ラベル 聖霊 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 聖霊 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年8月25日火曜日

東方閃電 全能神教会 日々の神の御言葉「神の働きと人間の実践」抜粋290


日々の神の御言葉「神の働きと人間の実践」抜粋290

人間は、神を信じているのであれば、神の足取りに緊密かつ段階的に追随する必要がある。人間は「子羊が行く場所であれば、どこへでもついて行く」必要がある。そうした人々のみが真の道を求める者であり、聖霊の業を知る者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の業により既に排除された者である。各期間において、神は新たな業を開始し、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」ないし「イエスはキリストである」といった、ある1つの時代のみに該当する真理のみに従うのであれば、人間は聖霊の業と足並みを揃えることは決して出来ず、聖霊の業を得ることは永遠に出来ないであろう。神がどのように業を行うかを問わず、人間は全く疑うこと無く、緊密に付き従う。このような場合、どうして人間が聖霊により排除されることがあろうか。神がどのような業を行うかを問わず、それが聖霊の業であることを人間が確信し、人間が何も疑わずに聖霊の業に協力し、神の要求を満たそうとする限りにおいて、どうして人間に罰が与えられることがあろうか。神の業は嘗て一度も停止したことが無く、神の足取りは立ち止まったことが無い。また神の経営の業の完了前、神は常に多忙にしており、休んだことが無い。しかし、人間はそれと異なる。人間は、わずかに聖霊の業を得て、それが決して変わらないかのように扱う。人間は、わずかに知識を得て、立ち上がってそれよりも新しい神の業の足取りに追随しない。人間は、わずかに神の業を見て、神を特定の木の人形として即座に決めつけ、神は常に人間の見る形であり、従前も今後も常にそのような形であると考える。人間は、表面的な知識だけを得て、有頂天になって自分自身を忘れ、全く存在しない神の性質や在り方をみだりに主張する。そして聖霊の業の1段階に固着して、神の新たな業を宣言するのがどのような人間であれ、人間はそれを受け容れない。そうした者は聖霊の新たな業を受け容れることが出来ない者である。そうした者は保守的すぎて、新しい物事を受け容れられない。そうした者は、神を信じているが、同時に神を拒否している者である。人間は、イスラエルの民が「ヤーウェのみを信じてイエスを信じなかった」のは誤っていると考えるが、殆どの者が「ヤーウェのみを信じてイエスを拒絶する」役そして「メシアの再来を待ち望み、しかしイエスというメシアに反対する」役を演じている。それならば、人間が聖霊の業のうちひとつの段階を受け容れた後も、依然としてサタンの領域で生活し、依然として神の祝福を受けていないことに、何の不思議も無い。これは、人間の反逆性の結果ではなかろうか。現在の新たな業から遅れている世界各地のキリスト教徒は、自分達が幸いな者である、神は自分の望みを全て満たすであろうという考えに固執している。しかし、そうした者は神が自分達を第三の天へと引き上げるのが何故かを明確に述べることが出来ず、イエスがどのようにして白い雲に乗って自分達を採り集めるかについても確信しておらず、ましてや自分達が想像している日に、本当にイエスが白い雲の乗って来られるかどうかを絶対的な確信を持って述べることなど出来ない。そうした者は皆不安であり、迷っている。そうした者は、各教派で讃美する少数の多様な人間である自分達を神が全員引き上げられるかどうかさえ知らない。神が現在行っている業や、現在人間が存在する時代、神の心といった物事について、そうした者は全く把握しておらず、自分の指で日数を数える事しか出来ない。最後まで子羊の足取りに追随する者のみが、最後の祝福を得ることが出来るが、そうした最後まで付き従えないにもかかわらず、自分が全てを得たと考えている巧妙な者は神の姿の証しに立つことが出来ない。そうした人々は全員、自分が地上で最も賢いと信じており、何ら理由なく神の業の継続的な展開を中断させ、そうした「神に対する至高の忠義があり、神に付き従い、神の言葉を遵守する」自分を、神は天に引き上げられると、完全な確信を持っているようである。そうした者は、神の言葉に対して「至高の忠義」があるにもかかわらず、言動が極めて忌まわしい。なぜなら、そうした者は聖霊の業に反対し、謀略や邪悪をはたらくからである。最後まで付き従わない者、聖霊の業から遅れる者、旧来の業に固執する者は、神への忠誠を満たせなかったどころか神に反抗する者となり、新たな時代に拒否され、罰を受ける者となっている。それ以上に哀れなことがあるだろうか。多くの者は、旧来の律法を拒否して新たな業を受け容れた者は、良心が無いとさえ信じている。良心に関して話をするだけで聖霊の業を知らない者は、究極的には自らの良心のために見通しを中断される。神の業は教義に準拠しておらず、またそれは神自身の業であるが、神はそれに固執しない。否定されるべき物事が否定され、排除されるべき物事が排除される。しかし、人間は神の経営の業のうち、ほんの一部に固執し、よって自ら神と対立している。それは人間の不合理ではなかろうか。それは人間の無知ではなかろうか。人間が神の祝福を得られないことを畏れて臆病になり、用心し過ぎればし過ぎるほど、より大きな祝福と、最後の祝福を得ることが一層不可能となる。盲目的に律法を遵守している人々は皆、律法に対して最高の忠義を示し、そうした者が律法に対して最高の忠義を示せば示すほど、そうした者は一層神に反抗する反逆者である。現在は律法の時代ではなく神の国の時代であり、現在の業を従来の業と比較することはできず、過去の業を現在の業と比較することは出来ない。神の業は既に変化しているので、人間の実践もまた変化した。現在の実践は、律法を守ることでも、十字架を負うことでも無い。したがって、律法や十字架に対する人間の忠義は、神の承認を得ないであろう。

『言葉は肉において現れる』より引用

2020年8月22日土曜日

東方閃電 全能神教会 日々の神の御言葉「神の働きと人間の実践」抜粋156


日々の神の御言葉「神の働きと人間の実践」抜粋156
ビジョンが関連する物事は、おもに神自身の業を指し、実践が関連する物事は人間がなすべきであり、神とは無関係である。神の業は神自身により完遂され、人間による実践は、人間自身で実現される。神自身により行うべき物事を人間が行う必要は無く、人間が実践すべき物事に神は無関係である。神の業は神自身の務めであり、人間とは無関係である。この業を人間が行う必要は無く、また人間は神により行うべき業を行うことができない。人間が実践するよう要求されている物事は、それが自分のいのちを犠牲にすることであれ、サタンの所へ行き証しに立つことであれ、全て人間が実現する必要がある。神自身は、神がなすべき全ての業を完遂し、人間が行うべき物事は人間に対して示され、それ以外の業は、人間に委ねられる。神は、追加の業を行わない。神は、神の務めに含まれる業のみを行い、人間に道を示すのみであり、道を開く業のみを行い、道を整える業は行わない。人間は、この点を理解すべきである。真理を実践するということは、神の言葉を実践することを意味し、それは全て人間の本分であり、人間がなすべき事であり、神とは無関係である。人間と同様に神も真理の中で苦痛と精錬を受けるよう人間が要求したならば、人間は不従順である。神の業は、神の務めを行うことであり、人間の本分は反抗することなく神の導きの全てに従うことである。人間は、神が業を行う方法や生きる方法を問わず、実現するよう義務づけられた物事を実現する必要がある。人間に対して要求することが出来るのは、神自身のみである。つまり、人間に対する要求を行うのに適しているのは、神自身のみである。人間は一切自分で選択してはならず、完全に服従して実践する事以外に何もすべきではない。これが人間が備えるべき理知である。神自身が行うべき業が完了した後、人間はそれを段階的に経験する必要がある。最終的に、神の経営全てが完了した時、人間は神により要求された物事を、まだ完了していない場合、人間は罰せられるべきである。人間が神の要求に満たない場合、それは人間の不服従に起因する。それは神が業を十分徹底されていないことを意味するものではない。神の言葉を実践出来ない者、神の要求を満たせない者、自分の忠誠を捧げ、自分の本分を尽くせない者は、全員罰せられるであろう。現在、あなたがたが実現するよう要求されている事は、追加の要求では無く、人間の本分であり、人間全員が行うべき物事である。あなたがたが自分の本分を尽くすこと、それを十分に行うことさえも出来ないのであれば、自ら問題を招いているのではなかろうか。あなたがたは死を招いているのではなかろうか。あなたは、どうして依然として将来や展望を期待することが出来ようか。神の業は人間のためのものであり、人間の協力は、神の経営のためのものである。神が実行されるべき業を全て行われた後、人間は自分の実践を物惜しみせずに神と協力するよう要求されている。神の業において、人間は努力を惜しまず、忠義を全て捧げ、様々な観念に溺れたり、受動的となって無為にしていたり、死を待っていてはならない。神が自身を人間のために犠牲に出来るのであれば、どうして人間が自分の忠義を神に捧げられないことがあろうか。神が人間に対して心をひとつにしているのであれば、どうして人間が少し協力できないことがあろうか。神が人間のために業を行うのであれば、どうして人間が神の経営のために、自分の本分の一部を実行できないことがあろうか。神の業は現在まで長期にわたり続いているが、あなたがたは理解しているだけで行動せず、聞くだけで動こうとしない。そうした者は陰府へ送られるのではなかろうか。神は既に自身の全てを人間のために捧げられているが、それならば、なぜ人間は現在、熱心に自分の本分を尽くせないのだろうか。神にとって、業は最優先事項であり、神による経営の業は最重要事項である。人間にとって、神の言葉を実践し、神の要求を満たすことは、最優先事項である。あなたがたは、全員それを理解する必要がある。あなたがたに対して述べられた言葉は、あなたがたの本質の核心に到達し、神の業は嘗て無い領域に突入している。多くの者が未だにこの道が真理か虚偽かを理解していない。そうした者は未だに待って見ているだけで、自分の本分を尽くしていない。そうした者は、神の言葉と業を逐一検証し、神の食べ物や着物に重点を置き、そうした者の観念はさらに深刻化している。そうした者は無用な物事について騒ぎ立てているのではなかろうか。そうした者が、どうして神を求める者であり得ようか。そうした者が、どうして故意に神に対して服従する者であり得ようか。そうした者は自分の忠義と本分を心の奥へと押しやり、その代わりに神の所在地に重点を置く。そうした人々は、ならず者である。人間が自分の理解すべき物事を理解し、実践すべき物事を全て実践しているならば、神は間違い無く人間に恵みを与えられるであろう。なぜなら、神が人間に要求する物事は、人間の本分であり、人間がなすべき物事だからである。人間が自分の理解すべき物事を理解することも、実践すべき物事を実践することも出来ないならば、人間に懲罰が与えられるであろう。たとえ神に対して明らかに反抗的なことをしなくても、神に協力しない者は神に敵対しており、新たな業を受け容れない者はそれに反対する者である。神に要求された通り、真理を実践しない者は、たとえそうした者が聖霊の業に「特に注意」していたとしても、全員神の言葉に対して故意に反抗し、服従しない者である。神の言葉に従わず、神に服従しない者は反抗的な者であり、神に反逆する者である。自分の本分を尽くさない者は、神に協力しない者であり、神に協力しない者は聖霊の業を受け容れない者である。 『言葉は肉において現れる』より引用

2020年7月10日金曜日

東方閃電 全能神教会 聖書に関する映画「戸をたたく」抜粋シーン(2)主をお迎えするうえの最も犯しやすい間違いとは何でしょう


聖書に関する映画「戸をたたく」抜粋シーン(2)主をお迎えするうえの最も犯しやすい間違いとは何でしょう
宗教界では多くの人が、「神様の言葉と働きは全て聖書に書かれており、聖書の外に神様の言葉も働きも存在しない」という牧師や長老の言葉を信じています。それは聖書に書いてあるのでしょうか?主イエスがそうおっしゃったのでしょうか?ヨハネの黙示録には沢山の予言があります。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」主もはっきり言われていますが、終わりの日に戻った時には、言葉を発すると。聖書から離れずに聖霊が教会に向けて語っている事に従っていれば、主をお迎えできるのでは?

2020年5月4日月曜日

東方閃電 神的国 聖霊の御言葉「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」



聖霊の御言葉「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」 全能神は言われます「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日にキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない。なぜなら、彼らが持っているのは、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も滞留したままの濁った水でしかないからだ。」

2019年5月14日火曜日

受肉の奥義(2)

 

 イエスはユダヤで働いたとき、公然と働いたが、今、わたしはあなたがたのあいだで秘かに働き語る。不信者たちはこれに全く気付いていない。あなたがたのあいだでのわたしの働きは部外者には閉ざされている。これらの言葉、刑罰や裁きはあなたがただけに知らされており、他は誰も知らない。この働きはすべてあなたがたのあいだで実行され、あなたがたにしか明かされていない。不信者の誰もこれを知らない。まだ時が来ていないからである。ここにいるこの人たちは刑罰に耐えた後、完全にされつつあるが、部外者はこのことを何も知らない。この働きはあまりにも隠されている。彼らには受肉した神は隠されているが、この流れにある人たちには、神は明らかにされたと言うことができる。神においてはすべてが公然とし、すべてが明らかで、すべてが解放されているが、これは神を信じている人たちにとってだけそうなのであり、その他の者、不信者には何も知らされていない。今ここで行なわれている働きは彼らが知ることがないよう厳しく隔離されている。もし気付いたならば、彼らはそれを非難と迫害だけをするのみであろう。彼らは信じないであろう。最も進歩の遅れた場所である赤い大きな竜の国で働くのは簡単なことではない。もしこの働きが知られたら、続けるのは不可能だろう。この段階の働きはこの場所で進めることはどうしてもできない。もしこの働きが公然と行なわれたなら、彼らがどうして許すことができるだろうか。それはこの働きをもっと大きな危険にさらすことにならないだろうか。もしこの働きが隠されず、イエスが見事に病人を癒し悪霊を追い出したときのように行なわれたなら、とうの昔に悪魔に「捕まえられ」ていたのではないだろうか。悪魔は神の存在に我慢することができるだろうか。もし今わたしが人に説教をし、教えるために会堂に入って行こうとしたなら、とっくに粉々に砕かれていたのではないだろうか。それではどうやってわたしの働きを続けることができるのだろうか。しるしや不思議が公然と行われない理由は、隠すためである。だから、わたしの働きは不信者によって見られることも、知られることも、発見されることもない。もしこの段階の働きが恵みの時代のイエスの働きのように行なわれたなら、それは今のように安定したものではなかったであろう。だから、働きがこのように隠されているのは、あなたがたにとっても、働き全体にとっても有益である。地上での神の働きが終わると、すなわち、秘密にされているこの働きが終わると、この段階の働きは広く公にされる。すべての人たちは中国に勝利者のグループがいることを知るだろう。肉となった神が中国にいて、神の働きが終わったことを知るだろう。その時初めて、人は理解し始めるのである。なぜ中国はまだ衰退や崩壊を見せていないのか。神が中国でその働きを自ら実行し、あるグループの人々を完全にして勝利者としたということが分かるのである。

 肉となった神は、その働きを自ら遂行しつつ、従ってくる人たちだけに自身を現すのであり、すべての創造物に現すのではない。神は人に彼の姿を見せるためではなく、ある働きの段階を完成させるためにだけ肉となった。しかし、神の働きは神自身が行なわねばならず、よって神が肉体をもってそうすることが必要なのである。この働きが終わると、神は人間の世界から去る。神はこれから来る働きの邪魔にならないように、人間のあいだでは長い間留まっていることはできない。神が大勢の人たちに現すのは、神の義なる性質と神のすべての業だけで、神が二度肉となったときの姿ではない。というのは神の姿は神の性質を通してのみ示すことができ、神の肉となった姿に取り替えられることはできないからである。神の肉体の姿は限られた数の人たちにだけ、神が肉の中で働くときに従って行く人たちだけに示される。これこそ今、働きが秘かに行われている理由である。それはイエスが働きを行なっていたときにユダヤ人にだけ自分自身を示し、決して公然と他の国々には示さなかったのと同じである。したがって、ひとたびイエスが働きを完成すると、人々からすばやく離れ、留まらなかった。それ以降、人間に自らを現したのはイエス、その人としての姿ではなく、働きを直接遂行した聖霊であった。肉となった神の働きが完全に終わると、彼は人間の世界を離れ、肉となったときと同じ働きは二度としない。その後、働きはすべて聖霊によって直接なされる。この期間中、人は彼の肉の姿を見ることはほとんどできない。彼は自身を人に全く見せず、永遠に隠れたままである。肉となった神の働きのための時間は限られており、それは特定の時代、時、国、そして特定の人々のあいだで行なわれる。そのような働きは神が肉となった期間中の働きだけを表しており、その時代に特定されたものであり、ある特定の時代の神の霊の働きを表しており、神の働きの全体を代表しているわけではない。よって、肉となった神の姿はすべての人々には見せられないであろう。大勢の人たちに見せられるのは、神が二度肉となったときの姿というよりは、神の義と神の性質の全体である。人に見せられるのは唯一の姿でも、二つの姿を合わせたものでもない。よって、神がすべき働きが完成すると、肉となった神は絶対に地上から離れなければならない。というのは、肉となった神はしなければならない働きのためだけに来るのであり、姿を人々に見せるために来るのではないからである。受肉の意義は神が二度肉となったことですでに果たされているが、かつて神を一度も見たことのない国の人々には神は公に自身の姿を見せることはない。イエスが自分自身を義の太陽としてユダヤ人に再び示すことは決してない。再びオリーブ山に登ることも、すべての民族に現れることも決してない。ユダヤ人が見たのは、ユダヤの地にいた時代のイエスの絵図だけである。肉となったイエスの働きは二千年前に終わったからである。イエスが以前の姿でユダヤの地に戻ることはないし、ましてや当時の自分の姿を異邦人の諸国において示すことはない。なぜならば、肉となったイエスの姿はひとりのユダヤ人の姿でしかなく、ヨハネが見た人の子の姿ではないからである。イエスは自身に従ってきた者たちに再来を約束したが、単にひとりのユダヤ人の姿で異邦人に自分自身を示すことはない。肉となった神の働きは、時代を開くことであることをあなたがたは知らなければならない。この働きは数年に限られており、神の霊のすべての働きを達成することはできない。これはユダヤ人としてのイエスの姿が、ユダヤで働いたときの神の姿だけを現しており、そのときの神は十字架の働きだけをすることができたのと同じである。イエスが肉体をもっていた間、イエスは時代を終わらせ、人類を破滅させる働きはできなかった。よって、イエスが十字架にかけられ働きを終えると、イエスは高く昇り、自身を人間から永遠に隠した。それ以降、異邦人の国々の忠実な信者たちは主イエスの出現ではなく、壁に貼られたイエスの絵しか見ることかできなかった。この絵は人によって描かれたものでしかなく、神自身が人に見せた姿ではない。神は二度肉となったときの姿を大勢の人たちに公には見せることはない。人類のあいだでなされる神の働きは、神の性質を人々に理解させることである。これは様々な時代の働きを通して人に見せられる。イエスの出現を通してというよりは、神が知らせた性質や、神が行なった働きを通して達成される。すなわち、神の姿は受肉の姿を通して人に知らされるのではなく、むしろ、姿や形をもつ肉となった神によって行なわれる働きを通して知らされ、彼(彼女)の働きを通して、神の姿が示され、神の性質が知らされる。これこそ神が肉体で達成しようとする働きの意義である。

 神が二度肉となったときの働きがひとたび終わると、異邦人の国々に神はその義である性質を現し始め、大勢の人たちがその姿を見ることを許される。神は自身の性質を現し、これを通して、あらゆる種類の人たちの最後を明らかにし、それによって古い時代を完全に終わらせる。肉体における神の働きは広範囲に及ぶものではない(ちょうどイエスがユダヤだけで働いたように、そして今日わたしはあなたがたのあいだだけで働いている)。なぜなら、肉体における神の働きには範囲があり限界があるからである。神は受肉した肉体を通して永遠の働きをしたり、異邦人の国々のすべての人たちに現れる働きをするのではなく、ただ平凡な普通の肉の姿で短い期間の働きをするだけである。肉での働きは範囲においてのみ限られたものになることがあり(ユダヤでしか働かないとか、あなたがたのあいだでしか働かないというように)、その後この限界内でなされた働きを通して拡張されることができる。もちろん、拡張の働きは聖霊によって直接行われ、もはや神の受肉した肉体の働きではなくなる。肉体の働きには限界があり、宇宙の隅々にまで拡張されないからである。それを達成することはできない。肉における働きを通して、神の霊はそれに続く働きを行う。だから、肉でなされた働きは一つの限界内で行なわれる始まりの働きなのである。神の霊はその後この働きを、さらに拡張された範囲で続ける。

 神は時代を先導する働きをし、新時代を開き、古い時代を終わらせるためだけに地上に来る。神は地上での人間の生涯を過ごし、人間のように実際に人生の喜びや悲しみを体験し、自身の手で誰かを完全にし、成熟するのを見守るために来たのではない。それは神の働きではない。神の働きとはただ新時代を開き、古い時代を終わらせることである。つまり、神が自らある時代を開き、もう一つの時代を終わらせ、自身の働きを直接することでサタンを打ち負かすのである。神が直接働きをする時はいつも、戦場に足を踏み入れるようなものである。肉において神はまず世界を打ち負かし、そしてサタンに勝利する。地上のあらゆる人々が歩くべき正しい道と平和な生涯と生きる喜びを得られるように、神はすべての栄光を獲得し、二千年の働き全体の幕をあげる。しかし、神は地上で長い間人間と住むことはできない。なぜなら、神は神で、結局人間とは違うからである。神は普通の人の一生を生きることはできない。すなわち、神は全く普通の人として地上に住むことはできない。というのは、神はそのような人生を営むための平凡な人の普通の人間性の最小限の部分しか持っていないからである。つまり、神がどのようにして地上で家族をもち、職業を得て、子どもを育てられるというのか。これは神にとって不名誉なことではないだろうか。神は普通の方法で働きをするという目的のためだけに、普通の人間性をもつのであって、普通の人のように家族や職業を持つためではない。神の普通の理知、普通の知性、普通の食事や肉体の衣服は、神が普通の人間性をもっていることを証明するのに十分である。神が普通の人間性を備えていることを証明するために家族や職業を持つ必要はない。全く不必要である。神が地上に来ること、それは言葉が肉となるということである。神はただ人が神の言葉を理解し、言葉を知ること、すなわち、肉においてなされる働きを人が見ることを可能にしているだけである。神が意図していることは人々が神の肉体を何らかの方法で取り扱うことではなく、人が最後まで忠実であること、すなわち、神の口から出る全ての言葉に従い、神が行うすべての働きに服従することだけである。神は肉体においてただ働いているだけで、神の肉体が偉大で聖であることを人が褒めたたえるよう意図的に求めているのではない。神は単に人に神の働きの知恵と神の及ぼす権威を示しているにすぎない。よって、神は並はずれた人間性を持っていながらも、あえて布告をすることもなく自身がするべき働きに集中しているのである。あなたがたは、なぜ神が肉となりながらも神の普通の人間性を公表したり証したりせず、その代わりにただ行ないたい働きをただ実行しているのか知らなければならない。あなたがたが肉となった神において見ることができるのは、ただ神の神性が何であるかということだけである。それは神の人間性を人が見習うようにと神がその人間性を主張することはないからである。人が人を導く場合にのみ、人はその人間性を語る。そうすることで、他の人たちを感銘させたり服従させたりして、指導力を発揮することができる。これとは対照的に、神はその働きだけで(すなわち人には達成不可能な働きで)人を征服する。神は人を感銘させたり、人に神を崇拝させたりはしないが、ただ神への畏敬の念を人に植え付けたり、神の人間には図りがたい深遠さを人に気づかせたりするだけである。神は人を感銘させる必要はない。神に必要なことは、人がひとたび神の性質に触れたならば、神を畏れるようになることだけである。神の行う働きは神だけのものである。人間が神に代わって行なえるものではなく、また人間が達成できるものでもない。ただ神のみがその働きを行ない、新しい時代を招き入れ、人間を新しい生活へと導くことができる。神の働きは、人間が新しい生活を受け取り、新しい時代に入れるようにすることである。それ以外のすべての働きは、正常な人間性をもち、他者から賞賛される人々にゆだねられる。すなわち、恵みの時代には、神は肉となった三十三年のうちのわずか三年半で二千年分の働きを完了したのである。神がその働きを行うため地上に降りるとき、神は必ず二千年分、あるいはひとつの時代全体の働きをわずか数年間で完了する。神は時間を無駄にせず、遅れることもない。神は何年分もの働きを簡単に濃縮すると、わずか数年で完了できるようにする。これは、神が自ら行う働きは、ただ新しい道を開き、新しい時代を導くことだからである。

2019年5月13日月曜日

受肉の奥義(1)

 


 恵みの時代に、ヨハネはイエスのために道を整えた。ヨハネは神自身の働きをすることはできず、ただ人の本分を尽くしただけであった。ヨハネは主の先駆者であったが、神を表すことはできなかった。彼はただ聖霊に用いられた人間であった。イエスのバプテスマに続いて、「聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り」、それからイエスは自分の働きを開始した。すなわち、キリストとしての職分を始めたのである。それがイエスが神の身分を取った理由である。イエスは神から来たからである。これ以前のイエスの信仰がどのようであったとしても──おそらく時には弱く、時には強かったのであろうが──それはすべてイエスが職分を始める前の普通の人の生活であった。イエスがバプテスマを受けた(油を注がれた)後、直ちに神の力と栄光が備わり、それにより職分を始めた。イエスはしるしと不思議、奇跡を行い、力と権威をそなえていた。神の代わりに自ら働きを行なったからである。イエスは神の代わりに霊の働きをし、霊の声を表現した。よって、イエスは神自身であった。これは争う余地がない。ヨハネは聖霊に用いられた。彼は神を表すことはできず、神を表すことは彼にとって不可能であった。もしヨハネが神を表すことを望んだとしても、聖霊はそれを許さなかったであろう。というのは、神自身が成就するはずの働きをヨハネがすることはできなかったからである。おそらく、彼には多くの人間としての意思、あるいは何か逸脱したものがあったであろう。どんな状況下においてもヨハネは神を直接表すことはできなかった。彼の過ちや間違いは自分自身を表していたが、働きは聖霊の象徴であった。それでも尚、彼のすべてが神を代表していたと言うことはできない。彼の逸脱や間違いも神を表していたであろうか。人を表すことにおいて間違いがあるのは普通のことであるが、神を表しながら逸脱しているなら、それは神に対して不名誉なことにならないであろうか。それは聖霊に対する冒涜ではないであろうか。たとえ人が他人に称賛されても、人が神の代わりをすることを聖霊は軽々しく許可しない。人が神でないなら、最後まで立ち続けることはないであろう。聖霊は人が気の向くままに神を表すことを許さない。たとえば、聖霊はヨハネに証しし、彼がイエスの道を整える者であることを明らかにしたが、聖霊によって彼になされた働きはよく釣り合いのとれたものであった。ヨハネに求められたことはイエスのために道を整える者になること、イエスのために道を備えることだけであった。すなわち、聖霊は道を整えるというヨハネの働きだけを支え、彼にそのような働きをすることだけを許した。ヨハネは他のことをすることを許されなかった。ヨハネは道を整えた預言者エリヤを表していた。これにおいて聖霊はヨハネを支えた。働きが道を整えることである限り、聖霊はヨハネを支えた。しかし、もしヨハネが自分自身が神であり贖いの働きを完成するために来たのだと主張していたなら、聖霊は彼を戒めなければならなかったであろう。ヨハネの働きがどれほど偉大であったにせよ、また聖霊に支えられていたとしても、その働きには境界がなかったわけではない。ヨハネの働きが聖霊に支えられていたことは確かに真実だが、当時彼に与えられていた力は道を整えることに限られていた。ヨハネはその他の働きは全くできなかった。というのは、彼はイエスではなく、道を整えるヨハネにすぎなかったからである。よって、聖霊による証が鍵であるが、人が聖霊により行なうことを許された働きは、それよりはるかに重要である。ヨハネも当時は確固とした証しを立てられていたのではないのか。ヨハネの働きも偉大ではなかったのか。ヨハネの働きはイエスの働きを超えることはできなかった。なぜなら、ヨハネは聖霊によって用いられた人間にすぎず、直接神を現わすことはできなかったからである。そのため、ヨハネの成した働きは限られていた。ヨハネが道を整える働きを終えた後、彼の証しを支える者はなく、新たな働きが続くこともなく、神自身の働きが始まったときに、ヨハネは去った。

 悪霊に取りつかれ「私が神だ!」としつこく叫んでいる人たちがいる。しかし、最後まで彼らは立ち続けていることはできない。というのは、彼らは自分が何を表しているかに関して誤っているからである。彼らはサタンを表し、聖霊は彼らに何の注意も払わない。自分をどれほど高く褒めたてても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、「わたしは神である、わたしは神の愛するひとり子である」と叫ぶことはない。しかし、わたしがする働きは神の働きである。わたしは叫ぶ必要があるだろうか。褒めたてる必要はない。神はその働きを自分で行なうのであり、人に地位や敬称を与えてもらう必要はない。神の働きは神の身分と地位を表すのに十分である。バプテスマの前、イエスは神そのものではなかったのか。イエスは受肉した神の肉体ではなかったのか。イエスは証をされて初めて神のひとり子となったのだ、などと言うことは到底できない。イエスという名の人がイエスが働きを開始する前には存在しなかったのだろうか。あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたが神であると主張しようとするのは意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神と認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神に関する限り、その人は神の霊の受肉した肉体である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。新しい時代のために道をつけることができない、あるいは古い時代を終わらせたり、新しい時代の到来を告げたり、新しい働きをすることはできないのであれば、あなたは神と呼ばれることはできない。

 聖霊に用いられる人でさえ神を表すことはできない。そして、その人は神を表すことができないだけではなく、その働きも直接神を表すことはできない。すなわち、人の体験は神の経営(救い)の内部に直接置くことはできないし、神の経営(救い)を表すこともできない。神自身が行なう働きはすべて、神の経営(救いの)計画の中で神が行なおうとする働きであり、偉大な経営(救い)に関係している。人(聖霊に用いられる人)によってなされる働きは、その人の個人的体験を提供することである。それは以前の人たちが歩いた道を越えて新しい体験の道を見つけ、兄弟姉妹を聖霊の指導の下で導くことである。この人たちが提供するのは、彼ら個人の体験や霊的な人たちの霊的書物である。彼らは聖霊によって用いられているが、その働きは六千年計画の偉大な経営(救い)の働きとは関係していない。彼らはただ自分たちが果たしている役目が終わるか、自分たちの生涯が終わるまでの間、聖霊の流れの中で人々を導くために、様々な時代に聖霊によって立てられている人たちにすぎない。彼らが行なう働きはただ神のために適切な道を用意するか、あるいは地上における神自身による経営(救い)のある側面を続けていくことだけである。そのような人たちは、神の経営(救い)の中で偉大な働きをすることはできず、新しい道を開拓することもできず、ましてや前の時代からの神のすべての働きを終わらせることなどできない。よって、彼らがする働きはただ被造物が己の役目を果たすことを表しているだけで、神自身が行なう職分を表すことはできない。これは、彼らがする働きは神自身の行なうものとは同じではないからである。新しい時代を招き入れる働きは神に代わって人がすることはできない。神以外の誰によってもなされることはない。人がする働きのすべては被造物の一人としての本分を果たすことだけで、聖霊によって動かされ、啓かれたときに果たされる。そのような人たちが与える指導は、人が日常生活でどのように実践し、神の心に一致してどのように行動すべきかということを人に示すことである。人の働きは神の経営(救い)に関わることも霊の働きを表すこともない。たとえば、ウィットネス・リー(李常受)やウオッチマン・ニー(倪柝聲)の働きは道を先導することであった。道が新しいものであろうと古いものであろうと、働きの前提は聖書の原則を超えないということであった。地方教会の復興であれ設立であれ、彼らの働きは教会を築くことであった。彼らの働きは、イエスや弟子たちが恵みの時代にやり終えなかった働き、或いはさらに展開しなかった働きを引き継いでいた。彼らがその働きにおいて行なったのは、頭を覆うこと、バプテスマを受けること、パンをさくこと、ぶどう酒を飲むことなど、イエスがその初期の働きにおいて自分以降の世代の人々に行なうように命じたことを復活させることであった。彼らの働きは単に聖書を守り、聖書の中に道を求めることであったと言うことができる。彼らは新しい進歩を一切遂げなかった。したがって、彼らの働きには聖書内における新しい道の発見と、以前よりは良い現実的な実践しか見受けられない。彼らの働きには、神の現在の意図を見受けることはできず、ましてや終わりの日に神が行なうである新しい働きに関しては何もない。これは、彼らが歩んだ道はやはり古い道であったので、刷新や進歩はなかったからである。彼らはイエスの磔刑の事実にこだわり、人々に悔い改め罪を告白させるという実践や、最後まで耐えるものが救われるということわざや「男は女の頭である」「妻は夫に従え」といった聖句、さらに女性信者は説教できず、従うことのみできるという伝統的な観念を維持した。もしもこのような指導が継続していたなら、聖霊が新しい働きを行ない人々を教義から解放し、自由と美の領域へと導くことはできなかったであろう。そういうわけで、時代が変わるこの段階の働きは、神自身が行ない語らなくてはならないのである。そうしなければ、神の代わりにこれらの働きを行なえる人はいない。今までは、この流れの外側では聖霊のあらゆる働きは行き詰まり、聖霊に使われていた人々は道に迷ってしまった。よって、聖霊に用いられた人の働きは神自身による働きと同じではないので、その身分や誰に代わって行動しているかもまた異なっている。これは聖霊が意図する働きが異なるため、働くすべての人たちに異なった身分や地位が与えられるためである。聖霊によって用いられる人たちはまた新しい働きをするかもしれないし、また昔なされた働きを排除するかもしれないが、彼らの働きは新しい時代の神の性質や心を表現することはできない。彼らはただ前代の働きを取り除くためだけに働き、神の性質を直接表すために新しい働きをするわけではない。このように、彼らがどれだけ多くの時代遅れの実践を廃止し、新しい実践を導入しようとも、彼らは依然として人や被造物を代表しているのである。しかし、神自身が働くとき、神は公然と古い時代の実践の撤廃を宣言したり、新しい時代の始まりを直接宣言することはない。神はその働きにおいて直接的で率直である。神は意図する働きを遂行する上で率直である。すなわち、神は自身がもたらした働きを直接表現し、本来意図したように自身の働きを遂行し、神であることと神の性質を表現する。人の見方では、神の性質、また神の働きはかつての時代とは異なっている。しかし、神の見地からは、これは神の働きの継続でありさらなる展開に過ぎない。神自身が働くとき、神はその言葉を表現し、直接新しい働きをもたらす。それとは対照的に、人が働くときは、熟考と研究によってなされるか、あるいは他人の働きに基づいて築かれた知識の発展と実践の体系化である。すなわち、人によってなされる働きの本質は設立された秩序に従い「新しい靴で古い道を歩く」ことである。これは聖霊に用いられる人が歩く道でさえ神自身によって開かれたものに基づいているという意味である。所詮人は人であり、神は神である。

 ヨハネは、アブラハムにイサクが生まれたように、約束によって生まれた。ヨハネはイエスのために道を整え、多くの働きを成したが、神ではなかった。むしろ、ヨハネは預言者であった。イエスのために道を整えたからである。ヨハネの働きも偉大であり、ヨハネが道を整えた後初めて、イエスは公に自分の働きを始めた。実質的には、ヨハネは単にイエスのために働いただけであり、ヨハネの働きはイエスの働きのためであった。ヨハネが道を整えた後、イエスは自分の働きを始めた。それはより新しく、より具体的で、より細かい働きだった。ヨハネが行なったのは、最初の働きだけだった。それより多くの新たな働きは、イエスによって成された。ヨハネも新たな働きを成したが、新たな時代へと案内した者ではなかった。ヨハネは約束の下に生まれ、その名前は天使が与えた。当時、彼の父ザカリヤの名をつけたかった人たちもいたが、ヨハネの母は「この子をその名前で呼ぶことはできません。ヨハネという名にしなければなりません」と主張した。これはすべて聖霊によって命じられたのである。それでは、ヨハネはなぜ神と呼ばれなかったのだろうか。イエスの名もまた聖霊に命じられた。そして、イエスは聖霊から、聖霊の約束によって生まれた。イエスは神であり、キリストであり、人の子であった。ヨハネの働きも偉大であったが、なぜ彼は神と呼ばれなかったのだろうか。イエスの働きとヨハネの働きの違いは正確に言って何だったのだろうか。ヨハネはイエスのために道を整える人であったことが唯一の理由だろうか。あるいは、神にあらかじめ定められたからだろうか。ヨハネはまた「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、天の国の福音も宣べ伝えたが、彼の働きはさらに展開されず、導入部分だけであった。それとは対照的に、イエスは新しい時代を切り開き古い時代を終わらせたが、イエスはまた旧約聖書の律法を成就した。イエスの働きはヨハネの働きより偉大で、さらにイエスは全人類を贖うために来たのであり、その段階の働きを達成した。ヨハネはただ道を整えただけであった。彼の働きは偉大で、言葉もたくさん語り、彼に従った弟子たちも数多かったが、ヨハネの働きは人に新しい始まりをもたらす以上のことは何もなかった。人は彼からいのちも、道も、より深い真理も受けておらず、彼を通して神の旨の理解を得ることもなかった。ヨハネはイエスの働きのために新境地を切り開き、選ばれた人を準備した偉大な預言者(エリヤ)であった。ヨハネは恵みの時代の先駆者であった。そのような事柄はただ彼らの普通の人間の外観を見ていても分からない。特にヨハネは、極めて偉大で、その上聖霊に約束され、聖霊によって支えられた働きをしていたので余計にそうである。だから彼らのそれぞれの身分はその働きを通してでなければ区別することはできない。というのは人の外観からその人の本質を知ることはできないし、人は聖霊の真の証を確認することはできないからである。ヨハネによってなされた働きとイエスの働きとは同じではなく、性質が違っている。それが、神であるかどうかを決定するものである。イエスの働きとは、始めて、続けて、終わらせて、達成することであった。これらの段階をそれぞれイエスは実行したが、一方ヨハネの働きは、始まりの働き以上ではなかった。最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。イエスは人々に説教し、あらゆる場所で天の国の福音を宣べ伝えた。この点ではイエスとヨハネは同じであったが、イエスは新しい時代の到来を告げ、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が恵みの時代に実践すべきことと従うべき道に関する言葉がイエスの口から発せられた。そして、最終的にイエスは贖いの働きを終えた。ヨハネはそのような働きを決して実行することはできなかった。だから、神自身の働きを行なったのはイエスで、イエスが神自身であり、神を直接表すのもイエスである。人の観念では、約束によって生まれた者、霊から生まれた者、聖霊によって支えられている者、新たな道を開く者は神であると言う。このような論法によれば、ヨハネも神であり、モーセもアブラハムもダビデも神である、ということになる。これは、よくできた冗談ではないのか。

 イエスも伝道を行う前は普通の人間に過ぎず、聖霊のすることに従って行動していただけであった。イエスが当時自分の身分を意識していたかどうかはともかく、神から示されたことにはすべて従っていた。聖霊は、イエスがその職分を開始する前には、その身分を決して明かさなかった。イエスがこのような律法や掟を廃止したのは、職分を始めた後であり、イエスが公に働きを始めた後に、彼の言葉は権威や力に満ちた。イエスの働きが始まった後初めて、新たな時代を生み出すという彼の業が始まった。それ以前の二十九年間、聖霊はイエスの中に隠れたままであり、その間イエスは人を表していただけであり、神の身分や働きは持たなかった。イエスがその働きと職分を始めた時点から、イエスは、自分がどれほど人に知られているかに関わらず、自身の内部の計画通りに働きを行ったが、そのイエスの働きは、神自身を直接表したものであった。イエスはその頃、周囲の者に「あなたがたはわたしをだれと言うか」と尋ねた。彼らは答えた。「あなたは最も偉大な預言者であり、私たちのよき医者です」、また「あなたは大祭司です」と答えた者もいた。様々な答えが出た。イエスはヨハネであるとか、エリヤであるとか言う者もいた。イエスはそれからシモン・ペテロの方を向いて「あなたはわたしをだれと言うか」と尋ねると、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えた。その時から、人々はイエスが神であることを知った。イエスの身分が知られたとき、その認識に最初に至ったのはペテロであり、それを口に出したのもペテロだった。そしてイエスは言った。「あなたにこの事をあらわしたのは、肉血ではなく、わたしの父である」。イエスがバプテスマを受けた後、他の者が認識していたかどうかはさておき、イエスの働きは神に代わっての働きであった。イエスが来たのは、自らの働きを行うためであって、自分の身分を明らかにするためではない。イエスの身分が公に人に知られるようになったのは、ペテロのこの言葉の後であった。イエスが神自身であることを人間が認識していたかどうかに関わらず、イエスは時が来ると自分の働きを始めた。そして、人間が認識していたかどうかに関わらず、イエスは自分の働きを以前のように続けた。たとえ人が拒否したとしても、イエスは自分の働きを行い、成すべき時にそれを遂行する。イエスが来たのは働き、職分を果たすためであり、人間が神の肉を知るためではなく、人間が神の働きを受けるためであった。もしあなたが今日の段階の働きは、神自身の働きであることを認識できないなら、それはあなたにはビジョンが欠けているからである。それでもこの段階の働きを否定することはできない。あなたがそれを認識できないからと言って、聖霊が働いていないとか、神の働きは間違っているとかいう証明にはならない。聖書の中のイエスの働きに照らし合わせて現在の働きを調べ、矛盾している点を用いてこの段階の働きを否定しようとする人々さえいる。これは目が見えない者のすることではないだろうか。聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。

 イエスが地上にいた時間は三十三年半だった。つまり、イエスは地上で三十三年半暮らした。そのうちイエスが自身の働きを成したのは三年半だけだった。そして、残りの年月は、普通の人間の生活をしていた。はじめのうち、イエスはシナゴーグの礼拝に出席し、そこで祭司の聖書の解説や他者の説教を聞いた。イエスは聖書について多くの知識を得た。イエスは生まれつきそのような知識を持っていたわけではなく、読んだり聞いたりすることでそのような知識を得た。イエスが十二歳のときにシナゴーグでラビに質問をしたことは、聖書にはっきり記録されている。昔の預言者の預言はどのようなものだったか。モーセの律法はどのようなものか。旧約聖書とは。そして、神殿で祭司の服を着て神に仕えることの意味は何だったのか等、イエスはたくさんの質問をした。そのような知識も理解もなかったからだ。イエスは聖霊により母胎に宿ったが、まったく普通の人として生まれた。多少の個性はあったものの、イエスは依然として普通の人だった。イエスの知恵は身長や年齢とともに続けて増し、イエスは普通の人と同じような人生の過程を通過した。人は、イエスが幼児期、青春期、中年期を経験していないと想像する。イエスは生まれるなり三十歳の人として生涯を始め、業を完了して十字架につけられたと人は思っている。おそらくイエスの人生は、普通の人の人生と同じようには流れなかっただろうと信じている。おそらく、イエスは食べもせず、人と交際もせず、人に簡単に姿を見られることもなかったのだろうと信じている。イエスは神なのだから、見るものを恐れさせるような奇人だろうと信じている。肉となった神は絶対に人間のような生活をしないと人々は信じている。彼らは、イエスは聖なる人なので、歯を磨いたり、顔を洗ったりしなくてもきれいであると信じている。これは純粋に人の観念ではないだろうか。聖書には人としてのイエスの生涯についての記録はなく、イエスの働きについてしか記録がないが、このことでイエスが普通の人間性をもっていなかったとか、三十歳になるまで普通の人間の生活をしなかったという証明にはならない。イエスは二十九歳で公に働きを始めたが、それ以前のイエスの人としての全生涯を否定することはできない。聖書はただその時期のことは記録から取り除いているだけである。それは普通の人性としてのイエスの生涯で、神性としての働きの時期ではなかったので、それを記録しておく必要はなかったのである。イエスのバプテスマ前には聖霊は直接には働かず、職分を始めるべき日までイエスを普通の人としてのその生活に留めた。イエスは受肉した神であったが、普通の人として成熟過程を経た。この過程は聖書から省かれている。というのは、人のいのちの成長に大きな助けにはならないから省かれたのである。イエスのバプテスマ以前は隠された時期で、イエスはしるしも不思議も行わなかった。イエスがバプテスマを受けて初めて、恵み、真理、愛、憐みが豊かに溢れた人類の贖いの働きのすべてを開始した。この働きの始まりはまさに恵みの時代の始まりでもあった。このため、それは書き留められ、現在に至るまで受け継がれてきた。それは恵みの時代の人々がその時代の道を歩み、十字架の道を歩むために、道を開き、すべてを完成させるためであった。そのような記録は人によって書かれたものだが、すべては事実の記述であり、ところどころに小さな誤りがあるだけである。とにかく、これらの記録を誤りとすることはできない。これらは人によって書かれたため誤りも見られるが、完全に事実である。イエスは平凡な普通の人性だったと言う者もいるかもしれないが、それならば、どうしてしるしや不思議を行なうことができたのだろうか。イエスが経験した四十日間の誘惑は、奇跡のしるしであり、普通の人には達成することができないものだ。イエスの受けた四十日間の誘惑は、聖霊の業であった。では、イエスの中に超自然的なものがまったくないとどうして言えるだろうか。イエスがしるしや不思議を行なえたことは、彼が普通の人ではなく超越的な人であることの証明ではない。それは聖霊が彼のような普通の人の中で働き、それにより、イエスは奇跡を起こして、より偉大な業を成すことができたというだけである。イエスがその職分を果たす前、あるいは聖書に記されているように聖霊がイエスに降りる前は、イエスは普通の人で、超自然的なところは少しもなかった。聖霊の降臨により、すなわち、イエスがその職分を始めた時、イエスは超自然的なもので満たされた。そのように人は、神の受肉した肉体は普通の人間性は全くなく、さらに受肉した神には人間性がないと誤って信じるようになる。確かに、神が地上にくると、神の働きと人が神に関して見る全てのことは超自然的である。目で見、耳で聞くことはすべて超自然的なことであるのは、神の働きと言葉は人には理解できず、達成不可能なことであるからである。もし天の何かが地上にもたらされるなら、超自然的以外のものであり得ようか。天の国の奥義が地上にもたらされたなら、それは人が理解したり推測したりすることのできない奥義であり、あまりにも素晴らしく知恵に満ちているが、それらはすべて超自然ではないであろうか。しかし、たとえどんなに超自然的でも、それらは神の普通の人間性において行なわれるということを知らなければならない。神の受肉した体は人間性を備えている。そうでなければ、それは神の受肉した体ではないであろう。当時、イエスは非常に多くの奇跡を行なった。当時のイスラエル人が見たものは、超自然的なものに満ちていた。彼らは天使や使者を見、ヤーウェの声を聞いた。これらはすべて超自然的なことではなかっただろうか。確かに、現在では人間を騙すために超自然的なものを通して働く邪悪な霊がいる。これは、現在は聖霊が行わない働きを通して人間を騙そうとする邪悪な霊による模倣にすぎない。多くの邪悪な霊が奇跡や病の癒しなどの働きを模倣する。これは邪悪や霊の働き以外の何物でもない。現在は聖霊はもはやこのような働きをしないからである。以降、聖霊の働きを模倣するのは、すべて邪悪な霊である。当時イスラエルで行なわれた働きはすべて、超自然的なものであった。だが今では、聖霊はそのようなやり方では働かない。これ以上のそのような働きはサタンによる業と妨害であり、悪霊から来る。しかし、超自然的なものの全てが悪霊の行為であるとは言えない。それは、神の働きのどの時代かによる。現在の受肉した神による働きを考えてみよ。そのうちどの部分が超自然的でないであろうか。神の言葉は、あなたには理解できず、到達不可能である。そして、神の働きはだれにもできない。神が理解することを人が理解することはできず、人は神の知識がどこから来るのかを知ることもできない。「私もあなたと同じように普通なのに、あなたの知っていることを私が知らないのはどういうことか。私の方が年上で経験も豊富なのに、どうして、私の知らないことをあなたが知っているのだろうか」と言う人がいる。これはすべて、人間に関する限り、人間にはできないことなのだ。また、「イスラエルで行われた働きについて本当に知っている人は誰もいないのに、どうしてあなたは知っているのですか。聖書解説者すら説明できないのに、あなたはどうして知っているのですか」と言う人もいる。これらはすべて超自然の問題ではないのだろうか。今日の受肉した神はいかなる不思議も経験しなかったが、あらゆることを知っており、神から言葉がいとも簡単に発せられる。これは超自然的なものではないのか。神の働きは、肉により達成可能な範囲を超えている。そのような働きは、肉による者の考えでは達成できず、人の知力や理屈ではまったく考えが及ばない。今日の受肉した神は聖書を読んだことがなかったが、イスラエルでの神の働きについて理解している。そして、地上で語っているにもかかわらず、第三の天の奥義について話す。人がこれらの言葉を読むと、「これは第三の天の言語ではないだろうか」という思いで圧倒される。これらはすべて、普通の人にできることを超えた事柄ではないだろうか。また、イエスが四十日間断食したことは、超自然的なことではなかっただろうか。四十日間の断食があらゆる場合において超自然的で、悪霊の行為であると言うなら、イエスを非難したことにならないだろうか。イエスがその働きを始める前は、まったく普通の人のようだった。イエスも学校で勉強した。それ以外にどうして読み書きを習得できたというのか。神が肉となったとき、霊は肉の中に隠されていた。だが、普通の人間として、イエスも成長と成熟の過程を経る必要があった。そして、イエスの認知能力が成熟し、物事の分別がつくまでは、イエスは普通の人と見なされていた。イエスの人間性が成熟した後初めて、職分を開始することができた。イエスの普通の人間性がまだ成熟しておらず、物事の道理もよく分からないときに、どうして職分を果たすことができただろうか。イエスが六歳か七歳で働きをすることなど考えられないはずである。神はなぜ、受肉してすぐに自身を明らかにしなかったのだろうか。それは、神の肉の人間性がまだ成熟していなかったからである。肉の認知過程、またその肉の普通の人間性がまだ完全に神のものになっていなかったのである。このため、イエスが肉による働きを行うには、それに相応しいだけの普通の人間性と常識を身に付けることがどうしても必要だったのである。そうして初めてイエスはその働きを開始することができたのである。イエスが働きに適していなければ、更に成長、成熟する必要があった。イエスが七歳か八歳で自分の働きを始めても、人は彼を天才児として扱わなかっただろうか。誰もがイエスを子供だと考えたのではないだろうか。イエスに説得力のあると誰が思っただろうか。その身長は演壇ほどもない七、八歳の子供に説教ができたであろうか。その人間性が成熟するまでは、イエスはその働きに適していなかった。イエスの人間性がまだ未熟だったのだから、その働きの大部分が到底成し遂げられなかった。肉体にある神の霊の働きもまたそれ自体の原理に従っている。イエスが普通の人間性を備えて初めて、父なる神の働きや義務を行なうことができたのである。そうしてはじめて、イエスはその働きを始めることができた。イエスは幼年時代には、古代に起こったことのほとんどを全く理解できず、ラビに聞いて初めて理解することができたのである。もしもイエスが言葉を話すようになってすぐ働きを始めていたなら、どうして誤りを犯さないでいられただろうか。神が間違えることなどあり得ようか。よって、イエスが働きを開始したのは、イエスにとって可能になってからであった。働きを行なうことが完全に可能になるまでその働きを実行しなかったのである。二十九歳で、イエスはすでにかなり成熟しており、その人間性はイエスが行うべき働きを遂行するには十分であった。三十年間隠されていた聖霊はその時初めて現われ、神の霊は正式にイエスの中で働き始めた。当時ヨハネはイエスのために道を用意するべく七年間働いていた。そして、この仕事を終えると、ヨハネは投獄された。それから重荷はすべてイエスにふりかかった。もしイエスが人間性にも欠けるところが多く、青年になったばかりの二十一、二十二歳で、まだ多くのことの理解に欠けるままでこの働きを遂行していたならば、イエスは取り仕切ることができなかったであろう。当時、イエスが中年になって働きを始めたとき、ヨハネは働き始めてすでにかなりの時が経っていた。その年齢では、イエスの普通の人間性はなすべき働きを遂行するには十分であった。今や受肉した神も正常な人間性を持つ。あなたがたと比べれば成熟してはいないが、その人間性はその状態で自らの働きに着手するにはすでに十分である。今日の働きを取り巻く状況はイエスの時代とは全く同じではない。イエスはなぜ十二人の弟子を選んだのであろうか。すべてはイエスの働きを支え、協力するためであった。ひとつには当時のイエスの働きの基礎作りをするためであり、同時に、その後のイエスの働きの基礎作りをするためでもあった。当時のイエスの働きに合わせて十二人の弟子を選ぶことは、イエスの考えであったが、それは同時に神自身の考えでもあったからである。イエスは十二人の弟子を選んで、あらゆる場所で説教ができるように彼らを導く必要があると信じていた。だが今日、あなたがたに同じようにする必要はない。受肉した神の働きには多くの原則があり、人間にはどうしても分からないことがたくさんある。人間は自分の観念を絶えず用いて分からないことを推し量ったり、あるいは神に過度の要求をする。そして今日にいたるまで、自分の知識が自分の観念だけで成り立っていることに全く気づいていない人たちが多数いる。神が受肉する時代や場所に関わらず、肉における神の働きの原則は変わらない。神は肉となりながら、働きにおいて肉体を超越することはできない。また神は肉となりながら、肉体の普通の人間性の中で働かないことはできない。そうでなければ、神の受肉の意義は全くなくなり、ことばが肉となったことは全く無意味になってしまう。さらに、天の父(霊)だけが神の受肉を知っており、他の誰も、肉となった神自身さえも、あるいは天の使者たちさえも知らない。そのように、神の肉における働きはもっと普通のことであり、確かにことばが肉となることを申し分なく証明することができる。なお肉とは、平凡で普通の人を意味する。

 なぜ神自身が時代の到来を告げなければならないのかと不思議に思う人がいるかもしれない。被造物が神の代わりをすることはできないのであろうか。神が新しい時代の到来を告げるために、わざわざ肉となることをあなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代に案内するとき、同時に前の時代を終わらせる。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身であるので、前の時代を終わらせるのも神でなければならない。それは神がサタンを負かし、世界を征服する証拠である。神が人々のもとで働くときはいつも、新しい戦いの始まりである。新しい働きの始まりがなくては、当然古い働きの終結もないということである。古い働きの終わりがないということは、サタンとの戦いの終わりがまだ来ていないという証拠である。神自身が人のもとに来て新しい働きを実践して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しいいのち、新しい始まりを獲得することができる。そうでなければ人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。一つの時代が神によって導かれるたびに、人間の一部は自由にされ、それによって人間は新しい時代に向けて神の働きと共に前進する。神の勝利は神に従うすべての人たちの勝利でもある。もし被造物である人類が時代を終えることを任されたなら、人間の視点からであろうとサタンの視点からであろうと、それは神に反抗するか裏切る行為でしかなく、神に対する従順から出たものではなく、そのような人間の働きはサタンの道具にされてしまうことになる。人が神によって案内された時代において神に服従してついて行くときにのみ、サタンは完全に納得させられることができる。それが被造物の本分だからである。そして、あなたがたに必要なのは服従することだけで、それ以上にはあなたがたは何も求められていない、とわたしは言う。それこそ各自が自分の本分をわきまえ、自分の役目を果たすことの意味である。神は自身の働きを行ない、人が神の働きを神に代わってすることは必要としておらず、被造物の働きに神が関与することもない。人は自分自身の本分を果たし、神の働きに関与しない。これが本当の服従であり、サタンが敗北したという証拠である。神自身が新しい時代に案内したあとは、神はもはや人のもとで働くために到来することはない。そうして初めて、人は自分の本分を果たすために、新しい時代に正式に一歩踏み出し、被造物としての使命を果たすのである。これがだれも背くことのできない働きの原則である。このように働くことだけが賢明で道理にかなっている。神の働きは神自身が行なう。神の働きを始動させるのは神で、それを終わらせるのも神である。働きを計画し管理するのも神であり、それ以上に、働きを成就するのも神である。それは聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営(救い)の働きに関連する全てのことは神自身により行なわれる。神は六千年の経営(救いの)計画の支配者で、誰も神の代わりに働くことはできず、神の働きを終わらせることはできない。というのは、すべてを支配するのは神だからである。神は世界を創造し、神は全世界が神の光の中に生きるよう導き、全時代を終わらせ、それにより神の計画すべてを成就させるであろう。

2018年11月27日火曜日

全能神の発表「神の働きと人の働き」


 人の働きのうち聖霊の働きはどのくらいなのだろうか、また人の経験はどのくらいあるのだろうか。今でさえ、人々はこれらの質問を理解していないと言えるが、人々が聖霊の働きの原則を理解していないことがその理由のすべてである。わたしが意味する人の働きとは、もちろん、聖霊の働きを持っている人々の働き、あるいは聖霊によって用いられている人々の働きのことを指す。わたしが言っているのは人の意志から生じる働きのことではなく、聖霊の働きの範囲内にある使徒、働き手、あるいは普通の兄弟姉妹の働きのことである。ここで言う人の働きとは、肉となった神の働きではなく、人々に作用する聖霊の働きの範囲と原則のことである。これらの原則は聖霊の働きの原則と範囲であるが、肉となった神の働きの原則と範囲とは異なる。人の働きには人の本質と原則があり、神の働きには神の本質と原則がある。

 聖霊の流れの中での働きは、それが神自身の働きであろうと、用いられている人々の働きであろうと、聖霊の働きである。神自身の本質は聖霊であり、聖霊あるいは7倍に強化された聖霊と呼ぶことができる。とにかく、それらは神の霊であり、時代によって神の霊の呼び方が異なっているだけのことなのだ。しかしそれでも本質は一つである。したがって、神自身の働きは聖霊の働きであり、肉となった神の働きは働いている聖霊以外の何物でもない。用いられている人々の働きも聖霊の働きである。神の働きは聖霊の完全な表現というだけのことで、違いはまったくないのだが、一方用いられている人々の働きは多くの人間らしい事情と混ぜ合わされており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。聖霊の働きはさまざまで、いかなる条件にも制限されることはない。その働きは人によって変化し、伝える働きの本質も異なる。時代が異なれば働きも異なり、国によっても異なる。もちろん、聖霊は多くの異なった方法で、多くの原則に従って働くにもかかわらず、どのように働きが行われようと、どのような人々に作用しようと、本質はつねに異なり、異なる人々に行う働きすべてには原則があり、すべては働きの対象の本質を表すことができる。これは聖霊の働きがはっきり限定されており、非常に計画的だからである。人間の姿をした神の肉でなされる働きは人々を対象とする働きと同じではなく、その働きは人々の力量の違いによっても変化する。人間の姿をした肉でなされる働きは人々に対しては行われず、人間の姿をした肉では、人々に対する働きと同じ働きは行わない。一言で言えば、聖霊がどのように働こうとも、対象が異なれば働きは決して同じではなく、働きに用いる原則はさまざまな人々の状態や本性に応じて異なってくる。聖霊は、人々に本来備わっている本質に基づいてさまざまな人々に働きかけ、本来備わっている本質を越えた要求はしないし、実際の力量を越えた働きかけもしない。そこで、聖霊の人に対する働きによって人々はその働きの対象の本質を知ることができる。人に本来備わっている本質は変化しないし、人の実際の力量は限られている。聖霊が人々を用いようと、人々に対して働こうと、人々が働きから恩恵を受けられるように、その働きはつねに人々の力量の限界に応じている。用いられる人々に聖霊が働きかけるとき、彼らの賜物も実際の力量も活動させられ、使わずに残されておかれることはない。彼らの実際の力量は働きに役立たせるためにすべて引き出される。聖霊は働きの成果を達成するために、人々の利用できる部分は使って働くと言うことができる。それに反して、人間の姿をした肉でなされる働きは聖霊の働きを直接表すことであり、人間の心や考えと混ぜ合わされることはなく、人の賜物や経験、あるいは生来の条件では到達不可能である。聖霊の無数の働きはすべて、人に利益を与え、啓発することを目指している。しかし、完成される人もいれば、完成のための条件を持っていない人もいる。つまり、後者は完成されることはなく、ほぼ救いがたい人々で、聖霊の働きを持っていたかもしれないが、結局は取り除かれる。すなわち、聖霊の働きは人々を啓発することだが、それは、聖霊の働きを持った人すべてが完全に完成されることを意味するのではない。なぜなら、多くの人が追求する道は完成への道ではないからである。彼らは聖霊からの一方的で相互性のない働きを持っているだけで、主観的な人間の協力、あるいは正しい人間の追求はないからである。このようにして、これらの人々への聖霊の働きは完成される人々のための働きになる。人々は聖霊の働きを直接見ることはできないし、自分で直接触れることもできない。働く賜物を持った人々の助けを通して表現されるだけである。つまり、聖霊の働きはそうした人々が表現することによって信奉者に与えられる。

 聖霊の働きはさまざまな種類の人々や多くの異なる条件によって遂行され、完成される。肉となった神の働きは一つの時代全体の働きを表わすことができ、一つの時代全体の人々の成長を表すことができるが、人々の参加の詳細に作用する働きはやはり、肉となった神によってではなく、聖霊が用いる人々によってなされる必要がある。そこで、神の働き、つまり、神自身が働く部分は、人間の姿をした肉の神の働きであって、神の代わりに人が行うことはできない。聖霊の働きは多くの異なるタイプの人々を通して完成され、ただ一人の特定の人物が実行したり、一人の特定の人物が十分に明らかにしたりすることはできない。教会を導く人々も完全に聖霊の働きを表すことはできない。彼らは指導的働きをいくらかできるだけである。このように、聖霊の働きは3つの部分、すなわち、神自身の働き、用いられる人々の働き、聖霊の流れの中ですべての人に作用する働きの3つに分けることができる。その中で、神自身の働きは時代全体を導くことであり、用いられる人々の働きは、神自身の働きの後に送りだされたり、命令を受けたりすることによって、神の信奉者全員を導くことであり、これらの人々は神の働きに協力する人々である。流れの中で人々に作用する聖霊の働きは自身の働きをすべて維持すること、すなわち、経営全体を維持し、証を維持し、それと同時に完成させることのできる人々を完成することである。これら3つの働きは聖霊の完全な業であるが、神自身の働きがなければ、経営の働き全体は停滞してしまうだろう。神自身の働きは全人類に対する働きを含み、時代全体に対する働きも表す。すなわち、神自身の働きは聖霊の働きすべての活動と動向を表し、一方使徒の働きは神自身の働きに従うことであり、時代を導くことはないし、時代全体において聖霊が働く動向を表すこともない。彼らは人がなすべき働きをするだけで、経営の働きは全く含まれない。神自身の働きは、経営する働きの範囲内の計画である。人の働きは用いられる人々の本分だけであり、経営の働きとは何の関係もない。働きのアイデンティティや表すものが異なるため、どちらも聖霊の働きであるという事実にもかかわらず、神自身の働きと人の働きの間には明確で、実質的な違いがある。さらに、異なるアイデンティティをもつ対象に作用する聖霊の働きの程度もさまざまである。これらが聖霊の働きの原則と範囲である。

 人の働きはその人の経験と人間性を表す。人が提供するものと、人が行う働きがその人を表す。人の見識、人の推論、人の論理と豊かな想像力はすべてその人の働きの中に含まれている。特に、人の経験はいっそうその人の働きを表すことができ、人が経験してきたことはその働きの構成要素になるだろう。人の働きはその人の経験を表すことができる。人々が受動的状態で経験していると、彼らの交わりのほとんどは消極的要素で構成される。彼らの経験が積極的で、彼らがとりわけ積極的側の道を持っていれば、彼らが分かち合うものは非常な励みになり、人々は彼らから積極的な供給を得られるだろう。働き手がこの時消極的になれば、彼の分かち合うものはいつも消極的要素を含んでいることになるだろう。この種の交わりは重苦しいもので、他の人たちは彼と交わった後は、無意識のうちに気が滅入ってしまう。信奉者の状態は導き手の状態によって変化する。働き手が本来どのような人物かはその人の表現するものでわかり、聖霊の働きは人の状態によってしばしば変化する。聖霊は人の経験に従って働き、人を強要せず、その人の通常の経験過程に応じて要求を出す。すなわち、人の分かち合うものは神の言葉とは違う。人の分かち合うものはその人の個人的見識や経験を伝え、神の働きを基にして見るものや経験するものを表す。彼らの責任は、神の働きや話の後、自分たちが何を実行するべきか、または何において成長すべきかを見つけ、次にそれを信奉者に伝えることである。したがって、人の働きはその人の成長と実践を表す。もちろん、そのような働きには人の教訓と経験、あるいは人間的考えの一部が混入している。聖霊がどのように働こうとも、聖霊が人に働き掛けようと、肉となった神で働こうと、自分たちが何であるかを表わすのはいつも働き手である。働くのは聖霊であるが、働きは人が本質的に何であるかに基づいている。なぜなら聖霊は基礎なしには働かないからである。言い換えれば、働きは無からなされることはなく、いつも実際の状況や現実の条件に応じている。このようにしてのみ、人の性質は変換させることができ、人の古い見解や思考も変えられる。人が表すものは自分が見るもの、経験するもの、想像できるものである。教義、あるいは見解であっても、これらはすべて人が考えれば到達可能である。人の働きは大きさに関係なく、人の経験、見るもの、想像、あるいは思いつけるものの範囲を越えることはできない。神が表すものは神自身であり、これは人の力が及ばないもの、つまり、人の考えの及ばないものである。神はすべての人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人は自分の経験を表し、神は自身の存在を表す―この存在は神に固有の性質であり、人の力の及ばないものである。人の経験は、神が表した神の存在に基づいて獲得した見識や認識である。このような見識や認識は人の存在と呼ばれる。それらは人の本来備わっている性質、および人の実際の力量を基礎に表される。そこで、それらも人の存在と呼ばれる。人は自分が経験するものや見るものを分かち合うことができる。経験したことも、見たこともないもの、あるいは心が到達できないもの、すなわち、自分の心の中に持っていないものを分かち合うことはできない。人が表すものが自分の経験でなければ、それは想像、あるいは教義である。一言でいうと、その言葉には現実性がない。社会の状況と接触がなかったら、あなたは社会の複雑な関係を明確に話すことはできないだろう。家族がないのに、他の人々が家族問題について話していたら、あなたは彼らが話していたことの大半を理解できないだろう。そこで、人が話すことや行う働きは、その人の内面存在を表す。だれかが罰や裁きの理解に関して話しているのにあなたにその経験がないならば、あなたは彼の認識をあえて否定しないし、ましてや100%それについての確信などない。それは、彼が交わるものはあなたが一度も経験したことのないもの、あなたが知らなかったもので、あなたの心では想像できないものだからである。あなたは彼の認識から罰や裁きに関連する将来の道筋が理解できるだけである。しかし、この道は教義に基づく理解として役に立つだけで、あなた自身の理解に取って代わることはできないし、ましてや経験と取って代わることはできない。おそらくあなたは彼の言うことはまったく正しいと思うだろうが、自分で経験すれば、多くの事柄においてそれが実行不可能であるとわかる。おそらくあなたは耳にする認識の一部は完全に実行不可能だと感じるだろう。あなたはその時点でそれについての見解を心に抱き、受け入れはするが、進んで受け入れるわけではない。しかし自分が経験すると、あなたに見解を与える認識はあなたが実行する方法になる。そして実行すればするほど、彼の言葉の本当の価値と意味を理解する。経験をした後、あなたは経験したことについて持ったはずの認識について話すことができる。さらに、本当で実際的な認識を持つ人々と、教義に基づき、価値がない認識を持つ人々を区別できるようにもなる。そこで、あなたが話している認識が真理と一致するかどうかは主にあなたが実際的経験を持っているかどうかによる。あなたの経験の中に真理がある場合、あなたの認識は実際的で価値がある。経験を通してあなたは優れた識別力や洞察力をも得て、認識を深め、行動する時知恵と常識を増すことができる。真理を所有していない人々が話す認識はどんなに高度でも教義である。この種の人は肉体の問題に関して言えば多分非常に賢明かもしれないが、霊的問題になると区別することができない。そのような人々は霊的問題にまったく経験がないからである。これらの人々は霊的問題では啓発されておらず、人の魂を理解していない。認識のどのような側面を話題にしているのかにかかわらず、それがあなたの存在そのものからくるものである限り、あなたの個人的経験であり、本当の認識である。教義しか話さない人々、つまり、真理または現実を所有していない人々が話すことも彼らの存在そのものからくるものということができる。なぜなら彼らの教義は深い熟考からようやくたどりついたもので、深く思考している彼らの精神の結果であるからだが、それはただの教義であり、想像以外のなにものでもない。さまざまな種類の人々の経験は彼らの内部にあるものを表している。霊的経験のない人々はみな真理の認識について話すことはできず、さまざまな種類の霊的事柄についての正しい認識を話すこともできない。人が表すものは、その人の内なるものであり、それは確かである。霊的なものや真理の認識を得たいと願うなら、本当の経験を持たなければならない。人間の生命に関する常識について明確に話すことができなければ、霊的なものについて話すことなどどうしてできようか。教会を導くことができ、人々にいのちを与えることができ、人々の使徒になることができる人々は実際の経験を持ち、霊的なものを正しく理解し、真理の正しい認識と経験を持っていなければならない。そのような人々だけが教会を導く働き手、あるいは使徒となる資格を有する。さもなければ、最も小さき者として後に従うだけで、導き手となることはできず、ましてや人々にいのちを与える使徒になることはできない。使徒の機能は走ったり、戦ったりすることではなく、いのちを与え、人の性質が変わるよう導くことだからである。それは重い責任を背負う権限を与えられている人々が行う機能であり、誰もができることではない。この種の働きは生命の本質を持つ人々、すなわち、真理の経験を持つ人々のみが請け負うことができる。諦められる人、走りまわれる人、喜んで費やす人が皆できるということではない。真理の経験のない人々、刈り込みを経験していなかったり、裁きを受けたりしたことのない人々はこの種の働きを行うことはできない。経験のない人々、すなわち、現実性のない人々は現実をはっきり見ることができない。彼ら自身がこの側面の本質をもっていないからである。そこで、この種の人物は人を導く働きができないだけでなく、長期間にわたり真理を持たなければ排除の対象になるだろう。あなたが語る見識は、あなたが人生で経験してきたさまざまな困難、どのようなことで罰を受けたか、どのような問題で裁きを受けたかについて立証することができる。これは試練の時にもあてはまる。人が洗練される事柄、人が弱い事柄、これらは人が経験をする事柄、人が方法を持っている事柄である。たとえば、結婚で挫折に苦しむ人は大体の場合、次のように言う、「神に感謝し、神を称えます。私は神の心の願望を満足させ、私の人生の全てを捧げ、結婚をすっかり神の手に委ねなければなりません。私は進んで全人生を神に差し出します。」交わりを通して、人の心の中のすべて、その人そのものを表すことができる。話す速さ、大声で話すか、静かに話すかなど、経験に関係のない問題はその人の持つものやその人そのものを表すことはできず、その人の性格の良し悪し、あるいは本性の良し悪しを表すだけで、経験があるかかどうかと同一視することはできない。話すとき自分自身を表現する能力、または話す技量や速度は練習の問題であって、経験と置き換えることはできない。個人的経験について話すとき、あなたは重点を置きたいものや内なるすべてのものに関して話す。わたしの話はわたしの存在を表すが、わたしの言うことは人の力の及ぶものではない。わたしの言うことは人が経験することではなく、人に見えるものではなく、触れることができるものでもなく、わたしそのものである。一部の人はわたしが話すことは、わたしが経験したものであることだけは認めるが、聖霊の直接的表現であることを認識しない。もちろん、わたしの言うことはわたしが経験したことである。6000年にわたり、経営の働きをしてきたのはわたしである。わたしは人類創造の始めから今に至るまですべてを経験してきた。わたしがそのことについて語れないわけがあろうか。人の本性のこととなると、わたしはそれをはっきり見たし、長いこと観察してきた。それについてはっきり語れないわけがあろうか。人の本質をはっきり見てきたので、わたしには人を罰したり、裁いたりする資格がある。人はすべてわたしからもたらされたのに、サタンによって堕落させられたからである。もちろん、わたしはこれまでわたしが行ってきた働きを評価する資格もある。この働きはわたしの肉によってなされることではないが、聖霊の直接的表現であり、これはわたしが持っているもの、わたしそのものである。したがって、わたしはそれを表し、わたしのなすべき働きを行う資格がある。人が言うことは彼らが経験してきたことであり、見てきたもの、彼らの精神が到達できるもの、彼らの判断力で感じることができるものである。それなら彼らは語ることができる。人間の姿をした神の肉が語る言葉は聖霊の直接的表現であり、聖霊によってなされた働きを表している。肉はそれを経験しても、見てもいないが、それでも神の存在を表しているのは、肉の本質は聖霊であり、神は聖霊の働きを示しているからである。肉では到達することができなくても、それは聖霊によってすでになされた働きである。受肉のあと、肉の表現を通して神は人々に神の存在を知らしめ、人々が神の性質、ならびに神がした働きを見ることを許す。人の働きによって、人々は何において成長するべきか、何を理解するべきかについてもっと明確にすることができる。人の働きには、真理を理解し、経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道を開拓し、新しい時代を開拓し、人々に、普通の人間には知られていないことを明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは人類すべてを導くことである。

 聖霊の働きはすべて、人々が利益を得るのを可能にすることである。すべて人々を啓発することである。人々の利益にならない働きは何もない。真理が深かろうと浅かろうと、また、真理を受け入れる人々の力量がどうであろうと、聖霊がすることはなんであれすべて人々に有益である。しかし、聖霊の働きは直接行うことはできず、協力をしてくれる人々を通して実行されなければならない。このようにしてのみ、聖霊の働きの成果が得られる。もちろん、それが聖霊の直接的働きであれば、混ぜ物は全く入っていない。しかし、人という媒体を使うと、かなり混ぜ合わされ、聖霊本来の働きではなくなる。このようにして、真理の程度は異なったものに変化する。信奉者は、聖霊の本来意味するものではなく、聖霊の働きと人の経験および認識の結合したものを受け取る。信奉者が受け取る聖霊の部分の働きは正しいが、彼らが受け取る人の経験と認識は、働き手たちが異なるので変化する。いったん聖霊から啓発と導きを受けると、働き手は引き続き、この啓発と指導に基づいて経験をする。これらの経験の中で、人間性の本質のみならず、人の精神と経験も結合され、その後、得るべき認識と見識を獲得する。このようにして、人は真理を経験した後に実践へと進む。だが、人の経験は同じではないし、人々が経験する事柄も同じではないので、この実践方法はいつも同じとは限らない。こうして、聖霊の啓発は同じでも認識や実践が異なる結果になるのは、啓発を受けとる人々が異なるからである。実践中にあまり間違いを犯さない人もいれば、大きな間違いを犯す人もいるし、なかには間違いしか犯さない人もいる。これは人々の理解力の差であり、実際の力量も異なるからである。メッセージを聞いた後こう理解する人もいれば、真理を聞いたあとああ理解する人もいる。少し逸れる人もいれば、真理の本当の意味をまったく理解しない人もいる。したがって、どのように理解しているかで、その人が他人をどのように導くかが決まる。これがまさしく本当であるのは、その人の働きがその存在を表しているからである。真理を正しく理解している人に導かれた人々は、やはり真理を正しく理解するだろう。誤った理解をする人もごくわずかいるが、すべての人が誤った理解をするわけではない。真理を誤って理解している人々に導かれると、明らかに間違えてしまい、これらの人々は言葉のあらゆる意味において間違える。信奉者の中で、真理を理解する程度は主に働き手によって決まる。もちろん、神からの真理は正しく、間違いはなく、完全に確かである。しかし、働き手は完全に正しいわけではなく、完全に信頼できるとは言えない。働き手が非常に実際的な真理の実践方法を持っていれば、信奉者も実践方法を持つだろう。働き手が真理の実践方法を持たず、教義しか持ち合わせていなければ、信奉者は現実性を全く持たないだろう。信奉者の力量と本性は生まれながらに決められていて、働き手との関連性はない。しかし、信奉者がどの程度真理を理解し、神を知るかは働き手次第である(これは一部の人々に限られる)。働き手がどのような人であるかによって、彼の導く信奉者がどのようになるかが決まる。働き手が表すことは彼自身の存在であり、留保条件はない。働き手が信奉者に出す要求は、彼自身が達成したいこと、達成できることである。働き手のほとんどは、人々がまったく達成できないことが多々あるにもかかわらず、自分がすることに基づいて信奉者に要求を出す。人々が達成できないことは彼らの成長の障害になる。

 刈り込みや裁きを経験した人々の働きは間違いがずっと少ない。その働きの表現はずっと正確である。働きに対し、本来の自然さに依存している人々はかなり重大な間違いを犯す。不完全な人々の働きには本来の自然さが多すぎ、それが聖霊の働きの主な障害になっている。働きの条件が生まれつき備わっている人々でさえ、神の働きを実行するためには刈り込みと裁きを経験していなければならない。そのような裁きを受けていなかったら、彼らがどんなによくやっても、その働きは真理の原則と一致することはできず、完全に本来の自然さ、人間的善良さの段階に留まる。神の働きをするとき、刈り込みや裁きを受けた人々の働きは、裁きを受けなかった人々の働きよりも正確である。裁きを受けなかった人々は、人間の肉と考えしか表現せず、それらは人間的知力と生まれながらの才能がかなり混じりあっており、人が神の働きを正確に表現したものではない。彼らに従う人々は、生まれながらの力量によって彼らの前に連れてこられる。彼らは人の見識や経験をあまりにも出しすぎ、しかもそれらはほとんど神の本来の意味とは切り離されており、あまりにも逸脱しているので、この種の人の働きでは人々を神の前に連れてくることはできず、自分たちの前に連れてきてしまう。そこで、裁きや罰を受けなかった人々は神の働きを実行する資格はない。資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理にさらに深く入ることを許す。彼の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、彼の行う働きは個々の人によって変わることができ、規則にとらわれず、人々に解放と自由を認める。さらに、人々は徐々にそのいのちにおいて成長し、真理に向けて深く着実に進むことができる。資格のない働き手の働きははるかに不十分で、ばかげている。彼は人々を規則にはめ込むだけで、人々に要求することは個々の人によって変化しない。彼の働きは人々の実際のニーズに従っていない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人々をいのちにおける現実や正常な成長の実践に至らせることができない。人々はわずかな価値のない規則を守ることができるようになるだけであり、この種の指導は人々を迷わせるだけである。彼はあなたを自分に似たものになるよう導く。あなたを彼が持っているものや彼そのものの中に引き込むことができる。導き手に資格があるかどうかを信奉者が見定める秘訣は、彼らが導く道と彼らの働きの結果を見ること、および信奉者が真理に従った原則を受け取るかどうか、自分たちが変わるのにふさわしい実践方法を受け取るかどうかを見ることである。あなたは異なる種類の人々の異なる働きの違いを識別しなければならない。愚かな信奉者になってはならない。これはあなたの成長の問題に影響を及ぼす。どの人の指導には道筋があり、どの人の指導にはないかを見極めることができなければ、あなたは簡単にだまされるだろう。これらすべてはあなた自身のいのちに直接関連している。完成されていない人々の働きには自然のままのものが多すぎる。あまりにも多くの人間の意志がその中に混ざっている。彼らの存在は本来の性格、持って生まれたものであり、取り扱いを経験した後のいのちではなく、変えられたあとの現実でもない。どうしてこのような人がいのちを追及している人々を支えることができるだろうか。人の本来のいのちは彼の持って生まれた知性あるいは才能である。この種の知性あるいは才能は、神が人に要求するものとはほど遠い。人がまだ完成されておらず、その堕落した性質が刈り込まれておらず、取り扱われていなければ、その人が表すものと真理の間には大きな隔たりがあるだろう。それは彼の想像や一方的経験など、あいまいな事柄と混ざり合っているだろう。そのうえ、彼がどのように働くかに関係なく、人々は全体的目的や、すべての人が成長するのに適した真理などはないと感じている。人々に出される要求の大半は、人々に力の及ばないことをするよう求めるが、それはアヒルを止まり木に追い立てるようなものだ。これは人間の意志の働きである。人の堕落した性質、人の考えや見解はその人の体のあらゆる箇所に浸透している。人は真理を実践する本能を持って生まれていないし、真理を直接理解する本能も持っていない。人の堕落した性質と統合すれば、この種の自然のままの人が働くと、障害にならないだろうか。しかし、完成されている人は、人々が理解するべき真理の経験があり、人々の堕落した性質を知っているので、彼の働きの中の曖昧で非現実的ことがらは次第に減少する。つまり、彼が表した真理はさらに正確で現実的なものになる。人の心の中の考えは特に聖霊の働きを妨害する。人は物事を取り扱う際、豊かな想像力と合理的論理、ならびに古い経験を持っている。これらは刈り込みと修正を受けなければ、すべて働きの障害であり、したがって、人の働き、特に未完成の人々の働きはもっとも正確なレベルに到達することはできない。

 人の働きには範囲と限界がある。一人では一定の段階の働きしかできず、時代全体の働きをすることはできない―さもなければ、その人は人々を規則に導くだろう。人の働きは特定の時間または段階にしか適用できない。人の経験には範囲があるからである。人の働きを神の働きと比較することはできない。人の実践方法と真理の認識はすべて特定の範囲に適用される。人が歩む道は完全に聖霊の意志であると言うことはできない。人は聖霊によって啓発されるだけで、聖霊で完全に満たされることはできないからである。人が経験できることはすべて通常の人間の範囲内のもので、通常の人間の心の中の考えの範囲を越えることはできない。実践的表現をする人々はすべてこの範囲内で経験する。彼らが真理を経験するとき、それはいつも聖霊の啓発を受けた通常の人間生活の経験であり、通常の人間生活から逸脱した方法による経験ではない。彼らは人間生活に基づいて聖霊に啓発された真理を経験する。そのうえ、この真理は人によって異なり、その深さは人の状態に関連している。彼らが歩む道は真理を追及する人の通常の人間生活であり、その道は聖霊によって啓発された通常の人間が歩む道であると言えるだけである。彼らが歩む道は聖霊が取る道であると言うことはできない。通常の人間の経験では、追求する人々が異なるので、聖霊の働きも異なっている。さらに、彼らが経験する環境や経験の範囲は同じではなく、彼らの精神や考えが混ざり合うため、その経験の混ざり合う程度もさまざまになる。各人は個々の異なる条件に従って真理を理解する。真理の本当の意味を完全に理解することはなく、ほんの一部にすぎない。人が真理を経験する範囲はいつも個人の異なる条件に基づいているため、同じにはならない。こうして、同じ真理を表した認識でも人が異なれば同じにはならない。つまり、人の経験にはいつも限界があり、聖霊の意志を完全に表すことはできず、たとえ人の表すものが神の心にかなり一致していても、たとえ人の経験が聖霊の実行する人を完全にする働きに非常に近くても、人の働きを神の働きとして把握することはできない。人は神の僕にすぎず、神に任せられた働きしかできない。人は聖霊の啓発を受けた認識や自分の個人的経験から得た真理しか表すことはできない。人は無資格で、聖霊の流出口となる条件を持たない。人の働きは神の働きであると言う資格は与えられていない。人には人の働く原則があり、すべての人は異なる経験を持ち、さまざまな条件を所有している。人の働きには聖霊の啓発を受けたその人の経験のすべてが含まれる。これらの経験は人の存在を表すだけで神の存在、あるいは聖霊の意志は表さない。したがって、人が歩む道は聖霊が歩む道ということはできない。なぜなら人の働きは神の働きを表すことはできず、人の働きと人の経験は聖霊の完全な意志ではないからである。人の働きは規則に陥りがちであり、その方法はすぐに限られた範囲に限定されてしまい、人々を自由な道に導くことはできない。ほとんどの信奉者は限られた範囲内に住んでいて、彼らの経験する道もその範囲内に限られている。人の経験はいつも限られている。働く方法もいくつかに限られており、聖霊の働きや神自身の働きと比較することはできない―これは、人の経験が結局は限られているからである。神がどのように働きを行おうと、それには規則がない。どのようになされようと、神の働きは一方向に限られはしない。神の働きに規則はまったくなく、働きはすべて自由に解放される。どんなに多くの時間をかけて神に従おうとも、人々は神が働く方法のいかなる規範も総括することはできない。神の働きは原則に基づいているが、いつも新しい方法で行われ、いつも新しい進展があり、人の手の届く範囲のものではない。一期間の間に、神はいくつかの異なる種類の働き、異なる導き方を示すことがあり、人々がいつも新たな成長や新たな変化を持てるようにする。神の働きの規範を見つけ出すことができないのは、神がいつも新しい方法で働いているからである。このようにしてのみ、神の信奉者は規則に陥らないで済む。神自身の働きはいつも人々の見解を避け、彼らの見解に反論する。本当の心で神に従い、神を追い求める人々だけが自分の性質を変えることができ、いかなる規則にも支配されず、いかなる宗教的見解にも拘束されず、自由に生きることができる。人の働きが人々に要求することはその人自身の経験および自分自身が達成できることに基づいている。これらの要求の基準は一定の範囲内に限られており、実践方法も非常に限られている。したがって信奉者は無意識のうちにこの限られた範囲内で生きることになる。時が経つにつれてそれらは規則と儀式になる。一期間の働きが神の個人的完成を経験しておらず、裁きを受けていない人に導かれると、信奉者はみな宗教家、神に抵抗する専門家になるだろう。したがって、資格のある導き手ならば、その人物は裁きを経験しており、完全にされることを受け入れた人である。裁きを経験していない人々は、聖霊の働きを持っているとしても、曖昧で非現実的なことしか表すことはできない。時が経つにつれて、彼らは人々を曖昧で超自然的規則に導くだろう。神が行う働きは人の肉と一致しない。人の考えとも一致せず、人の見解に反論する。曖昧な宗教色とはまじりあわない。神の働きの結果は、神によって完成されていない人には達成不可能であり、人の考えの及ばないものである。

 人の心の中の働きは人によってあまりにも容易に達成される。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人物を後になって仕事に就き、指導する有能な神学校卒業生に育てることである。6000年に及ぶ神の働きで、あなたは何か規範を見つけ出すことができるだろうか。人が行う働きの中にはたくさんの規則や制限があり、人間の脳は独善的すぎる。そこで、人が表すことは自分の経験すべてのなかの多少の知識と認識であり、これから離れては何も表すことができない。人の経験、あるいは認識は生まれながらの才能、または本能から生じるものではなく、神の導きと神の直接的牧養により生じる。人はこの牧養を受け入れる器官を持っているだけで、神性が何であるかを直接表す器官は持っていない。人は源になることはできず、源から水を受ける器になれるだけである。これが人間の本能、人間として持つべき器官である。神の言葉を受ける器官を失い、人間の本能を失った人物はもっとも大切なものも失い、神に造られた人としての本分を失う。神の言葉、または神の働きについての認識、または経験を持たない人物は、その本分、つまり、神に造られた存在として行うべき本分を失い、神に造られた存在としての尊厳を失う。肉の形で表されようと、聖霊によって直接表されようと、神性が何であるかを表すのは神の本能であり、これが神の職務である。人は自分自身の経験、あるいは認識を神の働きの間に、またはその後に表す(すなわち、人は自分の人格を表現する)。これは人の本能と本分であり、人が達成すべきことである。人の表現は神が表すものに遠く及ばないし、人の表すものにはたくさんの規則があるが、果たすべき本分は果たさなければならないし、しなければならないことはしなければならない。自己の本分を果たすために人間的に可能なすべてを人はしなければならず、ほん少しでも留保があってはならない。

 何年も働いた後、人は働いた年月の経験、ならびに蓄積した知恵と規則の一部を総括する。長期間働く人は、聖霊の働きの動きを感じとることができ、聖霊がいつ働き、いつ働かないかを知っている。重荷を背負っている時の交わり方を知っており、聖霊の働きの通常の状態、および人々がいのちにおいて成長する通常の状態が分かっている。それが何年も働いてきて、聖霊の働きを知っている人である。長い間働いてきた人々は確信をもって、急がずに話す。何も言うことがない時でさえ、落ち着いている。彼らはそわそわしたり不安になったりせず、聖霊の働きを求めるために心の中で祈り続けることができる。彼らは働くことに熟練している。長い間働き、多くの教訓や経験を持っている人は、内心に聖霊の働きを妨害するものを多く持っている。これは長期間働いた人の欠点である。働き始めたばかりの人は人間的教訓や経験を持ち込んでいないし、とりわけ、聖霊がどのように働くかわからず当惑する。しかし、働いているうちに、次第に聖霊の働き方を感じるようになり、聖霊の働きを持つためには何をするべきか、他人の極めて重要な点に触れるためには何をするべきかについて気づくようになり、働き手が所有すべき一般的知識を知るようになる。時間が経つと、彼は働きに関するそのような知恵と一般的な知識をほとんど自分の手の甲のように熟知するようになり、働くとき簡単に使うようである。しかし、聖霊が働き方を変えるとき、彼はまだ古い知識と規則に固執し、新しい働きの動きについてはほとんど知らない。何年にもわたり働き、聖霊の存在と導きが十分であれば、働きに関する教訓と経験がますます増え、彼はうぬぼれではなく自信に満たされる。言い換えれば、彼は自分の働きがすっかり気に入り、聖霊の働きについて得た一般的知識に非常に満足する。特に、他の人々は獲得していない、あるいは認識していないものが彼にさらに自信を与える。彼の中の聖霊の働きは決して消し去ることはできず、一方、他の人々はこの特別な取り扱いを受ける資格がないように思われる。何年も働き、かなりの使用価値を持っている彼のような人々だけが享受する資格が与えられる。これらのことは彼が聖霊の新しい働きを受け入れる際にかなりの障害になる。新しい働きを受け入れることができても、それは一夜にしてできることではない。受け入れる前にはいくつかの紆余曲折を必ず経験する。この状況は彼の古い見解が扱われ、古い性質が裁きを受けた後ようやく徐々に好転していく。これらの段階を経由しなければ、彼が諦めて古い見解と調和しない新しい教えや働きを容易に受け入れることはない。これは人が取り扱われるべきもっとも困難なことで、変えるのは容易ではない。働き手として聖霊の働きを理解し、その動きを総括し、同時に自分の働いてきた経験にとらわれることなく、古い働きに照らして新しい働きを受け入れることができれば、その人は賢い人であり、働き手としての資格がある。人はしばしば自分の働いてきた経験を総括することができないまま数年間働く。あるいは仕事の経験や知恵を総括した後、新しい働きを受け入れるのを妨げられ、新旧の働きを適切に理解することも、正しく取り扱うこともできない。人は実に扱いづらい。あなた方のほとんどはこのようだ。聖霊の働きを何年にもわたり経験してきた人々は手放し難い見解を数多く抱えていて、新しい働きを受け入れにくいが、働き始めたばかりの人は働きに関する一般的知識に欠けており、もっとも単純なことの取扱い方でさえわからない。あなた方のような人々は本当に扱いづらい。多少の経験を経てきた人々はとても誇り高く、傲慢なので自分の出自を忘れてしまう。彼らはいつも若者を軽蔑しているが、新しい働きを受け入れることができず、自分が集めて、何年にもわたり保持してきた見解を手放すことができない。若い、無知な人々は聖霊の新しい働きを少し受け入れることができ、非常に情熱的であるが、問題に出くわしたとき、うろたえてしまい、何をしたらいいかわからなくなる。情熱的ではあるが、あまりにも無知である。聖霊の働きを少し知っているだけで、生活の中で使うことはできないので、それはまったく役に立たない教義にすぎない。あなた方のような人が多すぎる。何人の人が用いられるのに適しているだろうか。聖霊に適した働きのできる人が何人いるだろうか。あなた方はこれまで非常に従順であったように思われるが、実際には自分たちの見解を諦めておらず、いまだに聖書の中に探し求め、曖昧なまま信じ、見解のなかでさまよっている。今日の実際の働きを注意深く調べたり、奥深く探ろうとしたりする人は誰もいない。あなた方は自分の古い見解で今日の道を受け入れている。そのような信仰で何が得られるのか。あなた方の中には明らかにされていない見解が数多く隠されていると言えるだろう。あなた方はそれらを隠そうと最大の努力をしており、簡単には表そうとしないだけである。あなた方は新しい働きを誠実に受け入れず、古い見解を諦めるつもりはない。あなた方はあまりにも多くの、あまりにも嘆かわしい人生哲学を持っている。古い見解を諦めず、仕方なく新しい働きに取り組んでいる。あなた方の心はあまりにも邪悪で、新しい働きの手順をまったく心に留めない。あなた方のような放蕩者に福音を広める働きができるだろうか。あなた方は全宇宙に福音を広める働きを請け負うことができるだろうか。あなた方のこうした行為は、あなた方が性質を変え、神を知るようになることを妨げている。このままで進めば、あなた方は取り除かれる運命にある。

 あなた方は神の働きと人の働きの区別の仕方を知らなければならない。あなたは人の働きから何を見ることができるか。人の働きの中には人の経験による要素がたくさんある。人が表すものはその人そのものである。神自身の働きも神そのものを表すが、神そのものは人そのものとは異なる。人そのものは人の経験や人生を表し(人生やその人が持つ人生哲学において人が経験したり、遭遇したりするもの)、異なる環境に住む人々は異なる存在を表す。あなたに社会的経験があるか否か、あなたが家族の中で実際どのように生活し、経験しているかはあなたが表すものの中に見ることができるが、あなたは肉となった神の働きから神に社会的経験があるか否か見ることはできない。神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。神は、なさなければならない仕事をし、堕落した人間の本質を完全に明らかにするために、複雑で、扱いにくく、浅ましい社会生活を経験する必要はない。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き、裁くことは神の肉の経験の表現ではない。それは人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌ったあと、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神であることを表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。神の働きに関し、人は神がどのような存在か言うことはできない。神を神の働きに基づいて創造された人として分類することも不可能である。神そのものも神を創造された人として分類できないようにしている。人は神を人間以外のものと考えるしかなく、どの範疇に神を入れるかはわからない。そこで、人は神を神の範疇に入れざるをえない。こうすることは、人にとって不合理なことではない。なぜなら、神は人が行うことのできないたくさんの働きをしてきたからである。

 神の働きは、神の肉の経験を表すのではない。人が行う働きは人の経験を表す。誰もが自分の個人的経験について話す。神は直接真理を表し、一方人は真理を経験したあと、付随する経験を表せるだけである。神の働きに規則はなく、時間や地理的制約に支配されない。神はいつでも、どこでも自分が何かを表すことができる。神は好きなように働く。人の働きには条件と事情がある。そうでなければ、人は働くことはできず、神に関する認識や真理の経験を表すことができない。あなたは、神自身の働きか、人の働きか伝えるためには両方の違いを比較するしかない。神自身のする働きはなく、あるのは人の働きのみであれば、あなたは人の教えは高度で、ほかの誰の能力も及ばないと知るだろう。彼らの話す調子、事を扱う際の原則、働く際の経験豊かで、落ち着いた態度は他の人々の力の及ぶところではないと知るだろう。あなた方はみな高い人間性を持つこれらの人々を称賛するが、神の働きと言葉から神の人間性がどれほど高いか知ることはできない。それどころか、神は普通であり、働くときは通常で現実的だが、人間には計り知れないものでもあり、そのため、人々は一種の畏敬の念を神に感じる。おそらく、働きにおける人の経験は特に高い、あるいは想像力や論理的思考は特に高く、人間性は特に良い。これらのことは人々の称賛は得られても、畏敬の念や畏れを喚起することはできない。働く能力を持ち、特に深い経験を持ち、真理を実践できる人々は誰もが称賛するが、彼らは畏敬の念を呼び起こすことは決してできず、称賛と羨望がせいぜいである。しかし神の働きを経験した人々は神を称賛するのではなく、その代わり、神の働きは人間の力の及ばないもので、人には計り知れず、新鮮で素晴らしいと感じる。人々が神の働きを経験する時、神に対して最初に持つ認識は、神は計り知れず、賢明で素晴らしいということであり、彼らは無意識のうちに神を敬い、神の働きの神秘性を感じ、人の考えの及ばないものだと思う。人々はひとえに神の要求に応じられること、神の希望を満たせることを望み、神を超えようとは思わない。なぜなら、神の働きは人の考えや想像のおよばないものであり、人が神に代わって行うことはできないからである。人自身が自分の力不足を知らないのに、神は新しい道を開拓して、人をより新しく、より美しい世界へ至らせるようにしたので、人類は新たに進歩し、新しいスタートを切った。神に対して人が感じるのは称賛ではない、というより、称賛だけではない。彼らのもっとも深い経験は畏敬の念と愛であり、彼らの抱く感情は、神は実に素晴らしいということである。神は人ができない働きをし、人が言えないことを言う。神の働きを経験した人々はいつも言葉では言い表せない感情を経験する。より深い経験を持つ人々は特に神を愛する。彼らはいつも神の素晴しさを感じ、神の働きは非常に賢く、非常にみごとだと感じ、そう感じることによって彼らの中には限りない力が生み出される。それは恐れ、あるいは時折生じる愛と尊敬ではなく、人に対する神の慈悲と寛容を深く感じる気持ちである。しかし、神の刑罰と裁きを経験した人々は、神を威厳で、犯しがたいものと感じる。神の働きを数多く経験してきた人々でさえ、神を深く理解することはできない。本当に神をあがめているすべての人は、神の働きは人々の見解とは一致せず、いつも反していることを知っている。神は人々が神を完全に称賛したり、神に服従しているように見せたりすることを必要とせず、むしろ本当に畏敬の念を持ち、本当に服従することを必要とする。神の大半の働きにおいて、本当の経験を持つ人はだれでも神に対する畏敬の念を感じるが、それは称賛よりも高い。人々は神の刑罰と裁きの働きによって神の性質を見た。したがって心の中で神を畏れる。神があがめられ、従われるのは、神の存在と性質が被造物のものとは同じでなく、上回っているからである。神は創造された存在ではなく、神のみが畏敬の念と服従を受けるに値する。人にはその資格がない。そこで、神の働きを経験し、本当に神を知る人々はすべて、神に対して畏敬の念を感じる。しかし、神についての自分の見解を取り除かない人々、すなわち、断じて神を神とみなさない人々は、神に対して畏敬の念をまったく持たず、神につき従ったとしても征服されない。彼らは生まれつき不従順なのだ。神がこの働きをするのは、すべての被造物が創造主を畏れ、崇拝し、無条件に神の支配に服従するという結果を達成するためである。これが、神のすべての働きが達成を目指している最終的結果である。もしそのような働きを経験した人々が、たとえ少しでも、神を畏れなければ、もし彼らの過去の不服従がまったく変わらなければ、これらの人々は必ず取り除かれる。人の神に対する態度が遠くから称賛したり、尊敬の念を示したりするだけで、少しも愛さないならば、これは神を愛する心のない人の達することであり、そのような人は完全なものにされる条件に欠ける。多くの働きをしても人の本当の愛を得られなければ、それはその人が神を獲得しておらず、心から真理を追及していないことを意味する。神を愛さない人は真理を愛さず、したがって神を獲得することはできないし、ましてや神の承認を得ることはできない。そのような人々は、どのように聖霊の働きを経験しようとも、どのように裁きを経験しようとも、やはり神を畏れることはできない。これらの人々は本性を変えることができず、かなり邪悪な性質を持つ人々である。神をあがめない人々はすべて取り除かれ、懲罰の対象になり、悪事を働いた人々と同様に罰せられ、不正なことをした人々よりもずっとひどく苦しまなければならない。

2018年10月6日土曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「あなたが祈る時には、信仰、根気、決意を備えている必要がある。ほとんどの人が自分で祈りの訓練を始める時、聖霊に触れられたと感じず、失望してしまう。それではいけない。あなたは粘り強さを持たなければならない。聖霊に触れられるのを感じること、また追い求め探究することに集中しなさい。」


2018年9月24日月曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「神を信じる者として、あなたが祈れば祈るほど、神によって触れられることも多くなる。このような人々にはより強い決意があり、神から最新の啓きをもっと受けることができる。その結果このような人々だけが、最も早く聖霊によって完全にされ得るのだ。」


2018年9月17日月曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段であり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊の無い死んだ者であると言える。それは、彼らには神によって心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りが無ければ、彼らは正常な霊的生活を実現できず、まして、聖霊の働きに従うことなどできない。祈りが無ければ、彼らは神との関係を絶ち切り、神の承認を得ることが出来ない。」


2018年9月15日土曜日

【東方閃電】全能神の発表「神の心にかなう奉仕とは」

 今日、わたしたちがおもに語り合うことは、神を信仰する上で人々はいかに神に仕えるべきか、神に仕える者たちが満たすべき条件、また理解すべきこととは何なのか、そして、あなたたちの奉仕にはどのような逸脱があるかなどである。あなたたちはこれら全てを理解すべきである。これらの事柄は、あなたたちがどのように神を信じるか、聖霊によって導かれる道をどのように歩むか、あなたたちに関する全ての事が神によってどのように定められるかについて言及するものである。そして、それらの事柄によってあなたたちは、あなたたちの内に働く神の業の一つひとつの段階を知るであろう。そこに到達すると、あなたたちは神への信仰とは何であるのか、いかにして神を正しく信じるべきか、そして、神の心にかなって行動するためには何をすべきかということを充分に理解できるようになるだろう。それによって、あなたたちはすっかり完全に神の働きに従うようになり、ひとつの不満もなく、神の働きを裁くことも、分析することもせず、ましてや研究することなど全くなくなるだろう。その上、あなたたちは皆死に至るまで神に従うことができるようになり、神があなたたちを羊のように引き連れ、屠ることに身をまかせるようになる。そうすれば、皆1990年代のペテロになることができ、たとえ十字架に付けられても、一言の不満もこぼさず、神を全身全霊で愛し尽くすことができるようになる。その時初めて、あなたたちは1990年代のペテロとして生きることができるようになるのだ。

 決心しだいで誰でも神に仕えることはできるが、神の心に一心に注意を払い、神の心を理解する人々にしか神に仕える資格や権利は与えられない。あなたたちの経験から見ても解かるように、多くの人は、神に仕えるということは、神のために熱心に福音を広め、各地を巡回し、神のために費やし、犠牲を払い、その他さまざまなことを為すことだと信じている。より一層信心深い人々は、神に仕えることは、手に聖書を持って走り回り、神の国の福音を広め、罪を悔い改め告白させることによって人々を救うことを意味すると信じている。また、神に仕えることは、神学校で学んだ後礼拝堂で説教し、聖書の各章を読んで人々に教えることだと考えている宗教指導者が大勢いる。また、神に仕えるということは、生涯結婚せず、家族を養うこともなく、全存在を神に捧げることを意味すると信じている兄弟姉妹も沢山いる。貧しい地域には、神に仕えるということは癒しを行い、悪霊を追い払い、あるいは兄弟姉妹のために祈り、彼らに仕えることだと信じている人々もいる。あなたたちの中には、神に仕えることは神の言葉を飲食し、毎日神に祈り、どこにいても教会を訪れることだと信じている人々がたくさんいる。そこで、教会生活を送ることが神に仕えることだと言う人々もいる。しかし、神に仕えることが実際何を意味するのかを知っている人はほとんどいない。神に仕える人は星の数ほどたくさんいるが、神に直接仕えることができる人の数、神の心に仕えることができる人の数は微々たるもので、取るに足らないほど少ない。なぜわたしはこのように言うのだろう。わたしがこんなことを言うのは、あなたたちが「神への奉仕」という言葉の本質を理解していないからであり、神の心にどう仕えたらよいのかほとんどわかっていないからである。今日、わたしたちはおもに、神の心に従ってどのように仕えるべきか、神の心を満足させるためにはどのように仕えるべきかについて語り合っている。

 あなたたちが神の心に仕えたいと望むならば、どのような人々が神に愛されるのか、どのような人々が神に忌み嫌われるのか、どのような人々が神によって完全にされるのか、どのような人々が神に仕える資格を与えられるのかをまず理解しなければならない。これはあなたたちが身に着けておかなければならない最小限のことである。その上、あなたたちは神の働きの目的と、神が今ここで行う働きを知るべきである。これを理解した後、神の言葉の導きを通して、あなたたちはまず入り、まず神の任務を受ける。あなたたちが実際、神の言葉に基づいて経験し、本当に神の働きを知る時、あなたたちは神に仕える資格が与えられるだろう。そして、あなたたちが神に仕える時、神はあなたたちの霊の目を開き、あなたたちが神の働きをより深く理解しいっそう明確に見ることができるようにする。あなたたちがこの現実に入ると、あなたたちの経験はより深く、現実的になる。そのような経験を持った者たちは皆、教会の間を巡り歩き、兄弟姉妹の必要を満たすことができるようになる。あなたたちの欠点を補うために、各々がお互いの力によって恩恵をこうむり、より豊かな霊的認識を獲得するのである。この結果を達成して初めてあなたたちは神の心に仕えることができ、神に仕える過程で神によって完全にされる。

 神に仕える者は、神と心を一つにする者でなければならず、神に愛されており、神に最大限の忠誠を示すことができなければならない。人々の後ろで行動しようと、前で行動しようと、あなたは神の前で神を喜ばすことができ、神の前ではしっかり立つことができる。また、他の人々があなたをどのように扱おうとも、あなたはいつも自分の道を歩み、神の重荷に一心に注意を払う。こういう者だけが神と心を一つにする者なのだ。神に親しい者が直接神に仕えることできるのは、彼らが神から重大な任務や重荷を与えられているからである。彼らは神の心を自分の心とし、神の重荷を自分の重荷とすることができ、将来の展望を得るか、失うかなど一切考慮しない。将来の展望が何もなく、何も得るものがない時でさえ、彼らは常に愛に溢れる心で神を信じるだろう。そこでこのような人は神と心を一つとする者なのである。神と心を一つにする者は神の腹心でもある。神の腹心だけが、神の絶え間ない憂慮や神の願いを共有することができる。彼らの肉体は弱く、苦痛を味わうが、彼らは痛みに耐え、神を満足させるために、自分の愛するものを断念することができる。神はそのような人々にさらなる重荷を与え、神がしようとすることはこれらの人々を通して表現される。従って、これらの人々は神に愛され、神自身の心に適った神の僕である。そして、このような人々だけが神と共に統治することができる。あなたが本当に神と心を一つにする者になった時が、正に神と共に統治する時なのである。

 イエスが神の任務――全人類を贖う業――を完了することができたのは、イエスが神の心に全ての注意を払い、彼には個人的な計画や思慮がなかったからである。だからイエスも神と心を一つにする者であった――神自身であった。それは、あなたたち皆がとてもよく理解しているとおりである。(実際、イエスは神によって証しされた神自身であった。わたしがこのことをここで述べるのは、イエスに関する事実を取り上げてこの問題を例証するためである。)イエスは神の経営(救いの)計画を全ての中心に置くことができ、いつも天の父に祈り、天の父の心を求めた。イエスは祈り、次のように語った。「父なる神よ。あなたの心にかなうことを成し遂げたまえ。わたしの思うようにではなく、あなたの計画によってことを為したまえ。人は弱いかもしれないが、なぜあなたは人のことを気遣うのですか。あなたの手の中では蟻のような人間が、どうしてあなたの配慮の対象になれるのでしょうか。わたしが心の中で願うのは、あなたの心を成就することだけです。わたしの望みは、あなたがわたしの内で行なう業を、あなたが自らの意図にしたがって為すことです。」エルサレムへ向かう途上、イエスは苦悶して、あたかもナイフが心の中で捻じ曲げられているかのように感じたが、神の言葉に背く思いは微塵もなかった。いつも強い力がイエスを磔刑の場所に向かって突き進ませた。最終的に、イエスは十字架に釘付けにされ、罪深い肉と同様になり、人類を贖う働きを完了し、死と黄泉の束縛を克服した。イエスの前に、死も、地獄もハデスも力を失い、イエスによって打ち負かされた。イエスは三十三年生きたが、生涯を通して彼はいつも全力を尽くし、その時の神の働きに従って神の心を全うした。決して自分の個人的損得は考慮せず、いつも父なる神の心のことを思った。従ってイエスが洗礼を受けた後、神は次のように語った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」イエスの神に対する奉仕は神の心にかなうものだったので、神はイエスの肩に全人類を贖うという大きな重荷を負わせ、それを成し遂げるためにイエスをつかわし前進させた。そして、イエスにはこの重要な任務を完成する資格と権限があった。生涯を通じて、イエスは神のために計り知れないほどの苦しみに耐え、幾度となくサタンの試みにあったが、決して落胆することはなかった。神がイエスにそのような任務を課したのはイエスを信頼し、愛していたからである。従って、神は自ら次のように語った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」当時、イエスしかこの任務を果たすことができず、これは恵みの時代に全人類を贖うという神の働きを完成させることの一部であった。

 もしあなたたちが、イエスのように神の重荷に一心に注意を払い、自分の肉に背を向けることができるなら、神は、重要な任務をあなたたちに委ね、あなたたちは神に仕える条件を満たすだろう。そのような状況の下でのみ、あなたたちは自分が神の心を実行し、神の任務を果たしていると思い切って言うことができ、その時初めてあなたたちは本当に神に仕えていると言い切れるだろう。イエスの例と比較して、あなたは自分が神と心を一つにする者だと思い切って言えるだろうか。あなたは、神の心を実行していると言い切れるだろうか。あなたは、神に本当に仕えているとあえて言えるだろうか。今日、あなたがこのような神への奉仕を理解していないなら、あなたは自分が神と心を一つにする者だと言い切れるだろうか。それでも、もし神に仕えていると言うなら、あなたは神を冒涜しているのではないだろうか。よく考えてみなさい。あなたは神に仕えているのだろうか、それとも自分自身に仕えているのだろうか。あなたはサタンに仕えているのに、頑固に神に仕えていると言い張る――それこそ神を冒涜することではないか。多くの人々がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の快楽から離れることをいつも恐れている。彼らは教会で通常の役割を果たさず、無料で食べ、あるいは、兄弟姉妹をわたしの言葉で訓戒し、自分を高くして、他人に対して威張る。これらの人々は神の心を実行していると言い張って、自分は神と心を一つにする者だといつも言う――これはばかばかしくないだろうか。あなたが正しい動機を持っていても、神の心に仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし動機が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く者であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人々にはまったく同情しない。神の家で、彼らは無料で食べ、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものばかりを求め、神の心には何の注意も払わない。彼らのすることは神の霊に見られることはない。彼らはいつも状況を操り、兄弟姉妹に対して陰謀を企んでいる。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神と心を一つにする者になれるだろうか。あなたは神の祝福を受けるにふさわしいだろうか。あなたは自分のいのちにも教会にも責任を持っていないのに、神の任務を受けるのにふさわしいだろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するだろうか。あなたがこのような形で仕えるなら、神はあなたにあえて大きな任務を託すだろうか。あなたは物事を先延ばしにしているのではないか。

 わたしがこう言うのは、神の心にかなって仕えるためには、どのような条件を満たさなければならないかをあなたたちにわからせるためである。あなたたちが心を神に捧げなければ、あなたたちがイエスのように神の心に一心に注意を払わなければ、あなたたちは神に信頼されないし、最終的には神の裁きを受けることになるだろう。おそらく今日、神に仕える際、あなたはいつも神を欺こうという思いを抱いているかもしれない――しかし、神はそれでもあなたに気付くだろう。要するに、他の全てのことはさておき、あなたが神をだますと、情け容赦ない裁きがあなたの上に下されるだろう。あなたたちは神に仕えるための正しい道筋にちょうど入ったことを活かして、二心の忠誠ではなく、まず神に心を委ねるべきである。神の前であれ、他の人々の前であれ、あなたはいつも心を神の方に向けて、イエスのように神を愛する決心をすべきである。あなたが神の心にかなった神の僕となれるように、神はこのようにしてあなたを完全にする。あなたが本当に神によって完全にされることを望むなら、また、あなたの奉仕が神の心にかなうことを望むなら、神への信仰に関するこれまでの考え方を変え、これまでの仕え方を変えるべきである。そうすればあなたのもっと多くの部分が神によって完全にされるだろう。このように、神はあなたを見捨てず、ペテロのように、あなたは神を愛する人々の先頭に立つだろう。あなたが悔い改めないままでいるなら、ユダと同じ最後を迎えることになるだろう。これは神を信じるすべての人々が理解すべきことである。

2018年7月5日木曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「聖霊の新しい業に従い神の賞賛を得る」


Ⅰ 聖霊の業に従うとは 今日の神の意志を理解すること 要求に沿って行動し、今日の神に従うこと 神が今望むことに従い 神の新たな言葉により 真の道に入ること そのような人々が聖霊の業に従う 彼らは聖霊の流れの中 神を見て賞賛を得る 彼らは神の性質、人の観念や不従順さ 性質や本性を知り 彼らの性質は神に仕える過程で変化する このような人々だけが 神を得ることができる このような人々だけが 唯一の真の道を見出した者たち Ⅱ 神の最新の業の認識を 得るのは容易ではないが もし意図的に神の業に従い、探し求めるなら 神を見るチャンスと聖霊の新たな導きを得て 彼らの性質は神に仕える過程で変化する このような人々だけが 神を得ることができる このような人々だけが 唯一の真の道を見出した者たち 神の業に敢えて逆らうものは 聖霊の啓示や神の導きを受けられない 神の最新の業を受けることができるかどうかは 神の恵みと彼らの追求と意図次第である 『言葉は肉において現れる』より

2018年6月25日月曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉の抜粋「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」3


 ペテロの長年にわたる苦難は聖書に記されていないが、それでペテロが実際それらを経験しなかった、あるいはペテロは完全にされていなかったとは証明できない。人がどうやって神の働きを完全に理解できるというのか。聖書の中の記録は、キリストが個人的に選び取ったわけではなく、後世の人によって編集されたものなのである。であれば、聖書の中の記録は全て人の考えによって選ばれたということにならないだろうか。さらに、ペテロとパウロの最後は、使徒書簡の中には明確に書かれていないため、人はペテロとパウロを自分の見方や好みで判断する。そして特にパウロの働きが多く、そのすばらしい「功績」のために、彼は万人の信頼を得たのである。人は表面的な事だけを重んじてはいないだろうか。一体どうやって人が人の本質を見極めることができるというのか。しかも、パウロは何千年もの間崇拝の対象であることを見れば、誰が敢えて彼の偉業を安易に否定するだろう。ペテロは単なる漁師だったのだから、その貢献度がパウロと同じであるはずがない。貢献の度合いを基準にすれば、ペテロよりも先にパウロが見返りを与えられ、神に認められるのに相応しい者なのである。それなのに、神がパウロに対しては、単純に彼の賜物を利用して働きを行わせ、一方でペテロは完全にされるということを誰が想像できただろう。これは、主イエスが最初からペテロとパウロのために計画を立てたということでは決してなく、彼らは、その本来持っている性質に応じて、完全にされた若しくは働きを与えられたのである。よって、人々の目に見えるものは、単に人の表面上の貢献なのであり、一方で神が見るのは人の本質であり、人が最初から追い求める道であり、そしてその人の追求の動機なのである。人は、他人を自分の考えと受け止め方で測るが、一人の人間の結末は、その人のうわべで決まるわけではない。それだから、あなたに言いたいのは、あなたが最初から選ぶ道が成功の道であり、あなたの追求に対する見方が最初から正しいものであれば、あなたはペテロのようである。そして、あなたが歩む道が失敗の道であるならば、いかなる代価を払おうが、あなたの最後は、パウロのそれと同じである。いずれの場合であっても、あなたの終着点、そしてあなたが成功するか失敗するかは、あなたが追求する道が正しいかどうかで決まるのであって、あなたの献身の度合いやどれくらいの代価を支払ったかで決まるのではない。ペテロとパウロの本質、そして彼らが追い求めた目標はそれぞれ異なるものだった。人がこれらのことを発見することは不可能であり、神のみがそれらを全て知っているのである。というのは、神は人の本質を観ているが、人は自らの本質が一体何なのか全く知らないからである。人は、人の内側の本質あるいは自分の実際の霊的背丈を見ることはできないから、パウロの失敗とペテロの成功の理由を見つけることができないのである。多くの人がペテロではなくパウロを崇拝する理由は、パウロが公の働きのために使われ、人がその働きを実際に見られるため、パウロの「功績」を認めることが可能だからである。一方でペテロの経験は、人には見えないものであり、また彼が追い求めたものは人には達成できないことのため、人はペテロに興味を持たないのである。

 ペテロは、神の取り扱いと精錬を経験することで完全にされた。彼はこう言った。「私は、いつでも神様の望むことを叶えるべきで、私のすることの全てが神様の心を満足させることだけを望む。たとえ罰せられても裁かれても、喜んでそうする」と。ペテロは自分の全てを神に差し出し、その働きや言葉そして彼の人生そのものも全て神を愛することのためにあった。ペテロは聖さを追求した人であり、経験を重ねるごとに、彼の心の奥深くにある神への愛はより大きくなったのである。しかしパウロの方は、表面的な働きをした。実際パウロもよく働いたが、彼の労働は、自分の働きを適切に行うことで見返りを得るためのものであった。パウロは、最終的に見返りを得られない事を知っていたなら、その働きを放り出していたに違いない。ペテロが大切にしていたのは、彼の心の中の本当の愛であり、現実的で達成できるものであった。ペテロは、見返りを貰うことではなく、自分の性質が変わるかどうかに重きを置いた。一方でパウロは、より一層努力をして働くこと、表面上の働きや献身、そして普通の人達が経験することのない教理に重きを置いた。パウロは、自分自身の心の奥深くの変化あるいは神の真の愛には一切興味がなかった。ペテロの経験は、真の愛そして真の認識を得るためであり、神とより近い関係を築くためであり、それらを生活で実践することであった。パウロが働いたのは、イエスによって委任されたからであり、また彼が待ち望んでいるもののためであったが、これらのことは、彼自身に対する認識や神に対する認識とは全く関係がなかった。彼の働きは、単に刑罰と裁きを避けるためのものであった。ペテロが追い求めたものは純粋な愛であったが、パウロが追い求めたものは義の栄冠であった。ペテロは聖霊の働きを長年経験し、キリストについて実質的な認識を持ち、同時に自分自身に対する認識も深かったから、ペテロの神への愛は純粋なものであった。ペテロは長年の精錬を経て、イエスの認識、そしていのちの認識を深めた。彼の愛は無条件で能動的であり、また彼は見返りを求めず何の利益も望まなかった。パウロの方は、非常に長い間働きを行ったにもかかわらず、キリストについては、実は良く認識しておらず、自分自身についての認識もごくわずかであった。パウロは、キリストに対する愛を単に持っていなかったのである。そしてパウロが働き、そして与えられた道を走り続けたのは、最後に月桂冠を得るためであった。彼が追い求めたのは最も美しい冠であって、最も純粋な愛ではなかった。またパウロの追求は、能動的ではなく、受動的だった。パウロはその本分を尽くしていたのではなく、聖霊の働きによって捕えられた後、やむを得ず働いていたのである。だから彼の追求は、被造物としての資質があったという証明にはならない。被造物の資質を持って本分を尽くしたのはペテロである。人は、神に捧げる人は全て見返りを受けるべきだと考え、また奉仕が大きい人ほど、神に喜ばれるべきということが当然だと思っている。人の観点の本質は取り引きという考え方であり、被造物としての本分を尽くすことに対しては積極的に追い求めないのである。神にとっては、人が被造物としての本分を尽くすこと、つまり神の真の愛を追い求めて神に完全に服従すればするほど、神に認められるということになる。神の観点は、人が元々の本分と地位に立ち返ることを要求する。人は被造物なのだから、自らの立場を乗り越えて神に何らか要求をするというようなことはすべきでなく、ただ被造物としての本分を尽くすべきなのである。パウロとペテロの終着点は、彼らの貢献度ではなく、被造物としての本分を尽くせたかどうかに基づいて判断された。つまり、彼らの終着点は、どれほどの働きを行ったかあるいは世の人が彼らに対してどのような評価を下したかによってではなく、彼らが最初から何を追い求めていたかに基づいて決められたのである。よって、積極的に被造物としての本分を尽くすために探し求めることが成功の道であり、さらに真の神への愛を追い求めることが最も正しい道であり、自らの古い性質の変化と純粋な神への愛を追い求めることが、成功への道である。そのような成功への道こそ、被造物としての本来の姿、そして元々の本分を回復する道なのである。それは回復の道であると同時に、神の初めから終わりまでの全ての仕事の目的でもある。人の追求が個人的な贅沢な要求と不合理な望みで汚れているのなら、人の性質を変化させる効果は達成できない。これは回復の働きと食い違うことになる。よって間違いなく聖霊による働きではなく、このような追求が神に認められることがないのは確かだ。神に認められないのであれば、追い求めることに何の意味があるだろうか。



2018年1月10日水曜日

【東方閃電】御言葉讃美歌聖書の預言が実現された「神は東方へその栄光をもたらした」


神は東方へその栄光をもたらした 神はイスラエルに神の栄光を与えた後 それをそこから取り去り イスラエル人とすべての人々を東方へ連れてきた 神は彼らをみな光へと導いた 彼らが再びひとつとなり、光と交わるために これからはもう光を探し求めなくてもいいように 神は求める人すべてに再び光と イスラエルの栄光を見せるだろう  見よ、神が人々のところへ白い雲に乗って来るのを  見よ、白色の雲を 見よ、たわわなる実を  見よ、イスラエルの神ヤーウェを イスラエルの神を 見よ、ユダヤ人たちの主を 見よ、待ち望んでいたメシアを いつの時代にも王たちに迫害されてきた神の完全なる現れを 神は全宇宙に働きかけ、偉大な業を為すだろう 終わりの日に、神のすべての栄光とすべての働きを人に示して 神はその顔の栄光の全てを現すだろう 何年も神を待っていた人々に 神が白い雲に乗って来るのを待ち焦がれていた人々に 神が再び現れるのを切望していたイスラエルに 神を迫害する全人類に そしてすべての人々は知るだろう 神がずっと昔にその栄光を取り去り それを東方へもたらしたことを 神の栄光はユダヤの地にはない 何故なら、終わりの日がやって来たからだ 『言葉は肉において現れる』より


私たちについて:全能神教会の紹介
  もっと知る: [東方閃電]全能神教会はどうやって創られたでしょうか

2018年1月9日火曜日

【東方閃電】全能神教会の御言葉「二十七番目の言葉」


人間の行動は、けっしてわたしの心に触れなかったし、それが貴重だと思われたこともない。人間の目からすると、わたしは常に人間を極めて厳格に扱ってきたし、権威をふるっているように見える。人間のすることすべての中に、わたしのために行われたものはほとんどなく、わたしの目からして、堅固に立っているように見える事はほとんどない。結局のところ、人間に関わるものはすべて、いつの間にかわたしの前で崩れていく。そして、そうした時にだけ、わたしの業が明らかになる。そこで、人々は自身の過ちの中で、わたしを知るようになる。人間の本性は変わらないままだ。人間の心にあるものは、わたしの心に沿わない──それは、わたしには不要なものだ。わたしが最も嫌うのは、人間の頑固さと、繰り返される悪行だ。しかし、どういう力がわたしを人間にとっていつまでもよそ者とさせ、わたしを隔てさせるのか。何が人間をわたしの心に背かせ、わたしの後ろでわたしに敵対させているのか。これが人間の忠誠だろうか。これが人間のわたしへの愛だろうか。なぜ悔い改め、新たに生まれることができないのか。なぜ、泥のない場所ではなく、湿地にいつまでも暮らしていようとするのか。わたしが人間を虐待したというのか。わたしが人間に道を誤らせたというのか。わたしが人間を地獄へと導いたというのか。誰もが「地獄」で生きようとしている。光が来ると、人間の目はすぐさま見えなくなる。人間の貯めていたものはみな、地獄から来たものだからだ。しかしながら、人間はそのことを知らず、ただ「地獄の快楽」を喜ぶ。それをわたしが盗んで「存在の源」なしにしてしまうのではないかと激しく恐れ、宝物として胸に抱いて守る。人々は、わたしを恐れ、そのためわたしが地を訪れると、わたしから遠く離れていて、近づくのを嫌がる。人間は問題が起こるのを嫌がるのだ。平和な家庭生活を維持し、「地上での幸福」を楽しめるようにと願っているのだ。しかしながら、わたしは人間の願いをかなえるわけにはいかない。人間の家庭を破壊することこそ、わたしのしようとしていることなのだから。わたしが到着した瞬間から、人間の家庭の平和は破られている。家庭はいうに及ばす、わたしはすべての国々を打ち破る。誰がわたしの手から逃れられよう。祝福を受ける側の者がいやがったからといって、どうしてそれを免れることができよう。刑罰を受ける者が恐れたからといって、どうしてわたしの同情を受けることができよう。わたしの言葉の中に、人々はわたしの心を見、わたしの働きを見た。しかし、誰が自身の考えから自由になれようか。誰がわたしの言葉の中から逃れの道を見出すことができようか。誰がわたしの言葉以外から逃れの道を見出すことができようか。
人々はわたしの暖かさを経験し、心からわたしに仕え、まことにわたしに従順で、わたしの前では何もかもしてきた。しかし、今日の人々は、どういうわけか、そうしたあり方に至ることができず、まるで、腹をすかした狼にさらわれでもしたかのように、霊の中で嘆くことしかできない。不安に待っている者のような目でわたしを見るだけで、さらには、助けを求めてわたしに向かって叫ぶだけなのだ。しかし、最初から終わりまで、人間は苦境から逃れることができない。思えば、かつて人々は、愛情で親切に応えようと、わたしの前で約束し、世界の終わりまでと、わたしの前で誓っていた。わたしの前で悲しみにすすり泣き、その泣き叫ぶ声は聞いているのがつらいほどのものだった。わたしはしばしば、その志の故に、助けてやった。人々はわたしに従うため、何度も何度もわたしの前にやって来た。そのいとおしい姿は印象的だった。人々は何度も、ゆるぎない信仰でわたしを愛するようになったが、心からの感情には、すばらしいものがあった。人間はわたしを愛するために、自分の命よりも、自分よりもわたしを愛するために、何度も自らの命を賭けたが、その誠意を見て、わたしは人間の愛を受け入れた。何度も、死を前にしても構わず、人間たちはわたしの前に自らをささげ、わたしは人間の顔から不安を消し、注意深く人間の顔つきを観察した。人間を自身の宝のように愛したことが何度もあるし、また、自分の敵のように憎んだことも何度もある。わたしはそういう存在だ──人間たちは、依然としてわたしの考えていることを推測することができない。人々が悲しむとき、わたしは慰めに来る。人々が弱っているときには、助けに来る。人々が迷っているときには、方向を教える。すすり泣いているときには、涙をぬぐってやる。しかしながら、わたしが悲しんでいるときに、誰がわたしを心から慰めてくれるのか。わたしがひどく心配しているとき、誰がわたしの心持を思いやってくれるのか。わたしが悲しいとき、誰がわたしの傷ついた思いを埋めてくれるのか。わたしが誰かを必要とするとき、誰がわたしと協力しようと申し出るのか。どうして以前の人間のわたしへの態度が失われ、二度と戻って来ないのか。なぜ人間の記憶にほんのわずかも残っていないのか。人々がああしたことをすべて忘れてしまったのは、どうしたことなのか。これは、人類が敵によって堕落させられたからではないのか。
天使がわたしをたたえて音楽を奏で、打楽器を演奏するとき、人間への哀れみの情が抑えようもなく心にわいてくる。突然ひどく悲しい気持ちになり、自分でもこの苦しい感情を追い払うのが難しい。わたしの喜びと悲しみ、人間との別れと再会に、わたしは懐旧の情を覚えられない。上の天と下の地とに別れていて、わたしと人間は、いつも会うというわけにはいかない。誰が懐旧の情を振り払うことができようか。誰が過去のことを懐かしく思わずにいられよう。誰が過去の心地よい気分が続くことを切望せずにいられよう。誰がわたしの帰還を待ち望まないだろう。誰がわたしと人間との再会を待ち望まないだろう。わたしの心は深く乱れ、人間たちの霊は深く心配している。霊においては同じだが、いつも一緒にいるわけにはいかない。また、互いにしばしば会うわけにもいかない。だから、すべての人間の人生は深い悲しみに満ち、生気に欠けている。いつでもわたしを忘れることができずにいるのだから。まるで、人間は天から突き落とされたもののようで、地からわたしの名を呼び、地上からわたしを仰ぎ見ている──しかし、どうして飢えた狼の口を免れよう。どうして狼の脅威と誘惑とから逃げられよう。どうして、わたしの計画の指示するところに忠実に自らを犠牲にできないのか。人間が大声で哀願するとき、わたしは顔をそむける。もはや見ているに忍びないのだ。しかしながら、どうしてわたしが人々のすすり泣きの声を聞かずにいられよう。わたしは人間世界の不正を改めたいと思う。わたしは、世界中で自らわたしの働きをする。サタンが再びわたしの民を傷つけることを禁じ、敵が再び好き勝手にするのを禁じる。わたしは地の王となり、玉座をそこに移す。すべての敵を地に倒し、わたしの前で罪を告白させる。憤りを交えた悲しみの中、わたしは全宇宙に勝利し、誰一人許さず、すべての敵を圧倒する。わたしは地を廃墟にし、そこにすべての敵を送り込み、二度と人類を堕落させることがないようにする。わたしの計画は定まっており、誰一人、それが誰であろうと、変えることはできない。わたしが全宇宙の上を堂々と漂っていくと、すべての人々は新たな姿を得、すべてはよみがえるだろう。人はもはやすすり泣かず、わたしに助けを求めて叫ぶことも、もはやない。すると、わたしの心は喜び、人々はわたしを祝いに戻る。全宇宙が、上から下まで、祝祭にわく……。
今日、さまざまな国々で、わたしは、達成するべく始めた働きを行っている。わたしは、みなの間を動き回り、計画通りに働きをし、すべての人は、わたしの心のまま、国々に「分かれて」いる。地上の人々は自分たちの終着点に注意を注ぐ。その日が近づき、すでに天使のトランペットが鳴り渡った。もはや日時の遅延はない。そして、あらゆるものが喜びに踊りだす。誰が思いのままにわたしの日を延ばすことができよう。それは地の人間か。それは空の星か、それとも天使か。わたしが声を発してイスラエルの民を救い始めると、わたしの日がすべての人類に近づく。人間はみな、イスラエルが再び国になることを恐れる。イスラエルが再び国になると、それはわたしが栄光を得る日であり、その日すべてが変わり、新たになる。全宇宙に義の裁きが下されようとし、人々はみな、おずおずと怯える。人間世界では義は知られていないのだ。義の太陽が現れると、東の空が明るくなり、それから全宇宙が照らされ、すべての人に届く。人間がほんとうに義を行えるのなら、何を恐れることがあろう。わが民はみな、わたしの日の到来を待ち、わたしの日の来ることを期待する。彼らは、わたしが義の太陽として全人類を報い、人類の終着点を定めるのを待っている。わたしの国が全宇宙に造られ、わたしの玉座が何兆もの人々の心をつかむ。天使の助けで、わたしの大事業はすぐに成功裡に完了する。わが子らとわが民が集まって、わたしの帰還を今や遅しと待つ。再会して、二度と離れない時の訪れを待つ。わたしの国の人々全員が喜びに走り回らないことが、どうしてあろう。わたしが彼らと共にあるのだ。これは代価なしの再会だろうか。わたしはすべての人の目に貴いものであり、わたしはすべての人の言葉で告げる。わたしは戻って来ると、敵の勢力をさらにすべて征服する。時は来た。わたしはわたしの働きを進め、人間の中で最高支配者となろう。わたしは戻って来る。わたしは出かけて行く。これはすべての人が期待していること、人々が望んでいることである。わたしはすべての人に、わたしの日の到来を見、わたしの日の来たことを喜び迎えてほしい。
1992年4月2日


[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2018年1月7日日曜日

【東方閃電】全能神教会のライブ「どうやって主の再臨を迎えるのか」




[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。 

2018年1月2日火曜日

【東方閃電】全能神の発表「二十五番目の言葉」


時は過ぎ、瞬く間に今日が訪れた。わたしの霊の導きにより、すべての人はわたしの光の中で生き、もはや誰も過去のことを思わず、昨日のことを煩わない。誰が今を生きてこなかっただろう。誰が神の国ですばらしい月日を送らなかっただろう。誰が太陽の下で生きてこなかっただろう。神の国は人間たちの間に降りてきたが、誰一人、ほんとうにその暖かさを経験していない。人間はただ外観を見るだけで、その本質を理解していない。わたしの国が形作られている間、誰がそのことを喜ばないだろう。地上の国々は、ほんとうに免れることができるだろうか。赤い大きな竜は、ほんとうにその狡猾さで逃れることができるだろうか。わたしの行政は全宇宙に公布され、それによってわたしの権威はすべての人に及び、全宇宙で効力を発する。それでも、人間はけっして本当にこのことを知っていない。わたしの行政が全宇宙に示される時はまた、地上でのわたしの働きが完了する時でもある。わたしがすべての人間の間で支配し、力を振るい、唯一の神自身であると認められた時、わたしの国は完全に地上に降りてくる。今日、すべての人は新たな道で新たな始まりを得る。人々は新たな生活を始めているが、しかし、誰一人ほんとうに地上で天のような生活を経験していない。あなたがたは、ほんとうにわたしの光の中で生きているだろうか。あなたがたは、ほんとうにわたしの言葉の中で生きているだろうか。誰が自分の前途について思いをいたさないだろう。誰が自分の運命を悲しまないだろう。誰が苦しみの海でもがかないだろう。誰が自由になりたいと願わないだろう。神の国の恵みは、人間の地上での厳しい労働の代償として得られるものだろうか。すべての人の願望は、そのとおりにかなうものだろうか。わたしはかつて、人間に国の美しい眺めを見せた。しかし、人はただ貪欲な目で見つめただけで、本当にそこに入ろうと切望する人は、一人もいなかった。わたしはかつて、地上の真の状態を人間に「報告した」が、人は、ただ聞いただけで、わたしの口から出た言葉を心に受け入れようとはしなかった。わたしはかつて、人間に天のありさまを伝えたが、人は、わたしの言葉をすばらしい作り話として扱い、わたしの口の表現したものを真に受け入れはしなかった。今日、神の国の風景が人間たちの間にぱっと現れたが、誰か、それを探すために「山や谷を越えて」行っただろうか。わたしが促さなければ、人間はまだ夢から醒めていなかったろう。人間は、そんなにも地上での生活に夢中なのだろうか。ほんとうに人間の心に高い基準というものはないのだろうか。
わたしがあらかじめ定めた民は、わたしに身を捧げて、調和のうちにわたしと生きることができる。彼らはわたしの目に貴く、わたしの国でわたしへの愛に輝いている。今日の人々の中で、誰がそういう条件を満たすことができるだろう。誰がわたしの条件で合格できるだろう。わたしの条件は、ほんとうに人間に困難をもたらすのだろうか。わたしは意図的に人間を誤らせるだろうか。わたしはすべての人に寛容で、みなを優遇している。しかしながら、これは中国にいるわが民だけにである。あなたがたを過小評価しているのではなく、あなたがたを別の目で見ているわけでもない。わたしはあなたがたに対して実質的であり、現実的なのである。人間は生きていれば、家庭のことや、もっと広い世界のことで、必ず挫折を味わう。しかし、自分の困難を自らの手で用意する人などあるだろう。人間には、わたしを知ることができない。人間はわたしの外見について、なにがしかの理解はしているが、わたしの本質については何も知らない。人間は自分の食べているものの「成分」を知らないのだ。誰がわたしの心を注意深く読み取ることができるだろう。誰がほんとうにわたしの前でわたしの心を理解できるだろう。わたしが地上に来るとき、地上は闇に包まれ、人間は「ぐっすり眠っている」。わたしはあらゆるところを歩き回るが、見えるものはどれも、破れ、ぼろぼろで、見るに堪えないものばかりだ。これはまるで、人間は楽しみたいだけで、「外の世界の物事」を知ろうという気持ちがまるでないようなのだ。すべての人の知らないうちに、わたしは地上をくまなく調べるが、いのちに満たされたところは、どこにもない。すぐさま、わたしは光と熱を発して第三の天から地上を見下ろす。光は陸を照らし、熱がその上に広がっていくが、光と熱だけが喜んでいるようだ。それらは、快適さの中で楽しんでいる人間の中に何も引き起こさない。これを見て、わたしはすぐさま、用意していた「鞭」を人間の間に下す。鞭が下ると、光と熱が徐々に散り、地上はただちに荒廃し、暗くなる。そして、闇のために、人間はその“機会”を逃さず、「お楽しみ」を続ける。人間は、わたしの鞭が下ったことに僅かに気づいているが、反応することなく「地上の恵み」を楽しみ続ける。次に、わたしの口がすべての人間の刑罰を告げると、全宇宙の人々は十字架にさかさまに張り付けにされる。わたしの刑罰が下ると、山々が崩れ、大地が引き裂かれる音に、人間は震え上がる。突然目が覚め、人間は愕然とし、恐怖に怯える。逃げたいと思うが、すでに遅すぎるのだ。わたしの刑罰が下ると、わたしの国が地上に降りて来て、すべての国々は粉々に打ち砕かれて消え去り、あとには何も残らない。
毎日、わたしは全宇宙の表面を眺め、毎日、人間の間で新しい働きをする。しかし、人々はみな「我を忘れて働き」、誰一人わたしの働きの動きに注意を払わず、自分たち以外の物事がどうであるかには興味を示さない。まるで、人々は自分たちで作った「新たな天と新たな地」に暮らしていて、他人に「介入」されることを望んでいないようだ。彼らはみな享楽に夢中で、自分に酔い、自分たちの「体操」をしている。人間の心には、ほんとうにわたしの居場所はないのだろうか。わたしはほんとうに人間の心の支配者でいることができないのだろうか。人間の霊は、ほんとうに人間を去ったのだろうか。誰が、わたしの口から出た言葉について、注意深く考えたことがあるだろう。誰がわたしの心の願いを理解しただろう。人間の心は、ほんとうに何か別のものに乗っ取られているのだろうか。わたしは何度も人間に「大声で呼びかけた」が、これまで誰か、憐れみを感じた者はいるだろうか。誰か、人間性を持って生きただろうか。人間は肉の体で生きているが、人間性はない。人間は動物の王国に生まれたのだろうか。それとも、人間は天に生まれ、神性を持っているのだろうか。わたしは人間にわたしの要求を示しているが、あたかも人間はわたしの言葉が理解できないかのようだ。あたかもわたしがまったく異質な、近づきがたい怪物ででもあるかのようだ。まことに何度も、わたしは人間に失望させられた。まことに何度も人間の成績不良に激怒し、また、まことに何度も人間の弱さに悲しい思いをした。なぜわたしは人間の心に霊的感覚を呼び起こせないのだろうか。なぜわたしは人間の心に愛の思いを起こせないのか。なぜ人間はわたしを何よりも大事なものとして扱えないのか。人間の心は自分のものではないのか。他の何かが人間の霊に住み着いているのだろうか。なぜ人間は、やむことなくわめき続けているのか。なぜ人間は常に悲しんでいるのか。なぜ人間は悲しいとき、わたしの存在を無視するのか。わたしは人間を突き刺しただろうか。わたしは、わざと人間を見捨てただろうか。
わたしの目には、人間はすべての支配者だ。わたしは人間に少なからぬ権威を与えた。地上のすべてを扱わせた──山々の草、森の動物たち、そして、水の中の魚。しかし、それで幸福でいるどころか、人間は不安にとらわれている。人間の生涯は苦しみに満ち、走り回り、むなしさに楽しみを加え、全生涯に何の発明も創造もない。誰一人、このむなしい人生から自由になることができず、誰一人、意味ある人生を見出せず、誰一人、真の人生を経験していない。今日の人々はみな、わたしの輝く光の下で生きているが、天での生活について、何も知らない。もしわたしが人間に対して憐み深くなくて、人間を救うことをしなければ、すべての人はむなしく生まれることになり、地上で無意味に生き、何一つ誇りに思うことなしに、無益に死んでいく。あらゆる教派、社会の領域、国家、宗派はみな、地上のむなしさを知っており、彼らはみな、わたしを求め、わたしの戻るのを待っている──しかし、わたしが到着したとき、誰がわたしを知ることができるのだろう。わたしはすべてを創った。わたしは人間を創り、今日、人間たちの間に降り立った。しかしながら、人間はわたしに殴り返し、仕返しをする。わたしが人間にしている働きは、人間のためになっていないのだろうか。わたしは、人間を満足させることができないのだろうか。なぜ人間はわたしを拒むのか。なぜ人間は、わたしに対してあれほど冷たく無関心なのか。なぜ地上は死体に覆われているのか。これは、わたしが人間のために創った世界の状態なのか。なぜ、わたしは人間に比類のない富を与えたのに、人間はお返しに空っぽの手を差し出すのか。なぜ人間はほんとうにわたしを愛さないのか。なぜ人間はけっしてわたしの前に来ないのか。わたしの言葉はみな、ほんとうに無駄だったのか。わたしの言葉は水の熱のように消えたのか。なぜ人間は、わたしに協力したがらないのか。わたしの日の到来は、本当は人間の死の瞬間なのか。わたしはほんとうに、わたしの国が建てられるとき、人間を全滅することになるのか。なぜ、わたしの経営(救いの)計画の全体を通して、誰一人、わたしの意図を把握していないのか。なぜ、人間は、わたしの口から出た言葉を大事にするのではなく、嫌い、拒むのか。わたしは誰をも罪に定めない。ただ、すべての人を穏やかにさせ、自省の働きをさせるだけだ。
1992年3月27日


私たちについて:全能神教会の紹介

もっと知る: [東方閃電]全能神教会はどうやって創られたでしょうか

2017年12月29日金曜日

【東方閃電】全能神の発表「二十四番目の言葉」


わたしの刑罰はすべての人間に下るが、それはまた、すべての人間から遠いままである。すべての人のすべての生活は、わたしへの愛と憎しみで満たされているが、誰一人、わたしを知らなかった。そこで、人間のわたしへの態度は熱くも、あるいは冷たくも吹き、普通の状態であることがない。しかし、わたしはいつでも人間を心遣い、守ってきた。人間がわたしの行いのすべてを見ることも、わたしの切なる意図を理解することもできないのは、人間の鈍感さのせいなのだ。わたしはすべての国々の主、そしてすべての人の中で至高者である──ただ、人間はわたしを知らない。長い年月、わたしは人間の間で暮らし、人間世界での生活を経験してきた。しかし、人間はいつでもわたしを無視し、宇宙から来た者のようにわたしを扱ってきた。その結果、性質と言語の違いのせいで、人々は、通りにいるよそ者のようにわたしを扱う。わたしの衣類は、あまりに風変わりなようで、その結果、人間は自信を持ってわたしに近づくことができない。そのときはじめて、わたしは人間の間で生きる荒涼感を覚え、そうしてはじめて、人間世界の不公正を感じ取る。わたしは通りを行く人々の間を歩き、みなの顔をじっと見る。人々は、まるで病の中にあるように顔を憂鬱で満たす。まるで刑罰の中で生きているようで、解放することができない。人間は自身に足かせをつけ、自らを貶める。たいていの人はわたしの前の自身について誤った印象をもっていて、わたしにほめられようとする。また、多くの人は、わたしの助けを得ようと、意図的に哀れげに見えるようにする。わたしの後ろで、人々はみなわたしを欺き、わたしに逆らう。そうではないか。これが人間の生存の道なのではないか。誰か、その生活の中でわたしを生かし出したものがいるか。誰か、人々の間でわたしを崇めた者がいるか。誰か、霊の前で縛られた者がいるか。誰か、サタンの前に堅固に立ち、わたしを証しした者がいるか。誰か、わたしへの「忠実さ」に真実を加えた者はいるか。誰か、わたしのために赤い大きな竜に滅ぼされた者はいるか。人々はサタンとぐるになっている。彼らはわたしに逆らう名手であり、わたしに反攻する発明家で、わたしに対していいかげんなことを言うことの研究生だ。自身の運命のために、人間は地のあちこちを探し回る。わたしが手招きすると、わたしの貴さを知らず、他者の「負担」となることをしたがらず、自身を頼みとする「信仰」を持ち続ける。人間の志は貴いが、誰一人の志が満点を達成したことがない。彼らはわたしの前でふらふらと倒れそうである。したがって、そっと音もなく倒れる。
毎日わたしは話し、毎日、新しいこともする。もし人間が全力を出さないならば、わたしの声を聴くのが困難だろう。そして、わたしの顔を見るのが難しいだろう。恋しい人はすばらしい。その声は穏やかだ。しかし、人間は容易に神の輝かしい顔を見、その声を聞くことができない。長い間、誰一人わたしの顔を容易に見た者はいない。わたしはかつて、ペテロに話しかけ、パウロの前に「顕現」した。そして、イスラエル人以外、誰一人、わたしの顔を真に見た者はいない。今日、わたしは自ら、共に住むため人々の中に来た。これはほんとうに、めったにない、貴重な機会だとは思わないか。あなたがたは、時を最も有益なものにしたくないのか。このようにして時が無駄に流れるのを願っているのか。人々の心の中で時針が突然止まるのか。それとも、時が逆戻りするのか。それとも、人間は再び若くなるのか。今日の幸いな生活は、再び訪れることがあるのだろうか。わたしは人間の「浪費」にふさわしい「報酬」を与えない。ただ、他のすべてのこととは無関係にわたしの働きを続け、人間が忙しいからとか、叫び声が聞こえるからといって、時の流れを止めはしない。数千年間、誰一人わたしの力を分散させることはできなかった。また、誰一人、わたしの本来の計画を狂わせることのできる者もいない。わたしは空間を超越し、時代を超え、全てのものの上に、そしてその間で、わたしの全計画の核心部分を展開する。わたしから特別待遇を受けることのできた者は、誰もいない。わたしの手から「賞品」を受け取ることのできた者は誰もいない。そして、人間が口を開いてわたしに祈っても、他のすべてを顧みず、わたしに要求して手を伸ばしても、その誰一人、わたしに影響を与えなかったし、みなわたしの「無情な」声で押し戻された。たいていの人々は、自分たちは「若すぎる」と信じていて、わたしが大いなる慈悲を示すのを、再び憐みを示すのを待っている。そして、裏口から入れてくれと頼む。しかし、どうしてわたしが自分の計画を簡単に変更できようか。人間が幼いからといって、この地上で数年余分に生きられるようにと、地球の自転を止めてやるだろうか。人間の頭脳は、まことに複雑であるが、また、欠陥もあるようだ。その結果、人間の頭には、しばしばわたしの働きを意図的に妨げる「すばらしい方法」が浮かぶ。
人間の罪を赦し、弱さを考慮して特別の恵みを示したことは何度もあるが、また、その無知のため、ふさわしい処置を行ったことも、何度もある。しかし、人間には、わたしの親切をどう受け止めるか、けっしてわからない。だから現在の始末になっているのだ──塵にまみれ、衣類はぼろぼろ、髪の毛は雑草の茂み、顔は汚れに覆われ、足は手作りの靴で包み、手は死んだ鷲の鉤爪のようで、体の横に力なく垂れ下がっている。わたしが目を開け、見ると、人間は、たった今、底なしの淵から出てきたばかりのようだ。憤らずにいられない。わたしはいつでも人間に寛容であったが、悪魔がわたしの聖なる国に自由に出入りするのを、どうして許せよう。乞食がわたしの家でただ食いするのを、どうして許せよう。汚れた霊が家の客になるのを、どうして許せよう。人間はいつでも「自分に厳しく」、「他人には寛容」であったが、わたしに対してはまったく礼に欠けている。わたしは天の神なので、別物として扱い、わたしに対し、ほんのわずかの愛情ももたない。まるで、人間の目はとりわけ鋭敏であるかのようで、わたしに出会うと、すぐさま表情が変化し、冷たく無表情だった顔に、わずかばかりの表情を加える。わたしは人間の態度を見ても、そのために適切な制裁は加えはしない。しかし、全宇宙の上から大空を見やり、地上での働きを行うだけだ。人間の記憶の中で、わたしはけっして誰にも親切であったことはないが、また、誰をも虐待していない。人間は自分の心の中にわたしのための「空席」を用意していないので、わたしがずかずかと人間の中に宿ると、人間は全く遠慮なしにわたしを追い出し、それから、自分はあまりに欠点が多く、わたしを楽しませることができないのだと、言葉巧みに言い訳をする。話しているとき、しばしばその顔が「暗い影」に覆われる。まるで今にも災いが訪れようとしているかのようだ。しかし、それでも、それに伴う危険などまるで考慮しないで、わたしに去るように願う。わたしが人間に言葉とやさしい抱擁を与えても、人間はまるで耳がないかのようで、わたしの声にまったく注意を払わない。それどころか、頭を抱えて逃げて行くのだ。わたしは、いささか失望し、しかし、少しく憤りも覚えながら、人間から離れる。その一方で、人間は、たちまち激しい突風と大波に襲われ、消え去る。間もなく、人間はわたしに向かって叫ぶが、どうして人間に風や波の動きを止められよう。徐々に人間の痕跡は消え去り、どこにも見えなくなる。
遠い昔、わたしは全宇宙の上から全地を眺めた。わたしは地上で大いなる仕事を計画した。自分の心にかなう人類の創造、そして、天のそれのような、地上の国の建設、わたしの力で大空を満たし、わたしの知恵を宇宙に広めることだ。そして今日、数千年後、わたしは計画を続けている。しかし、誰一人わたしの計画と地上の経営(救い)について知らない。まして、地上にあるわたしの国を見もしない。そうして影を追いかけ、わたしの前に来て、わたしを欺こうとし、無声の代価と引き換えに、わたしの天の祝福を得ようとする。その結果、わたしの怒りを招き、わたしは裁きを下すが、それでも目覚めない。これは、まるで、人間は地下で働いているかのようだ。地上にあるものをまったく知らず、ただ自分の前途を追い求めている。すべての人々の中で、わたしの輝く光の下に住む者を、これまで誰も見ていない。彼らは闇の世界に住んでいて、暗闇の中で生きることに慣れているようだ。光が来ると、彼らは遠く離れている。まるで、光が人間たちの仕事を妨げているかのようだ。その結果、少しうんざりするようである。光が平和を破り、ぐっすり眠れなくしたかのようなのだ。そのため、人間は光を追い払うために全力を絞る。光もまた、「自覚」がないようで、眠っている人間を起こす。人間が目を覚ますと、腹を立てて、目を閉じる。どういうわけか、人間はわたしに腹を立てるが、わたしの心の中では、事の次第がわかっている。わたしは徐々に光を強め、すべての人がわたしの光の中で生きるようにする。そこで、じきに光と関わることに慣れ、さらに、みなは光を大切に思うようになる。その時、わたしの国は人間の間に来て、すべての人は喜びに祝い踊る。地上は突然歓喜に満たされる。数千年の沈黙が光の到来により破られたのだ。…
1992年3月26日

 [東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。