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2019年5月1日水曜日

朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「神の働き、神の性質、そして神自身 3」 その8





朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「神の働き、神の性質、そして神自身 3」 その8 
全能神は言われた「主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における人生では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の慈しみがあり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。人間から見ると、復活した後に主イエスが行った業は、極めて小さなことであるものの、わたしから見ると、それら全てが有意義であり、貴重であり、またそうした業はすべて極めて重要である。」
『言葉は肉において現れる』より

2019年4月24日水曜日

終わりの日のキリストの語られる言葉 「神の働き、神の性質、そして神自身 3 」 その1 パート2





終わりの日のキリストの語られる言葉 「神の働き、神の性質、そして神自身 3」 その1 パート2
全能神は言われます「神は、人間を経営し救うことが、何よりも重要であると考える。神はこうした業を、自身の考えのみで行うのでもなく、また言葉のみ行うのでもなく、とりわけ何気なく行うのではない。神は、こうした業のすべてを計画に基づき、目的をもって、基準を定め、神の旨にしたがって行う。こうした人間を救う業は、神と人間の両方にとって極めて重要であることは明白である。業がいかに困難であったとしても、障害がいかに大きかったとしても、人間がいかに弱かったとしても、あるいは人間の反逆心が強かったとしても、神にとっては、そのいずれも困難とはならない。神は絶え間なく努力を続け、神が行う意向である業を経営する。また、神はすべてを計画し、すべての人間と、神が完了させたいと望むすべての業を経営しているが、そうした業はそのいずれも嘗て行われたことがない。」
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2019年4月14日日曜日

福音書|イエスキリストが復活後に人の前に出現された意味は何か

    聖書にはこう記されています。「こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」(ルカ24:36–43)。


     私はこの聖句を読むと、いつもペテロやヨハネたちをうらやましく思います。イエスはユダヤでお働きになっているあいだ、常に昼夜を問わず弟子たちと共におられ、復活後は以前同様に彼らに目をかけられ、彼らの前に出現なさり、聖書を解説し、教えを与えられました。ペテロたちは幸運にも主によって弟子に選ばれ、自らの耳で主イエスの教えを聞くことができました。実に祝福されていたのです。その後、私は神の御言葉を読み、イエスキリストが復活後に人の前に出現されたことの背後には実は主イエスの御心があったということ、この行いには神の全能性と知恵が更に込められていることが分かりました。復活後の主イエスの出現は本当に意義深かったことが真に分かるようになったのです。


    神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、イエスキリストが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、イエスキリストが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    私は神の御言葉を読んで、イエスキリストが復活後四十日間人の前に出現されたことには意味が二つあることがようやく分かりました。一つは、神が律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始め、人類を新しい時代へと導かれると人に告げるためであったことです。もう一つの意味は、神がそうなさったのは、人々が主イエスは受肉された神ご自身だと確めることで神への信仰を強められるようにするためです。

    1.主イエスが復活し人の前に出現されたのは、人を新たな時代に導き、恵みの時代にしっかりと定着させるため

 主イエスは恵みの時代を開き、律法の時代を終えられました。主は「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)という道を示し、人々が神からの豊かな恵みを享受できるように、病人を癒し、悪霊を追い払い、足なえを歩かせ、盲人の目を治すなど多くの奇跡を行われました。しかし当時の人々は神の働きを知らず、イエスが神の受肉であることを真に理解していませんでした。主イエスが十字架につけられたとき、それは神が贖いの働きを終えられたことを意味していましたが、人々はそのことを全く知らなかったため、否定的で弱気になりました。そして主イエスの身分を疑い、神殿に戻って旧約聖書の律法を守り始める者もいました。

    このようにして、人々はなおも自らの罪のために律法によって死に定められる危険にさらされ、主イエスが人類を贖うために行なわれた働きは中途半端なままでした。主イエスは人の心の奥底を探り、人の必要と欠点を完全に理解されていました。それゆえ、主は復活後、先ず弟子たちの前に出現して語られ、彼らと実際に接触し、そのおかげで彼らには主が本当に死人の中から蘇り、人類を贖う働きを成し遂げて新たな時代を始められたことが分かったのです。その後、人類は律法を離れて新たな時代に入りました。それが恵みの時代です。

    主イエスの働きと言葉のお導きの下、人々は主の教え通りに実践し始め、十字架を負って主に付き従い、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)という主の教えを守りました。こうして彼らは天の国の福音を広め始め、万人が主イエスの御名を受け入れて主の救いを得ることができるように、主イエスの御名を証ししました。現在、主イエスの福音は全世界に広がっています。これは全てイエスが死人の中から蘇られた後に人の前にお姿を表された結果です。このことから、復活後の出現がどれほど意義深かったかが分かります。

     2.イエスキリストが復活後に人々の前に出現されたおかげで、人は主が神ご自身の受肉だと断定し、主への信仰を強めることができた

    神の御言葉にはこうあります。「受肉した主イエスが業を行っていた間、イエスに付き従う者の殆どが、イエスの身分やその言葉を完全に認識できなかった。イエスが十字架にかけられた時、イエスに付き従っていた者たちの態度は、何らかの期待であった。イエスが十字架に釘で打ち付けられたときから墓に入れられた時まで、人々の主に対する態度は、落胆であった。この時、受肉したイエスが言われた言葉に関し、人々の心は疑念から否定へと移り変わり始めていた。そして主が墓から出て、ひとりずつ人々の前に現れた時、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々の殆どが、否定から懐疑へと次第に変わっていった。主イエスがトマスにわき腹を手で触れさせた時、また復活した主イエスがパンを裂いて人々の前で食べた時、そしてその後人々の前で焼き魚を食べた時、そこで初めて人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け容れた。それは、人々の前に現れた、肉と血のある霊的存在が、その人々をひとり残らず夢から醒めさせたようであった、と言うことが出来るであろう。人々の前に立っている人の子は、永遠の過去から存在していた神であった。神には形も、肉と骨もあり、また長いこと人間と生きて食事をしていた。この時、人々は、イエスの存在は全くの真実であり、実に素晴らしいと感じた。また人々は大きな喜びと幸福にあふれ、同時に感極まった。イエスが再び現れたことにより、人々はイエスの謙遜を真に理解し、人間に対する近親さ、ひたむきな望みと愛情を感じることができた。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、自分が既にこの世を去ったかのように感じた。人々の心は、迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、愚鈍になっていたが、そうした人々の心は安息を得た。人々は、疑うことや落胆することを止めた。なぜなら、その時希望が生まれ、信じることのできるものが生まれたからである。人々の前に立っている人の子は、永遠に人々の味方となり、人々の堅固なやぐらとなり、常に存在する逃げ場となる。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    神の御言葉は、復活後の主イエスの出現のもう一つの意味も明らかにしています。主イエスは人のもとで受肉し、三年半のあいだ働きを行われ、多くの人が主の救いを受け入れて主に付き従います。しかしほとんどの人は主イエスがキリストであり、神ご自身であることを真に理解していませんでした。そのため、主イエスが十字架につけられようとしていたとき、彼らは一連の出来事が起こるのを見て、「主イエスは本当に神なのか。もしキリストで神ご自身なら、どうしてローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑された挙句、十字架にかけられるのだ」と心に疑問を抱いたのです。

    特に、主イエスが十字架につけられているとき、彼らは主に全く失望し、主が神の受肉であることを否定し、主が表された御言葉を否定しました。逆に、イエスは普通の人のように死に、生き残るはずがないと信じたのです。主イエスは人々がその程度の信仰しか持たず、主を知らなかったことも、主が十字架につけられたためにさらに多くの人が弱気になって意気消沈することもご存知でした。そのため主イエスは死人の中から蘇られた後、弟子たちと接触して彼らに語りかけ、聖書を解説し、彼らと親しく交わり、食事を共にし、トマスにご自身の手と脇を触らせるといったことをなさいました。

    イエスキリストが復活後に語られた御言葉と行われた御業から、弟子たちはイエスが本当に復活されたと断定し、「この方こそ、以前我々と食事をし、同じ住処で生活を共にされたあの主だ。我々に説教し、養い、導いてくださったあの主であり、以前のように愛してくださるのだ」と悟り、「主は我々のことを気づかってくださり、我々のもとを離れられたのではなく、我々のすぐ側に一緒にいてくださっている」とも確信しました。主イエスは神ご自身の受肉であり、永遠なる御方、人の永遠の支え、人の強き塔であり避難所だったのです。

    主イエスは十字架につけられても、死後の鍵の番人であり、蘇る力を持っておられました。なぜなら神ご自身だったからです。以後、人々はもはや迷いも戸惑いもせず、もはや主イエスを疑わず、むしろ心の底からイエスを信じ頼ることができました。これは全て、主イエスが死人の中から蘇られた後に弟子たちの前に出現し、彼らと語られた結果です。

    主イエスの復活後の出現のこれら二つの意味から、私は主はそのような形で出現することで人々の心を目覚めさせ、そのおかげで私たちは神の配慮と愛を経験できるのだとやっと悟りました。このような配慮と愛は単なる伝説ではなく、事実なのです。また、このことから神が私たちを親類のようにみておられることも認識できます。神はいつも人と共におられ、私たちから離れられたことがありません。なぜなら、ご自身のものにするために私たちを創られたのであり、私たちが御言葉を聞いて神に従い、絶対的に崇拝し、神と心を一つにすることを望まれているからです。

    ですから、主イエスが肉となって働きを行い、御言葉を語られたときも、復活後に霊として人の前に出現されたときも、常に人類を思い、特にご自身に付き従う者たちを気づかわれました。なぜなら人には罪を克服する能力がなく、神の導きも真理の施し供給なしには、自らの堕落を脱して神の真の救いを得る術がないからです。私たちは誤解して、神が贖いの働きを終えた後に私たちを離れ、それ以降もう私たちに何の注意も向けられなかったと信じていますが、事実は、私たちの想像通りではないのです。

    主イエスは人類を贖う働きを成し遂げられましたが、人を離れられたわけではありません。主イエスは今も以前と同様に人と共におられ、私たちを気づかい、養い、導いてくださっています。主イエスはいざという時に私たちを助けて支えてくださり、どのように出現されても、いつも私たちと共におられます。それはまさに神の御言葉通りです。「主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における人生では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の慈しみがあり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    実は、主イエスを信じる私たち一人ひとりにとって明白なのは、神への信仰の道において、いつ金や名声や富などの誘惑に遭遇しても、主は私たちを守ってくださり、誘惑を避けて克服することができるようにしてくださるということです。私たちがいつ挫折や失敗に遭遇しても、主は御言葉で導き、信仰と力を与え強くしてくださいます。私たちが生活の中で困難に遭遇しても、主は常にまさかの時の助けであり、道を開いてくださいます。私たちが試練で苦しんでも、主の御言葉が十分に照らして導いてくださるおかげで、私たちは神の御心を理解し、霊における平安と喜びを感じることができるのです。神が側にいて毎日を私たちと共にいて導いてくださるおかげで、真理を理解し、御心を理解できるようになると本当に実感できます。

    私は主の愛に深く感動し、なぜイエスキリストが復活後四十日間、人の前にお姿を表わし、弟子たちの前で食事をし、聖書を語り、彼らと親しく交わり、弟子たちにいくつもの要求を告げるといったことをなさったかがよく分かるようになりました。主イエスが言われ、なされたことの一つひとつが大いなる配慮と思慮に満ち溢れており、主の業は全て非常に意義深いものだったのです。今私は、神の御言葉を読むことで、復活後の主イエスの出現をより深く理解しています。神に感謝します。

2019年4月13日土曜日

福音書|イースターと真の意味を知っていますか

   復活祭とは、復活の主日とも呼ばれ、主イエスが十字架につけられた三日後に起こった主の復活を祝う祭日です。その正確な時期は、毎年春分になってから最初の満月の後の最初の日曜日です。イエスの復活を記念し、イエスが人類にもたらされた救いと希望を思い起こすために、毎年三月から四月に世界中のキリスト教徒が復活祭の日にお祝いをします。私たちキリスト教徒はイエスの復活を記念しますが、それでは、すでに贖いの働きを終えられたのになぜ主は死人の中から蘇って人の前に出現されたのかを私たちは知っているでしょうか。そして、主の復活と人の前での出現の背後にはどのような意味があるのでしょうか。



           主イエスの復活と人の前での出現の意味 
神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)「主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。……主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

神の御言葉から私たちに分かるのは、主イエスが死人の中から蘇られてから弟子たちに何度も出現されたことには深い意味があり、その背後には神の惜しみない気づかいと思慮が隠れてもいるということです。当時主イエスに付き従った人々は主の教えを多く聞き、主がなされた多くの奇跡を見て、イエスが自分たちの主であり、神の子であると主張しましたが、イエスがキリストで神ご自身であることについては本当に理解しておらず、イエスはこのことをご存知でした。イエスがローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑されたとき、主に付き従った人々の多くは主の身分を疑い始め、主への信仰が段々弱まりました。特に主イエスが十字架に付けられて死んだとき、多くの人々は主に全く失望し、疑いとして始まったものが主イエスの否定に変わったのです。このような状況を背景として、もし主イエスが復活後に人の前に出現されなかったなら、主に付き従った人々の多くはもはやイエス・キリストを信じず、律法の時代に戻って旧約聖書の律法を守り続けたでしょう。しかし神は人の心の奥深くを見極め、人の弱さを理解しておられ、人々の霊的背丈が小さいことをご存知でした。主イエスはそれゆえに、死人の中から蘇り、何度も弟子たちの前に出現されたのです。主は弟子たちと語り、復活後のご自身の霊体を彼らに見せ、彼らと食事を共にし、聖書を解説されました。こうしたことをなさった目的は、主に付き従った人々が、主イエスは本当に死人の中から蘇られ、この方は人を愛し憐れみをかけてくださったイエスとやはり同じ人であり、受肉された神ご自身であり、聖書で預言された人類を贖うために来られるメシアであることを心の底から確信できるようにすることでした。彼らはもはや主イエスを疑いも否定もせず、それどころか誠実に主を信じ、イエス・キリストを自分たちの主と認めました。このことから私たちに分かるのは、イエスは復活なさり人々の前に出現されることによって、人々の信仰を強め、主を信じて従えるようになさったのであり、人間を神に近づけてくださったということです。これがイエスの復活の意味の一側面です。
これに加えて、イエスは肉となって現れて働き、律法の時代を完全に終わらせ、恵みの時代を始められました。受肉されたイエス・キリストは十字架にかけられましたが、罪と死を克服してサタンを破り、贖いの働きを成し遂げて栄光を得られたのであり、復活後の主イエスは人々にこの事実がはっきりと分かるようになさったのです。主イエスは新たな時代を開き、人類を旧約聖書の律法の時代から完全に脱却させ、恵みの時代にしっかりと定着させ、恵みの時代において神の導きと牧養と潤しを受けられるようになさいました。これにより、たとえイエスが復活して昇天なさり、もはや人と食事や生活を共にされることがなくなっても、人は今もイエスに祈り、御名を呼び、主の教えを守り、揺るがない信仰をもってイエスに付き従い、福音を広めることができるのです。特に、主イエスが復活なさり主に付き従った弟子たちの前に出現された後は、彼らの信仰は高まりました。主の福音を広め証しをすることに何の困難も危険も恐れず、不屈の忍耐力を持ち、福音を広めることに自らの全てを捧げ、主のために殉教さえしました。最終的には、イエスの福音は宇宙全体、世界中に広がり、主イエスに従う人の数は増え続け、やがてどの家庭の誰もが主の福音を耳にするまで万人に知れ渡ったのです。
主イエスは死人の中から蘇られた後、人々の前に出現し、彼らと接触して語りかけ、聖書を解説して親しく交わり、食事を共にするといったことをなさいました。これらの御業のおかげで、主イエスに付き従った人々は主の人への気づかいと思いやりを感じ、イエスがまさしく神ご自身で、受肉されたキリストであると確証することができ、神に従う人々は恵みの時代にしっかりと定着したのです。しかも、イエスの贖いの働きはその時から広まり始め、やがて宇宙全体、世界中に及びました。従って、イエスの復活と人類への出現の背後に深い意味があるのは明白です。なぜならこれらの御業には神の惜しみない気づかいと思慮だけでなく、神の知恵と全能性もこめられているからです。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスの復活の意味を理解し、主の働きの中に神の私たち人類への気づかいと思いやりを改めて感じることができるようにしてくださった神の啓きと導きに感謝しましょう。神に感謝!

2019年1月25日金曜日

素晴らしい讃美聖歌 「どんな権力も神が成し遂げようと願っていることを妨げられない」



素晴らしい讃美聖歌 「どんな権力も神が成し遂げようと願っていることを妨げられない」
Ⅰ
神は業を為すために この世界に再来した
最初に留まったのは独裁者たちの集まり 中国
それは無神論の要塞だ
知恵と力によって神は一群の人々を得た
この間中国共産党は
あらゆる方法で神を狩り出そうとした
休む場所なく 苦しみに耐えながら
声を発し 福音を広め
神は為すべき業を続ける
神の全能の力を推し量れる者はいない
神を敵と見なす中国のような国で
神は業をやめようとはしなかった
神は業を為すことを決してやめようとはしなかった
ますます多くの人々が
神の業と言葉を受け入れるようになった
なぜなら神は人々を救うために
一人一人を救うために
神はできること全てを為すからである
神が成し遂げたい願っていることは
どんな国も権力も妨げられない
神の働きを妨げ 神の言葉に逆らい
計画を混乱させる者は神に罰せられる
誰かが神の業を拒むなら
神はその人を地獄へ投げ込むだろう
国が神の業を拒むなら
神はその国を滅亡させるだろう
民族が神の業に抗うなら
神はその民族を地上から消し去るだろう
神が成し遂げたいと願っていることは
どんな国も権力も妨げられない
神の働きを妨げ 神の言葉に逆い
計画を混乱させる者は神に罰せられる
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2018年11月27日火曜日

全能神の発表「神の働きと人の働き」


 人の働きのうち聖霊の働きはどのくらいなのだろうか、また人の経験はどのくらいあるのだろうか。今でさえ、人々はこれらの質問を理解していないと言えるが、人々が聖霊の働きの原則を理解していないことがその理由のすべてである。わたしが意味する人の働きとは、もちろん、聖霊の働きを持っている人々の働き、あるいは聖霊によって用いられている人々の働きのことを指す。わたしが言っているのは人の意志から生じる働きのことではなく、聖霊の働きの範囲内にある使徒、働き手、あるいは普通の兄弟姉妹の働きのことである。ここで言う人の働きとは、肉となった神の働きではなく、人々に作用する聖霊の働きの範囲と原則のことである。これらの原則は聖霊の働きの原則と範囲であるが、肉となった神の働きの原則と範囲とは異なる。人の働きには人の本質と原則があり、神の働きには神の本質と原則がある。

 聖霊の流れの中での働きは、それが神自身の働きであろうと、用いられている人々の働きであろうと、聖霊の働きである。神自身の本質は聖霊であり、聖霊あるいは7倍に強化された聖霊と呼ぶことができる。とにかく、それらは神の霊であり、時代によって神の霊の呼び方が異なっているだけのことなのだ。しかしそれでも本質は一つである。したがって、神自身の働きは聖霊の働きであり、肉となった神の働きは働いている聖霊以外の何物でもない。用いられている人々の働きも聖霊の働きである。神の働きは聖霊の完全な表現というだけのことで、違いはまったくないのだが、一方用いられている人々の働きは多くの人間らしい事情と混ぜ合わされており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。聖霊の働きはさまざまで、いかなる条件にも制限されることはない。その働きは人によって変化し、伝える働きの本質も異なる。時代が異なれば働きも異なり、国によっても異なる。もちろん、聖霊は多くの異なった方法で、多くの原則に従って働くにもかかわらず、どのように働きが行われようと、どのような人々に作用しようと、本質はつねに異なり、異なる人々に行う働きすべてには原則があり、すべては働きの対象の本質を表すことができる。これは聖霊の働きがはっきり限定されており、非常に計画的だからである。人間の姿をした神の肉でなされる働きは人々を対象とする働きと同じではなく、その働きは人々の力量の違いによっても変化する。人間の姿をした肉でなされる働きは人々に対しては行われず、人間の姿をした肉では、人々に対する働きと同じ働きは行わない。一言で言えば、聖霊がどのように働こうとも、対象が異なれば働きは決して同じではなく、働きに用いる原則はさまざまな人々の状態や本性に応じて異なってくる。聖霊は、人々に本来備わっている本質に基づいてさまざまな人々に働きかけ、本来備わっている本質を越えた要求はしないし、実際の力量を越えた働きかけもしない。そこで、聖霊の人に対する働きによって人々はその働きの対象の本質を知ることができる。人に本来備わっている本質は変化しないし、人の実際の力量は限られている。聖霊が人々を用いようと、人々に対して働こうと、人々が働きから恩恵を受けられるように、その働きはつねに人々の力量の限界に応じている。用いられる人々に聖霊が働きかけるとき、彼らの賜物も実際の力量も活動させられ、使わずに残されておかれることはない。彼らの実際の力量は働きに役立たせるためにすべて引き出される。聖霊は働きの成果を達成するために、人々の利用できる部分は使って働くと言うことができる。それに反して、人間の姿をした肉でなされる働きは聖霊の働きを直接表すことであり、人間の心や考えと混ぜ合わされることはなく、人の賜物や経験、あるいは生来の条件では到達不可能である。聖霊の無数の働きはすべて、人に利益を与え、啓発することを目指している。しかし、完成される人もいれば、完成のための条件を持っていない人もいる。つまり、後者は完成されることはなく、ほぼ救いがたい人々で、聖霊の働きを持っていたかもしれないが、結局は取り除かれる。すなわち、聖霊の働きは人々を啓発することだが、それは、聖霊の働きを持った人すべてが完全に完成されることを意味するのではない。なぜなら、多くの人が追求する道は完成への道ではないからである。彼らは聖霊からの一方的で相互性のない働きを持っているだけで、主観的な人間の協力、あるいは正しい人間の追求はないからである。このようにして、これらの人々への聖霊の働きは完成される人々のための働きになる。人々は聖霊の働きを直接見ることはできないし、自分で直接触れることもできない。働く賜物を持った人々の助けを通して表現されるだけである。つまり、聖霊の働きはそうした人々が表現することによって信奉者に与えられる。

 聖霊の働きはさまざまな種類の人々や多くの異なる条件によって遂行され、完成される。肉となった神の働きは一つの時代全体の働きを表わすことができ、一つの時代全体の人々の成長を表すことができるが、人々の参加の詳細に作用する働きはやはり、肉となった神によってではなく、聖霊が用いる人々によってなされる必要がある。そこで、神の働き、つまり、神自身が働く部分は、人間の姿をした肉の神の働きであって、神の代わりに人が行うことはできない。聖霊の働きは多くの異なるタイプの人々を通して完成され、ただ一人の特定の人物が実行したり、一人の特定の人物が十分に明らかにしたりすることはできない。教会を導く人々も完全に聖霊の働きを表すことはできない。彼らは指導的働きをいくらかできるだけである。このように、聖霊の働きは3つの部分、すなわち、神自身の働き、用いられる人々の働き、聖霊の流れの中ですべての人に作用する働きの3つに分けることができる。その中で、神自身の働きは時代全体を導くことであり、用いられる人々の働きは、神自身の働きの後に送りだされたり、命令を受けたりすることによって、神の信奉者全員を導くことであり、これらの人々は神の働きに協力する人々である。流れの中で人々に作用する聖霊の働きは自身の働きをすべて維持すること、すなわち、経営全体を維持し、証を維持し、それと同時に完成させることのできる人々を完成することである。これら3つの働きは聖霊の完全な業であるが、神自身の働きがなければ、経営の働き全体は停滞してしまうだろう。神自身の働きは全人類に対する働きを含み、時代全体に対する働きも表す。すなわち、神自身の働きは聖霊の働きすべての活動と動向を表し、一方使徒の働きは神自身の働きに従うことであり、時代を導くことはないし、時代全体において聖霊が働く動向を表すこともない。彼らは人がなすべき働きをするだけで、経営の働きは全く含まれない。神自身の働きは、経営する働きの範囲内の計画である。人の働きは用いられる人々の本分だけであり、経営の働きとは何の関係もない。働きのアイデンティティや表すものが異なるため、どちらも聖霊の働きであるという事実にもかかわらず、神自身の働きと人の働きの間には明確で、実質的な違いがある。さらに、異なるアイデンティティをもつ対象に作用する聖霊の働きの程度もさまざまである。これらが聖霊の働きの原則と範囲である。

 人の働きはその人の経験と人間性を表す。人が提供するものと、人が行う働きがその人を表す。人の見識、人の推論、人の論理と豊かな想像力はすべてその人の働きの中に含まれている。特に、人の経験はいっそうその人の働きを表すことができ、人が経験してきたことはその働きの構成要素になるだろう。人の働きはその人の経験を表すことができる。人々が受動的状態で経験していると、彼らの交わりのほとんどは消極的要素で構成される。彼らの経験が積極的で、彼らがとりわけ積極的側の道を持っていれば、彼らが分かち合うものは非常な励みになり、人々は彼らから積極的な供給を得られるだろう。働き手がこの時消極的になれば、彼の分かち合うものはいつも消極的要素を含んでいることになるだろう。この種の交わりは重苦しいもので、他の人たちは彼と交わった後は、無意識のうちに気が滅入ってしまう。信奉者の状態は導き手の状態によって変化する。働き手が本来どのような人物かはその人の表現するものでわかり、聖霊の働きは人の状態によってしばしば変化する。聖霊は人の経験に従って働き、人を強要せず、その人の通常の経験過程に応じて要求を出す。すなわち、人の分かち合うものは神の言葉とは違う。人の分かち合うものはその人の個人的見識や経験を伝え、神の働きを基にして見るものや経験するものを表す。彼らの責任は、神の働きや話の後、自分たちが何を実行するべきか、または何において成長すべきかを見つけ、次にそれを信奉者に伝えることである。したがって、人の働きはその人の成長と実践を表す。もちろん、そのような働きには人の教訓と経験、あるいは人間的考えの一部が混入している。聖霊がどのように働こうとも、聖霊が人に働き掛けようと、肉となった神で働こうと、自分たちが何であるかを表わすのはいつも働き手である。働くのは聖霊であるが、働きは人が本質的に何であるかに基づいている。なぜなら聖霊は基礎なしには働かないからである。言い換えれば、働きは無からなされることはなく、いつも実際の状況や現実の条件に応じている。このようにしてのみ、人の性質は変換させることができ、人の古い見解や思考も変えられる。人が表すものは自分が見るもの、経験するもの、想像できるものである。教義、あるいは見解であっても、これらはすべて人が考えれば到達可能である。人の働きは大きさに関係なく、人の経験、見るもの、想像、あるいは思いつけるものの範囲を越えることはできない。神が表すものは神自身であり、これは人の力が及ばないもの、つまり、人の考えの及ばないものである。神はすべての人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人は自分の経験を表し、神は自身の存在を表す―この存在は神に固有の性質であり、人の力の及ばないものである。人の経験は、神が表した神の存在に基づいて獲得した見識や認識である。このような見識や認識は人の存在と呼ばれる。それらは人の本来備わっている性質、および人の実際の力量を基礎に表される。そこで、それらも人の存在と呼ばれる。人は自分が経験するものや見るものを分かち合うことができる。経験したことも、見たこともないもの、あるいは心が到達できないもの、すなわち、自分の心の中に持っていないものを分かち合うことはできない。人が表すものが自分の経験でなければ、それは想像、あるいは教義である。一言でいうと、その言葉には現実性がない。社会の状況と接触がなかったら、あなたは社会の複雑な関係を明確に話すことはできないだろう。家族がないのに、他の人々が家族問題について話していたら、あなたは彼らが話していたことの大半を理解できないだろう。そこで、人が話すことや行う働きは、その人の内面存在を表す。だれかが罰や裁きの理解に関して話しているのにあなたにその経験がないならば、あなたは彼の認識をあえて否定しないし、ましてや100%それについての確信などない。それは、彼が交わるものはあなたが一度も経験したことのないもの、あなたが知らなかったもので、あなたの心では想像できないものだからである。あなたは彼の認識から罰や裁きに関連する将来の道筋が理解できるだけである。しかし、この道は教義に基づく理解として役に立つだけで、あなた自身の理解に取って代わることはできないし、ましてや経験と取って代わることはできない。おそらくあなたは彼の言うことはまったく正しいと思うだろうが、自分で経験すれば、多くの事柄においてそれが実行不可能であるとわかる。おそらくあなたは耳にする認識の一部は完全に実行不可能だと感じるだろう。あなたはその時点でそれについての見解を心に抱き、受け入れはするが、進んで受け入れるわけではない。しかし自分が経験すると、あなたに見解を与える認識はあなたが実行する方法になる。そして実行すればするほど、彼の言葉の本当の価値と意味を理解する。経験をした後、あなたは経験したことについて持ったはずの認識について話すことができる。さらに、本当で実際的な認識を持つ人々と、教義に基づき、価値がない認識を持つ人々を区別できるようにもなる。そこで、あなたが話している認識が真理と一致するかどうかは主にあなたが実際的経験を持っているかどうかによる。あなたの経験の中に真理がある場合、あなたの認識は実際的で価値がある。経験を通してあなたは優れた識別力や洞察力をも得て、認識を深め、行動する時知恵と常識を増すことができる。真理を所有していない人々が話す認識はどんなに高度でも教義である。この種の人は肉体の問題に関して言えば多分非常に賢明かもしれないが、霊的問題になると区別することができない。そのような人々は霊的問題にまったく経験がないからである。これらの人々は霊的問題では啓発されておらず、人の魂を理解していない。認識のどのような側面を話題にしているのかにかかわらず、それがあなたの存在そのものからくるものである限り、あなたの個人的経験であり、本当の認識である。教義しか話さない人々、つまり、真理または現実を所有していない人々が話すことも彼らの存在そのものからくるものということができる。なぜなら彼らの教義は深い熟考からようやくたどりついたもので、深く思考している彼らの精神の結果であるからだが、それはただの教義であり、想像以外のなにものでもない。さまざまな種類の人々の経験は彼らの内部にあるものを表している。霊的経験のない人々はみな真理の認識について話すことはできず、さまざまな種類の霊的事柄についての正しい認識を話すこともできない。人が表すものは、その人の内なるものであり、それは確かである。霊的なものや真理の認識を得たいと願うなら、本当の経験を持たなければならない。人間の生命に関する常識について明確に話すことができなければ、霊的なものについて話すことなどどうしてできようか。教会を導くことができ、人々にいのちを与えることができ、人々の使徒になることができる人々は実際の経験を持ち、霊的なものを正しく理解し、真理の正しい認識と経験を持っていなければならない。そのような人々だけが教会を導く働き手、あるいは使徒となる資格を有する。さもなければ、最も小さき者として後に従うだけで、導き手となることはできず、ましてや人々にいのちを与える使徒になることはできない。使徒の機能は走ったり、戦ったりすることではなく、いのちを与え、人の性質が変わるよう導くことだからである。それは重い責任を背負う権限を与えられている人々が行う機能であり、誰もができることではない。この種の働きは生命の本質を持つ人々、すなわち、真理の経験を持つ人々のみが請け負うことができる。諦められる人、走りまわれる人、喜んで費やす人が皆できるということではない。真理の経験のない人々、刈り込みを経験していなかったり、裁きを受けたりしたことのない人々はこの種の働きを行うことはできない。経験のない人々、すなわち、現実性のない人々は現実をはっきり見ることができない。彼ら自身がこの側面の本質をもっていないからである。そこで、この種の人物は人を導く働きができないだけでなく、長期間にわたり真理を持たなければ排除の対象になるだろう。あなたが語る見識は、あなたが人生で経験してきたさまざまな困難、どのようなことで罰を受けたか、どのような問題で裁きを受けたかについて立証することができる。これは試練の時にもあてはまる。人が洗練される事柄、人が弱い事柄、これらは人が経験をする事柄、人が方法を持っている事柄である。たとえば、結婚で挫折に苦しむ人は大体の場合、次のように言う、「神に感謝し、神を称えます。私は神の心の願望を満足させ、私の人生の全てを捧げ、結婚をすっかり神の手に委ねなければなりません。私は進んで全人生を神に差し出します。」交わりを通して、人の心の中のすべて、その人そのものを表すことができる。話す速さ、大声で話すか、静かに話すかなど、経験に関係のない問題はその人の持つものやその人そのものを表すことはできず、その人の性格の良し悪し、あるいは本性の良し悪しを表すだけで、経験があるかかどうかと同一視することはできない。話すとき自分自身を表現する能力、または話す技量や速度は練習の問題であって、経験と置き換えることはできない。個人的経験について話すとき、あなたは重点を置きたいものや内なるすべてのものに関して話す。わたしの話はわたしの存在を表すが、わたしの言うことは人の力の及ぶものではない。わたしの言うことは人が経験することではなく、人に見えるものではなく、触れることができるものでもなく、わたしそのものである。一部の人はわたしが話すことは、わたしが経験したものであることだけは認めるが、聖霊の直接的表現であることを認識しない。もちろん、わたしの言うことはわたしが経験したことである。6000年にわたり、経営の働きをしてきたのはわたしである。わたしは人類創造の始めから今に至るまですべてを経験してきた。わたしがそのことについて語れないわけがあろうか。人の本性のこととなると、わたしはそれをはっきり見たし、長いこと観察してきた。それについてはっきり語れないわけがあろうか。人の本質をはっきり見てきたので、わたしには人を罰したり、裁いたりする資格がある。人はすべてわたしからもたらされたのに、サタンによって堕落させられたからである。もちろん、わたしはこれまでわたしが行ってきた働きを評価する資格もある。この働きはわたしの肉によってなされることではないが、聖霊の直接的表現であり、これはわたしが持っているもの、わたしそのものである。したがって、わたしはそれを表し、わたしのなすべき働きを行う資格がある。人が言うことは彼らが経験してきたことであり、見てきたもの、彼らの精神が到達できるもの、彼らの判断力で感じることができるものである。それなら彼らは語ることができる。人間の姿をした神の肉が語る言葉は聖霊の直接的表現であり、聖霊によってなされた働きを表している。肉はそれを経験しても、見てもいないが、それでも神の存在を表しているのは、肉の本質は聖霊であり、神は聖霊の働きを示しているからである。肉では到達することができなくても、それは聖霊によってすでになされた働きである。受肉のあと、肉の表現を通して神は人々に神の存在を知らしめ、人々が神の性質、ならびに神がした働きを見ることを許す。人の働きによって、人々は何において成長するべきか、何を理解するべきかについてもっと明確にすることができる。人の働きには、真理を理解し、経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道を開拓し、新しい時代を開拓し、人々に、普通の人間には知られていないことを明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは人類すべてを導くことである。

 聖霊の働きはすべて、人々が利益を得るのを可能にすることである。すべて人々を啓発することである。人々の利益にならない働きは何もない。真理が深かろうと浅かろうと、また、真理を受け入れる人々の力量がどうであろうと、聖霊がすることはなんであれすべて人々に有益である。しかし、聖霊の働きは直接行うことはできず、協力をしてくれる人々を通して実行されなければならない。このようにしてのみ、聖霊の働きの成果が得られる。もちろん、それが聖霊の直接的働きであれば、混ぜ物は全く入っていない。しかし、人という媒体を使うと、かなり混ぜ合わされ、聖霊本来の働きではなくなる。このようにして、真理の程度は異なったものに変化する。信奉者は、聖霊の本来意味するものではなく、聖霊の働きと人の経験および認識の結合したものを受け取る。信奉者が受け取る聖霊の部分の働きは正しいが、彼らが受け取る人の経験と認識は、働き手たちが異なるので変化する。いったん聖霊から啓発と導きを受けると、働き手は引き続き、この啓発と指導に基づいて経験をする。これらの経験の中で、人間性の本質のみならず、人の精神と経験も結合され、その後、得るべき認識と見識を獲得する。このようにして、人は真理を経験した後に実践へと進む。だが、人の経験は同じではないし、人々が経験する事柄も同じではないので、この実践方法はいつも同じとは限らない。こうして、聖霊の啓発は同じでも認識や実践が異なる結果になるのは、啓発を受けとる人々が異なるからである。実践中にあまり間違いを犯さない人もいれば、大きな間違いを犯す人もいるし、なかには間違いしか犯さない人もいる。これは人々の理解力の差であり、実際の力量も異なるからである。メッセージを聞いた後こう理解する人もいれば、真理を聞いたあとああ理解する人もいる。少し逸れる人もいれば、真理の本当の意味をまったく理解しない人もいる。したがって、どのように理解しているかで、その人が他人をどのように導くかが決まる。これがまさしく本当であるのは、その人の働きがその存在を表しているからである。真理を正しく理解している人に導かれた人々は、やはり真理を正しく理解するだろう。誤った理解をする人もごくわずかいるが、すべての人が誤った理解をするわけではない。真理を誤って理解している人々に導かれると、明らかに間違えてしまい、これらの人々は言葉のあらゆる意味において間違える。信奉者の中で、真理を理解する程度は主に働き手によって決まる。もちろん、神からの真理は正しく、間違いはなく、完全に確かである。しかし、働き手は完全に正しいわけではなく、完全に信頼できるとは言えない。働き手が非常に実際的な真理の実践方法を持っていれば、信奉者も実践方法を持つだろう。働き手が真理の実践方法を持たず、教義しか持ち合わせていなければ、信奉者は現実性を全く持たないだろう。信奉者の力量と本性は生まれながらに決められていて、働き手との関連性はない。しかし、信奉者がどの程度真理を理解し、神を知るかは働き手次第である(これは一部の人々に限られる)。働き手がどのような人であるかによって、彼の導く信奉者がどのようになるかが決まる。働き手が表すことは彼自身の存在であり、留保条件はない。働き手が信奉者に出す要求は、彼自身が達成したいこと、達成できることである。働き手のほとんどは、人々がまったく達成できないことが多々あるにもかかわらず、自分がすることに基づいて信奉者に要求を出す。人々が達成できないことは彼らの成長の障害になる。

 刈り込みや裁きを経験した人々の働きは間違いがずっと少ない。その働きの表現はずっと正確である。働きに対し、本来の自然さに依存している人々はかなり重大な間違いを犯す。不完全な人々の働きには本来の自然さが多すぎ、それが聖霊の働きの主な障害になっている。働きの条件が生まれつき備わっている人々でさえ、神の働きを実行するためには刈り込みと裁きを経験していなければならない。そのような裁きを受けていなかったら、彼らがどんなによくやっても、その働きは真理の原則と一致することはできず、完全に本来の自然さ、人間的善良さの段階に留まる。神の働きをするとき、刈り込みや裁きを受けた人々の働きは、裁きを受けなかった人々の働きよりも正確である。裁きを受けなかった人々は、人間の肉と考えしか表現せず、それらは人間的知力と生まれながらの才能がかなり混じりあっており、人が神の働きを正確に表現したものではない。彼らに従う人々は、生まれながらの力量によって彼らの前に連れてこられる。彼らは人の見識や経験をあまりにも出しすぎ、しかもそれらはほとんど神の本来の意味とは切り離されており、あまりにも逸脱しているので、この種の人の働きでは人々を神の前に連れてくることはできず、自分たちの前に連れてきてしまう。そこで、裁きや罰を受けなかった人々は神の働きを実行する資格はない。資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理にさらに深く入ることを許す。彼の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、彼の行う働きは個々の人によって変わることができ、規則にとらわれず、人々に解放と自由を認める。さらに、人々は徐々にそのいのちにおいて成長し、真理に向けて深く着実に進むことができる。資格のない働き手の働きははるかに不十分で、ばかげている。彼は人々を規則にはめ込むだけで、人々に要求することは個々の人によって変化しない。彼の働きは人々の実際のニーズに従っていない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人々をいのちにおける現実や正常な成長の実践に至らせることができない。人々はわずかな価値のない規則を守ることができるようになるだけであり、この種の指導は人々を迷わせるだけである。彼はあなたを自分に似たものになるよう導く。あなたを彼が持っているものや彼そのものの中に引き込むことができる。導き手に資格があるかどうかを信奉者が見定める秘訣は、彼らが導く道と彼らの働きの結果を見ること、および信奉者が真理に従った原則を受け取るかどうか、自分たちが変わるのにふさわしい実践方法を受け取るかどうかを見ることである。あなたは異なる種類の人々の異なる働きの違いを識別しなければならない。愚かな信奉者になってはならない。これはあなたの成長の問題に影響を及ぼす。どの人の指導には道筋があり、どの人の指導にはないかを見極めることができなければ、あなたは簡単にだまされるだろう。これらすべてはあなた自身のいのちに直接関連している。完成されていない人々の働きには自然のままのものが多すぎる。あまりにも多くの人間の意志がその中に混ざっている。彼らの存在は本来の性格、持って生まれたものであり、取り扱いを経験した後のいのちではなく、変えられたあとの現実でもない。どうしてこのような人がいのちを追及している人々を支えることができるだろうか。人の本来のいのちは彼の持って生まれた知性あるいは才能である。この種の知性あるいは才能は、神が人に要求するものとはほど遠い。人がまだ完成されておらず、その堕落した性質が刈り込まれておらず、取り扱われていなければ、その人が表すものと真理の間には大きな隔たりがあるだろう。それは彼の想像や一方的経験など、あいまいな事柄と混ざり合っているだろう。そのうえ、彼がどのように働くかに関係なく、人々は全体的目的や、すべての人が成長するのに適した真理などはないと感じている。人々に出される要求の大半は、人々に力の及ばないことをするよう求めるが、それはアヒルを止まり木に追い立てるようなものだ。これは人間の意志の働きである。人の堕落した性質、人の考えや見解はその人の体のあらゆる箇所に浸透している。人は真理を実践する本能を持って生まれていないし、真理を直接理解する本能も持っていない。人の堕落した性質と統合すれば、この種の自然のままの人が働くと、障害にならないだろうか。しかし、完成されている人は、人々が理解するべき真理の経験があり、人々の堕落した性質を知っているので、彼の働きの中の曖昧で非現実的ことがらは次第に減少する。つまり、彼が表した真理はさらに正確で現実的なものになる。人の心の中の考えは特に聖霊の働きを妨害する。人は物事を取り扱う際、豊かな想像力と合理的論理、ならびに古い経験を持っている。これらは刈り込みと修正を受けなければ、すべて働きの障害であり、したがって、人の働き、特に未完成の人々の働きはもっとも正確なレベルに到達することはできない。

 人の働きには範囲と限界がある。一人では一定の段階の働きしかできず、時代全体の働きをすることはできない―さもなければ、その人は人々を規則に導くだろう。人の働きは特定の時間または段階にしか適用できない。人の経験には範囲があるからである。人の働きを神の働きと比較することはできない。人の実践方法と真理の認識はすべて特定の範囲に適用される。人が歩む道は完全に聖霊の意志であると言うことはできない。人は聖霊によって啓発されるだけで、聖霊で完全に満たされることはできないからである。人が経験できることはすべて通常の人間の範囲内のもので、通常の人間の心の中の考えの範囲を越えることはできない。実践的表現をする人々はすべてこの範囲内で経験する。彼らが真理を経験するとき、それはいつも聖霊の啓発を受けた通常の人間生活の経験であり、通常の人間生活から逸脱した方法による経験ではない。彼らは人間生活に基づいて聖霊に啓発された真理を経験する。そのうえ、この真理は人によって異なり、その深さは人の状態に関連している。彼らが歩む道は真理を追及する人の通常の人間生活であり、その道は聖霊によって啓発された通常の人間が歩む道であると言えるだけである。彼らが歩む道は聖霊が取る道であると言うことはできない。通常の人間の経験では、追求する人々が異なるので、聖霊の働きも異なっている。さらに、彼らが経験する環境や経験の範囲は同じではなく、彼らの精神や考えが混ざり合うため、その経験の混ざり合う程度もさまざまになる。各人は個々の異なる条件に従って真理を理解する。真理の本当の意味を完全に理解することはなく、ほんの一部にすぎない。人が真理を経験する範囲はいつも個人の異なる条件に基づいているため、同じにはならない。こうして、同じ真理を表した認識でも人が異なれば同じにはならない。つまり、人の経験にはいつも限界があり、聖霊の意志を完全に表すことはできず、たとえ人の表すものが神の心にかなり一致していても、たとえ人の経験が聖霊の実行する人を完全にする働きに非常に近くても、人の働きを神の働きとして把握することはできない。人は神の僕にすぎず、神に任せられた働きしかできない。人は聖霊の啓発を受けた認識や自分の個人的経験から得た真理しか表すことはできない。人は無資格で、聖霊の流出口となる条件を持たない。人の働きは神の働きであると言う資格は与えられていない。人には人の働く原則があり、すべての人は異なる経験を持ち、さまざまな条件を所有している。人の働きには聖霊の啓発を受けたその人の経験のすべてが含まれる。これらの経験は人の存在を表すだけで神の存在、あるいは聖霊の意志は表さない。したがって、人が歩む道は聖霊が歩む道ということはできない。なぜなら人の働きは神の働きを表すことはできず、人の働きと人の経験は聖霊の完全な意志ではないからである。人の働きは規則に陥りがちであり、その方法はすぐに限られた範囲に限定されてしまい、人々を自由な道に導くことはできない。ほとんどの信奉者は限られた範囲内に住んでいて、彼らの経験する道もその範囲内に限られている。人の経験はいつも限られている。働く方法もいくつかに限られており、聖霊の働きや神自身の働きと比較することはできない―これは、人の経験が結局は限られているからである。神がどのように働きを行おうと、それには規則がない。どのようになされようと、神の働きは一方向に限られはしない。神の働きに規則はまったくなく、働きはすべて自由に解放される。どんなに多くの時間をかけて神に従おうとも、人々は神が働く方法のいかなる規範も総括することはできない。神の働きは原則に基づいているが、いつも新しい方法で行われ、いつも新しい進展があり、人の手の届く範囲のものではない。一期間の間に、神はいくつかの異なる種類の働き、異なる導き方を示すことがあり、人々がいつも新たな成長や新たな変化を持てるようにする。神の働きの規範を見つけ出すことができないのは、神がいつも新しい方法で働いているからである。このようにしてのみ、神の信奉者は規則に陥らないで済む。神自身の働きはいつも人々の見解を避け、彼らの見解に反論する。本当の心で神に従い、神を追い求める人々だけが自分の性質を変えることができ、いかなる規則にも支配されず、いかなる宗教的見解にも拘束されず、自由に生きることができる。人の働きが人々に要求することはその人自身の経験および自分自身が達成できることに基づいている。これらの要求の基準は一定の範囲内に限られており、実践方法も非常に限られている。したがって信奉者は無意識のうちにこの限られた範囲内で生きることになる。時が経つにつれてそれらは規則と儀式になる。一期間の働きが神の個人的完成を経験しておらず、裁きを受けていない人に導かれると、信奉者はみな宗教家、神に抵抗する専門家になるだろう。したがって、資格のある導き手ならば、その人物は裁きを経験しており、完全にされることを受け入れた人である。裁きを経験していない人々は、聖霊の働きを持っているとしても、曖昧で非現実的なことしか表すことはできない。時が経つにつれて、彼らは人々を曖昧で超自然的規則に導くだろう。神が行う働きは人の肉と一致しない。人の考えとも一致せず、人の見解に反論する。曖昧な宗教色とはまじりあわない。神の働きの結果は、神によって完成されていない人には達成不可能であり、人の考えの及ばないものである。

 人の心の中の働きは人によってあまりにも容易に達成される。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人物を後になって仕事に就き、指導する有能な神学校卒業生に育てることである。6000年に及ぶ神の働きで、あなたは何か規範を見つけ出すことができるだろうか。人が行う働きの中にはたくさんの規則や制限があり、人間の脳は独善的すぎる。そこで、人が表すことは自分の経験すべてのなかの多少の知識と認識であり、これから離れては何も表すことができない。人の経験、あるいは認識は生まれながらの才能、または本能から生じるものではなく、神の導きと神の直接的牧養により生じる。人はこの牧養を受け入れる器官を持っているだけで、神性が何であるかを直接表す器官は持っていない。人は源になることはできず、源から水を受ける器になれるだけである。これが人間の本能、人間として持つべき器官である。神の言葉を受ける器官を失い、人間の本能を失った人物はもっとも大切なものも失い、神に造られた人としての本分を失う。神の言葉、または神の働きについての認識、または経験を持たない人物は、その本分、つまり、神に造られた存在として行うべき本分を失い、神に造られた存在としての尊厳を失う。肉の形で表されようと、聖霊によって直接表されようと、神性が何であるかを表すのは神の本能であり、これが神の職務である。人は自分自身の経験、あるいは認識を神の働きの間に、またはその後に表す(すなわち、人は自分の人格を表現する)。これは人の本能と本分であり、人が達成すべきことである。人の表現は神が表すものに遠く及ばないし、人の表すものにはたくさんの規則があるが、果たすべき本分は果たさなければならないし、しなければならないことはしなければならない。自己の本分を果たすために人間的に可能なすべてを人はしなければならず、ほん少しでも留保があってはならない。

 何年も働いた後、人は働いた年月の経験、ならびに蓄積した知恵と規則の一部を総括する。長期間働く人は、聖霊の働きの動きを感じとることができ、聖霊がいつ働き、いつ働かないかを知っている。重荷を背負っている時の交わり方を知っており、聖霊の働きの通常の状態、および人々がいのちにおいて成長する通常の状態が分かっている。それが何年も働いてきて、聖霊の働きを知っている人である。長い間働いてきた人々は確信をもって、急がずに話す。何も言うことがない時でさえ、落ち着いている。彼らはそわそわしたり不安になったりせず、聖霊の働きを求めるために心の中で祈り続けることができる。彼らは働くことに熟練している。長い間働き、多くの教訓や経験を持っている人は、内心に聖霊の働きを妨害するものを多く持っている。これは長期間働いた人の欠点である。働き始めたばかりの人は人間的教訓や経験を持ち込んでいないし、とりわけ、聖霊がどのように働くかわからず当惑する。しかし、働いているうちに、次第に聖霊の働き方を感じるようになり、聖霊の働きを持つためには何をするべきか、他人の極めて重要な点に触れるためには何をするべきかについて気づくようになり、働き手が所有すべき一般的知識を知るようになる。時間が経つと、彼は働きに関するそのような知恵と一般的な知識をほとんど自分の手の甲のように熟知するようになり、働くとき簡単に使うようである。しかし、聖霊が働き方を変えるとき、彼はまだ古い知識と規則に固執し、新しい働きの動きについてはほとんど知らない。何年にもわたり働き、聖霊の存在と導きが十分であれば、働きに関する教訓と経験がますます増え、彼はうぬぼれではなく自信に満たされる。言い換えれば、彼は自分の働きがすっかり気に入り、聖霊の働きについて得た一般的知識に非常に満足する。特に、他の人々は獲得していない、あるいは認識していないものが彼にさらに自信を与える。彼の中の聖霊の働きは決して消し去ることはできず、一方、他の人々はこの特別な取り扱いを受ける資格がないように思われる。何年も働き、かなりの使用価値を持っている彼のような人々だけが享受する資格が与えられる。これらのことは彼が聖霊の新しい働きを受け入れる際にかなりの障害になる。新しい働きを受け入れることができても、それは一夜にしてできることではない。受け入れる前にはいくつかの紆余曲折を必ず経験する。この状況は彼の古い見解が扱われ、古い性質が裁きを受けた後ようやく徐々に好転していく。これらの段階を経由しなければ、彼が諦めて古い見解と調和しない新しい教えや働きを容易に受け入れることはない。これは人が取り扱われるべきもっとも困難なことで、変えるのは容易ではない。働き手として聖霊の働きを理解し、その動きを総括し、同時に自分の働いてきた経験にとらわれることなく、古い働きに照らして新しい働きを受け入れることができれば、その人は賢い人であり、働き手としての資格がある。人はしばしば自分の働いてきた経験を総括することができないまま数年間働く。あるいは仕事の経験や知恵を総括した後、新しい働きを受け入れるのを妨げられ、新旧の働きを適切に理解することも、正しく取り扱うこともできない。人は実に扱いづらい。あなた方のほとんどはこのようだ。聖霊の働きを何年にもわたり経験してきた人々は手放し難い見解を数多く抱えていて、新しい働きを受け入れにくいが、働き始めたばかりの人は働きに関する一般的知識に欠けており、もっとも単純なことの取扱い方でさえわからない。あなた方のような人々は本当に扱いづらい。多少の経験を経てきた人々はとても誇り高く、傲慢なので自分の出自を忘れてしまう。彼らはいつも若者を軽蔑しているが、新しい働きを受け入れることができず、自分が集めて、何年にもわたり保持してきた見解を手放すことができない。若い、無知な人々は聖霊の新しい働きを少し受け入れることができ、非常に情熱的であるが、問題に出くわしたとき、うろたえてしまい、何をしたらいいかわからなくなる。情熱的ではあるが、あまりにも無知である。聖霊の働きを少し知っているだけで、生活の中で使うことはできないので、それはまったく役に立たない教義にすぎない。あなた方のような人が多すぎる。何人の人が用いられるのに適しているだろうか。聖霊に適した働きのできる人が何人いるだろうか。あなた方はこれまで非常に従順であったように思われるが、実際には自分たちの見解を諦めておらず、いまだに聖書の中に探し求め、曖昧なまま信じ、見解のなかでさまよっている。今日の実際の働きを注意深く調べたり、奥深く探ろうとしたりする人は誰もいない。あなた方は自分の古い見解で今日の道を受け入れている。そのような信仰で何が得られるのか。あなた方の中には明らかにされていない見解が数多く隠されていると言えるだろう。あなた方はそれらを隠そうと最大の努力をしており、簡単には表そうとしないだけである。あなた方は新しい働きを誠実に受け入れず、古い見解を諦めるつもりはない。あなた方はあまりにも多くの、あまりにも嘆かわしい人生哲学を持っている。古い見解を諦めず、仕方なく新しい働きに取り組んでいる。あなた方の心はあまりにも邪悪で、新しい働きの手順をまったく心に留めない。あなた方のような放蕩者に福音を広める働きができるだろうか。あなた方は全宇宙に福音を広める働きを請け負うことができるだろうか。あなた方のこうした行為は、あなた方が性質を変え、神を知るようになることを妨げている。このままで進めば、あなた方は取り除かれる運命にある。

 あなた方は神の働きと人の働きの区別の仕方を知らなければならない。あなたは人の働きから何を見ることができるか。人の働きの中には人の経験による要素がたくさんある。人が表すものはその人そのものである。神自身の働きも神そのものを表すが、神そのものは人そのものとは異なる。人そのものは人の経験や人生を表し(人生やその人が持つ人生哲学において人が経験したり、遭遇したりするもの)、異なる環境に住む人々は異なる存在を表す。あなたに社会的経験があるか否か、あなたが家族の中で実際どのように生活し、経験しているかはあなたが表すものの中に見ることができるが、あなたは肉となった神の働きから神に社会的経験があるか否か見ることはできない。神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。神は、なさなければならない仕事をし、堕落した人間の本質を完全に明らかにするために、複雑で、扱いにくく、浅ましい社会生活を経験する必要はない。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き、裁くことは神の肉の経験の表現ではない。それは人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌ったあと、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神であることを表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。神の働きに関し、人は神がどのような存在か言うことはできない。神を神の働きに基づいて創造された人として分類することも不可能である。神そのものも神を創造された人として分類できないようにしている。人は神を人間以外のものと考えるしかなく、どの範疇に神を入れるかはわからない。そこで、人は神を神の範疇に入れざるをえない。こうすることは、人にとって不合理なことではない。なぜなら、神は人が行うことのできないたくさんの働きをしてきたからである。

 神の働きは、神の肉の経験を表すのではない。人が行う働きは人の経験を表す。誰もが自分の個人的経験について話す。神は直接真理を表し、一方人は真理を経験したあと、付随する経験を表せるだけである。神の働きに規則はなく、時間や地理的制約に支配されない。神はいつでも、どこでも自分が何かを表すことができる。神は好きなように働く。人の働きには条件と事情がある。そうでなければ、人は働くことはできず、神に関する認識や真理の経験を表すことができない。あなたは、神自身の働きか、人の働きか伝えるためには両方の違いを比較するしかない。神自身のする働きはなく、あるのは人の働きのみであれば、あなたは人の教えは高度で、ほかの誰の能力も及ばないと知るだろう。彼らの話す調子、事を扱う際の原則、働く際の経験豊かで、落ち着いた態度は他の人々の力の及ぶところではないと知るだろう。あなた方はみな高い人間性を持つこれらの人々を称賛するが、神の働きと言葉から神の人間性がどれほど高いか知ることはできない。それどころか、神は普通であり、働くときは通常で現実的だが、人間には計り知れないものでもあり、そのため、人々は一種の畏敬の念を神に感じる。おそらく、働きにおける人の経験は特に高い、あるいは想像力や論理的思考は特に高く、人間性は特に良い。これらのことは人々の称賛は得られても、畏敬の念や畏れを喚起することはできない。働く能力を持ち、特に深い経験を持ち、真理を実践できる人々は誰もが称賛するが、彼らは畏敬の念を呼び起こすことは決してできず、称賛と羨望がせいぜいである。しかし神の働きを経験した人々は神を称賛するのではなく、その代わり、神の働きは人間の力の及ばないもので、人には計り知れず、新鮮で素晴らしいと感じる。人々が神の働きを経験する時、神に対して最初に持つ認識は、神は計り知れず、賢明で素晴らしいということであり、彼らは無意識のうちに神を敬い、神の働きの神秘性を感じ、人の考えの及ばないものだと思う。人々はひとえに神の要求に応じられること、神の希望を満たせることを望み、神を超えようとは思わない。なぜなら、神の働きは人の考えや想像のおよばないものであり、人が神に代わって行うことはできないからである。人自身が自分の力不足を知らないのに、神は新しい道を開拓して、人をより新しく、より美しい世界へ至らせるようにしたので、人類は新たに進歩し、新しいスタートを切った。神に対して人が感じるのは称賛ではない、というより、称賛だけではない。彼らのもっとも深い経験は畏敬の念と愛であり、彼らの抱く感情は、神は実に素晴らしいということである。神は人ができない働きをし、人が言えないことを言う。神の働きを経験した人々はいつも言葉では言い表せない感情を経験する。より深い経験を持つ人々は特に神を愛する。彼らはいつも神の素晴しさを感じ、神の働きは非常に賢く、非常にみごとだと感じ、そう感じることによって彼らの中には限りない力が生み出される。それは恐れ、あるいは時折生じる愛と尊敬ではなく、人に対する神の慈悲と寛容を深く感じる気持ちである。しかし、神の刑罰と裁きを経験した人々は、神を威厳で、犯しがたいものと感じる。神の働きを数多く経験してきた人々でさえ、神を深く理解することはできない。本当に神をあがめているすべての人は、神の働きは人々の見解とは一致せず、いつも反していることを知っている。神は人々が神を完全に称賛したり、神に服従しているように見せたりすることを必要とせず、むしろ本当に畏敬の念を持ち、本当に服従することを必要とする。神の大半の働きにおいて、本当の経験を持つ人はだれでも神に対する畏敬の念を感じるが、それは称賛よりも高い。人々は神の刑罰と裁きの働きによって神の性質を見た。したがって心の中で神を畏れる。神があがめられ、従われるのは、神の存在と性質が被造物のものとは同じでなく、上回っているからである。神は創造された存在ではなく、神のみが畏敬の念と服従を受けるに値する。人にはその資格がない。そこで、神の働きを経験し、本当に神を知る人々はすべて、神に対して畏敬の念を感じる。しかし、神についての自分の見解を取り除かない人々、すなわち、断じて神を神とみなさない人々は、神に対して畏敬の念をまったく持たず、神につき従ったとしても征服されない。彼らは生まれつき不従順なのだ。神がこの働きをするのは、すべての被造物が創造主を畏れ、崇拝し、無条件に神の支配に服従するという結果を達成するためである。これが、神のすべての働きが達成を目指している最終的結果である。もしそのような働きを経験した人々が、たとえ少しでも、神を畏れなければ、もし彼らの過去の不服従がまったく変わらなければ、これらの人々は必ず取り除かれる。人の神に対する態度が遠くから称賛したり、尊敬の念を示したりするだけで、少しも愛さないならば、これは神を愛する心のない人の達することであり、そのような人は完全なものにされる条件に欠ける。多くの働きをしても人の本当の愛を得られなければ、それはその人が神を獲得しておらず、心から真理を追及していないことを意味する。神を愛さない人は真理を愛さず、したがって神を獲得することはできないし、ましてや神の承認を得ることはできない。そのような人々は、どのように聖霊の働きを経験しようとも、どのように裁きを経験しようとも、やはり神を畏れることはできない。これらの人々は本性を変えることができず、かなり邪悪な性質を持つ人々である。神をあがめない人々はすべて取り除かれ、懲罰の対象になり、悪事を働いた人々と同様に罰せられ、不正なことをした人々よりもずっとひどく苦しまなければならない。

2018年10月1日月曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「今日の神の働きを知るということ」


全能神は言われた。「ある意味で、神の受肉は終わりの日に人間の心から漠然の神の姿を除くもので、そうしてもはや人間の心に漠然の神の姿がないようにしたのである。その言葉と働きとで、神はすべての地を歩く。人々の間でする働きはまことに真実で普通のもので、人々は神が実在することを知り、漠然の神は人間の心に居場所を失う。つまり、神は肉の体で語った言葉で人間を完全にし、すべてを成就するのだ。これが神が終わりの日に成就することだ。」 『言葉は肉において現れる』より

2018年9月29日土曜日

全能神の発表「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」


 人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。天地創造の働きは、人類全体を作り出す働きであった。それは人類を救う働きではなく、人類を救う仕事には関係がなかった。なぜなら、天地創造の時、人類はサタンによって堕落させられておらず、人類を救う働きを実行する必要がなかったからである。人類を救う働きは、人類が堕落させられた後にようやく始まり、そこで人類を経営する働きも人類が堕落させられた後にようやく始まったのである。言い換えれば、人を経営する神の働きは、人類を救う働きの結果として始まったもので、天地創造の働きから生じたものではない。人類の堕落した性質が無ければ、人類を経営する働きはありえなかった。だから人類を経営する働きは、四つの段階もしくは四つの時代というよりも三つの部分を含むのである。これこそが人類を経営する神の働きへの正しい言及の仕方である。最後の時代が終わるとき、人類を経営する働きは完全に終わっている。経営の働きの終結は、人類すべてを救う働きが完全に終了し、人類がその旅路の終わりに到達したことを意味する。人類全てを救う働きがなければ、人類を経営する働きも存在しないし、三つの段階の働きもないだろう。それは正に人類の堕落ゆえに、また人類がそれほど性急に救いを必要としていたがために、ヤーウェは天地創造を終わらせ、律法の時代の働きを始めたのである。そうして初めて、人類を経営する働きが始まったのだが、それはつまり人類を救う働きもそこで初めて始まったことを意味する。「人類を経営する」とは、地球上に新たに誕生した人類(つまり、まだ堕落させられていない人類)の生活を導くという意味ではない。むしろそれは、サタンによって堕落させられた人類の救いであり、つまりは、この堕落した人類を変えることである。これが人類を経営することの真意である。人類を救う働きが天地創造の働きを含まないのだから、人類を経営する働きも天地創造の働きを含まず、ただ天地創造とは別の三つの段階の働きだけが含まれる。人類を経営する働きを理解するには、三つの段階の働きの歴史を知ることが必要であるが、これは、救われるために、すべての人が知っていなければならないことである。被造物としてあなた方は、人は神によって造られたということを認識しなければならないし、人類の堕落の源、さらには人の救いの過程を認識しなければならない。あなた方がもし、神に喜ばれるために教理に従って行動することだけは知っているが、神がいかにして人類を救うかに関して、あるいは人類の堕落の源を少しも知らないのであれば、あなた方には被造物としてこの部分が欠けているのである。あなたは、神の経営する働きのより幅広い範囲を知らないままでいるのに、それらの実践できる真理を理解するだけで満足してはならないし、もしそうなら、あなたは教条的すぎるということになる。三つの段階の働きは、神による人の経営の内部事情であり、全宇宙の福音の到来であり、全人類における最大の奥義であり、また福音を述べ伝えることの基盤でもあるのだ。もしあなたが自分のいのちに関係する単純な真理を理解することだけに集中し、この最大の奥義とビジョンに関しては一切知らないとすれば、あなたのいのちは、ただ眺めること以外に役に立たない不良品と言えるのではないか。

 もし人が実践することだけに集中し、神の働きと人の認識を二次的なものと見るならば、「一文惜しみの百失い」であることと同じではないのか。あなたは、認識すべきことは認識すべきであり、実践すべきことは実践しなければならない。そうして初めてあなたは真理をどのように追及すべきか知る人になるのだ。あなたが福音を述べ伝える日が来た時、「神は偉大な正義の神であり、神は最も優れた神であって、いかなる偉大な人も比較できる者がおらず、それ以上に高い者もいない…」ということしか言えず、これらの見当違いで上辺だけの言葉しか言えず、非常に重要で中身のある言葉を全く話すことができず、神を認識すること、あるいは神の働きについて何も言うことができず、そしてさらには真理を説明すること、あるいは人間に欠けているものを提供することができないのであれば、あなたのような人は、立派にその本分を尽くすことはできない。神を証しし神の国の福音を述べ伝えることは、決して簡単な仕事ではない。あなたは、まず真理を身に付け、理解するべきビジョンを身に付けなければならない。神の働きの様々な側面のビジョンと真理について明確に知っているとき、あなたは心の中で神の働きを認識することになり、神が何をするかに関わらず、例えばそれが正義の裁きでも人を精練することでも、あなたは自らの基盤として最大のビジョンを備え、実践すべき正しい真理を備えることになり、結果として、最後まで神に付き従うことができるようになるのである。あなたは、神の働きが何であれ、その働きの目的は変化せず、神の働きの核心は変化せず、そして神の人に対する心も変わらないことを知らなければならない。神の言葉がどれほど厳しいものであっても、環境がどれほど不利であっても、神の働きの原則は変わらないし、人を救うという神の意図も変わらないのである。それが人の終わり、あるいは人の終着点の啓示ではなく、最終段階の働き、あるいは神の経営(救いの)計画全体を終わりにする働きでもないならば、また神が人に対して働いている最中のことであるならば、神の働きの核心は変わらない。つまりそれは常に人類の救いなのである。これこそがあなた方の神への信仰の基盤であるべきだ。三つの段階の働きの目的は全人類の救いであり、すなわちそれは人をサタンの領域から完全に救い出すことを意味する。三つの段階の働きには、それぞれ異なる目標と意味があるが、そのいずれもが人類を救う働きの一部であり、人類が必要とするものに応じて実行される異なる救いの働きなのだ。いったんこの三つの段階の働きの目的を知れば、各段階の働きの意味をどのように正しく認識すれば良いかが分かるし、神の心を満たすためにはどのように行動すれば良いかが理解できる。この点に到達することができれば、最終的にこの最大のビジョンがあなたの基盤になるだろう。あなたは実践のためのたやすい方法、あるいは奥深い真理を追い求めるだけでなく、実践とビジョンを組み合わせるべきだ。そうすれば、実践できる真理とビジョンに基づく知識の両方が在ることになる。そうして初めて、あなたは完全に真理を追求する者になれるのである。

 三つの段階の働きは、神の経営(救い)全体の核心にあるもので、 その三つの段階の中に、神の性質、そして神であるものが表されているのである。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにしてその性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの英知も知らず、そして神が人類を救う様々なやり方や、人類全体に対する神の心を知らないままでいる。三つの段階の働きは、人類を救う働きの完全な表明といえる。三つの段階の働きを知らない人々は、聖霊の働きの様々な手段や原則を知らないままでいる。つまり、一つの段階の働きからそのまま残っている教義に厳格にこだわる人々は、神を教義に限定する人たちであり、神に対する彼らの信仰は曖昧で不確かである。そのような人たちは、決して神の救いを得ることがないだろう。神の三段階の働きだけが神の性質の全てを余すところなく表せるのであり、人類全体を救う神の意図、そして人類救いの全過程を完全に示すことができるのである。これは、神がサタンを打ち負かし人類を取り戻したということの証拠であり、神の勝利の証拠であり、そして神の性質全体の表明でもある。神の働きの三段階の内一つの段階だけを理解する者は、神の性質の一部しか知らない。人の観念においては、このたった一つの段階の働きは教義になりやすく、人は神に関する規則を定めるようになり、神の性質のこの一部分だけを神の性質全体の代表として使うようになる。その上、人の想像が少なからずこの中に混入するので、神の働きの原則に加えて、神の性質、存在、英知を限られた範囲内に厳格に制限し、神がかつてこのようであれば永遠にこのようであり、絶対に変わることはないと思うようになる。三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが様々な、多岐にわたる神の働きを認識しないからであり、さらに、彼らがごく僅かな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちは、経験は上辺だけのものなのに、本性が放漫かつ甘やかされており、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」する。また彼らはもったいぶって、自分たちの知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑されて拒絶されるのではないのか、そして新しい時代には排除されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人々は、狭量で偏狭な人々で、単に自分たちがいかに賢いかを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についての僅かな知識だけで天下の「学界」にまたがり、人に教える上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に転回させようと試み、目先のことしか見えないのに、一目で6000年に及ぶ神の働きを見極めようとするのである。この人たちは理性と呼べるようなものをもちあわせているのだろうか。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを評価するのに時間をかける。さらに、彼らは今日の神の働きについて知っていることを僅かしか語らないが、判断することは急がない。神に対して認識がない人ほど、傲慢で自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人は少しも価値のない人である。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちはあさはかである。聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。このような人はいつか聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。そういう人たちは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜しているのである。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがないし、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。今日あなた方は、神の三つの段階の働きを知る重要性を理解しなければならない。わたしが言う言葉はあなた方の有益になるものであり、無意味な言葉ではない。あなた方がことを急げば、わたしの大変な努力は全て水の泡になるのではないか。あなた方一人ひとりが自らの本性を知るべきである。あなた方のほとんどが議論は得意であり、理論的な質問に対する答えはすらすらと出てくるが、実質的な問題になると何も言うことがないのである。今日でさえ、あなた方は未だに浅はかな会話に身をゆだね、自分の古い本性を変えることができずにいるし、あなた方のほとんどは、より高い真理を達成するために追求する方法を変えるつもりがなく、いいかげんに自分の人生を生きているだけである。このような人たちがどうして最後まで神に従うことができるだろうか。たとえ道の最後まで辿り着けたとしても、あなた方にとってそれが何の得になるだろう。手遅れになる前に、真剣に追及するか、あるいは早く負けを認めて放棄して、考え方を改めた方が良い。時間がたつにつれ、あなた方は人にたかる寄生虫になる。そんな低くて卑しい役をあなた方は演じるつもりなのか。

 三つの段階の働きは、神の働きすべての記録であり、神の人類救済の記録であり、そしてそれは架空のものではない。もしあなた方が、神の性質全体を認識することを真剣に追い求めるのであれば、神によって為された働きの三段階を知らなければならず、しかもどの段階も欠けてはならない。これは神を知ろうと努力する人たちが達成しなければならない最低限のことである。人は思いつきのように独自で本当に神を知ることはできない。それは人が自分で想像できるものでもなければ、聖霊が特定の人に特別に恩恵を授けた結果でもない。むしろそれは、人が神の働きを経験した後に得る認識であり、神の働きの事実を経験した後にだけ訪れる神に対する認識なのである。そのような認識は、ふと思いついて得ることはできないし、教えられるものでもない。それは完全に個人的な体験に関係することなのだ。これらの三つの段階の働きの核心には、神の人に対する救いが在るが、この救いの働きの中には幾つかの働き方と、神の性質を表す手段が含まれている。これは、人がもっとも識別し難いことであり、また理解するのがむずかしいことである。時代の区分、神の働きの変化、働きの場所の変化、この働きの受益者の変化等、これら全てが三つの段階の働きに含まれている。特に、聖霊の働き方の違い、神の性質、姿、名前、身分、その他の変化など、これら全てが三つの段階の働きの一部である。一つの働きの段階は、一部しか表すことはできず、特定の範囲に限られている。それは時代の区分や神の働きの変化には関係がなく、他の側面にはさらに関連性がない。これは完全に明らかな事実である。三つの段階の働きが人類を救う神の働きの全てなのだ。人は、人類を救う働きの中で、神の働き、そして神の性質を認識しなければならず、この事実なしには、あなた方の神に対する認識は、ただ無意味な言葉でしかなく、机上の空論にすぎない。そのような認識では、人を納得させることも征服することもできず、そのような認識は実情にそぐわないし、また真理でもない。その認識がたとえ十分で、聞こえの良いものであっても、神の元来の性質と合致しないのであれば、神はあなたを容認しない。神はあなたの認識を称賛しないだけでなく、神を冒涜した罪びととしてあなたに天罰を下す。神を認識する言葉は軽々しく語られるものではない。たとえあなたが流暢で弁が立ち、あなたの言葉が死人を生き返らせ、生きている人を死なせることができるとしても、神に対する認識を語ることに関しては素人同然である。神は、あなたが急いで判断を下したり、気軽に褒めたり、また無頓着に中傷したりできる対象ではない。あなたは誰でもどんな人でも褒めるが、それでもなお神の大徳と恩恵を描写する適切な言葉に悪戦苦闘し、これは全ての失敗者が体験することなのである。神を描写することのできる言語の専門家は大勢いるが、その描写の正確さは、神に属し、限られた語彙しか持たずとも豊かな経験を身に着けている人々によって語られる真理の百分の一にすぎない。よって神への認識は、巧みに言葉を使うことや豊富な語彙によるものではなく、正確さと現実性にかかっていることが見て取れる。人の知識と神への認識は、全く関係がない。神を認識するという学びは、人類のどの自然科学よりも高尚である。それは、神を認識することを探し求める非常に少数の人間によってのみ達成できる学びであって、才能があれば誰でも達成できるわけではない。よってあなた方は、神を認識することと真理を追求することを、ほんの子供でも達成できる、という見方をしてはならない。あなたは、家庭生活、仕事の経歴あるいは結婚生活においては完全に成功を収めているかもしれないが、真理および神を認識する学びに関しては、自分では見せられるものは何も持たないし、また何の成果も上げていない。真理を実践するとは言うことはできるのだが、非常に難しいことであり、神を認識することは更に困難な問題なのだ。これはあなた方にとって困難なことであり、同時に人類全体が直面している難事である。神を認識するために何らかの達成した人たちの中で、標準レベルに達する人はほとんどいない。人間は、神を認識することが何を意味するのか、あるいはどうして神を認識する必要があるのか、またはどの程度で神を認識していると見なせるのかを知らないのである。これは人類を非常に困惑させるものであり、ごく簡単に言うと人類が直面する最大の謎であり、誰もこの質問に答えることができないし、誰も進んで答えようとはしないのだが、その理由は、今日まで人類のうち誰一人としてこの働きの研究に成功したことがないからだ。おそらく、三つの段階の働きの謎が人類に明らかにされるときは、神を認識する才能集団を成す人たちが次々と現れるだろう。もちろん、そうなることをわたしは望むし、さらにわたしはこの仕事を実践中であり、近い将来そのような人材がもっとたくさん現われることを願う。彼らは、三つの段階の働きの事実を証しする者となり、そしてもちろん、三つの段階の働きを証しする最初の者となるだろう。神の働きが終わる日になって、もしそのような才能ある者がいなかったならば、あるいは一人か二人しかいなかったならば、そしてこの一人か二人は受肉した神によって完全にされることを自ら受け入れていたとしたら、これ以上悲しく、また悔やまれることはない。もちろんこれは最悪のシナリオにすぎないが。いずれの場合も、真剣に追及する者がこの祝福を得られることを願う。世の始まりの時から、このような働きはかつて一度も存在しなかったし、人類の発展の歴史の中で、かつてなかった仕事である。もしあなた方が本当に最初に神を認識する者達の一人になることができるならば、被造物全ての中で、最も名誉なことではないだろうか。人類のなかで神によってこれ以上に称賛される人がいるだろうか。このような仕事は簡単に達成できるものではないが、それでも最終的には成果を収める。性別や国籍に関わらず、神を認識することのできる人々は皆、最後に神から最高の名誉を受けるだろうし、また神の権威を備える唯一の者たちとなる。これが今日の仕事であり、未来の仕事でもあるが、要はこれが最終の、また過去6000年の働きの中で達成される最高の仕事ということであり、それによって人間の各区分を明らかにする仕事の一手段である。人に神を認識させるための働きを通して、人の異なるランクが明らかにされる。つまり、神を知る者は神の祝福を受け、神の約束を受け取る資格があるが、一方で、神に対する認識を持たない者は神の祝福を受ける資格、神の約束を受け取る資格がないことになる。神を知る者は、神の知己であり、神に対して認識を持たない者は神の知己とは呼ばれない。すなわち、神の知己は、神のあらゆる祝福を受けることができるが、神の知己でない者は、神の働きのどれにも値しない。苦難であれ、精錬あるいは裁きであれ、全ては人が最終的に神に対する認識を得られるようにするためであり、人が神に服従するようになるためである。これが最終的に達成される唯一の成果である。三つの段階の働きはどれも秘密ではなく、これは人が神を認識するのに役に立つことで、人が神についてもっと完全で徹底的な認識を得る手助けとなる。この働きは全て人のためである。

 神自身の働きは、人が知らなければならないビジョンである。神の働きは人には達成できないし、人には備わっていないものだからである。三つの段階の働きが神の経営の全てであり、人が認識すべき最大のビジョンである。もし人がこの偉大なビジョンを知らないとすれば、神を認識することも神の心を理解するのも容易ではないし、さらに人が歩む道もますます困難になる。ビジョンがなければ、人はここまで来ることはできなかっただろう。人を今日まで守ってきたのはビジョンであり、人に最大の保護を提供してきたのはビジョンである。将来、あなた方の認識はより深くなるべきであり、あなた方は神の心の全て、そして三つの段階の働きにおける神の賢明な働きの本質を認識するようにならなければならない。これこそがあなた方の真の背丈なのだ。働きの最終段階は、独立した段階ではなく、それ以前の二つの段階と一緒に形成された全体の一部であるから、三つの段階の働きのうち一つだけを行うことで救いの働き全体を完成させることは不可能である。たとえ働きの最終段階が人を完全に救うことができたとしても、必要なのはこの単独の段階を実践することだけという意味にはならないし、人をサタンの影響力から救うために、その前の二つの段階の働きは必要ないということにはならない。救いの働き全体が三つの段階の働きであって、その中の一つの段階ではないため、三つの段階の働きのうちどの段階も単独に取り上げて全人類の唯一の認識すべきビジョンとすることはできない。救いの働きが完成されていない限り、神の経営(救い)も完全に終わることはできない。神の存在、性質、そして英知が救いの働き全体の中に表現されており、初めは人に対して明らかにされていなかったが、救いの働きの中で徐々に表されるようになった。救いの働きの各段階それぞれが神の性質と神の存在を部分的に表しているが、働きの各段階が直接かつ完全に神の存在全体を表すことはできない。つまり、救いの働きは三つの段階の働きが完成した後全部終わるのだから、神のすべてに関する人の認識は三つの段階の働きから切り離すことはできない。人が一つの段階から得るものは、単に神の働きの一部で表される神の性質にすぎず、それは前後の段階で表される性質と存在を代表することはできない。なぜなら、人類を救う働きは一時期または一箇所ですぐ終わるものではなく、異なった時期、異なった場所で人類の発展の状況によって次第に深くなっていくものだからである。それはいくつかの段階で行われる働きであって、一つの段階で終わるものではない。だから神の英知の全ては、一つの個別の段階よりはむしろ、三つの段階において具体化されるのである。神の存在の全て、神の全ての英知が、これらの三つの段階の中に配置されていて、どの段階の働きの中にも神の存在があり、神の働きの英知が記されている。人は、これらの三つの段階の中に表現されている神の性質の全体を認識しなければならない。この神の存在の全てが人類全てにとって非常に重要であり、神を礼拝するときに、人がもしこの認識を持たないのであれば、彼らはブッダを崇拝する人々と何ら変わらないことになる。人の間で行う神の働きは人に隠されておらず、神を崇拝するすべての人に認識されるべきである。神は、人の間で人を救う三つの段階の働きを行ったのだから、人は、これらの三つの段階の働きの中で表現されている神が持つもの、また神であるものを認識すべきである。これは人がすべきことである。神が人から隠すことは、人が達成できないこと、また人が知るべきでないことであり、一方、神が人に見せることは、人が知るべきこと、そして人が身に付けるべきことなのである。三つの段階の働きの各段階は、それぞれの前の段階を基礎として実行されるもので、単独には働きは行われず、また救いの働きから切り離しては行われない。実行された働きの時代と種類には大きな違いがあるが、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階のものより深くなる。各段階の働きは、そのひとつ前の段階を基礎として続くものであり、それは無効にならない。このようにして、神の働きは古くならず、常に新しく、その中で神は、今まで見せたことのない自らの性質の側面を人に対して絶えず表現し、そして常に神の新しい働きと存在を明らかにし、たとえ古くからの宗教家たちが最大限反抗し公然と反対するとしても、神は常に意図している新しい働きを実行する。神の働きは常に変化しているため、常に人の反対にあう。そこで、神の働きの時代とその対象と同様に、神の性質も常に変化している。その上、神は常にこれまでしたことのない働きを行い、人から見れば以前と矛盾あるいは相反する働きさえする。人は、一種類の働き、あるいは一つの実践方法だけしか受け入れることができない。人にとって、自分たちと相反する、あるいは自分たちよりも高尚な働きや実践方法は受け入れがたい。しかし聖霊は常に新しい働きを行っていて、そのために神の新しい働きに反対する宗教専門家の団体が次から次へと出現する。こういう人たちが専門家になったのは、どうして神が常に新しくて古くならないのかを人が認識しておらず、また神の働きの原則についての認識も持たず、そしてさらに神が人を救う様々な方法についての認識も持っていないがためである。というわけで、人はその働きが聖霊から出たものであるかどうか、あるいは神自身の働きかどうかの区別がつかない。多くの人は、前に発せられた言葉と合致すれば受け入れるが、以前の働きと違う点があれば反対して拒絶するという態度にしがみついている。今でも、あなた方はみなそのような原則に縛られているのではないだろうか。救いの三つの段階の働きは、あなた方にはあまり効果を上げておらず、また前の二つの段階の働きは負担になるものだからまったく認識する必要がないとさえ信じる者もいる。彼らは、これらの段階は、大衆には発表すべきでなく、早々に撤回されるべきだと考えている。三つの段階の働きのうちの前の二段階によって人々が混乱しないようにである。多くの人は、前の二段階の働きを示すのは余計なことであり、神を認識するのに全然役に立たないと思っている―これがあなた方の考えである。今日、あなた方は皆、そのように行動することは正しいと考えているが、いつかわたしの働きの重大さに気づく時が必ず来る。わたしは意義のない働きは行わないことを知らなければならない。わたしがあなた方に三つの段階の働きを示している以上、それらはきっとあなた方のためになる。これら三つの段階の働きは神の経営全体の核心であるのだから、きっと全宇宙で全ての人の注目の的となる。いつかあなた方は皆この働きの重要性に気づくだろう。あなた方が神の働きに逆らう、あるいは自分の観念により今日の働きを判断するのは、あなた方が神の働く原則を知らないからであり、またあなた方が聖霊の働きを真剣に受け止めないからだということを認識しなさい。あなた方が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなた方自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなた方が元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。人は、神を求め、経験する過程で、神に対する認識を得るようになる。つまり、気まぐれに神を批判する中で聖霊の啓発を受けて神を認識するのではない。神に対する認識が正しいほど、人は神に反発しなくなる。逆に、神への認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格や道徳観は、あなたが神に逆らう「資本」であり、あなたが堕落して下劣で低俗であるほど、あなたはますます神の敵対者になる。欲深い観念の持ち主や独りよがりな性質の者は、さらに受肉した神の憎しみを買い、そのような人たちは反キリストである。もしあなたの観念が正されなければ、常に神に敵対することになり、永久に神と融和することができず、そしていつも神から離れていることになる。

 自分の古い観念を捨ててこそ、新しい認識を得ることが可能であるが、古い認識は古い観念であるとは限らない。「観念」とは、人が想像したことで、現実と反するもののことを言う。もし古い認識が古い時代にもう時代遅れとなり、それが新しい働きの中に入るのを阻んでいたなら、そのような認識も観念である。もし人がそのような認識に対して正しく対処することができ、神をいくつか違った側面から認識し、古いものと新しいものを合わせることができれば、古い認識でも人の助けとなり、人が新しい時代に入る基盤となることができる。神を認識するという学びにおいては、例えば、どのようにして神を認識するための道へ入るのか、神を認識するためにはどの真理を理解すべきなのか、またいかにして自分の観念と古い性質を神の新しい働きの計画すべてに従うようにさせるか等、多くの原則を習得する必要がある。神を知るという学びに入るための基盤としてこれらの原則を用いれば、あなたの認識はますます深くなる。もしあなたが三つの段階の働き、つまり神の経営(救い)の全計画に対してはっきりした認識を持ち、前の二つの段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きであると捉えることができれば、あなたはこれ以上ないほど強固な基盤を持つことになる。三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。神の三つの段階の働きは、異なる時期に異なる場所で行われており、またその内容もそれぞれ異なるが、それらは全て唯一の神によってなされたものである。すべてのビジョンの中でも、これが人の認識すべき最も偉大なビジョンであり、もし人がこれを完全に理解するなら、自分の立場を貫くことができる。現在、あらゆる教派そして分派が直面している最大の問題は、彼らが聖霊の働きを認識していないということであり、聖霊の働きと聖霊のものでない働きを区別できず、そのために彼らは、先の二つの段階の働きと同様に、この段階の働きが神ヤーウェによるものかどうかが解らないのである。神に従ってはいても、ほとんどの人がそれが正しい道なのかどうかを区別できない。人は、この道が神が自ら導いているものかどうか、神の受肉が事実であるのかどうかを気に病んでいるが、ほとんどの人は、このことに関し、どのように見分ければ良いのか一切手掛かりがないのである。神に従っている人たちは、取る道を決断できず、よって、発せられる言葉はこのような人たちの間では部分的な効果しか持っておらず、また完全な効果を発揮できないために、そのような人々のいのちに影響を及ぼしている。三つの段階の働きにおいて、それらが違う時期に、違う場所で、そして違う人々に対して神が為したことであると人が見きわめることができれば、たとえ働きが違っていても、それらは全て唯一の神によるものであることが人には解るであろう[a]。それらが全て唯一の神によって為されたものである以上、それは正しいものであり、間違いはないし、それが人の観念とは合致せずとも、唯一の神の業であることは否定できないのである。人がそれは唯一の神の働きであると確信をもって言えるならば、人の観念はほんの些細な事となり、言及する価値もなくなるであろう。人のビジョンが明確でない上に、人はヤーウェが神でありイエスが主であることしか知らず、現在の受肉した神について決めかねているために、多くの人はヤーウェとイエスの働きに専念することに留まり、今日の働きについての観念に悩まされ、ほとんどの人は常に疑いを抱き、今日の働きを真剣に受け止めていないのである。人は、見ることができなかった先の二つの段階の働きに関しては、何の観念も持っていない。それは、人が先の二つの段階の働きの実情を理解せず、またそれらを自ら目撃しなかったからである。見えないからこそ、人は好きなように想像するが、どんなに想像しても証拠となる事実はないし、またその誤りを正す者もいない。人は、本能のままに警戒心を捨てて想像力を逞しくさせているのだが、立証する事実がないので、証拠があるかどうかに関わらず、人の想像したことが「事実」となっている。従って、人は自分で想像した神を心の中で信じているわけで、実際の神を求めないのである。一人の人間が一種類の信仰を持つとすると、100人の人が居れば100通りの信仰があることになる。人は、神の働きを実際に見たことがないため、また耳で聞いたことがあるだけで、自分で目にしたことがないために、そのような信仰に取りつかれている。人は伝説や物語を聞いたことがあっても、神の働きという事実の認識についてはほとんど聞いたことがない。信者になってたった一年の人も、自らの観念をとおして神を信じているし、生涯信者である人も同様である。事実を見ることができない者は、神に対する観念がある信仰から抜け出すことはできない。人は自らの古い観念の束縛から解放され、新しい境地に入ったと信じている。神の真の顔を見ることができない者の認識は、観念や言い伝え以外の何物でもないことを人は知らないのだろうか。人はみな自分の観念が正確で間違いないのだと思い、自分の観念は神から来るものだと思っている。今日、人は神の働きを目の当たりにすると、長年にわたって蓄積した観念を放つのである。だが、過去の想像と考え方がこの段階の働きの障害になったため、人がそのような観念を手放し、またそのような考え方に反論するのが困難になっている。今日まで神に従ってきた多くの人たちの持つ、この段階的な働きに対する観念は以前にも増して危機的なものになっており、これらの人たちは、徐々に受肉した神に対する頑固な敵意を形成しているが、この憎しみは人の観念と想像から出ているのである。事実は人に想像する自由を与えず、さらに人によって簡単に反論されることはない一方、人の観念と想像は事実の存在を許さず、その上に人は事実の正確さと信憑性には考慮せず、ただひたすら自分の観念を自由に働かせ、自分自身の想像力をたくましくするために、人の観念と想像は、人の観念とは相いれない今日の働きの敵となったのである。これは、もっぱら人の観念の誤りと言えるもので、神の働きの誤りではない。人が何を想像しようが自由だが、神の働きの事実は人が侵すことができないものだから、神の働きのどの段階でも、あるいは働きのごく一部でも、それについて軽々しく異議を唱えるべきではない。あなたは自由に想像しても構わないし、ヤーウェとイエスの働きについて、すばらしい話をまとめても構わないが、ヤーウェとイエスの働きの各段階の事実について反論してはならない。これは原則であって、行政命令でもあるが、あなた方はこれらの問題の重大さを理解しなければならない。人はこの段階の働きは人の観念と合致しないが、先の二つの段階の働きはその限りではないと信じている。人はその想像の中で、先の二つの段階の働きは今日の働きと同じでないことを確信しているが、神の働きの原則は全て同じであり、神の働きは常に実践的であること、時代に関係なく、いつも神の働きの事実に逆らい反対する人が大量に現れることを考えたことがあるだろうか。今、この働きの段階に逆らい、反対する人たちは、過去の時代においても間違いなく反対していただろう。そのような人々は常に神の敵だからだ。神の働きの事実を理解している人たちは、三つの段階の働きを、唯一の神の働きとして捉え、自分の観念は捨てるのである。このような人々が神を知る人々であり、真に神に従う人々である。神の経営(救い)の一切が終わりに近づくとき、神は万物を種類に応じて分類する。人は創造主の手で造られたのだから、最後には神が人を神の支配のもとに戻さなければならないのである。これが三つの段階の働きの終結である。終わりの日の働きの段階と、イスラエルとユダヤにおける前の二つの段階は、全宇宙における神の経営(救いの)計画である。これは誰にも否定できないし、そしてこれが神の働きの事実である。人々はまだこの働きのほとんどを経験もしていなければ見てもいないが、事実は事実であり、人はだれもこれを否定できない。神を信じる全宇宙各地の人々はみなこの三つの段階の働きを受け入れるであろう。もしあなたが一つの特定の段階の働きだけを認識して、他の二段階の働きを理解せず過去の神の働きも理解しないならば、あなたは神の全経営(救いの)計画の真相を語ることはできないし、あなたの神の認識は偏ったものである。神への信仰においては、あなたは神を知らず、理解していないために、あなたには神を証しする資格がないのである。あなたの現時点でのこれらの事柄に関する認識が深かろうと浅かろうと、最後には、あなた方は認識を持ち完全に納得するようになるはずであり、あらゆる人が神のすべての働きを目にして、神の支配の下に服従するようになるのである。この働きの終わりには、全ての教派が一つにまとまり、全ての神の被造物が創造主の支配の下に戻り、唯一の真の神を礼拝して、全ての邪教は無に帰して、二度と現れることはない。

 なぜこのように連続して三つの段階の働きに言及するのか。時代の移り変わり、社会の発展、自然の変貌はみなこの三段階の働きが変化するにつれて変わるのである。人類は神の働きに合わせて変化するのであって、人類が単独で発展しているのではない。神の三つの段階の働きに触れるのは、全ての被造物と、各宗教の人々全てを、唯一の神の支配の下に集めるためである。あなたがどの宗教に属していようと、最終的にあなたは皆神の支配の下に従うのである。神自身だけがこの働きを実行できるのであって、それはどの宗教の代表にも不可能である。世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表あるいは指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表や指導者ではなく、人類全体が、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているということであり、またこれは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるが、その大きさに関係なく、それらの全てが創造主の支配の下に存在しているのであって、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の進化、そして自然科学の発達、これらはそれぞれ創造主の計画から切り離すことはできないし、この働きは特定の宗教の代表にできるものではない。宗教を代表する人というのは、特定の宗教組織の指導者というだけで、神、つまり天地と万物の創造主の代理を務めることはできない。宗教の代表は、その宗教全体の内において人々を率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表は単なる指導者であり、神(創造主)と対等の立場にはなれない。万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。神だけが万物の中で最も高い地位にいるのであり、すべての被造物の中の最高の支配者でも神の支配の下に帰らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、誰も万物をその種類に応じて分類することはできない。ヤーウェ自身が人類を造り、人々をそれぞれその種類に分類したのだから、終わりの時にもやはり神は自身でその働きを行い、万物をその種類に従い分類するが、これは全て神以外にはできないことである。初めのときから今まで、三つの段階の働きは全て神自身が行ったのであり、それは唯一の神がしたことである。三つの段階の働きの事実は、人類全体に対する神の統率力の事実であり、誰も否定できない事実である。三つの段階の働きの終わりには、万物が種類に応じて分別されて神の支配の下に帰り、そしてそこには全宇宙を通してただ唯一の神だけが存在し、その他の宗教は存在しなくなる。世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ず終わらせることもできる。だから、もし誰かが一つの時代を終わらせることができず、単に人がその心を養うのを手助けするだけなら、その人は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にこのような偉大な働きは可能でなく、このような偉大な働きは唯一の存在によってのみ可能である。そしてこのような働きができない者はみなきっと神以外の敵である。もしかれらが邪教信者であるなら、神とは相いれないし、そして神と相いれないなら、彼らは神に敵対する者なのである。すべての働きはこの唯一の真の神が為すものであり、全宇宙がこの真の神の支配下にあるのだ。神の働く場所がイスラエルでも中国でも、またその働きが聖霊によるものでも肉体によるものでも、全ては神自らによって行われるもので、他の誰にもできないことである。神が全人類の神だからこそ、神はどんな条件にも制限されず自由に働き、これはすべてのビジョンの中で最大のものである。もしあなた方が、神の被造物の一人として被造物の本分を尽くし、神の心を理解したいのであれば、神の働きを理解し、神の被造物に対する心を理解しなければならず、また神の経営(救いの)計画、そして神の為す仕事の意義の全てを理解しなければならない。これらの事が理解できない者は、神の被造物としての資格がない。もしあなた方が、神の被造物として、自分がどこから来たのかが分かっておらず、人類の歴史や神が行った働きの全てを知らず、さらには人類がいかにしてここまで発展してきたか、また全人類を支配するのは誰なのかを理解していないのであれば、あなた方には、その本分を尽くすことはできない。神は今日まで人類を導いてきた。そして神が人類をこの地上に造ってからこれまで、神は一度も人の傍を離れたことがない。聖霊は休むことなく働き続け、人類を導き続けて、一度も人から離れたことがない。それなのに、人は神の存在に気づかず、ましてや神を知らないが、神の全ての被造物にとって、これほど屈辱的なことがあろうか。神は自ら人を導いているのに、人は神の働きを理解していない。あなたは神の被造物であるのにも関わらず、自分たちの歴史も知らず、これまで自分の旅路の中で誰が自分を導いてくれたのかも分からずにいて、神による働きに気付かないから、神を認識できないのだ。あなたがもし今だに知らないとすれば、神を証しする資格はずっとないであろう。今日、創造主は、もう一度あらゆる人々を自ら導き、そしてあらゆる人々に神の英知、全能性、救い、そしてすばらしさを見せている。それでもあなたはまだ気付かず、あるいは理解できずにいるから、それであなたは救いを得られない者になっているのではないか。サタンに属する者たちは神の言葉を理解できず、神に属する者たちには神の声を聴くことができる。わたしの話す言葉に気付いて理解する全ての人々は、救われる者たちであり、また神を証しする者たちなのだ。わたしが言った言葉を理解しない全ての人々は神を証しすることができず、排除される者たちなのだ。神の心を理解できず、また神の働きに気付かない人々は、神の認識を達成することができず、そのような人々は神を証しすることはない。もしあなた方が神を証ししたいと願うなら、あなた方は神を知らなければならないし、その神の認識は、神の働きを通して達成される。結局のところ、神を知りたいと望むならば、神の働きを知らなければならない。つまり、神の働きを知ることが最重要なのである。三つの段階の働きが終わるとき、神を証しする者たちの一集団、つまり神を知る者たちの一団が作られる。この人たちはみな神に対する認識があり、真理を実行することができる人たちである。彼らには人間性と理知があり、皆三つの段階の救いの仕事を認識している。これが最後になし遂げられる働きであり、この人たちは6000年にわたる経営(救い)の働きの結晶であり、最終的にサタンを打ち負かした最も有力な証しである。神を証しすることができる者は、神の約束と祝福を受けることができる上に、最後の時に残り、神の権威を持ち、神を証しする一団になるだろう。もしかすると、あなた方の全ての人がこの一団の一員になれるかもしれず、あるいは半分か数人だけがそうなれるかもしれないが、それはあなた方の意思と追求にかかっている。

 脚注

 a.原文では「~ことが人には解るであろう」は省略されている。

2018年9月28日金曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「神の働きは人間が想像するほど簡単か」


全能神は言われた。「神の心と働きは、天地や万物創造のように簡単なものでないことを理解しなくてはならない。なぜなら今日その働きとは、堕落した人たちや極端に麻痺してしまった人たちを変え、創造されながらもサタンに影響を受けてしまった人たちを清めることであり、アダムとエバを創造することではなく、ましてや光を創ったり、あらゆる植物や動物を創造したりすることではない。神の働きは今やサタンによって堕落したすべてのものを清めて取り戻し、自分のものとし、自分の栄光とするためのものである。そのような働きは、人間が想像する天地や万物の創造のように簡単なものではなく、人間が想像するような、サタンを呪いながら底なしの淵へ送るようなものでもない。むしろそれは人間を変えるものであり、否定的なものを肯定的なものに変え、神に属さないものを神の所有物にすることだ。」 『言葉は肉において現れる』より

2018年9月10日月曜日

【東方閃電】全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「正確には、サタンが人の肉体を堕落させ、神が救おうとしているのは正に人間なので、神は肉となってサタンと戦い、自ら人を牧養しなければならない。これは神の働きにのみ有益である。」


2018年8月18日土曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「真の信仰は神の働きを知ることのみから来る」


I 今神の業とは語ること  もはや印や奇跡・恵みの時代ではない 神は普通であり実在する 終わりの日 神は超自然的イエスではなく 肉となった現実的な神で 人と変わらない 人が神を信じるのは多くの業 言葉そして行いゆえである 神の発する言葉が 人を征服し完全にする 印や奇跡は信仰の核心ではない 神の行いで 人は神を知る II 各時代で違う性質 その業の違う部分を神は啓示する しかしそれらの全ては今なお 神へのより深い理解と地に足のついた 本当の信仰を与える 真の信仰を 人が神を信じるのは多くの業 言葉そして行いゆえである 神の発する言葉が 人を征服し完全にする 印や奇跡は信仰の核心ではない 神の行いで 人は神を知る III 神の実際の行いと 神がどう働き・語り・知恵を用い 人々を完全にするかを知ることだけで 神の現実を把握し性質を理解できる 神がどう人に働きかけるか把握せよ 神が何を好み嫌うかを理解せよ そうすれば善と悪を見分けられ 神を知ることであなたの命は進歩する 人が神を信じるのは多くの業 言葉そして行いゆえである 神の発する言葉が 人を征服し完全にする 印や奇跡は信仰の核心ではない 神の行いで 人は神を知る 『言葉は肉において現れる』より

2018年7月4日水曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉「今日の神の働きを知るということ」


 今日神の働きを知るということは、大方は、終わりの日の受肉した神を知ること、神の主要な務めが何であるか、何をするために地上に来たかを知ることである。わたしは以前、神は(終わりの日に)地上に来、去る前に模範を示すと述べた。神はどのように模範を示すのか。言葉を発し、地のいたるところで働き、語ることによって模範を示す。これが終わりの日の神の働きである。神が話すのは、地がことばの世界になるようにし、すべての人が言葉を受け、それによって導かれ、そうして人間の霊が目覚めてビジョンが明らかになるようにするためである。終わりの日に受肉した神が地上に来るのは、主に言葉を述べるためである。イエスが来た時、天の国の福音を広め、十字架の贖いの業を成就した。イエスは律法の時代を終わらせ、すべての古いものを終わりにした。イエスの現れが律法の時代を終わらせ、恵みの時代を招き入れたのだ。終わりの日に受肉した神が来て、恵みの時代は終わった。神は、主として言葉を述べるために来た。言葉を用いて人間を完全にし、光に照らし、啓発し、人間の心にある漠然の神のいるところを除くために来た。これはイエスが来た段階の働きではない。イエスが来た時には、多くの奇跡を示した。イエスは癒やし、悪魔を追い払い、十字架で贖いの業を行なった。その結果、人間は、これが神のあるべき姿だと考えた。イエスが来た時、主は漠然の神の姿を人間の心から除くことはしなかった。イエスが来た時、十字架につけられた。癒やし、悪魔を追い払い、天国の福音を広めた。ある意味で、神の受肉は終わりの日に人間の心から漠然の神の姿を除くもので、そうしてもはや人間の心に漠然の神の姿がないようにしたのである。その言葉と働き、地上のあらゆる場所での動き、そして人々の間でするまことに真実で普通の働きは、人々に神が実在することを知らせ、人間の心にある漠然の神の居場所を取り除く。つまり、神は肉の体で語った言葉で人間を完全にし、すべてを成就するのだ。これが神が終わりの日に成就することだ。

 こういうことを知っておきなさい:

 1. 神の働きは超自然のものではない。そういう見方をしてはいけない。

 2. 今回受肉した神が来て行なう主な働きを理解しなければいけない。

 神は癒やしに来たのではない。また、悪魔を追い払うためでも、奇跡を行うためでもない。神は悔い改めの福音を広めるため、人間を贖うために来たのでもない。それは、イエスがすでにこの働きを終えているので、神は同じ働きを繰り返さないためである。今日、神は恵みの時代を終わらせ、恵みの時代の実践をすべて捨て去るために来た。神が来たのは、主として自分が現実に存在することを示すためである。イエスが来たときは、そう多くを語らなかった。主に奇跡を示し、しるしや不思議を行なった。そして、癒やし、悪魔を追い払い、あるいは、人々に信じさせるために預言を語り、自分がほんとうに神であること、公平な神であることを知らせた。最後に、磔刑の業を成就した。今日の神は、しるしも不思議も行なわず、癒やすことも悪魔を追い払うこともしない。イエスが来た時、その働きは神の一部を示すものであったが、今回の神は、この段階でするべき働きをするために来たのだ。神は同じ働きを繰り返さない。神は常に新たな神であり、絶対に古いものではない。あなたが今日見るものはすべて、実際の神の言葉と働きである。

 世の終わりに受肉した神は、言葉を発することを主目的として来た。人間のいのちに必要なことをすべて説明し、どの人が入るのかを示し、神の働きを見せ、神の知恵・全能・驚くべきさまを見せるために来た。神はさまざまな方法で語るが、人間はそこに神の至高、神の偉大さ、さらに、神の謙虚と神秘なさまを見る。人間は神が至上の存在であることを見るが、神は謙虚で隠されており、最も小さい者になれる。神の言葉のあるものは霊の観点から直接語られ、あるものは人間の観点から直接語られ、またあるものは第三者の観点から語られる。ここから神の働きが変化に富んでいることがわかるが、神は言葉を通して人間がそれを知るようにする。世の終わりの神の働きは正常で真実である。そして、世の終わりに一群の人々は最大の試練にさらされることになる。神の正常と神の現実性とのため、すべての人はそうした試しを受ける。人間が試されることになったのは、神の正常と神の現実性のためである。イエスの時代、試練や概念はなかった。イエスの働きのほとんどは人間の観念に合致していたため、人々はイエスに従い、イエスの観念も持たなかった。今日の試練は人間がこれまでに臨んできたもののうちでも最大のもので、その人たちが大いなる苦難を経てきたと言うときには、まさに苦難を指しているのである。

 今日、神は信仰・愛・忍耐、そして従順をこの人々の中に創り出すために話す。世の終わりに受肉した神の語る言葉は、人間の性質、人間の行動、人間が今日必要な成長に沿った事がらである。神の話す方法[a]は真実で正常のものである。神は明日のことは話さない。また、昨日を振り返ることもない。今日成長し、実践し、理解するべき点についてだけ話す。この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪魔を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約はメシアの到来を予言した。それでイエスが来たのだ。だから、別のメシアがまた来るというのは、間違っている。イエスはすでに一度来た。だから、イエスがこの時代に再び来るというのは、間違いだ。すべての時代は一つの名をもち、その名は各時代を表している。人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、今の神はまったくの別物である。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。なぜ今日、神の働きはイエスの働きと異なっているのか。なぜ今日の神はしるしや奇跡を示さず、悪霊を追い払わず、癒やしもしないのか。もしイエスの働きが律法の時代に行われた働きと同じであれば、恵みの時代の神を現すことができただろうか。イエスは磔刑の働きを完了できたろうか。もし律法の時代のようにイエスが神殿に入り、安息日を守ったなら、誰からも迫害を受けず、みなに受け入れられたろう。それならば、磔刑に処せられただろうか。贖いの働きを完了できたろうか。終わりの日に受肉した神がイエスのようにしるしや不思議を見せたなら、何の意味があろう。終わりの日に神が働きの別の部分、経営(救いの)計画の別の部分の働きをしてはじめて、人間は神についてより深い知識を得るのであり、そうしてはじめて、神の経営(救いの)計画は完了する。

 世の終わりに神は言葉を発することを主な目的として来る。神は聖霊の観点から、人間の観点から、第三者の観点から話す。神は異なった話し方をする。ある期間は一つの話し方をし、人間の見方を変え、漠然の神の姿を人間の心から除くために、様々な話し方をする。これが神のする主要な働きである。人間は神が癒やし、悪霊を追い払い、奇跡を行い、人間に物質的な幸いをもたらしに来たと考えているため、神はこの段階の働きをする──刑罰と裁きの働きを──そうした観念を人間の思考から除くために。人間が神の現実性、神の正常を知るように。そして、イエスの姿が人間の心から消え、新たな姿に置き換えられるように。人間の心の中にある神の姿が古くなるとすぐに、それは偶像になる。イエスが来てその段階での働きをしたとき、神の全体を示しはしなかった。イエスはいくつかのしるしや不思議を示し、言葉を語り、最後に磔刑に処せられ、神の一部分を示した。イエスは神の全体像を示したわけではなく、一部の働きをして神を示したのだ。これは、神があまりに偉大で、驚くべきであり、計り知れないからであり、神がそれぞれの時代にその働きの一部だけをするからだ。神がこの時代に実行した働きは、主に、人間のいのちのための言葉を与えること、人間の性質の実体と、人間の堕落した性質を明らかにし、人間の知識と文化とともに、宗教的概念、封建的な考え方、時代遅れの考えを除くことであった。これはすべて神の言葉によって露わにし、清めなければならなかった。世の終わりに、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、言葉の中に神の知恵と素晴らしさを見、神の性質を知り、言葉によって人間が神の働きを知るようにする。律法の時代、ヤーウェは言葉によりモーセを導いてエジプトを脱出させた。そして、イスラエル人に言葉を語った。当時、神の業の一部はわかりやすいものであったが、人間の能力が限られていて、知識を完全にすることができなかったため、神は話し、働くことを続けた。恵みの時代、人間は再び神の働きの一部分を見た。イエスはしるしや不思議を見せ、癒やし、悪魔を追い払い、十字架につけられ、三日後によみがえり、人間の前に肉の身で現れることができた。神について、人間はこれ以上のことを知らなかった。人間は、神の示されたことだけを知っているが、神がそれ以上のものを人間に見せなければ、それで、神について人間の知識はそこまでに限られる。だから、神は働きを続け、自分に関する人間の知識が深まるようにし、人間が徐々に神の実体を知るようにする。神は言葉を用いて人間を完全にする。あなたの堕落した性質は言葉によって明らかになり、その宗教的概念は神の実在性によって置き換えられる。神は終わりの日に「言葉は肉となり、言葉は肉の間に現れ、そして言葉は肉となって現れる」という言葉を成就するために受肉するが、あなた方がこのことについて完全な知識をもっていなければ、まだ堅く立つことができない。終わりの日には、神は主に言葉が人となるという働きをするつもりだが、これは、神の経営(救いの)計画の一部である。だから、あなた方の知識は明確でなければならない。神がどのように働こうと、人間が自分を限りあるものとすることを許さない。もし神が終わりの日にこの働きをしなければ、人間の神についての知識はそれ以上進まない。神が十字架につけられることができ、ソドムを滅ぼすことができ、イエスが死からよみがえってペテロの前に現れることができることだけを知っているだろう…。しかし、あなたは、神の言葉はすべてを成し遂げることができ、人間を征服できるとは、絶対に言わないだろう。神の言葉を経験してはじめて、そうした知識について話せる。また、神の働きを経験すればするほど、神についての知識が充実していく。そうしてはじめて、自分の固定観念で神を限界のあるものとしなくなる。人間は神の働きを経験して神を知るようになる。そして、それ以外に神を知る正しい方法はない。今日、何もせずに、しるしや不思議、破滅の時を待っている人が大勢いる。あなたは神を信じているのか、それとも、破滅を信じているのか。破滅が起こるのを待っているのなら、手遅れになるだろう。もし神が破滅を起こさなければ、神ではないということになるのだろうか。あなたは、しるしや不思議を信じるのか、それとも神自身を信じているのか。イエスは人々にあざけられた時、しるしや不思議を示さなかった。ではイエスは神ではなかったのか。あなたは、しるしや不思議を信じているのか、それとも、神の実体を信じているのか。人間の信仰についての考え方は誤っている。ヤーウェは律法の時代に多くを語ったが、今日でも、そのいくつかは、まだ実現していない。ヤーウェは神ではないと言えるだろうか。

 現在、あなた方はみな、この終わりの日にあって、「ことばは人となり」、神がそれを成し遂げられたというのが第一の事実であるということが明確になっていなければいけない。神はその地上での実際の働きにおいて人間が神を知り、関わり、実際の業を見るようにした。神はしるしや不思議を示せるが、そうすることのできない場合がある。それは時代によるのだ、ということが人間にはっきりわかるようにする。このことから、神はしるしや不思議を示すことができないのではなく、そのなすべきことによって、時代によって、働き方を変えるのだということがわかる。現在の働きの段階では、しるしや不思議は示さない。イエスの時代に神がそうしたしるしや不思議を示したのは、その時代の働きは異なっていたからだ。神はその働きを現在はしない。そこで、しるしや不思議を示すことができないと思ったり、しるしや不思議を示さないのは、神ではないからだと考えたりする人々がいる。それは誤りではないのか。神はしるしや不思議を示せるのだが、異なった時代に働いているから、そうした働きをしないのだ。今は別の時代であって、今は神の働きは別の段階にあるから、神が明らかにする業もまた異なっている。人間の神への信仰は、しるしや不思議へのものではないし、奇跡についてのものでもない。新たな時代の現実の働きを信じるものである。人間は神の働き方によって神を知り、この知識が神への信仰を生み出した。つまり、神の働きと業についての信仰である。今の段階の働きで、神は話すことを主にする。しるしや不思議を待っていてはならない。それは見られない。あなたは恵みの時代に生まれたのではないのだから。もし恵みの時代に生まれたのだったら、しるしや不思議を見られただろうが、終わりの日に生まれたのだから、あなたが見られるのは神の現実性と正常だけだ。終わりの日に超自然のイエスを見ることを期待してはいけない。あなたが見られるのは、普通の人間と変わるところのない、受肉した実践の神だけだ。それぞれの時代、神は異なった業を明らかに示す。それぞれの時代、神はその業の一部だけを明らかにする。各時代の働きは神の性質の一部、神の業の一部だけを示す。神が明確に示す業はその働く時代によって異なる。しかし、どれもみな、人間が神についてより深い知識、より現実的で真実に近い信仰を得られるようにする。人間が神を信じるのは、神の業すべてのためであり、神がまことに驚くべきで、偉大だからであり、神が全能で測り知れないからだ。もし神がしるしや不思議を示し、癒やし、悪魔を追い払えるから信じるというのなら、その見方は誤っている。「邪悪な霊もまたそういうことができるのではありませんか」という人々がいるだろう。それは神の姿をサタンの姿と取り違えているのではないか。今日、人間の神への信仰は、神の多くの業、神の多くの働き方と話し方による。神はその言葉によって人間を征服し、完全にする。人間が神を信じるのは、神の数多くの業によるのであり、しるしや不思議を見せられるからではない。そして、人間は業を見て神を理解できるだけだ。神の実際の業、神がどう働くか、神がその知恵を用いる方法、その話し方、どう人間を完全にするか──こういう面を知ることによってだけ──あなたは、神の実在性と性質を理解できる。神は何が好きで、何が嫌いか、神はどのように人間に働きかけるか──神の好き嫌いを理解して、あなたは物事の是非を区別できるようになり、また、神についての知識により、いのちの成長がある。つまり、神の働きについての知識を得なければいけない、神への信仰についての考え方を正さなければいけないのだ。

 脚注:

 a. 原文では「それ」とある。