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2019年5月1日水曜日

朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「神の働き、神の性質、そして神自身 3」 その8





朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「神の働き、神の性質、そして神自身 3」 その8 
全能神は言われた「主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における人生では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の慈しみがあり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。人間から見ると、復活した後に主イエスが行った業は、極めて小さなことであるものの、わたしから見ると、それら全てが有意義であり、貴重であり、またそうした業はすべて極めて重要である。」
『言葉は肉において現れる』より

2019年4月14日日曜日

福音書|イエスキリストが復活後に人の前に出現された意味は何か

    聖書にはこう記されています。「こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」(ルカ24:36–43)。


     私はこの聖句を読むと、いつもペテロやヨハネたちをうらやましく思います。イエスはユダヤでお働きになっているあいだ、常に昼夜を問わず弟子たちと共におられ、復活後は以前同様に彼らに目をかけられ、彼らの前に出現なさり、聖書を解説し、教えを与えられました。ペテロたちは幸運にも主によって弟子に選ばれ、自らの耳で主イエスの教えを聞くことができました。実に祝福されていたのです。その後、私は神の御言葉を読み、イエスキリストが復活後に人の前に出現されたことの背後には実は主イエスの御心があったということ、この行いには神の全能性と知恵が更に込められていることが分かりました。復活後の主イエスの出現は本当に意義深かったことが真に分かるようになったのです。


    神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、イエスキリストが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、イエスキリストが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    私は神の御言葉を読んで、イエスキリストが復活後四十日間人の前に出現されたことには意味が二つあることがようやく分かりました。一つは、神が律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始め、人類を新しい時代へと導かれると人に告げるためであったことです。もう一つの意味は、神がそうなさったのは、人々が主イエスは受肉された神ご自身だと確めることで神への信仰を強められるようにするためです。

    1.主イエスが復活し人の前に出現されたのは、人を新たな時代に導き、恵みの時代にしっかりと定着させるため

 主イエスは恵みの時代を開き、律法の時代を終えられました。主は「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)という道を示し、人々が神からの豊かな恵みを享受できるように、病人を癒し、悪霊を追い払い、足なえを歩かせ、盲人の目を治すなど多くの奇跡を行われました。しかし当時の人々は神の働きを知らず、イエスが神の受肉であることを真に理解していませんでした。主イエスが十字架につけられたとき、それは神が贖いの働きを終えられたことを意味していましたが、人々はそのことを全く知らなかったため、否定的で弱気になりました。そして主イエスの身分を疑い、神殿に戻って旧約聖書の律法を守り始める者もいました。

    このようにして、人々はなおも自らの罪のために律法によって死に定められる危険にさらされ、主イエスが人類を贖うために行なわれた働きは中途半端なままでした。主イエスは人の心の奥底を探り、人の必要と欠点を完全に理解されていました。それゆえ、主は復活後、先ず弟子たちの前に出現して語られ、彼らと実際に接触し、そのおかげで彼らには主が本当に死人の中から蘇り、人類を贖う働きを成し遂げて新たな時代を始められたことが分かったのです。その後、人類は律法を離れて新たな時代に入りました。それが恵みの時代です。

    主イエスの働きと言葉のお導きの下、人々は主の教え通りに実践し始め、十字架を負って主に付き従い、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)という主の教えを守りました。こうして彼らは天の国の福音を広め始め、万人が主イエスの御名を受け入れて主の救いを得ることができるように、主イエスの御名を証ししました。現在、主イエスの福音は全世界に広がっています。これは全てイエスが死人の中から蘇られた後に人の前にお姿を表された結果です。このことから、復活後の出現がどれほど意義深かったかが分かります。

     2.イエスキリストが復活後に人々の前に出現されたおかげで、人は主が神ご自身の受肉だと断定し、主への信仰を強めることができた

    神の御言葉にはこうあります。「受肉した主イエスが業を行っていた間、イエスに付き従う者の殆どが、イエスの身分やその言葉を完全に認識できなかった。イエスが十字架にかけられた時、イエスに付き従っていた者たちの態度は、何らかの期待であった。イエスが十字架に釘で打ち付けられたときから墓に入れられた時まで、人々の主に対する態度は、落胆であった。この時、受肉したイエスが言われた言葉に関し、人々の心は疑念から否定へと移り変わり始めていた。そして主が墓から出て、ひとりずつ人々の前に現れた時、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々の殆どが、否定から懐疑へと次第に変わっていった。主イエスがトマスにわき腹を手で触れさせた時、また復活した主イエスがパンを裂いて人々の前で食べた時、そしてその後人々の前で焼き魚を食べた時、そこで初めて人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け容れた。それは、人々の前に現れた、肉と血のある霊的存在が、その人々をひとり残らず夢から醒めさせたようであった、と言うことが出来るであろう。人々の前に立っている人の子は、永遠の過去から存在していた神であった。神には形も、肉と骨もあり、また長いこと人間と生きて食事をしていた。この時、人々は、イエスの存在は全くの真実であり、実に素晴らしいと感じた。また人々は大きな喜びと幸福にあふれ、同時に感極まった。イエスが再び現れたことにより、人々はイエスの謙遜を真に理解し、人間に対する近親さ、ひたむきな望みと愛情を感じることができた。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、自分が既にこの世を去ったかのように感じた。人々の心は、迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、愚鈍になっていたが、そうした人々の心は安息を得た。人々は、疑うことや落胆することを止めた。なぜなら、その時希望が生まれ、信じることのできるものが生まれたからである。人々の前に立っている人の子は、永遠に人々の味方となり、人々の堅固なやぐらとなり、常に存在する逃げ場となる。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    神の御言葉は、復活後の主イエスの出現のもう一つの意味も明らかにしています。主イエスは人のもとで受肉し、三年半のあいだ働きを行われ、多くの人が主の救いを受け入れて主に付き従います。しかしほとんどの人は主イエスがキリストであり、神ご自身であることを真に理解していませんでした。そのため、主イエスが十字架につけられようとしていたとき、彼らは一連の出来事が起こるのを見て、「主イエスは本当に神なのか。もしキリストで神ご自身なら、どうしてローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑された挙句、十字架にかけられるのだ」と心に疑問を抱いたのです。

    特に、主イエスが十字架につけられているとき、彼らは主に全く失望し、主が神の受肉であることを否定し、主が表された御言葉を否定しました。逆に、イエスは普通の人のように死に、生き残るはずがないと信じたのです。主イエスは人々がその程度の信仰しか持たず、主を知らなかったことも、主が十字架につけられたためにさらに多くの人が弱気になって意気消沈することもご存知でした。そのため主イエスは死人の中から蘇られた後、弟子たちと接触して彼らに語りかけ、聖書を解説し、彼らと親しく交わり、食事を共にし、トマスにご自身の手と脇を触らせるといったことをなさいました。

    イエスキリストが復活後に語られた御言葉と行われた御業から、弟子たちはイエスが本当に復活されたと断定し、「この方こそ、以前我々と食事をし、同じ住処で生活を共にされたあの主だ。我々に説教し、養い、導いてくださったあの主であり、以前のように愛してくださるのだ」と悟り、「主は我々のことを気づかってくださり、我々のもとを離れられたのではなく、我々のすぐ側に一緒にいてくださっている」とも確信しました。主イエスは神ご自身の受肉であり、永遠なる御方、人の永遠の支え、人の強き塔であり避難所だったのです。

    主イエスは十字架につけられても、死後の鍵の番人であり、蘇る力を持っておられました。なぜなら神ご自身だったからです。以後、人々はもはや迷いも戸惑いもせず、もはや主イエスを疑わず、むしろ心の底からイエスを信じ頼ることができました。これは全て、主イエスが死人の中から蘇られた後に弟子たちの前に出現し、彼らと語られた結果です。

    主イエスの復活後の出現のこれら二つの意味から、私は主はそのような形で出現することで人々の心を目覚めさせ、そのおかげで私たちは神の配慮と愛を経験できるのだとやっと悟りました。このような配慮と愛は単なる伝説ではなく、事実なのです。また、このことから神が私たちを親類のようにみておられることも認識できます。神はいつも人と共におられ、私たちから離れられたことがありません。なぜなら、ご自身のものにするために私たちを創られたのであり、私たちが御言葉を聞いて神に従い、絶対的に崇拝し、神と心を一つにすることを望まれているからです。

    ですから、主イエスが肉となって働きを行い、御言葉を語られたときも、復活後に霊として人の前に出現されたときも、常に人類を思い、特にご自身に付き従う者たちを気づかわれました。なぜなら人には罪を克服する能力がなく、神の導きも真理の施し供給なしには、自らの堕落を脱して神の真の救いを得る術がないからです。私たちは誤解して、神が贖いの働きを終えた後に私たちを離れ、それ以降もう私たちに何の注意も向けられなかったと信じていますが、事実は、私たちの想像通りではないのです。

    主イエスは人類を贖う働きを成し遂げられましたが、人を離れられたわけではありません。主イエスは今も以前と同様に人と共におられ、私たちを気づかい、養い、導いてくださっています。主イエスはいざという時に私たちを助けて支えてくださり、どのように出現されても、いつも私たちと共におられます。それはまさに神の御言葉通りです。「主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における人生では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の慈しみがあり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    実は、主イエスを信じる私たち一人ひとりにとって明白なのは、神への信仰の道において、いつ金や名声や富などの誘惑に遭遇しても、主は私たちを守ってくださり、誘惑を避けて克服することができるようにしてくださるということです。私たちがいつ挫折や失敗に遭遇しても、主は御言葉で導き、信仰と力を与え強くしてくださいます。私たちが生活の中で困難に遭遇しても、主は常にまさかの時の助けであり、道を開いてくださいます。私たちが試練で苦しんでも、主の御言葉が十分に照らして導いてくださるおかげで、私たちは神の御心を理解し、霊における平安と喜びを感じることができるのです。神が側にいて毎日を私たちと共にいて導いてくださるおかげで、真理を理解し、御心を理解できるようになると本当に実感できます。

    私は主の愛に深く感動し、なぜイエスキリストが復活後四十日間、人の前にお姿を表わし、弟子たちの前で食事をし、聖書を語り、彼らと親しく交わり、弟子たちにいくつもの要求を告げるといったことをなさったかがよく分かるようになりました。主イエスが言われ、なされたことの一つひとつが大いなる配慮と思慮に満ち溢れており、主の業は全て非常に意義深いものだったのです。今私は、神の御言葉を読むことで、復活後の主イエスの出現をより深く理解しています。神に感謝します。

2019年2月12日火曜日

終わりの日のキリストの語られる言葉 「神の働き、神の性質、そして神自身 1」 その4



全能神は言われます「神は虹を用いて人間との契約を結んだが、神はなぜそうしたのか、なぜその契約を打ち立てたのかを誰にも言っていない。つまり、神は自身の本当の考えを誰にも話していない。それは、神が自らの手で創造した人間への愛の深さを真に知ることができる者は一人としておらず、そして人間を滅ぼした時にどれほどその心が痛み、苦しんだかを理解できる者はいないからである。したがって、神がたとえ自分がどのように感じるかを人間に伝えたとしても、彼らにはその信頼を受け止めることができないのである。痛みを感じているにも関わらず、神は次の段階へと自身の働きを進める。神は全ての苦しみを静かに負いながらも、人間には自身の最善の側面を与え、最善のものを与えてくれる。神は決してこれらの苦しみを広く打ち明けることはない。むしろ、神はそれらに耐え、静かに待つ。神の忍耐は冷たくはなく、無感覚なものでもなく、無力なものでもなく、弱さの印でもない。それは神の愛と本質が無私であるという印である。これは神の本質と性質の自然な現れ、そして創造主なる神の身分を真に具現化したものである。」

2018年9月2日日曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉の抜粋「神の性質と神の業の結果を知る方法」8

 人間の結末を決定するのは誰か

 重要度が最も高い部類に入る事柄がもう一つある。それは、あなた方の神に対する姿勢である。この姿勢は極めて重要である。この姿勢により、あなた方が最終的に滅びへ向かうか、神があなた方のために計画した美しい終着点へ向かうかが決定される。神の国の時代においては、20年以上にわたり、既に神は業を行っている。その20年間において、おそらくあなた方は、自分の実績について、心中に疑問があるであろう。しかし、神の心の中では、あなた方各人について、実際に正確な記録を取っている。各人が神に付き従い、神の説教を聞き始めた時から始まり、更に真理を理解するようになり、自らの本分を果たす時まで、神はそうした各人の示した事柄全てを記録している。ある者が自分の本分を尽くした時、あるいは様々な難しい状況や試練に遭遇した時、その者の姿勢は、どのようなものであろうか。この者は、どう行動するであろうか。この者は、心の中で、神に対して、どう感じるであろうか。神は、そうしたすべてを考慮し、記録している。あなた方の立場から見ると、これらの問題は難解かも知れない。しかし、神の立場から見ると、それは全て明瞭であり、いいかげんな部分は少しも無い。これは、各人の結末や運命、将来の見通しが関係する問題である。さらに、この問題は、神が自らの献身的努力の全てが注がれる問題である。従って、神は少しも怠ることは無く、ほんの僅かな不注意も許さない。神はこの人類の調書を記録し、神に従う人間の最初の時から終わりの時に至る調書を記録している。この期間におけるあなた方の神に対する姿勢により、あなた方の運命が決定される。これは真実ではなかろうか。現在まで、あなた方は神が義であると信じているであろうか。神の業は適切であろうか。あなた方は、依然として別の姿の神を頭の中で考えているであろうか。(考えていない。) それならば、人間の結末を定めるのは、神であろうか、それとも人間自身であろうか。(神が定められるものである。)誰が結末を定めるであろうか。(神である。)あなた方は、そのことを確信しているであろうか。香港の教会の兄弟姉妹の意見を聞こう。それを定めるのは誰であろうか。(それは人間自身が定める。)それは人間自身が定めるというのか。それは、人間の結末が神と無関係だということではなかろうか。韓国の教会の方々の意見を聞こう。(人間の結末は、人間の行動全てと、歩んで来た道に基づいて神が定められる。)それは非常に客観的な答えである。ここで、あなた方全員に伝えなければならないことがある。それは、神の救いの業の過程において、神は人間に対して基準を設定する。この基準とは、人間が神の言葉に従い、神の道を歩むことである。人間の結末を計る基準は、この基準である。この神の基準に従って実行した場合、良い結末が得られ、そうでない場合は、良い結末は得られない。それでは、この結末を定めるのは誰であるとあなた方は言うだろうか。それは神が単独で定めるのではなく、神と人間が共に定めるものである。それは正しいだろうか。(その通りである。)それは何故であろうか。それは、人間の救済に着手し、美しい終着点を計画することを希望しているのは、神であり、人間は神の業の対象であり、その結末と終着点は神が人間のために計画するものだからである。神の業の対象が存在しなかったならば、神は業を行う必要が無かった。神が業を行わなかったとしたら、人間には救いの機会が無い。救いの対象は人間であり、人間はその過程で受動的立場にあるが、神による救いの業が成功するか如何を決定するのは、この人間の立場の姿勢である。神があなたに与える、神の導きが無ければ、あなたは神の基準を知る事が出来ず、したがってあなたは目標が無くなってしまう。あなたにこの基準と目的があり、しかしあなたが協力せず、実践せず、代償を払わなかった場合、依然としてその結末を得られないであろう。これが、この結末が神と不可分であり、人間とも不可分であると言う理由である。これで、あなた方は人間の結末は誰が決めるかを理解したであろう。

 人間には経験に基づいて神を定義する傾向がある

 神を知ることに関する事項を伝えている時、気付いたことはあるだろうか。現在における神の姿勢に変化があったことに気付いたであろうか。神の人間に対する姿勢は変化しないものであろうか。神は常にそのように寛容で、神の愛と憐れみの全てを無制限に人間に与えるであろうか。この問題には、神の本質も関与する。以前にも話をした、放蕩息子と呼ばれる話の質問をもう一度検討する。この質問に対するあなた方の回答はそれほど明確では無かった。つまり、あなた方は、神の趣意を十分に理解していないということである。神が人類を愛されていることを知った後、人間は、神を愛の象徴として定義する。人間の行動、態度、人間が神をどう扱うか、人間がどれほど不従順であるかを問わず、神には愛があり、神の愛は無限であり、計り知れないので、そうした事は問題にならない。神には愛があるので、人間に対して忍耐できる。神には愛があるので、人々に対してそして人々の未熟さに対して憐み深くあることができ、人間の無知さそして不従順に対して憐み深くあることができる。本当にそれが実状であろうか。一部の人々にとって、神の寛容さを1回ないし複数回経験した時、人間は神に関する独自の認識のなかで、それを重要視し、神は永遠に寛容であり、憐れみ深くあると考え、人生を通して、その寛容さが、神が人間を取り扱う基準であるとみなす。神の寛容さをひとたび経験した時、神は寛容であり、その寛容さは無限で無条件であり、全く原則は無い、と恒久的に定義する人々もいる。こうした考えは正しいであろうか。神の本質や神の性質に関する事項を議論する時、あなた方は毎回混乱しているようである。あなた方がそのような状態であるのを見ると、少し腹が立つ。あなた方は、今までに神の本質に関して多の真理を聞き、神の性質に関しても、数多くの事項について話を聞いてきた。しかし、あなた方の心の中では、こうした諸問題や、それらの側面に関する真理は、理論と文書に基づく記憶でしかない。あなた方のうち、神の性質が何であるかを実生活で体験したり、神の性質が何かを理解したり出来るものはいない。したがって、あなた方は全員、その信仰において思考が混乱し、盲目に信仰した結果、神に対して不適切な姿勢を取るようになり、神を払いのけるようになった。あなた方の神に対するこうした姿勢は、どのような結果を招くであろうか。その結果、あなた方は神に関することを常に結論付けることになる。あなた方は、多少の認識知識を得ると、それに大いに満足し、神の全てを得たような気分になる。その後は、神がそのような存在であると決めつけ、神が自由に動けないようにしてしまう。神が何か新しい業を行った時は、それが神であることを決して認めない。やがて、神が「わたしはもはや人間を愛していない。今後人間には憐れみを与えない。今後は人間に寛容さや忍耐をもって接しない。わたしは人間に対する極度の嫌悪感と反感に満たされている」と言った時、人間はそうした発言に心の底から対抗する。一部の人々は「あなたはもはや私の神ではなく、私が付き従いたい神ではない。あなたがそのような発言をするのであれば、あなたは私の神の資格を失い、私はあなたに付き従う必要はない。あなたが憐れみや愛、寛容さをくださらないのであれば、私はもはやあなたに付き従わない。あなたが私に対して常に制限無く寛容であり、忍耐深くあり、また、あなたが愛であること、寛容であること、そして忍耐深くあることを私に示された場合のみ、私はあなたに付き従うことが可能であり、あなたに最期まで付き従う確信を持つことができる。あなたの寛容さと憐れみを与えられているので、私の不従順や侵害は無制限に赦され、無制限に見逃され、私はいつでも、どこでも罪を犯し、いつでもどこでも罪を告白して赦され、いつでもどこでもあなたの怒りを買うことができる。あなたは、私の結末を決めたり、自分自身の考えを持ってはならない。」とさえ言うであろう。あなた方は、このような疑問についてそこまで主観的かつ意識的に考えないかも知れないが、神を自分の罪を赦すための道具や、美しい終着点を得るための存在とみなす時、あなたはいつのまにか、生きる神を、あなたに対抗する存在、あなたの敵としてしまっている。わたしはそう理解している。あなたは、引き続き「私は神を信じる」「私は真理を求めている」「私は自分の性質を変えたい」「私は闇の影響から解放されたい」「私は神に満足してほしい」「私は神に服従したい」「私は神に忠実であり、自分の本分をしっかり尽くしたい」などと言うかも知れない。しかし、あなたの言うことがどれほど好感の持てるものであったとしても、あなたがどれほど理論に通じていたとしても、その理論がどれほど印象深いものであったとしても、どれほど高潔であったとしても、実際には、自分が身に付けた規則、教義、理論を使い、神に関する結論を導き出して、何の違和感も無く神を自分に反対する存在としまっている。あなたは文書や教義を身に付けていたとしても、本当に真理の現実に入っていないので、神に近付き、知り、理解することは極めて困難である。これは極めて哀れである。

 わたしは、ビデオで、ある場面を見たことがある。その場面では、数名の姉妹が『言葉が肉において現れる』の書籍を高く掲げていた。これらの姉妹は、この書籍を自分達の中央に、自分達の頭よりも高く掲げていた。これは単なる映像であるが、その映像により、わたしの中で喚起された事は、映像では無い。むしろ、その映像でわたしが考えたことは、人々が心の中で高く掲げているのは、神の言葉ではなく、神の言葉が記された書籍である、ということである。それは極めて憂鬱なことである。そのような実践のしかたは、神を高く掲げることでは無い。それは、あなた方が神を理解していないので、極めて明瞭な、些細な疑問に対して、自分自身で答えを考え出さなければならないことが原因である。わたしがあなた方に対し、何かを真剣に質問する時、あなた方は自分の予想や自分自身の想像で答え、疑念のある口調で、わたしに質問を返す者もいる。これにより、あなた方が信じる神が真の神ではないと、わたしは一層はっきりと確信する。神の言葉を長年にわたり読んで来たあなた方は、神の言葉や業、そして更に多くの教義を用いて、再び神に関する結論を出す。さらに、あなた方は神を理解しようとしたことはなく、神の趣意を理解しようとしたこともなく、神の人間に対する姿勢や、神がどのように考えるか、神が悲しむのは何故か、神が怒るのはなぜか、神が人間を拒否するのは何故かなどの疑問を理解しようとしたことが無い。また、それ以上に多くの者が、神は人類の行動を観察しているのみであり、神は人間に対していかなる姿勢を取ることも無く、神が神自身の考えを持つことも無く、したがって神は常に沈黙していると考えている。それとは別に、一層深刻な行動を取る部類の人々もいる。この部類の人々は、神は黙って従っているので何も発言しないと信じている。神は待っているために何も発言しない、神はこれといった姿勢がなく、神の姿勢は既に書物で説明されていて、人間に対して完全に示されていて、何度も繰り返し人間に伝えられる必要はないので、神は発言しないと信じている。神は黙しているものの、依然として神には姿勢があり、観点があり、人間に対して要求する基準を持っている。人間は神を理解し、神を求めようとしないものの、神の姿勢は極めて明瞭である。かつて熱狂的に神に付き従っていたが、ある時点で神を捨て去った者がいたとする。その者が、今神の許へ戻りたいと思った場合、驚いたことに、あなた方は神がどのような見方をするか、どのような姿勢を取るかを知らない。これは痛ましいことではなかろうか。実際には、これは極めて表面的な事である。あなた方が神の心を真に理解したならば、そうした者に対する神の姿勢を知り、あなた方が曖昧な回答をすることは無いであろう。あなた方はそれを知らないので、わたしがあなた方に知らせたい。

2018年8月30日木曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉の抜粋「神の性質と神の業の結果を知る方法」7

 神の姿勢を理解し、神に関する誤解を全て解消すること

 あなた方が現在信仰している神について、その神がどのような存在であるかを考えたことがあるであろうか。神が邪悪な者が邪悪な事をしているのを見た場合、神はそれを嫌悪するであろうか。(嫌悪される。)無知な人々の過ちを神が見た時、神の姿勢はどのようなものであろうか。(悲しみである。)人々が捧げ物を盗むのを神が見た時、神の姿勢はどのようなものであろうか。(その人々を嫌悪される。)それは至って明白であろう。神への信仰において不注意であり、真理を全く追究していない者を神が見た場合、神の姿勢はどのようなものであろうか。あなた方は、これについて明確に理解していないであろう。不注意な姿勢は罪では無く、また神の怒りを買うものでもない。人間は、不注意が重大過失では無いものと考えている。それでは、神の姿勢はどのようなものだと思うであろうか。(神はそれに応じることを望まない。)神はそれに応じることを望まない、というのは、どのような姿勢であろうか。神はそうした人々を見下し、さげすむということである。神はそうした人々を冷遇する。神は、こうした人々を放置し、こうした人々に対して導き示すこと、照らすこと、懲らしめること、訓練することなど、一切の業を行わない。この種の人々は、神の業の対象から除外されている。神の性質を怒らせ、神の行政命令に反する者に対し、神はどのような姿勢をとるであろうか。その姿勢は、極度の嫌悪である。神は、神の性質を侵害する者に対し、極度に怒る。「怒り」は単なる感情ないし気持ちであるので、明白な姿勢となって現れない。しかし、この感情ないし気持ちにより、その者の結末が決定される。その結末は神を極度の嫌悪で満たす。こうした極度の嫌悪の結果はどのようなものとなるであろうか。それは、神はその者を見捨て、暫くその者に応じなくなるという結果となる。神は、懲罰の期間にその者が懲らしめを受けるのを待つ。それは何を暗示するであろうか。その者には、依然として結末があるであろうか。神には、そのような者に結末を与えるつもりはが無い。したがって、現在、神がそうした者に応じないのは、普通のことではなかろうか。(その通りである。)このような者は、その場合にどのような準備をする必要があるであろうか。こうした者は、自分の態度と、邪悪な行いに起因する望ましくない結果を受ける準備をする必要がある。それが、こうした人々に対する神の姿勢である。そうしたわけで、わたしはそのような者にはっきりと言っておくが、妄想を捨て、楽観視しないようにすること。神は、人間に対して無限に寛容ではなく、また人間の侵害や犯行を無限に堪え忍ぶことは無い。一部の人々は「自分もそうした人々を知っている。そうした人々は、祈りを捧げる時、ことさらに神に感激し、大いに涙を流す。通常、そうした人々は極めて機嫌が良く、そうした人々には神の存在や導きが与えられていると思われる」と言う。そのような戯言を言わないように。大いに涙を流しているのは、必ずしも神に感激することでも、神が存在することでも無く、ましてや神の導きでは無い。神に対して人間が怒りを買った場合、それでも神は人間を導くであろうか。要するに、ある者を神が排除し、見捨てることに決定した場合、その者には既に結末が無い。その者が祈りを捧げている時にどれほど自己満足しているか、その者の心にある神にどれほど確信があるかは、無関係であり、既に重要ではなくなっている。重要な事は、神にはそのような確信は無用で、神が既にその者を拒否したということである。その後に、その者をどのように取り扱うかも、重要では無い。重要な事は、この者が神の怒りを買った時、その者の結末は既に決定されている、ということである。神がそうした者を救わないと決定した場合、そうした者は置き去りにされ、罰せられる。それが神の姿勢である。

 愛は神の本質の一部であり、また神は全ての人間に憐れみを与えるが、神の本質が威厳でもあることを人間は軽視し、忘れてしまう。神に愛があることは、人間が自由に神に反することが可能であり、神には感情も反応も無い、ということではない。神に憐れみがあることは、神による人間の取り扱いに原則が無い、ということではない。神は生きており、現実に存在する。神は想像上の操り人形などでは無い。神は存在するので、人間は神の心の言葉を注意して聞き、神の姿勢に注意し、神の感情を理解する必要がある。人間は、人間自身の想像により神を定義したり、人間が神に関して思うことや望むことを神に強制したり、神に人間の流儀で人間の取り扱いかたを考えさせたりしてはならない。そのようなことをするというのは、あなた方は神の怒りを買い、神の怒りを試し、神の威厳を挑発しているに等しい。したがって、あなた方がこの問題の重要性を理解した後は、あなた方全員が自分の行動に注意し、用心することを勧める。自分の言葉に注意し、用心すること。あなた方が神をどのように取り扱うかについて、注意し、用心すればするほど良い。神の姿勢が分からない場合、不注意に発言したり、行動したり、レッテルを貼ったりしないこと。更に、みだりに結論を出さず、待つことと求めることが必要である。それもまた、神を畏れ、悪を避けることの現れである。あなたが、まずその点を実現し、そうした姿勢を取ることが出来れば、神はあなたの愚かさや無知さ、不合理さを咎めることは無いであろう。むしろ、神の怒りを買う事に対するあなたの畏れ、神の趣意に対するあなたの敬い、喜んで神に服従しようとするあなたの気持ちのおかげで、神はあなたに留意し、あなたを導き示し、あるいはあなたの未熟さと無知さに寛容になるであろう。それに対し、あなた方の神に対する姿勢が不適切である場合、すなわち勝手に神を裁いたり、神の意味を推測したり定義したりした場合、神はあなた方に有罪判決を下し、鍛錬、そして懲罰さえも与え、あるいは声明を与えるであろう。おそらく、この咎めには、あなたの結末が含まれているであろう。したがって、ここにいるあなた方全員に対して、この点をもう一度強調するが、神に由来する物事全てについて、注意し、用心するよう伝える。不注意な行動や言動は避けること。あなたは、発言する前に、この行動は神の怒りを買うであろうか、これは、神を畏れているであろうか、と考える必要がある。たとえ単純な事柄であっても、こうした疑問を検討し、考慮する必要がある。あなたが、全てのことにおいて常に、特に自分が知らない事柄に関し、あらゆる点でこうした原則に従って真に行動できるのであれば、神は常にあなたを導き、あなたに進むべき道を伝えるであろう。人間が何を表現しているかを問わず、神はそれらを全て明確にそのまま理解し、表現されたものを正確かつ適切に評価するであろう。最期の試練を経験した後、神はあなたの行動を検討し、それらを完全に概括し、あなたの結末を決定する。この結果は、あらゆる者にとって何の疑いもなく納得できるものであろう。わたしが述べたいのは、あなた方のあらゆる行動や考えが、あなた方の運命を決める、ということである。

2018年8月28日火曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「神の本質は全能で実際的である」


Ⅰ
神は実際に業を行う間
その性質と自分の全てを表す
神の全能性は
人ができない業を行うことに示され
その実際性は
神がその業を自ら為すことに示される
神は全能で実際的である
神の言葉は全能の力とともにあり
神は権威とともにある
神が言ったことは実現する
神が話す時、結果よりも前にその全能性が現れる
心に留めよ
神の本質は全能で実際的
これらは互いに強め合う
神の業は神の性質と神とは何かを示す
神の存在には、全能と義と威厳がある
Ⅱ
律法の時代にある出来事があった
神はヨナにニネベへ行くよう命じた
その時、神の実際性がこのようにして示された
ヨナは神から受けた命令を拒否し
彼は大魚に飲み込まれた
しかし彼は
そこで3日間、死なずに生き延びた
神はヨナにしたことで全能であることを示した
神はいつもその業で自分の性質と自らの全てを示す
Ⅲ
神はふたつの本質を持つ
それは全能と実際的であること
それらはあらゆる神の業の段階と
神が為すことのあらゆる点に見ることができる
これが神を知る道のひとつ
心に留めよ
神の本質は全能で実際的
これらは互いに強め合う
神の業は神の性質と神とは何かを示す
神の存在には、全能と義と威厳がある
神の存在には
義と威厳がある
義と威厳がある
『言葉は肉において現れる』より