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2019年6月16日日曜日

朗読 神の言葉「救い主はすでに『 白い雲』に乗って戻って来た」(抜粋)その1



全能神は言われます。「数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、『わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る』と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている『神殿』で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。」
『言葉は肉において現れる』より



2019年4月23日火曜日

福音書|イエスによる奇跡

1)五千人に食事を与えるイエス

  弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。(ヨハネによる福音書 6:8-13)


2)ラザロの復活が神を褒めたたえる

 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。(ヨハネによる福音書11:43-44)

 主イエスが行った奇跡の中から、この2つの奇跡のみを取り上げたのは、ここでの論題を証明するには、この2つで十分だからである。この2つの奇跡は極めて驚異的であり、恵みの時代における主イエスの奇跡を代表するものである。

 まず、2つのうち最初に挙げた聖句「五千人に食事を与えるイエス」を検討する。"

 「五つのパンと二匹の魚」とは、どのような考えであろうか。五つのパンと二匹の魚は、通常何人前に相当するであろうか。通常の人間の食欲に基づいて計算すると、これはわずか二人前として十分な数である。これが、五つのパンと二匹の魚の最も基本的な考えである。しかし、この聖句では、五つのパンと二匹の魚が何人に与えられたと述べられているであろうか。聖句には、「その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。」とある。五つのパンと二匹の魚に対して、五千人は大きな数だろうか。この人数が極めて多いことには、どのような意味があるのだろうか。人間の視点から見て、五つのパンと二匹の魚を五千人で分け合うことは不可能である。なぜなら食べ物と人数の差が大きすぎるからである。各人がほんのひとくち食べたとしても、五千人に十分な量とは言えない。しかしここでは、主イエスが奇跡を行い、五千人全員が満腹になっただけでなく、更に残ったものがあったのである。聖句には「人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、『少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい』。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。」とある。この奇跡により、人々は主イエスの身分と地位を理解することが可能となり、また神に不可能なことはないことを知ることができた。人々は、神の全能性は真実であるということを理解したのである。五つのパンと二匹の魚で、五千人前として十分であったが、仮に食物が全くなかったとしたら、神は五千人に食事を与えることが出来たか、というと、当然可能だったであろう。これは奇跡であったため、人々は必然的にこれが理解不能であると感じ、驚異的で、謎であると感じたが、神にとって、こうしたことを行うのは極めて容易なことであった。これは神にとって普通の事であったとしたら、この奇跡を採り上げて解釈するのは何故か、というと、この奇跡の背景には、それまで人間が知らなかった主イエスの旨があるからである。

 まず、この五千人は、どのような人々であったかを考えてみよう。この五千人は主イエスに付き従うものであっただろうか。聖句によると、この者達は主イエスに付き従うものではなかったことが分かる。この者達は主イエスが誰であるかを知っていたか、というと、知らなかったことは確実である。少なくとも、この者達は目の前に立っていたのがキリストであるとは知らなかった。あるいはそのうち数名は、イエスの名前と、イエスがそれまでに行った業についてのみ、何かしらの知識があったか聞いたことがあった可能性がある。この者達は主イエスについて、それまでに聞いた話から好奇心を抱いていただけであったが、この者達が主に付き従っていた、ましてやイエスを理解していたと言えないことは確実である。主イエスがこの五千人を見た時、この者達は空腹で、お腹いっぱい食べることしか考えられなかったので、主イエスはこうした背景から、この者達の望みを満足させた。主イエスがこの人々の望みを叶えた時、主の心には何があったであろうか。空腹を満たしたいとしか考えていなかった人々に対する主の態度は、どのようなものであったであろうか。この時、主イエスの考えと態度は、神の性質と真髄に関連するものであった。空腹を満たすことだけを望む五千人がイエスの目の前にいた。この人々は、イエスに対する好奇心と希望に満ちていた。この五千人に対し、主イエスはこの奇跡でこの者達に恵みを与えることだけを考えた。しかし、イエスには、この者達が自身に付き従う者となるであろうという期待はなかった。なぜなら、この者達は単に楽しく食事を摂って空腹を満たしたいと望んでいただけであったことを知っていたからである。そこで、イエスはそこにあった五つのパンと二匹の魚を最大限に活用して五千人に食事を与えたのである。イエスは、もてなしを受け、奇跡を見たいと望んでいたこの者達の目を開き、この者達は受肉した神が実現可能な物事を、自らの目で見た。主イエスは有形物を使用してこの者達の好奇心を満たしたものの、イエスはこの者達が食事をしたいと望んでいただけであったことを心で知っていたので、イエスは言葉を述べることも、説教をすることも一切なく、単にこの者達に奇跡を起こして見せただけであった。イエスは、自身に心から付き従っていた弟子達と同様にこの者達を扱うことは、全く出来なかったが、神の心の中では、全ての被造物は自身が支配しており、また神は、自身が見る全ての被造物に対して、必要に応じて神の恵みを享受させた。この者達は、パンと魚を食べた後でさえも、イエスが誰であるかを知らず、またイエスのことを理解しておらず、イエスに関する何らかの具体的な印象も感謝の念も持っていなかったにもかかわらず、それは神が問題とされることではなかった。神はこの者達に対し、単に神の恵みを受ける素晴らしい機会を与えた。一部の人々は、神は自らの業について原則に従っているので、信者以外を見守ることはなく、また特に信者以外には神の恵みを享受させなかった、と言う。それは事実であろうか。神の目にあっては、神自身が創った被造物である限りにおいて、神はそれらの被造物を支配し、配慮する。神はその被造物に対して様々な方法で与え、計画を立て、様々な方法で支配する。これが神の万物に対する考えと態度である。

 パンと魚を食べた五千人には主イエスに付き従う意図はなかったが、イエスはこの者達に対して厳格ではなかった。この者達が食べて満腹になった後、主イエスがどうしたかを、あなたがたは知っているだろうか。イエスはこの者達に説教をしたであろうか。主はこの奇跡を行った後、どこへ行ったであろうか。聖句では、主イエスがこの者達に何か言ったとは述べられていない。イエスは、奇跡を起こした後、静かにその場を去った。それでは、イエスはこの者達に何か要求したであろうか。その時、嫌悪感があったであろうか。その時、要求も嫌悪感もなかった。イエスは、ただ単に、主に付き従うことの出来ないこの者達のことを、それ以上気遣うことを望まず、この時にイエスの心には痛みがあった。神は人間の堕落を見、また人間から拒否されていると感じたので、神がこのような人間を見、共にあった時、主は人間の愚鈍さと無知のために悲しみ、心を傷め、こうした人々から出来るだけ早く立ち去ることを望んだ。主の心には、こうした人々に対する要求はなく、こうした人々を気遣うことを望まず、特にこうした人々に労力を費やすことを望まず、また主はこうした人々が神に付き従うことが出来ないことを知っていた。それにもかかわらず、こうした人々に対するイエスの態度は、極めて明瞭であった。イエスは単にこうした人々に対して親切に接し、恵みを授けることを望んだ。このように、神が支配する被造物すべてに対する神の姿勢は、親切に接し、与え、養うというものであった。主イエスは受肉した神であったため、イエスは全く自然に神の真髄を示し、こうした人々に親切であった。イエスは、憐れみと寛容さの心をもって、こうした人々を扱った。この人々が主イエスをどのように考えていたかによらず、またどのような結果となるかによらず、イエスは、あらゆる被造物を万物の創造主としての立場に基づいて扱った。イエスが示したのは、例外なく神の性質であり、神の中にある物事や神の存在であった。そうしたわけで、主イエスは静かに何かをし、静かに立ち去ったが、これは神のどの性質であろうか。これは神の慈愛であると言えるだろうか。神は無私であると言えるだろうか。これは普通の人間にも出来ることであろうか。それは明らかに不可能である。本質的には、主イエスが五つのパンと二匹の魚で食事を授けた五千人の人々は、どのような者達だろうか。この者達は神と融和できる人々であったと言えるだろうか。この者達は全員神に対して敵対していたと言えるだろうか。この者達は神と融和できる人々ではなく、この者達の本質は絶対的に神に敵対していた、と確実に言うことができる。しかし、神はこの者達をどのように扱ったであろうか。イエスは人間の神に対する敵対心を取り除く手法を用いた。その手法とは、「親切」である。つまり、主イエスはこの者達が罪深き者達であるものの、神の目からみれば、神の被造物である。ゆえにイエスはこれらの罪深き者達を親切に扱った。これは神の寛容さであり、この寛容さは神自身の身分と真髄により決定される。したがって、神が創った人間のうち、これができるものはおらず、これができるのは神のみである。

 あなたがたが神の人間に対する考えと姿勢が真に理解でき、それぞれの被造物に対する神の気持ちと気遣いを真に理解できた時、あなたがたは創造主により創られた人間ひとりひとりに対する神の献身と深い愛情を理解できるであろう。それが理解できた時、神の愛を表す際に2つの言葉を用いるであろう。その2つの言葉とは、何であろうか。それは「無私」であると言う人々と、「博愛」である人々が居る。これら2つのうち、「博愛」は神の愛を表す言葉として、最も不適切である。この言葉は、人間の寛大な考えと感情を表すために人間が用いる言葉である。わたしは「博愛」という言葉に強い嫌悪を感じる。なぜなら、その言葉は、いかなる原則にもよらず、無差別に慈善を行うことを指すからである。この言葉は、愚かで混迷している人々の過度に感情的な表現である。神の愛を表す時にこの言葉が用いられる場合、必然的にそこには冒涜的な意図がある。神の愛を表すにあたり、より適切な2つの言葉があるとわたしは考えるが、その2つの言葉とは何であろうか。最初の言葉は「計り知れない」である。この言葉は示唆に富むものではなかろうか。2番目の言葉は「広大」である。わたしが神の愛を表す時に用いる、これら2つの言葉の背景には、真の意義がある。「計り知れない」を文字通り理解すると、物事の数量や可能性を指すが、その物事がどの程度の大きさであるかは問題とはならない。それは、人間が触れたり見たりすることのできる物事である。それは、その物事が存在し、抽象的なものではなく、またそれが比較的正確であり、現実的であるという感覚を与えるからである。それを平面で見るか、三次元の視点で見るかは問題ではない。その物事の存在を想像する必要はない。なぜなら、それは実在する物事だからである。「計り知れない」という言葉で神の愛を説明すると、神の愛を定量的に計測しているような感覚になるが、それと同時に神の愛は、定量的には把握不可能であるという感覚を与える。神の愛は定量的に計測可能であると言うのは、それが実体の無いものでも、伝説の中で生み出されたものでもないからである。神の愛は、むしろ神の支配下にある万物により共有されているものであり、様々な規模において、様々な側面から、全ての被造物が享受しているものである。人々は神の愛を見ることも触ることもできないが、万物の生の中で神の愛が少しずつ明らかにされるにつれ、その愛は万物が必要とする物事といのちをもたらすようになり、万物は自分達が常に享受している神の愛を数え上げてそれを証しするようになる。神の愛は定量化不能であると言うのは、神が万物に施し、万物を育む奥義は、万物に対する神の思い、特に人間に対する思い同様、人間が計り知り難いものであるからである。すなわち、創造主が人間に注いできた血と涙を知る者は居ない、ということである。創造主が自らの手で創った人間に対する愛の深さや重さを理解できる者は居ない。神の愛を「計り知れない」と説明したのは、その愛の広さと、その愛が存在するという真実を人々が理解することに資するためである。またそれは、「創造主」という言葉の実際の意味を人々がより深く理解し、「被造物」という言葉の真の意味を一層深く理解することができるようにするためである。「広大」とは、通常どのような意味であろうか。この語は、海や宇宙など、一般に広大なものについて用いられる。宇宙の広さや静かな深さは、人間の理解を超えるものであり、人間の想像力を刺激し、驚きをもたらすものである。その神秘と深遠さは、目に見えても手の届くものではない。海は果てしないもののように思われ、その神秘と包容力を感じるなど、海はその広さを連想させるものである。ここで「広大」という言葉を用いて神の愛を説明したのは、この理由による。この語を用いたのは、神の愛がいかに尊いかを理解し、神の愛の深遠な美しさと、無限の広がりを持つ神の愛の力を実感する上で役立てるためである。この語を用いたのは、人間が神の愛の神聖さ、神の愛により示される神の威厳と、侵害不可能な存在を感じ取る上で役立てるためである。あなたがたは、以上の説明で神の愛を説明する言葉として「広大」が適切であることについて納得したであろうか。神の愛は、「計り知れない」と「広大」という二つの語に相応しいことに間違いはないかと言うと、明らかに間違いない。人間の言葉のうち、神の愛に相応しいもの、神の愛の説明に比較的類似するものは、この二語だけである、と言ったら、あなたがたは頷くであろうか。あなたがたが神の愛を説明するよう求められたとしたら、この二語を用いるであろうか。あなたがたはこの二語を用いることができないであろう。なぜなら、神の愛に関するあなたがたの理解は平面的なものに限られており、立体的なものに進化していないからである。したがって、あなたがたに神の愛を説明するよう求めたとしたら、あなたがたは言葉足らずと感じ、言葉を失いさえするであろう。本日議論したこの二語は、あなたがたにとって難解であったり、わたしの意見に全く同意できないものであったりするかも知れない。そうした反応は、神の愛に対するあなたがたの理解が表層的で狭い視野での理解であることを示すものにほかならない。神は無私であると前述したが、この「無私」という表現を覚えているであろう。神の愛は無私としか説明できない、と言えるであろうか。そうした説明は、範囲が限られているのではなかろうか。あなたがたはこの問題を更に検討し、何らかを得るべきである。

 以上が、最初の奇跡から理解できる神の性質と神の真髄である。この物語は人々が数千年にわたって読み続けてきたものであり、あらすじは簡明であり、人々はこの事象を容易に理解できる。しかし、この簡明なあらすじから、一層尊い物事、すなわち神の性質、神の中にある物事や神の存在を読み取ることができる。こうした神の中にある物事や神の存在は神自身を表し、神自身の思いが表出されたものである。神が自身の思いを表出する時、それは神自身の心の声の表出である。神は、神を理解可能であり、神を知って神の旨を理解する人々が居ることを願い、また神の心の声を聴き、積極的に神の旨に沿うよう協力できる人間が居ることを願っている。したがって、ここで検討した主イエスの業は、神による無言の表出であった。

 次に、ラザロの復活が神を褒めたたえるという聖句について検討する。

 あなたがたは、この聖句を読んで、どのような感想を持つであろうか。主イエスが行ったこの奇跡の意味は、この前に検討した奇跡よりもはるかに重大である。なぜなら、死人を墓から蘇らせること以上に驚異的な奇跡は存在しないからである。主イエスがこのような業を行ったことは、この時代において極めて意義深かった。神は受肉していたので、人々は神の物理的存在、神の実際的な側面、わずかな神の側面しか見ることができない。たとえ一部の人々が神の性格や神が持っているであろうと考えられる力を見て理解したとしても、主イエスがどこから来たか、主の真髄は何か、自分達が見る以上にイエスが行うことのできる物事が何かを知る者は誰も居なかった。そうしたことは人類にとって未知であった。こうした事柄の証拠を求め、真実を知ることを望む者が大勢居た。神は、何らかの業を行い、神の身分を証明することが出来たであろうか。それは神にとって極めて容易であった。神はいつでもどこでも、何らかの業を行い、神の身分と真髄を証明することが出来たが、神は計画通りに、段階的に業を行った。神が無分別に業を行うことはなく、神は最適な時期と機会が到来するのを待って、人間が目の当たりにするのが最も有意義な業を行った。こうした方法により、神の権威と身分が証明された。それでは、ラザロの復活は主イエスの身分を証明出来るものであっただろうか。その点について、「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は…出てきた。」という聖句を検討する。主イエスがこの業を行った時に言ったのは、「ラザロよ、出てきなさい」のひと言であった。その後ラザロが墓から出て来たが、これは主のひと言で達成された事であった。この時、主イエスは祭壇を作ることも、それ以外の業を行うこともなかった。主は、そのひと言を述べただけであった。これは奇跡と呼ぶべきであろうか、それとも命令と呼ぶべきであろうか。それとも、これは何らかの魔術であったのだろうか。これは表面的には奇跡であると言うことができ、現在の観点から見ても、奇跡だと言えるであろう。しかし、無論これを、魂を死人から呼び戻す呪文とも魔術とも呼べないことは確実である。この奇跡は、創造主の権威を実証する、ごく普通の些細な証明である、というのが正しい。これは神の権威であり、能力である。神には、ある者を死なせ、その魂を身体から出してハデスその他の然るべき場所へ還らせる権威がある。ある者がいつ死ぬか、その者がどこへ向かうかを決めるのは、神である。神は、こうした事柄をいつでもどこでも行うことができる。神は人間や物事、空間、場所の制約を受けない。神は望むままに事を行うことが出来る。なぜなら、あらゆる物や生き物は神の支配下にあり、あらゆる物が神の言葉と権威により生き、死ぬからである。神は死者を復活させることができるが、これもまた、神が時間と場所を問わず、いつでも出来ることである。これが、創造主のみが持つ権威である。

 ラザロを死から復活させるなど、主イエスが業を行った時、イエスは、人間やサタンに対して、人間の生死など、人間の全ては神によって決められているということ、そして神が受肉している場合であっても、目に見える物質的世界も、目に見えない霊的世界も、依然として神が支配していることを、人間とサタンに対して証明し、知らしめることを目的としていた。これは、人間の全てはサタンの支配下にはないことを、人間とサタンに対して知らしめるためである。またこれは神の権威の啓示であり、証明であり、さらに人間の生死に関する事柄は、全て神により支配されていることを全てのものに示す手段である。主イエスによるラザロの復活のような業は、創造主が人間を教え導くひとつの手段であった。これは、神が自身の力と権威を用い、人間を指導し、人間に対して施す、実際の行為であった。またこれは創造主が言葉を用いずに、創造主が万物を支配しているという真理を人間が理解できるようにするための手段であった。さらに、これは神による以外に救いは存在しないということを、実際の業により人間に対して伝える手段であった。こうした神が言葉無しで人間に教えを授ける手段は永遠に続く。こうした教えは消える事がなく、人間の心に色あせる事のない衝撃と啓示が与えられる。ラザロの復活は神を褒めたたえた。神に付き従う者すべてに、それは大きな衝撃を与えるものである。ラザロの復活により、この出来事を深く理解する人々すべての心に「人間の生死を支配できるのは神のみである」という理解と認識が定着する。神にはこの種の権威があり、また神はラザロの復活により人間の生死に関する自身の権威を示したが、これは神の主要な業ではなかった。神は無意味に業を行わない。神が行う業には、その全てに貴重な価値があり、その全てが不朽の宝である。神は、ある者を墓から復活させることを主要ないし唯一の目的や事項として業を行うことはない。神は、無意味なことは一切行わない。ラザロの復活は神の権威を証明するに十分である。またそれは主イエスの身分を証明するに十分である。主イエスがこの種の奇跡を繰り返されることがなかったのは、このためである。神は、神自身の原則に従って業を行う。人間の言葉で言うならば「神は業の重要性に配慮されている」と言えるであろう。すなわち、神が業を行う時、神はその業の目的から外れることがない。神はこの段階において行いたい業が何であり、完遂したい業が何かを知っており、自身の計画に厳密に従って業を行う。腐敗した人間がこうした能力を持っていたとしたら、その者が考えることは、自身の能力を示し、高い能力を持つことを他人に知らしめ、他人を服従させ、支配して滅ぼす方法のみであろう。それはサタンに由来する邪悪であり、腐敗と呼ばれる。神には、そうした性質が無く、またそうした真髄も無い。神が業を行うのは自己顕示のためではなく、人間に対してより多くの啓示と導きを授けるためであるため、聖書においては、この種の業はごく僅かしか見られない。それは、主イエスの能力が限定されていたことを意味するものでも、その種の業を行えなかったことを示すものでもない。それは、単に神が行おうと思わなかっただけである。なぜなら、主イエスがラザロを復活させたことには、極めて現実的な意味があり、また受肉した神の主な業は、奇跡の業を行うことでも、人間を死から復活させることでもなく、人間に対する贖いの業であったからである。そうしたわけで、主イエスが完遂した業の大部分が、人々に教え、施し、助けることであり、ラザロを復活させたような業は、主イエスが行った業のうちごく僅かであった。さらに、「自己顕示すること」は神の真髄には含まれていない、ということも出来るだろう。したがって、それ以上の奇跡を示さなかったのは、故意に制限していたためでも、環境的な制約のためでも、無論能力が不足していたためでもない。

主イエスがラザロを死から復活させる時、主が使った言葉は「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけである。主はそれ以上の言葉を用いなかったが、そのことは何を意味するであろうか。こうした事柄は、死者を復活させることを含めて、神があらゆる事を言葉により実現可能であることを示している。神が万物と世界を創造した時、神はこれらを言葉により創造した。神は言葉で命じ、すなわち権威ある言葉を用い、その言葉通りに万物が創造された。創造は、このようにして行われたのである。主イエスが述べたこのひと言は、天地と万物を創造した時に神が述べた言葉と同じであり、主イエスの言葉には神と同じ権威、創造主と同じ力があった。万物が神の言葉により形成され、存在したのと全く同じようにして、主イエスの言葉によりラザロが墓から出たのである。ラザロの復活は、受肉した身体により証明され、実現された神の権威であった。この種の権威や能力は、創造主と、創造主が形あるものとなった人の子のものである。神がラザロを死から復活させることにより、人間に啓示された知識は、その事実である。この件の検討は以上である。次に、下記の聖句について検討する。

福音書|『言葉は肉において現れる』より

2019年4月16日火曜日

復活後のイエスによる弟子達に対する言葉


 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネによる福音書20:26-29)

 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。」(ヨハネによる福音書21:16-17)
 これらの聖句により述べられている事柄は、主イエスが復活した後に、弟子達に対して行った業と言葉である。まず、復活の前後における主イエスの相違点について検討する。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わりないであろうか。この聖句には、復活後のイエスに関する「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。」という件が含まれている。この時の主イエスは肉にある存在ではなく、霊の存在となっていたことは明らかである。なぜなら、主が肉の限界を超越し、扉が閉ざされていたにもかかわらず、主は人々の前に来て自身の姿を見せたからである。これが復活前の肉にあった主イエスと、復活後の主イエスの、最大の相違点である。その時の霊的存在の外観と、それ以前の主イエスの外観には何ら相違はなかったが、その時のイエスは人々にとって見知らぬ人と感じられるような存在となっていた。なぜなら、主は死から復活した後に霊的存在となり、従前の身体と比較すると、その霊的存在は人々にとって謎めいた理解し難い存在となっていたからである。またそれが原因となり、主イエスと人々との間に、一層の隔たりが生じ、人々はその時の主イエスが一層不思議な存在になったと感じた。人々のこうした認識と感覚により、人々は、目に見えず触れることの出来ない神を信仰していた時代へと、突如として戻された。そうしたわけで、主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。

 主は霊の存在であったとすると、なぜ人々は主に触れ、主を見ることが出来たのであろうか。それは主イエスが人間の前に現れたことの意味に関連する問題である。これら2つの聖句について、何か気付くことがあるだろうか。通常、霊の体は見ることも触れることも出来ず、また主の復活後、主イエスの業は既に完了していた。したがって理論的には、主が復活前の姿で人々の前に再び現れ、人々に会う必要は全く無かった。しかし、主イエスの霊の存在がトマスなどの人々の前に現れたことにより、その意味が一層具体的なものとなり、人々の心に一層深く刻み込まれた。主がトマスの前に現れた時、疑念を抱いていたトマスに自身の手に触れさせ、「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言った。この言葉や業は、主イエスが復活した後に伝えたい、行いたいと思ったものではなく、主が十字架にはり付けられる前に伝え、行いたいと思っていたものである。十字架にはり付けられる前の主イエスが、トマスのような者に関して理解していたことは明らかである。このことから何が分かるであろうか。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わらなかった、ということである。主の真髄は、変わっていなかった。トマスの疑念は、この時始まったのではなく、主イエスに付き従っている時分からあったものだが、主は死から復活して霊的世界から、復活前の外観、性質、そして肉にあった時の人間に対する認識で戻って来た。故に主イエスはまず最初にトマスのこところへ行き、自身のわき腹をトマスに触れさせて復活後の主の霊的存在に触れさせるだけでなく、主の霊的存在に触れて実感させ、トマスの疑念を完全に払拭させたのである。主イエスが十字架にはり付けられる前、トマスは常に主がキリストであるということに疑念を抱き、信じることが出来なかった。トマスの神に対する信仰は、トマスが見ること、手で触れることが出来ることのみに基づいていた。主イエスは、この種の人間の信仰について、よく知っていた。この種の人々は天の神のみを信じ、神が送った肉にあるキリストを受け容れることが出来なかった。主イエスの存在と、イエスが真に受肉した神であることをトマスに理解させ、信じさせるため、イエスはトマスに対し、手で自身のわき腹に触れさせた。主イエスの復活の前後で、トマスの疑念に異なる点はあったであろうか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊的存在がトマスの前に直接現れ、トマスに自身の身体に残された釘あとを触れさせる以外に、トマスの疑念を払拭することは誰にも出来なかった。そうしたわけで、主イエスがわき腹と残された釘あとをトマスに触れさせてからは、トマスの疑念は消え、トマスは主イエスが復活されたことを真に知り、また主イエスが真のキリストであり、受肉した神であったことを理解し、信じるようになった。この時トマスに疑念はなかったが、キリストに会う機会を永遠に失ってしまった。トマスはキリストと共にあり、キリストに付き従い、知る機会、そしてキリストにより全きものとされる機会を永遠に失ってしまった。主イエスの現れと言葉により、疑念を抱いている者の信仰に対する主の結論と審判が下された。主は自身の言葉と業により、疑念を抱く者に対して、天の神のみを信じ、キリストを疑う者に対し、そうした者の信仰や、疑念を抱きつつ付き従うことを好まないということを伝えた。そうした者たちが神とキリストを完全に信じるようになる時、それは他でもない、神の大いなる業が完了した時である。もちろん、大いなる業が完了した時は、そうした者たちの疑念に対する審判が下る時でもある。その者たちのキリストに対する態度により、その者たちの運命が決められ、そうした頑なな疑念の結果としてその者達が得るものは無く、頑固さゆえ、そうした者たちの希望は報われない。そうした者たちの天の神に対する信仰は幻により育まれており、またそうした者たちのキリストに対する疑念がそうした者たちの神に対する実際の態度であるため、そうした者たちは実際に主イエスの釘跡に触れたにもかかわらず、そうした者たちの信仰は無駄であり、そうした者たちの結末は無駄な努力をしているとしか言いようが無い。主イエスがトマスに対して述べたことにより、全ての者に対して、復活した主イエスが人間の中で33年と半年にわたって業を行っていた主イエスである、と明確に伝えられている。イエスは十字架に釘ではり付けられ、死の陰の谷を歩んだ後に復活したにもかかわらず、イエスのあらゆる側面は変わることがなかった。イエスの身体には釘あとが付き、復活して墓から出てきたにもかかわらず、その性質、人間に対する認識、人間に対する旨は全く変わることがなかった。また、イエスは十字架から下ろされ、罪や苦難、そして死に打ち克ったと人々に伝えた。その釘あとは、サタンに対する勝利の証しであり、人類すべてを贖うための罪のいけにえとなった証であった。イエスは、人類の罪を既に負い、贖いの業を成し遂げたことを人々に告げていた。イエスが使徒たちの前に戻って来た時、イエスが出現されたことによって、使徒たちに対して「依然としてわたしは生きている。わたしは、あなたがたがわたしを見て触れることができるよう、実際にあなたがたの前に立っている。わたしは常にあなたがたと共に居る」と伝えた。また、主イエスはトマスの例を「主イエスを信じていたとしても、主を見ることも、主に触れることも出来ないが、あなたは、あなた自身の真の信仰により祝福され、あなたの真の信仰により主イエスを見ることが可能であり、それが可能な人は恵まれている」という、その後の人々に対する警告として用いたいと考えた。
……

 これが疑い深い者に対する主イエスの姿勢である。それでは、主イエスを心から信じて付き従う者に対し、主はどのような言葉を述べ、どのような業を行ったであろうか。次に、その言葉と業について、主イエスがペテロに対して述べた言葉を検討する。

 この対話のなかで、主イエスは繰り返し「ペテロよ、わたしを愛するか」と尋ねている。これは、主イエスが復活した後に、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような者に対して主イエスが求めた、比較的高い基準である。この質問は、ある種の調査であり、ある種の尋問であったが、それ以上に、ペテロのような者に対する要求であり、期待であった。イエスはこのような方法により、人々に自分自身を省みて「主イエスが人々に要求していることは何であろうか。私は主を愛しているか。私は神を愛する者であろうか。私はどのように神を愛するべきであろうか。」と自問自答させた。主イエスがこう質問したのはペテロだけであったが、神はその心の中で、神を愛することを追い求める更に多くの人々に、同様の質問を投げかけることを望んでいた。ペテロは、この種の人々の代表として、主イエスから直接この質問を受ける祝福にあずかったというだけのことである。

 主イエスがトマスに対して「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と復活後に述べたのに対し、ペテロに対しては3回「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか。」と尋ねている。この質問により、主イエスの厳格さと、主が質問した時の切迫性を、一層感じ取ることができる。狡猾で不正な性格のトマスの疑念について、主イエスはトマスを主の釘あとに触れさせることで、主イエスが復活した人の子であり、主イエスがキリストであることをトマスに確信させた。主イエスはトマスを厳しく非難することも、審判を明確に述べることもなかったが、イエスは実際の行動により、自分がトマスを理解していることをトマスに知らせつつ、この種の人々に対する主の姿勢と判断を示した。この種の人々に対する主イエスの要求は、主の言葉には見られない。これは、トマスのような人々には真の信仰が全く無いためである。こうした人々に対する主イエスの要求は真の信仰あるのみであるが、ペテロのような人々に対する啓示は全くこれと異なる。イエスは、ペテロに対して釘あとに触れるよう要求することも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言うこともなかった。そのかわりに、イエスはペテロに対し、同じ質問を繰り返した。これは、思考を刺激すると同時に、キリストに付き従う者すべてが自責の念にとらわれ、畏れを感じ、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じざるを得ないような、意味深い問いかけであった。そして、キリストに付き従う者たちは、大いなる痛みと苦しみに苛まれている時に、主イエス・キリストの懸念と労り一層深く理解することが出来るで、イエスの純粋で誠実な人々に対する熱心な教えと厳格な要求を認識する。主イエスの問いかけにより、人々はこうした簡潔な言葉により啓示された主の人々に対する期待は、主を信じ、付き従うことだけでなく、愛ある人間となり、主を愛し、神を愛することであることを感じることができる。この種の愛は、慈しみと服従である。それは人類が神のために生き、死に、全てを神の前に差し出し、尽くし、捧げることである。また、この種の愛により、神は慰めを得、自身に対する証を喜び、そして安息を得る。この種の愛は、人類の神に対する返報であり、責任であり、義務であり、本分であり、人類がその生涯を通して従うべき道である。この3回の問いかけは、ペテロをはじめとする完全な存在となる人々に対する主イエスの要求であり、警告であった。ペテロがその人生の道を完遂するよう導き、励ましたのは、この3回の問いかけであった。また、完全な存在となる道を歩み始めるようペテロを導いたのも、ペテロの主に対する愛ゆえに、主の心を労り、主に服従し、主に慰めを与え、この愛ゆえに自分の生涯と自分自身の全てを捧げるようペテロを導いたのも、主イエスが去る際の、この問いかけであった。

 恵みの時代では、神の業は専ら2種類の人々を対象とするものであった。その2種類の人々のうちの1つは、神を信じて付き従い、神の戒めを守り、十字架を負い、恵みの時代の道を守ることのできる人々であった。この種の人々は、神の祝福を得て、神の恵みを享受した。2つ目の種類の人々は、ペテロのように完全な存在となる人々であった。そうしたわけで、主イエスが復活した後、主は最初にこの2つの極めて有意義な業を行ったのである。そのうちの1つはトマスに対してであり、もう1つはペテロに対してであった。この2つの業は何を表しているであろうか。神が人間を救う真の旨を表しているであろうか。神の人間に対する誠実さを表しているであろうか。神がトマスに対して行った業は、疑うことなく、ひたむきに信じるよう人々に警告するためのものであった。主がペテロに対して行った業は、ペテロのような人々の信仰を強化し、この種の人々に対する要求を明確化し、この種の人々が目指すべき目標を示すためのものであった。

 主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。仮にあなたが当時のトマスやペテロであって、人生のなかでこのような極めて意義深い出来事に遭遇したとしたら、それはあなたにどのような影響を及ぼすであろうか。その出来事は、神を信じる生活において最も素晴らしい、至高のビジョンである、と認識するであろうか。人生において神に付き従い、神を満たすために努力し、神への愛を追求する上で励みになると認識するであろうか。この至高のビジョンを広めるため、一生涯をかけて努力するであろうか。主イエスの救いを広めることを、神から授けられた命令として受け入れるであろうか。あなたがたはこうした業を経験していないが、トマスとペテロの業の事例は、現代の人々にとって、神の旨と、神自身を明瞭に理解するに十分である。神が受肉して人間として人間の中で生活を経験し、人間の腐敗や人間生活の惨状を目の当たりにした後、受肉した神は、人間の絶望や悲しみ、哀れさを深く感じた。受肉して生活した際の人性と直感が原因となって、神は人間の惨状に対する憐れみを一層深めた。その結果として、神は、神に付き従う者に対する懸念を深めた。こうした事柄は理解できないかもしれないが、神に付き従う者全てに対する受肉した神の懸念と慈しみは、「極めて強い懸念」という表現で表わすことができるであろう。強い懸念という言葉は人間の言葉であり、極めて人間的な言葉ではあるが、神に付き従う者に対する神の気持ちを真に表現している。人間に対する神の強い懸念は、経験を重ねてゆくにつれて感じ取ることができるであろう。しかし、それを感じ取るには、あなたがた自身の性質の変化を追求することによって神の性質を徐々に理解することによるほかにない。主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。
       『言葉は肉において現れる』より


2019年4月15日月曜日

復活後にパンを食べ、聖句を説明するイエス


一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。(ルカによる福音書 24:30-32)
こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。(ルカによる福音書24:36-43)
次に、上記の聖句を検討する。前者は復活後の主イエスがパンを食べながら聖句について説教している部分の説明、後者はイエスが焼き魚を食べている部分の説明である。神の性質を知る上で、これらの聖句はどのように役立つであろうか。パンを食べている主イエスと、焼き魚を食べている主イエスの描写から、そのような場面を想像することが出来るであろうか。主イエスがあなたがたの前に現れ、パンを食べているとしたら、あなたがたは何を感じるであろうか。あるいは、イエスがあなたがたと同じ食卓で人々と共に魚とパンを食べているとしたら、あなたはどのように感じるであろうか。イエスはあなたがたに極めて親しく、懇意な存在であると感じるとしたら、その感情は正しい。復活後にイエスが大勢の人々の前でパンと魚を食べることにより主イエスが求めていた結果は、正にそうした感覚を与えることであった。仮に復活後の主イエスが人々と話をするだけであり、イエスの身体を感じることが出来ず、イエスが触れることの出来ない霊であると感じたとしたら、人々はどのような印象を抱いていたであろうか。人々は落胆していたのではないだろうか。人々が落胆した時、人々は見捨てられたように感じていたのではないだろうか。主イエス・キリストとの間に隔たりを感じていたのではなかろうか。こうした隔たりは、神と人々の間に、どのような悪影響を与えるであろうか。人々は、間違いなく恐怖を感じ、敢えて主に近づかず、イエスに対する敬意を示すに十分な距離を置く態度を取るであろう。その後、人々は主イエス・キリストとの親しい関係を絶ち、恵みの時代以前における、人間と天の神との関係へと戻るであろう。人々が見ることも触れることも出来ない霊的存在が原因となり、神との親密な関係が解消されてしまい、受肉した主イエス・キリストが人間と密接にかかわることにより築き上げられた懇意な関係もまた消滅するであろう。霊的存在に対し、人々は、恐怖、回避を感じ、目を丸くして絶句するような感覚となる。人々は、霊的存在に近づいたり、会話したり、ましてや従ったり、信じたり、望みを持ったりはしないであろう。神は、人々が自身に対してこうした感覚を持つことについて、難色を示した。神は、人々が自身を回避したり、自身の前から立ち去ったりするのを望まなかった。神は、人々が自身を理解し、自身に近づき、自身の家族となることを望んでいた。あなたの家族や子ども達が、あなたを見て、あなたであることを認識せず、あなたに敢えて近寄らず、常に回避していたとしたら、あなたが家族や子のために尽くしたことを、家族や子ども達に理解してもらえなかったとしたら、あなたはどのように感じるであろうか。それは辛いことではなかろうか。あなたの心が痛むのではなかろうか。人々が神を避けた時に神が感じるのは、まさにそうした感覚である。そこで、復活後、主イエスは肉と血のある姿で人々の前に現れ、人々と飲食を共にしたのである。神は人々を家族と考え、また人々にも神を家族と考えることを望む。なぜなら、神が真に人々を得て人々が真に神を愛し、礼拝することが出来るのは、この方法によるほかはないからである。これで、主イエスが復活後にパンを食べながら聖句について説明している聖句と、使徒がイエスに焼き魚を差し出している聖句の2つをわたしが取り上げた趣旨が理解できたであろうか。
イエスが復活後に述べた言葉と行った業は、思いやりがあるものであり、親切な旨をもって行ったものである、と言えるであろう。こうした言葉や業は、人間に対する親切さと愛情、イエスが受肉した時に築き上げられた人間との親密な関係に対する認識と周到な慈しみに満たされていた。さらに、そうした言葉と業は、受肉したイエスが自身に付き従う者と飲食を共にしていた頃に対するイエスの懐古と希望で満たされていた。そうしたわけで、人間が神との間に距離を感じることも、人間が神から距離を置くことも、神は望まなかった。さらに、神は復活した主イエスが、もはや人間と親密であった時の主ではない、また主が霊の世界、人間が決して見ることも触れることも出来ない神の元へ戻ったので、もはや人間と共にはいない、と感じることを望まなかった。神は、自身と人間との立場に相違があると人間が感じることを望まなかった。神に付き従いたいと望みながら、神との間に敬意として相応しい距離を置いていた人間を神が見た時、神は心を傷めた。なぜなら、それは人間の心が神から遠く離れていること、神が人間の心を得るのは極めて困難であることを意味するからである。そうしたわけで、仮にイエスが誰も見ることも触れることも出来ない霊的存在として人々の前に来ていたとしたら、再び人間を神から遠ざけてしまい、またその結果として、復活後のキリストは、高尚な、人間とは違う存在となり、人間は罪深く、汚れ、決して神には近づくことの出来ない存在であるから、人間と食卓を共にできない存在となった、といった人間の誤解を招いていたことであろう。こうした人間の誤解を払拭するため、聖書に「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられる。」とあるとおり、主イエスは、受肉していた時に頻繁に行っていた多くの業を行った。また主は、従前のように、人々に聖句を説明した。こうしたイエスの業により、主イエスと会った人々は皆、イエスが変わっていないと感じ、またイエスが依然として主イエスであると感じた。イエスは十字架にはり付けられ、死んだのだが、復活し、人間から去っては居なかった。イエスは人間の中に戻り、しかも全く変わっていなかった。人々の前に現れた人の子は、依然として人々が従前知っていた主イエスであった。イエスの態度や人々との会話は、なじみ深いものであった。イエスは依然として親愛、恵み、そして寛容さに溢れていた。自らと同様に人々を愛し、人間を七の七十倍赦すことのできる主イエスであった。従前通り人間と食事を共にし、人々と聖句について話し、またとりわけ重要なこととして、従前と同様に、見て触れることのできる肉と血のある姿であった。こうした人の子の姿により、人々はそうした親密さを感じ、くつろぎを感じ、失った何かを取り戻した喜びを感じ、また人々は安心できたので、果敢かつ確信をもって、人類の罪を贖うことのできる人の子を頼りとして敬うようになった。また人々は、主の恵みと祝福を得、主からの平和と喜び、そして慈しみと保護を得るため、ためらいなく主イエスの名に祈りを捧げるようになり、また主の名において癒しを行い、悪魔を追い出すようになった。
受肉した主イエスが業を行っていた間、イエスに付き従う者の殆どが、イエスの身分やその言葉を完全に認識できなかった。イエスが十字架にかけられた時、イエスに付き従っていた者たちの態度は、何らかの期待であった。イエスが十字架に釘で打ち付けられたときから墓に入れられた時まで、人々の主に対する態度は、落胆であった。この時、受肉したイエスが言われた言葉に関し、人々の心は疑念から否定へと移り変わり始めていた。そして主が墓から出て、ひとりずつ人々の前に現れた時、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々の殆どが、否定から懐疑へと次第に変わっていった。主イエスがトマスにわき腹を手で触れさせた時、また復活した主イエスがパンを裂いて人々の前で食べた時、そしてその後人々の前で焼き魚を食べた時、そこで初めて人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け容れた。それは、人々の前に現れた、肉と血のある霊的存在が、その人々をひとり残らず夢から醒めさせたようであった、と言うことが出来るであろう。人々の前に立っている人の子は、永遠の過去から存在していた神であった。神には形も、肉と骨もあり、また長いこと人間と生きて食事をしていた。この時、人々は、イエスの存在は全くの真実であり、実に素晴らしいと感じた。また人々は大きな喜びと幸福にあふれ、同時に感極まった。イエスが再び現れたことにより、人々はイエスの謙遜を真に理解し、人間に対する近親さ、ひたむきな望みと愛情を感じることができた。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、自分が既にこの世を去ったかのように感じた。人々の心は、迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、愚鈍になっていたが、そうした人々の心は安息を得た。人々は、疑うことや落胆することを止めた。なぜなら、その時希望が生まれ、信じることのできるものが生まれたからである。人々の前に立っている人の子は、永遠に人々の味方となり、人々の堅固なやぐらとなり、常に存在する逃げ場となる。
主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における人生では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の慈しみがあり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。人間から見ると、復活した後に主イエスが行った業は、極めて小さなことであるものの、わたしから見ると、それら全てが有意義であり、貴重であり、またそうした業はすべて極めて重要である。
主イエスが受肉して業を行っていた時期は苦難に満ちていたものの、肉と血のある霊的存在たる主イエスの顕現により、イエスは肉にあった人類を贖うというその時期の業を完全に遂行した。イエスは、その業で最初に受肉し、締めくくりとして肉のある存在として人々の前に現れた。イエスは恵みの時代を告げ、キリストの身分により恵みの時代を開いた。キリストの身分により、主イエスは恵みの時代の業を行い、恵みの時代にあって自身に付き従う人々すべてを強くし、導いた。神の業について、神は自身が始めた業を真に完遂すると言えるであろう。その業には段階と計画があり、神の知恵、全能、偉大な業で満たされている。また神の業は神の愛と憐れみで満ちている。当然ながら、神の業の中核として一貫している事は、神の人間に対する慈しみであり、神の業には神が無視することの出来ない懸念が染みわたっている。これらの聖句では、主イエスが復活後に行った業の全てで啓示されていることは、変わることのない神の人間に対する望みと懸念、そして神の人間に対するきめ細やかな慈愛であったことが示されている。現在に至るまで、それらはいずれも変わっていない。あなたがたは、それが理解できるであろうか。そのことを理解した時、あなたがたの心は、おのずから神に近づいて行くのではないだろうか。仮にあなたがたが、この時代に生きていて、イエスの復活後に、あなたがたが理解できるように物理的な姿であなたがたの前に現れ、あなたがたの前に座ってパンと魚を食べ、あなたがたに聖句について教えを授け、話をしたとしたら、あなたがたはどう感じるであろうか。あなたがたは幸福になるであろうか。罪悪感はあるだろうか。従前における神に対する誤解や回避、神との衝突、神に対する疑念などは、全てすぐに消え去るのではなかろうか。神と人間との関係は、一層適切なものとなるのではなかろうか。
これらの僅かな聖句を解釈することにより、あなたがたは神の性質に関して何らかの欠点を見出したであろうか。神の慈愛に、何らかの不純を見出したであろうか。神の全能たる存在や知恵に、何らかの狡猾さや邪悪さを見出したであろうか。そうしたことを見出せないのは当然である。あなたがたは、神は聖なる存在であると、確信を持って言えるようになったであろうか。神の感情は、神の真髄と性質の啓示であると、確信を持って言えるであろうか。これらの聖句を読んだ後、そこから得た知識が、あなたがたが自らの性質を変えようとする取り組みと、神を畏れる努力において役立つことを願っている。また、これらの言葉により、あなたがたに何らかの成果をもたらし、それが日々成長し、そうした取り組みのなかで、あなたがたが真理を追究してゆく上で退屈しないよう、また真理の追究と性質を変化させる取り組みが面倒なこと、不要なことであるなどと感じることのないよう、あなたがたを神へと近づけてゆくものであること、そして神が人間に求められている基準に近づけてゆくものであることを願っている。あなたがたに光や正義を求めること、真理の追求や神の旨を満足させることを追求すること、神のものとされること、真の人間となることを追求することは、むしろ神の真の性質と聖なる真髄により奨励される。
『言葉は肉において現れる』

2019年4月14日日曜日

福音書|イエスキリストが復活後に人の前に出現された意味は何か

    聖書にはこう記されています。「こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」(ルカ24:36–43)。


     私はこの聖句を読むと、いつもペテロやヨハネたちをうらやましく思います。イエスはユダヤでお働きになっているあいだ、常に昼夜を問わず弟子たちと共におられ、復活後は以前同様に彼らに目をかけられ、彼らの前に出現なさり、聖書を解説し、教えを与えられました。ペテロたちは幸運にも主によって弟子に選ばれ、自らの耳で主イエスの教えを聞くことができました。実に祝福されていたのです。その後、私は神の御言葉を読み、イエスキリストが復活後に人の前に出現されたことの背後には実は主イエスの御心があったということ、この行いには神の全能性と知恵が更に込められていることが分かりました。復活後の主イエスの出現は本当に意義深かったことが真に分かるようになったのです。


    神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、イエスキリストが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、イエスキリストが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    私は神の御言葉を読んで、イエスキリストが復活後四十日間人の前に出現されたことには意味が二つあることがようやく分かりました。一つは、神が律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始め、人類を新しい時代へと導かれると人に告げるためであったことです。もう一つの意味は、神がそうなさったのは、人々が主イエスは受肉された神ご自身だと確めることで神への信仰を強められるようにするためです。

    1.主イエスが復活し人の前に出現されたのは、人を新たな時代に導き、恵みの時代にしっかりと定着させるため

 主イエスは恵みの時代を開き、律法の時代を終えられました。主は「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)という道を示し、人々が神からの豊かな恵みを享受できるように、病人を癒し、悪霊を追い払い、足なえを歩かせ、盲人の目を治すなど多くの奇跡を行われました。しかし当時の人々は神の働きを知らず、イエスが神の受肉であることを真に理解していませんでした。主イエスが十字架につけられたとき、それは神が贖いの働きを終えられたことを意味していましたが、人々はそのことを全く知らなかったため、否定的で弱気になりました。そして主イエスの身分を疑い、神殿に戻って旧約聖書の律法を守り始める者もいました。

    このようにして、人々はなおも自らの罪のために律法によって死に定められる危険にさらされ、主イエスが人類を贖うために行なわれた働きは中途半端なままでした。主イエスは人の心の奥底を探り、人の必要と欠点を完全に理解されていました。それゆえ、主は復活後、先ず弟子たちの前に出現して語られ、彼らと実際に接触し、そのおかげで彼らには主が本当に死人の中から蘇り、人類を贖う働きを成し遂げて新たな時代を始められたことが分かったのです。その後、人類は律法を離れて新たな時代に入りました。それが恵みの時代です。

    主イエスの働きと言葉のお導きの下、人々は主の教え通りに実践し始め、十字架を負って主に付き従い、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)という主の教えを守りました。こうして彼らは天の国の福音を広め始め、万人が主イエスの御名を受け入れて主の救いを得ることができるように、主イエスの御名を証ししました。現在、主イエスの福音は全世界に広がっています。これは全てイエスが死人の中から蘇られた後に人の前にお姿を表された結果です。このことから、復活後の出現がどれほど意義深かったかが分かります。

     2.イエスキリストが復活後に人々の前に出現されたおかげで、人は主が神ご自身の受肉だと断定し、主への信仰を強めることができた

    神の御言葉にはこうあります。「受肉した主イエスが業を行っていた間、イエスに付き従う者の殆どが、イエスの身分やその言葉を完全に認識できなかった。イエスが十字架にかけられた時、イエスに付き従っていた者たちの態度は、何らかの期待であった。イエスが十字架に釘で打ち付けられたときから墓に入れられた時まで、人々の主に対する態度は、落胆であった。この時、受肉したイエスが言われた言葉に関し、人々の心は疑念から否定へと移り変わり始めていた。そして主が墓から出て、ひとりずつ人々の前に現れた時、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々の殆どが、否定から懐疑へと次第に変わっていった。主イエスがトマスにわき腹を手で触れさせた時、また復活した主イエスがパンを裂いて人々の前で食べた時、そしてその後人々の前で焼き魚を食べた時、そこで初めて人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け容れた。それは、人々の前に現れた、肉と血のある霊的存在が、その人々をひとり残らず夢から醒めさせたようであった、と言うことが出来るであろう。人々の前に立っている人の子は、永遠の過去から存在していた神であった。神には形も、肉と骨もあり、また長いこと人間と生きて食事をしていた。この時、人々は、イエスの存在は全くの真実であり、実に素晴らしいと感じた。また人々は大きな喜びと幸福にあふれ、同時に感極まった。イエスが再び現れたことにより、人々はイエスの謙遜を真に理解し、人間に対する近親さ、ひたむきな望みと愛情を感じることができた。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、自分が既にこの世を去ったかのように感じた。人々の心は、迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、愚鈍になっていたが、そうした人々の心は安息を得た。人々は、疑うことや落胆することを止めた。なぜなら、その時希望が生まれ、信じることのできるものが生まれたからである。人々の前に立っている人の子は、永遠に人々の味方となり、人々の堅固なやぐらとなり、常に存在する逃げ場となる。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    神の御言葉は、復活後の主イエスの出現のもう一つの意味も明らかにしています。主イエスは人のもとで受肉し、三年半のあいだ働きを行われ、多くの人が主の救いを受け入れて主に付き従います。しかしほとんどの人は主イエスがキリストであり、神ご自身であることを真に理解していませんでした。そのため、主イエスが十字架につけられようとしていたとき、彼らは一連の出来事が起こるのを見て、「主イエスは本当に神なのか。もしキリストで神ご自身なら、どうしてローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑された挙句、十字架にかけられるのだ」と心に疑問を抱いたのです。

    特に、主イエスが十字架につけられているとき、彼らは主に全く失望し、主が神の受肉であることを否定し、主が表された御言葉を否定しました。逆に、イエスは普通の人のように死に、生き残るはずがないと信じたのです。主イエスは人々がその程度の信仰しか持たず、主を知らなかったことも、主が十字架につけられたためにさらに多くの人が弱気になって意気消沈することもご存知でした。そのため主イエスは死人の中から蘇られた後、弟子たちと接触して彼らに語りかけ、聖書を解説し、彼らと親しく交わり、食事を共にし、トマスにご自身の手と脇を触らせるといったことをなさいました。

    イエスキリストが復活後に語られた御言葉と行われた御業から、弟子たちはイエスが本当に復活されたと断定し、「この方こそ、以前我々と食事をし、同じ住処で生活を共にされたあの主だ。我々に説教し、養い、導いてくださったあの主であり、以前のように愛してくださるのだ」と悟り、「主は我々のことを気づかってくださり、我々のもとを離れられたのではなく、我々のすぐ側に一緒にいてくださっている」とも確信しました。主イエスは神ご自身の受肉であり、永遠なる御方、人の永遠の支え、人の強き塔であり避難所だったのです。

    主イエスは十字架につけられても、死後の鍵の番人であり、蘇る力を持っておられました。なぜなら神ご自身だったからです。以後、人々はもはや迷いも戸惑いもせず、もはや主イエスを疑わず、むしろ心の底からイエスを信じ頼ることができました。これは全て、主イエスが死人の中から蘇られた後に弟子たちの前に出現し、彼らと語られた結果です。

    主イエスの復活後の出現のこれら二つの意味から、私は主はそのような形で出現することで人々の心を目覚めさせ、そのおかげで私たちは神の配慮と愛を経験できるのだとやっと悟りました。このような配慮と愛は単なる伝説ではなく、事実なのです。また、このことから神が私たちを親類のようにみておられることも認識できます。神はいつも人と共におられ、私たちから離れられたことがありません。なぜなら、ご自身のものにするために私たちを創られたのであり、私たちが御言葉を聞いて神に従い、絶対的に崇拝し、神と心を一つにすることを望まれているからです。

    ですから、主イエスが肉となって働きを行い、御言葉を語られたときも、復活後に霊として人の前に出現されたときも、常に人類を思い、特にご自身に付き従う者たちを気づかわれました。なぜなら人には罪を克服する能力がなく、神の導きも真理の施し供給なしには、自らの堕落を脱して神の真の救いを得る術がないからです。私たちは誤解して、神が贖いの働きを終えた後に私たちを離れ、それ以降もう私たちに何の注意も向けられなかったと信じていますが、事実は、私たちの想像通りではないのです。

    主イエスは人類を贖う働きを成し遂げられましたが、人を離れられたわけではありません。主イエスは今も以前と同様に人と共におられ、私たちを気づかい、養い、導いてくださっています。主イエスはいざという時に私たちを助けて支えてくださり、どのように出現されても、いつも私たちと共におられます。それはまさに神の御言葉通りです。「主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における人生では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の慈しみがあり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    実は、主イエスを信じる私たち一人ひとりにとって明白なのは、神への信仰の道において、いつ金や名声や富などの誘惑に遭遇しても、主は私たちを守ってくださり、誘惑を避けて克服することができるようにしてくださるということです。私たちがいつ挫折や失敗に遭遇しても、主は御言葉で導き、信仰と力を与え強くしてくださいます。私たちが生活の中で困難に遭遇しても、主は常にまさかの時の助けであり、道を開いてくださいます。私たちが試練で苦しんでも、主の御言葉が十分に照らして導いてくださるおかげで、私たちは神の御心を理解し、霊における平安と喜びを感じることができるのです。神が側にいて毎日を私たちと共にいて導いてくださるおかげで、真理を理解し、御心を理解できるようになると本当に実感できます。

    私は主の愛に深く感動し、なぜイエスキリストが復活後四十日間、人の前にお姿を表わし、弟子たちの前で食事をし、聖書を語り、彼らと親しく交わり、弟子たちにいくつもの要求を告げるといったことをなさったかがよく分かるようになりました。主イエスが言われ、なされたことの一つひとつが大いなる配慮と思慮に満ち溢れており、主の業は全て非常に意義深いものだったのです。今私は、神の御言葉を読むことで、復活後の主イエスの出現をより深く理解しています。神に感謝します。

2019年4月13日土曜日

福音書|イースターと真の意味を知っていますか

   復活祭とは、復活の主日とも呼ばれ、主イエスが十字架につけられた三日後に起こった主の復活を祝う祭日です。その正確な時期は、毎年春分になってから最初の満月の後の最初の日曜日です。イエスの復活を記念し、イエスが人類にもたらされた救いと希望を思い起こすために、毎年三月から四月に世界中のキリスト教徒が復活祭の日にお祝いをします。私たちキリスト教徒はイエスの復活を記念しますが、それでは、すでに贖いの働きを終えられたのになぜ主は死人の中から蘇って人の前に出現されたのかを私たちは知っているでしょうか。そして、主の復活と人の前での出現の背後にはどのような意味があるのでしょうか。



           主イエスの復活と人の前での出現の意味 
神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)「主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。……主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

神の御言葉から私たちに分かるのは、主イエスが死人の中から蘇られてから弟子たちに何度も出現されたことには深い意味があり、その背後には神の惜しみない気づかいと思慮が隠れてもいるということです。当時主イエスに付き従った人々は主の教えを多く聞き、主がなされた多くの奇跡を見て、イエスが自分たちの主であり、神の子であると主張しましたが、イエスがキリストで神ご自身であることについては本当に理解しておらず、イエスはこのことをご存知でした。イエスがローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑されたとき、主に付き従った人々の多くは主の身分を疑い始め、主への信仰が段々弱まりました。特に主イエスが十字架に付けられて死んだとき、多くの人々は主に全く失望し、疑いとして始まったものが主イエスの否定に変わったのです。このような状況を背景として、もし主イエスが復活後に人の前に出現されなかったなら、主に付き従った人々の多くはもはやイエス・キリストを信じず、律法の時代に戻って旧約聖書の律法を守り続けたでしょう。しかし神は人の心の奥深くを見極め、人の弱さを理解しておられ、人々の霊的背丈が小さいことをご存知でした。主イエスはそれゆえに、死人の中から蘇り、何度も弟子たちの前に出現されたのです。主は弟子たちと語り、復活後のご自身の霊体を彼らに見せ、彼らと食事を共にし、聖書を解説されました。こうしたことをなさった目的は、主に付き従った人々が、主イエスは本当に死人の中から蘇られ、この方は人を愛し憐れみをかけてくださったイエスとやはり同じ人であり、受肉された神ご自身であり、聖書で預言された人類を贖うために来られるメシアであることを心の底から確信できるようにすることでした。彼らはもはや主イエスを疑いも否定もせず、それどころか誠実に主を信じ、イエス・キリストを自分たちの主と認めました。このことから私たちに分かるのは、イエスは復活なさり人々の前に出現されることによって、人々の信仰を強め、主を信じて従えるようになさったのであり、人間を神に近づけてくださったということです。これがイエスの復活の意味の一側面です。
これに加えて、イエスは肉となって現れて働き、律法の時代を完全に終わらせ、恵みの時代を始められました。受肉されたイエス・キリストは十字架にかけられましたが、罪と死を克服してサタンを破り、贖いの働きを成し遂げて栄光を得られたのであり、復活後の主イエスは人々にこの事実がはっきりと分かるようになさったのです。主イエスは新たな時代を開き、人類を旧約聖書の律法の時代から完全に脱却させ、恵みの時代にしっかりと定着させ、恵みの時代において神の導きと牧養と潤しを受けられるようになさいました。これにより、たとえイエスが復活して昇天なさり、もはや人と食事や生活を共にされることがなくなっても、人は今もイエスに祈り、御名を呼び、主の教えを守り、揺るがない信仰をもってイエスに付き従い、福音を広めることができるのです。特に、主イエスが復活なさり主に付き従った弟子たちの前に出現された後は、彼らの信仰は高まりました。主の福音を広め証しをすることに何の困難も危険も恐れず、不屈の忍耐力を持ち、福音を広めることに自らの全てを捧げ、主のために殉教さえしました。最終的には、イエスの福音は宇宙全体、世界中に広がり、主イエスに従う人の数は増え続け、やがてどの家庭の誰もが主の福音を耳にするまで万人に知れ渡ったのです。
主イエスは死人の中から蘇られた後、人々の前に出現し、彼らと接触して語りかけ、聖書を解説して親しく交わり、食事を共にするといったことをなさいました。これらの御業のおかげで、主イエスに付き従った人々は主の人への気づかいと思いやりを感じ、イエスがまさしく神ご自身で、受肉されたキリストであると確証することができ、神に従う人々は恵みの時代にしっかりと定着したのです。しかも、イエスの贖いの働きはその時から広まり始め、やがて宇宙全体、世界中に及びました。従って、イエスの復活と人類への出現の背後に深い意味があるのは明白です。なぜならこれらの御業には神の惜しみない気づかいと思慮だけでなく、神の知恵と全能性もこめられているからです。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスの復活の意味を理解し、主の働きの中に神の私たち人類への気づかいと思いやりを改めて感じることができるようにしてくださった神の啓きと導きに感謝しましょう。神に感謝!

2019年2月24日日曜日

朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「ぺテロはどのようにイエスを知るようになったか」



朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「ぺテロはどのようにイエスを知るようになったか」

ペテロはイエス様に付き従う間は、主の行いを認識しようともっとも重視しています。そうすると、神を究極に愛し、十字架に釘つけられるまで、証をしています。いくら外見を捨てるよりも、神の働きを経験し、そして神を認識することだけが、神を従う真の道であることがわかりました。

全能神は言われた「あなたがたは自分が歩く道について明確でなければならない。あなたがたがこれから歩く道について、神が完全にさせること、あなたが任されたことなどについても明確でなければならない。いつか、おそらくあなたがたが試されるとき、あなたがたがペテロの体験から霊感を得ることができるなら、あなたがたはペテロの道を歩こうとしていることを示している。ペテロは彼の真の信仰、愛、神への忠誠のために、神に褒められた、そしてそれは神が彼を完全にした彼の実直さ、彼の心の神へのあこがれであった。もしあなたが本当にペテロと同じ愛、信仰を持っているなら、イエスは必ずあなたを完全にしてくれるであろう。」
         『言葉は肉において現れる』より

2018年11月24日土曜日

全能神教会御言葉「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」


 主イエス・キリストに従う他の何億人もの人々と同じように、私達も聖書の律法と戒めに従い、主イエス・キリストの豊かな恵みを受け、主イエス・キリストの名の下に集まり、祈り、賛美し、仕えている。そして、これら全てを私達は主の配慮と加護の下に行っている。私達は時として弱くなったり、強くなったりするが、自分達の行動のすべては主の教えに従うものであると信じている。言うまでもなく、天の父の心にかなう道を歩んでいることも信じている。私達は主イエスの再来を、その輝かしい降臨を待ち望み、また地上における生活の終り、神の国の出現、そしてヨハネの黙示録に予言されていることが全てその通りに実現することを待ち望んでいる。つまり、主が到来し、災いをもたらし、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、そして主に従い、主の再臨を歓迎する全ての人々を天に引き上げ主に会わせる。このことを考えるたびに感動せずにいられない。この世の終りに生まれ、主の来られるのを幸運にも見ることができることに感謝する。確かに私達は迫害の苦難を受けているが、それは「永遠の重い栄光をあふれるばかりに」受けるための代償なのだ。何と素晴らしい祝福だろうか。この切なる願望と主によって授けられた恵みによって、私たちは油断なく祈るようになり、さらに頻繁に集うのである。もしかしたら来年、明日、いや、ひょっとしたらもっと早く、誰も予期していないときに、主は突然やって来て、主をひたすら待ち望んでいる人々の集団のもとに現れるかもしれない。主の出現を見る最初の集団となるために、天に引き上げられる人々のうちの一人となるために、遅れを取りたくないから皆我先にと争っている。私達はその日のために、どんな犠牲もいとわず、全てを捧げてきた。仕事をあきらめた者や家族を捨てた者もいるし、結婚を放棄した者、蓄えを全て寄付した者もいる。何という無私無欲な献身であろう。このような誠実さ、忠誠心は、過去の聖人さえも超えるに違いない。主が望む相手に恵みを与え、哀れみをかけるので、私達の献身や支出は既に神の目に留まっているものと私達は信じている。だから、私達の心を込めた祈りも神の耳に届いているし、主が私達の献身に報いてくださると信じている。しかも、神はこの世を造る前から既に私達を慈しんでいたので、私達に与えられている神の祝福や約束を誰も取り上げることはできない。私達は皆、未来のための計画を立てており、自分達の献身や支出は、天に引き上げられ主に会うための交渉の切り札または蓄えであると当然のごとく思っている。さらには何のためらいもなく、私達は将来玉座に就き全ての国と全ての民族を支配する、あるいは王として治めるものと考えている。私達はこれらのことを全て当然のこと、当たり前に期待できるものとして捉えているのである。

 私達は主イエスに逆らうすべての人々を軽蔑するが、彼らは皆最後には滅ぼされるのである。一体誰が主イエスが救い主であることを信じるなと彼らに言ったのか。もちろん私達は主イエスに習って、世間に対し思いやりをもつときもある。彼らは何も知らないからであり、私達は寛容で彼らを許すべきである。私達の行いは全て聖書の言葉に従っている。聖書と一致しないものはすべて異端であり、邪教だからである。私達一人ひとりの心の中にはそのような信念が深く根付いている。私達の主は聖書の中にあり、聖書から離れなければ、主からも離れないのである。この原則に忠実であれば、私達は救われるのである。私達は互いに励まし合い、支え合っており、一緒に集まる時はいつでも私達の言動の全てが主の心にかなっていること、そして主に受け入れてもらえるよう願っている。過酷な環境の中にあっても、私達の心は喜びに満ちている。こんなにも簡単に手に届く祝福のことを思うと、断念できないものなど何もないのではないだろうか。手放すのが耐えられないものなど何もないのではないだろうか。これらは全て暗に示唆されるものであるが、全ては神の目に見られている。掃きだめから引き上げられた一握りの貧しい者である私達は、すべての主イエスの信奉者と同じである。私達は天に引き上げられることを、祝福を受けることを、そして全ての国を治めることを夢見ている。私達の堕落は神の目にはさらけ出されており、私達の欲望と貪欲さは神の目からみれば断罪されている。それでも、これらは全てごく自然に、そして論理的に起こることなので、私達のうち誰も自分達の望んでいることが正しいことなのかどうか疑問をもたないし、ましてや私達の誰一人として、自分達の固執していること全ての的確さを疑いもしない。誰が神の心を知ることができるのだろう。誰も自分たちが歩いている道を求めることも、探究することも、関心を持つこともしない。なぜなら私達が気にするのは自分達が天に引き上げられるかどうか、祝福が受けられるかどうか、天国には自分の場所があるかどうか、いのちの川の水の分け前にあずかり、いのちの木の果実を手にできるかどうかということだけだからである。私達はこれらのことを得るために主を信じ、そして主に従っているのではないのか。私達の罪は赦されて、私達は罪を悔い改め、苦き杯から飲み十字架を背負った。私達の払った代価が主に受け入れてもらえないなどと誰が言えるだろう。私達は油を十分準備していなかったなどと誰が言えるだろう。私達はあの愚かな乙女にも、あの捨てられた者の一人にもなりたくない。しかも、私達はしばしば神に祈り、偽キリストに騙されることがないようにと求めている。それは、聖書の中に「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24:23-24)と書いてあるからである。私達はこれらの聖書の言葉を記憶に留め、隅から隅まで知っており、貴重な宝として、いのちとして、天上に引き上げられ、救われるための保証として考えている。

 何千年もの間、生者はその願望や夢を携えて亡くなっていったが、その人達が天国へ行ったのかどうか本当に知る者はいない。死者は戻って来ているが、過去に起こったことは全て忘れてしまっていて、依然として先人の教えや歩んだ道に従っている。それだから、どれほど月日が経っても、主イエスが、神が、私達のすることを全て本当に受け入れてくれるかどうかは誰にもわからない。私達は一つの結果を待ち望み、これから起こるすべてのことを想像するだけだ。にもかかわらず神は沈黙を守り通して、人間の前には姿を現さず、言葉を発することもない。だから私達は自らの意志で神の心と性質を、聖書や印に基づいて判断するのである。私達は今では神の沈黙に慣れてしまった。自分達の行動が正しいか間違っているかの判断を自らの見方で測ることに慣れてしまった。神が私達に要求していることの代わりに私達の知識、観念、道徳的倫理を使うことに慣れてしまった。神の恵みを享受することに慣れてしまった。神の助けが必要な時にいつでも神が与えてくれることに慣れてしまった。ありとあらゆることを求めて神に向かって両手を差し出し、神にあれこれ指図することに慣れてしまった。教義を守り、聖霊の導きに注意を払わないことにも慣れてしまった。その上、私達自身が自分の主人である日々に慣れてしまった。私達はこのような神を、一度も会ったことがないのに、信じている。神の性質はどのようなものか、神のもつもの、神であるものは何か、神はどのような姿をしているか、神が現れるとき私達はそれが神であるとわかるだろうかなどの疑問はどれも重要ではない。重要なのは、神が私達の心の中にいるということ、私達は皆、神を待ち望んでいること、そして私達は神の姿を想像することができるということである。私達は自分の信仰を評価し、自分の霊性を大切にする。私達は全てを不潔なものと見なし、全てのものを踏みつけて行く。私達は栄光なる主を信じ従う者なので、その過程がいかに長く困難であろうとも、いかなる苦難と危険に晒されようとも、私達が主に従って行く時、何も私達の歩みを止めることはできない。「いのちの水の川は、水晶のように輝き、神と小羊の御座から出ていた。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。」(ヨハネの黙示録22:1-5)これらの言葉を唱える度に、私達の胸は無限の喜びと満足感で溢れ、目からは涙がこぼれる。主が私達を選ばれたことに感謝し、主の恵みに感謝する。私達は神からこの世では百倍もの報いを受け、その後に来る世では永遠の命を与えられている。だから、もし神が今私達に死になさいと言えば一言の文句も言わずそうするであろう。主よ、どうぞ今すぐに来てください。一分も引き延ばさないでください。私達は主が来られるのを待ち焦がれており、主のために全てを捨てたのですから。

 神は沈黙していて、私達に姿を現したことはない。しかし神の働きは止むことがない。神は全世界を見ているし、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神の経営は計画に従って段階的に行われる。それは静かにまた特に驚くような成果もなく進行するが、神の歩みはますます人類に接近し、神の裁きの座が電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座も私達のもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげているライオンのように、聖霊は私達すべてのもとにやって来る。神は賢く、義に満ちて、威厳がある。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちて私達の間に静かにやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰も神を歓迎せず、その上、誰も神がこれからしようとしていることをまったく知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は、神に従う取るに足らない者として、平凡な一信者として、普通の人のように私達の間に生きている。神には神が従事するものごとや目標があり、その上に普通の人にはない神性を有している。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も神と人の本質の違いを見抜いていない。私達は神を取るに足らない一人の信者としてしか見ていないので、のびのびと恐れることもなく神と共に暮らしている。神は私達の一挙一動を観察しており、私達の考えや思いつきはすべて神の前に晒されている。誰一人として神の存在に注意を払わないし、その役割を想像すらしない。さらに、誰一人としてそれが誰であるか疑っていない。私達は、単純に自分達の活動を継続している。あたかも神と私達には何の関係もないとでも言うように。

 たまたま、聖霊がこの人を「通して」一遍の言葉を発することがある。意外なことのように思われるが、私達はこれを神の発した声であると認め、神から出たものであるとすぐに受け入れる。なぜなら、これらの言葉を誰が発しようと、聖霊から出たものである限り、私達はそれを受け入れるべきであり、否定することはできない。次回の発言は、私を通して出されるかもしれないし、あなた、あるいは他の誰かを通して出されるかもしれない。それが誰であるかにかかわらず、全ては神の恵みである。しかしその人物が誰であろうと、その人を崇拝してはならない。なぜならほかのことにかかわらず、その人が神であるということはとうていありえないし、このようなごく普通の人を選んで私達の神とすることは決してできないからである。私達の神は非常に偉大で尊い。どうしてこのような小さく取るに足らない人が神に代わることなどできようか。加えて、私達は皆、神がこの世に来て私達を天国へ引き上げてくれるのを待っているのだが、そのような重大で困難な仕事に、この小さく取るに足らない人が適格であることがどうしてありえようか。もし主が再臨するならば、白い雲の上に乗って現れ、全ての人に見えるようでなければならない。それは何と荘厳なことだろうか。どうして神が平凡な人々の一群の中に静かに隠れていることなどできようか。

 それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが私達を救うための新しい働きを行っているのだ。この人は私達のために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、私達の中に深く隠された秘密に命中し、それは私達の心を突き刺し、霊を突き刺し、私達を恥ずかしく、みじめな気持ちにする。この人物の心の中にある神は本当に私達を愛しているのか、そして一体何をしようとしているのかと私達は疑い始める。もしかしたら、そのような痛みを耐えなければ天国に引き上げてもらえないのではないだろうか。これからの行く先や未来の運命について…私達は頭の中で思案するようになる。それでもまだ、誰一人として神が肉体を得て私達の間で働きを行っているとは考えない。神がいかに長い期間私達と一緒であっても、どれほど多くの言葉を私達に面と向かって語っていても、私達はそのあまりにも平凡な人を、自分達の未来の神と喜んで認めることはないし、ましてその小さな取るに足らない人に私達の未来と運命の支配を任せたくないのである。私達は、彼から絶えることのないいのちの水を喜んで享受し、彼のおかげで神と向かい合って生活している。私達は天におられる主イエスの恵みには感謝するが、神性を備えたこの普通の人の気持ちには注意を払ってこなかった。それでもなお、彼は肉体の中に隠れて謙虚に仕事を続け、その心の声を発し、人類が彼を拒んでも表向きは気にかけず、また人の稚拙さも無知も見たところは永久に赦して、そして人々の非礼をひたすら黙認している。

 私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。それにもかかわらず、私達の心の中では虚栄心がはびこり、このような人を神として喜んで受け入れることができないでいる。この人が私達にどんなに多くのマナ、どんなに多くの喜びを与えても、私達の心の内に在る主の地位を奪うことができないのである。私達はこの人の特別な身分と地位を嫌々ながらに尊重しているのである。もし彼がはっきりと語り、自分が神であることを私達に納得させなければ、私達は決してこの人を神として、つまりもうすぐ現れるはずであったが既に私達のもとで長く働いてきた神として、思い切って認めることはないだろう。

 神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。その時、私達の心は完全に彼に征服された。私達はもはや彼が誰であるか疑わず、その働きや言葉にもはや反抗することもなく、彼の前に完全にひれ伏す。私達の望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、神の恵みと私達への愛に報い、神の指揮と計画に従い、神の働きに協力し、神が私達に委ねたことを完成するためにできる限りのことを行うことだけである。

 神に征服されるのは、武術の試合のようである。

 神の言葉の一つ一つが私達の急所を突き、私達は悲嘆にくれ、恐れる。神は私達の観念を明らかにし、想像を明らかにし、堕落した性質を明らかにする。私達の言動の全て、思いや考えの一つ一つを通して、私達の本性や本質は神の言葉によって明らかにされ、私達は辱められ、恐怖で震える。神は、私達の行動、目的と意図、それに自分でも知らなかった堕落した性質までを私達に示し、私達を徹底的にさらけ出された気持ちにさせ、さらには完全に納得した気持ちにさせる。神は、私達が神に反抗したことを裁き、神に対する冒涜と糾弾を理由に私達を罰し、私達は神の目には何の価値もなく、生きたサタンそのものであると思わせる。私達の希望は粉々にされ、もはや神に対する理不尽な要求や企てはしなくなり、私達の夢さえも一夜にして消える。これは、私達の誰も想像できず、受け入れることのできない事実である。一瞬、私達は心のバランスを失い、この先どうやって続けていけば良いのか、どうやって私達が信じることがらを保ちつつ続けていけば良いのか分らなくなる。まるで自分達の信仰が振り出しに戻り、主イエスに出会ったことも、親しんだこともなかったような気持ちになる。目の前のこと全てが私達を混乱させ、どこか漂流しているような気持ちにさせられる。私達は狼狽し、落胆し、そして心の奥深くには押さえきれない憤りと屈辱がある。私達はうっぷんを晴らそうと試み、出口を探そうと試み、その上、救い主イエスを待ち続けて、胸の中を打ち明けようと試みる。表面上は放漫にも謙虚にも見えないときもあるが、私達は心の中でこれまでにない喪失感に苦しんでいる。ときには表面上はいつになく冷静に見えるかもしれないが、内面では波打つ海原のような苦悶に耐えている。神の裁きと刑罰は、私達の希望と夢の全てを奪い去り、私達の途方もない望みはもはや無く、あの人が救い主で、私達を救うことができるということを信じようとはしない。神の裁きと刑罰は私達と神との間に深い溝を広げ、誰もそれを渡ろうとさえしない。神の裁きと刑罰によって、これほどの挫折と屈辱を初めて感じたのである。私達は、神の裁きと刑罰によって、神の名誉と人による侮辱に対する神の不寛容を本当に認識した。それと比べて私達はなんと卑しく汚れていることか。神の裁きと刑罰によって私達は初めて、いかに自分達が傲慢で尊大であるか、そして人間は決して神と同等ではなく、神と肩を並べることはないことを悟らされた。神の裁きと刑罰によって、私達はこのような堕落した性質の中でもはや生きていかないことを切望するようになり、そのような本性と本質からできるだけ早く抜け出し、もう神から憎まれたり、神に嫌悪感を起こさせることのないようにと願うようになった。神の裁きと刑罰によって、私達は神の言葉に喜んで従うようになり、もはや神の指揮と計画に反抗する気持はなくなった。彼の裁きと刑罰によって、私達は再びいのちを追い求めるようになり、喜んで彼を救い主として受け入れるようになった。私達は、征服する働きから立ち去り、地獄から抜け出し、死の影の谷から抜け出た…全能神は、私達この集団に属する人間を得たのだ。神はサタンに打ち勝ち、全ての敵を倒したのだ。

 私達は、堕落したサタンのような性質を持っている人のごく普通の集団で、ずっと前から神によって既に運命が決められていた、神が掃きだめからすくい上げた貧しい者である。私達は、かつて神を拒絶し、糾弾したが、今は神に征服されている。私達は、神よりいのちを受け、そして永遠のいのちの道を授かった。私達がこの地球上のどこに居ようとも、迫害や試練を受けても、全能神の救いから離れることはできない。なぜならこの神こそ私達の創造主であり、唯一の贖い主であるからだ。

 神の愛は泉の水のように溢れ出て、あなたや私や他の誰かに、そして真理を求め、神の出現を待ち望む全ての人に与えられる。

 月がいつも太陽を追いかけているように、神の働きは決して止むことはなく、あなたや私や他の誰かの上に、そして神の足跡に従い、神の裁きと刑罰を受け入れる全ての人に対して行われる。

2010年3月23日発表

2018年11月21日水曜日

全能神の発表「救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た」


 数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。同様に、イエスは再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。

 「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしのすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを顕示する義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

 終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行ったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを救済し、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを作った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行う。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終りの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖罪の働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行い、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行ってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行い、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から救われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度救うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行われるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。

2018年10月12日金曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 5」4


 マタイ4:8~11)次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

 悪魔であるサタンは、それまで2度の謀略に失敗したにもかかわらず、もう一度試そうとする。サタンは世界の全ての国々とその繁栄ぶりを主イエスに見せた上で、悪魔を拝むよう求めた。こうした状況から、悪魔の真の特徴について、何が分かるであろうか。悪魔であるサタンは完全に無恥ではなかろうか。(無恥である。)サタンはどれほどまで無恥であろうか。すべて神により造られたものであるにもかかわらず、逆にサタンはそれを神に見せて「これらの国々の繁栄を見よ。私を拝むならば、これをみんな与えよう。」と述べた。これは立場が逆ではなかろうか。サタンは無恥ではないだろうか。神は全てを造ったが、それは神の享楽のためであっただろうか。神は人間に全てを与えたが、サタンはそれを全て奪った上で、「私を拝め。私を拝むならば、これをみんな与えよう。」と述べた。これが、サタンの醜悪な顔である。サタンは完全に無恥であろう、そうではないか。サタンは「恥」という言葉の意味すら知らず、これはサタンの邪悪さの一例にすぎない。サタンは「恥」が何であるかすら知らない。サタンは神が万物を造り、それを管理し、支配していることを明らかに知っている。すべての物事が神のものであり、人間のものではなく、ましてやサタンのものではないが、それにもかかわらず悪魔であるサタンは、厚かましくも、そのすべてを神に与えようと述べた。ここでも、サタンは不合理で無恥な業を行っていないだろうか。神は一層サタンを忌み嫌うであろう、そうではないか。しかし、サタンが何をしようとしても、主イエスはそれに屈することはなかったのではなかろうか。(なかった。)主イエスは何と言ったであろうか。(「主なるあなたの神を拝し」。)この言葉には実際的な意味があるだろうか。(ある。)その実際的な意味とは、どのようなものであろうか。サタンの発言からは、サタンの邪悪さと無恥さが分かる。したがって、人間がサタンを拝んだとしたら、どのような結果となるであろうか。全ての国々の富と栄光を与えられるであろうか。(与えられないであろう。)それでは、何を与えられるであろうか。人間はサタンと同様に無恥で滑稽な存在になるのではないか。(そうなるであろう。)そうした人間は、サタン同然となるであろう。したがって、主イエスは、人間ひとりひとりにとって重要な言葉「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と述べた。この言葉は、主すなわち神自身ではない、悪魔であるサタンを拝んだとしたら、サタンと同じ不浄の中を転げ回ることとなると述べている。サタンを拝むと、人間の無恥と邪悪はサタンと同じものとなり、サタン同様に神を試し、攻撃するようになるであろう。その結果、人間はどうなるであろうか。その人間は神に嫌悪され、打たれ、破壊されるのだろう。そうではないか。サタンが主イエスを何回か試し、失敗した後、サタンは再度試したであろうか。サタンは再度試さずにその場を去った。それは何を証明するであろうか。それはサタンの邪悪な本性、悪意、ばかばかしさと不条理さは、神の前で述べる価値が無いということを証明している。なぜなら、主イエスは僅か3つの文によりサタンを敗北させたからであり、その後サタンは顔を見せるのも憚られるほど恥らい、慌ててしっぽを巻き逃げ去り、二度と主を試さなかったからである。主イエスがこのサタンの誘惑を打ち破った後、主が必要な業を実施し、任務に取りかかるのが容易になった。この場面における主イエスのあらゆる言葉と業には、現在に当てはめた場合、人間全員にとって実際的な意義があるであろうか。(ある。)その実際的な意味とは、どのようなものであろうか。サタンを打ち破るのは容易なことであろうか。(容易ではない。)それでは、その意義は何であろうか。サタンの邪悪な本性に関し、人間は明瞭に理解する必要があるであろうか。サタンの誘惑に関し、人間は正確に理解する必要があるであろうか。(ある。)あなたが自分の人生でサタンの誘惑を経験し、サタンの邪悪な本性を見抜けるとしたら、あなたはそれを打ち破ることができるであろうか。サタンのばからしさと不条理さを知っているとしたら、それでもサタンと共に神を攻撃するであろうか。(しないだろう。)サタンの悪意と無恥さが、自分自身を通して明示されているのを理解し、明確に認識し、知っているとしたら、あなたはそれでもこのように神を攻撃し、試すであろうか。(そのようなことはしないだろう。)あなたはどうするであろうか。(サタンに反抗してサタンを捨てる。)それは容易なことであろうか。(容易ではない。)それは容易なことではなく、そのために人間は頻繁に祈り、神の前に出て、自分自身について常に検討する必要がある。人間は神の訓練と裁き、刑罰に従う必要があり、そうすることによって始めて、人間はサタンの領域と支配から次第に解放されることができる。

 サタンが述べた言葉から、サタンの本質を構成する物事を概括することができる。まず、サタンの本質は概して邪悪であり、それは神の聖さと対照を成す。わたしがサタンの本質が邪悪であると言う理由は何であろうか。それを知るためにはサタンの業の結果を検討する必要がある。サタンは人間を堕落させ、支配し、人間はサタンの腐敗した性質に従って行動し、サタンにより腐敗された世界で、腐敗した人々と共に生活する。多くの人々が無意識のうちにサタンにとりつかれ、吸収されているので、人間にはサタンの邪悪な本性がある。サタンの業と言葉の全てから、その傲慢さを知ることができ、狡猾さと邪悪さが理解できる。サタンの傲慢さは、主としてどのように示されるであろうか。サタンは常に神の地位を奪うことを望んでいるであろうか。サタンは、人々がサタンに従い、サタンを支持し、サタンを崇拝するよう、常に神の業と地位を崩壊させて自らがその座に就くことを望んでいるが、それがサタンの傲慢な本性である。しかし、サタンが人々を腐敗させる時、サタンは陰険で背信的な方法を採る。サタンが人間に業を行う場合、サタンは神を拒絶し、神に反逆する方法を直接的に人間に対して伝えない。サタンが神を試すとき、サタンは公然と「私はあなたを試し、攻撃する」と述べることは無いが、サタンはどのような方法を採るであろうか。(誘惑である。)サタンは誘惑し、試し、攻撃し、罠を仕掛け、さらには聖句を引用する。サタンは様々な言動と行動により邪悪な動機を実現させようとする。そうした言動や行動の後、人間に現れる事柄から分かることは何であろうか。人間は傲慢ではなかろうか。人間は数千年にわたってサタンの腐敗に苛まれてきたので、人間は傲慢になり、極めて高慢になり、狡猾で、邪悪で不合理になった、そうではないか。こうした物事は、全てサタンの本性によりもたらされたものである。サタンの本性は邪悪であるので、サタンは人間にこの邪悪な本性を与え、腐敗した邪悪な性質をもたらした。したがって、人間は腐敗した悪魔のような性質のなかで生活し、サタン同様に人間も神に反抗し、神を攻撃し、神を試し、その結果として神を拝まなくなり、心から神を敬うことが無くなった。そうではないだろうか。

 神の聖さに関しては、親しみ深い主題ではあるが、一部の人々にとっては多少抽象的となり、内容が多少深すぎるかも知れない。これまでは人々が神の聖さを取り扱うことが滅多に無かったので、人々はその聖さを理解できない。しかし、あなたがたが神の聖さを理解するのをわたしが助けるので、心配は無用である。これについて理解するのはあなたがたにとって多少困難であることは承知しているので、最初に話しておきたい。ある人物のことを知りたいと思った場合は、その者の行動や行動の結果を観察すれば、その人物の本質を理解できるであろう。したがって、ここではその観点から神の聖さを伝えることにする。サタンの本質は邪悪と悪意であり、現在まで、サタンの人間に対する行動は、人間を限りなく腐敗させることであったと述べた。サタンは邪悪であるので、サタンが腐敗させる人間もまた邪悪であろう。「サタンは邪悪であり、サタンが腐敗させる人間が聖なる存在ではないだろうか」と言う者はいるであろうか。それは冗談であることに相違ないであろう。そもそも、そのようなことがあり得るのだろうか。(有り得ない。)したがって、そのように考えてはならない。ここでは、サタンは邪悪であり、それが本質であり事実であり、それは空虚な話ではない、という側面から話をする。ここではサタンを中傷しようとしているのではなく、単に真理と現実と、それに関連する事実について話をする。こうすることにより一部の人々や一部のグループの人々が傷付く可能性もあるが、こうすることに悪意は無い。あなたがたは、今この話を聞くと多少不快になるかも知れないが、近い将来、あなたがたがこのことに気づいた時、自己嫌悪に陥り、本日話したことが極めて有用であり、貴重であると感じるであろう。

2018年9月15日土曜日

【東方閃電】全能神の発表「神の心にかなう奉仕とは」

 今日、わたしたちがおもに語り合うことは、神を信仰する上で人々はいかに神に仕えるべきか、神に仕える者たちが満たすべき条件、また理解すべきこととは何なのか、そして、あなたたちの奉仕にはどのような逸脱があるかなどである。あなたたちはこれら全てを理解すべきである。これらの事柄は、あなたたちがどのように神を信じるか、聖霊によって導かれる道をどのように歩むか、あなたたちに関する全ての事が神によってどのように定められるかについて言及するものである。そして、それらの事柄によってあなたたちは、あなたたちの内に働く神の業の一つひとつの段階を知るであろう。そこに到達すると、あなたたちは神への信仰とは何であるのか、いかにして神を正しく信じるべきか、そして、神の心にかなって行動するためには何をすべきかということを充分に理解できるようになるだろう。それによって、あなたたちはすっかり完全に神の働きに従うようになり、ひとつの不満もなく、神の働きを裁くことも、分析することもせず、ましてや研究することなど全くなくなるだろう。その上、あなたたちは皆死に至るまで神に従うことができるようになり、神があなたたちを羊のように引き連れ、屠ることに身をまかせるようになる。そうすれば、皆1990年代のペテロになることができ、たとえ十字架に付けられても、一言の不満もこぼさず、神を全身全霊で愛し尽くすことができるようになる。その時初めて、あなたたちは1990年代のペテロとして生きることができるようになるのだ。

 決心しだいで誰でも神に仕えることはできるが、神の心に一心に注意を払い、神の心を理解する人々にしか神に仕える資格や権利は与えられない。あなたたちの経験から見ても解かるように、多くの人は、神に仕えるということは、神のために熱心に福音を広め、各地を巡回し、神のために費やし、犠牲を払い、その他さまざまなことを為すことだと信じている。より一層信心深い人々は、神に仕えることは、手に聖書を持って走り回り、神の国の福音を広め、罪を悔い改め告白させることによって人々を救うことを意味すると信じている。また、神に仕えることは、神学校で学んだ後礼拝堂で説教し、聖書の各章を読んで人々に教えることだと考えている宗教指導者が大勢いる。また、神に仕えるということは、生涯結婚せず、家族を養うこともなく、全存在を神に捧げることを意味すると信じている兄弟姉妹も沢山いる。貧しい地域には、神に仕えるということは癒しを行い、悪霊を追い払い、あるいは兄弟姉妹のために祈り、彼らに仕えることだと信じている人々もいる。あなたたちの中には、神に仕えることは神の言葉を飲食し、毎日神に祈り、どこにいても教会を訪れることだと信じている人々がたくさんいる。そこで、教会生活を送ることが神に仕えることだと言う人々もいる。しかし、神に仕えることが実際何を意味するのかを知っている人はほとんどいない。神に仕える人は星の数ほどたくさんいるが、神に直接仕えることができる人の数、神の心に仕えることができる人の数は微々たるもので、取るに足らないほど少ない。なぜわたしはこのように言うのだろう。わたしがこんなことを言うのは、あなたたちが「神への奉仕」という言葉の本質を理解していないからであり、神の心にどう仕えたらよいのかほとんどわかっていないからである。今日、わたしたちはおもに、神の心に従ってどのように仕えるべきか、神の心を満足させるためにはどのように仕えるべきかについて語り合っている。

 あなたたちが神の心に仕えたいと望むならば、どのような人々が神に愛されるのか、どのような人々が神に忌み嫌われるのか、どのような人々が神によって完全にされるのか、どのような人々が神に仕える資格を与えられるのかをまず理解しなければならない。これはあなたたちが身に着けておかなければならない最小限のことである。その上、あなたたちは神の働きの目的と、神が今ここで行う働きを知るべきである。これを理解した後、神の言葉の導きを通して、あなたたちはまず入り、まず神の任務を受ける。あなたたちが実際、神の言葉に基づいて経験し、本当に神の働きを知る時、あなたたちは神に仕える資格が与えられるだろう。そして、あなたたちが神に仕える時、神はあなたたちの霊の目を開き、あなたたちが神の働きをより深く理解しいっそう明確に見ることができるようにする。あなたたちがこの現実に入ると、あなたたちの経験はより深く、現実的になる。そのような経験を持った者たちは皆、教会の間を巡り歩き、兄弟姉妹の必要を満たすことができるようになる。あなたたちの欠点を補うために、各々がお互いの力によって恩恵をこうむり、より豊かな霊的認識を獲得するのである。この結果を達成して初めてあなたたちは神の心に仕えることができ、神に仕える過程で神によって完全にされる。

 神に仕える者は、神と心を一つにする者でなければならず、神に愛されており、神に最大限の忠誠を示すことができなければならない。人々の後ろで行動しようと、前で行動しようと、あなたは神の前で神を喜ばすことができ、神の前ではしっかり立つことができる。また、他の人々があなたをどのように扱おうとも、あなたはいつも自分の道を歩み、神の重荷に一心に注意を払う。こういう者だけが神と心を一つにする者なのだ。神に親しい者が直接神に仕えることできるのは、彼らが神から重大な任務や重荷を与えられているからである。彼らは神の心を自分の心とし、神の重荷を自分の重荷とすることができ、将来の展望を得るか、失うかなど一切考慮しない。将来の展望が何もなく、何も得るものがない時でさえ、彼らは常に愛に溢れる心で神を信じるだろう。そこでこのような人は神と心を一つとする者なのである。神と心を一つにする者は神の腹心でもある。神の腹心だけが、神の絶え間ない憂慮や神の願いを共有することができる。彼らの肉体は弱く、苦痛を味わうが、彼らは痛みに耐え、神を満足させるために、自分の愛するものを断念することができる。神はそのような人々にさらなる重荷を与え、神がしようとすることはこれらの人々を通して表現される。従って、これらの人々は神に愛され、神自身の心に適った神の僕である。そして、このような人々だけが神と共に統治することができる。あなたが本当に神と心を一つにする者になった時が、正に神と共に統治する時なのである。

 イエスが神の任務――全人類を贖う業――を完了することができたのは、イエスが神の心に全ての注意を払い、彼には個人的な計画や思慮がなかったからである。だからイエスも神と心を一つにする者であった――神自身であった。それは、あなたたち皆がとてもよく理解しているとおりである。(実際、イエスは神によって証しされた神自身であった。わたしがこのことをここで述べるのは、イエスに関する事実を取り上げてこの問題を例証するためである。)イエスは神の経営(救いの)計画を全ての中心に置くことができ、いつも天の父に祈り、天の父の心を求めた。イエスは祈り、次のように語った。「父なる神よ。あなたの心にかなうことを成し遂げたまえ。わたしの思うようにではなく、あなたの計画によってことを為したまえ。人は弱いかもしれないが、なぜあなたは人のことを気遣うのですか。あなたの手の中では蟻のような人間が、どうしてあなたの配慮の対象になれるのでしょうか。わたしが心の中で願うのは、あなたの心を成就することだけです。わたしの望みは、あなたがわたしの内で行なう業を、あなたが自らの意図にしたがって為すことです。」エルサレムへ向かう途上、イエスは苦悶して、あたかもナイフが心の中で捻じ曲げられているかのように感じたが、神の言葉に背く思いは微塵もなかった。いつも強い力がイエスを磔刑の場所に向かって突き進ませた。最終的に、イエスは十字架に釘付けにされ、罪深い肉と同様になり、人類を贖う働きを完了し、死と黄泉の束縛を克服した。イエスの前に、死も、地獄もハデスも力を失い、イエスによって打ち負かされた。イエスは三十三年生きたが、生涯を通して彼はいつも全力を尽くし、その時の神の働きに従って神の心を全うした。決して自分の個人的損得は考慮せず、いつも父なる神の心のことを思った。従ってイエスが洗礼を受けた後、神は次のように語った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」イエスの神に対する奉仕は神の心にかなうものだったので、神はイエスの肩に全人類を贖うという大きな重荷を負わせ、それを成し遂げるためにイエスをつかわし前進させた。そして、イエスにはこの重要な任務を完成する資格と権限があった。生涯を通じて、イエスは神のために計り知れないほどの苦しみに耐え、幾度となくサタンの試みにあったが、決して落胆することはなかった。神がイエスにそのような任務を課したのはイエスを信頼し、愛していたからである。従って、神は自ら次のように語った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」当時、イエスしかこの任務を果たすことができず、これは恵みの時代に全人類を贖うという神の働きを完成させることの一部であった。

 もしあなたたちが、イエスのように神の重荷に一心に注意を払い、自分の肉に背を向けることができるなら、神は、重要な任務をあなたたちに委ね、あなたたちは神に仕える条件を満たすだろう。そのような状況の下でのみ、あなたたちは自分が神の心を実行し、神の任務を果たしていると思い切って言うことができ、その時初めてあなたたちは本当に神に仕えていると言い切れるだろう。イエスの例と比較して、あなたは自分が神と心を一つにする者だと思い切って言えるだろうか。あなたは、神の心を実行していると言い切れるだろうか。あなたは、神に本当に仕えているとあえて言えるだろうか。今日、あなたがこのような神への奉仕を理解していないなら、あなたは自分が神と心を一つにする者だと言い切れるだろうか。それでも、もし神に仕えていると言うなら、あなたは神を冒涜しているのではないだろうか。よく考えてみなさい。あなたは神に仕えているのだろうか、それとも自分自身に仕えているのだろうか。あなたはサタンに仕えているのに、頑固に神に仕えていると言い張る――それこそ神を冒涜することではないか。多くの人々がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の快楽から離れることをいつも恐れている。彼らは教会で通常の役割を果たさず、無料で食べ、あるいは、兄弟姉妹をわたしの言葉で訓戒し、自分を高くして、他人に対して威張る。これらの人々は神の心を実行していると言い張って、自分は神と心を一つにする者だといつも言う――これはばかばかしくないだろうか。あなたが正しい動機を持っていても、神の心に仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし動機が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く者であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人々にはまったく同情しない。神の家で、彼らは無料で食べ、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものばかりを求め、神の心には何の注意も払わない。彼らのすることは神の霊に見られることはない。彼らはいつも状況を操り、兄弟姉妹に対して陰謀を企んでいる。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神と心を一つにする者になれるだろうか。あなたは神の祝福を受けるにふさわしいだろうか。あなたは自分のいのちにも教会にも責任を持っていないのに、神の任務を受けるのにふさわしいだろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するだろうか。あなたがこのような形で仕えるなら、神はあなたにあえて大きな任務を託すだろうか。あなたは物事を先延ばしにしているのではないか。

 わたしがこう言うのは、神の心にかなって仕えるためには、どのような条件を満たさなければならないかをあなたたちにわからせるためである。あなたたちが心を神に捧げなければ、あなたたちがイエスのように神の心に一心に注意を払わなければ、あなたたちは神に信頼されないし、最終的には神の裁きを受けることになるだろう。おそらく今日、神に仕える際、あなたはいつも神を欺こうという思いを抱いているかもしれない――しかし、神はそれでもあなたに気付くだろう。要するに、他の全てのことはさておき、あなたが神をだますと、情け容赦ない裁きがあなたの上に下されるだろう。あなたたちは神に仕えるための正しい道筋にちょうど入ったことを活かして、二心の忠誠ではなく、まず神に心を委ねるべきである。神の前であれ、他の人々の前であれ、あなたはいつも心を神の方に向けて、イエスのように神を愛する決心をすべきである。あなたが神の心にかなった神の僕となれるように、神はこのようにしてあなたを完全にする。あなたが本当に神によって完全にされることを望むなら、また、あなたの奉仕が神の心にかなうことを望むなら、神への信仰に関するこれまでの考え方を変え、これまでの仕え方を変えるべきである。そうすればあなたのもっと多くの部分が神によって完全にされるだろう。このように、神はあなたを見捨てず、ペテロのように、あなたは神を愛する人々の先頭に立つだろう。あなたが悔い改めないままでいるなら、ユダと同じ最後を迎えることになるだろう。これは神を信じるすべての人々が理解すべきことである。

2018年9月11日火曜日

【東方閃電】全能神の発表「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」

 受肉した神の働きは二つの部分から成る。最初に神が肉となった時、人々はそのこと知りも信じもせず、イエスを十字架につけた。二度目も、人々は神を信じないで、まして、知りもせず、またしてもキリストを十字架につけた。人間は神の敵ではないだろうか。もし人間が神を知らないのなら、どうして神の親しい友となれようか。また、どうして神を証しする資格を得られよう。神を愛し、神に仕え、神に栄光を捧げるとは言うが──それは人を欺く嘘ではないのか。もしそのような非現実的で実際の役に立たないことに自分の人生を捧げるなら、それは虚しい努力ではないか。誰が神であるか知らないで、どうして神の親しい友となれようか。そういう努力は漠然とした抽象的なものではないか。それは人を欺くものではないのか。どうして神の親しい友となれようか。神の親しい友となることの実際の意義とは何であろう。あなたは、神の霊の親しい友となることができるだろうか。あなたは、聖霊がどれほど偉大で崇高であるか、わかっているだろうか。目に見えず、触れることもできない神を深く知ること──それは漠然とした抽象的なものではないか。そのようなことを追求することに実際的な意義があろうか。それはみな嘘偽りではないのか。あなたは神の親しい友となることを追い求めながら、実際はサタンの言いなりになる子犬である。何故ならあなたは神を知らず、目に見ることも触れることもできない、自分の観念で作り出した、実在しない「あらゆるものの神」を追い求めているのだから。曖昧に言って、そのような「神」はサタンであり、実を言えば、あなた自身なのだ。あなたは自分自身の親密な友となることを求めているに過ぎないが、それでも神を深く知りたいと言う──それは神への冒瀆ではないのか。そんな努力にどんな価値があるのか。もし神の霊が肉にならないなら、神の実体は目に見えず、触れることもできないいのちの霊に過ぎない。形がなく不定形で、非物質的な存在であり、人間には近づくことも理解することもできない。そのような非物質的で不可思議で、はかり知れない霊の親密な友になどどうしてなれようか。それは冗談ではないのか。こんなばかげた理屈は根拠がなく非現実的だ。創造された人間は本質的に神の霊とは異なっている。そうならば、どうして両者が親密な友となることができようか。もし神の霊が肉として具現化されなければ、もし神が肉となって、へりくだり被造物にならなければ、被造物である人間には神の親しい友となる資格もなければその能力もない。また、魂が天国に入った後で、神の親しい友となる機会をもつかもしれない敬虔な信者を除いては、大方の人は、神の霊と親しくなることはできないだろう。それに、もし受肉した神の導きにより天にいる神の親しい友になりたいと願っているのなら、その人は驚くほど愚かな異生物ではないのか?人間は目に見えない神に「誠実」であろうとするだけで、目に見える神にはほんの少しも注意を払わない。目に見えない神を追い求めるのは実に簡単なのだから──人間は自分の好きなようにやるだろう。しかし、目に見える神を求めるのは、それほど容易なことではない。漠然とした神を求める人間は全く神を見出すことができない。何故なら漠然とした抽象的な物事は、すべて人間の想像の産物であって、人間には得ることができないものだからだ。もしあなた方のところに来た神が手の届かない崇高な神であり、近寄りがたい神であったなら、どうしてその意志を求められようか。また、どうして神を知り、神を理解できるのか。もし神が自分の働きをするだけで、人間と通常の接触を持たなかったら、あるいは、普通の人間性をもたず、普通の人間には近づき難いのなら、また、たとえあなた方のために多くの働きをしたとしても、まったく接触がなくあなた方には見ることもできないのなら、どうして神を知ることができるのか。もしこの本来の人間性を持った肉が存在しなければ、人間には神を知るすべは何もない。神の受肉があることによってのみ、人間はこの肉にある神の親しい友となる資格を与えられる。人間が神と親しい仲になれるのは、人間が神と接することができるからであり、人間が神と共に暮らし、共に交わり、徐々に神を知るようになるからだ。もしそうでなければ、人間の努力は無駄なのではないか。つまり、人間が神と親しくなることができるのは、神の業だけによるのではなく、受肉した神の現実性と正常性のためである。神が肉になることによってのみ、人間はその使命を果たす機会を得、真の神を礼拝する機会を得る。これこそ、最も現実的かつ実際的真理ではないか。さて、あなたはまだ天で神と親しくなりたいと思っているのだろうか。神がある程度まで自分を謙らせることによって、つまり、神が肉となる時、初めて人間は神の親友となれるのだ。神は霊的存在だ。それほど崇高で測り知れない霊と、どうして人間が親友として相応しくなれよう。神の霊が肉の中に下り、人間と同じ外観をした被造物になってはじめて、人間は神の意志を理解でき、本当に神のものとなれる。神は肉として語り、働く。喜びや悲しみ、人間の患難を共にし、人間と同じ世界に生き、人間を守り、人間を導く。神はそうして人間を清め、人間が救いと祝福を得られるようにする。これらのものを得て、人間は真に神の意志を理解し、そうなってはじめて、神の親友となれる。これだけが実際的なことだ。もし神が人間の目に見えず、触れることもできないのなら、どうして人間が神の親友になれよう。これは空虚な教義ではないか。

 今日、神への信仰において、多くの人はまだ漠然とした抽象的なものを追い求めている。そうした人々は、現在神が為している業の現実を知らず、まだ文字や教義の世界で生きている。そのうえ、ほとんどの者は、まだ「神を愛する新世代の人々」、「神の親友」、「神の愛の模範と型」、「ペテロの例」といった、新たな語句の表す現実に触れていない。それどころか、いまだに漠然とした抽象的なものを追い求め、教義をやみくもに探り回し、これらの言葉の現実性をまったく理解していない。神の霊が肉になる時、あなたはその働きを実際にその目で見、手で触れることができる。しかし、それでもまだ神と親しくなることができず、神の真の友になることができないのなら、どうして神の霊の親友になれるだろう。もし現在の神を知らないのなら、どうして神を愛する新世代の一員になれるだろう。それは空文であり虚しい教理ではないだろうか。あなたは聖霊を見、その意志を感じ取れるだろうか。それは空虚な言葉ではないのか。ただこうした語句や用語を口にするだけでは不十分だし、決意だけでは神の心にかなうことはできない。あなたは、こうした言葉をただ口にすることだけで満足しており、自分の欲求と、自分の非現実的な理想を満たし、自分なりの観念や考え方を満足させようとしているだけだ。今日の神を知らないのなら、あなたが何をしようと、神の心からの願望を満たすことはできないだろう。神の真の友であるということは、どういう意味だろうか。まだこのことが理解できないのか。神の親しい友は人間だから、神もまた人でなければならない。即ち、神が肉となり、人となったのだ。同類の者だけが互いを、心をゆるし合える友と呼び、親友だと言える。もし神が霊的存在なら、どうして被造物である人間が神の親しい友になれるのか。

 あなたの神への信仰、真理の探究、あなたの行動様式さえ、みな真理に基づいたものでなければいけない。あなたのすることはすべて実践的でなければならない。幻想や空想的な物事を求めてはいけない。そうした行動には何の価値もないし、さらに、そのような生き方には何の意味もない。なぜなら、あなたの追い求めるものや人生は、ほかならぬ偽りと欺きでしかないものの中で費やされ、価値や意義のあることを探求しないので、得るものはばかげた理屈や、真理ではない教理だけだからだ。そうしたことは、あなたの存在の意義や価値には何の関わりもなく、空しい状態に陥るだけだ。そうして、あなたの全生涯は何の価値も意義もないものになる──そして、もし有意義な人生を求めないのなら、たとえ百年生きたとしても、全てが虚しいだろう。どうしてそれを人生と言えるのか。それは、実際の所動物の一生ではないのか。同様に、あなた方が神への信仰の道をたどろうとしても、目に見える神を求めることを何もしないで、目に見えず、触れることもできない神を拝んでいるのでは、そうした努力はいっそう虚しいものではないか。結局、その努力は瓦礫の山となるだろう。そうした追求に何の益があるのか。人間の最大の問題は、見ることも触れることもできないもの、途方もなく神秘的で驚異的なもの、人間の想像を超えた、普通の人間には手の届かないものだけを愛する点だ。それが非現実的であればあるほど、人間はそれを分析し、他のものには目もくれずそれを追い求め、自分はそれを手にすることができるという幻想を抱く。それらが非現実的であればあるほど、ますます綿密に調べ、分析し、それらについて、自分なりのこと細かな考えを紡ぎだす。それに対して、物事が現実的であればあるほど、人間はそれらを素っ気なく扱う。ただそれらを見下し、蔑みさえする。これはまさに、あなた方がわたしのしている現実的な働きに対してとっている態度ではないのか。物事が現実的であればあるほど、あなた方は、ますます偏見を持つ。あなた方は、そういうものを調べる手間もかけず、ただ無視する。そうした現実的なありのままの条件を見下して、最も現実的である神について数多くの観念をもち、神の現実性と正常を受け入れることができない。そのようにして漠然としたものの中で信じているのではないか。あなた方は、過去の漠然とした神については揺るぎない信念を持っているが、今日の真の神には何の興味も示さない。それは、過去の神と現在の神とが二つの別の時代に属するからではないのか。それはまた、過去の神が天の崇高なる神であるのに対して、現在の神は地上のちっぽけな人間であるからではないのか。そのうえ、人間の崇める神は人間が頭で作り出した神であるのに対して、今日の神は地上で生まれた現実の肉だからではないか。結局のところ、人間が神を探求しないのは、今日の神は余りにも現実的であるからではないのか。何故なら、今日の神が人間に求めているのは、まさに、人間が最もしたくないこと、最も恥と思うことだからである。これは、人間にとって困難なことではないか。これは、人間の古傷をさらすことではないのか。このように、現実を追い求めない者は、受肉した神の敵、反キリストとなる。これが明白な事実ではないのか。神がまだ肉となっていない過去においてなら、あなたは信仰的な人物、あるいは敬虔な信者であったかもしれない。神が肉となった後、そうした敬虔な信者の多くは、自ら知らずして、反キリストになった。それがどういうことか、あなたに解かるだろうか。あなたの神への信仰においては、あなたは現実に焦点を合わせることをせず、真理を求めることもなく、偽りにとらわれているではないか──それが、受肉の神に敵意をもつ最も明白な原因なのではないか。受肉の神はキリストと呼ばれる。だから受肉の神を信じていない者たちはみな反キリストなのではないか。それで、あなたが信じ愛しているのは、ほんとうに、この肉なる神だろうか。それは確かに実在し極めて正常で、生き呼吸している神であるのか。厳密に何を、あなたは求めているのだろう。それは天か、それとも地か。それは観念か、それとも真理か。それは神なのか、それとも超自然の存在なのか。実際、真理とは、人生の格言の中でも最も現実に則しており、人類の全ての格言に勝るものなのだ。それは神が人間に要求すること、神が自ら為した業である。だから、「人生の格言」と呼ばれる。これは何かから要約された格言ではなく、また、偉人の有名な引用でもない。そのようなものではなく、これは天と地と万物の主から人間に告げたものであり、人間によって要約された言葉ではなく、神本来のいのちなのである。だからそれは、「至高のいのちの格言」と呼ばれるのだ。人間が真理を実践しようとする努力とは、自分の任務を遂行すること、つまり、神の要求を満たすために努力することなのだ。この要求の真髄は、最も現実的な真理であり、誰にも達成できない空虚な教理などではない。あなたの追求するものが何の現実性もない教理だけであるのなら、真理に反抗していることになるのではないか。あなたは真理を攻撃する者ではないのか。そのような人間がどうして神を愛することを追求できようか。現実性のない人々とは、真理に背く人々であり、みな生まれながらに反抗的なのだ。

 どのように追求しようと、何よりもまず、神が今日行なっている働きを理解し、この働きの意味を知っていなければいけない。あなたは、終わりの日に神が来る時、神がどんな働きをもたらすのか、どういう性質で来るのか、そして、人間の中に何が完成されるのかを理解し、知らなければならない。神が到来して行なう肉における業を知り、理解していなければ、どうして神の意志を求め、神の親しい友になれるのか。実際、神の親しい友になることは難しいことではないが、簡単なことでもない。人間は理解できれば、それを実行に移すことができる。この場合それは複雑ではない。理解できなければ、それははるかに難しい。さらに、人間には、漠然としたものの中に神を追い求めるという傾向がある。もし人間が神を求める時、自分のよって立つところがなく、自分が固持すべき真理を知らなければ、それは土台がないということであり、そのため、堅固に立つのは容易なことではない。今日、真理を理解しない者、善と悪の区別ができない者、何を愛し何を憎めばよいのか分からない者たちが大勢いる。そうした人々が、堅固に立つことなどありえない。神を信じる鍵は、真理を実行に移すこと、神の心を思いやり、神が受肉して来た時、神が人間に行なう業と、神の語る言葉の原則を知ることだ。大衆に従ってはならない。自分が何をなすべきかについて信条がなければいけない。そして、それを堅持することだ。神によって明示された、あなたの内にあるものを堅持することが、あなたの助けとなる。もしそうしなければ、あなたは今日は道を逸れて、明日は別の方向に逸脱し、本当のものは何も得られないだろう。これでは、あなたのいのちに何の益もない。真理を理解しない者はいつでも他人に従う。もし人が、これは聖霊の働きだと言うと、あなたもまた、これは聖霊の働きだと言う。もし人がこれは悪霊の仕業だと言うと、あなたもまた、疑惑を持つか、あるいは、それは悪霊の仕業だと言う。あなたはいつでも他人の言葉を物真似して繰り返すだけで、自分では何も識別できないし、自分の頭で考えることができない。それは、自分でものごとを区別できない、立脚点を持たない者である。このような人は価値のない惨めな人間だ。そうした人々は、いつでも他人の言葉を繰り返す。今日、これは聖霊の働きだと言われていても、いつの日にか、誰かがこれは聖霊の働きではなくて、人間の仕業に過ぎないと言う。しかし、あなたはそれを自分で見極める事ができず、他人がそう言うのを聞くと、同じことを繰り返して言う。実際は聖霊の働きであるものを、人間の働きだと言う。あなたは、聖霊の働きを冒瀆する者たちの一人となったのではないか。これは、物事の判断がつけられなくて神に敵対しているのではないか。いつの日か、どこかの愚か者がやって来て、「これは悪霊のしわざだ」と言うと、それを聞いたあなたは途方にくれて、またもや他人の言うことに縛られてしまうかもしれない。誰かが混乱を引き起こすようなことを言うたびに、あなたは自分の立脚点に固く立つことができなくなる。それは、真理を把握していないからだ。神を信じ、神に関する認識を追求するのは、容易なことではない。それは、ただ寄り集まって説教を聞くだけでは達成されないし、熱情だけでは完全になれない。あなたは、経験し、知り、原則に基づいて行動し、聖霊の働きを獲得しなければいけない。経験を積めば、多くのことを判別できるようになる──善悪、正邪、何が血肉によるもので何が真理によるものであるかを区別できるようになるだろう。あなたは、こうしたことの区別ができなければいけない。そうすれば、どういう状況にあっても、迷うことはないだろう。これのみが、あなたの真の基盤なのだ。神の働きを知ることは単純なことではない。あなたは、基準と目標をもって探究しなければいけない。あなたは、どのようにして真理の道を求めるか、何を基準にしてそれが真理の道かどうかを推し量るか、そして、それが神の業であるかどうか、ということを知らなければならない。真理の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、それが聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真理の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。受肉した神への信仰も、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真理の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は本来の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)本来の人間性すべてである。即ち、この道が人間を本来の人間性に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が本来の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを調べなければいけない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真理の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真理の道であると結論づけられる。わたしがこれらのことを述べるのは、あなた方の将来の経験において別の道を受け入れさせるためではなく、また、もうひとつ別の新時代の業が将来現れると予言するためでもない。わたしがこれらのことを述べるのは、あなた方が、今ある道が真理の道であると確信でき、今日の業をただ半信半疑で信じ、その業ついて不確かで見通すことができないようなことのないようにするためである。自分では確信を持ってはいても、まだ惑いの道を辿っている人々さえいる。そのような確信は信条に基づいたものではないから、彼らは遅かれ早かれ、除かれなければならない。とりわけ熱心に従っている者たちでさえ三割は確かだが、五割は不確かである。このことは、その人たちには基礎がないことを示している。あなた方の能力はあまりに貧弱であなた方の基礎が浅すぎるために、区別することがわかっていないのだ。神は同じ業を繰り返しはしない。現実的でない働きは行なわない。神は人間に過分な要求をしない。また、神は人間の理知の外にある業は行なわない。神が為す業はみな、人間の正常の理知の範囲内で行われ、本来の人間の理知の外には及ばない。また、神の働きは人間の正常な必要に沿ったものである。もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンに堕落させられた自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。あなた方は長年神を信じてきたが、それでも真理の道と偽りの道との違いを判別し、真理の道を探求するための原則についてほんの僅かの知識さえない。ほとんどの人々は、こうした事がらに興味を持ちさえしない。そういう人々は、ただ大多数が行く方へ行き、多数派の言うことを繰り返しているだけだ。どうしてこれが真理の道を探している者だと言えようか。どうして、そうした人々が真理の道を見いだせよう。もし、こうしたいくつかの重要な原則を把握したなら、何が起ころうと、あなたは欺かれることはないだろう。今日、人間が識別できることが肝要である。これは普通の人間が備えているべきもの、人間がその経験の中でも持っているべきものである。今日になっても自分が追い求めるものについて何も判別できず、人間的な理知がまだ成長していないのでは、人間はあまりに愚かで、その追求の努力は誤った、道を外れたものである。今日、あなたの追求にはわずかばかりの判別力もない。たしかに、あなたは、あなたが言う通り真理の道を見出したのかもしれないが、それを本当に自分のものにしているのだろうか。あなたは、何かを識別できているのだろうか。真理の道の本質とは何であるか。実のところ、あなたは真理の道を獲得してはいない。あなたは、何の真理も得ていない。つまり、神があなたに要求することを何も成し遂げていない。だから、あなたの堕落した状態に何の変化もない。そのような方法で追求し続けるなら、あなたは最終的には淘汰されるだろう。今日まで従ってきたならば、あなたは、自分がたどってきた道が正しいものであると確信しているべきで、もう疑問はないはずだ。多くの人は常に些細なことが原因で不確かで、真理を追求することをやめてしまう。このような人々は、神の働きについて何の認識も持っておらず、困惑しながら神に従っている者たちだ。神の働きを知らない人々は、神の真の友であることができず、また、神について証しすることもできない。祝福だけを求め、漠然とした抽象的なものだけを追い求めている者たちにわたしは忠告する。あなたの人生が意義あるものとなるように、できるだけ早く真理を追い求めなさい。もう自分を欺くのはやめなさい。