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2019年3月8日金曜日

全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 9」5



2.神は万物間の相互関係の釣り合いを取り、人間に安定した生存環境を与える
 ここまでは、神が万物に対する律法を支配する方法について、そして神が、神の万物に対する律法を用い、またその律法内において、全人類に施し、育む方法について話をした。これがひとつの側面である。次に、もうひとつの側面、すなわち、神が万物を支配する、ある方法について話をする。その方法とは、神が万物を造った後に、万物の相互関係の釣り合いを取った方法である。これもまたかなり大きな事項である。万物の相互関係の釣り合いを取ることは、人間が行うことの出来ることであろうか。人間のみでは不可能である。人間はその調和を乱すことしか出来ない。人間は、万物の相互関係の釣り合いを取ることができない。なぜなら、人間にはそうした強大な権威や力が無いからである。そうした事が可能な力は、神自身だけに存在する。神がこうした業を行う目的は何であろうか。これもまた同様に、人間の生存と密接な関係がある。神が行うことを望む業は、すべて必要なものである。つまり、神が行う可能性も、行わない可能性もある業というものは無い。神が人間の生存を保護し、好ましい生存環境を人間に与えるためには、神が行う必要のある、不可欠かつ重要な業がある。

 「神が万物の釣り合いを取る」という言葉の文字通りの意味からすると、この事項は極めて広範である。万物の釣り合いを取ることが、まさに神による万物の支配であることを理解するため、まずは、ある概念を説明する。「釣り合いを取る」という語は、何を意味するであろうか。まず、「釣り合いを取る」という語は、何かが釣り合っていない状態になることを阻止することを指す。天秤については、皆知っている。天秤で何かの重さを量る時は、それを天秤の一方に乗せ、他方におもりを乗せる。その物の重さは、最終的なおもりの量により決まる。これを釣り合いという。釣り合いを取るには、天秤の両方の重さを等しくする必要がある。神が造った万物には多数のものが含まれていた。神は固定されたもの、移動するもの、生きているもの、呼吸するもの、呼吸しないものを造った。神は極めて多くのものを造ったが、こうした万物すべての間に相互依存関係、互いに助け、制限し合う関係、相互に繋がりのある関係を成立させるのは、容易であろうか。こうした関係には、原理があることに間違い無い。こうした関係は極めて複雑だが、神にとっては困難ではない。しかし、人間にとって、こうした関係は極めて研究が困難である。釣り合いという言葉は、極めて単純に思われる。しかし、人間が釣り合いを研究したり、釣り合いを取ったりする必要があるとしたら、人間生物学者、天文学者、物理学者、化学者、さらには歴史家など、聡明な学術研究者が全員で取りかかるであろう。そうした研究の最終結果は、どうなるであろうか。その最終結果は、無である。なぜなら、神の万物創造は極めて驚異的であり、人間がその謎を解明することは決して無いからである。神があらゆる生き物を造った時、神は生き物同士の間の原理を定め、様々な生存方法による相互の制限、相補性、養育方法を定めた。こうした様々な方法は極めて複雑であり、単純でも一方向性のものでもない。人間が精神や知識、そして視認する現象により、神の万物支配の根底にある原理を確認ないし研究しようとすると、これらの事柄は解明が極めて困難である。解明することも、何らかの結論を得ることも、それと同様に極めて困難である。人間が成果を達成することは極めて困難であると言えるだろう。人間の精神と知識に依存して釣り合いを維持し、神が造った万物を統治するのは、極めて困難である。人間は、様々な生き物の生存に関する原理を知らないので、こうした釣り合いを保つ方法を知らない。したがって、人間があらゆる生き物を管理し、統治することになった場合、人間はその釣り合いを壊す可能性が極めて高いであろう。釣り合いが壊れるとすぐに、人間の生存環境が破壊され、破壊後はその人間の生存危機が発生するであろう。こうした状況により、大災害が発生するであろう。人間が大災害の中で生活した場合、人間の将来には、何が待ち構えているであろうか。それは想像や予期が困難な結果となるであろう。現在、世界が直面しているのは、まさにこうした危険である。

 それでは、神はどのような方法で万物の間の釣り合いを取っているであろうか。まず、世界には、年間を通して氷雪で覆われている地域や、四季を通して春のような気候の地域がある。氷や雪は一切見当たらない。冬は無く、常に春のような状態である。これが1種類目の方法であり、比較的広範囲にわたる気候の観点から見たものである。2種類目の方法は、山を見た時に見受けられる、地面を覆い尽くして生い茂る様々な植物である。広大な森があり、森の中を歩くと陽の光が見えないほどである。その他の山では草も生えず、荒れた不毛の山々が延々と続く。外観は両者とも土が盛り上がっている山である。植物が生い茂る山々もあれば、草さえも無い山々もある。これが2種類目の方法である。3種類目の方法では、草が風に揺れる草地が見渡す限り続く場合がある。しかるに、見渡す限り砂漠が続く場合もある。生き物は一切見られず、ましてや水源など見当たらず、ただ砂漠を吹き渡る風の音だけである。4種類目の方法では、広大な水域である海で覆われている場所があるが、その一方で、泉を探すのも困難な場所もある。5種類目の方法では、霧雨が頻繁に降り、霧が多く湿度の高い場所がある一方で、強い日差しが照りつける日が極めて多く、一切雨が降らない場所もある。6種類目の方法では、空気が薄く呼吸が困難な高原となっている場所がある一方で、様々な渡り鳥の棲息地となる湿地と低地がある場所もある。これらは様々な気候の種類であるか、あるいは様々な地理的環境に対応する気候または環境である。つまり、神は、人間が生存する環境の空気、気温、湿度の釣り合いを取るため、比較的広域的な環境の側面、気候、地理的環境、土壌の構成要素、水源の量などから人間の基本的な生存環境の釣り合いを取るようにした。こうした対照的な種類の地理的環境があるので、人間には安定した空気が供給されており、四季を通して安定した気温、湿度が与えられている。これにより、人間は常にそうした生存環境で生活を継続することができる。このことは、比較的広範囲にわたる環境の観点から述べたものである。まず、比較的広範囲にわたる環境の釣り合いを取る必要がある。これは、神が望み、人間に必要とされる状態に釣り合いを取るため、様々な地理的場所と地理的方法、様々な気候の推移による相互抑止力により釣り合いが取られる。このことは、比較的広範囲にわたる環境の観点に基づく方法である。

 植生などの詳細を見たとき、どうすればその釣り合いを取ることが出来るだろうか。つまり、植生は、どうすれば釣り合いの取れた生存環境のなかで生存を継続することが可能となるであろうか。それは、様々な植物の寿命、成長速度、繁殖速度を管理して生存環境を保護することにより実現される。例として草を挙げると、草には春の若芽、夏の花、秋の実がある。草の実が地に落ちると、その草は死ぬ。その翌年、その実の種が芽を出し、同じ律法にしたがって継続する。草の寿命は極めて短く、春から秋までであり、その後草は死ぬ。地に落ちた種それぞれから根と芽が出て花が咲き、実がなる。この過程が発生するのは、僅かに春から夏そして秋までの期間である。また様々な樹木にもそれぞれに寿命と発芽時期、結実時期がある。一部の樹木は、わずかに30年から50年で死ぬ。これらの樹木の寿命は30年から50年だが、その実が地に落ち、実から根と芽が出て、花を咲かせ、実がなり、それが30年から50年にわたって生きる。これがその樹木の反復周期である。そして高齢の樹木が死に、若い樹木は生長する。森では常に樹木が成長しているのを見受けるのは、このためである。しかし、樹木にもまた適切な生死の周期と過程がある。樹木によっては、1000年を超えて生きるものもあり、3000年もの間生きる樹木もある。樹木はこの種の植物である。植物の種類やその寿命の長さを問わず、一般的に、神は植物の寿命、植物の繁殖能力、繁殖速度、繁殖量、繁殖率を管理して植物の釣り合いを取る。こうすることにより、草から樹木まで、植物は継続して生存し、釣り合いの取れた生態環境のなかで成長可能となる。そうしたわけで、地球上の森を見たとき、樹木か草かを問わず、植物は固有の律法に従って継続的に繁殖と生長を続けている。植物に人間の支援は不要である。植物は人間の追加支援を一切必要としない。植物が独自の生存環境を維持出来るのは、ひとえにこうした釣り合いが取られているからである。それらの森林や草原が地上で生存出来るのは、ひとえにそうした植物に適した生存環境があるからである。植物の存在は、何世代にもわたる人間や、鳥、獣、昆虫、様々な微生物など、森や草原を棲息地とする様々な生き物を育む。

 また神は、様々な動物の釣り合いも管理している。この釣り合いはどのように管理されているだろうか。動物も植物と同様であり、神は動物の繁殖能力、個体数、繁殖率、その動物が他の様々な動物に対して果たす役割により釣り合いを取り、個体数を決定している。たとえば、ライオンはシマウマを食べるが、ライオンの数がシマウマの数を超える場合、シマウマの運命はどうなるであろうか。シマウマは絶滅するであろう。また、仮にシマウマの繁殖量がライオンの繁殖量よりも遥かに少ない場合、シマウマとライオンはどのような運命を辿るであろうか。この場合のシマウマとライオンもまた絶滅するであろう。したがって、シマウマの数はライオンの数よりも遥かに多くなければならない。これは、シマウマがシマウマ自身のためだけでなく、ライオンのためにも存在するからである。それぞれのシマウマが全てのシマウマの一部であるが、それはライオンが食べる食料でもある、とも言えるであろう。ライオンの数がシマウマの数を超えることのないよう、ライオンの繁殖速度はシマウマの繁殖速度を超えることはない。このようにしてのみ、ライオンの食料源を保証することができる。ライオンはシマウマの天敵であるものの、ライオンとシマウマが同じ地域でのんびりと休息しているのを見かけることが、頻繁にある。ライオンがシマウマを狩り、食べることにより、シマウマの個体数が減ったり、シマウマが絶滅したりすることはなく、またライオンの個体数は、ライオンが持っている「王」たる地位のため、増えることは無い。この釣り合いは、遥か昔に神が定めたものである。つまり、神はあらゆる動物の間の釣り合いに関する律法を定めたので、動物は釣り合いを取ることが可能である。これは人間が理解可能な物事である。シマウマの天敵はライオンのみだろうか。ワニもまたシマウマを食べる。ワニがシマウマを食べているのを見た事があるだろうか。ワニがシマウマを食べている光景もまた残虐である。シマウマは極めて無力な動物の種であると考えられる。シマウマにはライオンのような獰猛さが無く、ライオンという手強い敵と対峙した時は、逃げることしか出来ない。シマウマは逆らうことすら出来ない。シマウマが逃げ切れなかった時、シマウマはライオンにより食べられるほかに道が無い。こうした状況は、動物界において頻繁に見受けられる。こうした状況を見たとき、あなたがたはどのような印象を受けるであろうか。あなたがたは、シマウマを哀れむであろうか。あなたがたは、ライオンに嫌悪を感じるであろうか。シマウマは、容姿が極めて美しい。しかし貪欲なライオンが常にシマウマを狙っている。そしてシマウマは遠くへ逃げないので愚かである。シマウマは、ライオンが木の陰に居て、何気ない素振りでシマウマを待ち伏せているのを見ている。ライオンが何時シマウマを食べるかは、誰にも分からない。シマウマは、心の中でこうした事を知っているであろうか。シマウマは知っているが、その場所を去ることは無い。それは驚異的なことである。その驚異には神の予定と支配が含まれている。あなたはシマウマを哀れむが、シマウマを救うことは出来ず、またライオンを嫌うが、ライオンを追い払うことが出来ない。シマウマは神がライオンのために用意した食料であるが、ライオンがシマウマをどのように食べても、シマウマは消滅することが無い。ライオンが産む子孫の数は極めて少なく、繁殖速度が遅いので、ライオンの数がシマウマの数を超えることは無い。ライオンが如何に大量に食べようと、ライオンの数がシマウマの数を超えることは無い。これは、一種の釣り合いである。
全能神の御言葉:
《言葉は肉において現れる  
唯一の神自身 9》

2019年2月15日金曜日

全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 9」2



 次に、鳥や獣、昆虫が棲息する環境は、どのようなものであろうか。神は、様々な地理的環境を定めたほか、様々な鳥、獣、魚、昆虫、植物の境界も定めた。また、神は律法も定めた。様々な地理的環境の差異、そして様々な地理的環境が存在することが原因で、様々な鳥、獣、魚、昆虫、植物には、それぞれ異なる生存環境がある。鳥、獣、昆虫は、様々な植物の中で生活し、魚は水中で生活し、植物は地面の中で育つ。地面にはどのような種類があるだろうか。地面には、山、平野、丘陵など様々なものがある。そうしたわけで、鳥と獣はそれぞれに固有の生息地域があり、あらゆる場所を彷徨うことは無い。鳥獣の生息地域は森林と山である。もし、いつか鳥獣の生息地が破壊されるとしたら、この秩序が乱れ、混乱するであろう。この秩序が乱されて混乱した場合、どのような悪影響が即座に現れるであろうか。最初に被害を受けるのは、何であろうか。(人間である。)それは人間である。こうした神が定めた律法と制限の範囲内において、何かしら異常な現象を見た事があるだろうか。たとえば、砂漠を何気なく徘徊している象を見た事があるだろうか。もし見た事がある場合、それは極めて異常な現象である。なぜなら、象の棲息環境は森林であり、神が象の棲息と生存のために用意した環境は、森林だからである。象には固有の棲息環境と決められた固有の棲息地があるのに、なぜそこを離れて彷徨っているのだろうか。ライオンや虎が海の近くを彷徨っているのを見た事がある者は居るであろうか。ライオンや虎の生息地は森林と山である。海の鯨やサメが砂漠に居るのを見た事がある者は居るであろうか。鯨やサメは海を棲息地とし、陸上に棲むことは絶対不可能である。人間の生活環境において、ヒグマと共に生活している人々が居るであろうか。自宅の室内や室外が常にクジャクその他の鳥たちで溢れている中で生活している人間が居るだろうか。森林の中で牛や羊を見た事のある物は居るであろうか。鷹やガンが、サルと戯れているのを見た事がある者は居るだろうか。もしこのような状況を見たことがあるとすれば、それは全て異常現象である。こうした奇妙に見える現象について話をしている理由は、1か所に固定されているか、呼吸して歩くことが出来るか如何を問わず、神が造った万物には、すべて生存のための律法が存在するということを、あなたがたに理解してもらうためである。神がこれらの生き物を造る遥か以前に、神はそれらの生き物のための棲息地、つまり固有の生存環境を用意した。これらの生き物には、それぞれ固定された生存環境、固有の食料、固定の棲息地、生存のための気温などがそうした生き物の生存に適した、固定された棲息地がある。このように、そうした生き物は方々を彷徨ったり人間の生存を侵害したり、人間の生活に影響を及ぼしたりすることは無い。これが、神が全ての生き物を管理する方法である。こうした事は、すべて人間に最適な生存環境を与えるためのものである。万物のうち、生き物には、それぞれ固有の生存環境の中に生き延びるための食料がある。その食料により、生き物は土着の生存環境に固定されている。生き物はその環境に固定されているのである。そうした環境においては、生き物は、それらの生き物のために神が定めた律法に従い、依然として生存と繁殖を続けている。この種の律法や神の予定があるため、あらゆる生き物は人間と調和して相互作用し、人間とあらゆる生き物は相互依存している。

 神は万物を造り、その全てについて境界を定め、その中であらゆる生き物を育んだ。万物があらゆる種類の生き物を育んでいたが、それと同時に、神は人間のために様々な生存手段を用意したので、人間の生存手段は1つだけでは無いことがわかる。また人間の生存環境も、1種類だけでは無い。神が人間のために様々な食料や水源を用意したことは既述したが、これは、人間の肉にある命を継続するために不可欠なものである。しかし、人間は全員が穀物を食べて生存しているわけではない。地理的環境や地形の相違に従って、人間には様々な生存手段がある。こうした生存手段は、全て神により用意されたものである。したがって、人間全員が主に農耕に従事しているとは限らない。つまり、人間全員が耕作により食料を得ているとは限らない。これが、本日話す3番目の項目である。境界は、人間の様々な生活様式に基づいて発展した。それでは、人間には、その他にどのような生活様式があるであろうか。それでは、人間には、その他にどのような食料源があるであろうか。それらの物事は、主なものが数種類ある。

 1番目は、狩猟の生活様式である。狩猟による生活様式については、皆知っている。あなたがたのうちに、狩猟して生活している者は居るであろうか。あなたがたは全員現代人であるので、狩猟の方法、銃の使用方法を知らない。あなたがたの食料源は、地から生まれる。狩猟生活者は、何を食べるだろうか。(獲物である。)こうした人々は、森で獲った鳥や獣を食べる。「獲物」とは現代の言葉である。狩人はそれを獲物とは考えず、それを食料として、あるいは日々の糧と考える。たとえば、狩人は鹿を獲った時、喜ぶであろう。「よかった。これで数日間の家族の食料は十分だ。」狩人が鹿を獲った時は、農民が土から作物を得た時と同様である。農民は土から作物を得るので、作物を見た時、農民は喜び、安堵する。「これで食料があるので飢える心配はない。」家族は作物を食べることができるので、飢えることは無い。農民の心は安堵し、満足する。そして狩人は獲物を見た時に安堵し、満足する。なぜなら、狩人は食料の心配をせずに済むからである。次の食事で食べるものがあれば、飢えることは無い。これが狩猟生活者である。狩猟を生業としている人々の生活環境は、通常どのようなものであろうか。狩人は、山の森で生活する。狩人は、生活の大部分において作物の栽培をせず、山の森で生活する。山の森には耕作に適した土地があるだろうか。耕作に適した土地を探すのは困難である。したがって、狩人は様々な生き物すなわち獲物を食べて生存する。これが通常の人間とは異なる生活様式の1番目である。

 2番目は、牧畜の生活様式である。牧畜で生活する者は耕作しないが、何をするであろうか。牧畜だけであろうか。あなたがたの中にモンゴル系の者が居れば、その者に遊牧民の生活について話をして欲しい。(生活の大部分を、牛や羊の放牧で過ごし、農耕は行わない。冬に家畜の屠殺を行って食べる。主食は牛肉と羊肉で、ミルクティーを飲み、乾燥させた米を食べるが野菜は殆ど食べることが無い。現在は各種交通手段が便利になったので、あらゆる野菜や穀類がある。モンゴル人はミルクティーを飲み、チベット人はバター茶を飲む。牧畜生活者は通年多忙だが、食事は豊かである。ミルク、乳製品、肉を欠くことは無い。牧畜生活者は従前ユルトに住んでいたが、現在はみな住宅を建てる。)モンゴル人は主として牛肉と羊肉を食べ、ミルクを飲み、馬に乗って牧畜を行う。これが牧畜生活者の生活様式である。牧畜生活者の生活様式は、悪いものでは無い。野原で風を髪に、顔に陽の光を受けながら牛や馬に乗り、現代生活のストレスは無い。牧畜生活者は、終日広々とした青空と草原だけを眺めている。牧畜生活者は、全員草原に住み、何世代にもわたって遊牧民の生活様式を継続することが出来る。草原での生活は、多少寂しいが、幸福な生活でもある。悪くない生活様式である。

 3番目は、漁の生活様式である。人類には、沿岸部や小さな島に住む人々が、ごく一部存在する。こうした人々は水に囲まれ、海に面している。漁民は漁を生業とする。漁を生業とする人々の食料は何であろうか。何を食料としているであろうか。様々な魚や海産物を食料としている。香港が小さな漁村だった頃、当時の香港の住民は漁を生業としていた。当時の住民は農耕を行わず、毎日漁に出ていた。当時の住民の主な食料は、様々な魚、肉、そして海産物であった。当時の住民は、時々魚と米、小麦粉、日用品を交換することもあった。漁を生業としている人々は皆、沿岸部に住んでいるが、一部の人々は船上に住んでいる。これが、沿岸部に住む人々の、一般人とは異なる生活様式である。沿岸部に住む人々は、漁に依存している。漁が収入源であり、食料源でもある。

 農民以外に、主として上記3種類の生活様式がある。牧畜、漁、狩猟を生業とする者を除く大部分の人々が、農耕を生業としている。それでは、農耕を生業とする人々には、何が必要であろうか。こうした人々には、土が必要である。農耕を生業とする人々は、何世代にもわたって、主として作物を栽培する。こうした人々は食料を地から得ている。栽培する作物が野菜であるか、果実であるか、穀類であるかを問わず、こうした人々は全員、地から日々の糧を得ている。

 こうした様々な人間の生活様式の前提条件は何であろうか。こうした人々が生存するには、環境の基本的維持が必要ではないだろうか。つまり、狩人が山や森、鳥や獣を失ったとしたら、狩人は生活が成り立たなくなる。したがって、狩猟を生業とする人々が山や森を失い、鳥や獣が居なくなったとしたら、狩人は生活の糧を得る源が無くなってしまう。こうした民族は、その後何処へ行き、何をするだろうか。こうした人々の生存の可能性の有無は不明となり、消滅してしまう恐れもある。また、牧畜を生業とする人々は、草原に依存している。こうした人々が依存しているのは、正確には家畜ではなく、家畜が生存する環境となっている草原である。草原が消滅したとしたら、こうした人々は、どこで家畜を放牧すれば良いだろうか。牛と羊は、何を食べるだろうか。家畜が無かったとしたら、遊牧民はどのような生業を営むだろうか。こうした人々は生業を失うであろう。生活の糧を得る手段が無くなったとしたら、人間はどうなるであろうか。生存の継続は極めて困難となり、人間に未来はなくなるであろう。水源が無くなったら、河川や湖沼は干上がってしまうであろう。生活を水に依存する様々な魚は、それでも存続するであろうか。全ての魚が絶滅するであろう。水と魚に生活の糧を依存する人々は、引き続き生存できるであろうか。こうした人々の食料が無くなり、生活の糧を得る源が無くなったとしたら、こうした人々は生存を継続できないであろう。生活の糧や生存に問題が発生するとすぐに、この種の人々は絶滅してしまうであろう。こうした人々は生存できず、絶滅して地上から消滅するであろう。そして、農業を生業とする者が土を失った場合、どのような結果となるであろうか。こうした人々は栽培出来なくなり、植物から食料を得られなくなるであろう。その結果、どうなるであろうか。食料が無かったとしたら、人間は餓死するのではなかろうか。人間が餓死した場合、その種の人間は消滅するのではなかろうか。そうしたわけで、これが様々な生態環境を維持する神の目的である。神が様々な環境や生態系を維持し、生き物をそれぞれの環境に維持する目的は、ただひとつである。その目的とは、様々な人々を育み、様々な地理的環境の中に生きる人々を育むことである。

 万物がそれぞれの律法を失ったとしたら、万物は存在しなくなるであろう。万物がそれぞれの律法を失ったとしたら、万物のうち、あらゆる生き物が存続不可能となるであろう。人間もまた、人間が自らの生存を依存している、自らの環境を失うであろう。人間がこれら全てを失うとしたら、人間は世代を超えて繁殖し、生存してゆくことが出来なくなるであろう。人間が現在まで生存してきたのは、神が人類を様々な方法で育むために、人間に対して万物を与えたからである。人間が現在まで、つまり今日まで生存してきたのは、神が様々な方法で人間を育んでいるからである。こうした好ましく秩序のある固定された生存環境により、地上の様々な種類の人間、様々な人種の人間が、予め定めた範囲内で生存出来るのである。この範囲や境界を越えることが出来る者は居ない。なぜなら、それらを定めたのは神だからである。しかし、神がこのように範囲や境界を定めたのは何故だろうか。このことはあらゆる人間にとって極めて重要である。神はあらゆる生き物に対して範囲を定め、様々な種類の人間それぞれに対して、生存する方法を定めた。また神は、地上の人間を様々な種類や人種に分類し、それぞれの範囲を定めた。この事項が、本日次に話す事項である。

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 終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる

2019年2月11日月曜日

全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 9」1


                             神は万物の生命の源である (3)
   
     一定期間にわたって、神を知ることに関する様々な事項について話をしているが、最近は神を知るという主題に関して極めて重要な事項、すなわち、「神は万物の生命の源である」について話をした。前回は神が人間のために造った生存環境と、神が人間の生活必需品を全て用意していることについて、それらの側面数件に関する話をした。実際のところ、神の業は、人間の生存環境を用意することや、日常の生活必需品を用意することだけでなく、人間の生存と生活に必要とされる多数の神秘的かつ必要な業の様々な側面を完了するためのものであった。これらは全て神の業である。これらの神の業は、人間の生存環境や人間の日常的な必需品を用意することに限らず、業の範囲は、それよりも遥かに広い。これら2種類の業のほか、神は人間の生活に必要とされる数多くの環境と条件も用意した。これが、本日話をする新しい事項であるが、この事項も神の業に関連するものである。そうでなければ、ここで話をしても無意味である。人間が神を知ることを望んでいても、「神」という言葉、あるいは神が持っているものや神が何であるかのあらゆる側面に関する文献的、教義的な認識しか無かったとしたら、それは真の認識ではない。それでは、神に関する認識を得る方法とは、どのようなものであろうか。それは、神の業から神を知り、神のあらゆる側面を知ることである。そこで、次に神の万物創造時における神の業について話をする。


     神が万物を造って以来、神が定めた律法に基づき、万物は機能を続け、常に発展してきた。神に見守られ、神に支配されて、万物は人間の生存とともに常に発展し続けて来た。いかなる物も、これらの律法を変えたり破壊したり出来ない。あらゆる生き物が増殖できるのは、神による支配があるからであり、あらゆる生き物が生存できるのは、神の支配と管理があるからである。つまり、神の支配下においては、あらゆる生き物が規則正しく現れ、繁栄し、消滅し、復活する、ということである。春になると降り注ぐ雨が春特有の感覚をもたらし、地を潤す。地では雪解けが始まり、草が土の中から芽吹き、木々も次第に緑色へと変わる。こうした生き物全てが、地に新鮮な活力をもたらす。これが、あらゆる生き物が現れて繁栄している光景である。様々な動物も巣穴から出て春の温もりを感じ、新しい年を始める。全ての生き物が夏の暑さのなかで日差しを浴び、夏の温かさを楽しむ。様々な草木や植物は急速に生長し、花を咲かせて実を結ぶ。夏は、人間を含めて全ての生き物が活発である。秋には雨が涼しさをもたらし、様々な生き物が刈り入れの時期を迎える。あらゆる生き物が実を結び、こうした生き物が秋の実りを迎えるので、人間もまた冬の食料を準備するために刈り入れを始める。冬になると、全ての生き物が寒さの中で次第に休息し始め、静寂が訪れ、人間もまた休息して冬を過ごす。こうした春夏秋冬の移り変わりは、すべて神が定めた律法により行われる。神はこの律法によりあらゆる生き物と人間を導き、人間のために豊かで色彩に富んだ生活形態を設け、様々な気温と季節のある生存環境を用意した。こうした規律ある生存環境では、人間の規律ある生存と繁殖も可能となる。人間はこの律法を変えることができず、この律法に反することが出来る者は皆無である。この世にどれほど大規模な変革があろうと、これらの律法は存続する。なぜなら、これらの律法が存在するのは、神が存在するからである。その理由は、神の支配と管理である。この種の秩序ある、より広範な環境の中で、人間の生活は、そうした律法と規則の中で進歩する。これらの律法により何世代もの人間が培われ、また何世代もの人間がこれらの律法の中で生存してきた。人間は、何世代にもわたり、神が造った物事と秩序ある環境を享受してきた。人間がこれらの律法を元来のものであると感じたり、それを完全に軽視していたり、あるいはそれが神により指揮されている、支配されていると感じることが出来なかったとしても、いかなる場合も、神は常にこの変わることの無い業を常に行っている。こうした変わらない業における神の目的は、人間の生存と、人間が存続することが出来るようにすることである。

      1.神は人類全体を育むために万物の境界を定めている

   
     本日は、こうした神が人間と万物に与えた律法により、どのようにして人類が育まれているかについて話をする。それでは、この主題はどのようなものであろうか。この主題は、こうした神が万物に対して与えた律法が、どのようにして人間を育んでいるか、ということである。これは極めて大きな主題なので、いくつかの部分に分け、それらの各部分をあなたがたに分かりやすく説明するため、ひとつずつ話をする。この方法であれば、あなたがたにとって把握しやすくなり、徐々に理解できるであろう。


    まず、神は、万物創造時に、山、平野、砂漠、丘、河川、湖沼の境界を定めた。地上には山、平野、砂漠、丘、そして様々な水域が存在するが、これらは何であろうか。これらは地形ではなかろうか。神は、様々な地形全ての間に、境界を定めた。境界の設定といった場合、それは何を意味するだろうか。それは、山や平野、砂漠、丘にはそれぞれ領域、範囲ないし一定の面積がある。さらに、河川や湖沼などの水域にも一定の水量がある。つまり、神が万物を造った時、神は全てを明確に分割した。神は、ある山の半径が何キロメートルであるか、その範囲はどのようなものかを、既に決めていた。また神は、ある平野の半径が何キロメートルであるか、その範囲はどのようなものかも決めていた。様々な物を造った時も、神は砂漠の範囲、丘の範囲やその割合、そしてそれらの境界が何により定められるかなどの事柄を、全て決めていた。神は、河川や湖沼を造った時に、それらの範囲を決めた。それらの物には、全て境界が存在する。それでは「境界」とは何を意味するであろうか。つい先ほど、万物に対する律法が、いかにして万物に対する神の支配により定められているかに関して話をした。たとえば、山の範囲と境界は地球の回転や時間の経過により広がることも狭くなることも無い。山の範囲と境界は固定されている。この「固定されている」というのが神の支配である。平野に関する範囲や、何がその境界となっているかについては、神により固定されている。平野には境界があり、平野の中央に、勝手に土が盛り上がることは無い。突如として平野が山になることは無い。ここで言う律法と境界は、このことを指す。砂漠に関しては、その役割や地形、位置などについては、ここでは話をせず、境界のみについて話をする。神の支配の下では、砂漠の範囲もまた拡大することは無い。なぜなら、神は砂漠にその律法と範囲を与えたからである。砂漠の面積、役割、砂漠の境界にある物、所在地などは、神によって既に定められている。砂漠はその範囲を超えることも、移動することも、勝手に面積が広がることも無い。河川や湖沼の水流には秩序があり、水流は継続しているものの、河川や湖沼の水はその範囲から出たり、境界を越えたりすることは、嘗て無かった。河川や湖沼は、すべて秩序をもって、それぞれ流れるべき単一の方向に流れている。神の支配の律法下において、勝手に干上がったり、あるいは地球の回転や時間の経過が原因で方向を変えたり、流量を変えたりする河川や湖沼は存在しない。こうした事柄は、全て神が掌握しており、神の支配下にある。つまり、神によって造られ、人間の世界にある万物には、それぞれ固定された場所、地域、そして範囲がある。すなわち、神が万物を造った時に、万物の境界が定められ、その境界は勝手に変えたり、更新したり出来ない。ここで「勝手に」、とは何を意味するであろうか。それは、天候や気温、地球の回転速度などが原因で、こうした境界がやみくもに移動したり、拡大したり、変形したりすることは無い、ということである。ある山を例に挙げると、その山には、特定の高さ、特定の裾野の面積、特定の標高、特定の植生がある。これは全て神により計画され、計算されたものであり、高さや面積は勝手に変わることが無い。平野については、人類の大部分が平野に住んでおり、気候の変化により平野の面積やその存在価値が変わることは無い。こうした様々な地形や地理環境に含まれている物事は神が造ったものであり、そうした物事でさえも、勝手に変わることは無い。たとえば、砂漠の構成要素、その下にある鉱床の種類、砂漠の砂の量、色、厚さなどは、勝手に変わることが無い。こうした物事が勝手に変わらないのは、何故であろうか。その理由は、神の支配と管理である。こうした神が造った様々な地形や地理的環境の中では、あらゆる物事を、計画された秩序ある方法で神が管理している。そうしたわけで、これら全ての地理的環境は、それを神が造ってから数千年、数万年後の現在も依然として存在する。こうした地理的環境は、依然としてそれぞれの役割を果たしている。ある期間に火山が噴火したり、地震が発生したり、地面が大きく動くことがあるが、それでもなお神は地形がその機能を喪失することを許さない。人間が享受し、見ることのできるこれら全てが地球上で秩序をもって存在することができるのは、ひとえにこのような神の管理とそれらのものに対する神の支配、そして律法を掌握しているからである。それでは、神はなぜ、地上にある全ての地形を、このような方法で管理するのであろうか。その目的は、様々な地理的環境で生存している生き物全てが安定した環境を得られること、それらの生き物全てが安定した環境の中で継続して生活し、増えることが出来るようにすることである。移動出来るものと出来ないもの、鼻孔で呼吸するものとそうでないものなど、こうした全ての生き物が、人間の生存のための、独自の環境を構成している。何世代にもわたって人間を育むことが可能であり、また人間が何世代にもわたり継続して平和に生存することが出来るのは、こうした環境のみである。

    今わたしが話した事から分かったことは何であろうか。神の万物支配における神の律法は、極めて重要である、ということである。この律法に従って育つ全ての生き物の前提条件は何であろうか。その前提条件は、神による支配である。全ての生き物がこの支配に従って、それぞれの役割を果たしているのは、神の支配があるからである。たとえば、山は森を育む。そして森はその森に棲む様々な鳥や獣を育み、守る。平野は人間が作物を栽培するために用意された場所であり、また様々な鳥や獣のために用意された場所でもある。平野では、大部分の人間が平らな地面で生活することができるので、人間生活に便宜がもたらされる。また、平野には、広大な草原が含まれる。草原は地球の植生である。草原は土を守り、草原に棲む牛、羊、馬を育む。砂漠もまた、その役割を果たす。砂漠は人間の住む場所では無く、その役割は多湿な気候を乾燥させることである。河川や湖沼の水流は、人間の飲料水として便利であり、またあらゆる生き物の水の需要のために存在する。人間は、水が流れている所であれば、どこでも飲料水を得ることができる。様々な地形に対して神が定めた境界は、こうしたものである。こうした神が定めた境界のため、様々な地形により様々な生存環境があり、そうした生存環境は様々な鳥や獣にとって好都合であり、鳥や獣に生存空間を与える。このようにして、様々な生き物の生存環境の境界が発展した。次に話をするのは、このことである。

2019年1月6日日曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「唯一の神自身 3 神の権威(2)」 その4


子孫:第5の節目 1.人間は自分の子孫がどうなるかを制御出来ない 2.人間は、次の世代を養育した後、運命に関する新たな認識を得る 3.運命を信じることは、創造主による統治に関する認識に代わるものでは無い 4.創造主による統治に従う者のみが真の自由を得ることができる

2019年1月5日土曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「もし神が万物のために定めた律法が守られなかった、つまり律法が破られた、あるいは乱されたとしたら、万物は存続が不可能となり、人間の生存環境や日常の糧、そして人間自身も、すべて存続不可能となるであろう。」


2018年12月30日日曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「神は、どの人種が世界のどの地域に住むかを定めたので、人間はその範囲を超えることが出来ない。たとえこの領域を変えたり拡大したりしようとする、ある種の野望が人間にあったとしても、神の許可なくして、その野望を果たすのは極めて困難である。そのようなことは極めて困難である。」


2018年12月23日日曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「人間が現在まで生存してきたのは、神が人類を様々な方法で育むために、人間に対して万物を与えたからである。人間が現在まで、つまり今日まで生存してきたのは、神が様々な方法で人間を育んでいるからである。」


2018年12月7日金曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 2」1


神の義なる性質
 あなたがたは、神の権威に関する前回のフェローシップを伝えられているので、この問題に関する大量の言葉を得たものと確信している。あなたがたが認め、把握して理解できる量は、あなたがたがこの問題に取り組む努力の量により異なる。あなたがたがこの問題に熱心に取り組むことを願っている。決して中途半端な気持ちで取り組むことがあってはならない。さて、神の権威を知ることは、神のすべてを知ることに等しいであろうか。神の権威を知ることは、唯一の神自身を知ることの始まりであると言うことができる。また神の権威を知ることは、唯一の神自身の本質を理解することに、既に取り組み始めていることを意味する、とも言えるであろう。その認識は、神を知ることの一部である。それでは、その他の部分は何であろうか。本日あなたがたに伝えようと考えているのは、この部分、すなわち神の義なる性質である。

 本日の主題についてあなたがたに伝えるにあたり、聖書から2つの聖句を選択した。最初の聖句は、創世記19:1~11と創世記19:24~25にある、神のソドム破壊に関する聖句である。2番目の聖句は、ヨナ書1:1~2、ヨナ書3章、4章にある、神のニネベ救済に関する聖句である。あなたがたは、これら2箇所の聖句に関するわたしの話を楽しみにしているであろう。わたしの発言は当然神自身と神の本質を知るというテーマから逸れてはならないが、本日のフェローシップの焦点は何であろうか。それが何かを知っている者は、あなたがたの中に居るであろうか。わたしの「神の権威」に関するフェローシップのうち、あなたがたはどの部分に関心を持っただろうか。そのような権威と力があるのは神自身だけである、とわたしが言ったのは何故か。その発言によりわたしが説明したかったことは、何か。わたしがあなたがたに伝えたかったことは、何か。神の権威と力は、神の本質が示される側面のひとつであろうか。それらは、神の本質のうち、神の身分と地位を証明する一部分であろうか。これらの質問から、わたしがこれから述べる内容が伝わるだろうか。わたしがあなたがたに理解してもらいたいことは、何か。そのことを注意深く考えて欲しい。

 (1)頑なに神に反対する者は、神の怒りにより破壊される
まず、「神のソドム破壊」に関する聖句を数か所検討する。

 (創世記19:1−11)そのふたりのみ使は夕暮にソドムに着いた。そのときロトはソドムの門にすわっていた。ロトは彼らを見て、立って迎え、地に伏して、言った、「わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください。そして朝早く起きてお立ちください」。彼らは言った、「いや、われわれは広場で夜を過ごします」。しかしロトがしいて勧めたので、彼らはついに彼の所に寄り、家にはいった。ロトは彼らのためにふるまいを設け、種入れぬパンを焼いて食べさせた。ところが彼らの寝ないうちに、ソドムの町の人々は、若い者も老人も、民がみな四方からきて、その家を囲み、ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」。ロトは入口におる彼らの所に出て行き、うしろの戸を閉じて、言った、「兄弟たちよ、どうか悪い事はしないでください。わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください」。彼らは言った、「退け」。また言った、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした。その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた。

 (創世記19:24−25)ヤーウェは硫黄と火とをヤーウェの所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。

 これらの聖句では、ソドムの罪と腐敗は、既に人間にとっても神にとっても憎むべき程度まで達していたこと、そして神の観点から見ると、そのためにソドムは破壊されて然るべきであることは、容易に読み取ることができる。しかし、破壊される前のソドムの町の中では、どのような出来事があったであろうか。それらの出来事から、何が分かるであろうか。それらの出来事に対する神の姿勢は、何を示しているであろうか。経緯の全体を把握するため、聖句に記されている事柄を精読する。
ソドムの腐敗:人間にとっても、神にとっても、激怒に値する

 その夜、ロトは2人の神の使いを迎え、その2人のために食事を用意した。食事の後、使いが休む前に、町中の人々がロトの家を取り囲み、ロトに対して叫んだ。聖句の記録では、人々が「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」と言っていたとある。これらの言葉を述べたのは、誰か。この言葉は、誰に対するものか。この言葉はソドムの人々の言葉であり、ロトの家の外で、ロトに対して叫ばれた言葉である。こうした言葉を聞いて、どのように感じるだろうか。あなたは激怒するであろうか。不愉快になるだろうか。怒りがこみ上げてくるであろうか。これらの言葉は、サタンを感じさせるものであろうか。こうした言葉により、ソドムの邪悪と闇を感じることができるだろうか。これらの言葉から、ソドムの人々の態度の残忍さと野蛮さを感じることができるだろうか。ソドムの人々の態度から、ソドムの人々の腐敗の深刻さを感じることができるだろうか。ソドムの人々の言葉から、ソドムの人々の邪悪な特質と残忍な性質は、自身で制御できない程に達していたことを理解するのは、困難ではない。町のなかで、ロト以外の者は、全員がサタンと何ら変わらず、外から来た誰かを見かけただけで、その者を傷つけ、食い物にしようという衝動に駆られるのであった。こうした描写により、この町の恐ろしさをうかがい知ることができるだけでなく、この町の血なまぐささ、邪悪さや残虐さをも感じ取ることができる。

 こうした魂を食い物にする悪意に満ちた、けだもののような悪党と対面したロトは、どのように答えたであろうか。聖句には「どうか悪い事はしないでください。わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください」とある。この時のロトの本意は、使いを守るためなら、自分の娘ふたりを失うことも辞さない、ということであった。これらの人々は、ロトの提案を受け容れ、使いの者を煩わせるべきでは無かった。なぜなら、ソドムの人々にとって、使いの者は全くの他人であり、何の関係も無く、人々の不利益になるようなことも無く、したがって、ロトの提案を受け容れない理由は無かったからである。しかし、これらの人々は、その邪悪な性質から、ロトの提案を受け容れ、この一件を落着させるつもりは無かった。むしろ、ソドムの人々の態度はその邪悪さを増した。ここでの会話の別の一節では、疑う余地の無い、ソドムの人々の邪悪な本性を察することができると同時に、神がソドムを破壊することを望んだのは何故かを知り、理解することが出来る。

 それでは、ソドムの人々は、次にどのように述べたのであろうか。次のように述べたと聖句には書かれている。「『退け』。また言った、『この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう』。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした。」ソドムの人々が、戸を破ろうとしたのは何故だろうか。それは、ソドムの人々が2人の使いに危害を加えずにはいられたなったからである。この2人の使者は、ソドムで何をしていたのであろうか。この使いは、ロトとその家族を救うために来たのであったが、町の人々は、この使いが来訪したのは、公務に就くためであると勘違いしていた。ソドムの人々は、2人の使いの来訪目的を尋ねることもなく、憶測だけでその2人を攻撃しようとした。つまり、ソドムの人々は、自分達に全く関係の無い他人を傷つけようとした。ソドムの人々が完全に人間性と理性を失っていたことは明らかである。町の人々の狂気と凶暴さは、人間を傷つけ、奪い尽くそうとするサタンの邪悪な性質に等しいものであった。

 町の人々がロトに対し、2人の使いを引き渡すよう要求したとき、ロトはどうしたであろうか。聖句によると、ロトは使いの2人を引き渡さなかったことが分かる。ロトは、この神の使いの2人を知っていたであろうか。無論知らなかった。しかし、ロトがこの2人を救うことが出来たのは、何故であろうか。ロトは、この2人が来た目的を知っていたであろうか。ロトは、この2人が来た目的を知らなかったが、この2人が神の使いであることを知っていたので、この2人を受け容れたのであった。ロトはこの神の使い2人を「わが主」と呼んでいたということは、ロトがソドムの人々とは違って、常日頃から神に従っていたことを示している。従って、神の使いがロトの所へ来た時、ロトは自らの命を危険にさらして2人の使いを受け容れた上、その2人を守るために自分の娘2人を身代わりにしようとした。これは、ロトの義なる行為であり、ロトの性質と本質を具体的に示すものであり、また神がロトを救うために使いを送った理由でもあった。ロトは、危機に遭遇してなお、何を省みることも無く2人の使いを守り、自分の娘2人を身代わりにして使いの安全を守ろうとさえした。ロト以外に、このような行動を取ることが出来る者が、ソドムの町に居たであろうか。誰もいなかったというのが事実である。したがって、ロトを除き、ソドムの人々は全員滅びの対象とされ、滅びて当然であるとされた。


閲覧の詳細 唯一の神自身 2


2018年12月1日土曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「神は生きており、現実に存在する。神は想像上の操り人形などでは無い。神は存在するので、人間は神の心の言葉を注意して聞き、神の姿勢に注意し、神の感情を理解する必要がある。人間は、人間自身の想像により神を定義したり、人間が神に関して思うことや望むことを神に強制したり、神に人間の流儀で人間の取り扱いかたを考えさせたりしてはならない。」


2018年11月22日木曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「時間や場所を問わず、また神が業をどのように行うか、神がどのような姿で人間の前に来るか、どのような形で神の心を示すかを問わず、神が明示す事柄や表出する事柄は、すべて神自身、神の本質、神の中にある物事や神の存在に該当する。」


2018年11月19日月曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「神は生きており、現実に存在する。神は想像上の操り人形などでは無い。神は存在するので、人間は神の心の言葉を注意して聞き、神の姿勢に注意し、神の感情を理解する必要がある。人間は、人間自身の想像により神を定義したり、人間が神に関して思うことや望むことを神に強制したり、神に人間の流儀で人間の取り扱いかたを考えさせたりしてはならない。そのようなことをするというのは、あなた方は神の怒りを買い、神の怒りを試し、神の威厳を挑発しているに等しい。」


2018年11月16日金曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「神の姿勢が分からない場合、不注意に発言したり、行動したり、レッテルを貼ったりしないこと。更に、みだりに結論を出さず、待つことと求めることが必要である。それもまた、神を畏れ、悪を避けることの現れである。」


2018年11月9日金曜日

全能神教会の御言葉の抜粋「唯一の神自身 6」5


 サタンが人間を堕落させる五つの方法については、既に話し合いました。これら五つの方法の中にサタンが用いる手段があります。サタンが人間を堕落させる方法は、ある種の隠れ蓑であり、そこに隠された手段が極めて狡猾で、サタンはそれらの手段を用いて目的を達成しようとします。その手段とは何でしょうか。要約してください。(騙し、誘惑し、脅迫することです。)列挙するほど、正確になってゆきます。あなたがたはサタンから深刻な危害を受け、この問題について強く思うところがあるようです。(サタンは甘い言葉や嘘を用い、影響を与え、惑わし、強制的に占拠します。)強制的に占拠することは、極めて強い印象を与えます。人間はサタンの強制的な占拠を恐れています。他には。(暴力により人間を傷つけ、脅迫と誘惑の両方を用い、嘘をつきます。)嘘はサタンの行動の内容であり、サタンはあなたを騙すために嘘をつきます。嘘の特性は何ですか。嘘と騙すことは同じではないですか。嘘をつくのは実は、あなたを騙すことが目的です。はっきり言いなさい。その他に知っていることを全て言ってください。(誘導し、危害を加え、盲目にして惑わします。)騙すことについては、あなたがたの大部分が同じように感じているのではありませんか。(へつらうようなお世辞を言い、人間を支配し、虜にし、恐怖に陥れ、人間の神への信仰を阻みます。)あなたがたの言っていることは良く分かりますし、全て同様に該当します。あなたがたは、皆これについて何かしら知っています。ここで要約しましょう。

 人間を堕落させるためにサタンが用いる手段は、おもに六つある。

 第一の手段は支配と威圧です。つまり、サタンはあなたの心を支配するために、あらゆることを行ないます。「威圧」とは何ですか。(強要することです。)サタンは、脅迫して従わなかった場合の結末を考慮させ、強制的に言うことを聞かせようとします。あなたは恐れて、逆らうような真似はせず、サタンに服従します。

 第二の手段は騙しとごまかしです。「騙しとごまかし」には何が伴いますか。サタンはでっち上げた伝説や嘘で人を騙して人にサタンを信じさせます。サタンは人間が神に造られたとは決して言いませんが、人間は神に造られたのではないとも直接的に言いません。サタンは「神」という言葉を全く用いず、あなたを惑わすために言い換えの言葉を用いるので、あなたは神の存在については基本的に何も知りません。このごまかしには当然、これ以外にも様々な側面があります。

 第三の手段は強制的な教化です。強制的な教化がありますか。(はい。)何についての強制的教化ですか。強制的な教化は、人間自身の選択により行なわれますか。人間の同意のもとで行われますか。(いいえ。)人間が同意しなくても無関係です。あなたの無意識のうちに行われ、サタンの思想や生活法則、本質があなたに吹き込まれます。

 第四の手段は脅迫と誘惑です。つまり、サタンは、あなたにサタンを受け入れさせ、あなたをサタンに付き従わせ、サタンのために行動させるために、様々な手段を用います。サタンは、目標達成のために必要とあらば、手段を選びません。サタンはあなたに僅かに恩恵を施すことがあるが、あなたを誘惑して罪を犯させます。あなたがサタンに従わなかった場合、サタンはあなたを苦しめ、あなたに罰を与え、あなたを攻撃して罠にかけるために様々な手段を用います。

 第五の手段は惑わしと麻痺です。「惑わしと麻痺」とは、サタンが、人間を騙すことが本当の目的なのに、あたかもサタンが人間の肉や生活、将来を考慮しているように考えられるよう、人間の考え方と合致するような甘い言葉や思想をでっち上げることです。サタンはそうして人間を麻痺させるので、人間は善悪の判断がつかなくなり、人間は知らないうちに騙され、サタンに支配されてしまうのです。

 第六の手段は、心身の破壊です。サタンは人間の何を破壊しますか。(精神など人間のすべてです。)サタンは人間の精神を破壊し、あなたを無力にして反抗させないようにします。つまり、あなたの心は、自分の意思に反してとてもゆっくりサタンへ向いてゆきます。サタンは、これらの考えや文化などを用いて、これらの事柄を日常的に人間に吹き込み、人間に影響を及ぼし、教化し、極めてゆっくりと人間の意志を滅ぼし、もはや善人になりたくないと考えさせ、人間が義と呼ぶものを堅持する意志をくじきます。知らないうちに、人間は流れに逆らって上流へと進む意志の力を失い、下流に流されていきます。「破壊」とは、サタンが人間を苦しめるあまり、人間でも幽霊でも無いほどの状態にした上で、その機会に人間を食い尽くすことです。

 サタンが人間を堕落させるこれらの手段は、どれもが人間を無力にして反抗できない状態に陥れることが可能です。どれもが人間にとって致命的なものです。つまり、サタンの行動とサタンが用いる手段は、すべてあなたを堕落させ、人間をサタンの支配下に陥れ、あなたを罪悪の泥沼に陥れてることができます。以上が、サタンが人間を堕落させるために用いる手段です。

2018年11月5日月曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「唯一の神自身 3 神の権威(2)」 その7


終わりの日のキリストの語られる言葉 「唯一の神自身 3 神の権威(2)」 その7 1.神が人間の運命を統治しているという事実は、誰にも変えることが出来ない 2.神の権威に服従することを望む者の適切な姿勢と行動 3.自分の唯一の主として神を受け入れることが、救いを得る第一歩である

2018年10月28日日曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 6」1


 前回の交わりの主題は何でしたか。(神の聖さでした。)神の聖さは神自身のどの側面に関連しますか。神の本質に関連するものですか。(はい。)それではこの交わりにおいて神の本質に関連する主題は何ですか。神の聖さですか。(はい。)神の聖さは、神独特の本質です。前回に分かち合った主題は何でしたか。(サタンの邪悪さを見極めることでした。)サタンの邪悪さに関し、前回は何を分かち合いましたか。思い出せますか。(サタンが人間を堕落させる方法です。サタンは、知識、科学、伝統文化、迷信、社会動向を利用して人間を堕落させます。)それが前回話し合った主題でした。サタンは、知識、科学、迷信、伝統文化、社会動向を利用して人間を堕落させます。これらがサタンが人間を堕落させる方法です。合わせて幾つの方法がありますか。(五つあります。)そのうちサタンが最も多用する方法であり、人間を最も深刻に堕落させるものは何だと思いますか。(伝統文化です。)伝統文化であると思う兄弟姉妹がいますが、他にもありますか。(知識です。)あなたがたは、高度な知識があるようですね。他にありますか。(知識です。)前の人の意見と同じですね。伝統文化と回答した兄弟姉妹に尋ねますが、そう思う理由は何ですか。それについて何か理解していますか。説明してもらえますか。(サタンの哲学と孔孟の教えがわたしたちの思考に深く浸透しているので、それらがわたしたちを極めて深刻に堕落させると感じます。)知識と回答した人に尋ねますが、その理由を説明できますか。理由を話してください。(知識が人間に神を礼拝させることは、有り得ません。知識は神の存在と、神の支配を否定します。つまり、サタンは幼少時からわたしたちに勉強するように、学習と知識の取得によってのみ、将来や命運が保証されると教えます。このようにして人間を堕落させます。)サタンは知識を用いて、あなたの将来と命運を支配し、それではサタンが人間を意のままに服従させることになります。サタンが人間を最も深刻に堕落させるのは、このような方法だとあなたは考えています。つまり、あなたがたのうち大部分が、サタンは知識により人間を最も深刻に堕落させると考えているようですが、他にも何かありますか。たとえば、科学や社会動向は、どうですか。これらに賛成する人はいますか。(はい。)今日は、サタンが人間を堕落させる五つの方法について再度あなたがたに伝え、それが終わってから、サタンは正確に人間のどの側面を最も深刻に堕落させるかを確認するためあなたがたに幾つか質問します。

 サタンが人間を堕落させる五つの側面は、サタンが人間を堕落させる五つの方法です。そのうち最初のものは知識なので、まず知識を話し合いの主題として取り上げましょう。サタンは知識を餌として用います。注意して聴くように。知識は餌の一種に過ぎません。人間は「学習に励み、日々向上」し、知識を武器のように身に付け、知識を科学の扉を開くのに用いるよう誘惑されます。つまり、身に付ける知識が多ければ多いほど、より多くの物事を理解するようになるのです。サタンは、人間にこのようなことを言います。また、サタンは人間に、知識を身に付けるとともに、高尚な理想を育み、大志と理想を持つよう命じます。人間に知られることなく、サタンはこのようなメッセージを数多く送り、無意識のうちにそれが正しい、あるいは有益であると人間に感じさせます。人間は、知らぬ間にそうした道を歩み、知らぬ間に自分自身の理想と大志に導かれて進んでゆきます。人間は、サタンに与えられた知識、偉人や有名人の考えから徐々に気付かぬうちに学びます。また人間は、英雄とみなされる人々の行動から学び続けます。あなたがたは、こうした英雄の行動によりサタンが人間に唱道する事柄やサタンが人間に吹き込もうとしている事柄の一部を知っているかもしれません。サタンが人間に吹き込む事柄は何でしょうか。人間は愛国心に溢れ、自国に忠誠であり、勇敢でなければならない。歴史や英雄の伝記から人間は何を学びますか。それは、人に対して忠義心を持つこと、あるいは友達のために尽くすことです。こうしたサタンの知識の中で、人間は無意識のうちに多くの良からぬ物事を学びます。サタンが人間のために用意した種は、知らぬ間に未熟な人間の心に植え付けられ、その種は、人間に偉大な人物になる必要がある、有名になる必要がある、英雄になる必要がある、愛国心を持つ必要がある、家族を愛する人間になる必要がある、友人のためならば何でもする、忠義感を持つ人間になる必要があると感じさせます。サタンに魅惑された人間は、サタンが人間に用意した道を知らず知らず進んでゆきます。その道を歩んでゆくうちに、人間はサタンによる生活の規則を受け入れることを強要されます。人間は、自分で全く気付かぬうちに独自の生活規則を作り出しますが、それはサタンが人間に強制的に吹き込んだ生活規則に過ぎません。この学習過程において、サタンは、物語や伝記など、サタンの餌を人間に少しずつ食べさせることのできる全ての手段を用いて、サタンの物事を人間に吹き込むと同時に、人間に独自の目標を目指し、独自の人生の目標や生活規則、人生の進路を決めさせます。こうして学習過程のなかで、ある者は文学を好み、ある者は経済を好み、ある者は天文学や地理に興味を持つようになります。さらに、政治を好む者、また物理や、化学、はては神学を好む者もいます。これらは全て知識の一部です。あなたがたは、全員これまでにそうした知識に接する機会があったので、それがどのようなものかを知っています。こうした知識に関しては、誰もがそのうち特定のものについて、際限なく語ることが出来ます。したがって、こうした知識が人間の心にどの程度深く入り込んでいるかは明白です。これは、こうした知識が人間の思考において占めている位置や、人間に及ぼしている影響の深さを示しています。人が知識のある側面を好むようになり、それを深く愛するようになると、無意識のうちに理想が生まれます。ある者は小説家を目指し、ある者は文学者を目指し、ある者は政治家として身を立てることを目指し、ある者は経済活動に関与して実業家となることを目指します。また英雄や、偉人、有名人になろうとする人々もいます。どのような人間となることを目指すかを問わず、人々の目標は、知識を習得する方法により、自分自身の目的のために使用すること、自分自身の願望や理想を実現することです。それがどれほど聞こえが良くても、つまり、自分の夢を実現したい、人生を無駄にしたくない、あるいは出世したいなどは、高尚な理想と大志を育んでいるものの、本質的には何が目的ですか。あなたがたは、このことについて考えたことがありますか。サタンはなぜこんな事をしたいのでしょうか。サタンがこんな事を人間に吹き込む目的は何でしょうか。あなたがたの心は、この問題について明瞭に理解しなければなりません。

 それでは、サタンが知識を用いて人間を堕落させる方法について話しましょう。わたしたちは、サタンは知識を用いて人間に何をしたいのか、人間にどのような道を歩ませたいのかをまず知らなくてはなりません。(神を拒むことです。)まさしく神を拒ませたいのです。知識を習得した人間に見られる効果、知識を習得することの結末、それはまさに神の拒絶です。それでは、サタンの邪悪な動機は何か。あなたがたは明確に理解していないのではありませんか。人間が知識を習得する過程において、サタンは、それが物語の説明であったり、ただ一つの知識を与えることであったり、人間に自分の欲を満たし理想を実現させるようなことであったりと、あらゆる手段を用います。サタンがあなたを導きたい道について、正確に理解していますか。人間は知識を習得することは自然であり、何も悪いことが無いと考えています。おだやかな言い方をすれば、高尚な理想を育むことや、大志を抱くことは、向上心があると言うことであり、それは人生において正しい道のはずである。人間が自らの理想を実現したり、人生において出世できたりするとしたら、そのように生きる方が素晴らしいのではないか。そのようにして自分の祖先に栄誉をもたらすのみならず、おそらく歴史に自分の名を残すことは、良いことではないか。こうしたことは、世俗的な人々から見れば、良いことであり、適切で前向きなことです。しかし、サタンは邪悪な動機をもって、人間をそのような道へと導き、それで良しとするかというと、無論そのようなことはありません。実際には、人間の理想が如何に高尚であったとしても、また人間の願望が如何に現実的であり、適切であったとしても、人間が成し遂げたい事、求める事は、二つの言葉と不可分な関連性がある。その二つの言葉は、人間それぞれの生涯にとって極めて重要であり、サタンが人間に吹き込みたいことです。その二つの言葉とは、何でしょうか。そのひとつは「名声」で、もうひとつは「利得」。二つの言葉とは、名声と利得です。サタンは極めて温和な方法、人間の観念に極めてうまく適合する方法を用います。その方法には、全く過激さが無いのです。人間は、無意識のうちにサタンの生き方や生活の規則を受け入れるようになり、人生の目標や方向性を決定し、またそうすることにより無意識のうちに人生の理想を持つようになります。そうした人生の理想は、どれほど高尚な響きがあったとしても、名声や利得と複雑に関連している建前に過ぎません。偉人や有名人のみならず、全ての人々が人生において従う全ての事柄は、「名声」と「利得」のふたつだけに関連するものです。そうではないですか。人間は、名声と利得を手に入れれば、それを利用して高い地位や莫大な富を堪能し、人生を楽しむことができると考えます。名声と利得を手に入れれば、それを悦楽の追求と不徳な肉の快楽に利用できると考える。人間は、自分が求める名声と利得のために、無意識ではあるが率先して、自分の心身や所有する全ての物事、将来、運命をすべてサタンに引き渡します。人間はこの引き渡しにあたり、実に一瞬たりとも躊躇することが無く、それを奪回する必要性を省みることも一切ありません。このようにして人間がいったんサタンを頼りにし、サタンに忠義を尽くしたなら、人間は自分自身を支配していることができるでしょうか。無論できません。こうした人間は完全にサタンに支配されます。彼らはすっかり泥沼に沈み込んだのであり、そこから抜け出すことは一切不可能です。ひとたび名声と利得の泥沼に陥いると、人間は明るいもの、義なるもの、美しく良いものを求めなくなります。これは、人間に対する名声と利得の魅力が強すぎるため、それが人間にとって人生を通して終わり無く永遠に追求するべきものとなってしまうからです。これが真実ではないですか。「知識の習得とは読書することや知らない事を幾つか習得することで、時勢や世の中に遅れを取らないようにするためである。知識を習得するのは、ただ生活の糧を得るため、自らの将来のため、必需品のためである」と言う人もいます。それでは必需品や食糧の問題を解決するためだけに、十年におよぶ辛い学習を行う人間がいるでしょうか。(いません。)そんな人は一切いません。それでは、辛い学習を長年にわたり続けるのは何故ですか。それは、名声と利得のためです。名声と利得がはるか前方に待っており人を呼んでいるため、自らの勤勉と辛苦と努力をもってその道を進むほか無く、それによって名声と利得を得られるものと信じているのです。自らの将来の道のため、将来の快楽と生活向上のために辛苦を味わう必要があるのです。そんな知識とは、いったい何なのか、わたしに教えてくれませんか。知識とは、人々が知識を習得する過程で、サタンが人々に教えた生活の規則ではないでしょうか。サタンにより人間に吹き込まれた、人生の高尚な理想ではないでしょうか。たとえば、偉人の考えや、有名人の操守さ、英雄の気概、武侠小説の侠客や剣術家の俠骨や親切心を考えてみましょう。(その通りです。)これらは世代を超えて影響を及ぼし、各世代の人々はそうした思想を受け入れて、そのために生活し、永遠にそれを求めるよう仕向けられます。これがサタンが知識を用いて人間を堕落させる方法であり、手段です。サタンが人々をこの道へと導いた後、人々が神を礼拝することはまだ出来ますか。(出来ません。)サタンにより人間に吹き込まれた知識や思想は、神を礼拝することに何か関連していますか。真理に属する何かがありますか。(ありません。)神を畏れ、悪を避けることに関する何かが含まれていますか。(含まれていません。)あなたがたの話しぶりは少し確信が無いようですが、まあいいでしょう。「名声」と「利得」がサタンが人間を邪悪な道へと誘惑するのに用いる二つの重要な語句だと理解しているかぎり、それで十分です。

 ここでもう一度簡単に確認します。サタンが人間を虜にし、支配するために使用するものは何ですか。(名声と利得です。)サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために努力し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てる全ての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけます。足かせは人間の身体に付けられ、人間はそれを外す力も勇気もありません。したがって人間は、無意識のうちに足かせをかけられた状態で極度の困難の中を歩んでゆきます。この名声と利得のために、人間は神を避け、神を裏切り、ますます邪悪になります。人間はこのようにして世代を追うごとにサタンの名声と利得により破壊されてゆきます。サタンの行動を検討すると、サタンの邪悪な動機は、極悪非道ではないでしょうか。(その通りです。)多分あなたがたはいまだに名声と利得なくして生活はあり得ないと考えているので、サタンの邪悪な動機を理解することが出来ないかも知れません。あなたがたは、人間が名声と利得を捨て去ったら、将来が見えなくなり、目標を見失い、将来が暗く陰鬱になってしまうと考えています。しかしゆっくりと、名声と利得はサタンが人間を束縛するために用いる非常に重い足かせであると、やがて分かるようになるでしょう。そのことを理解する時まで、あなたはサタンの支配と、サタンがあなたを束縛するためにもたらす足かせを徹底的に反抗するでしょう。サタンがあなたに吹き込んだ物事の全てを捨て去ることを望むようになる時が来れば、きっぱりサタンと訣別し、サタンがあなたにもたらしたもの全てを心から嫌悪するようになるでしょう。この時になって初めて、あなたは神への真の愛と思慕をもつでしょう。

2018年10月25日木曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「創造物の行動や考えは、全て神の義なる性質による判断に基づき存在する。神が怒るか、憐れみをかけるかを支配できるものは居ない。それを決定できるのは、創造主の本質、つまり創造主の義なる性質のみである。これが創造主の義なる性質に固有の特徴である。」


2018年10月15日月曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 5」5


 サタンの本質は邪悪であるので、サタンの業の結果は邪悪とならざるを得ず、あるいはその結果は少なくともサタンの邪悪さと関連したものである、と言えるであろうか。(そう言えるであろう。)それでは、サタンはどのようにして人間を腐敗させるであろうか。まず、視認することや感じることが出来るこの世界においてサタンが仕組んだ悪について取り上げて検討するが、あなたがたは、それについて以前に考えたことがあるであろうか。それほど深く考えたことは無いかもしれないので、サタンがどのように人間を腐敗させるかについて理解できるように、主要な点をいくつか挙げる。進化論という理論があるが、それについては皆知っているであろう。この進化論と唯物論は、人間により研究されている知識の領域であろうか。(そうである。)サタンはまず、知識により人間を腐敗させ、科学によって知識や科学、神秘的な事柄、あるいは人間が探求したい事柄に対する人間の関心を高める。すなわち、サタンは科学的知識を用いて人間を腐敗させる。人間を腐敗させるため、サタンがその次に使用するのは、伝統文化と迷信であり、その次に社会動向を利用する。これらの物事は、すべて人間が日常生活において接するものであり、人間が見たり、聞いたり、触れたり、経験したりする身近な物事と関連している。こうした物事はあらゆる者の周囲にあり、人間はこうした物事から脱することが出来ない、抜け出すことができないと言えるであろう。人間はこうした物事により影響され、感染され、支配され、束縛されることを避けられず、人間にはこうした物事を排除する力が全く無い。

 まず、知識について話をする。知識は、誰しもが肯定的なものと考えるのではないだろうか。少なくとも、人々は「知識」という言葉の含意は、否定的であるより、むしろ肯定的であると考えている。それでは、ここでサタンは最初に知識で人間を腐敗させるという議論をしているのは、何故だろうか。進化論は知識の一側面ではなかろうか。ニュートンの科学的法則は知識の一部ではなかろうか。地球の引力は知識の一部であろう。(そうである。)それでは、サタンが人間を腐敗させるために使用する物事に、なぜ知識が含まれているのであろうか。あなたがたは、どう考えるのか。知識には真理がかけらほどは含まれているだろうか。(含まれていない。)それでは、知識の本質は何であろうか。(知識は真理に反する。)人間の知識は、何に基づいて習得されるであろうか。それは進化論に基づいているであろうか。人間が追究する知識は、総じて無神論に基づいているのではなかろうか。(そうである。)それでは、そうした知識には、神と何らかの関連性があるだろうか。知識は神への礼拝と関連しているだろうか。知識は真理と関連しているだろうか。(関連していない。)サタンは、どのように知識を用いて人間を腐敗させるのであろうか。たった今、こうした知識のうち、神への礼拝や真理と関連するものは一切無いと述べた。一部の者は、「知識は真理と無関係かもしれないが、人間を腐敗させることはない。」などと考える。あなたがたは、それをどう思うか。あなたは、知識により、人間の幸福は自分自身の手で造った物事に依存すると悟らされたのか。人間の運命は自分自身の掌中にあると、知識により悟らされたことはあるだろうか。(ある。)こうした話は、何であろうか。(戯言である。)そのとおり。それは戯言である。知識に関する話は複雑である。簡潔に言えば、ある分野の知識は、知識以上のものでは無い、と言えるであろう。それは、無神論に基づき、神が万物を創造したという理解なしに学んだものである。人々がこの種の知識を習得するとき、人間は神が万物を支配しており、万物の管理しているということを理解しない。人間は、そうしたことを理解する代わりに、調査研究と探索を延々と続け、その分野の知識について科学的な結論を得ようとするのみである。しかし、人間が神を信じずに調査研究を続けた場合、人間は決して真の答えを見つけられないであろう。知識からは、生活の糧、職業ないし収入が与えられ、飢えることは無いというだけで、神を知り、神を信じ、神に従う上では、決して役立つことは無く、知識は人間を悪から遠ざけることはない。知識を学べば学ぶほど、神に反抗したい、神を調査したい、神を試したい、神に逆らいたいという欲望が強くなる。そうであれば、知識により人間が教えられることは、何であろうか。それは、すべてサタンの哲学である。腐敗した人間に見られる、サタンの哲学と生存の規則は、真理と何らかの関係があるだろうか。(無い。)それらは真理とは一切無関係であり、実は真理とは正反対である。人々は頻繁に「人生は動きである」というが、それはどのような話であろうか。(戯言である。)また人間は「人間は鉄であり、米は鋼である。食事を抜くと空腹になる。」というが、それはどのような話であろうか。(サタンの戯言である。)それはさらに劣悪な邪論であり、それを聞くと嫌悪を感じる。知識とは、おそらく皆知っているものであろう。サタンは、いわゆる人間の知識の中に、サタンの人生哲学やその考え方を、かなり大量に浸透させている。そうすることで、サタンは、人間がサタンの思想や哲学、観点を借りて、人間が神の存在や神による万物支配や人間の運命の支配を否定するようにしている。したがって、人間の研究が進展し知識を得た時に、サタンが人間の精神に加えた観点や概念、思想などが原因となって、神の存在が曖昧なものとなっているように感じ、さらには神が存在しないと感じることさえある。サタンがこうした思想を人間の精神に加えるにしたがって、人間は腐敗してゆくのではなかろうか。(その通りである。)現在、人間は何を生活の基盤としているであろうか。人間は本当にこうした知識に依存しているであろうか、というと、そのようなことは無く、人間は、こうした知識に潜むサタンの思想、観点、哲学を生活の基盤としている。これが、サタンによる人間の腐敗の中核が発生する部分であり、サタンの目的であり、サタンが人間を腐敗させる方法である。

 A: サタンは知識を用いて人間を腐敗させる方法

 まず、この主題の最も表層的な側面について話をする。学校で中国語の授業を受けている時、中国語と作文には人間を腐敗させる能力があるか、というと、そのようなことは無い。言葉が人間を腐敗させることが出来るであろうか。(出来ない。)言葉は人間を腐敗させない。言葉は人間の会話を実現し、人間が神と交わる時に用いる道具である。さらに、言語や言葉は、現在神が人間と交わる時の手段でもあり、必要なものである。1と1の和は2である、というのも知識である。2と2の積は4である、というのも知識である。しかしそうした知識は人間を腐敗させることが出来るであろうか。これは常識であり、法則であるから、人間を腐敗させることが出来ない。それでは、どのような知識が人間を腐敗させるであろうか。それは、サタンの観点と思想が混入されている知識であり、サタンはこうした観点と思想を、知識により浸透させようとする。たとえば、随筆に書かれた言葉に何かしら問題があるだろうか。(無い。)それでは、問題はどこにあるのだろうか。随筆を執筆した時の筆者の観点や趣旨、思想の内容は、霊的なものであり、人間を腐敗させることができる。たとえば、テレビ番組を見ている場合、その中であなたの意見を変える可能性のあるのは、どのような物事であろうか。出演者の言葉や、言葉そのものが人間を腐敗させることがあるだろうか。(無い。)人間を腐敗させるのは、どのような物事であろうか。それは、番組の制作責任者の意見を示す、その番組の中核的な思想と内容であり、そうした意見に含まれる情報が人間の心と精神を変える場合がある。そうではないだろうか。(その通りである。)サタンが知識を利用して人間を堕落させるとわたしが言う意味が、あなたがたに分かるだろうか。(分かる。)あなたがたは誤解することはないだろう。それでは、小説や随筆を読んだ時、あなたは、その随筆で表されている思想が人類を腐敗させるか、人類に役立つかを判断することが出来るであろうか。(多少できる。)それはゆっくりと研究し、経験する必要のあることであり、たやすく即時に理解できるものでは無い。たとえば、ある分野の知識を調査研究している際に、その知識の建設的な側面は、その分野の常識や、人間が避けるべき事柄を理解する上で役立つ。たとえば、「電気」は、ある分野の知識である。人間が電気で感電することを知らなかったとしたら、それは無知であろう。しかし一旦この分野の知識を理解したならば、電気の流れている物に触れる時は注意するであろうし、電気の使い方を知るであろう。こうした事柄は、どちらも建設的な物事である。知識がどのように人間を腐敗させるかに関して話していることを、あなたがたは正確に理解しているであろうか。(理解している。)理解しているということであれば、この件に関してはこれ以上話を続けない。なぜなら、この世界で研究されている知識の種類は多数あるので、あなたがたが時間をかけて自分自身で区別しなければならないからである。

 B: サタンは科学を用いて人間を腐敗させる方法

 科学とは何であろうか。科学は、あらゆる者の心において高い地位にあり、奥の深いものであるとみなされているのではなかろうか。(その通りである。)科学と言うと、人々は「科学は一般人に理解できるものではなく、特定の研究者や専門家のみが取り扱うことのできる事項だ。科学は我々一般人と無関係である。」と感じるのではなかろうか。しかし、科学は一般人と関係あるであろうか。(ある。)サタンは、人間を腐敗させるためにどう科学を使うのであろうか。ここでは、人間が実生活の中で頻繁に遭遇する物事以外については、話をしない。あなたがたは遺伝子について聞いたことがあるであろう。(ある。)あなたがたは皆、この言葉に馴染みがあるであろう。遺伝子は科学により発見されたものであろうか。遺伝子は、正確に言うと人間にとって何を意味するものであろうか。遺伝子は、人体が神秘的なものであると人々に感じさせるのではないか。遺伝子の話を聞くと、もっと知りたい、詳しく知りたいと思う人々が、特に好奇心の強い人々の中に、いるのではないか。こうした好奇心旺盛な人々は、この話題に注力し、暇さえあれば書籍やインターネットで情報を検索し、一層詳しく知ろうとするであろう。科学とは、何であろうか。端的に言うと、科学とは人間が関心を持つ物事、未知の物事、神により伝えられていない物事に関する思想と理論、人間が調査したい神秘的な事柄に関する思想と理論である。科学の範囲について、あなたはどう考えているであろうか。科学にはあらゆる物事が含まれると言うかもしれないが、人間はどのようにして科学的な作業を行うであろうか。調査することで行うのか。科学では、そうした物事の詳細や法則を調査し、あやふやな理論を掲げ、そうした理論について、皆「この科学者達は実に素晴らしい。実に多くの知見があるので、こうした物事が理解できるのだ。」と考える。人間は、こうした科学者を大いに称賛するであろう。科学研究を行う人々は、どのような考えを持っているであろうか。科学研究者は、宇宙や、関心のある分野の謎に包まれた事柄を研究したがるのではないか。こうした研究の最終的な成果は何であろうか。科学では、推量により結論を出す者や、人間の経験に依存して結論を出す者がおり、また別の科学分野では経験や歴史的な考察や背景から結論を出す者がいる。そうではないだろうか。(その通りである。)それでは、科学は人間に対してどのように作用するであろうか。科学の作用は、人間が物質世界の物事を理解できるようにし、人間の好奇心を満たすに過ぎない。神による万物支配の法則は、科学によって人間が理解することはできない。人間は科学から結論を得ようとするようだが、その結論は難解であり、一時的な満足をもたらすに過ぎない。この一時的満足には、単に人間の心を物質世界に制限する作用しか無い。人間は科学から既に回答を得ていると感じるので、問題が発生した時、それを証明し、認める上で、科学的見解を固く信じる。人間の精神は科学に取り憑かれ、魅了されており、神を知り、崇拝する精神、神が万物を創造したことを信じ、神に答えを求める必要があることを信じようとする精神を失っている。これは事実ではなかろうか。ある者が科学を一層信じるようになると、その者は一層不合理となり、あらゆる物事に科学的解決策がある、研究であらゆる物事を解決できると信じるようになる。そうした者は神を求めず、神が存在することを信じない。長年にわたり神に付き従ってきた者でさえも、思いつきでバクテリアの研究をしたり、情報を検索して答えを求めたりする。そうした者は真理の観点から問題を考えることが無く、殆どの場合、そうした者は科学的な観点や知識、結論に依存して問題を解決することを望むが、神を頼り、求めることは無い。こうした者の心には神が存在するであろうか。(存在しない。)さらには、科学研究と同じ方法で神を研究したがる者もいる。たとえば、大洪水の後に箱舟が残された場所へ行く宗教専門家が多数いる。彼らは箱舟を見たが、箱舟を見ても、神の存在を理解していない。彼らは物語と歴史しか信じず、それが、物質世界における宗教専門家による調査研究の結果である。物質的な物事を調査した場合、それが微生物学であれ、天文学であれ、地理学であれ、神が存在する、あるいは神が万物を支配しているという結論には、決して到達することがない。そうではないだろうか。(その通りである。)それでは、科学は人間に対してどのように作用するであろうか。科学は、人間を神から遠ざけるのではなかろうか。科学により神を研究することは可能となっているのではないだろうか。科学により神の存在について人々が一層疑念を抱くようにならないだろうか。(なる。)それでは、サタンはどのようにして科学を用いて人間を腐敗させようとするのであろうか。サタンは科学的な結論を使用して人間を欺き、麻痺させようとしているのではないか。サタンは、人々が神の存在を求めたり信じたりしないように、曖昧な回答により人々の心を捉えようとするので、人々は神を疑い、否定し、神から離れてゆく。このような理由で、科学はサタンが人間を腐敗させる方法のひとつであると言うのである。

閲覧の詳細 唯一の神自身 5


2018年10月9日火曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「ニネベの人々に対する神の心の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていなかった。むしろ、その変化は純粋な怒りから、純粋な寛容さへの変化であった。これが神の本質の真の明示である。神は、業に関して優柔不断であることや躊躇することが決して無い。神の業の根底にある原理と目的はすべて明白かつ明瞭であり、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいない。つまり、神の本質には、闇や邪悪が一切含まれていない。」


2018年10月4日木曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「唯一の神自身 3 神の権威(2)」 その2


終わりの日のキリストの語られる言葉 「唯一の神自身 3 神の権威(2)」 その2 出生:第1の節目 1.新たないのちは創造主の計画から生まれる 2.人間が個々に異なる状況下に生まれる理由 成長:第2の節目 1.人間の成長時の条件は創造主により決定される。 2.人間の成長時の様々な条件により、様々な役割が生まれる。

2018年9月29日土曜日

全能神の発表「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」


 人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。天地創造の働きは、人類全体を作り出す働きであった。それは人類を救う働きではなく、人類を救う仕事には関係がなかった。なぜなら、天地創造の時、人類はサタンによって堕落させられておらず、人類を救う働きを実行する必要がなかったからである。人類を救う働きは、人類が堕落させられた後にようやく始まり、そこで人類を経営する働きも人類が堕落させられた後にようやく始まったのである。言い換えれば、人を経営する神の働きは、人類を救う働きの結果として始まったもので、天地創造の働きから生じたものではない。人類の堕落した性質が無ければ、人類を経営する働きはありえなかった。だから人類を経営する働きは、四つの段階もしくは四つの時代というよりも三つの部分を含むのである。これこそが人類を経営する神の働きへの正しい言及の仕方である。最後の時代が終わるとき、人類を経営する働きは完全に終わっている。経営の働きの終結は、人類すべてを救う働きが完全に終了し、人類がその旅路の終わりに到達したことを意味する。人類全てを救う働きがなければ、人類を経営する働きも存在しないし、三つの段階の働きもないだろう。それは正に人類の堕落ゆえに、また人類がそれほど性急に救いを必要としていたがために、ヤーウェは天地創造を終わらせ、律法の時代の働きを始めたのである。そうして初めて、人類を経営する働きが始まったのだが、それはつまり人類を救う働きもそこで初めて始まったことを意味する。「人類を経営する」とは、地球上に新たに誕生した人類(つまり、まだ堕落させられていない人類)の生活を導くという意味ではない。むしろそれは、サタンによって堕落させられた人類の救いであり、つまりは、この堕落した人類を変えることである。これが人類を経営することの真意である。人類を救う働きが天地創造の働きを含まないのだから、人類を経営する働きも天地創造の働きを含まず、ただ天地創造とは別の三つの段階の働きだけが含まれる。人類を経営する働きを理解するには、三つの段階の働きの歴史を知ることが必要であるが、これは、救われるために、すべての人が知っていなければならないことである。被造物としてあなた方は、人は神によって造られたということを認識しなければならないし、人類の堕落の源、さらには人の救いの過程を認識しなければならない。あなた方がもし、神に喜ばれるために教理に従って行動することだけは知っているが、神がいかにして人類を救うかに関して、あるいは人類の堕落の源を少しも知らないのであれば、あなた方には被造物としてこの部分が欠けているのである。あなたは、神の経営する働きのより幅広い範囲を知らないままでいるのに、それらの実践できる真理を理解するだけで満足してはならないし、もしそうなら、あなたは教条的すぎるということになる。三つの段階の働きは、神による人の経営の内部事情であり、全宇宙の福音の到来であり、全人類における最大の奥義であり、また福音を述べ伝えることの基盤でもあるのだ。もしあなたが自分のいのちに関係する単純な真理を理解することだけに集中し、この最大の奥義とビジョンに関しては一切知らないとすれば、あなたのいのちは、ただ眺めること以外に役に立たない不良品と言えるのではないか。

 もし人が実践することだけに集中し、神の働きと人の認識を二次的なものと見るならば、「一文惜しみの百失い」であることと同じではないのか。あなたは、認識すべきことは認識すべきであり、実践すべきことは実践しなければならない。そうして初めてあなたは真理をどのように追及すべきか知る人になるのだ。あなたが福音を述べ伝える日が来た時、「神は偉大な正義の神であり、神は最も優れた神であって、いかなる偉大な人も比較できる者がおらず、それ以上に高い者もいない…」ということしか言えず、これらの見当違いで上辺だけの言葉しか言えず、非常に重要で中身のある言葉を全く話すことができず、神を認識すること、あるいは神の働きについて何も言うことができず、そしてさらには真理を説明すること、あるいは人間に欠けているものを提供することができないのであれば、あなたのような人は、立派にその本分を尽くすことはできない。神を証しし神の国の福音を述べ伝えることは、決して簡単な仕事ではない。あなたは、まず真理を身に付け、理解するべきビジョンを身に付けなければならない。神の働きの様々な側面のビジョンと真理について明確に知っているとき、あなたは心の中で神の働きを認識することになり、神が何をするかに関わらず、例えばそれが正義の裁きでも人を精練することでも、あなたは自らの基盤として最大のビジョンを備え、実践すべき正しい真理を備えることになり、結果として、最後まで神に付き従うことができるようになるのである。あなたは、神の働きが何であれ、その働きの目的は変化せず、神の働きの核心は変化せず、そして神の人に対する心も変わらないことを知らなければならない。神の言葉がどれほど厳しいものであっても、環境がどれほど不利であっても、神の働きの原則は変わらないし、人を救うという神の意図も変わらないのである。それが人の終わり、あるいは人の終着点の啓示ではなく、最終段階の働き、あるいは神の経営(救いの)計画全体を終わりにする働きでもないならば、また神が人に対して働いている最中のことであるならば、神の働きの核心は変わらない。つまりそれは常に人類の救いなのである。これこそがあなた方の神への信仰の基盤であるべきだ。三つの段階の働きの目的は全人類の救いであり、すなわちそれは人をサタンの領域から完全に救い出すことを意味する。三つの段階の働きには、それぞれ異なる目標と意味があるが、そのいずれもが人類を救う働きの一部であり、人類が必要とするものに応じて実行される異なる救いの働きなのだ。いったんこの三つの段階の働きの目的を知れば、各段階の働きの意味をどのように正しく認識すれば良いかが分かるし、神の心を満たすためにはどのように行動すれば良いかが理解できる。この点に到達することができれば、最終的にこの最大のビジョンがあなたの基盤になるだろう。あなたは実践のためのたやすい方法、あるいは奥深い真理を追い求めるだけでなく、実践とビジョンを組み合わせるべきだ。そうすれば、実践できる真理とビジョンに基づく知識の両方が在ることになる。そうして初めて、あなたは完全に真理を追求する者になれるのである。

 三つの段階の働きは、神の経営(救い)全体の核心にあるもので、 その三つの段階の中に、神の性質、そして神であるものが表されているのである。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにしてその性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの英知も知らず、そして神が人類を救う様々なやり方や、人類全体に対する神の心を知らないままでいる。三つの段階の働きは、人類を救う働きの完全な表明といえる。三つの段階の働きを知らない人々は、聖霊の働きの様々な手段や原則を知らないままでいる。つまり、一つの段階の働きからそのまま残っている教義に厳格にこだわる人々は、神を教義に限定する人たちであり、神に対する彼らの信仰は曖昧で不確かである。そのような人たちは、決して神の救いを得ることがないだろう。神の三段階の働きだけが神の性質の全てを余すところなく表せるのであり、人類全体を救う神の意図、そして人類救いの全過程を完全に示すことができるのである。これは、神がサタンを打ち負かし人類を取り戻したということの証拠であり、神の勝利の証拠であり、そして神の性質全体の表明でもある。神の働きの三段階の内一つの段階だけを理解する者は、神の性質の一部しか知らない。人の観念においては、このたった一つの段階の働きは教義になりやすく、人は神に関する規則を定めるようになり、神の性質のこの一部分だけを神の性質全体の代表として使うようになる。その上、人の想像が少なからずこの中に混入するので、神の働きの原則に加えて、神の性質、存在、英知を限られた範囲内に厳格に制限し、神がかつてこのようであれば永遠にこのようであり、絶対に変わることはないと思うようになる。三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが様々な、多岐にわたる神の働きを認識しないからであり、さらに、彼らがごく僅かな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちは、経験は上辺だけのものなのに、本性が放漫かつ甘やかされており、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」する。また彼らはもったいぶって、自分たちの知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑されて拒絶されるのではないのか、そして新しい時代には排除されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人々は、狭量で偏狭な人々で、単に自分たちがいかに賢いかを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についての僅かな知識だけで天下の「学界」にまたがり、人に教える上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に転回させようと試み、目先のことしか見えないのに、一目で6000年に及ぶ神の働きを見極めようとするのである。この人たちは理性と呼べるようなものをもちあわせているのだろうか。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを評価するのに時間をかける。さらに、彼らは今日の神の働きについて知っていることを僅かしか語らないが、判断することは急がない。神に対して認識がない人ほど、傲慢で自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人は少しも価値のない人である。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちはあさはかである。聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。このような人はいつか聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。そういう人たちは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜しているのである。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがないし、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。今日あなた方は、神の三つの段階の働きを知る重要性を理解しなければならない。わたしが言う言葉はあなた方の有益になるものであり、無意味な言葉ではない。あなた方がことを急げば、わたしの大変な努力は全て水の泡になるのではないか。あなた方一人ひとりが自らの本性を知るべきである。あなた方のほとんどが議論は得意であり、理論的な質問に対する答えはすらすらと出てくるが、実質的な問題になると何も言うことがないのである。今日でさえ、あなた方は未だに浅はかな会話に身をゆだね、自分の古い本性を変えることができずにいるし、あなた方のほとんどは、より高い真理を達成するために追求する方法を変えるつもりがなく、いいかげんに自分の人生を生きているだけである。このような人たちがどうして最後まで神に従うことができるだろうか。たとえ道の最後まで辿り着けたとしても、あなた方にとってそれが何の得になるだろう。手遅れになる前に、真剣に追及するか、あるいは早く負けを認めて放棄して、考え方を改めた方が良い。時間がたつにつれ、あなた方は人にたかる寄生虫になる。そんな低くて卑しい役をあなた方は演じるつもりなのか。

 三つの段階の働きは、神の働きすべての記録であり、神の人類救済の記録であり、そしてそれは架空のものではない。もしあなた方が、神の性質全体を認識することを真剣に追い求めるのであれば、神によって為された働きの三段階を知らなければならず、しかもどの段階も欠けてはならない。これは神を知ろうと努力する人たちが達成しなければならない最低限のことである。人は思いつきのように独自で本当に神を知ることはできない。それは人が自分で想像できるものでもなければ、聖霊が特定の人に特別に恩恵を授けた結果でもない。むしろそれは、人が神の働きを経験した後に得る認識であり、神の働きの事実を経験した後にだけ訪れる神に対する認識なのである。そのような認識は、ふと思いついて得ることはできないし、教えられるものでもない。それは完全に個人的な体験に関係することなのだ。これらの三つの段階の働きの核心には、神の人に対する救いが在るが、この救いの働きの中には幾つかの働き方と、神の性質を表す手段が含まれている。これは、人がもっとも識別し難いことであり、また理解するのがむずかしいことである。時代の区分、神の働きの変化、働きの場所の変化、この働きの受益者の変化等、これら全てが三つの段階の働きに含まれている。特に、聖霊の働き方の違い、神の性質、姿、名前、身分、その他の変化など、これら全てが三つの段階の働きの一部である。一つの働きの段階は、一部しか表すことはできず、特定の範囲に限られている。それは時代の区分や神の働きの変化には関係がなく、他の側面にはさらに関連性がない。これは完全に明らかな事実である。三つの段階の働きが人類を救う神の働きの全てなのだ。人は、人類を救う働きの中で、神の働き、そして神の性質を認識しなければならず、この事実なしには、あなた方の神に対する認識は、ただ無意味な言葉でしかなく、机上の空論にすぎない。そのような認識では、人を納得させることも征服することもできず、そのような認識は実情にそぐわないし、また真理でもない。その認識がたとえ十分で、聞こえの良いものであっても、神の元来の性質と合致しないのであれば、神はあなたを容認しない。神はあなたの認識を称賛しないだけでなく、神を冒涜した罪びととしてあなたに天罰を下す。神を認識する言葉は軽々しく語られるものではない。たとえあなたが流暢で弁が立ち、あなたの言葉が死人を生き返らせ、生きている人を死なせることができるとしても、神に対する認識を語ることに関しては素人同然である。神は、あなたが急いで判断を下したり、気軽に褒めたり、また無頓着に中傷したりできる対象ではない。あなたは誰でもどんな人でも褒めるが、それでもなお神の大徳と恩恵を描写する適切な言葉に悪戦苦闘し、これは全ての失敗者が体験することなのである。神を描写することのできる言語の専門家は大勢いるが、その描写の正確さは、神に属し、限られた語彙しか持たずとも豊かな経験を身に着けている人々によって語られる真理の百分の一にすぎない。よって神への認識は、巧みに言葉を使うことや豊富な語彙によるものではなく、正確さと現実性にかかっていることが見て取れる。人の知識と神への認識は、全く関係がない。神を認識するという学びは、人類のどの自然科学よりも高尚である。それは、神を認識することを探し求める非常に少数の人間によってのみ達成できる学びであって、才能があれば誰でも達成できるわけではない。よってあなた方は、神を認識することと真理を追求することを、ほんの子供でも達成できる、という見方をしてはならない。あなたは、家庭生活、仕事の経歴あるいは結婚生活においては完全に成功を収めているかもしれないが、真理および神を認識する学びに関しては、自分では見せられるものは何も持たないし、また何の成果も上げていない。真理を実践するとは言うことはできるのだが、非常に難しいことであり、神を認識することは更に困難な問題なのだ。これはあなた方にとって困難なことであり、同時に人類全体が直面している難事である。神を認識するために何らかの達成した人たちの中で、標準レベルに達する人はほとんどいない。人間は、神を認識することが何を意味するのか、あるいはどうして神を認識する必要があるのか、またはどの程度で神を認識していると見なせるのかを知らないのである。これは人類を非常に困惑させるものであり、ごく簡単に言うと人類が直面する最大の謎であり、誰もこの質問に答えることができないし、誰も進んで答えようとはしないのだが、その理由は、今日まで人類のうち誰一人としてこの働きの研究に成功したことがないからだ。おそらく、三つの段階の働きの謎が人類に明らかにされるときは、神を認識する才能集団を成す人たちが次々と現れるだろう。もちろん、そうなることをわたしは望むし、さらにわたしはこの仕事を実践中であり、近い将来そのような人材がもっとたくさん現われることを願う。彼らは、三つの段階の働きの事実を証しする者となり、そしてもちろん、三つの段階の働きを証しする最初の者となるだろう。神の働きが終わる日になって、もしそのような才能ある者がいなかったならば、あるいは一人か二人しかいなかったならば、そしてこの一人か二人は受肉した神によって完全にされることを自ら受け入れていたとしたら、これ以上悲しく、また悔やまれることはない。もちろんこれは最悪のシナリオにすぎないが。いずれの場合も、真剣に追及する者がこの祝福を得られることを願う。世の始まりの時から、このような働きはかつて一度も存在しなかったし、人類の発展の歴史の中で、かつてなかった仕事である。もしあなた方が本当に最初に神を認識する者達の一人になることができるならば、被造物全ての中で、最も名誉なことではないだろうか。人類のなかで神によってこれ以上に称賛される人がいるだろうか。このような仕事は簡単に達成できるものではないが、それでも最終的には成果を収める。性別や国籍に関わらず、神を認識することのできる人々は皆、最後に神から最高の名誉を受けるだろうし、また神の権威を備える唯一の者たちとなる。これが今日の仕事であり、未来の仕事でもあるが、要はこれが最終の、また過去6000年の働きの中で達成される最高の仕事ということであり、それによって人間の各区分を明らかにする仕事の一手段である。人に神を認識させるための働きを通して、人の異なるランクが明らかにされる。つまり、神を知る者は神の祝福を受け、神の約束を受け取る資格があるが、一方で、神に対する認識を持たない者は神の祝福を受ける資格、神の約束を受け取る資格がないことになる。神を知る者は、神の知己であり、神に対して認識を持たない者は神の知己とは呼ばれない。すなわち、神の知己は、神のあらゆる祝福を受けることができるが、神の知己でない者は、神の働きのどれにも値しない。苦難であれ、精錬あるいは裁きであれ、全ては人が最終的に神に対する認識を得られるようにするためであり、人が神に服従するようになるためである。これが最終的に達成される唯一の成果である。三つの段階の働きはどれも秘密ではなく、これは人が神を認識するのに役に立つことで、人が神についてもっと完全で徹底的な認識を得る手助けとなる。この働きは全て人のためである。

 神自身の働きは、人が知らなければならないビジョンである。神の働きは人には達成できないし、人には備わっていないものだからである。三つの段階の働きが神の経営の全てであり、人が認識すべき最大のビジョンである。もし人がこの偉大なビジョンを知らないとすれば、神を認識することも神の心を理解するのも容易ではないし、さらに人が歩む道もますます困難になる。ビジョンがなければ、人はここまで来ることはできなかっただろう。人を今日まで守ってきたのはビジョンであり、人に最大の保護を提供してきたのはビジョンである。将来、あなた方の認識はより深くなるべきであり、あなた方は神の心の全て、そして三つの段階の働きにおける神の賢明な働きの本質を認識するようにならなければならない。これこそがあなた方の真の背丈なのだ。働きの最終段階は、独立した段階ではなく、それ以前の二つの段階と一緒に形成された全体の一部であるから、三つの段階の働きのうち一つだけを行うことで救いの働き全体を完成させることは不可能である。たとえ働きの最終段階が人を完全に救うことができたとしても、必要なのはこの単独の段階を実践することだけという意味にはならないし、人をサタンの影響力から救うために、その前の二つの段階の働きは必要ないということにはならない。救いの働き全体が三つの段階の働きであって、その中の一つの段階ではないため、三つの段階の働きのうちどの段階も単独に取り上げて全人類の唯一の認識すべきビジョンとすることはできない。救いの働きが完成されていない限り、神の経営(救い)も完全に終わることはできない。神の存在、性質、そして英知が救いの働き全体の中に表現されており、初めは人に対して明らかにされていなかったが、救いの働きの中で徐々に表されるようになった。救いの働きの各段階それぞれが神の性質と神の存在を部分的に表しているが、働きの各段階が直接かつ完全に神の存在全体を表すことはできない。つまり、救いの働きは三つの段階の働きが完成した後全部終わるのだから、神のすべてに関する人の認識は三つの段階の働きから切り離すことはできない。人が一つの段階から得るものは、単に神の働きの一部で表される神の性質にすぎず、それは前後の段階で表される性質と存在を代表することはできない。なぜなら、人類を救う働きは一時期または一箇所ですぐ終わるものではなく、異なった時期、異なった場所で人類の発展の状況によって次第に深くなっていくものだからである。それはいくつかの段階で行われる働きであって、一つの段階で終わるものではない。だから神の英知の全ては、一つの個別の段階よりはむしろ、三つの段階において具体化されるのである。神の存在の全て、神の全ての英知が、これらの三つの段階の中に配置されていて、どの段階の働きの中にも神の存在があり、神の働きの英知が記されている。人は、これらの三つの段階の中に表現されている神の性質の全体を認識しなければならない。この神の存在の全てが人類全てにとって非常に重要であり、神を礼拝するときに、人がもしこの認識を持たないのであれば、彼らはブッダを崇拝する人々と何ら変わらないことになる。人の間で行う神の働きは人に隠されておらず、神を崇拝するすべての人に認識されるべきである。神は、人の間で人を救う三つの段階の働きを行ったのだから、人は、これらの三つの段階の働きの中で表現されている神が持つもの、また神であるものを認識すべきである。これは人がすべきことである。神が人から隠すことは、人が達成できないこと、また人が知るべきでないことであり、一方、神が人に見せることは、人が知るべきこと、そして人が身に付けるべきことなのである。三つの段階の働きの各段階は、それぞれの前の段階を基礎として実行されるもので、単独には働きは行われず、また救いの働きから切り離しては行われない。実行された働きの時代と種類には大きな違いがあるが、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階のものより深くなる。各段階の働きは、そのひとつ前の段階を基礎として続くものであり、それは無効にならない。このようにして、神の働きは古くならず、常に新しく、その中で神は、今まで見せたことのない自らの性質の側面を人に対して絶えず表現し、そして常に神の新しい働きと存在を明らかにし、たとえ古くからの宗教家たちが最大限反抗し公然と反対するとしても、神は常に意図している新しい働きを実行する。神の働きは常に変化しているため、常に人の反対にあう。そこで、神の働きの時代とその対象と同様に、神の性質も常に変化している。その上、神は常にこれまでしたことのない働きを行い、人から見れば以前と矛盾あるいは相反する働きさえする。人は、一種類の働き、あるいは一つの実践方法だけしか受け入れることができない。人にとって、自分たちと相反する、あるいは自分たちよりも高尚な働きや実践方法は受け入れがたい。しかし聖霊は常に新しい働きを行っていて、そのために神の新しい働きに反対する宗教専門家の団体が次から次へと出現する。こういう人たちが専門家になったのは、どうして神が常に新しくて古くならないのかを人が認識しておらず、また神の働きの原則についての認識も持たず、そしてさらに神が人を救う様々な方法についての認識も持っていないがためである。というわけで、人はその働きが聖霊から出たものであるかどうか、あるいは神自身の働きかどうかの区別がつかない。多くの人は、前に発せられた言葉と合致すれば受け入れるが、以前の働きと違う点があれば反対して拒絶するという態度にしがみついている。今でも、あなた方はみなそのような原則に縛られているのではないだろうか。救いの三つの段階の働きは、あなた方にはあまり効果を上げておらず、また前の二つの段階の働きは負担になるものだからまったく認識する必要がないとさえ信じる者もいる。彼らは、これらの段階は、大衆には発表すべきでなく、早々に撤回されるべきだと考えている。三つの段階の働きのうちの前の二段階によって人々が混乱しないようにである。多くの人は、前の二段階の働きを示すのは余計なことであり、神を認識するのに全然役に立たないと思っている―これがあなた方の考えである。今日、あなた方は皆、そのように行動することは正しいと考えているが、いつかわたしの働きの重大さに気づく時が必ず来る。わたしは意義のない働きは行わないことを知らなければならない。わたしがあなた方に三つの段階の働きを示している以上、それらはきっとあなた方のためになる。これら三つの段階の働きは神の経営全体の核心であるのだから、きっと全宇宙で全ての人の注目の的となる。いつかあなた方は皆この働きの重要性に気づくだろう。あなた方が神の働きに逆らう、あるいは自分の観念により今日の働きを判断するのは、あなた方が神の働く原則を知らないからであり、またあなた方が聖霊の働きを真剣に受け止めないからだということを認識しなさい。あなた方が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなた方自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなた方が元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。人は、神を求め、経験する過程で、神に対する認識を得るようになる。つまり、気まぐれに神を批判する中で聖霊の啓発を受けて神を認識するのではない。神に対する認識が正しいほど、人は神に反発しなくなる。逆に、神への認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格や道徳観は、あなたが神に逆らう「資本」であり、あなたが堕落して下劣で低俗であるほど、あなたはますます神の敵対者になる。欲深い観念の持ち主や独りよがりな性質の者は、さらに受肉した神の憎しみを買い、そのような人たちは反キリストである。もしあなたの観念が正されなければ、常に神に敵対することになり、永久に神と融和することができず、そしていつも神から離れていることになる。

 自分の古い観念を捨ててこそ、新しい認識を得ることが可能であるが、古い認識は古い観念であるとは限らない。「観念」とは、人が想像したことで、現実と反するもののことを言う。もし古い認識が古い時代にもう時代遅れとなり、それが新しい働きの中に入るのを阻んでいたなら、そのような認識も観念である。もし人がそのような認識に対して正しく対処することができ、神をいくつか違った側面から認識し、古いものと新しいものを合わせることができれば、古い認識でも人の助けとなり、人が新しい時代に入る基盤となることができる。神を認識するという学びにおいては、例えば、どのようにして神を認識するための道へ入るのか、神を認識するためにはどの真理を理解すべきなのか、またいかにして自分の観念と古い性質を神の新しい働きの計画すべてに従うようにさせるか等、多くの原則を習得する必要がある。神を知るという学びに入るための基盤としてこれらの原則を用いれば、あなたの認識はますます深くなる。もしあなたが三つの段階の働き、つまり神の経営(救い)の全計画に対してはっきりした認識を持ち、前の二つの段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きであると捉えることができれば、あなたはこれ以上ないほど強固な基盤を持つことになる。三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。神の三つの段階の働きは、異なる時期に異なる場所で行われており、またその内容もそれぞれ異なるが、それらは全て唯一の神によってなされたものである。すべてのビジョンの中でも、これが人の認識すべき最も偉大なビジョンであり、もし人がこれを完全に理解するなら、自分の立場を貫くことができる。現在、あらゆる教派そして分派が直面している最大の問題は、彼らが聖霊の働きを認識していないということであり、聖霊の働きと聖霊のものでない働きを区別できず、そのために彼らは、先の二つの段階の働きと同様に、この段階の働きが神ヤーウェによるものかどうかが解らないのである。神に従ってはいても、ほとんどの人がそれが正しい道なのかどうかを区別できない。人は、この道が神が自ら導いているものかどうか、神の受肉が事実であるのかどうかを気に病んでいるが、ほとんどの人は、このことに関し、どのように見分ければ良いのか一切手掛かりがないのである。神に従っている人たちは、取る道を決断できず、よって、発せられる言葉はこのような人たちの間では部分的な効果しか持っておらず、また完全な効果を発揮できないために、そのような人々のいのちに影響を及ぼしている。三つの段階の働きにおいて、それらが違う時期に、違う場所で、そして違う人々に対して神が為したことであると人が見きわめることができれば、たとえ働きが違っていても、それらは全て唯一の神によるものであることが人には解るであろう[a]。それらが全て唯一の神によって為されたものである以上、それは正しいものであり、間違いはないし、それが人の観念とは合致せずとも、唯一の神の業であることは否定できないのである。人がそれは唯一の神の働きであると確信をもって言えるならば、人の観念はほんの些細な事となり、言及する価値もなくなるであろう。人のビジョンが明確でない上に、人はヤーウェが神でありイエスが主であることしか知らず、現在の受肉した神について決めかねているために、多くの人はヤーウェとイエスの働きに専念することに留まり、今日の働きについての観念に悩まされ、ほとんどの人は常に疑いを抱き、今日の働きを真剣に受け止めていないのである。人は、見ることができなかった先の二つの段階の働きに関しては、何の観念も持っていない。それは、人が先の二つの段階の働きの実情を理解せず、またそれらを自ら目撃しなかったからである。見えないからこそ、人は好きなように想像するが、どんなに想像しても証拠となる事実はないし、またその誤りを正す者もいない。人は、本能のままに警戒心を捨てて想像力を逞しくさせているのだが、立証する事実がないので、証拠があるかどうかに関わらず、人の想像したことが「事実」となっている。従って、人は自分で想像した神を心の中で信じているわけで、実際の神を求めないのである。一人の人間が一種類の信仰を持つとすると、100人の人が居れば100通りの信仰があることになる。人は、神の働きを実際に見たことがないため、また耳で聞いたことがあるだけで、自分で目にしたことがないために、そのような信仰に取りつかれている。人は伝説や物語を聞いたことがあっても、神の働きという事実の認識についてはほとんど聞いたことがない。信者になってたった一年の人も、自らの観念をとおして神を信じているし、生涯信者である人も同様である。事実を見ることができない者は、神に対する観念がある信仰から抜け出すことはできない。人は自らの古い観念の束縛から解放され、新しい境地に入ったと信じている。神の真の顔を見ることができない者の認識は、観念や言い伝え以外の何物でもないことを人は知らないのだろうか。人はみな自分の観念が正確で間違いないのだと思い、自分の観念は神から来るものだと思っている。今日、人は神の働きを目の当たりにすると、長年にわたって蓄積した観念を放つのである。だが、過去の想像と考え方がこの段階の働きの障害になったため、人がそのような観念を手放し、またそのような考え方に反論するのが困難になっている。今日まで神に従ってきた多くの人たちの持つ、この段階的な働きに対する観念は以前にも増して危機的なものになっており、これらの人たちは、徐々に受肉した神に対する頑固な敵意を形成しているが、この憎しみは人の観念と想像から出ているのである。事実は人に想像する自由を与えず、さらに人によって簡単に反論されることはない一方、人の観念と想像は事実の存在を許さず、その上に人は事実の正確さと信憑性には考慮せず、ただひたすら自分の観念を自由に働かせ、自分自身の想像力をたくましくするために、人の観念と想像は、人の観念とは相いれない今日の働きの敵となったのである。これは、もっぱら人の観念の誤りと言えるもので、神の働きの誤りではない。人が何を想像しようが自由だが、神の働きの事実は人が侵すことができないものだから、神の働きのどの段階でも、あるいは働きのごく一部でも、それについて軽々しく異議を唱えるべきではない。あなたは自由に想像しても構わないし、ヤーウェとイエスの働きについて、すばらしい話をまとめても構わないが、ヤーウェとイエスの働きの各段階の事実について反論してはならない。これは原則であって、行政命令でもあるが、あなた方はこれらの問題の重大さを理解しなければならない。人はこの段階の働きは人の観念と合致しないが、先の二つの段階の働きはその限りではないと信じている。人はその想像の中で、先の二つの段階の働きは今日の働きと同じでないことを確信しているが、神の働きの原則は全て同じであり、神の働きは常に実践的であること、時代に関係なく、いつも神の働きの事実に逆らい反対する人が大量に現れることを考えたことがあるだろうか。今、この働きの段階に逆らい、反対する人たちは、過去の時代においても間違いなく反対していただろう。そのような人々は常に神の敵だからだ。神の働きの事実を理解している人たちは、三つの段階の働きを、唯一の神の働きとして捉え、自分の観念は捨てるのである。このような人々が神を知る人々であり、真に神に従う人々である。神の経営(救い)の一切が終わりに近づくとき、神は万物を種類に応じて分類する。人は創造主の手で造られたのだから、最後には神が人を神の支配のもとに戻さなければならないのである。これが三つの段階の働きの終結である。終わりの日の働きの段階と、イスラエルとユダヤにおける前の二つの段階は、全宇宙における神の経営(救いの)計画である。これは誰にも否定できないし、そしてこれが神の働きの事実である。人々はまだこの働きのほとんどを経験もしていなければ見てもいないが、事実は事実であり、人はだれもこれを否定できない。神を信じる全宇宙各地の人々はみなこの三つの段階の働きを受け入れるであろう。もしあなたが一つの特定の段階の働きだけを認識して、他の二段階の働きを理解せず過去の神の働きも理解しないならば、あなたは神の全経営(救いの)計画の真相を語ることはできないし、あなたの神の認識は偏ったものである。神への信仰においては、あなたは神を知らず、理解していないために、あなたには神を証しする資格がないのである。あなたの現時点でのこれらの事柄に関する認識が深かろうと浅かろうと、最後には、あなた方は認識を持ち完全に納得するようになるはずであり、あらゆる人が神のすべての働きを目にして、神の支配の下に服従するようになるのである。この働きの終わりには、全ての教派が一つにまとまり、全ての神の被造物が創造主の支配の下に戻り、唯一の真の神を礼拝して、全ての邪教は無に帰して、二度と現れることはない。

 なぜこのように連続して三つの段階の働きに言及するのか。時代の移り変わり、社会の発展、自然の変貌はみなこの三段階の働きが変化するにつれて変わるのである。人類は神の働きに合わせて変化するのであって、人類が単独で発展しているのではない。神の三つの段階の働きに触れるのは、全ての被造物と、各宗教の人々全てを、唯一の神の支配の下に集めるためである。あなたがどの宗教に属していようと、最終的にあなたは皆神の支配の下に従うのである。神自身だけがこの働きを実行できるのであって、それはどの宗教の代表にも不可能である。世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表あるいは指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表や指導者ではなく、人類全体が、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているということであり、またこれは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるが、その大きさに関係なく、それらの全てが創造主の支配の下に存在しているのであって、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の進化、そして自然科学の発達、これらはそれぞれ創造主の計画から切り離すことはできないし、この働きは特定の宗教の代表にできるものではない。宗教を代表する人というのは、特定の宗教組織の指導者というだけで、神、つまり天地と万物の創造主の代理を務めることはできない。宗教の代表は、その宗教全体の内において人々を率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表は単なる指導者であり、神(創造主)と対等の立場にはなれない。万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。神だけが万物の中で最も高い地位にいるのであり、すべての被造物の中の最高の支配者でも神の支配の下に帰らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、誰も万物をその種類に応じて分類することはできない。ヤーウェ自身が人類を造り、人々をそれぞれその種類に分類したのだから、終わりの時にもやはり神は自身でその働きを行い、万物をその種類に従い分類するが、これは全て神以外にはできないことである。初めのときから今まで、三つの段階の働きは全て神自身が行ったのであり、それは唯一の神がしたことである。三つの段階の働きの事実は、人類全体に対する神の統率力の事実であり、誰も否定できない事実である。三つの段階の働きの終わりには、万物が種類に応じて分別されて神の支配の下に帰り、そしてそこには全宇宙を通してただ唯一の神だけが存在し、その他の宗教は存在しなくなる。世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ず終わらせることもできる。だから、もし誰かが一つの時代を終わらせることができず、単に人がその心を養うのを手助けするだけなら、その人は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にこのような偉大な働きは可能でなく、このような偉大な働きは唯一の存在によってのみ可能である。そしてこのような働きができない者はみなきっと神以外の敵である。もしかれらが邪教信者であるなら、神とは相いれないし、そして神と相いれないなら、彼らは神に敵対する者なのである。すべての働きはこの唯一の真の神が為すものであり、全宇宙がこの真の神の支配下にあるのだ。神の働く場所がイスラエルでも中国でも、またその働きが聖霊によるものでも肉体によるものでも、全ては神自らによって行われるもので、他の誰にもできないことである。神が全人類の神だからこそ、神はどんな条件にも制限されず自由に働き、これはすべてのビジョンの中で最大のものである。もしあなた方が、神の被造物の一人として被造物の本分を尽くし、神の心を理解したいのであれば、神の働きを理解し、神の被造物に対する心を理解しなければならず、また神の経営(救いの)計画、そして神の為す仕事の意義の全てを理解しなければならない。これらの事が理解できない者は、神の被造物としての資格がない。もしあなた方が、神の被造物として、自分がどこから来たのかが分かっておらず、人類の歴史や神が行った働きの全てを知らず、さらには人類がいかにしてここまで発展してきたか、また全人類を支配するのは誰なのかを理解していないのであれば、あなた方には、その本分を尽くすことはできない。神は今日まで人類を導いてきた。そして神が人類をこの地上に造ってからこれまで、神は一度も人の傍を離れたことがない。聖霊は休むことなく働き続け、人類を導き続けて、一度も人から離れたことがない。それなのに、人は神の存在に気づかず、ましてや神を知らないが、神の全ての被造物にとって、これほど屈辱的なことがあろうか。神は自ら人を導いているのに、人は神の働きを理解していない。あなたは神の被造物であるのにも関わらず、自分たちの歴史も知らず、これまで自分の旅路の中で誰が自分を導いてくれたのかも分からずにいて、神による働きに気付かないから、神を認識できないのだ。あなたがもし今だに知らないとすれば、神を証しする資格はずっとないであろう。今日、創造主は、もう一度あらゆる人々を自ら導き、そしてあらゆる人々に神の英知、全能性、救い、そしてすばらしさを見せている。それでもあなたはまだ気付かず、あるいは理解できずにいるから、それであなたは救いを得られない者になっているのではないか。サタンに属する者たちは神の言葉を理解できず、神に属する者たちには神の声を聴くことができる。わたしの話す言葉に気付いて理解する全ての人々は、救われる者たちであり、また神を証しする者たちなのだ。わたしが言った言葉を理解しない全ての人々は神を証しすることができず、排除される者たちなのだ。神の心を理解できず、また神の働きに気付かない人々は、神の認識を達成することができず、そのような人々は神を証しすることはない。もしあなた方が神を証ししたいと願うなら、あなた方は神を知らなければならないし、その神の認識は、神の働きを通して達成される。結局のところ、神を知りたいと望むならば、神の働きを知らなければならない。つまり、神の働きを知ることが最重要なのである。三つの段階の働きが終わるとき、神を証しする者たちの一集団、つまり神を知る者たちの一団が作られる。この人たちはみな神に対する認識があり、真理を実行することができる人たちである。彼らには人間性と理知があり、皆三つの段階の救いの仕事を認識している。これが最後になし遂げられる働きであり、この人たちは6000年にわたる経営(救い)の働きの結晶であり、最終的にサタンを打ち負かした最も有力な証しである。神を証しすることができる者は、神の約束と祝福を受けることができる上に、最後の時に残り、神の権威を持ち、神を証しする一団になるだろう。もしかすると、あなた方の全ての人がこの一団の一員になれるかもしれず、あるいは半分か数人だけがそうなれるかもしれないが、それはあなた方の意思と追求にかかっている。

 脚注

 a.原文では「~ことが人には解るであろう」は省略されている。