2020年7月10日金曜日
2018年6月28日木曜日
【東方閃電】全能神教会御言葉の抜粋「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」4
一部の人は次のように言っている。「パウロは、本当に多くの仕事をし、諸教会に対して非常に重荷を感じ、多大な貢献をした。パウロの13通の手紙は、恵の時代を2000年間支え、それは4つの福音書の次に大きな功績だ。そのパウロを誰と比較できると言うのか。ヨハネの黙示録は誰も読み解けないが、パウロの書いた手紙は人にいのちを与え、その働きは全て教会のためになった。パウロでなければ達成できなかったことではないだろうか。それに比べて、ペテロが何の働きをしたのか」と。人は、他人を評価するとき、その人のなした功績によって判断する。神が人を評価するときには、その者の本性を見る。いのちを追い求めている人の中で、パウロは自分の本質を知らない人であった。彼は謙虚でも従順でもなかったし、自分の神に反している本質さえも知らなかった。それゆえ、パウロは、細部にわたる経験を持たず、真理を実践した人ではなかった。だがペテロは違った。彼は自分の不完全さ、弱さ、そして被造物としての堕落した性質を知っていたから、自分の性質を変化させるために実践する経路があった。彼は教義だけで現実性を伴わないという人間ではなかった。変わることができた人は救われて新たにされた人であり、真理を追求する資質がある。それに比べて、変わらない人はありのままが旧式なタイプの人々である。彼らは救われなかった人、つまり神に嫌われ拒否された人々なのである。いかにその働きが素晴らしくても、神に覚えてもらえることはない。あなたがこのことを自らの追求と比べるとき、究極のところペテロとパウロのいずれの方と同じなのかということが、おのずと分かってくるはずである。あなたが追い求めるものの中にやはり真理がなく、今日においても未だパウロのように尊大で放漫で、軽薄で自らを美化するなら、あなたは間違いなく失敗するくずである。あなたがペテロと同じものを追い求め、つまり実践と真の変化を求めて、同時に放漫でも尊大でもなく本分を尽くすことを求めるならば、被造物として勝利を達成できる。パウロは自分自身の本質も堕落も知らず、またどれほど反抗的かについてはほとんど知らなかった。パウロは一度も自分のした卑劣なキリストへの公然たる抵抗には言及せず、十分に悔やむこともなかった。パウロはそれに関して簡単な説明をしただけで、心の奥底では神に対して完全に服従していなかった。パウロはダマスコへ行く道で倒れたが、彼は本当に心の深い部分では自分を反省しておらず、単に絶えず働くことに満足し、自分を顧みてその古い性質を変えることが肝心なことだとは考えなかったのである。彼は真理を話すこと、それによって他者を備えることで自分の良心を慰め、二度とイエスの弟子を迫害しないことで自らを慰め、過去の罪を赦すことで満足していたのである。パウロが目指したのは、単に未来の栄冠と儚い働きでしかなく、また彼の求めた目標は、豊かで溢れんばかりの恵みだった。パウロは、十分に真理を追求せず、また過去に理解できていなかった真理をより深く追求しようともしなかった。だからパウロは、自分自身に対する認識が間違っていともいえるし、彼は神による刑罰も裁きも受け入れなかった。パウロが働くことができたからといって、彼が自分の本性あるいは本質について認識があったと意味するわけではない。パウロは表面上の実践だけに集中し、何より認識を求めて努力したのであり、変化を求めていたわけではなかった。パウロの働きは、完全にダマスコへの道でキリストと出会った結果だけによるものであり、それは彼が最初から持っていた志ではなく、また自分の古い性質に神の刈り込みを受け入れた後の働きでもなかった。いくら働いても、パウロの古い性質が変わることはなく、よって彼の働きは、彼の過去の罪を償うことはなく、ただ当時の諸教会の間で一定の役割を果たしたに過ぎなかった。このように古い性質が変わらない人、つまり、救いを得ることがなく、さらには真理を知らない者は、主イエスに認められる人には絶対になれない。パウロは、イエス・キリストに対する愛と畏敬に溢れていたわけではなく、真理を探求することに長けていたわけでもなく、ましてや受肉の奥義を探し求めた人ではなかった。彼は単に詭弁に長けた人、そして自分より優れている人あるいは真理を備えた人に対して従わない人だった。パウロは、自分とは著しく違うあるいは敵対する人や真理を妬み、賜物があって印象深く、豊かな知識を備えた人を好んだ。真理を追い求め真理だけを重んじる貧しい人々と交流するのを好まず、代わりに、教理についてばかり語り、知識が豊富な宗教組織の長老格とばかり交流した。パウロは聖霊の新しい働きに対しては愛情がなく、聖霊の新しい働きの動きにも興味がなかった。代わりに彼は、一般的な真理より高い規律や教理を好んだ。パウロの生まれつきの本質と彼が追い求めたことの全てを見ても、彼は、真理を追求したキリスト者と呼ばれるに相応しくなく、ましてや神の家の忠実なしもべと呼ばれる資格などない。パウロはあまりに偽善的で、あまりに反抗的だったからだ。パウロは主イエスのしもべとして良く知られているが、最初から最後まで彼の行いは義とすることができないことから、彼は、天の国に入る資格を持っているとは全く言えない。よってパウロは、単に偽善の人、そして不義を行う人だが、キリストのために働いたこともある人として見ることができる。パウロを悪とすることはできないが、不義を行う人と呼ぶのが適当なのだ。パウロは多くの働きをなしたが、その働きの量ではなく、その働きの質と本質に基づいて判断されるべきである。そうしてこそ、この問題の真相を究明できる。パウロはこう信じていた。「私には神のために働く能力があって、普通の人より優れている。他の人以上に神の負担を思いやることができるし、私ほど深く悔い改める人もいない。私には大いなる光が注ぎ、自分の目でも大いなる光を見たのだから、私の悔い改めは誰よりも深いはずだ」。これが、当時パウロが心の内で考えたことであった。パウロの働きが終わるとき、パウロは言った。「私は私の戦いを戦い抜き、決められた道を完走しました。そして今、わたしのための義の栄冠を受けるばかりです」と。パウロの言う戦い、働き、そして歩みは全て、義の栄冠を受けるためのものであって、彼は積極的に前進しようとしていたわけではなかった。彼の働きにおいて、いい加減ではなかったが、その働きは単に自らの過ちを補うため、そして良心の呵責に悩まされないためのものだったと言える。パウロが待ち望んだのは、与えられた仕事を完了させ、決められた道を完走し、そして戦いをなるべく早く終えて、自分の待ち望む義の栄冠を一日でも早く得ることだけであった。彼が望んだのは、自らが経験と真の認識を備えることで、主イエスに会いに行けることではなく、自らの働きを早く終わらせることで、主イエスに会ったときに、彼の働きに見合った見返りを受け取るためであった。つまりパウロは、その働きによって自らを慰め、またその働きを以て未来の栄冠に換える取り引きをしたのである。パウロが追い求めたものは、真理でも神でもなく、ただ栄冠だけであった。どうして、このような追求が条件に適うといえようか。パウロの動機、働き、支払った代償、そして費やした労力全てに、彼のすばらしく途方もない空想が浸透していて、彼は完全に自分の願望に従って仕事をしたのである。パウロは、彼の働き全体において、心から喜んで代価を払ったことが少しもなく、単に取り引きをしていたのである。パウロは本分を尽くすためには喜んで努力せず、取り引きの目的を達成させるためには喜んで努力した。そんな努力に何の価値があるのか。一体誰が彼の不純な努力を良しとするだろうか。だれがそのような努力に興味を持つだろうか。彼の働きは将来の夢と素晴らしい計画とに溢れていたが、人の性質を変えるような道は含まれていなかった。彼の慈愛のほとんどが見せかけであり、彼の働きはいのちを与えるどころか、偽りの礼儀正しさを装っていただけであった。それは単なる取り引きだったのである。このような働きが、どうして人を本来の本分を回復する道へと導き入れることができるというのか。
2018年6月27日水曜日
2018年6月19日火曜日
【東方閃電】全能神教会御言葉の抜粋「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」1
多くの人は、自分がいずれ辿りつく終着点のため、あるいは一時的に楽しみにあずかるために神を信じている。神による取り扱いを経験したことのない者にとって、神を信じることは、天国に行くためであり、また見返りを得るためなのであって、完全にされるためでも、被造物としての本分を尽くすためでもない。つまり、ほとんどの人は、その責任を果たしたり義務を完了したりするために神を信じているのではないのである。実際、意味ある人生を送るために神を信じている人はほんのわずかで、「人は生きている以上、神を愛すべきである。なぜなら、そうすることがごく当然で正しいことであり、またそれが人の天職である」と信じる人もめったにない。このように、人はそれぞれ追い求める目標が違うが、その追求の目的と裏に在る動機はどれも似通っており、しかも、それらの人々は崇拝の対象が大体同じなのである。過去数千年に渡り、多くの信徒が死に、そして多くの信徒が死んで甦った。神を追い求めているのは一人二人というものではなく、いや数千人の単位でさえ足りないが、そのような人々のほとんどは、個人の繁栄や未来の輝かしい希望のために神を求めているのであり、キリストに身を捧げている者はごく少数である。実際、熱心な信徒でさえ、そのほとんどが自らの罠に陥って死に至っており、成功を収めた者の数はさらにほんのわずかである。そして、今日に至るまで、人が失敗してきた原因、あるいは成功できた秘訣は知られていない。キリストを熱心に追い求める人たちでさえ、未だに突然の洞察力を得たわけでもなく、これらの奥義の真相を突き止めたわけでもない。彼らはただ本当に知らないのである。彼らは、涙ぐましい努力をして求めるが、その歩む道は、成功へのそれではなく、既に先駆者が失敗した道なのである。そう考えると、どのように求めたにせよ、それは闇へ向かう道を歩いているということではないだろうか。結局彼らが得るのは苦い果実だけではないのか。過去に成功した者をまねる人が結果的に幸運を得るのかそれとも不運に見舞われるのかということすら予想困難であるのに、過去に失敗してきた人の跡をたどる人の勝算がどれほどあるだろう。失敗する可能性は更に大きいのではないか。彼らの歩む道に何の価値があるというのか。時間の無駄ではないのか。人がその追求に成功しても失敗しても、要するにいずれの結果でもその原因があるのだ。そして成功するか失敗するか、それは思うままに自由に追い求めることでは決まらないのである。
人が神を信じるために最も基本的なことは、その人が誠実な心を持ち、完全に自分を捧げ、また本当に従うことである。人にとって最も困難なことは、真実なる信仰を得ることと引き換えに、自らの全人生を捧げることだが、それができれば、人は完全なる真理を得ることができ、被造物としての本分を尽くすことが出来るのである。これは、失敗した人たちは会得できないものであり、キリストに出会うことができない人にとっては更に到達できないことなのである。人は、神にそのすべてを捧げることが得意でなく、創造主に対する本分を進んで尽くそうともせず、真理を知ったにも関わらずその道を避けて自分の道を行き、これまで失敗した人の道に沿って追い求め、常に天に背くことで常に失敗し、サタンの誘惑に負け、自らしかけた罠に落ちてしまうのである。人はキリストを知らず、真理を理解し経験することに長けておらず、パウロを過剰に崇拝し、天国に入る欲求だけ強く、キリストが人に従うことを常に要求し、そしてひたすら神に対してもあれこれ指示をする。それだから、偉人と言われる人たちやこの世の苦難を経験した人たちでさえも死を免れず、しかも神の罰により死ぬのである。このような人たちについては、非業の死を遂げると言うしかないが、彼らの結末、つまりその死は正当化するだけの理由があるのだ。そういう人たちの失敗は、天にとってさらに耐えがたい事ではないだろうか。真理とは、人の世から出るが、人の世の真理は、キリストによって伝えられるのである。真理とはキリスト、すなわち神自身から来るものであって、人には達成できないものなのだ。しかし、キリストは真理を提供するだけであって、人が真理を追い求めるのに成功するかどうかを決めるために来るのではない。よって、真理を追い求めるのに成功するか失敗するかは、すべて人の追求にかかっている。これは元々キリストとは一切関係がないものであり、人の追求によって決まるものなのだ。人の終着点やその成功と失敗の責任を神に押し付け、その責任を負わせてはならない。なぜなら、それは神自身には関係がなく、被造物が尽くすべき本分に直結していることだからである。多くの人は、パウロやペテロが追い求めたこと、そして二人の終着点くらいは知っていても、二人の結末以上には何も知らず、ペテロの成功の裏にある秘訣あるいはパウロの失敗を招いた欠点については何も知らない。だから、彼らの追求の本質を見極めることが全くできないのであれば、あなたがたの追求のほとんどは失敗に終わるだろうし、あなたがたの内僅かな者が成功したとしても、ペテロの成功の比ではない。あなたの追求の道が正しいものであれば、成功への希望がもてるだろうが、あなたの真理を追求する道が間違ったものであるならば、永遠に成功することはできず、パウロと同じ結末を迎えることになる。
場所:
日本
2018年6月18日月曜日
【東方閃電】全能神教会御言葉カード
【東方閃電】全能神は言われた。「大波もまた何世紀経っても相変わらずで、領地を広げるのを止めなかった。大波は何度も山へと押し寄せたが、山は全く不動のままであった。山は海を見守り、そのために海中の生物が増加し、繁栄した。大波と大きな山は互いに信頼し合い、制限し合い、頼り合っていた。」
場所:
日本
2018年6月16日土曜日
【東方閃電】全能神の発表「九番目の言葉」
あなたは、わたしの家の一員なのだから、また、あなたはわたしの国に誠実なのだから、あなたのすることはすべて、わたしの求める基準にかなうものでなければならない。わたしは、あなたが漂う雲以上のものであることは求めないが、あなたは輝く雪となり、その質とそれ以上の価値をもつものとなるように求める。わたしは聖い国から来たのであり、名前だけで実体のない蓮とは違うのだ。それは聖い国ではなく、沼地で生まれたのだから。新たな天が地上に降りて来て、新たな地が空に広がる時はまた、わたしが正式に人間たちの中で働く時なのだ。人間の中の誰が、わたしを知っているだろう。誰がわたしの到着の瞬間をその目で見ただろう。誰が、わたしには名があるだけでなく、そのうえ、実体を備えているということを知っているだろう。わたしは、手で白い雲を一掃し、空をじっくりと調べる。天空には、わたしの手で秩序立てられていないものはなく、また、天空の下では、わたしの大いなる事業にわずかでも貢献しない者は一人もいない。わたしは地上の人々に数多くの要求はしない。わたしこそは実践の神であり、わたしは人間を創り、人間についてよく知っている全能者なのだから。すべての人は全能者の目の前にいる。地の遠い果てにいる者でさえ、どうしてわたしの霊の目を逃れられよう。人間はわたしの霊を知っているが、人間はまた、わたしの霊に対して罪を犯す。わたしの言葉は、すべての人々の醜い顔をさらけ出し、すべての人々の内奥の考えをさらけ出し、地上のすべてはわたしの光はで明らかになり、わたしに見つめられてひれ伏す。しかし、人間はひれ伏しても、その心はわたしから遠く離れようとしない。被造物の中で、わたしの行いのゆえにわたしを愛するようにならないものがあるだろうか。誰がわたしの言葉の結果、わたしを求めないだろう。誰の内に、わたしの愛のゆえに、仕えの思いを生じないだろう。ただサタンの堕落のために、人間はわたしの求める域に達することができないのだ。わたしの設ける最も低い基準にさえ、人間は不安をもつ。サタンが暴れ回り、凶暴な専制君主のようである今日のことは言うを俟たず、あるいは、人間がサタンによって踏みしだかれ、全身が汚物にまみれていたときでさえ、人間がその堕落のため、わたしの心を案じることができなかったとき、わたしが嘆かなかったことがあろうか。わたしがサタンを憐れんでいるということだろうか。わたしが愛において誤っているということだろうか。人間がわたしに不服従であるとき、わたしの心はひそかにすすり泣く。人間がわたしに敵対するとき、わたしは人間を罰する。人間がわたしに救われ、死からよみがえったとき、わたしは最高の注意をはらって養う。人間がわたしに従うとき、わたしの心は安らかで、ただちに、天と地のあらゆる物事に大きな変化を感じる。人間がわたしを賛美するとき、わたしはそれをよろこばずにはいられない。人間がわたしを証しし、わたしが得るとき、どうしてわたしが栄光を受けないことがあろう。それは、人間のすべての行為がわたしに支配され、また、与えられているのではないということだろうか。わたしが指示を与えないとき、人々は怠惰で無活動であり、わたしの後ろで「賞賛に値する」汚い取り引きをする。わたしが身にまとう肉は、あなたの行いや生活、言葉を何も知らないと思っているのだろうか。わたしは長年、雨風に耐えてきた。また、人間世界のつらさを経験した。しかし、よく考えてみると、どれほどの苦しみも、肉の体を持つ人間にわたしへの希望を失わせはしない。それどころか、どんな甘さも、肉の体を持つ人間に、わたしに対して冷たい態度を取らせ、落胆させ、わたしを軽んじさせることがなかった。人間のわたしへの愛は、苦痛や甘さのない間だけに制限されているのだろうか。
今日、わたしは肉の体に宿り、公式に、なすべき働きに取り掛かった。しかし、人間はわたしの霊の声を恐れるが、わたしの霊の実体には従わない。人間がわたしの言葉の内に肉のわたしを知ることがどんなに困難であるかは、言うまでもない。以前に述べたように、わたしはわたしの条件を押し付けているのではない。あなたがたがわたしを完全に知ることは必要ではない。(人間には能力が欠けているからだ。これは、生まれながらの状態であり、学習によってそれを乗り越えることはできない。)あなたがたはただ、わたしが肉の形で行い、言ったことを知るだけでよい。わたしの条件は強制的なものではないのだから、あなたがたが知り、達成できることを望むだけである。あなたがたは、この穢れた世界で自身の不純なものを取り除かなければならない。この後進的な皇帝たちの一族の中で、決してたゆむことなく、前進しなければならない。あなたがたは、ほんのわずかも自分に寛容であってはならない。わたしが一日に語ることを理解するにも、あなたはたいへんな時間と努力をささげる必要があるだろう。わたしの話した、たった一つの文を知ることにも生涯の経験の重みがあるのだ。わたしの語る言葉は漠然とした、抽象的なものではなく、むなしい口先だけの話ではない。多くの人は、わたしの言葉を得ようとするが、わたしはそうした人々を無視する。多くの人はわたしの豊かさを求めるが、わたしは彼らにわずかも与えない。多くの人はわたしの顔を見ることを願うが、わたしはこれを隠し続けてきた。多くの人は、わたしの声を熱心に聴くが、わたしは目を閉じ、頭を後ろに傾け、彼らの切望に動かされない。多くの人はわたしの声の響きを恐れるが、わたしの言葉はいつでも、攻勢をとっている。多くの人は、わたしの顔を見ることを恐れるが、わたしはわざと姿を見せて彼らを打ち倒す。人間は、けっしてほんとうにわたしの顔を見たことがないし、ほんとうにわたしの声を聞いたこともない。人間はほんとうにはわたしを知っていないからだ。人間がわたしに打ち倒されても、わたしを去っても、わたしの手によって罰されても、自分のすることがみな、ほんとうにわたしの心にかなうことなのかどうかわからず、誰に対してわたしの心が明かされているか、知らずにいるのだ。世界の創造から今日まで、誰ひとり真にわたしを知った者、真にわたしを見た者はいない。また、今日、わたしは肉の体を持っているが、あなたがたは、いまだにわたしを知らない。これは事実ではないのか。あなたは、わたしの肉における行いや性質のほんのわずかでも目にしたことがあるだろうか。
わたしは天に横たわり、また、天の下にわたしは休息を見出す。わたしにはどこか住むところがあり、わたしには自分の力を示す時がある。もしわたしが地上にいなければ、肉の内に自分を隠さなければ、またもし、わたしが謙虚に隠れていなければ、天と地はすでにずっと以前に変わっていたのではないか。わが民は、すでにわたしに用いられていたのではないか。しかし、わたしの行いには知恵があり、わたしは人間の欺きについてはよくわかっているが、例に倣うことはせず、交換をする。霊的領域について、わたしの知恵は果てしなく、肉におけるわたしの知恵は永遠である。これこそが、わたしの行いが明らかにされる時なのではないか。わたしは神の国の時代、今日まで何度も繰り返し人間を赦し、許してきた。これ以上わたしの時を遅らせることができるだろうか。わたしはひ弱な人間について、ずっと慈悲深くしてきたが、ひとたびわたしの働きが完了したとき、まだ古い働きをして、かつての問題に取り組まなければならないのか。わざわざサタンに非難させていて、いいのか。わたしは、人間にはただ、わたしの言葉の内容とわたしの言葉の本来の意味とを受け入れる以外のことは何も求めない。わたしの言葉は単純であるが、その実体は複雑である。人間はあまりに小さく、あまりに鈍くなっているからだ。わたしが肉の体でわたしの奥義を直接明示し、わたしの心を明らかにしたとき、あなたがたは、まったく気づかない。あなたがたは、その音を聞いても、意味は理解しない。わたしは悲しみにうちひしがれる。わたしは肉の体をもっているが、肉の職分の働きはできない。
誰が、わたしの言葉と働きの中に肉の体でのわたしの行いを知るようになったのか。わたしが、書かれたもので奥義を明示し、あるいは、それを声に出して語るとき、人々はみな、すっかり驚いて、黙って眼を閉じる。わたしの語ることがなぜ人間には理解できないのか。なぜ、わたしの言葉は人間にとって不可解なものなのか。なぜ、人間はわたしの行いに盲目でいるのか。誰がわたしを見て、けっして忘れないだろう。誰がわたしの声を聞いて、むなしく過ぎ去るのを許さずにいるだろう。誰がわたしの心を感じ取り、わたしの心を喜ばせることができるだろう。わたしは、人々の間で生きて動き、人々の生活を経験するようになった。わたしは、すべてを人間のために創ったのち、すべては良いと感じたが、人間の間に住むことはまったく喜びではなく、人々の間の幸福をうれしいと思わない。わたしは人間を嫌い捨てることはしないが、人間について感傷的にもならない。人間はわたしを知らず、闇の中でわたしの顔を見ることが困難で、わたしの声を聞くのが難しく、騒音の中では、わたしの言葉を聞き分けることができないからである。だから、表面的には、あなたがたは、わたしに従ってすべてを行っているのだが、心ではまだわたしに不従順でいるのだ。人類すべての古い本質は、このようだといえよう。誰か、そうではない者がいるだろうか。誰がわたしの刑罰を受けない者なのだろう。しかし、誰がわたしの寛容のもとで生きていないだろう。もし人間がわたしの憤りで殺されたなら、わたしは何のために天と地を創ったのか。わたしはかつて多くの人々に警告し、多くの人々に勧告し、多くの人を公然と裁いた。これは、ただ人間を破壊するよりずっとよいのではないか。わたしの目的は、人間を殺すことではなく、わたしの裁きの中で、わたしの行いのすべてを知るようにすることである。あなたがたが底なしの淵から出るとき、つまり、あなたがたがわたしの裁きから解放されるとき、あなたがたの個人的な思慮や計画はみな消え、すべての人はわたしを満足させようと努力するだろう。そして、そうなってこそ、わたしの目的が達成されるのではないか。
1992年3月1日
[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。
場所:
日本
2018年6月15日金曜日
【東方閃電】全能神教会御言葉カード
【東方閃電】全能神は言われた。「強風は何世紀経っても相変わらず山に吹き付けていた。強風は、それ以前と同様に山の所へと「訪れる」時に大きな渦を巻く砂を吹き込んだ。強風は山を脅したが、山の中を割って吹くことは出来なかった。強風と大きな山は互いに信頼し合い、制限し合い、頼り合っていた。」
場所:
日本
2018年6月13日水曜日
【東方閃電】全能神の発表「完全にされた人々への約束」
人の肉体はみな肉のものである。人の肉を獲得することは、神のいかなる目的にも役立ちはしない。というのは、時間と共に減衰していくのは避けられないからである。人の肉は、神からの授かりものあるいはその祝福を、受け取ることができない。もし神が、人の肉だけを獲得し、人の肉をその流れの中に置いたままなら、名目上、人はその流れの中にいるだろう。しかし、その心はサタンに属するだろう。そのとき、人は、地上に現れた神を表現できないばかりか、神の重荷になるだろう。こうして、人を選ぶ神の行為は無意味になるだろう。神に完全にしてもらうことができる人たちは、神から祝福や受け継いだものを受け取ることのできる人たちである。すなわち、そのような人たちは、神が所有するものそして神という存在を取り入れる。そうすることによって取り入れたものが彼らが内部に持つものとなる。すなわち、彼らは、神の言葉が彼らの中に組み入れたものすべてを、所有している。神という存在が何であれ、あなたがたは、その存在のすべてをまさにそれがあるがままに受け入れることができる。そうすることによって、真理を実現することができる。これが、神によって完全にされ、神のものとされた人の姿である。そのような人だけが、神が授ける祝福を受け継ぐ資格がある。すなわち、以下に示されるようなものである。
1. 神の愛のすべてを受け取ること
2. あらゆる事柄において神の意志に違わず行動すること
3. 神の導きを受け取り、神の光の下で生き、神の啓示を受けること
4. 地上で神によって愛された象徴のように生き抜くこと、すなわち、ペテロが行ったと同じように真に神を愛すること、神の為に十字架にかけられ、死が神の愛に対する報いとなるほどに神を愛すること、そしてペテロと同じ栄誉を受けること
5. 地上のすべての人によって愛され、敬われ、称賛されること
6. 死や死者の国の束縛のすべてを克服すること、サタンに機会を与えず、神のものとされていること、新鮮でいきいきとした霊的状態であること、いささかの疲れもないこと
7. 人生のあらゆるときに、あたかも神の栄光の日の到来を見てきた人のように、言語を絶するほどの高揚感や気持ちの高まりをもてること
8. 神とともに栄光を受け取ること、神の最愛の聖人たちに似た表情をもてること
9. 神が地上で愛するもの、すなわち神の最愛の子になること
10. 姿を変えて、神と共に、肉を超越して第三の天まで引き上げられること
このような神の祝福を受け継ぐことができる人だけが、神が完全にし、神のものとされた人である。あなたは、何かを獲得してきただろうか。どれほどまで、神はあなたを完全にしてきただろうか。神は手当たり次第に、人を完全にしない。人が見ることができる状態と結果がある。神への信仰がある限り神によって完全にされ神のものとされており、そして神の祝福や神からの授かりものを地上で受け取ることができる、ということは、人が信じる範囲を超えている。そのような事態は、極めて理解しにくく、姿を変えるというような話になるとなお一層理解しにくい。現在、あなたが主として追求すべきことは、すべての事柄において神によって完全にされることであり、そしてあなたが向かい合っているすべての人、事態、事柄を通して、神によって完全にされることである。そうすることによって、神という存在のより多くのものがあなたの中へ取り込まれる。あなたは神から、より多くより大きな祝福を受け継ぐ資格を得る前に、まず地上で、神からの授かりものを受け取らねばならない。今述べたことのすべてが、あなたが追求すべきことであり、最初に理解すべきことである。あなたが、すべての事柄において神によって完全にされることを追求すればするほど、あなたは、すべての事柄において神の導きを見ることができ、そしてそこから神の言葉の存在やその現実性を、異なる立場を通じさらに異なる事態において、積極的に考慮しようとするだろう。あなたは、単に罪を犯さない、あるいは何の考えも持たない、人生哲学を全く持たない、人間としての意思を持たないといった、否定的な状態に甘んじてはいけない。神は、いろいろなやり方で人を完全にする。あなたが結果的に完全にされることはあらゆる事態において可能である。あなたは、肯定的なことから完全にされることが可能であるだけでなく、否定的なことからも完全にされることができる。結果的にあなたは豊かになる。毎日、神によって完全にされる好機そして神のものとされる時が出現する。そのような経験をすると、あなたは大きく変わる。今のあなたは自然に、以前には理解できなかった多くの事柄に対し洞察力を獲得することができるだろう。すなわち、誰かがあなたに教える必要もなく、無意識のうちに、あなたは神によって導きと示しを与えられ、あなたの経験することの細部に至るまで全てが、与えられた示しと導きが活かされたものとなる。神は、あなたを、どちらの側にも曲がって進まないように、先導するだろう。そしてあなたは、完全にしてもらう道へと、神によって導かれるだろう。
神によって完全にされることは、神の言葉を食べたり飲んだりすることによって完全に達することに、限定されない。このような経験のあり方は、あまりにも一面的で、幅広く多くのものを包含していない。すなわち、人を非常に狭い範囲に閉じ込めるだけである。このような場合、大いに必要とされる心の成長機会が得られない。もし、あなたが神によって完全にされることを望むなら、あらゆる事柄を経験することを学ばねばならないし、直面するいかなる事柄においても、神の知識と示しを与えられなくてはならない。何かに向かい合うときは常に、良いことであれ悪いことであれ、あなたにとって得るものがなければならない。あなたが消極的になることがあってはならない。何が起ころうと、あなたは、神の側に立ってそれを考えることが求められるのであって、人の立場から分析あるいは検討してはいけない(これは、あなたの経験における脱線である)。後者が、あなたの経験の仕方であるなら、あなたの心は霊的成長のための責任で一杯になるだろう。あなたが神の顔の光の下で生きるならあなたの経験における脱線は起こらないだろう。そのような人は、大きな展望を持つ。人が神に完全にしてもらえる機会は多く存在する。すべてが、あなたがたが神を真に愛する人々であるか、そして神によって完全にされ、神のものとされ、さらに神の祝福や神からの授かり物を受け取る決意を持っているかどうかに、かかっている。決意を持つだけでは不十分である。あなたがたは多くの認識を持たなければならない、さもなくば、実践においていつも、脱線するだろう。神は、あなたがた一人ひとりを完全にしようとしている。多くの人たちが長きにわたって、神の働きをすでに受け入れてきた。しかしながら、彼らは単に神の恵みに浴することだけにとどまり、肉の慰めを受け取ることだけに熱心であるのが、現状である。彼らはより多くの、より高度な啓示を受け取ることに熱心でなく、人の心は依然として、いつも外側の世界に属していることを示している。人の仕事、彼の奉仕、彼の神への愛の心は、それほど不純でないにしても、人の内なる本質や無知な考え方に関する限り、人は依然として、平和と肉の喜びを絶えず求めるだけで、神によって完全にしてもらう為の条件や、神が人を完全にする目的が何であるかには関心を持たない。したがって、大部分の人たちの人生は、依然として、いささかの変化もなく、俗悪で退廃的である。彼らは全く、神への信仰を重要問題と見なさない。彼らの信仰は、まるで彼らが他人のために信仰を持っているかのように、真剣さあるいは熱心さを欠いており、結果的に、目的もなくふらつきながら最小限の労力でなんとかやっているような状況である。あらゆる事柄において神の言葉の中へ入っていこうとする少数の人たちがいる。彼らは、今日の神の家にあるより大きな富に属する、より豊かな事柄を獲得し、さらに多くの神の祝福を受け取ることができる。もしあなたが、あらゆる事柄において神によって完全にしてもらうことを求め、地上で神の約束を受け継ぐことができるなら、もしあなたが、あらゆる事柄において神に導かれ、示されることを求め、年月が怠惰に過ぎ去るままにしないなら、これは、活力を持って入っていくべき理想の道である。このようなやり方によってのみ、あなたは神によって完全にしてもらう価値と資格のある人間になることができる。あなたは真に、神によって完全にされることを求めているだろうか。あなたは真に、あらゆる事柄において勤勉だろうか。あなたは、ペテロに匹敵する神への愛の心を持っているだろうか。イエスが愛したように神を愛する意志を持っているだろうか。あなたは、長年の間、イエスへの信仰を持ち続けてきた。ところであなたは、イエスがどのように神を愛したかを確認してきたただろうか。あなたが信仰しているのは、真にイエスなのだろうか。あなたは、今日の実践の神を信じている。ところであなたは、肉の中の実践の神が天上の神をどのように愛するかを確認してきただろうか。あなたは、主イエス・キリストを信仰している。ところでそれは、人類の罪を贖うためのイエスの十字架上の死と彼が行った奇跡が一般的に受け入れられた真実であるがためである。しかしながら、人の信仰は、主イエス・キリストについての認識や正しい理解から生れたのではない。あなたは、イエスの名前だけを信じ、彼の霊に対する信仰心は持っていない、なぜなら、あなたは、イエスがどのように神を愛したかを重要と考えないからである。あなたの神への信仰は、あまりにも子供じみている。あなたは、長年にわたってイエスへの信仰心を抱いてきたが、神をどのように愛すべきかを、あなたは知らない。このことは、あなたを世界最大の愚か者にしてしまわないだろうか。このことは、長年の間、あなたは、主イエス・キリストにある食べ物を無駄に食べてきたことを示す。わたしがそのような人を好きでないだけでなく、あなたが崇拝する主イエス・キリストもまた嫌うと確信する。一体どのようにして、そのような人が神に完全してもらうことができるだろうか。あなたは赤面しないのだろうか。恥ずかしく思わないのだろうか。あなたは依然として、あなたの主イエス・キリストに顔を向ける厚かましさを持っているのだろうか。あなたがたは、わたしの言葉の意味を完全に理解しているのだろうか。
私たちについて:全能神教会の起源
更に多くの内容:「東方閃電」全能神教会はどうやって創られたでしょうか
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日本
2018年6月12日火曜日
【東方閃電】全能神教会御言葉カード
【東方閃電】全能神は言われた。「強風は何世紀経っても相変わらず山に吹き付けていた。強風は、それ以前と同様に山の所へと「訪れる」時に大きな渦を巻く砂を吹き込んだ。強風は山を脅したが、山の中を割って吹くことは出来なかった。強風と大きな山は互いに信頼し合い、制限し合い、頼り合っていた。」
全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。
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日本
2018年6月10日日曜日
【東方閃電】全能神の発表「神の国の時代に神に選ばれし人々が従わなければならない行政命令10項目」
1. 人は自分を大きく見せてはならないし、崇めてもいけない。人は神を崇め、賛美するべきである。
2. あなたは神の働きのためになることは何でもするべきであり、神の働きに有害なことはしてはならない。あなたは神の名、神の証し、神の働きを守るべきである。
3. 金銭、物質、神の家のすべての財産は、人が提供すべき捧げものである。これらの捧げものを享受するのは祭司と神だけである。人からの捧げものは神が享受するためのものであり、神はこれらの捧げものを祭司と分かち合うだけで、ほかの誰も、捧げもののいかなる部分であれ、享受する資格はないからである。人からの捧げものはすべて(金銭や物質的に享受できるものを含め)神に捧げられ、人には与えられない。そこで、これらのものを人は享受すべきではない。人が捧げものを享受するとしたら、その人は捧げものを盗んでいるのである。このようなことをする人は誰でもユダである。ユダは裏切り者であることに加えて、金袋に入っているものも勝手に使ったからである。
4. 人の性質は堕落している。その上、人はさまざまな感情を持っている。そこで神に仕える時、男女が二人一緒に働くことは絶対に禁止されている。一緒に働いていることが見つかった者は誰でも除名され、例外はない―誰も免除されない。
5. あなたは神を批判してはならないし、不用意に神に関連する事柄について話し合ってはならない。あなたは人がすべきことをし、話すべきことを話し、自分の限度を越えてはならないし、自分の境界を逸脱してはならない。口を慎み、自分の歩みに気をつけなさい。このすべてを守れば、あなたが神の性質を犯すことを防げるだろう。
6. あなたは、人が行うべきことを行い、自分の責務を実行し、責任を果たし、本分を守るべきである。あなたは神を信じているので、神の働きに貢献するべきである。そうしなければ、あなたは神の言葉を飲食する資格がなく、神の家で暮らす資格もない。
7. 教会の仕事や事柄に関し、あなたは神に従うことは別として、すべてのことで聖霊に用いられている人の指示に従うべきである。ほんのわずかな違反も受け入れられない。あなたは無条件に順守しなければならないし、正しいか間違っているか分析してはいけない。何が正しいか、間違っているかはあなたに関係ない。あなたは全面的に服従することだけに関心を持たなければならない。
8. 神を信じる人々は神に従い、神を礼拝すべきである。どんな人物に対しても、あなたは崇めたり、仰ぎ見たりするべきではない。神を第1位と位置付け、仰ぎ見る人々を第2位とし、自分自身を第3位と位置付けることは、すべきではない。誰もあなたの心の中に場所を占めるべきではないし、あなたは人々を―とりわけあなたが崇拝する人々を―神と劣らないもの、神と同等なものと考えてはならない。これは神にとって耐えられないことである。
9.あなたは教会の仕事を中心として考えるべきで、自分の肉体の見通しは脇にどけておき、家族の問題については決然とし、心から神の働きに専心し、神の働きを第1にし、自分自身の生活は第2にするべきである。これが聖徒の礼儀正しさである。
10. 信仰のない家族(あなたの子供たち、夫または妻、姉妹または両親など)を無理に教会に行かせるべきではない。神の家はメンバーに不足はないし、役に立たない人々で数を作り出す必要もない。喜んで信じる人々でなければすべて教会に導きいれてはならない。この命令はすべての人々に向けられる。この件に関し、あなたたちはお互いにチェックし、観察し、気付かせるべきである。だれでもそれを犯してはいけない。信仰のない家族が嫌々教会に入る時でさえ、彼らに本を与えたり、新しい名前を与えたりしてはならない。そのような人々は神の家には属しておらず、必要ないかなる手段を用いても彼らが教会に入ることは止めなければならない。悪魔が侵入したために教会に問題が持ち込まれたら、あなた自身が除名されるか、またはいくつかの制約が課せられるだろう。要するに、誰もがこの件に関して責任があり、あなたは自分勝手なことをしてはならないし、個人的恨みを晴らすために使ってはならない。
[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。
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日本
2018年6月9日土曜日
【東方閃電】全能神教会御言葉カード
【東方閃電】全能神は言われた。「小川は何世紀にもわたって山の麓を優しく撫でて流れ続けた。山が造った経路をたどり、小川は大河と合流し、故郷である海へと流れ込んだ。小川は、山の慈しみを受け、道を見失うことが無かった。小川と山は互いに信頼し合い、制限し合い、頼り合っていた。」
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日本
2018年6月7日木曜日
【東方閃電】全能神の発表「あなたは信仰について何を知っているか」
人は信仰という不確かな言葉だけは知っているが、人は何が信仰を構成しているかを知らないし、ましてやなぜ信仰を持っているのかも知らない。人はあまりにも少ししか理解していないし、あまりにも欠乏している。人はあまり考えず知識もないままわたしに信仰を持っている。人は信仰とは何かもなぜわたしを信仰しているのかも知らないけれど、執拗にわたしを信仰し続けている。わたしが人に求めることは、ただ単に人がこのように執拗にわたしを求めたりすることだけでもなく、気まぐれにわたしを信じたりすることだけでもない。なぜなら、わたしのする働きは人がわたしを見たり、わたしを知ったりするようになるためであり、人がわたしの働きの故に心を動かされ、新しい光の中でわたしを見るためではない。わたしは以前には多くのしるしと不思議を顕し、多くの奇跡を行った。当時のイスラエル人たちはわたしに大いなる賞賛を示し、病人を癒し悪魔を追い出すことのできるわたしの並はずれた能力を大いにあがめた。当時、ユダヤ人たちはわたしの癒しの力は見事で並はずれていると思った。わたしのそのような多くの行いのために、彼らはわたしを尊敬の念をもって眺め、わたしの力のすべてに対し大いに賞賛した。よって、わたしが奇跡を行うのを見た人たちはわたしにぴったりと従った。その結果わたしが病人を癒すのを見るため何千人もの人たちがわたしを取り巻いた。わたしは非常に多くのしるしと不思議を示したが、人は単にわたしを熟練した医師と見なしただけだった。わたしはまた当時の人たちに多くの教えを語ったが、彼らは単にわたしを弟子よりまさっている教師としてしか見なさなかった。今日に至るまで、人々はわたしの働きの歴史的な記録を見てきたのに、わたしは病人を癒す偉大な医師であり、無知な人のための教師であると彼らは引き続き解釈している。そして、彼らはわたしが憐れみ深い主イエス・キリストであると決断した。聖書を解釈する人たちはわたしの医術よりまさっていたかもしれないし、今や彼らの教師をのり越えた弟子たちでさえあるかもしれないが、世界中に名が知られているそのような勇名な人たちは、わたしのことをただの医師と同程度に低く考えている。わたしの行いは海岸の砂の粒子より数が多く、わたしの知恵はソロモンの全ての子孫の知恵より偉大であるのに、人はわたしのことをただの医師や人の名もない教師としてしか思っていない。わたしが癒やさずにいられないほどにわたしを信じる人が何人いるだろうか。何人の人たちが、わたしの力で彼らの体から汚れた霊を追い出さずにはいられないほど、わたしを信じるだろうか。そして何人の人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じ、何人の人たちが、無事にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためだけにわたしを信じるだろうか。何人の人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいるだろうか。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人が本来持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人はわたしに癒してくれるように頼んだが、わたしは彼を認めることもせず嫌悪を感じたとき、人はわたしから離れ、魔術師や魔術などの方法を求めた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、彼らはすべて形跡も残さず消えた。だから、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう。ユダヤ人たちはわたしの恵みの故にわたしを信じ、わたしが行く所はどこへでもついて来た。限られた知識と経験しかない無知なこの人たちは、わたしが顕したしるしと不思議な業を見ることだけを求めた。彼らはわたしを偉大な奇跡を行うことができるユダヤ人たちの家長として見なした。だから、わたしが人から悪魔を追い出したとき、彼らは、わたしはエリヤであるとか、モーセであるとか、すべての預言者たちの中で最も老齢な預言者であるとか、すべての医師の中で最も偉大な医師であるとか、非常に混乱して語り合った。わたしがいのちであり、道であり、真理であるというわたしの言葉は別として、だれもわたしという存在そのものあるいは、わたしの正体を知り得なかった。わたしの父が住むところは天であるというわたしの言葉は別として、誰もわたしが神のひとり子であり、神自身であることが分からなかった。わたしがすべての人類に贖いをもたらし、人類を贖い戻すというわたしの言葉は別として、だれもわたしが人類の贖い主であることが分からなかった。人は、情け深く哀れみ深い人としてわたしを知っていただけだった。わたしがわたし自身のすべてを説明できることは別として、誰もわたしを認識せず、わたしが生ける神のひとり子であると信じなかった。人はわたしに対してそのような信仰しか持っておらず、このようにわたしを欺く。人はわたしのことをそんな風に見ているのに、どうしてわたしの証人となることができるだろうか。
人はわたしに信仰を持っているが、わたしの証人にはなることができない、そして、わたしがわたし自身のことを知らせる前には、人はわたしの証人となることはできない。人はわたしが被造物やすべての聖人たちより優れているということしか見ず、わたしが人にはできない働きをするということしか見ない。だから、ユダヤ人から現代の人たちに至るまで、わたしの栄光ある働きを見て来た人たちは、わたしに対して好奇心で一杯になるだけで、たった一人の口もわたしのために証しすることはできない。わたしの父だけがわたしの証人であり、すべての被造物の中でわたしのための道を作った。そうでなければ、わたしがどんなに働いても、人はわたしが創造物の主であることを決して知らないであろう。というのは、人は取ることしか知らず、わたしの働きの故にわたしに信仰を持っているのではない。人はわたしには汚れがなく罪がひとつもないので、またわたしが数多くの奥義を説明できるので、またわたしが群衆よりまさっており、あるいは人はわたしから利益を受けたので、わたしを知っているだけである。しかし、わたしが創造物の主であることを信じている人たちは数少ない。これこそ人がなぜわたしに信仰を持っているか知らないとわたしが言う理由である。人はわたしに信仰を持つ目的や意義を知らないのである。人の現実は欠けており、だから人は、わたしの証人になる価値はほとんどない。あなたがたはほんの少しの真の信仰しか持っておらず、あまりにも少ししか手に入れておらず、だからあなたがたはほとんど証しを持っていないのである。その上、あなたがたは少ししか理解しておらず、あまりにも多くを欠いており、だからあなたがたはわたしの行いに対し証しをするにはあまりふさわしくない。あなたがたの決意は確かにすばらしいだが、あなたがたは神の本質をうまく証言できる確信があるだろうか。あなたがたが体験したり見たりしたことはかつての聖徒や預言者たちのそれにまさっているが、あなたはかつての聖徒や預言者たちの言葉以上の証しができるだろうか。わたしが今あなたがたに授けるものはモーセを超え、ダビデより大きい。だから同じようにわたしはあなたがたの証しがモーセの証しよりまさっており、あなたがたの言葉がダビデの言葉より偉大であるよう求める。わたしはあなたがたに100倍与えるから、同じようにわたしはあなたがたが同じ分だけ返済してくれるよう求める。あなたがたはわたしが人類にいのちを授ける者であり、わたしからいのちを受け取るのはあなたがたで、あなたがたはわたしの証人とならなければならないことを知らなくてはならない。これはわたしがあなたがたに送り、わたしのためにしなければならないあなたがたの本分である。わたしはあなたがたにわたしの栄光をすべて授けてきたし、選ばれた人たちであるイスラエル人が決して受け取らなかったいのちをあなたがたに授けた。だから当然、あなたがたはわたしの証人となり、あなたがたの若さをわたしに捧げ、あなたがたのいのちを差し出さなくてはならない。わたしの栄光を授ける者は誰でもわたしの証人となり、わたしにいのちを捧げるのである。これはずいぶん前に運命づけられていた。わたしの栄光をあなたがたに授けるのはあなたがたにとって幸せなことであり、あなたがたの本分はわたしの栄光を証言することである。幸せを得るためにだけわたしを信じているなら、わたしの働きはあまり意味を持たないだろうし、あなたがたは自分の本分を果たしてはいないのである。イスラエル人たちはわたしの憐れみ、愛、偉大さだけを見、ユダヤ人たちはわたしの忍耐と贖いだけを証言したのである。彼らはわたしの霊の働きのほんの少ししか見なかった。彼らの理解の程度はあなたがたが見たり聞いたりしたことのわずか10,000分の1程度かもしれない。あなたがたが見たことは彼らの中の祭司長たちが見たことさえ上回る。今日、あなたがたが理解している真理は彼らの理解した真理よりまさっており、今日あなたがたが見てきたことは律法の時代に見られたことを超え、恵みの時代に見られたことを超えている。そしてあなたがたが体験したことはモーセやエリヤの体験さえ上回っている。というのは、イスラエル人たちが理解したことはヤーウェの律法だけで、彼らが見たものはヤーウェの背中だけだった。ユダヤ人たちが理解したことはイエスの贖いだけであり、彼らが受けたものはイエスによって授けられた恵みだけであり、彼らが見たものはユダヤ人の家の中のイエスのイメージだけであった。今日あなたがたが見るものはヤーウェの栄光、イエスの贖い、そして今日のわたしの働きのすべてである。あなたがたはわたしの霊の言葉も聞き、わたしの知恵に感謝し、わたしの不思議を知るようになり、そしてわたしの性質について学んだ。わたしはまたあなたがたにわたしの経営(救いの)計画をすべて話した。あなたがたが見たものは単に愛すべき慈悲深い神だけではなく、義に満ちた神でもある。あなたがたはわたしの素晴らしい働きを見てきたし、わたしが激しい怒りと威厳で満ちていることも知った。さらに、わたしはかつて怒りをイエスラエルの家にもたらし、今日その怒りがあなたがたに及んでいることも知っている。あなたがたはイザヤやヨハネより、天のわたしの奥義をもっと理解して来た。あなたがたは先代のあらゆる聖徒たちより、わたしの愛と尊敬に値する特性をもっと知っている。あなたがたが受け取ったものはわたしの真理、道、いのちだけではなく、ヨハネのそれよりも大きいビジョンと啓示である。あなたがたはもっと多くの奥義を理解し、わたしの真の顔も拝した。あなたがたはわたしのさばきをもっと受け入れ、わたしの義なる性質ももっと知った。だから、あなたがたは終わりの日に生まれたけれども、あなたがたの理解は以前のものであり、過去のものである。また今日あることも体験したが、それはわたしの手で成し遂げられた。わたしがあなたがたに求めることは理不尽ではない。というのは、わたしはあなたがたにあまりにもたくさん与え、あなたがたはわたしから多くを見たからである。だから、わたしはあなたがたに昔の聖徒たちがしたように、わたしの証人となってくれるよう願う。そしてこれだけがわたしの心の願いである。
わたしの証人になってくれたのはわたしの父であったが、わたしはより大きな栄光と創造物の口から出る証しの言葉を受けることを求める。だから、あなたがたに自分の本分を果たさせ、わたしの働きの結果を人々にもたらすという目的のために、わたしのすべてをあなたがたに与える。あなたがたはなぜわたしに信仰を持っているのか理解すべきである。もしあなたがたがわたしの徒弟あるいは患者になるためだけに、あるいは天のわたしの聖徒たちのひとりになるためだけにわたしに従うなら、あなたがたの努力は価値がない。そのような方法でわたしに従うのは単に努力の無駄である。そのような信仰をわたしに持つのは、単にあなたがたの日々を無駄に過ごしているだけで、あなたがたの青春を浪費している。そして最後には、あなたがたは何も受けとるものはないだろう。これは無駄な労力ではないか。わたしはユダヤ人たちの中からずいぶん前に離れ、わたしはもはや人の医師でも、人のための薬でもない。わたしはもはや、人が意のままに動かしたり、殺したりする牛や馬ではない。むしろ、わたしは人をさばき、刑罰するために、そして人がわたしを知るように、人々の間にやって来た。あなたは知るべきである、わたしはかつて贖いの働きをした、わたしはかつてイエスであったが、永遠にイエスのままでいることはできない、わたしがかつてヤーウェであったが、後にイエスになったように。わたしは人類の神、創造物の主であるが、わたしはいつまでもイエスのままでいることはできない、あるいはいつまでもヤーウェのままでいることはできない。わたしは人が医師と考えた者だったが、神は単に人類の医師であるということはできない。だから、もしあなたがわたしの信仰において古い見方を持つなら、あなたは何も達成しないだろう。 あなたが今日「神はなんと愛おしいお方か、神は私を癒してくださり、祝福、平安、喜びを与えてくださる。神はなんと人に対して良きお方か。もし私たちが神に信仰を持っているなら、お金も、富も何も心配する必要はない…」と言って、どんなにわたしを賛美しても、わたしはやはりわたしの本来の働きを中断することはできない。今日あなたがわたしを信じているなら、あなたはわたしの栄光だけを受けとり、わたしの証人になる価値があり、他のことはすべて二の次となる。これこそあなたがはっきり知らなければならないことである。
さて、あなたは、なぜあなたがわたしを信じるか本当に知っているだろうか。あなたはわたしの働きの目的と意義を本当に知っているだろうか。あなたは自分の本分を本当に知っているだろうか。あなたはわたしの証しを本当に知っているだろうか。もしあなたが単にわたしを信じ、わたしの栄光もわたしの証しもあなたの中に見ることができないなら、わたしはとうの昔にあなたを投げ捨ててしまっただろう。そのことをすべて知っている者たちに関して言えば、彼らはわたしの目にはイバラでさえあり、わたしの家では、彼らは単に躓きの石でしかない。彼らは少しも役に立たず、重要でないので、わたしの働きにおいて完全に選り分けなければならない毒麦である。わたしはずいぶん前に彼らを忌み嫌ってきた。証しをしないこれらの者たちに関して、わたしの怒りは永遠にあり、わたしのむちは彼らから離れることは決してない。わたしはずいぶん前に彼らを悪者の手に渡し、彼らはわたしの祝福を少しも持っていない。その日、彼らの罰は愚かな女たちの罰よりはるかに痛みを伴う。今、わたしはわたしの義務である仕事だけしている。わたしはすべての麦を毒麦と共に束に縛る。これが今のわたしの仕事である。これらの毒麦はわたしが選び出している時にすべて選別され、麦粒は倉庫に集められ、選り分けられた毒麦は火の中で燃やされ灰となる。わたしの今の仕事はあらゆる人たちをただ束に縛ることで、つまり完全に彼らを征服することだけである。それから、すべての人たちの最後を明らかにするために選別を始めよう。だから、あなたは今どのようにわたしを満足させ、どのように正しい信仰の道を整えるかを知るべきである。わたしが求めるものは、今このときのあなたの忠誠心と服従、今この時のあなたの愛と証しである。たとえあなたが証しをするとは何か、愛とは何かをこの瞬間知らなくても、あなたのすべてをわたしに持ってくるべきで、あなたが持っている唯一の宝物、つまりあなたの忠誠心と服従心をわたしに差し出すべきである。あなたは知るべきである、わたしがサタンを打ち負かしたことに対する証しは人の忠誠心と従順に見ることができ、わたしが人を完全征服したことに対する証しもそうであることを。わたしへのあなたの信仰の義務はわたしの証人となること、わたしに忠実無二であること、最後まで従順であることである。わたしの働きの次のステップを始める前に、あなたはどのようにわたしの証人となるのか。あなたはいかにしてわたしに忠実であり、服従するのか。あなたの役目のためにすべての忠誠心を捧げるか、それとも単にあきらめるのか。あなたはむしろわたしのすべての取り決め(それが死であっても、崩壊であっても)に服従するか、それとも、わたしの刑罰を避けるために途中で逃げ出すか。わたしがあなたを刑罰するのはあなたがわたしの証人となり、忠誠を尽くしわたしに服従するためである。また、現在の刑罰はわたしの働きの次のステップが明らかにされ、仕事の進展が妨げられないためである。よって、わたしはあなたが賢くなり、あなたのいのちや存在の意義を価値のない砂のように取り扱わないよう勧告する。あなたはわたしのこれからの働きがどんなものになるか正確に分かるだろうか。あなたはこれからわたしがどのように働き、わたしの働きがどのように展開していくか知っているだろうか。あなたはわたしの働きに関するあなたの体験の意義、さらにわたしへのあなたの信仰の意義を知るべきである。わたしは多くの事を行ってきた。あなたが想像するように、わたしは途中であきらめることなどできようか。わたしはそのように幅広い働きをなしてきた。どうしてそれを台無しにすることなどできようか。確かに、わたしはこの時代を終わりにするために来た。これは本当だが、それ以上にわたしは新しい時代を始め、仕事を始め、そして何よりも、神の国の福音を広めようとしていることをあなたは知らなければならない。だからあなたは、現在の働きは時代を始めることだけであり、福音を伝えるための基盤を築き、将来に時代を終わらせるための基盤を築くことであることを知らなければならない。わたしの働きはあなたが思うほど単純ではないし、あなたが信じているほど価値がなく意味のないものではない。だから、わたしは前にも言ったように言う。あなたはわたしの働きのために命を捧げ、それ以上にわたしの栄光のためにあなた自身を捧げるべきである。さらに、あなたがわたしの証人になることはわたしが長い間待っていたことであり、それ以上に、あなたがわたしの福音を宣べ伝えるのを待ち望んでいた。あなたはわたしの心にあるものを理解すべきである。
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2018年6月6日水曜日
【東方閃電】全能神教会御言葉カード
【東方閃電】全能神は言われた。「生けるもの、存在するものは、全て神の支配権の下にある。万物は、神が造った後に命を与えられている。それは神から与えられた命であり、その命は、その命のために神が定めた律法と道に従う。この律法と道を人間が変える必要は無く、人間による支援も不要である。神は、このようにして万物に与える。」
全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。
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2018年6月3日日曜日
【東方閃電】全能神教会御言葉カード
【東方閃電】全能神は言われた。「神は、万物が相互に関連し、依存して存在することが出来るように、万物を支配する規則を決めているということを、人間は明確に理解する必要がある。神が造った物には、その全てに価値と意味がある。神が意味の無いものを造ったとしたら、神はそれを消滅させるであろう。これは、神が万物を与える際に用いる方法のひとつである。」
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2018年6月1日金曜日
【東方閃電】全能神の発表「神の業と人間の実践」
人間に対する神の業は、人間と不可分である。なぜなら、人間はこの業の対象であり、神の創造物のうち、神の証しに立つことが出来る唯一のものだからである。人間の生活とあらゆる活動は、神と不可分であり、神の手により支配されており、神から独立して存在出来る人間は一人も居ないとさえ言えるであろう。これは事実であるので、否定出来る者は居ない。神が行う全ての業は、人類の利益のためであり、サタンの謀に対するものである。人間が必要とする物事の全てが神から与えられ、神は人間のいのちの根源である。したがって、人間は神から離れられないことは明らかである。さらに、これまで神に人間から離れる意図があったことは無い。神が行う業は、全人類のためであり、神の考えは常に親切である。したがって、人間にとって、神の業と思想(すなわち神の心)は、両者とも人間が知るべき「ビジョン」である。こうしたビジョンは、神による経営(救い)でもあり、人間には実行不可能な業でもある。その一方で、神の業の中で神が人間に対して行う要求は、人間の「実践」と言われる。ビジョンは神自身の業であり、すなわち人間に対する神の心であり、神の業の目標であり、重要性でもある。また、ビジョンは経営の一環であるとも言える。なぜなら、この経営は神の業であり、人間を対象とするものであり、つまり神が人間に対して行う業だからである。この業は、人間が神を知った証拠であり、手段であり、また人間にとって最も重要なものである。人間が、神の業に関する認識ではなく、神への信仰の教義や取るに足らない詳細事項にのみ留意するならば、明らかに人間は神を知ることは無いであろうし、それ以上に神の心を追求しないであろう。神の業は、神に関する人間の認識に大いに役立ち、それはビジョンと呼ばれる。こうしたビジョンは神の業であり、心であり、神の業の目的と重要性でもある。これらの物事は全て人間に有益である。実践とは、人間が実行すべき物事、神に付き従う創造物が実行すべき物事を指す。それは人間の本分でもある。人間がすべき事は最初から人間が理解している事では無く、神が業の中で人間に対して行う要求である。これらの要求は、神が業を行うに従って、次第に深く、かつ高度になってゆく。たとえば、律法の時代には、人間は律法に従う必要があった。また恵みの時代には、人間は十字架を負う必要があった。神の国の時代は、それと異なる。つまり、人間に対する要求は、律法の時代や恵みの時代よりも高度である。ビジョンが高度化してゆくにつれ、人間に対する要求も次第に高く、明瞭で現実的になってゆく。同様に、ビジョンもまた次第に現実的になってゆく。こうした多数の現実的ビジョンは、人間の神への服従を促進するだけでなく、それ以上に神に関する人間の認識も促進する。
従前の時代に比べて、神の国の時代における神の業は一層実践的であり、より人間の実体や人間の性質の変化を対象とし、神に付き従う者全員にとって、一層神自身の証しに立つことが可能なものである。つまり、神の国の時代において神は業を行って自身に関して従前よりも多くを示されており、それは人間が知るべきビジョンがそれ以前の時代よりも高度になっていることを意味する。神の人間に対する業は嘗て無い領域に入ったので、神の国の時代に人間が知っていたビジョンは、経営の業全体において最高に達している。神の業は嘗て無い領域に入っており、人間が知るべきビジョンは、あらゆるビジョンのなかで最高に達しており、その結果となる人間の実践もまた、従前の時代よりも高度である。なぜなら、人間の実践は、ビジョンと共に段階的に変化し、ビジョンの完遂は、人間に対する要求の完遂でもあるからである。神の経営が止まるとすぐに、人間の実践も止まり、神の業無しでは、人間は従前の教義を維持するほかなく、それ以外に方向性は無い。新たなビジョンが無ければ、人間には新たな実践が無く、完全なビジョンが無ければ、人間の完全な実践も無い。一層高度なビジョンが無ければ、人間の一層高度な実践も無い。人間の実践は、神の足取りと共に変化し、同様に人間の知識と経験もまた神の業と共に変化する。人間がどの程度有能であるかを問わず、人間は依然として神と不可分であり、神が一瞬だけ業を止めたとすると、人間は神の怒りのため即刻死ぬ。人間には何も誇るべき事が無い。なぜなら、現在において人間の知識がいかに高度であっても、人間の経験が如何に多かったとしても、人間は神の業と不可分だからであり、人間の実践と、人間が神への信仰において求めるべき物事は、そのビジョンと不可分だからである。神の業のあらゆる場合には、人間が知るべきビジョンがあり、そのビジョンの後に、神の人間に対する適切な要求がある。こうした基礎となるビジョンなくして、人間は明らかに実践不可能となり、確固として神に付き従うことは出来ないであろう。人間が神を知らない場合、あるいは神の心を理解しない場合、人間の行いは全て無駄となり、神により認められることが出来ない。人間の賜物が如何に豊富であったとしても、人間は神の業や導きと不可分である。人間の行為がいかに優れているか、多いかを問わず、それらの行為は依然として神の業に代わることが出来ない。ゆえに、いかなる場合も、人間の実践をビジョンと切り離すことは出来ない。新たなビジョンを受け容れない者には、新たな実践が無い。そうした者の実践は真理と全く無関係である。なぜなら、そうした者は教義と死んだ律法を遵守しているからである。そうした者には新たなビジョンが一切無く、その結果そうした者は新たな時代に何も実践しない。そうした者はビジョンを失っており、その過程で聖霊の業と真理も失っている。真理の無い者は偽りの子孫であり、サタンの化身である。どのような者であっても、神の業のビジョン無しで居られることは無く、聖霊の存在を奪われることはなく、つまりビジョンを失うと、人は即座にハデスへと落ちて闇の中で暮らす。ビジョンが欠如している者は、むやみに神に付き従う者であり、聖霊の業を欠いている者であり、陰府で暮らしている。そうした者は真理を求めず、神の名を看板のように掲げる。聖霊の業を知らず、受肉した神を知らず、神の経営における3段階の業を知らない者は、ビジョンを知らず、したがって真理が欠如している。そして、真理を備えて居ない者は、皆邪悪を行う者ではなかろうか。真理を実践することを望み、神に関する知識を求め、神と真に協力する者は、その者のためにビジョンが基礎として機能している者である。そうした者は神により認められる。なぜなら、そうした者は神と協力するからであり、これが人間が実践すべき協力である。
ビジョンには、実践すべき道が多数ある。ビジョンには、人間に対する実践的な要求や、人間に知られるべき神の業も含まれて居る。従来は、各地で開催された特別な集会や大規模な集会において、実践の道の一側面しか語られなかった。そうした実践は、恵みの時代に実践すべきものであり、神に関する認識とは、ほぼ無関係であった。なぜなら、恵みの時代のビジョンは、単にイエスの磔刑のビジョンであり、それ以上のビジョンが無かったからである。人間が知るべき事は、イエスの磔刑による人間の贖いの業だけであったので、恵みの時代においては、人間が知るべきビジョンは、それ以外に無かった。このように、人間は神に関して乏しい認識しか無く、イエスの愛と慈しみに関する認識以外に、人間が実践すべき物事は、ごく少数の簡単な、ささやかな物事、今日とは全く異なる物事しか無かった。従前は、どのような集いであるかを問わず、人間は神の業の実践的認識について議論することが出来ず、いわんや人間が真摯に取り組む最適な実践の道はどれかを名言することは出来なかった。人間は、単に慎みや忍耐の基礎に関する簡単な内容を加えたのみであった。人間の実践の本質には全く変化が無かった。なぜなら、同じ時代において、神はそれよりも新しい業を何も行わず、神が人間に要求したのは、慎みと忍耐や、十字架を負うことのみだったからである。そうした実践以外には、イエスの磔刑以上のビジョンは無かった。従来は、その他のビジョンについて全く述べられなかった。なぜなら、神はそれほど多くの業を行っておらず、人間に対して限られた要求のみを行ったからである。このようにして、人間は、何をしたかを問わず、この人間が実践すべき単純で浅薄な物事だけの境界を越えることは出来なかった。現在、他のビジョンについて話している。なぜなら、現在は一層多くの業、律法の時代や恵みの時代の数倍の業が行われているからである。人間に対する要求もまた、従前の時代の数倍多い。人間がそうした業を完全に理解できなければ、その業には大きな重要性が無いであろう。人間は、自分の生涯にわたる努力をそうした業を知るために捧げなければ、それを完全に知るのは困難であろうと言える。征服の業において、実践の道について話すだけでは、人間の征服は不可能であろう。人間に対する要求を除いたビジョンの話だけでも、人間の征服は不可能だとみなされるであろう。実践の道以外に何も話をしなかったとしたら、人間のアキレス腱を突くことも、人間の観念を払拭することも、そして人間を完全に征服することも不可能であろう。ビジョンは人間の征服の主要手段であるが、ビジョン以外に道が無ければ、人間には進むべき道が無く、ましてや成長する手段など無いであろう。これが神の業の最初から最後までにおける原則である。ビジョンには、実践出来るものや、そうした実践からは除外されたビジョンもある。人間のいのちと性質の変化の度合いは、ビジョンの変化が伴う。人間が自らの努力のみに依存するのであれば、人間がそれほど大きな変化を実現することは出来ないだろう。ビジョンでは、神自身の業や神による経営について述べられている。実践とは、人間の実践の道、人間の在り方を指す。あらゆる神の経営において、ビジョンと実践の関係は、神と人間の関係である。ビジョンが除去された場合、実践に関する話無しでビジョンについて述べられた場合、あるいはビジョンのみが存在し、人間の実践が除去されている場合、そうした物事を神の経営と見なすことは出来ず、ましてや神の業が人間のためであるとは言えないであろう。このように、それは人間の本分が除去されたものとなるだけでなく、神の業の目的を否定するものともなるであろう。最初から最後まで、神の業を関与させることなく、単に人間が実践することのみ要求され、そのうえ人間が神の業を知ることを要求されていなかったとしたら、尚更に、そうした業を神の経営とは呼べないであろう。人間が神を知らず、神の心を知らず、曖昧で抽象的な方法により盲目に実践していたとしたら、人間が完全に資質を伴う創造物となることは決して無いであろう。ゆえに、この2つの事柄は、両者とも不可欠である。神の業のみが存在し、つまりビジョンのみが存在し、人間の協力や実践が存在しなかったならば、そうした物事を神の経営とは呼べないであろう。人間の実践と成長だけが存在しているならば、人間がどれほど成長したかを問わず、そうした状況もまた容認出来ないものである。人間の成長は、業とビジョンと共に、段階的に変化する必要があり、気分によって変えることはできない。人間の実践の原則は、自由で無制限なものではなく、一定の範囲内のものである。そうした原則は業のビジョンの段階と共に変化する。このように、神の経営は、結局、神の業と人間の実践ということになる。
経営の業は、人間が原因となって行う。つまり、それは人間の存在により生み出される。人間が登場する以前、あるいは天と地と万物が造られた時、経営は存在しなかった。神の業全てにおいて人間に有益な実践が無かったならば、すなわち神が腐敗した人間に適切な要求を行わなかったならば (神が行った業に人間の実践に適した道が無かったならば)、その業は神の経営とは呼べないであろう。神の業全体に含まれるのが、腐敗した人間に対して実践の取り組み方を伝えることだけで、神が自身の企てを行わず、神の全能性や知恵を少しも示されなかったとしたら、神の人間に対する要求がどれほど高度であったとしても、神が人間の中でどれほど長く生活したとしても、人間は神の性情について何も認識しないであろう。そうした場合、この種の業は尚更、神の経営と呼ぶ価値が無いであろう。簡単に言えば、神の経営の業は、神が行う業であり、神の導きの下で、神のものとされた者により行う、全ての業である。そうした業は、経営としてまとめることが可能であり、人間に対する神の業と、神に付き従う者全員による神への協力を指す。こうした物事の全てを、経営と総称できる。ここでは、神の業をビジョンと呼び、人間の協力を実践と呼んでいる。神の業が高度であればあるほど (つまりビジョンが高度であればあるほど)、神の性情が人間にとって一層明瞭となり、人間の観念と一層異なるものとなり、人間の実践と協力も一層高度になる。人間に対する要求が高度であればあるほど、神の業は人間の観念とは一層異なるものとなり、その結果、人間の試練と、人間が満たす必要のある基準もまた一層高度になる。この業の最後には、全てのビジョンが完遂されており、人間が実践することを要求されている物事は、完全を極めるであろう。この時は、各人が分類される時でもある。なぜなら、人間が知ることを要求されている物事は、この時既に人間に示されているであろうからである。したがって、ビジョンが絶頂に達する時、業もそれに従って終わりを迎え、人間の実践もまた絶頂を迎えるであろう。人間の実践は、神の業に基づき、神の経営は、人間の実践と協力のおかげがあって初めて、完全に表出される。人間は神の業の傑作であり、神による経営の業全ての目的であり、また神の経営全体の成果でもある。もし、神が単独で、人間の協力無く業を行うとすれば、神の業全体の結晶化として機能するものは不在であり、その意味で神の経営には少しも重要性が無いであろう。神の業以外にあり、その業を表現し、その全能性と知恵を証明することが出来る、適切な対象を選択することによってのみ、神の経営の目的を達成し、この業全てを用いてサタンを完全に打倒するという目的を達成することが可能となる。したがって、人間は神の経営の業において不可欠な部分であり、人間は神の経営を結実させ、その最終目的を達成することが出来る唯一の存在である。人間以外には、そうした役割を果たせる生物は無い。人間が真に経営の業の結晶となるのであれば、腐敗した人間の反抗を完全に駆逐する必要がある。それには、人間が様々な場合に適した実践を行い、それに対応する業を神が人間に対して行う必要がある。こうして初めて、最終的に、経営の業の結晶たる人々の集団を得ることが出来る。神の人間に対する業は、それだけでは、神自身の証しに立つことが出来ない。そうした証を実現するためには、生きていて、神の業に適した人間も必要である。神は、まずそうした人々に対して業を行い、そうした人々により、神の業が表現される。そのようにして、創造物に対して、そうした神の心の証しがなされる。そして、この点において、神は業の目的を達成されたことになる。神は独自に業を行ってサタンを倒すことが無い。なぜなら、神はあらゆる創造物に対して、直接的に自身の証しに立つことが出来ないからである。もし神がそうしたならば、人間を完全に確信させることは不可能であり、したがって神は、人間を征服するために、人間に対して業を行う必要があり、そうして初めて神は全ての創造物の証を得ることが出来るようになる。神が単独で業を行い、人間の協力が無いとすれば、あるいは人間が協力することを要求されていないとすれば、人間は決して神の性情を知ることができず、神の心に永遠に気付かないであろう。このような場合、それを神の経営の業とは呼べないであろう。もし人間だけが懸命に努力して求め、しかし人間が神の業を理解しなかったとしたら、人間は悪ふざけをしているようなものであろう。聖霊の業が無ければ、人間の業はサタンのものであり、人間は反抗的であり邪悪を行う者である。腐敗した人間が行う事全てにサタンが示され、神の味方となる事は一切無く、全てサタンの表れとなる。述べられた物事全てのうち、ビジョンと実践が含まれていない物事は一切無い。人間は、自らの観念を捨てて従来備えて居なかった物事を得ることが出来るように、ビジョンの基礎の上に実践を確立し、また服従の道を確立する。神は、人間が神に協力すること、人間が神の要求に完全に服従することを求め、人間は神自身が行う業を目の当たりにすること、神の全能の力を経験し、神の性情を知ることを求める。概括すると、これが神の経営である。神の人間との同盟が経営であり、最大の経営である。
ビジョンが関連する物事は、おもに神自身の業を指し、実践が関連する物事は人間がなすべきであり、神とは無関係である。神の業は神自身により完遂され、人間による実践は、人間自身で実現される。神自身により行うべき物事を人間が行う必要は無く、人間が実践すべき物事に神は無関係である。神の業は神自身の務めであり、人間とは無関係である。この業を人間が行う必要は無く、また人間は神により行うべき業を行うことができない。人間が実践するよう要求されている物事は、それが自分のいのちを犠牲にすることであれ、サタンの所へ行き証しに立つことであれ、全て人間が実現する必要がある。神自身は、神がなすべき全ての業を完遂し、人間が行うべき物事は人間に対して示され、それ以外の業は、人間に委ねられる。神は、追加の業を行わない。神は、神の務めに含まれる業のみを行い、人間に道を示すのみであり、道を開く業のみを行い、道を整える業は行わない。人間は、この点を理解すべきである。真理を実践するということは、神の言葉を実践することを意味し、それは全て人間の本分であり、人間がなすべき事であり、神とは無関係である。人間と同様に神も真理の中で苦痛と精錬を受けるよう人間が要求したならば、人間は不従順である。神の業は、神の務めを行うことであり、人間の本分は反抗することなく神の導きの全てに従うことである。人間は、神が業を行う方法や生きる方法を問わず、実現するよう義務づけられた物事を実現する必要がある。人間に対して要求することが出来るのは、神自身のみである。つまり、人間に対する要求を行うのに適しているのは、神自身のみである。人間は一切自分で選択してはならず、完全に服従して実践する事以外に何もすべきではない。これが人間が備えるべき理知である。神自身が行うべき業が完了した後、人間はそれを段階的に経験する必要がある。最終的に、神の経営全てが完了した時、人間は神により要求された物事を、まだ完了していない場合、人間は罰せられるべきである。人間が神の要求に満たない場合、それは人間の不服従に起因する。それは神が業を十分徹底されていないことを意味するものではない。神の言葉を実践出来ない者、神の要求を満たせない者、自分の忠誠を捧げ、自分の本分を尽くせない者は、全員罰せられるであろう。現在、あなたがたが実現するよう要求されている事は、追加の要求では無く、人間の本分であり、人間全員が行うべき物事である。あなたがたが自分の本分を尽くすこと、それを十分に行うことさえも出来ないのであれば、自ら問題を招いているのではなかろうか。あなたがたは死を招いているのではなかろうか。あなたは、どうして依然として将来や展望を期待することが出来ようか。神の業は人間のためのものであり、人間の協力は、神の経営のためのものである。神が実行されるべき業を全て行われた後、人間は自分の実践を物惜しみせずに神と協力するよう要求されている。神の業において、人間は努力を惜しまず、忠義を全て捧げ、様々な観念に溺れたり、受動的となって無為にしていたり、死を待っていてはならない。神が自身を人間のために犠牲に出来るのであれば、どうして人間が自分の忠義を神に捧げられないことがあろうか。神が人間に対して心をひとつにしているのであれば、どうして人間が少し協力できないことがあろうか。神が人間のために業を行うのであれば、どうして人間が神の経営のために、自分の本分の一部を実行できないことがあろうか。神の業は現在まで長期にわたり続いているが、あなたがたは理解しているだけで行動せず、聞くだけで動こうとしない。そうした者は陰府へ送られるのではなかろうか。神は既に自身の全てを人間のために捧げられているが、それならば、なぜ人間は現在、熱心に自分の本分を尽くせないのだろうか。神にとって、業は最優先事項であり、神による経営の業は最重要事項である。人間にとって、神の言葉を実践し、神の要求を満たすことは、最優先事項である。あなたがたは、全員それを理解する必要がある。あなたがたに対して述べられた言葉は、あなたがたの本質の核心に到達し、神の業は嘗て無い領域に突入している。多くの者が未だにこの道が真理か虚偽かを理解していない。そうした者は未だに待って見ているだけで、自分の本分を尽くしていない。そうした者は、神の言葉と業を逐一検証し、神の食べ物や着物に重点を置き、そうした者の観念はさらに深刻化している。そうした者は無用な物事について騒ぎ立てているのではなかろうか。そうした者が、どうして神を求める者であり得ようか。そうした者が、どうして故意に神に対して服従する者であり得ようか。そうした者は自分の忠義と本分を心の奥へと押しやり、その代わりに神の所在地に重点を置く。そうした人々は、ならず者である。人間が自分の理解すべき物事を理解し、実践すべき物事を全て実践しているならば、神は間違い無く人間に恵みを与えられるであろう。なぜなら、神が人間に要求する物事は、人間の本分であり、人間がなすべき物事だからである。人間が自分の理解すべき物事を理解することも、実践すべき物事を実践することも出来ないならば、人間に懲罰が与えられるであろう。たとえ神に対して明らかに反抗的なことをしなくても、神に協力しない者は神に敵対しており、新たな業を受け容れない者はそれに反対する者である。神に要求された通り、真理を実践しない者は、たとえそうした者が聖霊の業に「特に注意」していたとしても、全員神の言葉に対して故意に反抗し、服従しない者である。神の言葉に従わず、神に服従しない者は反抗的な者であり、神に反逆する者である。自分の本分を尽くさない者は、神に協力しない者であり、神に協力しない者は聖霊の業を受け容れない者である。
神の業が一定段階に達し、神の経営が一定段階に達した時、神の心を求める者は全員、神の要求を満たすことが出来る。神は神独自の基準と、人間が達成可能な物事に従って、人間に対する要求を行う。神が、自身の経営について話をしている時、それと同時に人間の道を示され、人間に生存の道を授ける。神の経営と人間の実践は、両者とも業の同一段階にあり、同時に実施される。神の経営に関する話は、人間の性質の変化に触れ、人間がなすべき物事と人間の性情の変化は神の業に触れる。両者が分割されることは一切無い。人間の実践は段階的に変化している。なぜなら、神の人間に対する要求もまた変化しており、神の業は常に変化し、前進しているからである。人間の実践が依然として教義に囚われているのであれば、それは人間に神の業と導きが欠如していることを示す。人間の実践が一切変わることも深化することも無いのであれば、それは人間の実践は人間の意志にしたがって実施されており、真理の実践では無いことを示す。人間に歩むべき道が無いならば、人間は既にサタンの手に陥り、サタンにより支配されており、それは、人間が邪悪な霊に支配されていることを意味する。人間の実践が深化しないのであれば、神の業は展開しないであろう。また神の業に変化が無ければ、人間の成長は止まるであろう。それは不可避である。神の業全体を通して、人間が常にヤーウェの律法を遵守するならば、神の業は進行し得ないであろうし、ましてや時代を終結させることなど不可能であろう。人間が常に十字架に固執し、忍耐と慎みを実践していたならば、神の業が進行を続けることは不可能であろう。律法を遵守するだけの人々、十字架に固執し、忍耐と慎みを実践しているだけの人々において、6千年におよぶ経営を終わらせることは出来ない。その一方、神を知り、サタンの呪縛から奪回され、サタンの影響を自ら放棄した、終わりの日の人間の中では、神による経営の業全体が完結する。これが神の業の避けられない進路である。宗教的な教会における実践が旧態化していると言われているのは、何故だろうか。それは、そうした教会で実践されている物事が現在の業と断絶されているからである。恵みの時代においては、教会で実践していた事は正しかったが、その時代が過ぎ去り、神の業は変化し、教会の実践は次第に旧態化していった。そうした実践は、新たな業と光に置き去りにされている。聖霊の業は、元来の基礎の上で、何段階か深化している。しかし、そうした教会の人々は神の業の、元来の段階のまま滞り、旧来の実践と光を未だに固守している。神の業は3年ないし5年で大きな変化を遂げることがある。それならば、2000年の間にそれ以上の変化が起こるのではないだろうか。人間に新たな光も実践も無いならば、それは人間が聖霊の業から遅れていることを意味する。これは人間の失敗である。神の新たな業の存在は否定出来ない。なぜなら、現在において、聖霊の元来の業のある者は、旧来の実践を遵守しているからである。聖霊の業は常に進行しており、聖霊の流れの中に居る者もまた一層深化し、漸進的に変化する必要がある。人間は、ある段階で停滞すべきではない。神の元来の業に留まり、聖霊の新たな業を受け容れないのは、聖霊の業を知らない者のみである。聖霊の業を得ることが出来ないのは、不従順な者だけである。人間の実践が聖霊の新たな業に遅れたならば、人間の実践もまた、現在の業から分離していること、そして現在の業と相容れないことは確実である。そうした旧態化した人々は、明らかに神の心を実現出来ず、いわんや神の証しに立つ最後の者となることなど出来ないであろう。さらに、経営の業全体は、そうした人々の中では完結できない。嘗てヤーウェの律法を遵守していた者と、十字架のために苦難を受けた者にとって、終わりの日の業の段階を受け容れられなければ、そうした者が行った物事は全て無に帰し、無駄になるであろう。聖霊の業の最も明瞭な表出は、その時その場所を受け容れることであり、過去に固執することでは無い。現在の業から遅れ、現在の実践から乖離した者は、聖霊の業に反抗し、それを受け容れない者である。そうした者は、現在における神の業に反抗している。こうした者は過去の光に固執するものの、それによって聖霊の業を知らないことを否定することはできない。人間の実践の変化に関する話、過去と現在における実践の相違点の話、従前の時代に、どのように実践されていたかに関する話、現在どのように実践されているかに関する話を、これまで延々としてきたのは、何故だろうか。人間の実践におけるそうした分離は、常に議論されてきた。何故なら、聖霊の業は常に前進しており、したがって人間の実践もまた常に変化することを必要とされているからである。人間がある段階に停滞するならば、それは人間が神の業や新たな光に遅れずにいることが出来ないことを証明する。それは神の経営計画が変化していないことを証明するものでは無い。聖霊の流れの外部に居る者は、常に自分達が正しいと考えるが、実際は、そうした者に対する神の業は遠い昔に既に停止しており、そうした者には聖霊の業が存在しない。神の業が、それとは別の人間の集団、すなわち神が新たな業を完遂させる意向の人間の集団に移転して久しい。なぜなら、宗教の中にいる者は神の新たな業を受け容れることが出来ず、旧来の業に固守するだけであり、したがって神はそうした人々を見捨てて、神の新たな業を受け容れる人々に対して、その業を行うからである。そうした者は神の新たな業において協力する者であり、神の経営計画を完遂出来るのは、その方法によるほか無い。神の経営は常に進行しており、人間の実践は常に高度化し続けている。神は常に業を行っており、常に人間が必要とされているので、神と人間の両者が絶頂に達し、完全に団結している。これは神の業の成果の表れであり、神の経営全体の成果である。
神の業の各段階において、それに対応する人間への要求も存在する。聖霊の流れの中にいる者全員が聖霊の存在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者はサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の業が不在である。聖霊の流れの中に居る者は、神の新たな業を受け容れ、それに協力する者である。現在において、その流れの中にいる者が協力出来ず、神に要求された通りに真理を実践出来ないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。聖霊の新たな業を受け容れる者は聖霊の流れの中で生活し、聖霊の慈しみと守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望まない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるであろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな業を神の名において受け容れる者全てについて、神は責任を負うであろう。神の名を讃美し、神の言葉を実践することを望む者は、神の祝福を得るであろう。神に反抗し、神の言葉を実践しない者は、神の罰を受けるであろう。聖霊の流れの中にいる者は、新たな業を受け容れる者であり、新たな業を受け容れたのであれば、神との適切な協力を行うべきであり、自らの本分を尽くさない反逆者となってはならない。神の人間に対する要求は、これだけである。しかし、新たな業を受け容れない者は、この限りでは無い。そうした者は聖霊の流れの外に居て、聖霊の鍛錬や咎めは、そうした者に適用されない。そうした者は終日肉の中で生活し、自分の心の中で生活し、そうした者の行動は、全て自分の脳による分析と研究により生み出された教義に従っている。それは聖霊の新たな業における要求では無く、ましてや神との協力などでは無い。神の新たな業を受け容れない者には神の存在が欠落し、その上神の祝福と守りが欠如している。そうした者の言動は、殆どが聖霊の業の過去における要求に固執している。その要求は教義であり、真理ではない。そうした教義や規律は、そうした者が集う理由が宗教だけであることを十分に示している。そうした者は選民でも神の業の対象でも無い。そうした者の会合は、宗教の総会としか言いようが無く、教会とは呼べない。これは変えようの無い事実である。そうした者には聖霊の新たな業が無い。そうした者の行為は宗教を暗示するものであり、そうした者が行動で示している物事は、宗教で満ちている。そうした者には聖霊の存在と業が無く、ましてや聖霊から鍛錬や啓きを受ける資格など無い。そうした者は、全員いのちの無い屍であり、霊魂が欠如した蛆虫のようなものである。そうした者には人間の反逆性や反抗性、人間による様々な邪悪な行いに関する認識が全く無く、ましてやそうした者は神の業や神の現在における心など知らない。そうしたものは至って無知で下劣な人間であり、信者と呼ばれるに相応しくない人間のくずである。そうしたものの行動には神の経営に関連する物事は一切なく、ましてや神の計画を侵害することは出来ない。そうしたものの言動は過度に不快であり、粗末で有り、明らかに語る価値が無い。聖霊の流れの中に居ない者の行動は、いずれも聖霊の新たな業と無関係である。そのため、そうした者がどう行動するかを問わず、そうしたものは聖霊の修練を欠いている上、聖霊の啓きを欠いている。何故なら、そうした者は全員真理への愛が一切無い者であり、聖霊から嫌い捨てられた者だからである。そうした者は邪悪を行う者と呼ばれる。何故なら、そうした者は肉にあって歩み、神の看板の下に、自分が満足するあらゆる物事を行うからである。神が業を行う間、そうした者は神に対して故意に敵意を抱き、神と反対方向に向かって走る。人間が神と協力しないことは、それ自体が最も反逆的であり、そうした人々の故意による神からの逃避に関しては、言うまでも無い。それでは、そうした人々は然るべき罰を受けるのではないだろうか。そうした人々の邪悪な行いを述べると、そうした人々を呪わずには居られない者も居るが、神はそうした人々を無視される。人間にとって、そうした人々の行為は神の名に係わるもののように思われるが、実際には、そうした行動は神の名や証には何の関係も無い。そうした人々が何をしたとしても、それは神と無関係である。その行動は、神の名とも、神の現在における業とも無関係である。そうした人々は自分自身を辱め、サタンを示している。そうした人々は邪悪を行う者であり、怒りの日の看板を掲げている。現在、そうした者の行動を問わず、そうした者は、神の経営を阻害せず、神の新たな業と無関係である限り、相応の罰の対象とはならない。なぜなら、怒りの日はまだ到来していないからである。神が既に取り扱われているべきであると人々が考えている物事は多数あり、人々はそのような邪悪を行う者は、出来るだけ早く罰を受けるべきであると考えている。しかし、神の経営の業は未完了であるため、また怒りの日がまだ到来していないため、不義な者は不義な行動を行い続ける。宗教に参加している人々には、聖霊や聖霊の業が存在しない、またそうした人々は神の名に恥辱をもたらす、という者も居る。それならば、何故神はそうした人々を滅ぼさずに、そうした人々の抵抗に寛容にしているのであろうか。そうしたサタンの現れであり、肉を示す人々は、無知で低能な人間であり、不合理な人間である。そうした人々は、神が人間の中でどのように業を行うかを理解する前に、神の怒りの発生を見のあたりにすることは無く、そうした人々が完全に征服された後、そうした邪悪を行う者は、全員罰を受け、一人として怒りの日を逃れることが出来ないであろう。現在は、人間の罰の時では無く、征服の業を行う時であるが、神の経営を阻害する者が居る時はこの限りでなく、その場合、そうした人々は、行動の深刻度により罰を受けるであろう。神が人類を経営されている時、聖霊の流れの中にいる者は、全て神と関連する。聖霊に嫌い捨てられた者はサタンの影響下で生活し、そうした者が実践する物事は、神と一切無関係である。神の新たな業を受け容れ、神と協力するものだけが、神との関連性を持つ。なぜなら、神の業は、人間がそれを受け容れるかどうかを問わず、人間全員ではなく、それを受け容れる者だけを対象とするからである。神が行う業には常に目的があり、業は気まぐれで行うものではない。サタンと同盟している者は、神の証しに立つ者として不適であり、いわんや神と協力する者として適してなどいない。
聖霊の業の各段階には、それと同時に人間の証が必要とされる。業の各段階は、神とサタンとの戦いであり、戦いの相手はサタンである一方、その業より完全にされるのは人間である。神の業が結実するかどうかは、人間の神の証しへの立ち方により決まる。この証は、神に付き従う者に対して神が要求する物事である。それはサタンの前で行われた証であり、神の業の効果を証明するものである。神による経営全体は、3段階に分割され、各段階において、人間に対して適切な要求が行われている。さらに、様々な時代が経過し、進行してゆくにつれ、全人類に対する神の要求は高度化し続ける。このようにして、この神の経営の業は、人間が「言葉は肉において現れる」の事実を目の当たりにするまで、段階的に進んで最高潮に達する。また、そのようにして人間に対する要求と、人間に対して求められる、証しに立つ要求は高度化を続ける。人間が真に神と協力することが一層可能であればあるほど、人間は神を一層讃美する。人間の協力とは、人間が行うよう要求される証であり、人間が行う証は、人間による実践である。ゆえに、神の業が所期の効果を得られるかどうか、真の証が存在し得るかどうかは、人間の協力と証と不可分の関連性がある。業が終わった時、つまり神の経営が終わりに達した時、人間は一層高い証を行うよう要求される。そして神の業が終わった時、人間の実践と成長は最高潮に達する。従前において、人間は律法と戒律に従うことを要求され、辛抱強く謙虚であることを要求された。現在、人間は神の計画全てに従い、神に対する至高の愛を備えることを要求され、また究極的には、苦難の時に神を愛し続けることを要求されている。これら3つの段階が、神が自身の経営全体を通して、神が人間に対して段階的に行う要求である。神の業の各段階は、その前の段階よりも一層深化し、人間に対する要求は、各段階においてその前の段階よりも一層遠大なものであり、神の経営全体はそのようにして次第に形成される。人間の性質が神により要求される基準に近付いてゆく理由は、正確に言うと、人間に対する要求が高度化してゆくからであり、その後になって初めて、最終的に神の業が完了した時、人類全体がサタンの影響から救われるまで、人類全体が次第にサタンの影響から離れてゆく。その時になると、神の業が終わりを迎え、人間の性質の変化を実現するための神に対する人間の協力が終わり、人類全体が神の光の中で生活し、それ以後は神に対する反抗や反逆は無くなる。また、神は人間に対して何も要求しなくなり、人間と神との間には、一層調和の取れた協力、つまり人間と神が共にある生活、神の経営が完了した後、人間がサタンの呪縛から神により完全に救われた後に到来する生活があるであろう。神の足取りに緊密に追随出来ない者は、そうした生活を得ることが出来ない。そうした者は自ら闇へと沈み、そこで泣きながら歯ぎしりするであろう。そうした者は神を信じているが神に付き従わず、神の業の一部に従わない者である。人間は、神を信じているのであれば、神の足取りに緊密かつ段階的に追随する必要がある。人間は「子羊が行く場所であれば、どこへでもついて行く」必要がある。そうした人々のみが真の道を求める者であり、聖霊の業を知る者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の業により既に排除された者である。各期間において、神は新たな業を開始し、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」ないし「イエスはキリストである」といった、ある1つの時代のみに該当する真理のみに従うのであれば、人間は聖霊の業と足並みを揃えることは決して出来ず、聖霊の業を得ることは永遠に出来ないであろう。神がどのように業を行うかを問わず、人間は全く疑うこと無く、緊密に付き従う。このような場合、どうして人間が聖霊により排除されることがあろうか。神がどのような業を行うかを問わず、それが聖霊の業であることを人間が確信し、人間が何も疑わずに聖霊の業に協力し、神の要求を満たそうとする限りにおいて、どうして人間に罰が与えられることがあろうか。神の業は嘗て一度も停止したことが無く、神の足取りは立ち止まったことが無い。また神の経営の業の完了前、神は常に多忙にしており、休んだことが無い。しかし、人間はそれと異なる。人間は、わずかに聖霊の業を得て、それが決して変わらないかのように扱う。人間は、わずかに知識を得て、立ち上がってそれよりも新しい神の業の足取りに追随しない。人間は、わずかに神の業を見て、神を特定の木の人形として即座に決めつけ、神は常に人間の見る形であり、従前も今後も常にそのような形であると考える。人間は、表面的な知識だけを得て、有頂天になって自分自身を忘れ、全く存在しない神の性質や在り方をみだりに主張する。そして聖霊の業の1段階に固着して、神の新たな業を宣言するのがどのような人間であれ、人間はそれを受け容れない。そうした者は聖霊の新たな業を受け容れることが出来ない者である。そうした者は保守的すぎて、新しい物事を受け容れられない。そうした者は、神を信じているが、同時に神を拒否している者である。人間は、イスラエルの民が「ヤーウェのみを信じてイエスを信じなかった」のは誤っていると考えるが、殆どの者が「ヤーウェのみを信じてイエスを拒絶する」役そして「メシアの再来を待ち望み、しかしイエスというメシアに反対する」役を演じている。それならば、人間が聖霊の業のうちひとつの段階を受け容れた後も、依然としてサタンの領域で生活し、依然として神の祝福を受けていないことに、何の不思議も無い。これは、人間の反逆性の結果ではなかろうか。現在の新たな業から遅れている世界各地のキリスト教徒は、自分達が幸いな者である、神は自分の望みを全て満たすであろうという考えに固執している。しかし、そうした者は神が自分達を第三の天へと引き上げるのが何故かを明確に述べることが出来ず、イエスがどのようにして白い雲に乗って自分達を採り集めるかについても確信しておらず、ましてや自分達が想像している日に、本当にイエスが白い雲の乗って来られるかどうかを絶対的な確信を持って述べることなど出来ない。そうした者は皆不安であり、迷っている。そうした者は、各教派で讃美する少数の多様な人間である自分達を神が全員引き上げられるかどうかさえ知らない。神が現在行っている業や、現在人間が存在する時代、神の心といった物事について、そうした者は全く把握しておらず、自分の指で日数を数える事しか出来ない。最後まで子羊の足取りに追随する者のみが、最後の祝福を得ることが出来るが、そうした最後まで付き従えないにもかかわらず、自分が全てを得たと考えている巧妙な者は神の姿の証しに立つことが出来ない。そうした人々は全員、自分が地上で最も賢いと信じており、何ら理由なく神の業の継続的な展開を中断させ、そうした「神に対する至高の忠義があり、神に付き従い、神の言葉を遵守する」自分を、神は天に引き上げられると、完全な確信を持っているようである。そうした者は、神の言葉に対して「至高の忠義」があるにもかかわらず、言動が極めて忌まわしい。なぜなら、そうした者は聖霊の業に反対し、謀略や邪悪をはたらくからである。最後まで付き従わない者、聖霊の業から遅れる者、旧来の業に固執する者は、神への忠誠を満たせなかったどころか神に反抗する者となり、新たな時代に拒否され、罰を受ける者となっている。それ以上に哀れなことがあるだろうか。多くの者は、旧来の律法を拒否して新たな業を受け容れた者は、良心が無いとさえ信じている。良心に関して話をするだけで聖霊の業を知らない者は、究極的には自らの良心のために見通しを中断される。神の業は教義に準拠しておらず、またそれは神自身の業であるが、神はそれに固執しない。否定されるべき物事が否定され、排除されるべき物事が排除される。しかし、人間は神の経営の業のうち、ほんの一部に固執し、よって自ら神と対立している。それは人間の不合理ではなかろうか。それは人間の無知ではなかろうか。人間が神の祝福を得られないことを畏れて臆病になり、用心し過ぎればし過ぎるほど、より大きな祝福と、最後の祝福を得ることが一層不可能となる。盲目的に律法を遵守している人々は皆、律法に対して最高の忠義を示し、そうした者が律法に対して最高の忠義を示せば示すほど、そうした者は一層神に反抗する反逆者である。現在は律法の時代ではなく神の国の時代であり、現在の業を従来の業と比較することはできず、過去の業を現在の業と比較することは出来ない。神の業は既に変化しているので、人間の実践もまた変化した。現在の実践は、律法を守ることでも、十字架を負うことでも無い。したがって、律法や十字架に対する人間の忠義は、神の承認を得ないであろう。
神の国の時代において、人間は全き者とされる。征服の業の後、人間は精錬と苦難の対象となる。この苦難を克服し、この苦難において証に立てる人間が、最終的に完全にされる者である。そうした者は、克服者である。この苦難の時において、人間はこの精錬を受け容れる必要があり、その精錬が神の業の最後に存在する物である。精錬は、神による経営の業全ての完了前に、人間が精錬される最後の時であり、神に付き従う者は全員、この最後の試練を受け容れる必要があり、この最後の精錬を受け容れる必要がある。苦難に煩わされる者には、聖霊の業と神の導きが不在であるが、真に征服され、神の心を真に求める者は、最終的に揺るぎなく耐えるであろう。そうした者は、人間性を備え、神を真に愛する者である。神がどのような業を行われても、そうした勝者はビジョンを奪われることが無く、証に立つことに失敗することなく、依然として真理を実践するであろう。そうした者は大いなる苦難を最終的に克服する者である。依然として嵐の海で漁をする者が他人にたかることが出来るとしても、最後の苦難を逃れられる者はおらず、最後の試練を逃れられる者は居ない。克服する者にとって、そうした苦難は大いなる精錬である。しかし、嵐の海で漁をする者にとって、それは完全な排除の業である。そうした者がどのようにして試されるとしても、心の中に神が存在する者の忠義は変わることが無い。しかし、心の中に神が存在しない者については、神の業が自分の肉に有利で無いならば、神に対する見方を変え、神から去ることさえある。そうした者が、最後に確固として耐えない者であり、神の祝福を求めるだけで、神のために費やし、神に自らを捧げる願望が一切無い者である。こうした下劣な人々は、神の業が終わりを迎えた時に全員排除され、同情の余地の無い者である。人間性が欠如している者は、神を真に愛することが出来ない。環境が安全で安心なものである時、あるいはそうした者が利益を得る時、そうした者は神に対して完全に従順であるが、自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりした時、そうした者は直ちに反乱を起こす。ほんのひと晩の間に、そうした者は、にこやかで「親切な」人間から、醜く残忍な殺人者となり、何の根拠も無く、それまでの恩人を生かしておけない敵として扱う。こうした一瞬にして殺しを行う悪魔が追放されていない場合、そうした者は、それ以上の苦難の根源となるのではなかろうか。人間を救う業は、征服の業が完了した後には実現しない。征服の業が終わったとしても、人間を清める業は終わっていない。そうした業は、人間が完全に清められ、真に神に服従する者が完全にされ、見せかけだけで神が自分の心に無いものが粛清され終えて、初めて完了する。神の業の最終段階において神に満足してもらえない者は完全に排除され、排除される者は悪魔である。そうした者は神に満足してもらうことができず、神に対して反抗し、そうした者は現在神に付き従っているが、それはそうした者が最後に残る者であることを証明するものではない。「神に最後まで付き従う者は救われる」において、「付き従う」とは、苦難の中で揺るぎなく耐えることである。現在、多くの者が、神に付き従うのは容易であると考えているが、神の業が終わろうとしている時、あなたは「付き従う」という言葉の真意を知るであろう。征服された後の現在も依然として神に付き従うことが出来るということだけでは、あなたが完全にされる者の一人であることは証明されない。試練に耐えることも、苦難を克服することも出来ない者は、最終的に、揺るぎなく耐えることが出来ず、最後まで神に付き従うことが出来ないであろう。真に神に付き従っている者は、自分に対する試練の業に耐えることが出来るが、真に神に付き従っていない者は、いかなる神の試練にも耐えることが出来ない。遅かれ早かれ、そうした者は排除されるが、克服者は神の国に残るであろう。人間が神を真に求めているかどうかは、その者に対する業の試みすなわち神の試練により判断され、人間自身の判断とは無関係である。神が誰かを気まぐれで拒否することは無い。神が行う業は、全て人間が完全に確信するためのものである。神は、人間に見えない物事や、人間を確信させることが出来ない業を一切行わない。人間の信仰が本当であるかどうかは、事実により結果が求められるものであり、人間が決めることは出来ない。「麦を毒麦に変える事はできず、毒麦を麦に変える事も出来ない」ことは、間違い無い。神を真に愛する者は、全員最終的に神の国に残り、神は神を真に愛する者を虐げられることは無いであろう。神の国の中の克服者は、様々な役割と証に基づいて祭司として、あるいは信者として仕えるであろう。また苦難を克服した者は、全て神の国で祭司となるであろう。祭司の集団は、宇宙全体における福音の業が終わった時に結成されるであろう。その時が到来すると、人間がなすべき物事は、神の国において自分の本分を尽くし、神と共に神の国で生活することとなるであろう。祭司の集団には、長たる祭司と、祭司が居て、それ以外の者は神の子、神の人々となるであろう。こうしたことは、苦難の時における神に対する証により判断される。そうした地位は、気まぐれで与えられたものでは無い。人間の地位が確立した後、神の業は停止する。なぜなら、各人が分類され、元来の地位に戻されるが、それが神の業の成果のしるしであり、神の業と人間の実践の最終結果であり、神の業のビジョンと人間の協力の結晶だからである。結局、人間は神の国で平穏を得て、神もまた自らの生活場所に戻って休息を取るであろう。これが、神と人間の6000年におよぶ協力の最終結果である。
場所:
日本
2018年5月31日木曜日
【東方閃電】全能神教会御言葉カード
【東方閃電】全能神は言われた。「神は、万物を支配する規則の主であり、神は万物の存続を律する規則を支配し、また神は宇宙や万物も、共生できるように支配する。神はそれらの物事が絶滅したり消滅したりしないよう、支配するので、人類は存続することが可能であり、そうした環境で神の主導のもとに生活できる。」
全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。
場所:
日本
2018年5月28日月曜日
【東方閃電】全能神教会御言葉カード
【東方閃電】全能神は言われた。「神が人間をどのように取り扱うか、人間のことをどのように思うかを問わず、神の身分、権威、地位は決して変わらないということを忘れてはならない。人間にとって、神は常に万物の主であり、創造主であるのだ。」
場所:
日本
2018年5月26日土曜日
【東方閃電】全能神の発表「十四番目の言葉」
世々を経て、人間は一人も神の国に入っていない。だから、誰一人神の国の時代の恵みを享受していない。だれひとり国の王を見ていない。わたしの霊の光の中で多くの人が国の美しさを予言したが、彼らが知っているのは外観だけで、内側のすばらしさは知らないのだ。今日、地上にわたしの国が現実に存在するようになっても、ほとんどの人間は、神の国の時代に何が成し遂げられるのか、どこに人間は最終的に連れて行かれるのかを知らない。これについて、残念なことに、人間はみな誤解しているようだ。神の国の日の完全実現がまだ終わっていないため、すべての人間は混乱していて、はっきり見ることができない。神としてのわたしの働きは、神の国の時代とともに正式に始まる。神の国の時代の正式な開始とともにわたしの性質が徐々に人間に示される。そうして、その時に聖なるトランペットが儀式的に響き出し、あらゆるものに告げる。わたしが正式に権力を握り、神の国の王として支配すると、わが民はみな、やがて、わたしによって完全にされる。世界のすべての国々が混乱すると、そのときこそ、わたしの国が確立され、形作られ、また、わたしは本来の姿を現して全宇宙に向き合う。その時、すべての人はわたしの栄光の顔、わたしの真の顔つきを見る。世界の創造から今日まで、人間はサタンに堕落させられて今日の状態に至った。人間の堕落によって、わたしはますます人間たちから隠され、ますます理解のできないものになっていった。人間はけっしてわたしの真の顔を見たことがないし、けっしてわたしと直接接することがなかった。人間の想像した「神」は、聞き伝えや神話の中にだけいた。だからわたしは、人間の想像力、つまり、人間の概念に合わせて、人間の考える「神」に取り組み、彼らが永きにわたって抱いていた「神」なるものを変える。これがわたしの働きの方針だ。これを知り尽くすことのできた人間は、ただの一人もいない。人間はわたしにひれ伏し、わたしの前に来て拝んだが、わたしは人間の行いを喜ばない。彼らの心にあるのは、わたし本来の姿ではなく、わたしとは関係のない姿だからだ。だから、人々の頭にわたしの性質はなく、人々はわたしの真の顔について、何も知らない。だから、わたしに抵抗したり、わたしの行政に違反したとしても、わたしは見ないことにする。そこで、人間の記憶では、わたしは人間を罰するよりは、慈悲を示す神であるとか、言うことを文字通りには実行しない神だということになっている。そうしたことは人間の頭の生み出した考えであり、事実とは異なっている。
わたしは日々、宇宙の上に立ち、観察し、人間の生活を経験するために、わたしのすみかに謙虚に身を隠し、人間の行いすべてをよく観察する。誰一人、本当に自身をわたしに捧げたことがない。誰一人、真理を追求した者はない。誰一人、わたしに良心的であった者はない。誰一人、わたしの前で誓いを立て、本分を果たした者はない。誰一人、わたしをその内に宿らせた者はいない。誰一人、自分の命と同じくらいにわたしを大事にした者はいない。誰一人、神であるわたしのすべてを実際に目にした者はいない。誰一人、実践の神自身とやりとりをしようとしない。水が人間をそっくり呑み込むと、わたしは淀んだ水から救い出し、新たに生きる機会を与える。人間が生きる自信を失うと、死の瀬戸際から引き戻し、生きる勇気を与え、わたしを存在の基礎とするようにする。人間がわたしに不服従であるとき、わたしはその不服従の中でわたしを知るように仕向ける。人間の古い本質を考慮し、わたしの哀れみにより、人間を殺すよりは、悔い改めて新たに始めさせる。人間が飢饉に苦しむと、一息でも残っていれば、わたしは彼らを死から奪い、サタンの罠に陥らないようにする。何度、人々はわたしの手を見ただろう。何度、人々はわたしの親切な顔、笑顔を見、何度、わたしの威厳、わたしの憤りを見ただろう。人間は、けっしてわたしを知らないのだが、わたしは彼らの欠点につけ込んで無用な厄介事を引き起こしはしない。人間の困難を経験したため、わたしは人間の弱点に同情する。人間の不服従、忘恩に対してだけ、わたしは程度に応じて罰を下す。
わたしは、人間が忙しい時には身を隠し、暇な時に姿を現す。人間は、わたしをあらゆる願いをかなえる全能の神であると思っている。だから、たいていは、わたしを知りたいという欲求からではなく、神の助けを求めてわたしの前に来る。病の苦しみにあるとき、人間はわたしにあわてて助けを求める。困難な状態にあるとき、人間は、自分たちの難儀を除くことをひたすらに願って、自分たちの苦しみについて打ち明ける。しかし、安楽な時にわたしを愛することのできた者は一人もいない。自分たちが安らかで幸福な時に、喜びを分かち合おうと、わたしに手を伸べた者は一人もいない。家族が幸福で安らかな時には、人間はいつもわたしを押しのけ、あるいは戸口から締め出し、入れないようにする。そして、家庭の幸福を楽しむ。人間の心はあまりに狭く、神をわたしのように愛情深く、慈悲深く、触れることのできるものであるとは考えない。楽しい笑いの場で、何度、わたしは人間に拒絶されたことか。人間が倒れたとき、何度、彼らはわたしを支えにしようと、寄りかかってきたか。何度、病に苦しむ人間に、医者の役目を強いられたか。人間とは何と残酷なのだ。まったく理不尽で不道徳だ。人間に備わっているはずの感情さえ、彼らの内に見いだせない。彼らには人間味がほとんどない。過去を振り返り、現在と比べて見よ。あなたがたの内に変化が起こっているだろうか。あの過去は、現在にそれほどの効果がないのか。それとも、あの過去はまだ換えられていないのか。
いたるところを、わたしは移動し、世の浮き沈みを経験した。わたしは人々の間を歩き回り、人々の中で長い間暮らした。しかし、人間の性質はほとんど変わらないようだ。そして、まるで人間の古い本質が根付き、成長しているようなのだ。彼らはけっして古い本質を変えられず、もともとの基礎にあったものを向上させているだけだ。よく言うように、本質は変わっていないが、外側はずいぶん変わっている。うまくやって、わたしに気に入られようとして、誰もがわたしを騙そうとし、惑わそうとしているようだ。わたしは、人間の企みなど見ないし、注意を払いもしない。憤るよりは、わたしは見ても見ないふりをする。わたしは、人間について、ある程度自由にさせておくが、後で一度に扱う。人間はみな自尊心のない無価値な恥知らずで、自分を大事にすることがないのだから、どうしてわたしが新たに慈悲と愛を示す必要があるのか。例外なく、人間は自分を知らず、自分がどれほどのものか、わかっていない。彼らは重さを測るために秤に乗らなければいけない。人間はわたしを無視しているのだから、わたしも彼らをまともに扱わない。人間はわたしに無関心だから、わたしも彼らのために努力する必要はない。これは、二つの世界に最善のことではないか。これはあなたがたの姿なのではないか、わが民よ。わたしの前で誓いを立て、後になってそれを捨てない人がいたか。わたしの前で、しきりにあれこれの誓いを立てることをしないで、長期間の誓いを立てたものがいるかどうか。人間はいつでも安楽な時には、わたしの前で誓いを立てるが、苦しい時には、それをみな取り消す。後になって、またその誓いを取り上げて、わたしの前に置く。わたしは、まったく尊敬に値しないから、人間がゴミの山から拾ってきたクズを気楽に受け入れるというのだろうか。自分の誓いを堅持する人間は、ほとんどいない、慎み深い人は、ほとんどいない。また、最も大事なものをわたしのために犠牲にする人も、ほとんどいない。あなたがたはみな、こういうふうではないのか。もしわたしの国でわが民の一人として自分の本分を果たせないのなら、その人はわたしに嫌われ捨てられる。
1992年 3月12日
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日本
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