戻された場合、その者は家畜や知性や理性の無い人々と同様に扱われる。このように説明すれば、あなたがたにも理解できるであろう。
これが、神の選民と奉仕者の生死の周期を神が取り扱う方法である。こうした話を聞いて、あなたがたはどう感じているであろうか。今話をした、神の選民と奉仕者に関する事項を、嘗てわたしが話したことはあっただろうか。実は、嘗て話をしたことがあるが、あなたがたは覚えていない。神は、神の選民と、奉仕者に対して義である。あらゆる面において、神は義であるが、それについては何も疑う余地が無い。おそらく、「それならば、神が選民に対して寛容であるのは何故か。また神が奉仕者に対し、少ししか寛容でないのは何故か。」と言う者が居るであろう。誰か奉仕者の肩を持ちたい者は居るだろうか。「神は奉仕者に対して追加で時間を与え、もう少し寛容であることが出来ないだろうか。」こうした発言は正しいであろうか。(誤っている。)何故それは誤っているのであろうか。(奉仕者とされたことだけでも、その厚意を示すものであるから。)実際には、その者が奉仕できることだけでも、その厚意を示すものであるからである。「奉仕者」という言葉も、奉仕者の働きも無かったとしたら、そうした奉仕者は、どこに居るはずであったであろうか。その場合、奉仕者は、信仰の無い者の所で、家畜同様に生き、死んでいたはずである。神の前、神の家に来ることが許されている奉仕者達は、何と大きな恵みを享受していることであろう。これは極めて大きな恵みである。神があなたに奉仕する機会を与えなかったとしたら、あなたには神の前に来る機会は一切無かったであろう。少なくとも、あなたが仏教徒であって、永遠の命を得たとしても、せいぜい霊的世界の使い走りとなる程度であり、神に会うことも、神の声や言葉を聞くことは無く、また神の愛と祝福を感じることも、神と対面することも、まず出来ないであろう。仏教徒には、単純な使命があるのみである。仏教徒は神を知る事が出来ず、盲目的に服従するのみであるが、奉仕者はこの段階の業において多くの物事を得る。まず、奉仕者は、神と対面し、神の声や言葉を聞き、神が人間に与える恵みと祝福を体験することができる。さらに、奉仕者は神に与えた言葉や真理を享受することができる。奉仕者が得るものは、実に多い。したがって、もしあなたが奉仕者として正しい取り組みを行えなかったとしたら、神はあなたを奉仕者として留めるであろうか。神があなたに要求することは、極めて少ない。神はあなたを留めることが出来ない。あなたは神が求めている事柄を何も正しく行わず、自分の本分を尽くすことも無かったならば、神があなたを留めておくことが出来ないのは、当然である。これが神の義なる性質である。神があなたを甘やかすことは無いが、あなたを差別することも無い。神はこのような原則に従って行動する。神は、あらゆる人間や被造物に対して、このように行動する。
霊的世界については、様々な生き物が誤った行動を取った場合、あるいは任務を適切に遂行しなかった場合、神はそれに応じた天の命令と規則をもってそうした生き物に対処する。これは絶対的な事柄である。したがって、神の数千年にわたる経営の業の期間においては、過ちを犯した執行官の一部は排除され、一部は現在も拘留されて罰を受けている。これは、霊的世界において、生ける全てのものにとって不可避なことがらである。ある者が何かしらの過ちを犯したり、邪悪な行動を取った場合、その者は罰せられるが、これは神の選民や奉仕者に対する神の姿勢と全く同じである。したがって、それが霊的世界であるか、物質世界であるかを問わず、神が業を行う原則は変わらない。あなたが神の業を理解できるかどうかを問わず、その業の原則は変わることが無い。神の万物に対する姿勢と処遇には、一貫して同じ原則がある。これは変わることが無い。神は、信仰の無い者のうち、比較的真面目に生活している者に対しては親切であり、また様々な宗教の信者のうち、行いが正しく、悪業を行わない者から機会を奪われることは無く、こうした者は神が経営している全ての物事において役割を担うこと、なすべき事を行うことを許されている。同様にして、神に付き従う者、神の選民についても、神は差別すること無く、神の原則に従う。神は、心から神に従うことの出来る者全てに対して親切であり、またその者を愛する。ただし、信仰の無い者、様々な宗教の信者、そして神の選民といった様々な種類の人々について、神が与える物事は異なる。たとえば信仰の無い者については、こうした者は神を信じておらず、神はこうした者を家畜と考えているにもかかわらず、そうした者それぞれに食糧や住居、通常の生死周期などを与えている。邪悪な行いをする者は罰せられ、善い行いをするものは祝福されて神の親切を受ける、といった状況である。信仰のある者については、生まれ変わる度に、信仰上の教訓を遵守する事が出来る場合、神はそうした数回の生まれ変わりの後、最終的に神の宣言を与える。同様にして、この場に居る者各人についても、神の選民であるか、奉仕者であるかを問わず、神はその者に同じ指針を適用され、神が定めた規則と行政命令に従ってその終わりを決定する。様々な種類の人々のうち、各種宗教の信者の人々について見ると、神はそうした人々に生活環境を与えているであろうか。ユダヤ教はどこに存在するであろうか。神は嘗て、ユダヤ教を妨げたことがあっただろうか。そうしたことは一切ない。それでは、キリスト教はどうであろうか。神は少しも妨げたことは無い。神はこうした信徒の人々が独自の手続に従うことを許し、そうした信徒に言葉を述べたことも、導き示したこともなく、さらには何も明示したことも無く、「それが正しいと思うのであれば、そう信じなさい。」という姿勢でいる。カトリックの教徒はマリアを信仰し、マリアを通してイエスに知らせが伝えられたと信じている。それがカトリックの教徒の信条である。それでは、神は嘗て、カトリックの信仰を正したことがあっただろうか。神はこうした信徒に行動の自由を与え、こうした人々に全く留意することなく、こうした信徒に一定の生活空間を与えている。それでは、イスラム教徒や仏教徒に対しても、神は同様であろうか。神はそれぞれの信仰を阻害せず、そうした信徒にも領域を設け、その生活空間で生活することを許している。全て十分な秩序がある。それでは、これらのことから何が分かるであろうか。それは、神には権威があるが、神はその権威を濫用することが無い、ということである。神は万物の秩序を完璧に調整し、系統的であり、そこには神の知恵と全能性がある。
本日は新たに特別な事項、すなわち霊的世界に関する事項について話をしているが、それは神の霊的世界に対する管理と支配に関する一側面である。こうした事を理解していないと、「それに関する事柄は、全て神秘であり、私達がいのちに入ることとは無関係である。こうしたことは人間が実際にどのように生活するかとは切り離されており、理解する必要がなく、聞きたくない。こうしたことは神を知ることとは全く関連性が無い。」などと言うかもしれない。あなたがたは、こうした考え方に問題があると思うだろうか。これは正しいであろうか。こうした考え方は正しくない上、深刻な問題がある。それは、神が万物を支配する方法を理解したいと思うのであれば、単に目に見える物事と考えただけで得ることが可能な物事だけを理解するだけでは不十分だからである。それには目に見えないながらも、目に見える世界と不可分の関連性がある世界も理解する必要がある。このことは、神の統治と、本日話をしている事項「神は万物の生命の源である」にも関連し、それらに関する情報である。この情報が無ければ、神が万物の生命の源であるのは何故かに関する人々の認識には、誤りや不足がある。したがって、本日話をした事項は、従前話をした内容、また「神は万物の生命の源である」の内容を締めくくるものである、と言えるであろう。これを理解した上で、この内容により神を知ることが出来るであろうか。それよりも重要な事は何であろうか。本日、わたしは、奉仕者の秘密という、極めて重要な情報をあなたがたに伝えた。あなたがたはこうした事項の話を好み、真剣に考慮していることは知っているが、本日話をした事に満足しているであろうか。(満足した。) その他の物事に対して強い印象を受けないかも知れないが、特に奉仕者に関する話は、あなたがたの魂に触れるので、強く印象に残ったであろう。
2019年4月29日月曜日
全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 5
2) 各種宗教を信仰する者の生死の周期
これまでは、最初の類型の人々である、信仰の無い人々の生死の周期の話をした。ここからは、2番目の類型の人々である、各種宗教の信者の話をする。「各種宗教を信仰する者の生死の周期」もまた重要事項であり、これについての知識を得ることは、便宜となる。まずは、「信仰する者」の「信仰」が何を指すかについて話をする。「信仰」とは、ユダヤ教、キリスト教、カトリック、イスラム教、仏教の5大宗教を指す。信仰の無い者に加え、これらの5大宗教を信仰する者は、世界人口のうち大きな割合を占める。これら5大宗教では、その信仰を職業とする者、すなわち信者のうち、宗教を専業として従事する者は少ないが、これらの宗教の信者は多数存在する。これらの宗教の信者は、死後に別の場所へ行く。誰と「別」であるか、というと、それは先般話をした信仰の無い者と別、ということである。5大宗教の信者が死ぬと、信仰の無い者とは異なる場所へ行く。霊的世界では、こうした信者についても、死ぬまでの全ての行いに基づいて裁き、それに続いてその裁きに従って処分される。しかし、信者の人々が、別の場所に行き処分されるのは何故であろうか。それには、重要な理由がある。その理由とは何であろうか。ひとつ例を挙げて説明する。
仏教を例に挙げる。あなたがたに事実を述べると、第一に、仏教徒とは、仏教に改宗した者であり、その教義を知る者をさす。仏教徒が剃髪して僧や尼僧となった場合、それは俗世や、人間の世界の喧噪から遠くはなれて行ったことを意味する。こうした仏教徒は、毎日読経し、精進料理を食べ、苦行を行い、暗いバターランプの僅かな明かりと共に過ごす。仏教徒は、一生をこのようにして過ごす。仏教徒の人生が終わる時、自分の生涯をまとめるが、死後に自分がどこへ行くか、誰と会うか、生涯がどのように終わるかは知らず、こうした事柄について明瞭に理解していない。仏教徒は、ひたすら信仰のみで盲目的に一生を過ごし、盲目的な願いと理想を抱いてこの世を去る。それが、仏教徒の肉体的生涯の終焉であり、その後は霊的世界の自分が生まれてきた場所へと還る。この仏教徒が生まれ変わってこの世に戻り、修行を続行するかどうかは、その者の前世における行いや自己修養により決まる。生涯のうちに誤った行いが無かった者は、すぐに生まれ変わって地上に戻り、そこで再び剃髪して僧や尼僧となる。仏教徒は、3回から7回、僧や尼僧になる。初回時の過程と同様にして、仏教徒の身体は自己修養され、その後死ぬと霊界に戻り、そこで検査が行われた後、問題が無ければ、再び人間の世界へと戻り、自己修養を継続する。すなわち、再び仏教徒として改宗し、自己修養を続ける。仏教徒は、3回から7回生まれ変わった後、肉体の生涯が終わるたびに戻っていた霊的世界へと、もう一度戻る。人間の世界における仏教徒の様々な資格や行動が霊的世界における天の命令に準じている場合、その時点以降、その仏教徒は霊的世界に留まる。その仏教徒がそれ以上人間として生まれ変わることも、地上における悪業に対する罰を受ける恐れも無くなる。この仏教徒がこの工程を経験することは、二度と無い。その代わりに、この仏教徒は状況に応じて霊界におけるある地位を得るが、それが仏教徒の言う永遠の命を得ることである。これで、あなたがたはこのことを理解したであろう。それでは、仏教の「解脱」とは何を指すであろうか。解脱とは、霊的世界の執行官となり、それ以降の生まれ変わりや罰の可能性が無くなることを意味する。さらに、解脱とは、輪廻により人間となることの苦悶が無くなることを意味する。それでは、その仏教徒が動物に生まれ変わる可能性はあるであろうか。可能性は皆無である。そのことには、どのような意味があるであろうか。それは、霊的世界で、ある役割を継続的に担い、人間として生まれ変わることが無くなることを意味する。これが解脱の一例である。
それでは、解脱に達しなかった仏教徒はどうなるであろうか。こうした仏教徒が霊的世界に戻ると、検査され、担当する執行官により検証が行われ、仏教で定められた通り熱心に修練せず、誠心誠意をもって読経せず、むしろ悪業や不道徳な行いを多数行ったと判断される。こうした仏教徒は、霊的世界に戻った時にその邪悪な行いについて裁きが下された後、罰せられる。これについては、例外は一切無い。それでは、こうした人々が永遠の命を得るのは何時であろうか。こうした人々がその人生において邪悪な事を全く行わなかった場合、霊的世界に戻った後、生前に全く誤った行いが無かったと判断される。よし。仏教徒は生まれ変わり続け、読経を続け、バターランプのほのかな明かりととともに毎日を過ごし、殺生を行わず、肉を食べず、人間の世界に入ることなく、人間の問題から遠く離れ、他人と言い争うことが一切無い。この過程の中で、仏教徒は邪悪な行いをせず、その後霊的世界に戻り、あらゆる行動や態度が検証され、人間の世界に再び送られるという周期が3回から7回反復される。この間に何も問題が無ければ、永遠の命の獲得には何も影響が無く、成功を収める。これは、信仰のある人々の生死周期の特徴である。信仰のある人々は、永遠の命を得て、霊的世界での地位を獲得することが可能である。信仰のある人々と、信仰の無い人々の相違点は、これである。第一に、霊的世界で地位を得ることの出来る人々が地上で生きている時における行動は、どのようなものであろうか。こうした人々は、悪業を一切行ってはならない。こうした人々は、殺人や放火、強姦、略奪などを行ってはならない。こうした人々が詐欺やごまかし、窃盗、強盗などを行った場合、永遠の命を得ることは出来ない。つまり、悪業に何らかの形で関与した場合、霊的世界の罰から逃れることは出来ない。霊的世界では、永遠の命を得る仏教徒に対する適切な采配が行われる。仏教徒は、仏教と蒼天を信仰しているものと見られる人々を監督し、仏教徒は管轄権を与えられ、信仰の無い人々を管理するか、あるいは下級の執行官となることがある。こうした任命は、その魂の性質に従って行われる。これが仏教の一例である。
先述した5大宗教のうち、キリスト教は少し特殊である。それでは、キリスト教の特殊性とは何であろうか。キリスト教徒は、真の神を信仰する人々である。真の神を信仰する人々がここで挙げられているのは、何故であろうか。なぜなら、キリスト教では、神が存在することを認めているにすぎず、神に反抗し、敵意を抱いているからである。キリスト教徒は、キリストを再び十字架に架け、終わりの日における神の業に敵対する立場を取り、その結果として宗教団体のひとつに零落している。キリスト教は宗教の一種であるため、信仰のみに関連することは確実である。キリスト教は、一種の儀式であり、教派であり、宗教であり、真に神に付き従う信仰とは別のものである。わたしがキリスト教を5大宗教のひとつに挙げたのは、キリスト教がユダヤ教、仏教、イスラム教と同じレベルにまで零落しているからである。大部分のキリスト教徒は、神が存在することも、神が万物を支配していることも信じておらず、いわんや神の実在を信じているということは無い。その代わりに、キリスト教徒は、単に聖句を用いて神学を論じ、神学を用いて人間に対して親切にすること、辛苦に耐えること、善行を行うよう諭すのみである。それがキリスト教という宗教である。つまり、神学的理論のみに集中し、人間を経営し、救う神の業とは全く関係なく、神によって認められていない神に付き従う人々の宗教である。しかし、神には、そうしたキリスト教徒に対する姿勢の原則がある。神が信仰の無い人々と同様に、気の向くままにキリスト教徒を取り扱うことは無い。キリスト教徒に対する神の姿勢は、仏教徒に対する姿勢と同様である。キリスト教徒が生きている間に自己鍛錬を行い、十戒その他の訓戒を遵守し、自らの行動に関してキリスト教徒に求められる律法に従い、それを生涯全体にわたって行う事が出来た場合、キリスト教徒は、生と死の周期を同じ期間くり返した後、いわゆる携挙を真に得ることができる。この「携挙」に達した後、キリスト教徒は霊的世界に留まり、そこで何らかの地位を得て執行官となる。同様に、キリスト教徒が地上で悪業を行った場合、罪深く、多くの罪を犯した場合、様々な重さの罰や鍛錬を受けることは免れない。仏教においては「永遠の命」を得ることは、涅槃に入ることを意味するが、キリスト教では、それを何と呼ぶであろうか。それは「天国に入る」、そして「携挙」されると言われる。真に「携挙」された者もまた生と死の周期を3回から7回にわたりくり返し、その後にあたかも寝ていたかのように死んで霊的世界に辿り着く。こうした者は、基準を満たしていれば何らかの役割を担い、地上の人々とは異なり、単純に生まれ変わることは無く、慣例にしたがって単純に生まれ変わることもない。
これらの宗教すべてにおいては、信者が議論し、獲得しようとする終焉は、仏教で言う永遠の命の獲得と同じである。ただ、その目的を達成する方法は様々である。これらの宗教は、すべて同種である。これらの宗教の信者のうち、信仰上の教えを遵守して行動できる者、そうした一部の信者に対し、神は相応の終着点を与え、適切に対処する。そうした事柄は、全て合理的であるが、人間の想像とは異なるものである。ここまでキリスト教徒がどうなるかに関する話を聞いて、あなたがたはどう感じるであろうか。あなたがたは、キリスト教徒を哀れに思うであろうか。あなたがたは、キリスト教徒に同情するであろうか。(多少同情する。)これについては、何も出来ない。キリスト教徒は自分自身を非難するほかない。わたしがこう述べるのは何故であろうか。神の業は真実であり、神は生きて実在し、神の業は全て人間それぞれを対象とするものであるが、キリスト教徒がそれを受け容れないのは何故だろうか。キリスト教徒が気が狂ったように神に反抗し、神を迫害するのは何故だろうか。キリスト教徒には、このような終焉があって幸運である。それならば、何故あなたがたはキリスト教徒を哀れむのであろうか。キリスト教徒がこのような処遇を受けることは、大いなる寛大さの現れである。キリスト教徒が神に反抗する度合いに基づけば、キリスト教徒は滅ぼされるべきである。しかし神はそうせずに、キリスト教を普通の宗教と同様のものとして扱うのみである。さて、その他の宗教についても、詳細を話す必要があるだろうか。その他の宗教の理念は、どのようなものであろうか。それは、人間が思いやりの心を持ち、悪業を行わないことである。それは、多くの苦難を背負い、邪悪を避け、好感の持てる話をし、善行を行い、他人の悪口を言わず、他人に対する偏見を持たず、論争を避け、善行を行い、善人となることである。大部分の宗教の教義は、こうしたものである。そうしたわけで、こうした信仰のある者、すなわち様々な宗教や宗派の信者が、信仰上の教えを遵守することが出来る場合、そうした信者が地上に居る間は大きな過ちや罪を犯すことが無く、3回から7回生まれ変わった後、そうした教えや原則を遵守出来る信者の人々は、概して霊的世界に留まり、ある役割を担うようになる。それでは、こうした人々は大勢居るだろうか。善行を行い、信仰上の規則や掟を遵守することは、容易なことでは無い。仏教では、人間が肉を食べることを禁じているが、あなたはそれが出来るだろうか。一日中灰色の法衣をまとい、寺で読経しなければならないとしたら、あなたにそれが出来るだろうか。それは容易でないだろう。キリスト教には十戒その他の訓戒があるが、それらの訓戒等は容易に遵守できるものだろうか。それは容易ではない。他人の悪口を言わないこと。人間は、この定めを守ることが出来ないであろう。人間は自制できず、他人の悪口を言う。そして悪口を言った後は、それを取り消すことは出来ないが、そこで人間はどうするだろうか。人間は夜になると、自らの罪を告白する。人間は自制して他人の悪口を言わないでいることが出来ないので、悪口を言った後も心中に憎しみが残り、その上に他人を傷つけることを企む。要するに、こうした死んだ教義のなかで生活している人々にとって、罪を犯さず、邪悪な行いを避けることは容易ではない。そこで、全ての宗教において、永遠の命を得ることが出来る者は僅かしか居ない。極めて多くの人々がこれらの宗教を信仰しているのだから、霊的世界に留まり何らかの役割を得ることの出来る人間が多いだろうと、あなたは考える。しかし、永遠の命を得ることが出来る者はそれほど多くは居らず、ごく僅かしか居ない。信仰のある人々の生死周期の概要については、以上である。こうした人々と信仰の無い人々との相違点は、信仰のある人々は永遠の命を得ることが出来る、ということである。
2019年4月27日土曜日
朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「ぺテロはどのようにイエスを知るようになったか」
朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「ぺテロはどのようにイエスを知るようになったか」
全能神は言われた「あなたがたは自分が歩く道について明確でなければならない。あなたがたがこれから歩く道について、神が完全にさせること、あなたが任されたことなどについても明確でなければならない。いつか、おそらくあなたがたが試されるとき、あなたがたがペテロの体験から霊感を得ることができるなら、あなたがたはペテロの道を歩こうとしていることを示している。ペテロは彼の真の信仰、愛、神への忠誠のために、神に褒められた、そしてそれは神が彼を完全にした彼の実直さ、彼の心の神へのあこがれであった。もしあなたが本当にペテロと同じ愛、信仰を持っているなら、イエスは必ずあなたを完全にしてくれるであろう。」
『言葉は肉において現れる』より
2019年4月11日木曜日
全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 4
信仰の無い者は、しばしば目に見える物全てが存在し、目に見えない物や人間から遠く離れた物は存在しないと考える。信仰の無い者は、「生死の周期」も「罰」も存在しないと考えたがり、良心の呵責無く罪を犯し、悪業を行い、その後罰を受け、動物に生まれ変わる。信仰の無い者のうち殆どの者が、この悪循環に陥っている。それは何故であろうか。それは、こうした人々は、生きる物全ての管理に対し、霊的世界が厳格であることを知らないからである。信じるかどうかを問わず、この事実は存在し、神の目により確認される物事の範囲から逃れられる人や物、天の命令や神の規則によるきまりや制限から逃れられる人や物は存在しない。したがって、あなたがた各人に、この簡単な例について話をする。神を信じるかどうかを問わず、罪を犯し、悪業を行うことは認められず、そうした行動には報いがある、ということは、絶対的である。金銭をめぐって他人に対して不正を行った者が罰せられる時、その罰は公平妥当であり、かつ義である。こうした典型的な行動は、霊的世界において神による規則と天の命令により罰せられ、いわんや強姦や強奪、詐欺や欺き、窃盗や強盗、殺人や放火など、重篤な犯罪や邪悪な行いに対しては、それにも増して様々な重さの罰の対象となる。それでは、こうした様々な重さの罰には、どのようなものがあるだろうか。その期間により重さが決まる罰もあれば、様々な方法で重さが決まる罰、生まれ変わるときの行き先で重さが決まる罰もある。たとえば、一部には、口汚い人がいる。ここで「口汚い」、とは何を意味するであろうか。それはしばしば他人に暴言を吐いたり、汚い言葉を使ったり、他人を罵倒するような言葉を使うことである。汚い言葉により示される事は何であろうか。それは、その人の心が汚れていることを示す。他人を罵倒する汚い言葉は、しばしばそうした人々が口にするが、そうした汚い言葉には、厳しい報いが伴う。そうした人々が死んで相応の罰を受けた後、口の利けない人として生まれ変わる可能性がある。一部の人々は生前極めて計算高く、他人を利用することが多い。そうした人々の手口は、極めて周到であり、他人を傷つけることを数多く行う。こうした人々が生まれ変わる時、知能や精神に障害がある者として生まれ変わる可能性がある。一部の人々は、他人のプライバシーを頻繁にのぞき見て、見るべきでは無い内情を見たり、知るべきでは無い事柄を知ったりすることが多々あるが、そうした人々は、生まれ変わると全盲者となる可能性がある。生前は短気で喧嘩をすることが多く、邪悪な行いを多数行った者は、それに準じて身体障害や手足の不自由を持って生まれ変わったり、背むしや斜頸となったり、肢体不自由になったり、一方の足が他方よりも短くなったりする。こうした人々は、この場合、生前に行った邪悪な行動の程度に基づいて、様々な罰の対象となっている。それでは、斜視の人々が居るのは何故だと言えるだろうか。斜視の人は多数居るであろうか。現在、斜視の人々が多数いる。そうした人々は、生前に目を使いすぎたり、悪業が多すぎたりしたために斜視となって生まれ変わり、重篤な場合は全盲者となる。斜視の人々を見るのは気持ちの良いものだろうか。斜視の人々は好印象を与えるであろうか。こうした人々は、顔立ちが美しく、肌がきれいで色が明るく、目が大きく二重だが、残念ながら片方の目が斜視となっている。斜視の人々は、どのように見えるであろうか。斜視はその者の表情に全面的な影響を与えるのではないか。こうした影響を受けている人々は、どのような人生を送るであろうか。斜視の人々は、他の人と会う時に「私は斜視だ。あまり頻繁に他人を見てはならない。他人に自分の目を見られたくない。私は前にかがんで話をする必要がある。相手の顔を見てはならない。」などと考えるであろう。斜視は、その人の物の見方や、相手の顔を見る能力に影響を与える。この点について、斜視の人々は目の機能を喪失していないだろうか。こうした人々の前世における行き過ぎた行為は、それにより贖われていないだろうか。したがって、こうした人々は、その次の人生では、従前ほど悪業を行わなくなる。これが報いである。
一部の人々は、生前には他の人々と仲良くできて、自分の周囲の人々や家族、友人、同僚やその関係者に対して親切な行為を多数行う。こうした人々は他人を助け、思いやりと配慮を与え、金銭的に支援し、他人はこうした人々を高く評価するが、こうした人々は、霊的世界に戻った時、罰を受けることはない。信仰の無い人々が何らかの方法で罰を免れるということは、その人々が極めて善人であったことを意味する。こうした人々は、神の存在を信じず、蒼天のみを信じる。こうした人々は、天に自分達を見守る魂があると信じているが、こうした人々が信じるのはそれが全てである。それでは、その結果はどうなるであろうか。こうした人々は極めて行いが良い。こうした人々は親切で思いやりがあり、最終的に霊的世界に戻ったとき、霊的世界ではこうした人々を極めて厚遇し、こうした人々はやがて生まれ変わる。それでは、こうした人々はどのような家庭に生まれるであろうか。その家庭は裕福では無いものの、家族生活は平和であり、家族の者同士は調和し、平穏で幸福な日々を送り、皆幸せで良い生活を送るであろう。こうした人々が成人すると、多数の息子と娘を授かり、大家族となって、子供達は皆才能に溢れて成功し、子供達とその家族は幸運に恵まれるであろう。そして、こうした結果は、その者の前世と密接に関連している。つまり、死後に生まれ変わって行く先まで、ある者の人生全体、すなわち、男になるか、女になるか、またその者の使命や将来の人生で経験すること、障壁や、どのような祝福を享受するか、誰に出会うか、何が起こるかについては、誰もそれを予測したり、回避したり、逃げ隠れしたり出来ない。すなわち、あなたの人生が決定された後は、あなたに何が起こるかについて、どれほど懸命に、またどのような方法を用いてそれを避けようとしたとしても、霊的世界で神により定められた人生の進路を外れることは決して出来ない。なぜなら、生まれ変わった時、あなたの運命は既に決定されているからである。それが良いか悪いかを問わず、全員がそれに直面し、前進し続ける必要がある。これは、この世に生きる者全員にとって不可避な問題であり、それよりも現実的な問題は存在しない。これらのことは全て理解できたであろう。
それを踏まえて、あなたがたは、信仰の無い者の生と死の周期について、神が極めて正確で厳格な検査と管理を行っていることを理解できるであろうか。まず、神は霊的世界における様々な天の命令や規則、組織を定め、そうした天の命令や規則、組織が宣言された後、それらは霊的世界の様々な役務を担当する者により、神が定めた通り厳密に施行され、敢えてそれらに違反する者は居ない。したがって、人間の世界における人間の生死の周期、そしてある者が動物として生まれ変わるか、人間として生まれ変わるかについては、その両方に法則が存在する。これらの法則は神に由来するため、敢えてそれに背く者は居らず、背くことが出来る者も居ない。人間が見ることの出来る物質世界が規則正しく秩序が保たれているのは、こうした神の統治と法則のためである。人間が全く見ることの出来ない別の世界と平和に共存し、そこで調和して生活出来るのは、こうした神の統治のためであり、これらは全て神の統治と不可分のものである。肉にある魂の命が死んだ後も、魂には命があるとすれば、神の管理が無かったとしたら、その魂はどうなるであろうか。その魂は様々な場所をさまよい、様々な所に入り込んで、人間の世界の生き物を害することすらあるであろう。こうした危害は人間だけでなく、植物や動物も対象となるが、最初に害を受けるのは、人間であろう。こうした魂が管理されておらず、人間に危害を加え、極めて邪悪な物事を行ったとしたら、霊的世界にこうした魂の適切な処遇も存在するであろう。事態が深刻な場合、その魂はやがて消滅し、破壊されるであろう。可能であれば、どこかに置かれた後に生まれ変わるであろう。つまり、霊的世界における様々な魂の管理は、様々な段階と規則に従って命じられ、実施されている。人間の物質世界が混沌としたものとならず、物質世界の人間が正常な精神と分別を持ち、肉体にあって秩序ある生活を送っているのは、こうした管理があるために他ならない。人間がそうした通常の生活を送ることによって初めて、肉体にあって生活する者は繁栄し、何世代にもわたって繁殖を続けることができる。
たった今話した事について、あなたがたはどう思うであろうか。そうした内容はあなたがたにとって新たなものであろうか。また、そのような話を聞いて、どう感じているであろうか。新しいということ以外に、何か感想はあるであろうか。答えて欲しい。(人間は正しく行動する必要があると思った。また神は偉大であられ、畏るべきお方であると感じた。)(神に対する敬意が増した。今後自分に何かあった時は一層注意しようと思う。自分の言動を向上させようと思う。) (神が様々な種類の人間の終わりの時をどのように扱われるかに関する神のお話を聞いて、神のご性質はいかなる反抗をも許されず、神を敬うべきであると感じた。また神が好まれる人間の種類、神が好まれない人間の種類について認識し、神が好まれる人間になりたいと思った。)この範囲に関して神の行動には原則があることを理解できたであろうか。神はどのような原則に従って行動しているであろうか。(神は人間の終わりの時を、その人間のすべての行いにしたがって決められる。) それは今話をした、信仰の無い人々の様々な終わりの時に関する事柄である。信仰の無い人々について、神の業が基づく原則は、善良を讃え、邪悪を罰するものであるだろうか。神の業には原則があることを理解したであろうか。あなたがたは、原則があるということを理解できるであろう。信仰の無い人々は、実際に神を信じて居らず、神の指揮に従わず、神の統治を認識しておらず、ましてや神を認めることなど無い。さらに深刻なことには、こうした人々は神を冒瀆し、神を呪い、神を信じる者に対して敵意を持っている。こうした人々は、神に対してそのような姿勢であるが、こうした人々に対する神の統治は、神の原則から逸脱することが無い。神は、神の原則と性質に従い、こうした人々を規則的に管理する。神は、こうした人々の敵意をどのように見なすか、というと、それを無知とみなす。そうしたわけで、神はこうした人々すなわち信仰の無い人々の大部分を、1回動物として生まれ変わらせられる。それではあなたに尋ねるが、神は信仰の無い人々をどのように見ているであろうか。(家畜として見ている。)神の目から見ると、こうした人々は、家畜の類いである。神は家畜を管理し、人間を管理するので、神はこの種の人々に対しても同じ原則がある。こうした人々に対する神の管理とこうした人々に対する神の業においても、やはり神の性質と神の万物支配の法則が存在することが分かる。これで、あなたがたはわたしが今話をした信仰の無い者を神が管理する原則における神の統治を理解したであろうか。神の義なる性質を理解したであろうか。(理解した。) あなたがたは神の統治と神の性質を理解した。つまり、神が取り扱う物が、万物のうち何であれ、神は神自身の原則と性質にしたがって業を行う。これは神の本質である。神は、こうした人々を家畜とみなすことで神が定めた規則や天の命令に何気なく反することは、決して無い。神は全く秩序を乱すことなく、原則に従って業を行い、神の業はいかなる要素にも影響されることが一切なく、業が何であるかを問わず、すべて神自身の原則に従うものである。これは、神には、いかなる創造物も持ち得る事の無い、神自身に特有の本質があるという事実により判断される。神は、神が造ったあらゆる物や人間、生き物について、その取り扱い、それに対する姿勢、経営、管理、支配について、誠実で、責任を持っており、決して不注意でいることはない。神は善良な人々に対して慈悲深く親切であり、邪悪な人々に対しては容赦ない罰を与える。そして様々な生き物については、人間の世界における、その時々の必要性に従い、時宜を得た規則的な方法で、適切な采配を行うので、そうした様々な生き物は、それぞれが受け持つ役割に従い、秩序をもって生まれ変わり、秩序をもって物質世界と霊的世界の間を行き来する。これは、人間が理解し、知るべきことである。
生き物の死、すなわち物理的な生命の終焉は、その生き物が物質世界から霊的世界へと移動したことを示す一方、物理的な生命の誕生は、生き物が霊的世界から物質世界に来て、その役割を負い、果たし始めるということを示す。それが生き物の出発であるか、到着であるかを問わず、そうした出発と到着は両方とも霊的世界における業と不可分である。ある者が物質世界に到来した時、霊的世界において、その者が生まれる家庭、その者が現れる時代、時期、そしてその者が担う役割に関して、その者に適した采配と定義は、神により既に完了されている。そうしたわけで、その者の生涯全体、その者の行動や、その者が進む方向性は、霊的世界における采配に従い、一切の誤り無く進行してゆく。その一方で、物理的な生命が終焉を迎える時、そして終焉のかたちと場所は、霊的世界においては明瞭で認識可能である。神は物質世界を支配し、また霊的世界を支配し、また神は通常における魂の生死の周期を遅延させることは一切無く、ある魂の生死の周期に関する采配において誤ることも一切無い。霊的世界の当局に仕える執行官は、それぞれ神の指示と支配に従い任務を遂行し、なすべき事を行う。そのため、人間の世界では、人間が認識するあらゆる物質的現象は秩序があり、混沌は一切存在しない。こうしたことは、すべて神の秩序ある万物支配と、神の権威による万物支配のおかげであり、神の支配下にある物事には、人間が生活する物質世界のほか、人類の背後にある目に見えない霊的世界がある。そうしたわけで、人間が良い生活を望み、好ましい環境を望むのであれば、物質世界全体において与えられることに加え、誰も見ることが出来ず、人間のためにあらゆる生き物を統治し、秩序のある霊的世界においても与えられる必要がある。ここまでの話で、神が万物の生命の源である、と言った時の、「万物」に対する意識と知識が増えたのではないだろうか。
一部の人々は、生前には他の人々と仲良くできて、自分の周囲の人々や家族、友人、同僚やその関係者に対して親切な行為を多数行う。こうした人々は他人を助け、思いやりと配慮を与え、金銭的に支援し、他人はこうした人々を高く評価するが、こうした人々は、霊的世界に戻った時、罰を受けることはない。信仰の無い人々が何らかの方法で罰を免れるということは、その人々が極めて善人であったことを意味する。こうした人々は、神の存在を信じず、蒼天のみを信じる。こうした人々は、天に自分達を見守る魂があると信じているが、こうした人々が信じるのはそれが全てである。それでは、その結果はどうなるであろうか。こうした人々は極めて行いが良い。こうした人々は親切で思いやりがあり、最終的に霊的世界に戻ったとき、霊的世界ではこうした人々を極めて厚遇し、こうした人々はやがて生まれ変わる。それでは、こうした人々はどのような家庭に生まれるであろうか。その家庭は裕福では無いものの、家族生活は平和であり、家族の者同士は調和し、平穏で幸福な日々を送り、皆幸せで良い生活を送るであろう。こうした人々が成人すると、多数の息子と娘を授かり、大家族となって、子供達は皆才能に溢れて成功し、子供達とその家族は幸運に恵まれるであろう。そして、こうした結果は、その者の前世と密接に関連している。つまり、死後に生まれ変わって行く先まで、ある者の人生全体、すなわち、男になるか、女になるか、またその者の使命や将来の人生で経験すること、障壁や、どのような祝福を享受するか、誰に出会うか、何が起こるかについては、誰もそれを予測したり、回避したり、逃げ隠れしたり出来ない。すなわち、あなたの人生が決定された後は、あなたに何が起こるかについて、どれほど懸命に、またどのような方法を用いてそれを避けようとしたとしても、霊的世界で神により定められた人生の進路を外れることは決して出来ない。なぜなら、生まれ変わった時、あなたの運命は既に決定されているからである。それが良いか悪いかを問わず、全員がそれに直面し、前進し続ける必要がある。これは、この世に生きる者全員にとって不可避な問題であり、それよりも現実的な問題は存在しない。これらのことは全て理解できたであろう。
それを踏まえて、あなたがたは、信仰の無い者の生と死の周期について、神が極めて正確で厳格な検査と管理を行っていることを理解できるであろうか。まず、神は霊的世界における様々な天の命令や規則、組織を定め、そうした天の命令や規則、組織が宣言された後、それらは霊的世界の様々な役務を担当する者により、神が定めた通り厳密に施行され、敢えてそれらに違反する者は居ない。したがって、人間の世界における人間の生死の周期、そしてある者が動物として生まれ変わるか、人間として生まれ変わるかについては、その両方に法則が存在する。これらの法則は神に由来するため、敢えてそれに背く者は居らず、背くことが出来る者も居ない。人間が見ることの出来る物質世界が規則正しく秩序が保たれているのは、こうした神の統治と法則のためである。人間が全く見ることの出来ない別の世界と平和に共存し、そこで調和して生活出来るのは、こうした神の統治のためであり、これらは全て神の統治と不可分のものである。肉にある魂の命が死んだ後も、魂には命があるとすれば、神の管理が無かったとしたら、その魂はどうなるであろうか。その魂は様々な場所をさまよい、様々な所に入り込んで、人間の世界の生き物を害することすらあるであろう。こうした危害は人間だけでなく、植物や動物も対象となるが、最初に害を受けるのは、人間であろう。こうした魂が管理されておらず、人間に危害を加え、極めて邪悪な物事を行ったとしたら、霊的世界にこうした魂の適切な処遇も存在するであろう。事態が深刻な場合、その魂はやがて消滅し、破壊されるであろう。可能であれば、どこかに置かれた後に生まれ変わるであろう。つまり、霊的世界における様々な魂の管理は、様々な段階と規則に従って命じられ、実施されている。人間の物質世界が混沌としたものとならず、物質世界の人間が正常な精神と分別を持ち、肉体にあって秩序ある生活を送っているのは、こうした管理があるために他ならない。人間がそうした通常の生活を送ることによって初めて、肉体にあって生活する者は繁栄し、何世代にもわたって繁殖を続けることができる。
たった今話した事について、あなたがたはどう思うであろうか。そうした内容はあなたがたにとって新たなものであろうか。また、そのような話を聞いて、どう感じているであろうか。新しいということ以外に、何か感想はあるであろうか。答えて欲しい。(人間は正しく行動する必要があると思った。また神は偉大であられ、畏るべきお方であると感じた。)(神に対する敬意が増した。今後自分に何かあった時は一層注意しようと思う。自分の言動を向上させようと思う。) (神が様々な種類の人間の終わりの時をどのように扱われるかに関する神のお話を聞いて、神のご性質はいかなる反抗をも許されず、神を敬うべきであると感じた。また神が好まれる人間の種類、神が好まれない人間の種類について認識し、神が好まれる人間になりたいと思った。)この範囲に関して神の行動には原則があることを理解できたであろうか。神はどのような原則に従って行動しているであろうか。(神は人間の終わりの時を、その人間のすべての行いにしたがって決められる。) それは今話をした、信仰の無い人々の様々な終わりの時に関する事柄である。信仰の無い人々について、神の業が基づく原則は、善良を讃え、邪悪を罰するものであるだろうか。神の業には原則があることを理解したであろうか。あなたがたは、原則があるということを理解できるであろう。信仰の無い人々は、実際に神を信じて居らず、神の指揮に従わず、神の統治を認識しておらず、ましてや神を認めることなど無い。さらに深刻なことには、こうした人々は神を冒瀆し、神を呪い、神を信じる者に対して敵意を持っている。こうした人々は、神に対してそのような姿勢であるが、こうした人々に対する神の統治は、神の原則から逸脱することが無い。神は、神の原則と性質に従い、こうした人々を規則的に管理する。神は、こうした人々の敵意をどのように見なすか、というと、それを無知とみなす。そうしたわけで、神はこうした人々すなわち信仰の無い人々の大部分を、1回動物として生まれ変わらせられる。それではあなたに尋ねるが、神は信仰の無い人々をどのように見ているであろうか。(家畜として見ている。)神の目から見ると、こうした人々は、家畜の類いである。神は家畜を管理し、人間を管理するので、神はこの種の人々に対しても同じ原則がある。こうした人々に対する神の管理とこうした人々に対する神の業においても、やはり神の性質と神の万物支配の法則が存在することが分かる。これで、あなたがたはわたしが今話をした信仰の無い者を神が管理する原則における神の統治を理解したであろうか。神の義なる性質を理解したであろうか。(理解した。) あなたがたは神の統治と神の性質を理解した。つまり、神が取り扱う物が、万物のうち何であれ、神は神自身の原則と性質にしたがって業を行う。これは神の本質である。神は、こうした人々を家畜とみなすことで神が定めた規則や天の命令に何気なく反することは、決して無い。神は全く秩序を乱すことなく、原則に従って業を行い、神の業はいかなる要素にも影響されることが一切なく、業が何であるかを問わず、すべて神自身の原則に従うものである。これは、神には、いかなる創造物も持ち得る事の無い、神自身に特有の本質があるという事実により判断される。神は、神が造ったあらゆる物や人間、生き物について、その取り扱い、それに対する姿勢、経営、管理、支配について、誠実で、責任を持っており、決して不注意でいることはない。神は善良な人々に対して慈悲深く親切であり、邪悪な人々に対しては容赦ない罰を与える。そして様々な生き物については、人間の世界における、その時々の必要性に従い、時宜を得た規則的な方法で、適切な采配を行うので、そうした様々な生き物は、それぞれが受け持つ役割に従い、秩序をもって生まれ変わり、秩序をもって物質世界と霊的世界の間を行き来する。これは、人間が理解し、知るべきことである。
生き物の死、すなわち物理的な生命の終焉は、その生き物が物質世界から霊的世界へと移動したことを示す一方、物理的な生命の誕生は、生き物が霊的世界から物質世界に来て、その役割を負い、果たし始めるということを示す。それが生き物の出発であるか、到着であるかを問わず、そうした出発と到着は両方とも霊的世界における業と不可分である。ある者が物質世界に到来した時、霊的世界において、その者が生まれる家庭、その者が現れる時代、時期、そしてその者が担う役割に関して、その者に適した采配と定義は、神により既に完了されている。そうしたわけで、その者の生涯全体、その者の行動や、その者が進む方向性は、霊的世界における采配に従い、一切の誤り無く進行してゆく。その一方で、物理的な生命が終焉を迎える時、そして終焉のかたちと場所は、霊的世界においては明瞭で認識可能である。神は物質世界を支配し、また霊的世界を支配し、また神は通常における魂の生死の周期を遅延させることは一切無く、ある魂の生死の周期に関する采配において誤ることも一切無い。霊的世界の当局に仕える執行官は、それぞれ神の指示と支配に従い任務を遂行し、なすべき事を行う。そのため、人間の世界では、人間が認識するあらゆる物質的現象は秩序があり、混沌は一切存在しない。こうしたことは、すべて神の秩序ある万物支配と、神の権威による万物支配のおかげであり、神の支配下にある物事には、人間が生活する物質世界のほか、人類の背後にある目に見えない霊的世界がある。そうしたわけで、人間が良い生活を望み、好ましい環境を望むのであれば、物質世界全体において与えられることに加え、誰も見ることが出来ず、人間のためにあらゆる生き物を統治し、秩序のある霊的世界においても与えられる必要がある。ここまでの話で、神が万物の生命の源である、と言った時の、「万物」に対する意識と知識が増えたのではないだろうか。
場所:
日本
2019年3月31日日曜日
全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 3
それでは、まず信仰の無い人々の生死の周期の話をする。ある者が死ぬと、その者は霊界の執行官により取り去られる。それでは、その者の何が取り去られるか、というと、それはその者の肉体ではなく、魂である。その者の魂が取り去られると、死んだばかりの者の魂を受け付けることを専門とする霊界の部局に辿り着く。(注:死者が死後最初に行く場所は、死者の魂にとって未知の場所である。)魂がこの場所へと持ち込まれた時、役人が最初の検査を行い、名前や住所、年齢、その者が生涯に行ってきた物事が確認される。死者の生前の行動は、全て帳簿に記録され、それが正確であることが確認される。それらの確認が完了した後、その者の生前の態度や行動により、罰を受けるか、人間として再び肉体を与えられるかが判断される。これが第一段階である。この第一段階は恐ろしいであろうか。この段階はそれほど恐ろしいものではない。なぜなら、この段階では、その者が暗く馴染みの無い場所に到着するだけだからである。それほど恐ろしいものではない。
第二段階では、その者が生前多くの悪業を行った場合、あるいは多くの邪悪な所行があった場合、その者は刑場へと連れられて罰せられる。こうした者が連れて行かれるのは、明白に人間を処罰する場所である。人間がどのように罰せられるかに関する具体的な内容は、その者が生前犯した罪や、邪悪な所行を行った回数により異なる。これが第二段階で最初に行われる事である。その者が生前行った物事や邪悪な所行が原因となって、その者が罰を受けた後に再び受肉して物質世界に再び生まれたとき、一部の者は引き続き人間となり、別の一部の者は動物となる。つまり、ある者が霊的世界に戻った後、その者は、自分が行った悪業のために罰せられた上、その悪業のため、その後再び受肉する際に、人間では無く動物となる。こうした者が生まれ変わる動物の範囲には、牛、馬、豚、犬などがある。一部の者は空を飛ぶ鳥や、アヒル、ガチョウなどになる。こうした者が動物として生まれ変わった後に死ぬと、霊的世界に還り、従前と同様に、その者の行いに基づいて霊的世界において人間として生まれ変わるかどうかが決定される。
大部分の人々は、邪悪な行いが多すぎるため、また罪が深すぎるため、生まれ変わった時に7回から12回は動物となる。7回から12回とは、恐ろしいことではないか。あなたがたにとって、恐ろしいことは何であろうか。人間が動物となるとは、恐ろしいことである。人間にとって、動物となって最も辛い事柄は何であろうか。言葉が無く、単純な考えしか無く、動物が行う行動しか出来なくなり、動物の食べものを食べ、単純な精神を持ち、動物の身振りによる言葉を用い、直立歩行や人間との意思疎通が不可能となり、人間の行動や活動は動物と全く無関係である。つまり、動物となると、あなたがたは生き物のうち最低の存在となり、それは人間であることよりも遙かに辛いことである。これが、邪悪な行動を多く行い、深刻な罪を犯した者に対する霊的世界の罰の一側面である。罰の重さに関しては、人間がどのような動物となるかで決定される。たとえば、豚となるのは、犬となるよりも良いであろうか。豚の生活は、犬の生活よりも良いであろうか、それとも悪いであろうか。間違い無く悪いであろう。人間が牛や馬になった場合、豚よりも良い生活を送ることが出来るであろうか。(良い生活を送ることが出来る。)あなたがたには、選択肢がある場合、好みがあるようである。猫になった者は、比較的快適であろうか。猫になるのは、馬や牛になるよりも大幅に快適であろう。様々な動物から選択できるとしたら、猫を選ぶのが快適であろう。なぜなら、殆どの時間を怠けて寝て過ごすことができるからである。牛や馬になると、労働が比較的多いので、人間が牛や馬に生まれ変わった場合、勤勉に働く必要があり、それは重い罰のように思われる。犬になるのは、牛や馬になるよりも僅かに良いであろう。なぜなら、犬は飼い主と親しい関係にあるからである。さらに、現在、多くの人々が犬を飼い、3年、5年経つと犬は人間の言うことの多くを理解するようになる。犬は飼い主の言葉を数多く理解できるので、飼い主の事を十分理解し、飼い主の気分や要求に合わせることが出来る。したがって飼い主は犬の扱いを向上し、犬の食べ物や飲み物も向上し、犬に痛みがある場合には比較的手厚く看護される。したがって、犬は幸福な生涯を送るのではなかろうか。ゆえに、犬になるのは、牛や馬になるよりも良い。こうして、ある者の罰の重さが、その者が何回動物に生まれ変わるか、どのような動物として生まれ変わるかを決定する。これについては理解したであろう。
一部の人々は、生前に犯した罪の回数が多すぎるため、7回から12回、動物に生まれ変わる罰を受ける。十分な回数の罰を受けて霊的世界に戻った時、こうした人々は別の場所へと連れて行かれる。この場所の様々な魂は既に罰を受け、人間として生まれ変わる準備をしている種類のものである。この場所では、どのような家庭に生まれるか、生まれ変わった時にどのような役割を担うかなどにより、それぞれの魂が分類される。たとえば、この世に生まれた時に歌手となる人々は他の歌手達と一緒にされ、この世に生まれた時に実業家となる人々は他の実業家と一緒にされ、人間として生を受けた時に科学研究者となる人々は、他の科学研究者と一緒にされる。魂が分類された後は、丁度現在の人々が電子メールを送信する時のように、それぞれ異なる時期に送り出される。これで生死の周期の一巡が完了するが、極めて劇的である。ある者が霊的世界に到着したその日から、その者に対する罰が終わるまで、その者は何度も動物として生まれ変わり、そしてその者が人間として生まれ変わるよう準備される。これがその過程の全てである。
それでは、罰を受け終えて動物として生まれ変わることが無くなった者は、すぐに物質世界へと送られて人間となるであろうか。その者が人間となるまでには、どの程度の期間を要するであろうか。こうした者が人間になる頻度はどの程度であろうか。[a]これには、時期的な制限がある。霊的世界で発生する事柄には、それに関連する時期的な制限と規則が適用されるが、それは数値で説明すれば、理解できるであろう。短期間のうちに生まれ変わった者については、その者が死んだ時に人間として生まれ変わる準備が行われる。その期間は、最短で3日である。その期間が3ヵ月の人々も居れば、3年の人々も、30年の人々も、300年の人々も、3000年の人々も居る。それでは、こうした時期的な規則について、どのようなことが言えるであろうか。またその規則の詳細はどのようなものであろうか。人間の世界である物質世界への魂の到来は、必要性に基づくものである。それは、その魂がこの世で担う役割に準じたものである。人々が普通の人間として生まれ変わった場合、大部分の人々が極めて短い期間を経て生まれ変わる。なぜなら、人間の世界には、こうした普通の人々に対する差し迫った需要があるからである。そうしたわけで、こうした人々は、3日後に、死ぬ前の家庭とは全く異なる家庭へと送られる。しかし、この世の中で特別な役割を担うべき人々も居る。「特別な」というのは、人間の世界には、そうした人々に対する大きな需要は無く、そうした役割を担うために必要とされる人々は、それほど多く無いので、そうした人々が生まれ変わるのは300年後となる場合もある。[b]すなわち、こうした魂は、300年に1度、あるいは3000年に1度、この世に現れる、ということである。それは何故だろうか。それは、300年間あるいは3000年間、そうした役割は人間の世界で必要とされず、したがってそうした魂は霊的世界のどこかに留められているからである。たとえば、孔子は中国の伝統文化に甚大な影響を及ぼした。あなたがたは皆、孔子のことを知っているであろう。孔子の出現は、当時の人々の文化、知識、伝統、思想に大きな影響を及ぼした。しかし、そのような人間は、それぞれの時代に必要とされることは無く、したがって孔子は霊的世界に留められ、300年、あるいは3000年にわたって待機した後に生まれ変わる必要がある。人間の世界では、孔子のような人間を必要としていないため、孔子は何もせずに待機している必要があった。なぜなら、孔子のような役割は極めて少なく、孔子のような人間がなすべきことは少ないので、孔子は殆どの期間、霊的世界のどこかで、何もせずに留められ、人間の世界で孔子が必要となった時に送られる必要があったからである。霊的領域における時間的な規則はこのようなものであり、大部分の人々がそれに従って生まれ変わる。普通の人間か特別な人間かを問わず、霊的世界には、人間の生まれ変わりの処理に関する適切な規則と慣行があり、そうした規則と慣行は神に由来し、神から送られたものであり、霊的世界の執行官その他の存在により決定されたり管理されたりするものでは無い。これで、あなたがたはこのことを理解したであろう。
あらゆる魂にとって、生まれ変わった後に担う役割、その魂の生涯における役割、その魂が生まれる家庭、その魂の人生がどのようなものかは、それ以前の人生と密接に関連している。様々な人々が人間の世界に現れ、人々が担う役割や行う任務も異なる。それでは、その任務とは何であろうか。一部の人々は、負債返済のために現れる。つまり、前世において他人からの借入額が多すぎた場合、その負債を返済する。その一方で、債権回収のために現れる人々も居る。こうした人々は前世において様々な事柄で騙されて金銭を巻き上げられたので、霊的世界に到着した後、霊的世界による公平に基づいて、その生涯で債権を回収することが許可されている。一部の人々は、恩返しをするために現れる。すなわち、死ぬ前に前世で誰かの厚意を受け、生まれ変わってその恩を返す素晴らしい機会を与えられる。その一方で、命を奪うために生まれ変わった人々も居る。それでは、こうした人々は誰の命を奪うのであろうか。それは、前世でそうした人々を殺した者の命である。つまり、各人の現在における人生には、前世との密接な関連性があり、断つことの出来ないつながりがある。すなわち、各人の現在における人生は、前世により大きく影響される。たとえば、チャン氏が生前に巨額の金銭をめぐってリー氏を騙したとする。チャン氏はリー氏に負債があるであろうか。負債がある場合、当然リー氏はチャン氏の負債を回収すべきである。したがって、両氏の死後には解消すべき負債が残されるが、両氏が生まれ変わった時、チャン氏が人間として生まれ変わった時、リー氏はどのようにしてチャン氏の負債を回収するであろうか。回収方法のひとつとして、リー氏がチャン氏を父として、その息子となって生まれ変わり、負債を回収するというのがある。それが現在の人生において実現されることがらである。リー氏の父親チャン氏は多くの収入を得るが、息子のリー氏がそれを浪費する。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、息子のリー氏がそれを消費してチャン氏を「助ける」。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、決して十分ということは無く、何故か、最終的には常にその息子が父親の金銭を、様々な事柄や方法で使う。チャン氏は不思議に思う。「いったいどうなっているのだ。なぜ、私の息子は常に問題を起こすであろうか。他の人々の息子が立派なのは何故だろうか。私の息子は野心が無く、役立たずで収入を得られず、常に私が金銭的支援をしなければならないのは何故だろうか。私は息子を支援する必要があるので支援するが、私がいくら金銭を渡しても、息子には常にそれ以上の金額が必要となるのは何故だろうか。息子がまともに働けないのは何故だろうか。息子が怠惰で飲み食いをしては風俗や賭博に明け暮れるのは何故だろうか。一体どうなってしまっているのだろうか。」チャン氏は暫く考える。「それは、前世において私には息子に借りがあるからではないだろうか。そうだ、前世において私には息子に借りがあるからというのは、あり得る。それならば、借りを返そうではないか。これは、私が借りを完済するまで終わることがないであろう。」やがて、リー氏が債務を回収し終え、40代、50代になって、突然目覚める日が来るであろう。「自分の半生では、何も善い行いをしなかった。父が稼いだ金を、すべて浪費してしまった。私は善人になる必要がある。私は決心した。私は正直に、正しい生活を送り、二度と父を悲しませない。」リー氏は、なぜこのように考えるのであろうか。突然リー氏が変わり、向上するのは何故であろうか。それには何か理由があるであろうか。その理由とは何であろうか。実は、それはリー氏が債権を回収し終えたことが、その理由である。これについては、因果関係がある。話の発端は、両氏が生まれる前にまで遡り、両氏の前世における経緯が現在の人生にまで持ち越されているので、どちらも相手を責めることは出来ない。チャン氏が息子に何を諭しても、息子は一切聞こうとせず、真面目に働こうとはしなかったが、負債が返済された日には、息子を諭す必要は無く、息子は自然と理解した。これは簡単な例だが、当然この他にも類似する事例が多数ある。それでは、この例から何が分かるであろうか。(両者は善良で無ければならない。)両者は悪業を行ってはならず、悪業には、それに対する報いがあるということである。信仰の無い者は、お分かりの通り、悪業を数多く行い、その悪業に相応する報いがあるであろう。しかし、こうした報いは自主的なものであろうか。報いのある物事には、すべてその背景と原因がある。あなたは、誰かに対して金銭関連で不正を行っても、自分には何も起こらないと思うであろうか。金銭をめぐって誰かを騙し、金銭を騙し取った後に、あなたには何の報いも無いと思うのか。それは有り得ない。した事には、必ず結果がある。誰であれ、神を信じるか否かにかかわらず、誰もが自分の行動に責任を負わなければならない。その行動による結果と対峙しなければならない。ここで挙げた簡単な例では、チャン氏が罰を受け、リー氏が償還を受けているが、これは公平であるか、というと、公平である。人間がこのような行動を取った場合、そのような結果となる。それでは、このことは霊的世界の管理と無関係であるか、というと、このことは霊的世界の管理と不可分の関係にある。神を信じない、信仰の無い者であっても、その存在は、誰も逃れることの出来ない天の命令や規則の対象となる。いかに人間の世界において地位が高い者であっても、この事実から逃れられる者は居ない。
場所:
日本
2019年3月27日水曜日
全能神教会への迫害が国連で明らかに!中国共産党はなぜ宗教の信仰を迫害するのか
2019年3月23日土曜日
クリスチャンの証し「17歳?ふざけるな!」 中国共産党がクリスチャン少年を迫害する実話 予告編
クリスチャンの証し「17歳?ふざけるな!」 中国共産党がクリスチャン少年を迫害する実話 予告編
「ぼうず!共産党は無神論で信仰を禁止していることは知っているのか?中国にどんな神がいるというんだ?神なんてどこにいる?」「子供だからって容赦しないぞ!まだ神を信じると言うのなら殺されたって知らんぞ!」電撃棒を手に、中国共産党の警察は傷だらけの少年を拷問するのです。この少年の名前は ガオ・リアンで、当時17歳でした。年配の兄弟と一緒に伝道活動をして、自宅へ帰る途中に中国共産党の警察に逮捕されました。警察は食べる物を何も与えず、三日三晩寝ることも許しませんでした。尋問を繰り返し、自白を強要しようとして、残酷な拷問をしました。電撃棒を使い、顎や手や下半身を痛めつけ、神を裏切らせ、教会の指導者と教会の資産のありかを言わせようとしました。さらに両親も逮捕して、学校には退学させると脅しました。自白が得られないまま、中国共産党政府は、労働による一年間の再教育という名目で実刑を下しました。刑務所にいる間、ガオ・リアンは過度の労働条件に耐えなければならず、屈辱を受けて苦しんでいました。ガオ・リアンは生き地獄を経験しました。苦しい環境の中でも、神に祈り、神に頼りました。全能神の言葉で、神の意志を理解することができました。自信と強さを与えられ一年間の刑務所生活を乗り越えることができました。中国共産党による迫害と逮捕はガオ・リアンの心に深く刻まれました。中国共産党政権の邪悪な本質と神に敵対する姿をはっきりと身をもって体験したのです。サタンが力を振るう今の世の中では、神だけが人を最も愛しています。神だけが人を救うことができます。ガオ・リアンの信仰心と神に従う意思はより断固としたものになりました。ガオ・リアンはこれらの試練は、自分の成長と、より実りある人生を歩むための貴重な宝物であったと信じています。神が17年目に彼に与えた特別なプレゼントだったのです…
ラベル:
救う,
信仰,
全能神,神,神を信じる
場所:
日本
2019年3月21日木曜日
全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 2
1.神が霊的世界を支配し、統治する方法
物質世界では、人間が物事や現象を理解できなかった場合、人間は書物を紐解き関連する情報を探したり、様々な方法により、そうした物事などの原因や経緯を調べたりすることができる。しかし、本日話をしている、それ以外の世界、すなわち物質世界以外の霊的世界に関しては、人間にはその内情や真実を知る事ができる方法が無い。わたしがこう述べるのは何故であろうか。人間世界では、物質世界のあらゆる物事が、人間の物理的生活と不可分であり、人間は物質世界のあらゆる物事が人間の物理的な命と不可分であると感じるので、大半の人間は目の前にあり、見ることができる物理的な物事のみを意識し、あるいは見ているのである。しかし、霊的世界すなわちその他の世界に関しては、大部分の人々が信じないと言って良いであろう。それは、霊的世界が人間にとって不可視であり、人間は、霊的世界を理解すること、それについて知ることは不要であり、ましてや霊的世界が物質世界とは全く異なることについて述べることは、一切不要であると考えるからである。神にとって、霊的世界は開かれたものであるが、人間にとって霊的世界は隠されており、開かれたものでは無いので、人間が霊的世界の様々な側面を理解するための経路を探すのは、困難である。霊的世界に関してわたしが述べる事柄は、神の管理と統治に関する事柄のみである。無論、それらの事柄は人間の結末や終着点にも関連する。しかしわたしは謎を解明しているのでも、あなたがたが知りたい秘密を話しているのでも無い。なぜなら、この事柄は神による統治、支配、そして神が与えることに関連するものであり、したがってわたしはあなたがたが知る必要のある部分のみについて話をする。
まず、あなたがたに質問するが、あなたがたの心の中では、霊的世界とは何であろうか。一般的に言うと、霊的世界とは物質世界以外の世界であり、人間にとって見ることも触れることも出来ない世界である。しかし、あなたがたの想像では、霊的世界とはどのようなものであろうか。おそらく、霊的世界は見ることが出来ないので、あなたがたは想像することが出来ないであろう。しかし、霊的世界に関する伝説を聞くと、霊的世界について考えるのを止めることは出来ない。わたしがこう述べるのは何故であろうか。多くの人々が、幼い頃に経験することがある。誰かが幽霊や亡霊に関する怪談をすると、子供達はそれを怖がる。それでは、子供達はなぜ怖がるのであろうか。それは、子供達が幽霊や亡霊を想像するからである。子供達は幽霊や亡霊を見ることが出来ないものの、自分達の部屋や、隠された場所、暗い場所などの至る所に存在するように感じるので、子供達は恐怖で眠れなくなる。特に夜中は、子供達は部屋や中庭に独りで居ることが出来ない。それが、あなたがたの想像する霊的世界であり、人間が恐ろしいと考える世界である。人間はそれぞれ多少の想像力があり、誰もが何かを感じることができる。
それでは、霊的世界について話をしよう。霊的世界とは何であろうか。わたしが簡潔に説明する。霊的世界とは、物質世界とは異なる重要な場所である。それでは、わたしがそれを重要であると言う理由は何であろうか。これについて詳細に話をする。霊的世界の存在は、人間の物質世界と不可分の関連性がある。霊的世界は、神による万物の統治のうち人間の生死の周期において重要な役割を担い、この役割がその存在が重要である理由のひとつである。霊的世界は五感で認識できない領域であるため、それが存在するかどうかを正確に判断できる者は存在しない。霊的世界における出来事は人類の存在と密接に関連し、そのため人間の生き方もまた霊的世界から甚大な影響を受ける。これは神による統治に関連するであろうか、というと、関連する。こう述べると、わたしがこの事項について話をする理由を理解できるであろう。霊的世界は神による統治と管理に関連するから、というのが、その理由である。このように、人間が見ることのできない世界における天の命令や律法、統治組織は、物質世界におけるどの国家の法令や組織よりも遙かに優れており、この世界に生きるもののうち、そうした命令や律法、統治組織に背いたり濫用したりしようとする者は、一切居ないであろう。これは神による統治と管理に関連するであろうか。霊的世界には、明確な行政命令と、明確な天の命令、規則がある。様々な段階と領域において、執行官は厳密にその任務と規則を遵守する。なぜなら、執行官は天命に背いた時の報いが何か、神がどのように邪悪を罰し、善良に報いるか、神がどのように万物を統治し、支配するか、そして神がどのようにして天の命令と憲章を実施するかを明確に理解しているからである。これらの事柄は、人間が住む物質世界と異なるであろうか、というと、大いに異なる。霊的世界は、物質世界とは全く異なる世界である。天の命令と規則があるため、霊的世界は、神による統治、支配、そして神の性質と神が持っているものや神であるものに関連する。この話を聞くと、あなたがたはわたしがこの事項について話す必要性が大いにあると感じないであろうか。霊的世界の秘密について知りたいと思わないであろうか。霊的世界の概念は、これまで述べた通りである。霊的世界は、物質世界と共存し、同時に神による支配と統治の対象となっているものの、神による霊的世界の統治は、神による物質世界の統治よりも遙かに厳格なものである。詳細に関しては、まず霊的世界がどのように人間の生死の周期の働きに関与しているかという問題を取り扱う必要がある。なぜなら、この働きは、霊的世界の存在の働きの大きな部分だからである。
すべての人間を3つの類型に分類する。最初の類型は、信仰の無い人々で、信者以外の者である。これらの者を、信者以外の者という。信者以外の者のうち、大部分は金銭のみを信じ、自分自身の利益のみを追求し、物質主義的であり、物質世界のみを信じ、生死の周期や、神性、幽霊に関する噂は信じない。こうした人々を、信者以外の者と分類し、それを最初の類型とする。2番目の類型は、信仰の無い人々以外で、様々な宗教の信者の人々である。人類のうち、こうした信者を、数種類に大別する。この種の人々は、ユダヤ教徒、カトリック教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒の5種類に分類される。信者には、これらの種類がある。3番目の類型は、神を信仰する人々であり、あなたがたに関連する類型である。この種の信者は、現在神に付き従っている人々である。この種の信者は、神の選民と、奉仕者という2種類に区分される。そうしたわけで、これらの主要な類型は明確に区別されている。これで、あなたがたは、心の中で人間の類型と階層を明確に区別できる。最初の類型は、信者以外の人々である。信者以外の人々がどのような人々かは、既に述べた。信者以外の人々の多くは、蒼天を信じ、風、雨、雷は、すべてこの蒼天により支配されていると信じ、穀物の植え付けや収穫の際にこの蒼天に依存しているものの、神の信仰の話になると、反感を抱く。これは神の信仰であると言えるであろうか。こうした人々は信仰の無い人々に含まれる。神を信仰せず、蒼天のみを信じる人々は、すべて信仰の無い人々である。神を信仰することも、神に付き従うことも無い人々は、すべて信仰の無い人々である。2番目の類型は、5大宗教に属する人々であり、曖昧な神を信仰する人々である。3番目の類型は、終わりの日に受肉した実践の神を信じ、神に現在付き従っている人々である。それでは、わたしが全ての人間をこれらの類型に分類したのは、何故だろうか。(それらの類型の人々には、それぞれ異なる終着点と終末があるからである。)それは側面のひとつである。それは、こうした異なる人種や類型の人々が霊的世界へと還る時、人々はそれぞれ異なる場所へと向かい、生死の周期に関する異なる法則の対象となるからであり、そのことが、わたしが人間をこうした3つの類型に分類した理由である。
場所:
日本
2019年2月17日日曜日
クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(1)封建的迷信として宗教信仰を非難する中国共産党の愚行
クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(1)封建的迷信として宗教信仰を非難する中国共産党の愚行
中国共産党は、宗教信仰は科学知識の遅れていた人間が超自然的な力に対して抱く恐怖と崇拝から生じたものであり、宗教は迷信だと言っています。更に、封建的迷信に対抗するという名目で、宗教信仰を非難して禁止しています。中国共産党のこのような視点の基準は何なのでしょうか。中国共産党が宗教信仰を封建的な迷信として非難することの愚かさは結局どこにあるのでしょうか。
場所:
日本
2019年1月26日土曜日
全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 8」8
神が人類のために用意する日常の食料と飲料
ここまでは、全体的な環境の一部分、すなわち神が世界を創造して以来、人類のために用意した人間の生存に必要な条件について話をしました。五つのことについて話しましたが、この五つが全体的な環境です。次に話すことは、肉にある人間ひとりひとりの生活と密接に関連しています。それは、肉にある人間の生活に一層よく当てはまり、則した必要条件です。それは食料です。神は人間を創り、適切な生活環境に置きました。その後、人間には食料と飲料が必要になりました。人間には、そうした必要があり、それで神は人間のためにそのような用意をしました。したがって、神の働きの歩みのひとつひとつと神の行なうひとつひとつの業は、空虚な言葉ではなく、実際に行われているのです。食料は人間の日常生活において不可欠なものですか。食料は空気よりも重要ですか。それらは等しく重要です。そうですね。どちらも人間の生存と人間の生命の継続を保存するのに不可欠な条件と物事です。空気の方が重要ですか。それとも水の方が重要ですか。気温の方が重要ですか。それとも食料の方が重要ですか。これらはすべて重要です。人間はそのいずれも欠くことができないので、選択できません。これは現実的な問題であり、選択できるものではありません。あなたは知りませんが、神は知っています。あなたがこれらのものを見ると、「食べ物なしは無理だ」と感じるでしょう。しかし、あなたが創られた直後にそのような状況の中に置かれたのなら、自分には食べ物が必要だということを知っているでしょうか。あなたは知らないでしょうが、神は知っています。あなたが空腹になり、そしてあなたが食べられるように木に果実があり、地面に穀粒があるのを見てはじめて、「そうだ、食べ物が必要だ」と気づくのです。喉が渇き、水を飲みたいと思ってはじめて、「水が欲しい。水はどこにあるだろうか」と意識するのです。目の前に泉を見つけ、そこから飲みます。「これはとても美味しい飲み物だ。これは何だろう」と言います。それは水であり、神が人間のために用意したものです。食料については、一日三食摂るか、二食か、あるいはそれ以上かは問題ではなく、要するに、食料は人間の日常生活に不可欠なものである、ということです。食料は人体の正常な生存を維持するために必要なもののひとつです。それでは、食料はおもにどこから来ますか。第一に、土から来ます。土は神により人間のために用意されました。土は、木や草だけでなく、様々な植物の生存に適しています。神は人類のためにあらゆる種類の穀粒と様々な食材の種、そして人間が耕すのに適した土壌と土地を用意し、よって人間に食料を与えました。どのような種類の食料があるでしょうか。あなたがたは、これについて明確に理解しているはずです。そうですね。第一に、様々な穀粒があります。穀粒には何が含まれていますか。小麦、粟、キビ、米など、殻のついているものです。禾穀類は様々な種類に分けられます。禾穀類には、大麦、小麦、オート麦、蕎麦など、南部から北部まで様々な種類があります。様々な地域での栽培に適した、様々な種類が存在します。また、米にも様々な種類があります。南部には南部特有の様々な種類の米があり、穀粒が長く、粘り気が強すぎず、南部の人々に適しています。南部は気候が比較的温暖なので、インディカ米のような種類の米を食べなければなりません。米は粘り気が強いと食べ難く、食欲を失うので、粘り気は強すぎてはなりません。北部の人々が食べる米は、比較的粘り気が強いです。北部は気候が常に寒冷なので、粘り気の強い米を食べなければなりません。それに加えて、様々な種類の豆があります。豆は地上で栽培します。また、ジャガイモ、サツマイモ、タロイモ、さらに多くの土中で成育するものもあります。ジャカイモは北部で育ちます。北部のジャカイモはとても高品質です。人々が食べる穀物がないとき、ジャガイモが食生活で主食となることがあり、それで人々は一日三食を維持できます。ジャカイモも食料となりえます。サツマイモは品質においてジャガイモほど良くありませんが、一日三食を維持するために主食として使うことができます。穀物が入手できないとき、人々は腹を満たすためにサツマイモを食べることができます。タロイモは、南部の人がよく食べますが、同様の使い方ができ、また主食となりえます。これらが様々な穀物であり、人々の日常の食料と飲料として必要なものです。人間は様々な穀類を用いて麺、蒸しパン、米、ビーフンなどを作ります。神は、こうした様々な種類の穀類を人類に豊富に与えました。なぜこれほど多くの種類が存在するのですか。そこに神の意図を見出すことができます。一方で、これは東西南北で異なる土壌と気候に適合するためです。他方で、これらの穀類に含まれる様々な成分が、人体の様々な成分と一致するのです。人間が自分の身体に必要とされる様々な栄養素や成分を維持することができるのは、こうした様々な穀類を食べることによるのです。北部の食料と南部の食料は異なるものの、両者には相違点よりも共通点の方がずいぶん多くあります。これらの食料は、人体の通常の必要性をすべて満たし、人体の正常な生存を維持することできます。このように、各地において生産される種類がとても豊富な理由は、人体がこれらの食料が供給するものが必要だからです。人体の正常な生存を維持し、通常の人間生活を実現するために、土中から発育した様々な食料により共有されるものを人間は必要とします。つまり、神は人類に対して大いに配慮していたのです。神が人間に与えた様々な食料は無味乾燥ではなく、極めて多種多様です。シリアルを食べたければ、シリアルを食べることができます。「麺類を食べるのが嫌いだから米を食べたい」と言う人がいるかも知れませんが、では米を食べることができます。米には穀粒が長い米、短い米など様々な種類があり、それらすべてが人間の味覚を満たせします。したがって、もし人がこれらの穀類を食べるのであれば、食べ物に対するえり好みが極端に激しくない限り、人間は栄養不足にならず、老いるまで健康に生きることが保証されています。それが、神が人類に食料を与えた時の当初の考えでした。人体にはこれらが不可欠です。これが現実ではありませんか。人類は、こうした現実の問題を解決できませんが、神は既に準備し、そのことについて十分に検討したのです。随分前に、神は人類のための物事を用意したのです。神は人類にこれらの他にもさらに与えました。野菜もあります。米を食べるとき、食べるものが米だけでは、栄養が不足するかもしれません。そこで、炒めものの小皿の料理を2種類作ったり、サラダを作って付け合わせにしたりすれば、野菜に含まれるビタミン類や複数の微量元素その他の栄養素は、人体に必要とされる物をきわめて正常に供給することができます。人間が主な食事を取っていないときには、果物を食べることもできます。そうですね。時折、人間が追加の水分やその他の栄養素、異なる味が必要なとき、野菜や果物があります。北部、南部、東部、西部で土壌や気候が異なるので、様々な種類の野菜や果物があります。南部の気候は暑すぎるので、果物や野菜の大部分は清涼効果のある種類で、食べた時に人体の冷気と熱気の均衡を保つことができます。一方、北部では果物や野菜の種類が比較的少ないですが、それでも北部の人々が楽しむのに十分な種類が揃っています。しかし、近年における社会的発展や、いわゆる社会的進化、東西南北の各地方を結ぶ交通機関や通信の改善により、北部の人々もまた南部の果物や特産品、野菜のいくつかを一年中でさえ食べることができます。これにより、人々は食欲や物欲を満たすことができるものの、人体は知らないうちに様々な度合いの危害に晒されています。それは、神が人類のために用意した食料には、南部の人間に適した食料や果実や野菜と、北部の人間に適した食料や果実や野菜があるからです。つまり、南部で生まれた場合、その人には南部産の食料を食べることが極めて適しているのです。神がこれらの食料、野菜や果物を用意したのは、南部には特有の気候があるからです。北部には、北部の人々の身体に必要とされる食料があります。しかし人間は非常に貪欲な食欲があるため、知らぬ間に社会的発展の波に呑まれ、そうした法則を知らぬ間に反してしまうのです。人間は現在の生活が向上したと感じるものの、こうした社会的発展は隠れた危害を一層多くの人体にもたらします。これは神が見たいことでも、神が万物とこれらの食料、果物、野菜を人類に与えたときに当初に意図していたものではありません。これは、神が制定した法則に反する人類が起こしたことです。
加えて、神が人類に与えたものは豊富であり、各地域に独自の特産物がありました。たとえば、(一般的にナツメという名称で知られる)紅棗が豊富な場所もあれば、クルミや落花生やその他の様々な種類のナッツ類が豊富な地域もあります。こうした物質的な物はみな、人体が必要とする栄養素を供給します。しかし、神は季節や時期に従って人類に物を供給し、かつ適切な時期に適切な分量を与えます。人類は物理的な快楽を求め、貪欲であるため、神が人類を創った時からの人類の成長の正常な法則に反しやすくなっています。例として、皆が知っているはずのサクランボを検討しましょう。サクランボは六月頃に収穫されます。通常の状況においては、サクランボは八月までには出回らなくなります。サクランボは二ヶ月間だけ新鮮ですが、科学的手法により、人間は現在それを十二ヵ月、翌年のサクランボの旬の時期まで延長することができます。これは、サクランボは年間を通してあるということです。この現象は正常ですか。(いいえ。)それでは、サクランボを食べるのに最適な季節はいつですか。それは、六月から八月までの期間です。この期間以外は、サクランボをどれほど新鮮に保ったとしても、サクランボの味は同じではなく、人間の身体が必要とするものではありません。一旦期限日が過ぎた後は、どのような化学薬品を使用しても、自然に栽培されたときと同じにすることはできません。さらに、化学薬品が人間に与える危害は、誰が何をしても排除したり変化させたりすることはできません。理解できますね。では、現在の市場経済は人間に何をもたしますか。人々の生活は向上しているように思われ、あらゆる方向の交通の便は極めて良くなり、人々はあらゆる種類の果物を一年中どの季節でも食べることができます。北部の人々がバナナや南部の食品や特産品や果物を頻繁に食べることができます。しかし、これは神が人類に与えたい生活ではありません。このような市場経済は人間の生活にいくらかの恩恵をもたらしますが、害もまたもたらします。市場の豊かさのために、多くの人が何でも食べますが、考えずに食べるのです。これは、自然な法則に反していて、人間の健康にとって有害です。ですから市場経済は人間に真の幸福をもたらすことはできません。理解していますね。御覧なさい。ブドウは市場で一年の四季を通して売られていませんか。実際には、ブドウが新鮮であるのは、収穫後の極めて短い期間のみです。もしブドウを翌年の六月まで取っておいたなら、それは依然としてブドウと呼ぶことができますか。それを生ゴミと呼ぶことはできますか。そのブドウは、ブドウ本来の成分をもはやもっていないだけでなく、化学薬品の含有量が増えています。一年経過すると、ブドウは新鮮でないのみならず、栄養素も既になくなっています。ブドウを食べるとき、「本当に嬉しい。三十年前、この季節にブドウが食べられただろうか。食べたくても食べられなかっただろう。現代はなんと素晴らしい生活だろう」と人は感じます。これは本当に幸福ですか。興味があれば、化学薬品で保存されたブドウを調べてその成分構成がどうなっていて、それが人間に有益であるかどうかを確認すればよろしい。律法の時代には、イスラエルの人々がエジプトから出た後に路上にあった時、神は彼らにうずらとマナを与えました。神は彼らにそれらを保存することを許しましたか。(いいえ。)一部の人は心が狭く、翌日に何も残っていないことを心配したので、多少残しまし。 「後で必要になった時のために残しておこう」。すると、何が起こりましたか。翌日までには、腐ってしまいました。神は、イスラエルの人々に、予備として残しておくことを許しませんでした。なぜなら、神は既に用意をしていたからであり、それによりイスラエルの人々は飢えないことが保証されていたからです。人類にはその確信も、神への真の信仰もないのです。人間は常に将来のために少しだけ残し、神が人類のために用意したものの背後にある配慮と思いを見ることが決してできないのです。人間にはどうしてもそれを感じることができず、常に神を疑い、「神の業は信頼できない。神がそれを人類に与えるのか、いつ与えるのか誰が知っているのだ。本当に空腹なのに神が与えなかったとしたら、私は飢えるのではないか。栄養が不足するのではないか」と常に考えています。人間の確信がいかに小さいかを御覧なさい。
穀物や果物、野菜、様々な種類のナッツ類は、すべて植物性の食料です。それらは植物性の食料ですが、人体の必要性を十分に満たすだけの栄養素が含まれています。しかし、神は「これだけ人類に与えれば十分だ。人類はこれだけ食べていればよい」とは言いませんでした。神はそこで止めず、その代わり人類のために一層美味しい食料を用意しました。それは何ですか。それは、あなたがたのほとんどが見て食べることのできる様々な肉や魚です。神が人間のために用意したとても多くの種類の肉や魚があります。魚はすべて水中で生きています。魚肉は、食感が地上で育つ肉とは異なり、また人類に様々な栄養素を供給できます。魚の特性もまた人体の冷気と熱気を調整できるので、魚は人類にとって極めて有益です。しかし、美味しいものは、食べ過ぎてはなりません。それは次の言葉通りです。すなわち、神は人類に適切な時に適切な分量を与えるので、人間は季節と時期に従って正常かつ適切にそれらのものを享受することができます。家禽には何が含まれますか。ニワトリ、ウズラ、ハトなどです。アヒルやガチョウを食べる人々も多いです。神は備えましたが、神の選民に対しては、律法の時代において、神は要求事項を示し、特定の範囲を定めました。現在では、この範囲は個人の好みと理解にもとづいています。こうした様々な種類の肉により、人体に様々な栄養素が供給され、それはタンパク質や鉄を補給し、血液を豊かにし、筋肉や骨を強化し、エネルギーを増加します。要するに、人間が用いる肉の調理方法や食べ方を問わず、肉は一方で味覚と食欲を向上させ、他方で腹を満たすことができます。肉は人体に必要な日常的栄養素を供給できるということが最も重要な点です。それが、神が人類に食料を用意した時に神がもっていた気遣いです。植物性の食品と肉があります。これは豊富で潤沢なことではないでしょうか。しかし、人間は、神が人類のための食料を用意した時の神の本来の意図が何であったかを理解する必要があります。それは、こうした物質的食料を人間に貪欲に楽しませるためでしたか。人間が物質的満足に耽溺すると、どうなるでしょうか。栄養過剰になるのではありませんか。栄養過剰は、人体に様々な疾病を引き起こすのではありませんか。(はい。)これが、神が適切な時期に適切な分量を分割し、様々な時期と季節において、様々な食料を人間が享受できるようにした理由です。たとえば、酷暑の夏を過ごした後、人間の身体には、大量の熱気、病気の原因となる乾気や湿気が蓄積されます。秋が来ると、多くの種類の果実が熟れ、人間が果物を食べると、その湿気は解消されます。同時に、牛や羊は逞しく成長するので、人間はその肉を栄養補給として食べるべきなのです。様々な肉を食べた後、人体はエネルギーと熱気を得て、それが冬の寒さに耐えるのに役立つので、冬を無事に乗り越えることができます。人類のために、いつ何を用意するか、いつ何を生長させるか、結実させるか、熟れさせるか、これらのことは、すべて神によりとても慎重に管理され支配されています。これが「神はいかに人間の日常生活に必要な食料を用意するか」に関する題目です。あらゆる種類の食料のほか、神は人類に水源を与えています。人間は、食事の後に水を飲まなければなりません。果物を食べるだけで十分ですか。人間は果物を食べるだけでは耐えられず、なおまた、果物がない季節もあります。それでは、人間の水問題は、どうすれば解決できますか。湖沼、河川、泉など、地上や地中に多数の水源を用意した神によってです。これらの水源からは、汚染や人間による処理や損害がない場合、飲むことができます。つまり、人間の物理的身体の生活のための食料源に関しては、神は極めて正確で、精密で、適切な用意を行ったので、人間の生活は豊富で潤沢であり、何も不足していないのです。これは、人々が感じ見ることができることです。
2019年1月15日火曜日
全能神教会の御言葉カード
2019年1月13日日曜日
クリスチャンの証し「対話」抜粋シーン(3)中共のうわさや中傷に対するクリスチャンの驚くべき反撃
クリスチャンを騙し、神を裏切らせ、信仰を捨てさせるために、中国共産党は終わりの日のキリストと主イエスを受肉した神ではなくただの人だと言って公けに冒涜しました。共産党はクリスチャンは神ではなく只の人を信仰していると言いふらし、神に使われている男が教会の管理事務をすべて行っていることを根拠にその人が全能神教会を設立したとの噂をたてました。受肉とはいったい何でしょう?全能神教会は如何にして出来、だれが設立したのでしょうか?信徒は如何にして真理と事実をもって中国共産党がキリストや全能神教会について広めるの噂や中傷に反論していくのでしょうか?
場所:
日本
2019年1月10日木曜日
2018年12月19日水曜日
全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 2」5
(2) 人間は誠心誠意の悔い改めにより神の憐れみと寛容を獲得する
以下に、「神によるニネベの救い」の聖句を上げる。
(ヨナ書1:1-2)ヤーウェの言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。
(ヨナ書3章)時にヤーウェの言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナはヤーウェの言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。
(ヨナ書4章)ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、ヤーウェに祈って言った、「ヤーウェよ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それでヤーウェよ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。ヤーウェは言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。時にヤーウェ神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。ヤーウェは言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。
ニネベの聖句の概要
「神によるのニネベの救い」の聖句は長いものではないが、この聖句から神の義なる性質の別の側面を垣間見ることができる。その側面とは具体的に何を指すかを理解するためには、聖句で神の業を確認する必要がある。
それでは、この聖句の冒頭部分を検討する。(ヨナ書1:1-2)「ヤーウェの言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである』。」この部分では、ヤーウェ神がニネベの都へ向かうようヨナに命じたことが分かる。神がヨナにニネベへ向かうよう命じたのはなぜだろうか。それは聖書に明記されている。ニネベの町の人々の悪がヤーウェ神の目に留まり、神はヨナを遣わし、ヤーウェが行おうとしている業について人々に知らせようとした。ヨナが何者かについては記述が無いが、無論それは神を知ることとは無関係である。したがって、ヨナについて知る必要は無い。必要なのは、神がヨナに命じた内容と、命じた理由を理解することである。
ニネベに届いたヤーウェ神の警告
この聖句の次の部分、ヨナ書第3章に進む。「ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、『四十日を経たらニネベは滅びる』と言った。」この言葉は、神がニネベの人々に伝えるために直接ヨナに託した言葉である。またこの言葉は、当然ながら、ヤーウェがニネベの人々に伝えることを望んでいたものであった。この言葉からは、ニネベの人々の悪が神の目に触れたため、神がニネベの人々に嫌悪感を抱き、ニネベを滅ぼすことを望んでいたことが分かる。しかし、神がニネベを滅ぼす前に、神はニネベの人々にその旨を通知すると同時に、ニネベの人々に、悪を悔い改め、再出発する機会を与えた。この機会は40日間であった。つまり、ニネベの人々が悔い改めて罪を認め、40日以内にヤーウェ神の前にひれ伏さなかった場合、神はニネベの町を、ソドムと同様に滅ぼそうとしていた。これがヤーウェ神がニネベの人々に伝えることを望んだ内容であった。これは単なる宣告ではなかったことは明白である。この宣告はヤーウェ神の怒りを伝えるのみならず、ニネベの人々に対するヤーウェ神の姿勢を伝えるものでもあり、同時にこの簡単な宣告は、ニネベの町で生活する人々への厳粛な警告としての作用もあった。この警告では、ニネベの町の人々の悪がヤーウェ神の嫌悪を買うに至ったこと、人々の悪業により、人々は程なくして滅びの危機に見舞われること、したがって、ニネベの人々は喫緊の大惨事が待ち受けていることが伝えられた。
ヤーウェ神の警告に対するニネベとソドムの反応の明らかな相違点
滅びる、とは何を意味するであろうか。言葉通りに解釈すれば、消滅するということである。しかし、どのようにして消滅するであろうか。一体誰が町全体を滅びさせることができようか。当然、そのようなことは人間には不可能である。ニネベの人々は愚かではなかったので、この宣告を聞いてすぐに、その旨を理解した。ニネベの人々は、その宣告が神から伝えられたものであること、神が業を行うつもりであること、自分達の邪悪さがヤーウェ神の怒りに触れ、その怒りが自分達に対するもので、程なくしてニネベの町も自分達も滅ぼされるであろうことを理解した。ヤーウェ神の警告に対し、ニネベの人々はどのように行動したであろうか。聖書では、王から一般人まで、ニネベの人々の反応が詳細に記載されている。聖句には、「そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、『人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。…』とある。
ヤーウェ神の宣告を聞いた後、ニネベの人々はソドムの人々が見せた態度とは正反対の態度を取った。ソドムの人々は、何の躊躇もなく、神に反抗し、邪悪を重ねたが、ニネベの人々は、この宣告を聞いた後、それを無視することも、それに反抗することも無く、神を信じ、断食を命じた。ここで「信じ」、とは何を意味するであろうか。言葉自体は、信仰と服従を意味する。ニネベの人々が実際に取った行動で説明すれば、ニネベの人々は、神は言葉通りの業を行うことが可能であり、またその通り実行することを信じ、悔い改めることを望んだ、という意味である。ニネベの人々は喫緊の災いに瀕して恐れを感じていたであろうか。ニネベの人々が恐れたのは、信仰のためである。ニネベの人々の信仰と恐れは、何によって証明することが出来るであろうか。それは聖句にある通りである。すなわち、「断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。」つまり、ニネベの人々には真の信仰があり、その信仰から恐れが生まれ、その結果として、断食と粗布の着用が行われた。ニネベの人々は、こうして悔い改めの開始を示した。ソドムの人々とは全く対照的に、ニネベの人々は神に反抗しなかっただけでなく、自分達の行動により悔い改めを明示した。無論、これはニネベの一般人だけでなく、王も例外ではなかった。
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