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2019年5月8日水曜日

クリスチャン映画「福音の使者」 抜粋シーン(2)キリストは受肉した神




過去2千年間、主の信仰者たちは、主イエスがキリストであること、肉となった神であることを承知していたが、神の受肉とは実際に何であるか、受肉した神を我々はいかに知るべきかに関する真理の奥義を理解できる者はいなかった。このため、終わりの日の全能神が裁きの働きを行うため肉となって来られても、一部の人々は全能神を普通の人であるかのように扱い、終わりの日の全能神の働きを受け入れようとしない。これでは終わりの日の神の救いを失ってしまいかねない。受肉の真理を理解することが主の再臨をお迎えするのに緊要であることは明白である。

2019年4月16日火曜日

復活後のイエスによる弟子達に対する言葉


 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネによる福音書20:26-29)

 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。」(ヨハネによる福音書21:16-17)
 これらの聖句により述べられている事柄は、主イエスが復活した後に、弟子達に対して行った業と言葉である。まず、復活の前後における主イエスの相違点について検討する。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わりないであろうか。この聖句には、復活後のイエスに関する「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。」という件が含まれている。この時の主イエスは肉にある存在ではなく、霊の存在となっていたことは明らかである。なぜなら、主が肉の限界を超越し、扉が閉ざされていたにもかかわらず、主は人々の前に来て自身の姿を見せたからである。これが復活前の肉にあった主イエスと、復活後の主イエスの、最大の相違点である。その時の霊的存在の外観と、それ以前の主イエスの外観には何ら相違はなかったが、その時のイエスは人々にとって見知らぬ人と感じられるような存在となっていた。なぜなら、主は死から復活した後に霊的存在となり、従前の身体と比較すると、その霊的存在は人々にとって謎めいた理解し難い存在となっていたからである。またそれが原因となり、主イエスと人々との間に、一層の隔たりが生じ、人々はその時の主イエスが一層不思議な存在になったと感じた。人々のこうした認識と感覚により、人々は、目に見えず触れることの出来ない神を信仰していた時代へと、突如として戻された。そうしたわけで、主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。

 主は霊の存在であったとすると、なぜ人々は主に触れ、主を見ることが出来たのであろうか。それは主イエスが人間の前に現れたことの意味に関連する問題である。これら2つの聖句について、何か気付くことがあるだろうか。通常、霊の体は見ることも触れることも出来ず、また主の復活後、主イエスの業は既に完了していた。したがって理論的には、主が復活前の姿で人々の前に再び現れ、人々に会う必要は全く無かった。しかし、主イエスの霊の存在がトマスなどの人々の前に現れたことにより、その意味が一層具体的なものとなり、人々の心に一層深く刻み込まれた。主がトマスの前に現れた時、疑念を抱いていたトマスに自身の手に触れさせ、「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言った。この言葉や業は、主イエスが復活した後に伝えたい、行いたいと思ったものではなく、主が十字架にはり付けられる前に伝え、行いたいと思っていたものである。十字架にはり付けられる前の主イエスが、トマスのような者に関して理解していたことは明らかである。このことから何が分かるであろうか。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わらなかった、ということである。主の真髄は、変わっていなかった。トマスの疑念は、この時始まったのではなく、主イエスに付き従っている時分からあったものだが、主は死から復活して霊的世界から、復活前の外観、性質、そして肉にあった時の人間に対する認識で戻って来た。故に主イエスはまず最初にトマスのこところへ行き、自身のわき腹をトマスに触れさせて復活後の主の霊的存在に触れさせるだけでなく、主の霊的存在に触れて実感させ、トマスの疑念を完全に払拭させたのである。主イエスが十字架にはり付けられる前、トマスは常に主がキリストであるということに疑念を抱き、信じることが出来なかった。トマスの神に対する信仰は、トマスが見ること、手で触れることが出来ることのみに基づいていた。主イエスは、この種の人間の信仰について、よく知っていた。この種の人々は天の神のみを信じ、神が送った肉にあるキリストを受け容れることが出来なかった。主イエスの存在と、イエスが真に受肉した神であることをトマスに理解させ、信じさせるため、イエスはトマスに対し、手で自身のわき腹に触れさせた。主イエスの復活の前後で、トマスの疑念に異なる点はあったであろうか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊的存在がトマスの前に直接現れ、トマスに自身の身体に残された釘あとを触れさせる以外に、トマスの疑念を払拭することは誰にも出来なかった。そうしたわけで、主イエスがわき腹と残された釘あとをトマスに触れさせてからは、トマスの疑念は消え、トマスは主イエスが復活されたことを真に知り、また主イエスが真のキリストであり、受肉した神であったことを理解し、信じるようになった。この時トマスに疑念はなかったが、キリストに会う機会を永遠に失ってしまった。トマスはキリストと共にあり、キリストに付き従い、知る機会、そしてキリストにより全きものとされる機会を永遠に失ってしまった。主イエスの現れと言葉により、疑念を抱いている者の信仰に対する主の結論と審判が下された。主は自身の言葉と業により、疑念を抱く者に対して、天の神のみを信じ、キリストを疑う者に対し、そうした者の信仰や、疑念を抱きつつ付き従うことを好まないということを伝えた。そうした者たちが神とキリストを完全に信じるようになる時、それは他でもない、神の大いなる業が完了した時である。もちろん、大いなる業が完了した時は、そうした者たちの疑念に対する審判が下る時でもある。その者たちのキリストに対する態度により、その者たちの運命が決められ、そうした頑なな疑念の結果としてその者達が得るものは無く、頑固さゆえ、そうした者たちの希望は報われない。そうした者たちの天の神に対する信仰は幻により育まれており、またそうした者たちのキリストに対する疑念がそうした者たちの神に対する実際の態度であるため、そうした者たちは実際に主イエスの釘跡に触れたにもかかわらず、そうした者たちの信仰は無駄であり、そうした者たちの結末は無駄な努力をしているとしか言いようが無い。主イエスがトマスに対して述べたことにより、全ての者に対して、復活した主イエスが人間の中で33年と半年にわたって業を行っていた主イエスである、と明確に伝えられている。イエスは十字架に釘ではり付けられ、死の陰の谷を歩んだ後に復活したにもかかわらず、イエスのあらゆる側面は変わることがなかった。イエスの身体には釘あとが付き、復活して墓から出てきたにもかかわらず、その性質、人間に対する認識、人間に対する旨は全く変わることがなかった。また、イエスは十字架から下ろされ、罪や苦難、そして死に打ち克ったと人々に伝えた。その釘あとは、サタンに対する勝利の証しであり、人類すべてを贖うための罪のいけにえとなった証であった。イエスは、人類の罪を既に負い、贖いの業を成し遂げたことを人々に告げていた。イエスが使徒たちの前に戻って来た時、イエスが出現されたことによって、使徒たちに対して「依然としてわたしは生きている。わたしは、あなたがたがわたしを見て触れることができるよう、実際にあなたがたの前に立っている。わたしは常にあなたがたと共に居る」と伝えた。また、主イエスはトマスの例を「主イエスを信じていたとしても、主を見ることも、主に触れることも出来ないが、あなたは、あなた自身の真の信仰により祝福され、あなたの真の信仰により主イエスを見ることが可能であり、それが可能な人は恵まれている」という、その後の人々に対する警告として用いたいと考えた。
……

 これが疑い深い者に対する主イエスの姿勢である。それでは、主イエスを心から信じて付き従う者に対し、主はどのような言葉を述べ、どのような業を行ったであろうか。次に、その言葉と業について、主イエスがペテロに対して述べた言葉を検討する。

 この対話のなかで、主イエスは繰り返し「ペテロよ、わたしを愛するか」と尋ねている。これは、主イエスが復活した後に、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような者に対して主イエスが求めた、比較的高い基準である。この質問は、ある種の調査であり、ある種の尋問であったが、それ以上に、ペテロのような者に対する要求であり、期待であった。イエスはこのような方法により、人々に自分自身を省みて「主イエスが人々に要求していることは何であろうか。私は主を愛しているか。私は神を愛する者であろうか。私はどのように神を愛するべきであろうか。」と自問自答させた。主イエスがこう質問したのはペテロだけであったが、神はその心の中で、神を愛することを追い求める更に多くの人々に、同様の質問を投げかけることを望んでいた。ペテロは、この種の人々の代表として、主イエスから直接この質問を受ける祝福にあずかったというだけのことである。

 主イエスがトマスに対して「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と復活後に述べたのに対し、ペテロに対しては3回「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか。」と尋ねている。この質問により、主イエスの厳格さと、主が質問した時の切迫性を、一層感じ取ることができる。狡猾で不正な性格のトマスの疑念について、主イエスはトマスを主の釘あとに触れさせることで、主イエスが復活した人の子であり、主イエスがキリストであることをトマスに確信させた。主イエスはトマスを厳しく非難することも、審判を明確に述べることもなかったが、イエスは実際の行動により、自分がトマスを理解していることをトマスに知らせつつ、この種の人々に対する主の姿勢と判断を示した。この種の人々に対する主イエスの要求は、主の言葉には見られない。これは、トマスのような人々には真の信仰が全く無いためである。こうした人々に対する主イエスの要求は真の信仰あるのみであるが、ペテロのような人々に対する啓示は全くこれと異なる。イエスは、ペテロに対して釘あとに触れるよう要求することも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言うこともなかった。そのかわりに、イエスはペテロに対し、同じ質問を繰り返した。これは、思考を刺激すると同時に、キリストに付き従う者すべてが自責の念にとらわれ、畏れを感じ、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じざるを得ないような、意味深い問いかけであった。そして、キリストに付き従う者たちは、大いなる痛みと苦しみに苛まれている時に、主イエス・キリストの懸念と労り一層深く理解することが出来るで、イエスの純粋で誠実な人々に対する熱心な教えと厳格な要求を認識する。主イエスの問いかけにより、人々はこうした簡潔な言葉により啓示された主の人々に対する期待は、主を信じ、付き従うことだけでなく、愛ある人間となり、主を愛し、神を愛することであることを感じることができる。この種の愛は、慈しみと服従である。それは人類が神のために生き、死に、全てを神の前に差し出し、尽くし、捧げることである。また、この種の愛により、神は慰めを得、自身に対する証を喜び、そして安息を得る。この種の愛は、人類の神に対する返報であり、責任であり、義務であり、本分であり、人類がその生涯を通して従うべき道である。この3回の問いかけは、ペテロをはじめとする完全な存在となる人々に対する主イエスの要求であり、警告であった。ペテロがその人生の道を完遂するよう導き、励ましたのは、この3回の問いかけであった。また、完全な存在となる道を歩み始めるようペテロを導いたのも、ペテロの主に対する愛ゆえに、主の心を労り、主に服従し、主に慰めを与え、この愛ゆえに自分の生涯と自分自身の全てを捧げるようペテロを導いたのも、主イエスが去る際の、この問いかけであった。

 恵みの時代では、神の業は専ら2種類の人々を対象とするものであった。その2種類の人々のうちの1つは、神を信じて付き従い、神の戒めを守り、十字架を負い、恵みの時代の道を守ることのできる人々であった。この種の人々は、神の祝福を得て、神の恵みを享受した。2つ目の種類の人々は、ペテロのように完全な存在となる人々であった。そうしたわけで、主イエスが復活した後、主は最初にこの2つの極めて有意義な業を行ったのである。そのうちの1つはトマスに対してであり、もう1つはペテロに対してであった。この2つの業は何を表しているであろうか。神が人間を救う真の旨を表しているであろうか。神の人間に対する誠実さを表しているであろうか。神がトマスに対して行った業は、疑うことなく、ひたむきに信じるよう人々に警告するためのものであった。主がペテロに対して行った業は、ペテロのような人々の信仰を強化し、この種の人々に対する要求を明確化し、この種の人々が目指すべき目標を示すためのものであった。

 主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。仮にあなたが当時のトマスやペテロであって、人生のなかでこのような極めて意義深い出来事に遭遇したとしたら、それはあなたにどのような影響を及ぼすであろうか。その出来事は、神を信じる生活において最も素晴らしい、至高のビジョンである、と認識するであろうか。人生において神に付き従い、神を満たすために努力し、神への愛を追求する上で励みになると認識するであろうか。この至高のビジョンを広めるため、一生涯をかけて努力するであろうか。主イエスの救いを広めることを、神から授けられた命令として受け入れるであろうか。あなたがたはこうした業を経験していないが、トマスとペテロの業の事例は、現代の人々にとって、神の旨と、神自身を明瞭に理解するに十分である。神が受肉して人間として人間の中で生活を経験し、人間の腐敗や人間生活の惨状を目の当たりにした後、受肉した神は、人間の絶望や悲しみ、哀れさを深く感じた。受肉して生活した際の人性と直感が原因となって、神は人間の惨状に対する憐れみを一層深めた。その結果として、神は、神に付き従う者に対する懸念を深めた。こうした事柄は理解できないかもしれないが、神に付き従う者全てに対する受肉した神の懸念と慈しみは、「極めて強い懸念」という表現で表わすことができるであろう。強い懸念という言葉は人間の言葉であり、極めて人間的な言葉ではあるが、神に付き従う者に対する神の気持ちを真に表現している。人間に対する神の強い懸念は、経験を重ねてゆくにつれて感じ取ることができるであろう。しかし、それを感じ取るには、あなたがた自身の性質の変化を追求することによって神の性質を徐々に理解することによるほかにない。主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。
       『言葉は肉において現れる』より


2019年4月10日水曜日

経歴賛美歌「私の生活は自由と解放を得た」



[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2019年4月8日月曜日

朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」



朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」
全能神は言われた「受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊にまとわれた肉である。この肉はどのような肉の人間とも異なっている。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が肉となったものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はどのような人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性であれ、神性であれ、いずれも天の父の心に従う。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。」
『言葉は肉において現れる』より

2019年3月13日水曜日

キリスト教讃美歌「人の子が現れました」神の祝福がゆえに本当の楽しみがある



キリスト教讃美歌「人の子が現れました」神の祝福がゆえに本当の楽しみがある
世界の東から(東…東…)
一筋の光が現われ(光…光…)
西の果てまで照らします
人の子が地に降臨しました
Ⅰ
救い主が戻られました、彼は全能神
真理を表し、新時代を始めました
人の子が現れました。(本当?)
神が来られました。(おお!)
神は人類に永遠のいのちの道をもたらします
新しい天と地、新しい時代
新しい人間、新しい道、新しい生活
新しいエルサレムが地に降臨しました

私達は神の家へ戻り
教会生活をおくり
神の言葉を毎日飲み食いし
神の愛の中で育ちます
さあ、来て歌いましょう!(よし!)
私は踊ります!(踊ろう!)
私達の生活はまことに楽しい。(真に楽しい)
私達は神と一緒にいます。(真に楽しみます。)
私達は神の祝福を得ています。(真に幸せ)
キリストの国は暖かい家庭です

全能神、終わりの日のキリスト
私達がお慕いする最愛の人
神が発するあらゆる言葉は真理で
私達を潤します
神は振る舞い方、正直になる方法を
私達に教えてくださいます
神の祝福の中で生き
私達は心から神を愛します

神の言葉の裁きは全ての人々の心を征服します
神の民は清められ、神を証しします
心を一つにし(本分を尽くす)
神の愛に報い(神を証しする)
神の国の福音を宣べ伝えよう。(神の国の福音)
神の言葉は世界中に伝わります
神の聖き名は皆に賛美されます
キリストの国はこの地に実現されます
心を一つにし(本分を尽くす)
神の愛に報い(神を証しする)
神の国の福音を宣べ伝える。(神の国の福音)
神の言葉は世界中に伝わります
神の聖き名は皆に賛美されます
キリストの国はこの地に実現されます
キリストの国はこの地に実現されます
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2019年1月3日木曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」


全能神は言われます「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。」

2018年12月4日火曜日

全能神の発表「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」

 受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊にまとわれた肉である。この肉はどのような肉の人間とも異なっている。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が肉となったものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はどのような人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性であれ、神性であれ、いずれも天の父の心に従う。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。ゆえに、受肉した神は神自身の経営(救い)を妨げるような働きは絶対に行わない。このことをすべての人が理解すべきである。聖霊の働きの本質は人を救うことであり、また神自身の経営のためである。同様に、キリストの働きは人を救い、神の心を達成するためのものである。神が肉となったので、キリストは自身の肉のうちにある本質を知っており、よってキリストの肉は神の働きを引き受けるに充分である。神の霊のなすすべての働きは受肉の期間にキリストがなす働きに取って代わられる。受肉の期間を通してすべての働きの核心にあるのはキリストの働きである。それはほかのどの時代の働きとも混同することはできない。そして神が肉となるのであるから、神は肉としての働きをする。神は肉の形をとって来るので、自身のなすべき業を肉となったままで成し遂げる。神の霊であれ、キリストであれ、どちらも神自身であり、神はなすべき働きをし、果たすべき宣教の働きをする。

 神の本質そのものが権威を行使するが、キリストは神によってもたらされる権威に完全に服従することができる。霊の働きであれ、肉の働きであれ、互いに相反するものではない。すべての被造物におよぶ権威となるのは神の霊である。神の本質を持った肉も権威を持っているが、肉を持った神は父なる神の心に沿ったすべての働きをすることができる。こうしたことは人にはすることも考えることもできない。神自身が権威であるが、神の肉は神の権威に服従することができる。この言葉に秘められた意味はこうである。「キリストは父なる神の心に服従する」。神は霊であり、救いの働きができるように、受肉した神も救いの働きをなすことができる。いずれにしても、神自身が神自身の働きをする。神は阻止することも、干渉することもせず、まして互いに対立する働きをすることはない。霊と肉による働きの本質は似ているからである。霊であれ、肉であれ、どちらも一つの心を満たし、同じ働きを管理するために働くからである。霊と肉とは二つの異なる性質を持っているが、その本質は同じである。どちらも神自身の本質を持ち、神自身の身分を持っている。神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善良さと、すべての愛の現れである。肉の体を持っていても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてさえも、神は心底から父なる神に従い、他の選択肢は考慮しない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうすべてのものはサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンに似た特質を持っている理由は、サタンが人に働き、サタンによって堕落させられたからである。キリストはサタンによって堕落させられていない。ゆえにキリストは神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。どんなに働きが困難で、肉が弱くても、キリストは肉のうちに生きながら、神自身の働きを阻止するようなことは決してせず、ましてや不従順な行いで父なる神の心を無視するようなことは行わない。キリストは父なる神の心に逆らうくらいならむしろ肉の痛みに耐える。イエスが祈って「父よ、もしできることならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。けれどわたしの思いのままにではなく、心のままにしてください。」と言ったようにである。人は意志で選択するが、キリストはそうしない。キリストは神自身の身分を持っているが、肉を持つ神の観点から、なお父なる神の心を求め、父なる神がキリストに委ねた任務を果たす。これは人には不可能なことである。サタンから発生するものは神の本質を持つことができず、神に逆らい、抵抗する性質しか持ちえない。その性質は完全に神に服従することができず、ましてや神の心に進んで従うことなどできない。キリスト以外の人間はみな神に反する行いをすることができ、神に委ねられた働きを直接引き受けることのできる者はひとりもおらず、神の計画を自分自身がなすべき本分と考えることのできる者もひとりもいない。父なる神の心に服従することはキリストの本質である。そして神への不従順はサタンの特性である。この二つの性質は相いれないものであり、サタンの特質を持つものでキリストと呼ばれ得るものはひとりもいない。キリストの代わりとして人が神の働きをすることができないのは、人には神の本質がひとつも備わっていないからである。人は自己の利益と将来の可能性のために神に仕えて働くが、キリストは父なる神の心を遂行するために働く。

 キリストの人間性はキリストの神性によって支配されている。キリストは肉を持っているが、その人間性は肉を持った人間のそれとはまったく同じではない。キリストは特有の性格を持っており、これもキリストの神性によって支配されている。キリストの神性は弱さを持たない。キリストの弱さはキリストの人間性の持つ弱さを指す。この弱さはある程度キリストの神性を制限するが、そのような限界は一定範囲内、一定時間内に限られ、際限のないものではない。キリストが神性による働きをする時が来ると、それはキリストの人間性とは関係なく行われる。キリストの人間性はすべてキリストの神性によって指示される。キリストの人間性による普通の生活とは別に、人間性によるほかのすべての行動はキリストの神性によって影響され、働きかけられ、指示される。キリストは人間性を持っているが、それは神性による働きを邪魔するものではない。それはキリストの人間性がキリストの神性によって指示されているからにほかならない。キリストの人間性は、ほかの人々の前ではその行いにおいて成熟していないが、それはキリストの神性のなす普通の働きに影響を与えることはない。キリストの人間性は堕落していないとわたしが言うのは、キリストの人間性はその神性によって直接指示され、普通の人のよりも高度な理知を持っていることを意味している。キリストの人間性は働きにおいて神性によって指示されることに最も適している。キリストの人間性は神性による働きを現し、神性による働きに服従することに最高の能力を発揮する。神が肉を持って働きをなす時、神は肉を持つ人が果たすべき本分を決して見失わない。キリストは天にいる神を真心で崇拝することができる。キリストは神の本質を持ち、その身分は神自身のそれと同じである。それは、キリストはこの地上に来、人の外観を持つ被造物となり、かつては持っていなかった人間性を今は持っているということでしかない。キリストは天にいる神を崇拝することができるということだ。これはキリストが神自身であるということで、人にはまねのできないことである。キリストの身分は神自身である。キリストが神を崇拝するのは、肉の観点からである。ゆえに、「キリストは天にある神を崇拝する」という言葉は間違いではない。キリストが人に要求するものはまさに神自身の存在である。キリストが人間に要求する事柄は、自身も既に成し遂げている。キリストは人間に要求しておきながら自らはそれらから免れるようなことはしない。そのようなすべてがキリストの存在を作り上げているからである。どのように働いても、神に敵対するようなやり方でキリストが働くことはない。キリストが人に何を要求しても、人がなしえる以上の要求はしない。キリストのすることはひたすら神の心を行うことであり、神の経営(救い)のためである。キリストの神性はすべての人を超越するもので、ゆえにキリストはあらゆる被造物の最高の権威である。この権威はキリストの神性、すなわち神自身の性質と存在そのものであり、それはキリストの身分を決定する。よってキリストの人間性がいかに普通であっても、キリストが神自身の身分を持っていることは否定できない。どのような観点からキリストが語っても、どのようにキリストが神の心に従っても、キリストは神自身ではないと言うことはできない。愚かで無知な者はしばしばキリストの普通の人間性を欠陥と見なす。どれほどキリストが自身の神性を現し、明らかにしても、人は彼がキリストであることを認めることができない。そしてキリストが服従と謙遜を示せば示すほど、愚かな人間は益々キリストを軽くあしらう。キリストに対して排他的、侮蔑的な態度をとり、一方で尊大な姿の「偉人たち」を高い地位に置いて崇拝する者たちさえいる。人の神に対する抵抗と不従順は、肉を持った神の本質が神の心に従うという事実とキリストの普通の人間性とから来る。ここに人の神に対する抵抗と不従順の根源がある。もしキリストが人間としての外観を持たず、被造物としての観点から父なる神の心を求めることもせず、超人間性を持っていたならば、不従順になる人間はおそらくいないだろう。人が常に天にいる目に見えない神の存在を信じようとする理由は、天にいる神は人間性を持たず、被造物としての性質を一つも持たないからである。そこで人は常に天にいる神には最大の尊敬を払い、キリストには侮蔑的な態度をとる。

 キリストは地上で神自身の代わりに働くが、肉の姿を人々に見せようと来るのではない。すべての人がキリストの姿を見るために来るのではない。自身の手によって人が導かれ、新たな時代へ入ることができるように来るのである。肉なるキリストの役割は、神自身、つまり肉における神の働きを果たすことであり、人にキリストの肉の本質を十分理解させることではない。キリストがいかに働いても、それは肉の可能性を超えるものではない。キリストがいかに働いても、普通の人間性を持つ肉として働くのであり、神の真の姿を全て明らかにしてはいない。それに加えて、キリストの働きは、人間が思うような超自然的なものでも、計り知れないものでもない。キリストは肉において神自身を現わし、神自身のするべき働きを直接遂行するけれども、父なる神の存在を否定したり、自身の働きを誇示したりしない。むしろ、謙虚に肉のうちに自身を隠したままにする。キリスト自身以外でキリストを名乗る者はみな、キリストの性質を持ってはいない。そのような偽キリストたちの高慢で己を称えるような性質をキリストの性質と比べたならば、キリストの肉がどのようなものであるかは明白である。偽りの多い偽キリストであればあるほど自己を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の性質を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、キリストは働きを通して身分を明確にし、自身の現すものによって自身の本質を証明する。キリストの本質は根拠のないものではない。キリストの身分は自身の手によって握られてはいなかった。それはキリストの働きと本質によって決定される。キリストは神自身の本質を持っており、神自身の働きをすることができるが、やはりキリストは霊とは違って、肉である。キリストは霊の性質を持つ神ではない。肉の外殻を持った神である。したがって、いかに普通で弱くとも、どのように父なる神の心を求めても、キリストの神性は否定できない。肉となった神のうちにあるものは、普通の人間性とその弱さだけではない。そこにはキリストの肉における行いとともに、神性の素晴らしさと奥深さも存在する。ゆえに人間性と神性の両方が実際に、具体的にキリストのうちに存在する。これは無意味や超自然的なものでは全くない。キリストは働きを遂行するという本来の目的を持って地上に来る。地上での働きを遂行するためには普通の人間性を持っていることは必須である。そうでなければ、いかにキリストの神性が偉大であっても、その本来の機能を有効に使うことができない。キリストの人間性は非常に重要であるが、それはキリストの本質ではない。キリストの本質は神性である。ゆえに、キリストが地上で職分を始める瞬間はキリストがその神性を現し始める瞬間である。キリストの人間性は肉を持った普通の生活を維持するためだけにあり、それにより、キリストの神性が肉において普通に働きを行うことができるのである。キリストの働き全体を指示するのはキリストの神性なのである。キリストが働きを完了する時は、自身の宣教の働きを全うした時である。人が知るべきことはキリストの働き全体であり、働きを通して人間が自身を知るようにする。働きを行う過程で、キリストは自身の神性を充分に現す。それは人間性によって汚された性質でもなければ、人間の考えや振る舞いで汚されてもいない。キリストの職分が終わりを迎えるまでには、キリストは現わすべきその性質を全て表現し尽くすであろう。キリストの働きは人によって指示されない。キリストの性質の現れもいたって自由であり、精神で支配されることも、思考で処理されることもなく、自然に啓示する。これは人には成し遂げることができない。環境が厳しかったり、条件が合わなかったりしても、キリストは適切な時にその性質を現すことができる。キリストである者がキリストであることを現し、一方キリストでない者たちはキリストの性質を持たない。ゆえに、たとえすべての人たちがキリストに抵抗したり、キリストに対する見解を持ったりしたとしても、キリストによって現わされた性質が神の性質であるということを、人間の見解に基づいて否定できる者はいない。真心でキリストを求め、意志を持って神を求めるすべての者は、キリストの神性の現れに基づいて彼はキリストであると認めるであろう。人の観念と一致しないキリストの側面に基づいて彼らがキリストを否定することはない。人はとても愚かであるが、すべての人は、何が人の意志によるもので、何が神から出たものかをはっきりと知っている。多くの人々は自分の考えに基づいて、意図的にキリストを拒否しているというだけである。そうでなければ、キリストの存在を否定する理由など誰にもない。というのはキリストによって現わされた神性は確かに存在し、キリストの働きはすべての人が肉眼で確認できるものだからである。

 キリストの働きと現れはキリストの本質を決定する。キリストは託された働きを真心を持って完成することができる。キリストは天にいる神を心から崇拝し、真心を持って父なる神の心を求めることができる。これはすべてキリストの本質によって決定されている。そしてキリストの自然な現れもキリストの本質によって決定されている。キリストの「自然な現れ」と呼ばれるのは、キリストの表現が模倣でも、人による教育の結果でも、長年に亘る人による育成の結果でもないからである。キリストはそれを学んだのでも、それでわが身を飾ったのでもない。むしろ、それはキリストのうちに本来的に備わっているものである。人はキリストの働き、表現、人間性、そして普通の人間性を持った全生涯を否定するかもしれないが、キリストが真心で天にいる神を崇拝することを否定できるものは一人もいない。キリストが父なる神の心を果たすために来たことを否定できる者はおらず、キリストが父なる神を心から求めていることを否定できる者もいない。人が想像するように、彼の姿は五感に心地よいわけでも、話す言葉に特別な重みがあるわけでも、その働きに地を揺るがし、天を揺さぶるほどの驚きがあるわけでもないが、彼は確かにキリストであり、真心で父なる神の心を全うし、父なる神に完全に服従し、死にまで従う者である。これは彼の本質がキリストの本質であるからである。この事実は人には信じがたいものだが、確かに存在する。キリストの職分が全うされた時、キリストの働きを通して、キリストの性質と存在は天にいる神の性質と存在を現すことを、人は知るであろう。その時、キリストがその働きを通して成し遂げたものを見て、この者はまことに肉となった言葉であり、血と肉による人間とは異なることがはっきりと分かるであろう。キリストの地上での働きの各段階はそれぞれ重要な意味を持つが、それぞれの段階における実際の働きを経験する人間は、彼の働きの意味を把握することができない。第二の受肉における数段階での働きに関してはとりわけそうである。キリストの言葉を見聞きしただけで、キリストに出会ったことのない者たちのほとんどは、キリストの働きについていかなる観念も持っていない。キリストに出会い、言葉を聞き、働きを経験した者たちにとっては、働きを受け入れることが難しい。これはキリストの外見と普通の人間性が人の好みに合わないせいではないのか。キリストが去ってからその働きを受け入れる者たちはそのような困難に出遭うことはないだろう。彼らはキリストの働きを単に受け入れ、キリストの普通の人間性に接することがないからだ。人は神に対する己の考えを捨てることができず、キリストをあれこれと入念に調べ上げる。これは人がキリストの外見だけに注目し、キリストの働きと言葉に基づいた本質を認めることができないことが原因だ。もし人がキリストの外見に目を閉じ、キリストの人間性を討論するのを避け、人には成し得ない働きをし、人には成し得ない言葉を語るその神性についてのみ語るのなら、人の観念は半分に減り、すべての人々の困難が解決することさえあり得るだろう。肉となった神が働きをする間、人はキリストに耐えることができず、キリストについてさまざまな考えを抱き、しばしば抵抗し、不従順になる。人は神の存在に耐えられず、キリストの人間性と隠れた性質に「寛容」を示すことができず、父なる神に従うキリストの本質を「赦す」ことができない。したがって、キリストは働きを終えた後、永遠に人と共に留まることができない。人はキリストが傍らで生活することを許そうとしないからである。キリストが働きをする間、人が「寛容を示す」ことができなければ、キリストが職分を全うした後、彼らの傍らで生活を続け、彼らがキリストの言葉を徐々に経験していくのを見るなど、耐えられるだろうか。そうなれば、多くの者がキリスト故に躓くのではないだろうか。人はキリストが地上で働くことだけを許す。これが人の寛容の最大許容範囲である。働きのためでなければ、人はとっくにキリストを地上から追放しているだろう。それほどであれば、働きを終えてしまった後にどれだけ人は寛容を示すことができるだろうか。人はキリストを処刑し、死に至るまで拷問するのではないだろうか。この者がキリストと呼ばれなければ、人間の中で働きをすることはまず出来なかった。もしキリストが神自身の身分を持って働きをせず、普通の人間としてのみ働いたなら、人はキリストが発する言葉にひとつも耐えることはせず、ましてや働きとなればほんの一部でさえ耐えることはしなかっただろう。そのようなわけで、キリストは働きのうちにのみ身分を持つことができる。このようにして、キリストの働きは、こうしなかった場合よりも強力である。それは、人はみな立派な身分や地位のある者に従おうとするからである。キリストが神自身の身分を持って働かなかったなら、神自身として現れなかったなら、キリストが働くチャンスは全くなかったであろう。神の本質を持ち、キリストであるという事実にもかかわらず、人がその態度を和らげてキリストが人間の間で容易に働けるようにはしない。キリストは神自身の身分を持って働く。そのような働きは、身分を持たずになされる働きよりも何十倍も強力だが、それでも人はキリストに完全には服従しない。人はキリストの身分にのみ従い、キリストの本質には従わないからである。そうであれば、キリストがその地位から身を引く時がくるならば、人は一日たりともキリストが生き長らえることを許せるだろうか。神は人と共に地上に生き、自身の手でなした働きが後年もたらす効果を見たいと考える。しかしながら、人はキリストがたった一日でも留まることに耐えられないため、キリストは諦めるしかなかった。神が人の中でするべき働きをなし、職分を全うすることを許すのが人の寛容と優しさの限界である。キリストに直接征服された者たちはそのような優しさを示すが、彼らでもキリストが働きを終えるまで留まることを許すだけで、その後はたった一瞬でも留まることを許さない。そうであれば、キリストに征服されていない者たちはどうだろう。人が肉となった神をこのように扱うのは、彼が普通の人の外殻を持ったキリストであるからなのではないのだろうか。彼が神性だけを持ち、普通の人間性を持たなかったならば、人にとっての困難はいとも容易に解決されるのではないのだろうか。彼の本質はまさに父なる神の心に従うキリストの本質であるにもかかわらず、人は彼の神性をしぶしぶ認めるだけで、普通の人としての彼の外殻には興味を示さない。そのようなわけで、キリストは人の中で喜びも悲しみも分かち合うために人の間に住まうという働きを取り消すしかなかった。人はもはやキリストの存在に耐えられなかったからである。

2018年11月24日土曜日

全能神教会御言葉「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」


 主イエス・キリストに従う他の何億人もの人々と同じように、私達も聖書の律法と戒めに従い、主イエス・キリストの豊かな恵みを受け、主イエス・キリストの名の下に集まり、祈り、賛美し、仕えている。そして、これら全てを私達は主の配慮と加護の下に行っている。私達は時として弱くなったり、強くなったりするが、自分達の行動のすべては主の教えに従うものであると信じている。言うまでもなく、天の父の心にかなう道を歩んでいることも信じている。私達は主イエスの再来を、その輝かしい降臨を待ち望み、また地上における生活の終り、神の国の出現、そしてヨハネの黙示録に予言されていることが全てその通りに実現することを待ち望んでいる。つまり、主が到来し、災いをもたらし、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、そして主に従い、主の再臨を歓迎する全ての人々を天に引き上げ主に会わせる。このことを考えるたびに感動せずにいられない。この世の終りに生まれ、主の来られるのを幸運にも見ることができることに感謝する。確かに私達は迫害の苦難を受けているが、それは「永遠の重い栄光をあふれるばかりに」受けるための代償なのだ。何と素晴らしい祝福だろうか。この切なる願望と主によって授けられた恵みによって、私たちは油断なく祈るようになり、さらに頻繁に集うのである。もしかしたら来年、明日、いや、ひょっとしたらもっと早く、誰も予期していないときに、主は突然やって来て、主をひたすら待ち望んでいる人々の集団のもとに現れるかもしれない。主の出現を見る最初の集団となるために、天に引き上げられる人々のうちの一人となるために、遅れを取りたくないから皆我先にと争っている。私達はその日のために、どんな犠牲もいとわず、全てを捧げてきた。仕事をあきらめた者や家族を捨てた者もいるし、結婚を放棄した者、蓄えを全て寄付した者もいる。何という無私無欲な献身であろう。このような誠実さ、忠誠心は、過去の聖人さえも超えるに違いない。主が望む相手に恵みを与え、哀れみをかけるので、私達の献身や支出は既に神の目に留まっているものと私達は信じている。だから、私達の心を込めた祈りも神の耳に届いているし、主が私達の献身に報いてくださると信じている。しかも、神はこの世を造る前から既に私達を慈しんでいたので、私達に与えられている神の祝福や約束を誰も取り上げることはできない。私達は皆、未来のための計画を立てており、自分達の献身や支出は、天に引き上げられ主に会うための交渉の切り札または蓄えであると当然のごとく思っている。さらには何のためらいもなく、私達は将来玉座に就き全ての国と全ての民族を支配する、あるいは王として治めるものと考えている。私達はこれらのことを全て当然のこと、当たり前に期待できるものとして捉えているのである。

 私達は主イエスに逆らうすべての人々を軽蔑するが、彼らは皆最後には滅ぼされるのである。一体誰が主イエスが救い主であることを信じるなと彼らに言ったのか。もちろん私達は主イエスに習って、世間に対し思いやりをもつときもある。彼らは何も知らないからであり、私達は寛容で彼らを許すべきである。私達の行いは全て聖書の言葉に従っている。聖書と一致しないものはすべて異端であり、邪教だからである。私達一人ひとりの心の中にはそのような信念が深く根付いている。私達の主は聖書の中にあり、聖書から離れなければ、主からも離れないのである。この原則に忠実であれば、私達は救われるのである。私達は互いに励まし合い、支え合っており、一緒に集まる時はいつでも私達の言動の全てが主の心にかなっていること、そして主に受け入れてもらえるよう願っている。過酷な環境の中にあっても、私達の心は喜びに満ちている。こんなにも簡単に手に届く祝福のことを思うと、断念できないものなど何もないのではないだろうか。手放すのが耐えられないものなど何もないのではないだろうか。これらは全て暗に示唆されるものであるが、全ては神の目に見られている。掃きだめから引き上げられた一握りの貧しい者である私達は、すべての主イエスの信奉者と同じである。私達は天に引き上げられることを、祝福を受けることを、そして全ての国を治めることを夢見ている。私達の堕落は神の目にはさらけ出されており、私達の欲望と貪欲さは神の目からみれば断罪されている。それでも、これらは全てごく自然に、そして論理的に起こることなので、私達のうち誰も自分達の望んでいることが正しいことなのかどうか疑問をもたないし、ましてや私達の誰一人として、自分達の固執していること全ての的確さを疑いもしない。誰が神の心を知ることができるのだろう。誰も自分たちが歩いている道を求めることも、探究することも、関心を持つこともしない。なぜなら私達が気にするのは自分達が天に引き上げられるかどうか、祝福が受けられるかどうか、天国には自分の場所があるかどうか、いのちの川の水の分け前にあずかり、いのちの木の果実を手にできるかどうかということだけだからである。私達はこれらのことを得るために主を信じ、そして主に従っているのではないのか。私達の罪は赦されて、私達は罪を悔い改め、苦き杯から飲み十字架を背負った。私達の払った代価が主に受け入れてもらえないなどと誰が言えるだろう。私達は油を十分準備していなかったなどと誰が言えるだろう。私達はあの愚かな乙女にも、あの捨てられた者の一人にもなりたくない。しかも、私達はしばしば神に祈り、偽キリストに騙されることがないようにと求めている。それは、聖書の中に「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24:23-24)と書いてあるからである。私達はこれらの聖書の言葉を記憶に留め、隅から隅まで知っており、貴重な宝として、いのちとして、天上に引き上げられ、救われるための保証として考えている。

 何千年もの間、生者はその願望や夢を携えて亡くなっていったが、その人達が天国へ行ったのかどうか本当に知る者はいない。死者は戻って来ているが、過去に起こったことは全て忘れてしまっていて、依然として先人の教えや歩んだ道に従っている。それだから、どれほど月日が経っても、主イエスが、神が、私達のすることを全て本当に受け入れてくれるかどうかは誰にもわからない。私達は一つの結果を待ち望み、これから起こるすべてのことを想像するだけだ。にもかかわらず神は沈黙を守り通して、人間の前には姿を現さず、言葉を発することもない。だから私達は自らの意志で神の心と性質を、聖書や印に基づいて判断するのである。私達は今では神の沈黙に慣れてしまった。自分達の行動が正しいか間違っているかの判断を自らの見方で測ることに慣れてしまった。神が私達に要求していることの代わりに私達の知識、観念、道徳的倫理を使うことに慣れてしまった。神の恵みを享受することに慣れてしまった。神の助けが必要な時にいつでも神が与えてくれることに慣れてしまった。ありとあらゆることを求めて神に向かって両手を差し出し、神にあれこれ指図することに慣れてしまった。教義を守り、聖霊の導きに注意を払わないことにも慣れてしまった。その上、私達自身が自分の主人である日々に慣れてしまった。私達はこのような神を、一度も会ったことがないのに、信じている。神の性質はどのようなものか、神のもつもの、神であるものは何か、神はどのような姿をしているか、神が現れるとき私達はそれが神であるとわかるだろうかなどの疑問はどれも重要ではない。重要なのは、神が私達の心の中にいるということ、私達は皆、神を待ち望んでいること、そして私達は神の姿を想像することができるということである。私達は自分の信仰を評価し、自分の霊性を大切にする。私達は全てを不潔なものと見なし、全てのものを踏みつけて行く。私達は栄光なる主を信じ従う者なので、その過程がいかに長く困難であろうとも、いかなる苦難と危険に晒されようとも、私達が主に従って行く時、何も私達の歩みを止めることはできない。「いのちの水の川は、水晶のように輝き、神と小羊の御座から出ていた。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。」(ヨハネの黙示録22:1-5)これらの言葉を唱える度に、私達の胸は無限の喜びと満足感で溢れ、目からは涙がこぼれる。主が私達を選ばれたことに感謝し、主の恵みに感謝する。私達は神からこの世では百倍もの報いを受け、その後に来る世では永遠の命を与えられている。だから、もし神が今私達に死になさいと言えば一言の文句も言わずそうするであろう。主よ、どうぞ今すぐに来てください。一分も引き延ばさないでください。私達は主が来られるのを待ち焦がれており、主のために全てを捨てたのですから。

 神は沈黙していて、私達に姿を現したことはない。しかし神の働きは止むことがない。神は全世界を見ているし、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神の経営は計画に従って段階的に行われる。それは静かにまた特に驚くような成果もなく進行するが、神の歩みはますます人類に接近し、神の裁きの座が電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座も私達のもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげているライオンのように、聖霊は私達すべてのもとにやって来る。神は賢く、義に満ちて、威厳がある。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちて私達の間に静かにやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰も神を歓迎せず、その上、誰も神がこれからしようとしていることをまったく知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は、神に従う取るに足らない者として、平凡な一信者として、普通の人のように私達の間に生きている。神には神が従事するものごとや目標があり、その上に普通の人にはない神性を有している。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も神と人の本質の違いを見抜いていない。私達は神を取るに足らない一人の信者としてしか見ていないので、のびのびと恐れることもなく神と共に暮らしている。神は私達の一挙一動を観察しており、私達の考えや思いつきはすべて神の前に晒されている。誰一人として神の存在に注意を払わないし、その役割を想像すらしない。さらに、誰一人としてそれが誰であるか疑っていない。私達は、単純に自分達の活動を継続している。あたかも神と私達には何の関係もないとでも言うように。

 たまたま、聖霊がこの人を「通して」一遍の言葉を発することがある。意外なことのように思われるが、私達はこれを神の発した声であると認め、神から出たものであるとすぐに受け入れる。なぜなら、これらの言葉を誰が発しようと、聖霊から出たものである限り、私達はそれを受け入れるべきであり、否定することはできない。次回の発言は、私を通して出されるかもしれないし、あなた、あるいは他の誰かを通して出されるかもしれない。それが誰であるかにかかわらず、全ては神の恵みである。しかしその人物が誰であろうと、その人を崇拝してはならない。なぜならほかのことにかかわらず、その人が神であるということはとうていありえないし、このようなごく普通の人を選んで私達の神とすることは決してできないからである。私達の神は非常に偉大で尊い。どうしてこのような小さく取るに足らない人が神に代わることなどできようか。加えて、私達は皆、神がこの世に来て私達を天国へ引き上げてくれるのを待っているのだが、そのような重大で困難な仕事に、この小さく取るに足らない人が適格であることがどうしてありえようか。もし主が再臨するならば、白い雲の上に乗って現れ、全ての人に見えるようでなければならない。それは何と荘厳なことだろうか。どうして神が平凡な人々の一群の中に静かに隠れていることなどできようか。

 それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが私達を救うための新しい働きを行っているのだ。この人は私達のために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、私達の中に深く隠された秘密に命中し、それは私達の心を突き刺し、霊を突き刺し、私達を恥ずかしく、みじめな気持ちにする。この人物の心の中にある神は本当に私達を愛しているのか、そして一体何をしようとしているのかと私達は疑い始める。もしかしたら、そのような痛みを耐えなければ天国に引き上げてもらえないのではないだろうか。これからの行く先や未来の運命について…私達は頭の中で思案するようになる。それでもまだ、誰一人として神が肉体を得て私達の間で働きを行っているとは考えない。神がいかに長い期間私達と一緒であっても、どれほど多くの言葉を私達に面と向かって語っていても、私達はそのあまりにも平凡な人を、自分達の未来の神と喜んで認めることはないし、ましてその小さな取るに足らない人に私達の未来と運命の支配を任せたくないのである。私達は、彼から絶えることのないいのちの水を喜んで享受し、彼のおかげで神と向かい合って生活している。私達は天におられる主イエスの恵みには感謝するが、神性を備えたこの普通の人の気持ちには注意を払ってこなかった。それでもなお、彼は肉体の中に隠れて謙虚に仕事を続け、その心の声を発し、人類が彼を拒んでも表向きは気にかけず、また人の稚拙さも無知も見たところは永久に赦して、そして人々の非礼をひたすら黙認している。

 私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。それにもかかわらず、私達の心の中では虚栄心がはびこり、このような人を神として喜んで受け入れることができないでいる。この人が私達にどんなに多くのマナ、どんなに多くの喜びを与えても、私達の心の内に在る主の地位を奪うことができないのである。私達はこの人の特別な身分と地位を嫌々ながらに尊重しているのである。もし彼がはっきりと語り、自分が神であることを私達に納得させなければ、私達は決してこの人を神として、つまりもうすぐ現れるはずであったが既に私達のもとで長く働いてきた神として、思い切って認めることはないだろう。

 神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。その時、私達の心は完全に彼に征服された。私達はもはや彼が誰であるか疑わず、その働きや言葉にもはや反抗することもなく、彼の前に完全にひれ伏す。私達の望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、神の恵みと私達への愛に報い、神の指揮と計画に従い、神の働きに協力し、神が私達に委ねたことを完成するためにできる限りのことを行うことだけである。

 神に征服されるのは、武術の試合のようである。

 神の言葉の一つ一つが私達の急所を突き、私達は悲嘆にくれ、恐れる。神は私達の観念を明らかにし、想像を明らかにし、堕落した性質を明らかにする。私達の言動の全て、思いや考えの一つ一つを通して、私達の本性や本質は神の言葉によって明らかにされ、私達は辱められ、恐怖で震える。神は、私達の行動、目的と意図、それに自分でも知らなかった堕落した性質までを私達に示し、私達を徹底的にさらけ出された気持ちにさせ、さらには完全に納得した気持ちにさせる。神は、私達が神に反抗したことを裁き、神に対する冒涜と糾弾を理由に私達を罰し、私達は神の目には何の価値もなく、生きたサタンそのものであると思わせる。私達の希望は粉々にされ、もはや神に対する理不尽な要求や企てはしなくなり、私達の夢さえも一夜にして消える。これは、私達の誰も想像できず、受け入れることのできない事実である。一瞬、私達は心のバランスを失い、この先どうやって続けていけば良いのか、どうやって私達が信じることがらを保ちつつ続けていけば良いのか分らなくなる。まるで自分達の信仰が振り出しに戻り、主イエスに出会ったことも、親しんだこともなかったような気持ちになる。目の前のこと全てが私達を混乱させ、どこか漂流しているような気持ちにさせられる。私達は狼狽し、落胆し、そして心の奥深くには押さえきれない憤りと屈辱がある。私達はうっぷんを晴らそうと試み、出口を探そうと試み、その上、救い主イエスを待ち続けて、胸の中を打ち明けようと試みる。表面上は放漫にも謙虚にも見えないときもあるが、私達は心の中でこれまでにない喪失感に苦しんでいる。ときには表面上はいつになく冷静に見えるかもしれないが、内面では波打つ海原のような苦悶に耐えている。神の裁きと刑罰は、私達の希望と夢の全てを奪い去り、私達の途方もない望みはもはや無く、あの人が救い主で、私達を救うことができるということを信じようとはしない。神の裁きと刑罰は私達と神との間に深い溝を広げ、誰もそれを渡ろうとさえしない。神の裁きと刑罰によって、これほどの挫折と屈辱を初めて感じたのである。私達は、神の裁きと刑罰によって、神の名誉と人による侮辱に対する神の不寛容を本当に認識した。それと比べて私達はなんと卑しく汚れていることか。神の裁きと刑罰によって私達は初めて、いかに自分達が傲慢で尊大であるか、そして人間は決して神と同等ではなく、神と肩を並べることはないことを悟らされた。神の裁きと刑罰によって、私達はこのような堕落した性質の中でもはや生きていかないことを切望するようになり、そのような本性と本質からできるだけ早く抜け出し、もう神から憎まれたり、神に嫌悪感を起こさせることのないようにと願うようになった。神の裁きと刑罰によって、私達は神の言葉に喜んで従うようになり、もはや神の指揮と計画に反抗する気持はなくなった。彼の裁きと刑罰によって、私達は再びいのちを追い求めるようになり、喜んで彼を救い主として受け入れるようになった。私達は、征服する働きから立ち去り、地獄から抜け出し、死の影の谷から抜け出た…全能神は、私達この集団に属する人間を得たのだ。神はサタンに打ち勝ち、全ての敵を倒したのだ。

 私達は、堕落したサタンのような性質を持っている人のごく普通の集団で、ずっと前から神によって既に運命が決められていた、神が掃きだめからすくい上げた貧しい者である。私達は、かつて神を拒絶し、糾弾したが、今は神に征服されている。私達は、神よりいのちを受け、そして永遠のいのちの道を授かった。私達がこの地球上のどこに居ようとも、迫害や試練を受けても、全能神の救いから離れることはできない。なぜならこの神こそ私達の創造主であり、唯一の贖い主であるからだ。

 神の愛は泉の水のように溢れ出て、あなたや私や他の誰かに、そして真理を求め、神の出現を待ち望む全ての人に与えられる。

 月がいつも太陽を追いかけているように、神の働きは決して止むことはなく、あなたや私や他の誰かの上に、そして神の足跡に従い、神の裁きと刑罰を受け入れる全ての人に対して行われる。

2010年3月23日発表

2018年11月21日水曜日

全能神の発表「救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た」


 数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。同様に、イエスは再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。

 「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしのすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを顕示する義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

 終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行ったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを救済し、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを作った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行う。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終りの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖罪の働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行い、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行ってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行い、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から救われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度救うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行われるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。

2018年11月5日月曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「唯一の神自身 3 神の権威(2)」 その7


終わりの日のキリストの語られる言葉 「唯一の神自身 3 神の権威(2)」 その7 1.神が人間の運命を統治しているという事実は、誰にも変えることが出来ない 2.神の権威に服従することを望む者の適切な姿勢と行動 3.自分の唯一の主として神を受け入れることが、救いを得る第一歩である

2018年10月17日水曜日

全能神教会の御言葉朗読動画「唯一の神自身 3 神の権威(2)」 その1


終わりの日のキリストの語られる言葉 「唯一の神自身 3 神の権威(2)」 その1 1.マクロ的観点とミクロ的観点から神の権威を理解すること 2.人類の運命と万物の運命は創造主による統治と不可分である

2018年10月14日日曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」


全能神は言われた。「実際、人間の考えは無視できないが、キリストの本質を変えることはもっと許しがたいものだ。あなたがたは、キリストは神仙であり、賢人だと考えているが、キリストが神性な本質を持った人間だと考えている者はいない。それゆえ、朝から晩まで神に会いたいと切望している者の多くは、実際には神の敵であり、神に味方しない者なのだ。これは人間側の誤りではないのか。今でもあなたがたが自分の信念と忠誠心がとても強いゆえにキリストの姿を見るに値すると考えているが、わたしはあなたがたに対して、もっとも確実なものを身につけるように強く説きたい。というのも、過去、現在、未来において、キリストと触れ合う者の多くは失敗したからだ。そのような者たちは皆、パリサイ人の役割を担っているのだ。あなたがたの失敗の理由とは何なのか。それは、あなたがたの観念の中に非常に大きくて立派な神がいるからだ。しかし、実際は人間が望んでいるようなものではない。キリストは特に大きくも立派でもないだけでなく、特に小柄である。キリストは人間であるというだけではなく、それも普通の人間なのだ。キリストは天に上ることができないだけではなく、地上を自由に移動することもできないのだ。それゆえ、人々はキリストを普通の人間として扱うのだ。人々はキリストと共にいる時は好き勝手に振る舞い、キリストに気軽に言葉をかけるが、それでも「真のキリスト」の到来を待望しているのだ。あなたがたは既に到来したキリストを普通の人間とみなし、キリストの言葉を普通の人間の言葉とみなしている。それゆえ、あなたがたはキリストからまだ何も受け取ってはいない代わりに、自らの醜さを光にさらしているのだ。」 『言葉は肉において現れる』より

2018年9月9日日曜日

【東方閃電】全能神教会の御言葉讃美歌「終わりの日のキリストの出現と働きを知るには」


Ⅰ 神が肉とされた時 彼は自分に与えられた働きをもたらす 神が何者か現すため  彼は全ての人々に真理をもたらし いのちを与え行くべき道を指し示す 神の本質を内に秘めていないなら どんな肉体でも神の受肉ではありえない 神の受肉は神の本質と表現を具現化する Ⅱ 神の性質と言葉と業によって 神の受肉と真理の道を確証しなさい 彼の本質を注視しなさい 神の外見ばかりに目を奪われるのは 無知で愚かなことである 内なるものを外見では判断できない   神の業は人の思いと一致するものではない Ⅲ イエスの外見は 人々の期待とは違っていたのではないか 彼の姿や身なりは 本当の姿を隠していたのではないか パリサイ人たちはそのことが原因で 彼に敵対したのではないだろうか 彼らはイエスの外見だけに目を奪われ イエスの発した言葉には耳を傾けなかった Ⅳ 神の出現を求める兄弟姉妹が 歴史を繰り返さないことを神は望んでいる パリサイ人たちの例にならい 神をまた十字架に打ちつけてはならない だからよく考慮しなさい 再臨するイエスをどう迎え入れたらよいか                                              どう真理に従うか明瞭な意見を持ちなさい それはイエスの再臨を待つ全ての者の義務である 『言葉は肉において現れる』より

2018年6月20日水曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「受肉した神は静かに救いの業を為す」


Ⅰ
神は肉となり、人の中に隠れ
新しい業で私たちを堕落から救う
神は説明するよりも
自ら立てた計画の 通りに少しずつ業を為していく
神の言葉は日ごとに増え
人を慰め、思い出させ 叱責と警告を与えている
穏やかで優しいものから 荒々しく威厳あるものまで
神の言葉には憐みと畏れがある
神の言葉全ては最も深い秘密を暴く
私たちは心を刺され、恥入る
神の生ける水は尽きず、彼の
おかげで私たちは神と顔を合わせて生きる
Ⅱ
神の言葉はいのちの力に満ち
歩むべき道を示し真理を教えてくれる
目立たぬ人の姿だが
私たちはその言葉に惹かれ
彼の口調と心の声に耳を傾ける
彼は全ての努力を尽くし その心から血を流す
私たちのために嘆き、痛みに泣き
その行く先と救いのために 恥を忍び、その心は
私たちの反抗ゆえに血を流し、泣く
こんな存在と属性を持つ者は他にない
誰も彼の忍耐強さには及ばない
どんな創造物も彼のような
愛と忍耐を持つことは決してできない
神は肉となり、人の中に隠れ
新しい業で私たちを堕落から救う
神は説明するよりも
自ら立てた計画の
通りに少しずつ業を為していく
そうだ、神は少しずつ業を為していく
『言葉は肉において現れる』より

2018年5月21日月曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉カード

【東方閃電】全能神は言われた。「あなたが神のためにどれほど多くの道を歩み、どれほど働き、どれほど堪え忍んできたとしても、あなたが神の性質を害すると、神はあなたに対し、あなたがしたことに応じて報いを与える。」




私たちについて:全能神教会の紹介
世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しましょう

2018年5月18日金曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉カード

【東方閃電】全能神は言われた。「神は人間を愛しているが、人間を甘やかすことは無い。神は人間に愛情と慈しみを与え、人間を寛容に扱うが、人間に迎合することは一切無い。神には、神の原則と限界がある。あなたがどれほど神からの愛を感じていたとしても、その愛がどれほど深かったとしても、他の人間のように神と接してはならない。」





全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年5月12日土曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉カード

【東方閃電】全能神は言われた。「神の義なる性質を理解するため、人間は最初に神の感情、神が嫌い、憎む物事や好む物事を理解する必要がある。人間は、神が寛容に扱う人々、慈悲深く扱う人々、そうした慈しみを受けるのがどのような種類の人間であるかを知る必要がある。これが、知っておくべき要点のひとつである。」





全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年5月11日金曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「神は真に人の所へやって来た」


キリスト教讃美歌「神は真に人の所へやって来た」 Ⅰ 神は滅亡をもたらす 全世界の人類に そして神はあらわにする 人々に対し全ての性質を 「喜び」をもって見るだろう 神を知る者も、知らぬ者も 神はまことにやって来た 全てが育つ地上の人のもとへ これこそ、神の計画 人類の創造以来、唯一の告白 神はあなたに望んでいる 心を尽くし、神の動きに目を向けよと なぜなら、その杖は再び伸ばされているからだ 神に逆らう人類へと Ⅱ 神は滅亡をもたらす 全世界の人類に そして神はあらわにする 人々に対し全ての性質を 「喜び」をもって見るだろう 神を知る者も、知らぬ者も 神はまことにやって来た 全てが育つ地上の人のもとへ これこそ、神の計画 人類の創造以来、唯一の告白 神はあなたに望んでいる 心を尽くし、神の動きに目を向けよと なぜなら、その杖は再び伸ばされているからだ 神に逆らう人類へと 『言葉は肉において現れる』より




私たちについて:全能神教会の起源
更に多くの内容:「東方閃電」全能神教会はどうやって創られたでしょうか

2018年5月7日月曜日

【東方閃電】全能神御言葉讃美歌「終わりの日における神の業の成果は言葉を通して得られる」


キリスト教讃美歌「終わりの日における神の業の成果は言葉を通して得られる」 終わりの日の神の業の成果は 言葉を通して、得られる Ⅰ 言葉は人に、奥義と歴史をつらぬく神の業を理解させる 言葉は人に、聖霊の啓示を与え 長年の秘義を理解させ、預言者と使徒たちの業と その業を行う際の原則を説き明かす 人の反抗と本質だけでなく 神の性質を言葉は知らしめる Ⅱ これらの業の段階と全ての言葉を通して人は知る 霊の業と神の受肉の業、更に神の性質の全様を 六千年の業も、言葉を通してあなたは認識できる 以前の観念を知りそれを捨てることも 言葉によって達成されるのではないか? Ⅲ 最初の段階でイエスは奇蹟を行ったが その後には行なっていない 言葉を通し、今奇跡がない理由をついに 理解したのではないか この段階の言葉は 過去の使徒たちや預言者の業に勝る 預言者たちの預言でさえ こんな結果は、ありえなかったはずだ Ⅳ 預言者たちは未来を預言するだけで 神が当時なすべき業を語ることはできなかった 彼らは導きや真理や、奥義を告げるために まして人に命を与えるために預言をしたのではない Ⅴ この段階の言葉は真理と預言を含み おもに、人に命を授ける ただの預言とは違い 現在の言葉は、命のため人の性質を変える 業の一段階 『言葉は肉において現れる』より






[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年5月4日金曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「受肉した神は全人類を征服する業を為す」


キリスト教会讃美歌「受肉した神は全人類を征服する業を為す」 Ⅰ 肉にある神の業は華やかでも神秘でもない 1+1=2であるように現実的で 秘密も裏表もない 見るものすべてが 手にする真理や認識が本物である 業が終わる時神への認識は新たになるだろう 真に神を求める者の観念は全てなくなる これは中国人だけに限られた 業の効果じゃない 全人類征服の業を示している 全人類征服の業を Ⅱ この肉の働きと全てが 征服の業のためになる 他の何よりそれらは益となる今日も明日も この肉は全人類を征服し獲得するのだ 神を見上げ、従い、認識する それ以外素晴らしい働きはない 真に神を求める者の観念は全てなくなる これは中国人だけに限られた 業の効果じゃない 全人類征服の業を示している 全人類征服の業を 『言葉は肉において現れる』より



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世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しましょう