マタイ4:8~11)次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
悪魔であるサタンは、それまで2度の謀略に失敗したにもかかわらず、もう一度試そうとする。サタンは世界の全ての国々とその繁栄ぶりを主イエスに見せた上で、悪魔を拝むよう求めた。こうした状況から、悪魔の真の特徴について、何が分かるであろうか。悪魔であるサタンは完全に無恥ではなかろうか。(無恥である。)サタンはどれほどまで無恥であろうか。すべて神により造られたものであるにもかかわらず、逆にサタンはそれを神に見せて「これらの国々の繁栄を見よ。私を拝むならば、これをみんな与えよう。」と述べた。これは立場が逆ではなかろうか。サタンは無恥ではないだろうか。神は全てを造ったが、それは神の享楽のためであっただろうか。神は人間に全てを与えたが、サタンはそれを全て奪った上で、「私を拝め。私を拝むならば、これをみんな与えよう。」と述べた。これが、サタンの醜悪な顔である。サタンは完全に無恥であろう、そうではないか。サタンは「恥」という言葉の意味すら知らず、これはサタンの邪悪さの一例にすぎない。サタンは「恥」が何であるかすら知らない。サタンは神が万物を造り、それを管理し、支配していることを明らかに知っている。すべての物事が神のものであり、人間のものではなく、ましてやサタンのものではないが、それにもかかわらず悪魔であるサタンは、厚かましくも、そのすべてを神に与えようと述べた。ここでも、サタンは不合理で無恥な業を行っていないだろうか。神は一層サタンを忌み嫌うであろう、そうではないか。しかし、サタンが何をしようとしても、主イエスはそれに屈することはなかったのではなかろうか。(なかった。)主イエスは何と言ったであろうか。(「主なるあなたの神を拝し」。)この言葉には実際的な意味があるだろうか。(ある。)その実際的な意味とは、どのようなものであろうか。サタンの発言からは、サタンの邪悪さと無恥さが分かる。したがって、人間がサタンを拝んだとしたら、どのような結果となるであろうか。全ての国々の富と栄光を与えられるであろうか。(与えられないであろう。)それでは、何を与えられるであろうか。人間はサタンと同様に無恥で滑稽な存在になるのではないか。(そうなるであろう。)そうした人間は、サタン同然となるであろう。したがって、主イエスは、人間ひとりひとりにとって重要な言葉「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と述べた。この言葉は、主すなわち神自身ではない、悪魔であるサタンを拝んだとしたら、サタンと同じ不浄の中を転げ回ることとなると述べている。サタンを拝むと、人間の無恥と邪悪はサタンと同じものとなり、サタン同様に神を試し、攻撃するようになるであろう。その結果、人間はどうなるであろうか。その人間は神に嫌悪され、打たれ、破壊されるのだろう。そうではないか。サタンが主イエスを何回か試し、失敗した後、サタンは再度試したであろうか。サタンは再度試さずにその場を去った。それは何を証明するであろうか。それはサタンの邪悪な本性、悪意、ばかばかしさと不条理さは、神の前で述べる価値が無いということを証明している。なぜなら、主イエスは僅か3つの文によりサタンを敗北させたからであり、その後サタンは顔を見せるのも憚られるほど恥らい、慌ててしっぽを巻き逃げ去り、二度と主を試さなかったからである。主イエスがこのサタンの誘惑を打ち破った後、主が必要な業を実施し、任務に取りかかるのが容易になった。この場面における主イエスのあらゆる言葉と業には、現在に当てはめた場合、人間全員にとって実際的な意義があるであろうか。(ある。)その実際的な意味とは、どのようなものであろうか。サタンを打ち破るのは容易なことであろうか。(容易ではない。)それでは、その意義は何であろうか。サタンの邪悪な本性に関し、人間は明瞭に理解する必要があるであろうか。サタンの誘惑に関し、人間は正確に理解する必要があるであろうか。(ある。)あなたが自分の人生でサタンの誘惑を経験し、サタンの邪悪な本性を見抜けるとしたら、あなたはそれを打ち破ることができるであろうか。サタンのばからしさと不条理さを知っているとしたら、それでもサタンと共に神を攻撃するであろうか。(しないだろう。)サタンの悪意と無恥さが、自分自身を通して明示されているのを理解し、明確に認識し、知っているとしたら、あなたはそれでもこのように神を攻撃し、試すであろうか。(そのようなことはしないだろう。)あなたはどうするであろうか。(サタンに反抗してサタンを捨てる。)それは容易なことであろうか。(容易ではない。)それは容易なことではなく、そのために人間は頻繁に祈り、神の前に出て、自分自身について常に検討する必要がある。人間は神の訓練と裁き、刑罰に従う必要があり、そうすることによって始めて、人間はサタンの領域と支配から次第に解放されることができる。
サタンが述べた言葉から、サタンの本質を構成する物事を概括することができる。まず、サタンの本質は概して邪悪であり、それは神の聖さと対照を成す。わたしがサタンの本質が邪悪であると言う理由は何であろうか。それを知るためにはサタンの業の結果を検討する必要がある。サタンは人間を堕落させ、支配し、人間はサタンの腐敗した性質に従って行動し、サタンにより腐敗された世界で、腐敗した人々と共に生活する。多くの人々が無意識のうちにサタンにとりつかれ、吸収されているので、人間にはサタンの邪悪な本性がある。サタンの業と言葉の全てから、その傲慢さを知ることができ、狡猾さと邪悪さが理解できる。サタンの傲慢さは、主としてどのように示されるであろうか。サタンは常に神の地位を奪うことを望んでいるであろうか。サタンは、人々がサタンに従い、サタンを支持し、サタンを崇拝するよう、常に神の業と地位を崩壊させて自らがその座に就くことを望んでいるが、それがサタンの傲慢な本性である。しかし、サタンが人々を腐敗させる時、サタンは陰険で背信的な方法を採る。サタンが人間に業を行う場合、サタンは神を拒絶し、神に反逆する方法を直接的に人間に対して伝えない。サタンが神を試すとき、サタンは公然と「私はあなたを試し、攻撃する」と述べることは無いが、サタンはどのような方法を採るであろうか。(誘惑である。)サタンは誘惑し、試し、攻撃し、罠を仕掛け、さらには聖句を引用する。サタンは様々な言動と行動により邪悪な動機を実現させようとする。そうした言動や行動の後、人間に現れる事柄から分かることは何であろうか。人間は傲慢ではなかろうか。人間は数千年にわたってサタンの腐敗に苛まれてきたので、人間は傲慢になり、極めて高慢になり、狡猾で、邪悪で不合理になった、そうではないか。こうした物事は、全てサタンの本性によりもたらされたものである。サタンの本性は邪悪であるので、サタンは人間にこの邪悪な本性を与え、腐敗した邪悪な性質をもたらした。したがって、人間は腐敗した悪魔のような性質のなかで生活し、サタン同様に人間も神に反抗し、神を攻撃し、神を試し、その結果として神を拝まなくなり、心から神を敬うことが無くなった。そうではないだろうか。
神の聖さに関しては、親しみ深い主題ではあるが、一部の人々にとっては多少抽象的となり、内容が多少深すぎるかも知れない。これまでは人々が神の聖さを取り扱うことが滅多に無かったので、人々はその聖さを理解できない。しかし、あなたがたが神の聖さを理解するのをわたしが助けるので、心配は無用である。これについて理解するのはあなたがたにとって多少困難であることは承知しているので、最初に話しておきたい。ある人物のことを知りたいと思った場合は、その者の行動や行動の結果を観察すれば、その人物の本質を理解できるであろう。したがって、ここではその観点から神の聖さを伝えることにする。サタンの本質は邪悪と悪意であり、現在まで、サタンの人間に対する行動は、人間を限りなく腐敗させることであったと述べた。サタンは邪悪であるので、サタンが腐敗させる人間もまた邪悪であろう。「サタンは邪悪であり、サタンが腐敗させる人間が聖なる存在ではないだろうか」と言う者はいるであろうか。それは冗談であることに相違ないであろう。そもそも、そのようなことがあり得るのだろうか。(有り得ない。)したがって、そのように考えてはならない。ここでは、サタンは邪悪であり、それが本質であり事実であり、それは空虚な話ではない、という側面から話をする。ここではサタンを中傷しようとしているのではなく、単に真理と現実と、それに関連する事実について話をする。こうすることにより一部の人々や一部のグループの人々が傷付く可能性もあるが、こうすることに悪意は無い。あなたがたは、今この話を聞くと多少不快になるかも知れないが、近い将来、あなたがたがこのことに気づいた時、自己嫌悪に陥り、本日話したことが極めて有用であり、貴重であると感じるであろう。

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