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2019年4月29日月曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 5



2) 各種宗教を信仰する者の生死の周期

これまでは、最初の類型の人々である、信仰の無い人々の生死の周期の話をした。ここからは、2番目の類型の人々である、各種宗教の信者の話をする。「各種宗教を信仰する者の生死の周期」もまた重要事項であり、これについての知識を得ることは、便宜となる。まずは、「信仰する者」の「信仰」が何を指すかについて話をする。「信仰」とは、ユダヤ教、キリスト教、カトリック、イスラム教、仏教の5大宗教を指す。信仰の無い者に加え、これらの5大宗教を信仰する者は、世界人口のうち大きな割合を占める。これら5大宗教では、その信仰を職業とする者、すなわち信者のうち、宗教を専業として従事する者は少ないが、これらの宗教の信者は多数存在する。これらの宗教の信者は、死後に別の場所へ行く。誰と「別」であるか、というと、それは先般話をした信仰の無い者と別、ということである。5大宗教の信者が死ぬと、信仰の無い者とは異なる場所へ行く。霊的世界では、こうした信者についても、死ぬまでの全ての行いに基づいて裁き、それに続いてその裁きに従って処分される。しかし、信者の人々が、別の場所に行き処分されるのは何故であろうか。それには、重要な理由がある。その理由とは何であろうか。ひとつ例を挙げて説明する。


仏教を例に挙げる。あなたがたに事実を述べると、第一に、仏教徒とは、仏教に改宗した者であり、その教義を知る者をさす。仏教徒が剃髪して僧や尼僧となった場合、それは俗世や、人間の世界の喧噪から遠くはなれて行ったことを意味する。こうした仏教徒は、毎日読経し、精進料理を食べ、苦行を行い、暗いバターランプの僅かな明かりと共に過ごす。仏教徒は、一生をこのようにして過ごす。仏教徒の人生が終わる時、自分の生涯をまとめるが、死後に自分がどこへ行くか、誰と会うか、生涯がどのように終わるかは知らず、こうした事柄について明瞭に理解していない。仏教徒は、ひたすら信仰のみで盲目的に一生を過ごし、盲目的な願いと理想を抱いてこの世を去る。それが、仏教徒の肉体的生涯の終焉であり、その後は霊的世界の自分が生まれてきた場所へと還る。この仏教徒が生まれ変わってこの世に戻り、修行を続行するかどうかは、その者の前世における行いや自己修養により決まる。生涯のうちに誤った行いが無かった者は、すぐに生まれ変わって地上に戻り、そこで再び剃髪して僧や尼僧となる。仏教徒は、3回から7回、僧や尼僧になる。初回時の過程と同様にして、仏教徒の身体は自己修養され、その後死ぬと霊界に戻り、そこで検査が行われた後、問題が無ければ、再び人間の世界へと戻り、自己修養を継続する。すなわち、再び仏教徒として改宗し、自己修養を続ける。仏教徒は、3回から7回生まれ変わった後、肉体の生涯が終わるたびに戻っていた霊的世界へと、もう一度戻る。人間の世界における仏教徒の様々な資格や行動が霊的世界における天の命令に準じている場合、その時点以降、その仏教徒は霊的世界に留まる。その仏教徒がそれ以上人間として生まれ変わることも、地上における悪業に対する罰を受ける恐れも無くなる。この仏教徒がこの工程を経験することは、二度と無い。その代わりに、この仏教徒は状況に応じて霊界におけるある地位を得るが、それが仏教徒の言う永遠の命を得ることである。これで、あなたがたはこのことを理解したであろう。それでは、仏教の「解脱」とは何を指すであろうか。解脱とは、霊的世界の執行官となり、それ以降の生まれ変わりや罰の可能性が無くなることを意味する。さらに、解脱とは、輪廻により人間となることの苦悶が無くなることを意味する。それでは、その仏教徒が動物に生まれ変わる可能性はあるであろうか。可能性は皆無である。そのことには、どのような意味があるであろうか。それは、霊的世界で、ある役割を継続的に担い、人間として生まれ変わることが無くなることを意味する。これが解脱の一例である。
それでは、解脱に達しなかった仏教徒はどうなるであろうか。こうした仏教徒が霊的世界に戻ると、検査され、担当する執行官により検証が行われ、仏教で定められた通り熱心に修練せず、誠心誠意をもって読経せず、むしろ悪業や不道徳な行いを多数行ったと判断される。こうした仏教徒は、霊的世界に戻った時にその邪悪な行いについて裁きが下された後、罰せられる。これについては、例外は一切無い。それでは、こうした人々が永遠の命を得るのは何時であろうか。こうした人々がその人生において邪悪な事を全く行わなかった場合、霊的世界に戻った後、生前に全く誤った行いが無かったと判断される。よし。仏教徒は生まれ変わり続け、読経を続け、バターランプのほのかな明かりととともに毎日を過ごし、殺生を行わず、肉を食べず、人間の世界に入ることなく、人間の問題から遠く離れ、他人と言い争うことが一切無い。この過程の中で、仏教徒は邪悪な行いをせず、その後霊的世界に戻り、あらゆる行動や態度が検証され、人間の世界に再び送られるという周期が3回から7回反復される。この間に何も問題が無ければ、永遠の命の獲得には何も影響が無く、成功を収める。これは、信仰のある人々の生死周期の特徴である。信仰のある人々は、永遠の命を得て、霊的世界での地位を獲得することが可能である。信仰のある人々と、信仰の無い人々の相違点は、これである。第一に、霊的世界で地位を得ることの出来る人々が地上で生きている時における行動は、どのようなものであろうか。こうした人々は、悪業を一切行ってはならない。こうした人々は、殺人や放火、強姦、略奪などを行ってはならない。こうした人々が詐欺やごまかし、窃盗、強盗などを行った場合、永遠の命を得ることは出来ない。つまり、悪業に何らかの形で関与した場合、霊的世界の罰から逃れることは出来ない。霊的世界では、永遠の命を得る仏教徒に対する適切な采配が行われる。仏教徒は、仏教と蒼天を信仰しているものと見られる人々を監督し、仏教徒は管轄権を与えられ、信仰の無い人々を管理するか、あるいは下級の執行官となることがある。こうした任命は、その魂の性質に従って行われる。これが仏教の一例である。
先述した5大宗教のうち、キリスト教は少し特殊である。それでは、キリスト教の特殊性とは何であろうか。キリスト教徒は、真の神を信仰する人々である。真の神を信仰する人々がここで挙げられているのは、何故であろうか。なぜなら、キリスト教では、神が存在することを認めているにすぎず、神に反抗し、敵意を抱いているからである。キリスト教徒は、キリストを再び十字架に架け、終わりの日における神の業に敵対する立場を取り、その結果として宗教団体のひとつに零落している。キリスト教は宗教の一種であるため、信仰のみに関連することは確実である。キリスト教は、一種の儀式であり、教派であり、宗教であり、真に神に付き従う信仰とは別のものである。わたしがキリスト教を5大宗教のひとつに挙げたのは、キリスト教がユダヤ教、仏教、イスラム教と同じレベルにまで零落しているからである。大部分のキリスト教徒は、神が存在することも、神が万物を支配していることも信じておらず、いわんや神の実在を信じているということは無い。その代わりに、キリスト教徒は、単に聖句を用いて神学を論じ、神学を用いて人間に対して親切にすること、辛苦に耐えること、善行を行うよう諭すのみである。それがキリスト教という宗教である。つまり、神学的理論のみに集中し、人間を経営し、救う神の業とは全く関係なく、神によって認められていない神に付き従う人々の宗教である。しかし、神には、そうしたキリスト教徒に対する姿勢の原則がある。神が信仰の無い人々と同様に、気の向くままにキリスト教徒を取り扱うことは無い。キリスト教徒に対する神の姿勢は、仏教徒に対する姿勢と同様である。キリスト教徒が生きている間に自己鍛錬を行い、十戒その他の訓戒を遵守し、自らの行動に関してキリスト教徒に求められる律法に従い、それを生涯全体にわたって行う事が出来た場合、キリスト教徒は、生と死の周期を同じ期間くり返した後、いわゆる携挙を真に得ることができる。この「携挙」に達した後、キリスト教徒は霊的世界に留まり、そこで何らかの地位を得て執行官となる。同様に、キリスト教徒が地上で悪業を行った場合、罪深く、多くの罪を犯した場合、様々な重さの罰や鍛錬を受けることは免れない。仏教においては「永遠の命」を得ることは、涅槃に入ることを意味するが、キリスト教では、それを何と呼ぶであろうか。それは「天国に入る」、そして「携挙」されると言われる。真に「携挙」された者もまた生と死の周期を3回から7回にわたりくり返し、その後にあたかも寝ていたかのように死んで霊的世界に辿り着く。こうした者は、基準を満たしていれば何らかの役割を担い、地上の人々とは異なり、単純に生まれ変わることは無く、慣例にしたがって単純に生まれ変わることもない。

これらの宗教すべてにおいては、信者が議論し、獲得しようとする終焉は、仏教で言う永遠の命の獲得と同じである。ただ、その目的を達成する方法は様々である。これらの宗教は、すべて同種である。これらの宗教の信者のうち、信仰上の教えを遵守して行動できる者、そうした一部の信者に対し、神は相応の終着点を与え、適切に対処する。そうした事柄は、全て合理的であるが、人間の想像とは異なるものである。ここまでキリスト教徒がどうなるかに関する話を聞いて、あなたがたはどう感じるであろうか。あなたがたは、キリスト教徒を哀れに思うであろうか。あなたがたは、キリスト教徒に同情するであろうか。(多少同情する。)これについては、何も出来ない。キリスト教徒は自分自身を非難するほかない。わたしがこう述べるのは何故であろうか。神の業は真実であり、神は生きて実在し、神の業は全て人間それぞれを対象とするものであるが、キリスト教徒がそれを受け容れないのは何故だろうか。キリスト教徒が気が狂ったように神に反抗し、神を迫害するのは何故だろうか。キリスト教徒には、このような終焉があって幸運である。それならば、何故あなたがたはキリスト教徒を哀れむのであろうか。キリスト教徒がこのような処遇を受けることは、大いなる寛大さの現れである。キリスト教徒が神に反抗する度合いに基づけば、キリスト教徒は滅ぼされるべきである。しかし神はそうせずに、キリスト教を普通の宗教と同様のものとして扱うのみである。さて、その他の宗教についても、詳細を話す必要があるだろうか。その他の宗教の理念は、どのようなものであろうか。それは、人間が思いやりの心を持ち、悪業を行わないことである。それは、多くの苦難を背負い、邪悪を避け、好感の持てる話をし、善行を行い、他人の悪口を言わず、他人に対する偏見を持たず、論争を避け、善行を行い、善人となることである。大部分の宗教の教義は、こうしたものである。そうしたわけで、こうした信仰のある者、すなわち様々な宗教や宗派の信者が、信仰上の教えを遵守することが出来る場合、そうした信者が地上に居る間は大きな過ちや罪を犯すことが無く、3回から7回生まれ変わった後、そうした教えや原則を遵守出来る信者の人々は、概して霊的世界に留まり、ある役割を担うようになる。それでは、こうした人々は大勢居るだろうか。善行を行い、信仰上の規則や掟を遵守することは、容易なことでは無い。仏教では、人間が肉を食べることを禁じているが、あなたはそれが出来るだろうか。一日中灰色の法衣をまとい、寺で読経しなければならないとしたら、あなたにそれが出来るだろうか。それは容易でないだろう。キリスト教には十戒その他の訓戒があるが、それらの訓戒等は容易に遵守できるものだろうか。それは容易ではない。他人の悪口を言わないこと。人間は、この定めを守ることが出来ないであろう。人間は自制できず、他人の悪口を言う。そして悪口を言った後は、それを取り消すことは出来ないが、そこで人間はどうするだろうか。人間は夜になると、自らの罪を告白する。人間は自制して他人の悪口を言わないでいることが出来ないので、悪口を言った後も心中に憎しみが残り、その上に他人を傷つけることを企む。要するに、こうした死んだ教義のなかで生活している人々にとって、罪を犯さず、邪悪な行いを避けることは容易ではない。そこで、全ての宗教において、永遠の命を得ることが出来る者は僅かしか居ない。極めて多くの人々がこれらの宗教を信仰しているのだから、霊的世界に留まり何らかの役割を得ることの出来る人間が多いだろうと、あなたは考える。しかし、永遠の命を得ることが出来る者はそれほど多くは居らず、ごく僅かしか居ない。信仰のある人々の生死周期の概要については、以上である。こうした人々と信仰の無い人々との相違点は、信仰のある人々は永遠の命を得ることが出来る、ということである。

2019年4月16日火曜日

復活後のイエスによる弟子達に対する言葉


 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネによる福音書20:26-29)

 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。」(ヨハネによる福音書21:16-17)
 これらの聖句により述べられている事柄は、主イエスが復活した後に、弟子達に対して行った業と言葉である。まず、復活の前後における主イエスの相違点について検討する。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わりないであろうか。この聖句には、復活後のイエスに関する「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。」という件が含まれている。この時の主イエスは肉にある存在ではなく、霊の存在となっていたことは明らかである。なぜなら、主が肉の限界を超越し、扉が閉ざされていたにもかかわらず、主は人々の前に来て自身の姿を見せたからである。これが復活前の肉にあった主イエスと、復活後の主イエスの、最大の相違点である。その時の霊的存在の外観と、それ以前の主イエスの外観には何ら相違はなかったが、その時のイエスは人々にとって見知らぬ人と感じられるような存在となっていた。なぜなら、主は死から復活した後に霊的存在となり、従前の身体と比較すると、その霊的存在は人々にとって謎めいた理解し難い存在となっていたからである。またそれが原因となり、主イエスと人々との間に、一層の隔たりが生じ、人々はその時の主イエスが一層不思議な存在になったと感じた。人々のこうした認識と感覚により、人々は、目に見えず触れることの出来ない神を信仰していた時代へと、突如として戻された。そうしたわけで、主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。

 主は霊の存在であったとすると、なぜ人々は主に触れ、主を見ることが出来たのであろうか。それは主イエスが人間の前に現れたことの意味に関連する問題である。これら2つの聖句について、何か気付くことがあるだろうか。通常、霊の体は見ることも触れることも出来ず、また主の復活後、主イエスの業は既に完了していた。したがって理論的には、主が復活前の姿で人々の前に再び現れ、人々に会う必要は全く無かった。しかし、主イエスの霊の存在がトマスなどの人々の前に現れたことにより、その意味が一層具体的なものとなり、人々の心に一層深く刻み込まれた。主がトマスの前に現れた時、疑念を抱いていたトマスに自身の手に触れさせ、「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言った。この言葉や業は、主イエスが復活した後に伝えたい、行いたいと思ったものではなく、主が十字架にはり付けられる前に伝え、行いたいと思っていたものである。十字架にはり付けられる前の主イエスが、トマスのような者に関して理解していたことは明らかである。このことから何が分かるであろうか。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わらなかった、ということである。主の真髄は、変わっていなかった。トマスの疑念は、この時始まったのではなく、主イエスに付き従っている時分からあったものだが、主は死から復活して霊的世界から、復活前の外観、性質、そして肉にあった時の人間に対する認識で戻って来た。故に主イエスはまず最初にトマスのこところへ行き、自身のわき腹をトマスに触れさせて復活後の主の霊的存在に触れさせるだけでなく、主の霊的存在に触れて実感させ、トマスの疑念を完全に払拭させたのである。主イエスが十字架にはり付けられる前、トマスは常に主がキリストであるということに疑念を抱き、信じることが出来なかった。トマスの神に対する信仰は、トマスが見ること、手で触れることが出来ることのみに基づいていた。主イエスは、この種の人間の信仰について、よく知っていた。この種の人々は天の神のみを信じ、神が送った肉にあるキリストを受け容れることが出来なかった。主イエスの存在と、イエスが真に受肉した神であることをトマスに理解させ、信じさせるため、イエスはトマスに対し、手で自身のわき腹に触れさせた。主イエスの復活の前後で、トマスの疑念に異なる点はあったであろうか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊的存在がトマスの前に直接現れ、トマスに自身の身体に残された釘あとを触れさせる以外に、トマスの疑念を払拭することは誰にも出来なかった。そうしたわけで、主イエスがわき腹と残された釘あとをトマスに触れさせてからは、トマスの疑念は消え、トマスは主イエスが復活されたことを真に知り、また主イエスが真のキリストであり、受肉した神であったことを理解し、信じるようになった。この時トマスに疑念はなかったが、キリストに会う機会を永遠に失ってしまった。トマスはキリストと共にあり、キリストに付き従い、知る機会、そしてキリストにより全きものとされる機会を永遠に失ってしまった。主イエスの現れと言葉により、疑念を抱いている者の信仰に対する主の結論と審判が下された。主は自身の言葉と業により、疑念を抱く者に対して、天の神のみを信じ、キリストを疑う者に対し、そうした者の信仰や、疑念を抱きつつ付き従うことを好まないということを伝えた。そうした者たちが神とキリストを完全に信じるようになる時、それは他でもない、神の大いなる業が完了した時である。もちろん、大いなる業が完了した時は、そうした者たちの疑念に対する審判が下る時でもある。その者たちのキリストに対する態度により、その者たちの運命が決められ、そうした頑なな疑念の結果としてその者達が得るものは無く、頑固さゆえ、そうした者たちの希望は報われない。そうした者たちの天の神に対する信仰は幻により育まれており、またそうした者たちのキリストに対する疑念がそうした者たちの神に対する実際の態度であるため、そうした者たちは実際に主イエスの釘跡に触れたにもかかわらず、そうした者たちの信仰は無駄であり、そうした者たちの結末は無駄な努力をしているとしか言いようが無い。主イエスがトマスに対して述べたことにより、全ての者に対して、復活した主イエスが人間の中で33年と半年にわたって業を行っていた主イエスである、と明確に伝えられている。イエスは十字架に釘ではり付けられ、死の陰の谷を歩んだ後に復活したにもかかわらず、イエスのあらゆる側面は変わることがなかった。イエスの身体には釘あとが付き、復活して墓から出てきたにもかかわらず、その性質、人間に対する認識、人間に対する旨は全く変わることがなかった。また、イエスは十字架から下ろされ、罪や苦難、そして死に打ち克ったと人々に伝えた。その釘あとは、サタンに対する勝利の証しであり、人類すべてを贖うための罪のいけにえとなった証であった。イエスは、人類の罪を既に負い、贖いの業を成し遂げたことを人々に告げていた。イエスが使徒たちの前に戻って来た時、イエスが出現されたことによって、使徒たちに対して「依然としてわたしは生きている。わたしは、あなたがたがわたしを見て触れることができるよう、実際にあなたがたの前に立っている。わたしは常にあなたがたと共に居る」と伝えた。また、主イエスはトマスの例を「主イエスを信じていたとしても、主を見ることも、主に触れることも出来ないが、あなたは、あなた自身の真の信仰により祝福され、あなたの真の信仰により主イエスを見ることが可能であり、それが可能な人は恵まれている」という、その後の人々に対する警告として用いたいと考えた。
……

 これが疑い深い者に対する主イエスの姿勢である。それでは、主イエスを心から信じて付き従う者に対し、主はどのような言葉を述べ、どのような業を行ったであろうか。次に、その言葉と業について、主イエスがペテロに対して述べた言葉を検討する。

 この対話のなかで、主イエスは繰り返し「ペテロよ、わたしを愛するか」と尋ねている。これは、主イエスが復活した後に、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような者に対して主イエスが求めた、比較的高い基準である。この質問は、ある種の調査であり、ある種の尋問であったが、それ以上に、ペテロのような者に対する要求であり、期待であった。イエスはこのような方法により、人々に自分自身を省みて「主イエスが人々に要求していることは何であろうか。私は主を愛しているか。私は神を愛する者であろうか。私はどのように神を愛するべきであろうか。」と自問自答させた。主イエスがこう質問したのはペテロだけであったが、神はその心の中で、神を愛することを追い求める更に多くの人々に、同様の質問を投げかけることを望んでいた。ペテロは、この種の人々の代表として、主イエスから直接この質問を受ける祝福にあずかったというだけのことである。

 主イエスがトマスに対して「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と復活後に述べたのに対し、ペテロに対しては3回「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか。」と尋ねている。この質問により、主イエスの厳格さと、主が質問した時の切迫性を、一層感じ取ることができる。狡猾で不正な性格のトマスの疑念について、主イエスはトマスを主の釘あとに触れさせることで、主イエスが復活した人の子であり、主イエスがキリストであることをトマスに確信させた。主イエスはトマスを厳しく非難することも、審判を明確に述べることもなかったが、イエスは実際の行動により、自分がトマスを理解していることをトマスに知らせつつ、この種の人々に対する主の姿勢と判断を示した。この種の人々に対する主イエスの要求は、主の言葉には見られない。これは、トマスのような人々には真の信仰が全く無いためである。こうした人々に対する主イエスの要求は真の信仰あるのみであるが、ペテロのような人々に対する啓示は全くこれと異なる。イエスは、ペテロに対して釘あとに触れるよう要求することも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言うこともなかった。そのかわりに、イエスはペテロに対し、同じ質問を繰り返した。これは、思考を刺激すると同時に、キリストに付き従う者すべてが自責の念にとらわれ、畏れを感じ、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じざるを得ないような、意味深い問いかけであった。そして、キリストに付き従う者たちは、大いなる痛みと苦しみに苛まれている時に、主イエス・キリストの懸念と労り一層深く理解することが出来るで、イエスの純粋で誠実な人々に対する熱心な教えと厳格な要求を認識する。主イエスの問いかけにより、人々はこうした簡潔な言葉により啓示された主の人々に対する期待は、主を信じ、付き従うことだけでなく、愛ある人間となり、主を愛し、神を愛することであることを感じることができる。この種の愛は、慈しみと服従である。それは人類が神のために生き、死に、全てを神の前に差し出し、尽くし、捧げることである。また、この種の愛により、神は慰めを得、自身に対する証を喜び、そして安息を得る。この種の愛は、人類の神に対する返報であり、責任であり、義務であり、本分であり、人類がその生涯を通して従うべき道である。この3回の問いかけは、ペテロをはじめとする完全な存在となる人々に対する主イエスの要求であり、警告であった。ペテロがその人生の道を完遂するよう導き、励ましたのは、この3回の問いかけであった。また、完全な存在となる道を歩み始めるようペテロを導いたのも、ペテロの主に対する愛ゆえに、主の心を労り、主に服従し、主に慰めを与え、この愛ゆえに自分の生涯と自分自身の全てを捧げるようペテロを導いたのも、主イエスが去る際の、この問いかけであった。

 恵みの時代では、神の業は専ら2種類の人々を対象とするものであった。その2種類の人々のうちの1つは、神を信じて付き従い、神の戒めを守り、十字架を負い、恵みの時代の道を守ることのできる人々であった。この種の人々は、神の祝福を得て、神の恵みを享受した。2つ目の種類の人々は、ペテロのように完全な存在となる人々であった。そうしたわけで、主イエスが復活した後、主は最初にこの2つの極めて有意義な業を行ったのである。そのうちの1つはトマスに対してであり、もう1つはペテロに対してであった。この2つの業は何を表しているであろうか。神が人間を救う真の旨を表しているであろうか。神の人間に対する誠実さを表しているであろうか。神がトマスに対して行った業は、疑うことなく、ひたむきに信じるよう人々に警告するためのものであった。主がペテロに対して行った業は、ペテロのような人々の信仰を強化し、この種の人々に対する要求を明確化し、この種の人々が目指すべき目標を示すためのものであった。

 主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。仮にあなたが当時のトマスやペテロであって、人生のなかでこのような極めて意義深い出来事に遭遇したとしたら、それはあなたにどのような影響を及ぼすであろうか。その出来事は、神を信じる生活において最も素晴らしい、至高のビジョンである、と認識するであろうか。人生において神に付き従い、神を満たすために努力し、神への愛を追求する上で励みになると認識するであろうか。この至高のビジョンを広めるため、一生涯をかけて努力するであろうか。主イエスの救いを広めることを、神から授けられた命令として受け入れるであろうか。あなたがたはこうした業を経験していないが、トマスとペテロの業の事例は、現代の人々にとって、神の旨と、神自身を明瞭に理解するに十分である。神が受肉して人間として人間の中で生活を経験し、人間の腐敗や人間生活の惨状を目の当たりにした後、受肉した神は、人間の絶望や悲しみ、哀れさを深く感じた。受肉して生活した際の人性と直感が原因となって、神は人間の惨状に対する憐れみを一層深めた。その結果として、神は、神に付き従う者に対する懸念を深めた。こうした事柄は理解できないかもしれないが、神に付き従う者全てに対する受肉した神の懸念と慈しみは、「極めて強い懸念」という表現で表わすことができるであろう。強い懸念という言葉は人間の言葉であり、極めて人間的な言葉ではあるが、神に付き従う者に対する神の気持ちを真に表現している。人間に対する神の強い懸念は、経験を重ねてゆくにつれて感じ取ることができるであろう。しかし、それを感じ取るには、あなたがた自身の性質の変化を追求することによって神の性質を徐々に理解することによるほかにない。主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。
       『言葉は肉において現れる』より


2019年4月5日金曜日

キリスト教 ゴスペルダンス 「私達は喜び集い神を賛美します」



キリスト教 ゴスペルダンス 「私達は喜び集い神を賛美します」
賛美し、 喜びなさい!
賛美し、 喜びなさい!
賛美し、 喜びなさい!
賛美し、 喜びなさい!
神の性質はとても素敵です
神を証し賛美することは私達の本分です
兄弟姉妹は共に大喜びです
太鼓をたたき、歌い、踊りましょう
新しい時代を始める肉となった神を私達は賛美します
神自身が人の間で働き、語られます
人の不正を裁き、彼らの堕落を露わにされます
面と向かい、私達は神の現れを見ます
神の性質は憐れみ深く、義と威厳があります
私達は歓呼し、賛美します!
全能神に栄光あれ!
神を賛美するために声をあげましょうそうすれば、私達は力を得ます!HEY!
歌い踊れば、喜びが増します
真心から賛美する者だけが神を愛しています
急いで、神を証し、賛美しなさい!
私達は神の裁きを受け入れ
神の清めと完全を得ます
私達はとても祝福されています
神の素晴らしい救いを受けます
賛美し、 喜びなさい!
賛美し、 喜びなさい!
賛美し、 喜びなさい!
賛美し、 喜びなさい!
神の性質はとても素敵です
神を証し賛美することは私達の本分です
神の業が完全に明らかにされました
神は知恵があり全能です
神は勝利者の一団を造り
サタンを負かして徹底的に辱められた
神は救いによって人類に恵みを示されます
私達は心からひれ伏し礼拝します。HEY!
私達は常に神に服従します
全ての被造物は喜び歓呼します
私達は神を賛美するため、真心を捧げます
私達は神を賛美する@神の栄光が地を覆っているから
私達は喜び集い神を賛美します!
私達は喜び集い神を賛美します!
私達は喜び集い神を賛美します!
私達は喜び集い神を賛美します!
神を賛美します!神を賛美します!
神を賛美します!神を賛美します!
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2019年3月11日月曜日

キリスト教 美しい讃美歌 「各国から来た神の民が、ひとつとなって心情を表現する」神の愛を感謝し、賛美する



キリスト教 美しい讃美歌 「各国から来た神の民が、ひとつとなって心情を表現する」神の愛を感謝し、賛美する
神の国を見よ
そこで神は万物を統べ治める
創造の始めから現代まで
神の息子たちは苦難の中を導かれた
行くところ山あり谷あり
だが今神の光の中に住む
昨日の不正にすすり泣かない者は誰か?
今日苦心して勝ち取った生活に涙しない者は誰か?
この機会に心を神に捧げない者は誰か?
自分の情熱と体験を声にしたくないのは誰か?
昨日の不正にすすり泣かない者は誰か?
今日苦心して勝ち取った生活に涙しない者は誰か?
この機会に心を神に捧げない者は誰か?
自分の情熱と体験を声にしたくないのは誰か?

彼らの心には神が住む
それは神の業が成就したからだ
昨日の不正にすすり泣かない者は誰か?
今日苦心して勝ち取った生活に涙しない者は誰か?
この機会に心を神に捧げない者は誰か?
自分の情熱と体験を声にしたくないのは誰か?
昨日の不正にすすり泣かない者は誰か?
今日苦心して勝ち取った生活に涙しない者は誰か?
この機会に心を神に捧げない者は誰か?
自分の情熱と体験を声にしたくないのは誰か?
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より