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2019年4月24日水曜日

終わりの日のキリストの語られる言葉 「神の働き、神の性質、そして神自身 3 」 その1 パート2





終わりの日のキリストの語られる言葉 「神の働き、神の性質、そして神自身 3」 その1 パート2
全能神は言われます「神は、人間を経営し救うことが、何よりも重要であると考える。神はこうした業を、自身の考えのみで行うのでもなく、また言葉のみ行うのでもなく、とりわけ何気なく行うのではない。神は、こうした業のすべてを計画に基づき、目的をもって、基準を定め、神の旨にしたがって行う。こうした人間を救う業は、神と人間の両方にとって極めて重要であることは明白である。業がいかに困難であったとしても、障害がいかに大きかったとしても、人間がいかに弱かったとしても、あるいは人間の反逆心が強かったとしても、神にとっては、そのいずれも困難とはならない。神は絶え間なく努力を続け、神が行う意向である業を経営する。また、神はすべてを計画し、すべての人間と、神が完了させたいと望むすべての業を経営しているが、そうした業はそのいずれも嘗て行われたことがない。」
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2019年4月14日日曜日

福音書|イエスキリストが復活後に人の前に出現された意味は何か

    聖書にはこう記されています。「こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」(ルカ24:36–43)。


     私はこの聖句を読むと、いつもペテロやヨハネたちをうらやましく思います。イエスはユダヤでお働きになっているあいだ、常に昼夜を問わず弟子たちと共におられ、復活後は以前同様に彼らに目をかけられ、彼らの前に出現なさり、聖書を解説し、教えを与えられました。ペテロたちは幸運にも主によって弟子に選ばれ、自らの耳で主イエスの教えを聞くことができました。実に祝福されていたのです。その後、私は神の御言葉を読み、イエスキリストが復活後に人の前に出現されたことの背後には実は主イエスの御心があったということ、この行いには神の全能性と知恵が更に込められていることが分かりました。復活後の主イエスの出現は本当に意義深かったことが真に分かるようになったのです。


    神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、イエスキリストが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、イエスキリストが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    私は神の御言葉を読んで、イエスキリストが復活後四十日間人の前に出現されたことには意味が二つあることがようやく分かりました。一つは、神が律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始め、人類を新しい時代へと導かれると人に告げるためであったことです。もう一つの意味は、神がそうなさったのは、人々が主イエスは受肉された神ご自身だと確めることで神への信仰を強められるようにするためです。

    1.主イエスが復活し人の前に出現されたのは、人を新たな時代に導き、恵みの時代にしっかりと定着させるため

 主イエスは恵みの時代を開き、律法の時代を終えられました。主は「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)という道を示し、人々が神からの豊かな恵みを享受できるように、病人を癒し、悪霊を追い払い、足なえを歩かせ、盲人の目を治すなど多くの奇跡を行われました。しかし当時の人々は神の働きを知らず、イエスが神の受肉であることを真に理解していませんでした。主イエスが十字架につけられたとき、それは神が贖いの働きを終えられたことを意味していましたが、人々はそのことを全く知らなかったため、否定的で弱気になりました。そして主イエスの身分を疑い、神殿に戻って旧約聖書の律法を守り始める者もいました。

    このようにして、人々はなおも自らの罪のために律法によって死に定められる危険にさらされ、主イエスが人類を贖うために行なわれた働きは中途半端なままでした。主イエスは人の心の奥底を探り、人の必要と欠点を完全に理解されていました。それゆえ、主は復活後、先ず弟子たちの前に出現して語られ、彼らと実際に接触し、そのおかげで彼らには主が本当に死人の中から蘇り、人類を贖う働きを成し遂げて新たな時代を始められたことが分かったのです。その後、人類は律法を離れて新たな時代に入りました。それが恵みの時代です。

    主イエスの働きと言葉のお導きの下、人々は主の教え通りに実践し始め、十字架を負って主に付き従い、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)という主の教えを守りました。こうして彼らは天の国の福音を広め始め、万人が主イエスの御名を受け入れて主の救いを得ることができるように、主イエスの御名を証ししました。現在、主イエスの福音は全世界に広がっています。これは全てイエスが死人の中から蘇られた後に人の前にお姿を表された結果です。このことから、復活後の出現がどれほど意義深かったかが分かります。

     2.イエスキリストが復活後に人々の前に出現されたおかげで、人は主が神ご自身の受肉だと断定し、主への信仰を強めることができた

    神の御言葉にはこうあります。「受肉した主イエスが業を行っていた間、イエスに付き従う者の殆どが、イエスの身分やその言葉を完全に認識できなかった。イエスが十字架にかけられた時、イエスに付き従っていた者たちの態度は、何らかの期待であった。イエスが十字架に釘で打ち付けられたときから墓に入れられた時まで、人々の主に対する態度は、落胆であった。この時、受肉したイエスが言われた言葉に関し、人々の心は疑念から否定へと移り変わり始めていた。そして主が墓から出て、ひとりずつ人々の前に現れた時、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々の殆どが、否定から懐疑へと次第に変わっていった。主イエスがトマスにわき腹を手で触れさせた時、また復活した主イエスがパンを裂いて人々の前で食べた時、そしてその後人々の前で焼き魚を食べた時、そこで初めて人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け容れた。それは、人々の前に現れた、肉と血のある霊的存在が、その人々をひとり残らず夢から醒めさせたようであった、と言うことが出来るであろう。人々の前に立っている人の子は、永遠の過去から存在していた神であった。神には形も、肉と骨もあり、また長いこと人間と生きて食事をしていた。この時、人々は、イエスの存在は全くの真実であり、実に素晴らしいと感じた。また人々は大きな喜びと幸福にあふれ、同時に感極まった。イエスが再び現れたことにより、人々はイエスの謙遜を真に理解し、人間に対する近親さ、ひたむきな望みと愛情を感じることができた。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、自分が既にこの世を去ったかのように感じた。人々の心は、迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、愚鈍になっていたが、そうした人々の心は安息を得た。人々は、疑うことや落胆することを止めた。なぜなら、その時希望が生まれ、信じることのできるものが生まれたからである。人々の前に立っている人の子は、永遠に人々の味方となり、人々の堅固なやぐらとなり、常に存在する逃げ場となる。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    神の御言葉は、復活後の主イエスの出現のもう一つの意味も明らかにしています。主イエスは人のもとで受肉し、三年半のあいだ働きを行われ、多くの人が主の救いを受け入れて主に付き従います。しかしほとんどの人は主イエスがキリストであり、神ご自身であることを真に理解していませんでした。そのため、主イエスが十字架につけられようとしていたとき、彼らは一連の出来事が起こるのを見て、「主イエスは本当に神なのか。もしキリストで神ご自身なら、どうしてローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑された挙句、十字架にかけられるのだ」と心に疑問を抱いたのです。

    特に、主イエスが十字架につけられているとき、彼らは主に全く失望し、主が神の受肉であることを否定し、主が表された御言葉を否定しました。逆に、イエスは普通の人のように死に、生き残るはずがないと信じたのです。主イエスは人々がその程度の信仰しか持たず、主を知らなかったことも、主が十字架につけられたためにさらに多くの人が弱気になって意気消沈することもご存知でした。そのため主イエスは死人の中から蘇られた後、弟子たちと接触して彼らに語りかけ、聖書を解説し、彼らと親しく交わり、食事を共にし、トマスにご自身の手と脇を触らせるといったことをなさいました。

    イエスキリストが復活後に語られた御言葉と行われた御業から、弟子たちはイエスが本当に復活されたと断定し、「この方こそ、以前我々と食事をし、同じ住処で生活を共にされたあの主だ。我々に説教し、養い、導いてくださったあの主であり、以前のように愛してくださるのだ」と悟り、「主は我々のことを気づかってくださり、我々のもとを離れられたのではなく、我々のすぐ側に一緒にいてくださっている」とも確信しました。主イエスは神ご自身の受肉であり、永遠なる御方、人の永遠の支え、人の強き塔であり避難所だったのです。

    主イエスは十字架につけられても、死後の鍵の番人であり、蘇る力を持っておられました。なぜなら神ご自身だったからです。以後、人々はもはや迷いも戸惑いもせず、もはや主イエスを疑わず、むしろ心の底からイエスを信じ頼ることができました。これは全て、主イエスが死人の中から蘇られた後に弟子たちの前に出現し、彼らと語られた結果です。

    主イエスの復活後の出現のこれら二つの意味から、私は主はそのような形で出現することで人々の心を目覚めさせ、そのおかげで私たちは神の配慮と愛を経験できるのだとやっと悟りました。このような配慮と愛は単なる伝説ではなく、事実なのです。また、このことから神が私たちを親類のようにみておられることも認識できます。神はいつも人と共におられ、私たちから離れられたことがありません。なぜなら、ご自身のものにするために私たちを創られたのであり、私たちが御言葉を聞いて神に従い、絶対的に崇拝し、神と心を一つにすることを望まれているからです。

    ですから、主イエスが肉となって働きを行い、御言葉を語られたときも、復活後に霊として人の前に出現されたときも、常に人類を思い、特にご自身に付き従う者たちを気づかわれました。なぜなら人には罪を克服する能力がなく、神の導きも真理の施し供給なしには、自らの堕落を脱して神の真の救いを得る術がないからです。私たちは誤解して、神が贖いの働きを終えた後に私たちを離れ、それ以降もう私たちに何の注意も向けられなかったと信じていますが、事実は、私たちの想像通りではないのです。

    主イエスは人類を贖う働きを成し遂げられましたが、人を離れられたわけではありません。主イエスは今も以前と同様に人と共におられ、私たちを気づかい、養い、導いてくださっています。主イエスはいざという時に私たちを助けて支えてくださり、どのように出現されても、いつも私たちと共におられます。それはまさに神の御言葉通りです。「主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における人生では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の慈しみがあり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    実は、主イエスを信じる私たち一人ひとりにとって明白なのは、神への信仰の道において、いつ金や名声や富などの誘惑に遭遇しても、主は私たちを守ってくださり、誘惑を避けて克服することができるようにしてくださるということです。私たちがいつ挫折や失敗に遭遇しても、主は御言葉で導き、信仰と力を与え強くしてくださいます。私たちが生活の中で困難に遭遇しても、主は常にまさかの時の助けであり、道を開いてくださいます。私たちが試練で苦しんでも、主の御言葉が十分に照らして導いてくださるおかげで、私たちは神の御心を理解し、霊における平安と喜びを感じることができるのです。神が側にいて毎日を私たちと共にいて導いてくださるおかげで、真理を理解し、御心を理解できるようになると本当に実感できます。

    私は主の愛に深く感動し、なぜイエスキリストが復活後四十日間、人の前にお姿を表わし、弟子たちの前で食事をし、聖書を語り、彼らと親しく交わり、弟子たちにいくつもの要求を告げるといったことをなさったかがよく分かるようになりました。主イエスが言われ、なされたことの一つひとつが大いなる配慮と思慮に満ち溢れており、主の業は全て非常に意義深いものだったのです。今私は、神の御言葉を読むことで、復活後の主イエスの出現をより深く理解しています。神に感謝します。

2019年4月13日土曜日

福音書|イースターと真の意味を知っていますか

   復活祭とは、復活の主日とも呼ばれ、主イエスが十字架につけられた三日後に起こった主の復活を祝う祭日です。その正確な時期は、毎年春分になってから最初の満月の後の最初の日曜日です。イエスの復活を記念し、イエスが人類にもたらされた救いと希望を思い起こすために、毎年三月から四月に世界中のキリスト教徒が復活祭の日にお祝いをします。私たちキリスト教徒はイエスの復活を記念しますが、それでは、すでに贖いの働きを終えられたのになぜ主は死人の中から蘇って人の前に出現されたのかを私たちは知っているでしょうか。そして、主の復活と人の前での出現の背後にはどのような意味があるのでしょうか。



           主イエスの復活と人の前での出現の意味 
神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)「主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。……主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

神の御言葉から私たちに分かるのは、主イエスが死人の中から蘇られてから弟子たちに何度も出現されたことには深い意味があり、その背後には神の惜しみない気づかいと思慮が隠れてもいるということです。当時主イエスに付き従った人々は主の教えを多く聞き、主がなされた多くの奇跡を見て、イエスが自分たちの主であり、神の子であると主張しましたが、イエスがキリストで神ご自身であることについては本当に理解しておらず、イエスはこのことをご存知でした。イエスがローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑されたとき、主に付き従った人々の多くは主の身分を疑い始め、主への信仰が段々弱まりました。特に主イエスが十字架に付けられて死んだとき、多くの人々は主に全く失望し、疑いとして始まったものが主イエスの否定に変わったのです。このような状況を背景として、もし主イエスが復活後に人の前に出現されなかったなら、主に付き従った人々の多くはもはやイエス・キリストを信じず、律法の時代に戻って旧約聖書の律法を守り続けたでしょう。しかし神は人の心の奥深くを見極め、人の弱さを理解しておられ、人々の霊的背丈が小さいことをご存知でした。主イエスはそれゆえに、死人の中から蘇り、何度も弟子たちの前に出現されたのです。主は弟子たちと語り、復活後のご自身の霊体を彼らに見せ、彼らと食事を共にし、聖書を解説されました。こうしたことをなさった目的は、主に付き従った人々が、主イエスは本当に死人の中から蘇られ、この方は人を愛し憐れみをかけてくださったイエスとやはり同じ人であり、受肉された神ご自身であり、聖書で預言された人類を贖うために来られるメシアであることを心の底から確信できるようにすることでした。彼らはもはや主イエスを疑いも否定もせず、それどころか誠実に主を信じ、イエス・キリストを自分たちの主と認めました。このことから私たちに分かるのは、イエスは復活なさり人々の前に出現されることによって、人々の信仰を強め、主を信じて従えるようになさったのであり、人間を神に近づけてくださったということです。これがイエスの復活の意味の一側面です。
これに加えて、イエスは肉となって現れて働き、律法の時代を完全に終わらせ、恵みの時代を始められました。受肉されたイエス・キリストは十字架にかけられましたが、罪と死を克服してサタンを破り、贖いの働きを成し遂げて栄光を得られたのであり、復活後の主イエスは人々にこの事実がはっきりと分かるようになさったのです。主イエスは新たな時代を開き、人類を旧約聖書の律法の時代から完全に脱却させ、恵みの時代にしっかりと定着させ、恵みの時代において神の導きと牧養と潤しを受けられるようになさいました。これにより、たとえイエスが復活して昇天なさり、もはや人と食事や生活を共にされることがなくなっても、人は今もイエスに祈り、御名を呼び、主の教えを守り、揺るがない信仰をもってイエスに付き従い、福音を広めることができるのです。特に、主イエスが復活なさり主に付き従った弟子たちの前に出現された後は、彼らの信仰は高まりました。主の福音を広め証しをすることに何の困難も危険も恐れず、不屈の忍耐力を持ち、福音を広めることに自らの全てを捧げ、主のために殉教さえしました。最終的には、イエスの福音は宇宙全体、世界中に広がり、主イエスに従う人の数は増え続け、やがてどの家庭の誰もが主の福音を耳にするまで万人に知れ渡ったのです。
主イエスは死人の中から蘇られた後、人々の前に出現し、彼らと接触して語りかけ、聖書を解説して親しく交わり、食事を共にするといったことをなさいました。これらの御業のおかげで、主イエスに付き従った人々は主の人への気づかいと思いやりを感じ、イエスがまさしく神ご自身で、受肉されたキリストであると確証することができ、神に従う人々は恵みの時代にしっかりと定着したのです。しかも、イエスの贖いの働きはその時から広まり始め、やがて宇宙全体、世界中に及びました。従って、イエスの復活と人類への出現の背後に深い意味があるのは明白です。なぜならこれらの御業には神の惜しみない気づかいと思慮だけでなく、神の知恵と全能性もこめられているからです。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスの復活の意味を理解し、主の働きの中に神の私たち人類への気づかいと思いやりを改めて感じることができるようにしてくださった神の啓きと導きに感謝しましょう。神に感謝!

2019年3月17日日曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 1




神は万物の生命の源である (4)

    本日は専門的な事項について話し合っている。あなたがたそれぞれが知り、経験し、理解すべき主要な事項は、主に2つしかないが、その2つとは何であっただろうか。そのうち1つは人間の個人的ないのちの成長であり、もう1つは神を知ることに関するものである。本日は、あなたがたに選択の機会を与えるので、ひとつ選んで欲しい。あなたがたが聞きたい話題は、人間の個人的ないのちの経験に関する話題であろうか、それとも神自身を知ることに関する話題であろうか。このような選択の機会をあなたがたに与える理由は、本日、わたしは、神を知ることに関して、新しい事柄をあなたがたと話し合いたいと考えているからである。いずれにせよ、まずは先述した2つの話題のうちいずれかを、あなたがたに選択してもらうことにしよう。(神を知ることに関する話題を選択する。)(神に関する認識を話し合う方が良いと思う。)あなたがたは、神を知ることに関して最近わたしたちが話し合っている事柄が達成可能だと思うであろうか。(神が最初に交わりを行われた時は、それが達成可能だとは感じなかった。その後、神は数回の交わりを行われ、最初の交わりを顧みたとき、神が造られた環境のなかで、兄弟姉妹が皆その領域における経験に留意していた。)それは大部分の人々にとって、手の届かない領域にあると言えるであろう。あなたがたは、そうした言葉により確信は得ないかも知れない。わたしがこう述べるのは何故であろうか。その理由は、以前にわたしが述べた事柄は、わたしがどのように述べたか、どのような言葉を用いたかを問わず、あなたがたがそれを聞いた時、わたしが述べた事柄を、言葉としてまた理論的には認識したが、しかしあなたがたの深刻な問題として、わたしがそのような事柄を述べた理由、わたしがそうした事柄について話をした理由を理解していなかったからである。このことが問題の要点である。このように、その言葉を聞くことにより、神や神の業に関するあなたがたの知識が増し、豊富になったにもかかわらず、あなたがたにとって神を知ることが依然として困難なのは何故であろうか。それは、わたしの話を聞いても、あなたがたのうち大部分の者が、わたしがその話をした理由と、その話と神を知ることのつながりを理解していないからである。そうではないだろうか。その話と、神を知ることのつながりを理解できないことは、何と関連するであろうか。あなたがたは、このようなことを考えたことがあるだろうか。おそらくあなたがたは、このようなことを考えたことが無いであろう。あなたがたがそれらの事柄を理解していないのは、あなたがたのいのちの経験が表面的すぎるからである。神の言葉に関する人間の認識と経験が極めて浅薄な段階のままである場合、神に関する人間の認識は、曖昧で抽象的なもの、初歩的なもの、原理的なもの、理論上のものに留まる。理論上は、論理的で合理的のように思われるが、大部分の人々が発言する神に関する認識は、空虚なものである。それでは、わたしがそれを空虚であると言う理由は何であろうか。それは、事実として、あなたの心中では、神について知ることに関してあなたが発言する言葉が正しいかどうか、正確かどうかが明瞭ではないからである。そうしたわけで、神について知ることに関する情報を、大部分の人々が聞いたことがあるにもかかわらず、こうした人々の神に関する認識は、論理的で曖昧で抽象的な原理の域を超えないものである。

    それでは、この問題はどうすれば解決できるであろうか。あなたがたは、このようなことを考えたことがあるだろうか。ある者が真理を追求しなかった場合、その者は現実を獲得できようか。(獲得できない。)その通りである。その者が現実を知ることが出来ないのは、確実である。ある者が真理を追求しなかった場合、その者には現実が欠如し、したがってその者には神の言葉に関する認識や経験が無いことは確実である。それでは、神の言葉を知らない者は、神を知ることが出来るであろうか。絶対にそのようなことは無い。それら2つの事項の間には、相互に関連性がある。したがって、大部分の人々が「神を知ることは、何と難しいことであろうか。こんなに困難なのは何故だろうか。神に関する認識について、私には何も述べられないのは何故だろうか。」などと言う。自分自身を知ることについては、何時間でも話を出来るが、神を知ることについて述べようとすると、絶句してしまうのである。何か述べることがあったとしても、それには無理があったり、曖昧なものとなってしまったりして、話している本人が聞いても不自然に思われる。これが原因である。神を知ることが困難すぎる、難儀だ、それについて何も話せることが無い、語り合って相手や自分自身に与えることが無い、と感じる場合、それは、あなたが神の言葉を体験したことが無い者であることを示すのである。神の言葉とは何であろうか。神の言葉は、神が持っているものや神が何であるかを表出されたものではないか。神の言葉を体験したことが無い場合、神が持っているものや神が何であるかに関する認識を得ることが出来るであろうか。間違い無く出来ないであろう。これらの事柄は、すべて相互に関連している。神の言葉に関する体験が無い場合、神の心を把握することは出来ず、したがって、神の性質や、神が好む事柄や嫌悪する事柄、人間に対する神の要求、善良な者に対する神の姿勢、邪悪な者に対する神の姿勢を知ることは無く、こうした事柄は全て曖昧で不明瞭なものになることは確実である。そうした不明瞭さにもかかわらず、神を信じている場合、真理を求めて神に付き従っていると言った場合、そうした発言には現実性があるであろうか。そうした発言に現実性は無いのだ。そのことを踏まえて、選択して欲しい。本日の話題として、あなたがたはどちらを選択するであろうか。(いのちの成長と人間の個人的ないのちの経験を選択する。)(いのちの成長を選択する。)いのちの成長に関してあなたがたに欠如しているのは、どの領域の事項であろうか。あなたがたの心が、あなたがたに訴えている事柄は、何かあるだろうか。あなたがたは、まだ知らないであろう。その他の人達は、どちらの事項を選ぶであろうか。神の認識に関する話と、いのちの経験に関する話のうち、どちらを希望するであろうか。(神を知ることに関する話題を選択する。)(神を知ることに関する話題である。)あなたがたのうち大部分が、神を知ることに関する話題を選択した。それでは、神に関する認識について、話を続けることにする。

 あなたがたは皆、本日の事項に関する話を聞くことを熱望しているであろう。本日の話題は、最近話をした事項、「神は万物の生命の源である」にも関連する。「神は万物の生命の源である」に関しては、これまで数回話をしたが、それらの話は、神が造った地球上に万物が存在できるようにするために、神が万物を支配していること、神はどのような手段を用いて万物を支配しているか、どのような原則にしたがって万物を管理しているかを人々に伝える様々な方法や観点を用いることが目的であった。また、神が人間に与える方法、つまり、神はどのような手段で人間に与えるか、神は人間にどのような生活環境を与えるか、神は人間に安定した生活環境を与えるために、どのような手段と推進力を用いるかについても、多くの事柄を話した。神の万物に対する支配、神の万物統治、神の経営の関係については直接的に話をせず、神がこのような方法で万物を統治する理由、そして神がこのような方法で人間に与え、人間を育む理由について、間接的に話をしたが、これらはすべて神の経営に関する事柄である。マクロ的な環境から、人間の基本的な生活必需品や食糧など、それよりも遙かに小さな事柄まで、また神が万物を支配し、規律に従って機能させることから、様々な人間のために神が造った適正な生活環境などに至るまで、話した内容は極めて広範である。この広範な内容は、全て人間が肉にあってどのように生きるかに関連している。つまり、この内容は、たとえば山、川、海、平原など、人間が目で見て感じることができる、物質世界の物事に関連するものである。これらの物は、全て目で見て触れることが出来るものである。わたしが空気や気温について話をする時、あなたがたは呼吸により空気の存在を直接感じ、身体により気温の高低を直接感じることができる。森の中の木々や草、鳥や獣、空を飛ぶものや地を歩むもの、巣穴から出てくる様々な小動物は、すべて人間の目で見て、耳で聞くことのできるものである。こうした物の範囲は極めて広いが、すべて物質世界のみを表すものである。人間の目に見える物は何であろうか。目に見える物は、物質的な物である。物質的な物とは人間が見たり触れたりすることが出来るものである。すなわち、手に触れた時にその物を感じ、目で見た時に脳が人間に映像すなわち図画を与えるものである。物質的な物は、実在する事実であり、人間にとって抽象的では無く、角ばっていたり丸かったり、背が高かったり低かったり、大きかったり小さかったりといった姿形があるものであり、人間に対してそれぞれ異なる印象を与える。これらの物質的な物は、物質世界の物全体の一部を構成するものである。それでは、神にとって、「神による万物の統治」の「万物」には、何が含まれるであろうか。この「万物」には、人間が見て触れることのできる物だけでなく、目に見えず、触れることの出来ない物も含まれる。これは、神による万物の統治の真の意味のひとつである。これらの物事は目に見えず触れることの出来ない物事であるが、これらの物事もまた実在する物事である。神にとっては、その物事が神の目で観察可能であり、かつ神の統治の範囲内にあれば、その物事は実在する。人間にとって、それらの物事は抽象的であり、想像不可能なことであり、目に見えず触れることが出来ないとしても、神にとって、それらの物事は実在する。神が支配する万物のもうひとつの世界は、そのようなものであり、それが神が支配する万物の範囲の、もうひとつの部分である。本日は、この事項について、すなわち神が霊的世界をどのようにして支配し、統治するかについて、話をする。この事項では、神が万物を支配し、統治する方法について話をするので、この事項は物質世界の外部の世界である霊的世界に関連するものであり、したがって人間にとっては、最も理解が必要とされる事項である。この内容について話し合い、理解して初めて、人間は「神は万物の生命の源である」という言葉の本当の意味を、真に理解できるようになる。そして、この事項の狙いは、「神は万物を支配し、管理する。」という主題を完結させることである。この事項に関する話を聞いた時、その話が異様である、あるいは信じがたいと感じるかも知れないが、あなたがたがどう感じるかを問わず、霊的世界が、神により支配されている万物の一部である以上、あなたがたはこの事項から何らかの知識を得るべきであることは間違い無い。この内容について話し合い、理解して初めて、人間は「神は万物の生命の源である」という言葉の意味を、更に深く理解し、その言葉に関する認識を得るだろう。

2019年2月6日水曜日

朗読 神の言葉 「唯一の神自身 5神の聖さ(2)」 その1



朗読 神の言葉 「唯一の神自身 5神の聖さ(2)」 その1
つまり、人は堕落した性質の只中で生きており、邪悪と汚れの世界で生活しているからです。人が見るものすべて、触れるものすべて、経験するものすべてがサタンの邪悪であり、サタンの堕落であり、またサタンの影響下で人々のあいだで起こる陰謀、内紛、戦争です。ですから、神が人において働きを行なうときでさえ、神が人に語りかけ神の性質と本質を明らかにするときでさえ、人は何が神の聖さと本質であるかを見ることも知ることもできないのです。人はよく神は聖であると言いますが、真の理解はしていないのです。ただ、空っぽの言葉を述べているだけです。人は汚れと堕落にまみれて、サタンの領域で生きているため、光を見ることはなく、前向きな物事を何も知らず、さらに真理を知らないのです。ですから、何が聖なるものなのか誰も本当には知りません
『言葉は肉において現れる』より

2018年12月31日月曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」 その2


全能神は言われた。「三つの段階の働きは、神の経営(救い)全体の核心にあるもので、 その三つの段階の中に、神の性質、そして神であるものが表されているのである。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにしてその性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの英知も知らず、そして神が人類を救う様々なやり方や、人類全体に対する神の心を知らないままでいる。三つの段階の働きは、人類を救う働きの完全な表明といえる。三つの段階の働きを知らない人々は、聖霊の働きの様々な手段や原則を知らないままでいる。つまり、一つの段階の働きからそのまま残っている教義に厳格にこだわる人々は、神を教義に限定する人たちであり、神に対する彼らの信仰は曖昧で不確かである。そのような人たちは、決して神の救いを得ることがないだろう。」 『言葉は肉において現れる』より

2018年12月25日火曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 2」7


希なのは、神の憐れみと寛容さでなく、人間の真の悔い改めである

 神のニネベの人々に対する怒りの程度を問わず、ニネベの人々が断食を宣言して粗布と灰を身に付けるとすぐに、神の心は次第に軟化し、神の心が変化を始めた。神がニネベを破壊すると宣言した時、ニネベの人々による罪の告白と悔い改めの前の時点で、神は依然として怒っていた。ニネベの人々が一連の悔い改めの行動を取った後、神のニネベの人々に対する怒りは、ニネベの人々に対する憐れみと寛容さへと次第に変化していった。1件の出来事において、こうした神の性質の2つの側面が同時に現れたことには、何ら矛盾することは無かった。これに矛盾が無いことは、どのようにして理解すべきであろうか。神は、ニネベの人々が悔い改めた時に、これらの対局にある本質を連続して表出し、明示しており、これにより神の本質の現実性と不可侵性を理解することができる。ここでは神の姿勢により分かることがある。それは、神は人間に対して容赦することが無いということではなく、また神は人々に対して憐れみを与えることを望んでいない、ということでも無い。それは、人々が神の御前で真に悔い改め、悪の道を離れ、不法を手から捨てることは、極めて希だ、ということである。つまり、神が人間に対して怒っている時、神は人間が真に悔い改めること、人間の真の悔い改めを見ることを望んでおり、こうした場合に、神は憐れみや寛容さを、人間に対して引き続き寛大に与える。すなわち、人間の邪悪な行動は神の怒りに触れ、神の憐れみと寛容さは、神の言葉を聞き、神の前で真に悔い改める者、悪の道を離れ、不法を手から捨てることができる者に与えられる。ニネベの人々に対する扱いでは、神の姿勢が極めてはっきりと明示されていた。神の憐れみと寛容さを得ることは全く困難では無い。神は真の悔い改めを要求する。人々が悪の道を離れ、不法を手から捨てるかぎりにおいて、神は心と人々に対する姿勢を変える。

創造主の義なる性質は現実であり、生きている

 神がニネベの人々に対して心を変えた時、神の憐れみと寛容さは見せかけであっただろうか。無論、見せかけではなかった。それでは、単一の問題において、神の性質の2つの側面の一方から他方へと推移したことから、何が分かるであろうか。神の性質は、一切分割されておらず、ただひとつである。人々に対して神が表出しているのが、怒りであるか、憐れみと寛容さであるかを問わず、それらはすべて、神の義なる性質の表出である。神の性質は、現実であり、生きている。神は、事態の展開に応じて、自身の心と姿勢を変える。ニネベの人々に対する神の姿勢の推移から、神には独自の心があることが分かる。神は機械でも粘土細工でもなく、生ある神自身である。神はニネベの人々に対して怒ることもあれば、ニネベの人々の態度に基づき、ニネベの人々の過去を赦すこともある。神はニネベに災いを起こすと決定することもあれば、ニネベの人々の悔い改めに基づき、その決定を変更することもある。人々は規則を機械的に適用することを好み、規則を用いて神を立証し、定義することや、神の性質を数式により知ることを好む。したがって、人間の考えの範囲内においては、神は思考することがなく、独自の考えを持っていない。現実では、神の心は、物事や環境の変化に伴い、継続的に変化している。神の心が推移している時、神の本質の様々な側面が現れる。この推移の過程において、神が心を変えた瞬間、神は、神のいのちが存在する真実と、神の義なる性質は真実であり生きているということを、人間に対して明示する。さらに、神は独自の真の明示により、神の怒り、憐れみ、慈悲、寛容さが存在する真実を人間に対して証明している。神の本質は、時間と場所を問わず、物事の展開にしたがって明示される。神は、獅子の怒りと母の憐れみと寛容さを持っている。人間が神の義の性質を疑うこと、侵害すること、変更すること、ゆがめることは、許されない。神の義なる性質、すなわち神の怒りと憐れみは、時間と場所を問わず、全ての物事において表出される。神は、こうした側面をありとあらゆる所で、ありとあらゆる瞬間に、鮮明に表出する。神の義なる性質は、時間や場所の制限が無い。つまり、神の義なる性質は、時間と場所の制約に支配されて機械的に表出されたり明示されたりするのではない。むしろ、神の義なる性質は、いつでも、どこでも、自由に表現され、表出される。神が心を変えて怒りを表出するのを止め、ニネベの町を滅ぼさなかったのを見て、神は単に憐れみ深く、愛情があるのだ、と言えるだろうか。神の怒りは内容を伴わない言葉であると感じるであろうか。神が激しい怒りを表わし、憐れみを与えるのを止めた時、神は人間に対する真の愛を感じていなかったと言えるだろうか。神は、人々の邪悪な行いに対して激しい怒りを表したのであり、神の怒りには何ら欠陥は無い。神の心は人々の悔い改めにより動かされる。神の心を変化させるのは、この悔い改めである。神の感動、神の心の変化、神の人間に対する憐れみや寛容さには、全く欠陥が無い。これらは清く、純粋で汚れの無いものである。神の寛容さは、純粋に寛容さであり、神の憐れみは、純粋に憐れみである。神は、人間の悔い改めと行動の変化に従って、怒り、憐れみ、寛容さという性質を示す。神が示すものは、それが何かによらず、すべて純粋である。それらはすべて率直であり、その本質は創造物が示すいかなるものよりも傑出している。神が表現する行動の原理、神の心あるいは具体的な判断、あらゆる業には、全く欠点がない。神が判断をくだすと、神はその通り業を行う。そして神はこの要領で計画を全うする。その結果は正確かつ完璧である。なぜならその結果の元となるものが完璧だからである。神の怒りは、完璧である。同様に、いかなる創造物も持っていない神の憐れみや寛容さは聖なるものであり、完璧であり、いかなる議論にも経験にも耐えうるものである。

 この聖句にあるニネベの町での出来事を理解した上で、あなたがたは、神の義なる性質の別の側面の本質を理解できたであろうか。神唯一の義なる性質の別の側面を理解できたであろうか。人間のうち、こうした性質を持つ者は居るだろうか。神の怒りのような怒りを持つ者は居るだろうか。神のような憐れみや寛容さを持つ者は居るだろうか。創造物のなかで、これほど大きな怒りを召喚し、人間を滅ぼし、人間に災いをもたらすことを決定出来る者は、居るだろうか。憐れみを与え、人間を寛大に扱い、赦し、よって人間を滅ぼす決断を覆す資格を持つのは、誰だろうか。創造主は、自身の固有の方法と原則に従って、自身の義なる性質を示し、他の人々、出来事、物事による支配や制限を受けない。神の固有の性質のため、神の考えや心をかえることが出来る者はおらず、また神を説得して神の決断を覆すことの出来る者も居ない。創造物の行動や考えは、全て神の義なる性質による判断に基づき存在する。神が怒るか、憐れみをかけるかを支配できるものは居ない。それを決定できるのは、創造主の本質、つまり創造主の義なる性質のみである。これが創造主の義なる性質に固有の特徴である。

 ニネベの人々に対する神の姿勢の推移を分析して理解した後、神の義なる性質に含まれる憐れみを指して、それを「固有」であるとすることが出来るであろうか。神の怒りは、神のみが持つ義の性質の本質における一側面であると先述した。ここで、神の怒りと神の憐れみという2つの側面を、義の性質と定義する。神の義の性質は聖であり、侵害不可能なものであり、疑うことのできないものであり、創造物にもそれ以外の物にも、その性質を持つ物は存在しない。神の義の性質は、神に固有であり限定されたものである。つまり、神の怒りは聖であり、侵害不可能なものであると同時に、神の義の性質のもうひとつの側面である神の憐れみもまた聖であり、侵害不可侵なものである。創造物やそれ以外の物で、神の業における神の代理となることができるものは皆無であり、ソドムの破壊やニネベの救済において神の代理となることができるものも皆無である。これが、神固有の義の性質の真の表出である。

2018年12月18日火曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」 その1


全能神は言われた。「三つの段階の働きは、神の経営(救い)全体の核心にあるもので、 その三つの段階の中に、神の性質、そして神であるものが表されているのである。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにしてその性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの英知も知らず、そして神が人類を救う様々なやり方や、人類全体に対する神の心を知らないままでいる。三つの段階の働きは、人類を救う働きの完全な表明といえる。三つの段階の働きを知らない人々は、聖霊の働きの様々な手段や原則を知らないままでいる。つまり、一つの段階の働きからそのまま残っている教義に厳格にこだわる人々は、神を教義に限定する人たちであり、神に対する彼らの信仰は曖昧で不確かである。そのような人たちは、決して神の救いを得ることがないだろう。」 『言葉は肉において現れる』より

2018年12月13日木曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 2」3

神の怒りは、人間にとって隠された未知のものだが、神の性質に反することを決して容赦しない

 愚かで無知な人間全てに対する神の処分は、主として憐れみと寛容さに基づいている。その一方、神の怒りは、ほぼ全ての場合、時間や物に隠れていて、人間に知られることは無い。その結果、神が怒りを示していることや、神の怒りそのものを人間が理解することは困難である。したがって、人間は神の怒りを軽視する。人間に忍耐し人間を赦す神の最終的な業と段階に人間が直面する時、すなわち、神の最後の憐れみと警告が人間に到達した時、人間が従前と同じ方法で神に反抗し、かつ悔い改めて自分自身のあり方を正し、神の憐れみを受け容れる取り組みを何も行わなかった場合、神がそれ以上の寛容と忍耐をもって対応することは無い。逆に、神が赦しを撤回するのは、まさにこの時である。その後に神が与えるのは、怒りのみである。神は、罰により人間を滅ぼす時と同様に、様々な方法で怒りを表現する。

 ソドムの町を滅ぼす時に神が用いた火は、神が人間や物を滅ぼす最も迅速な方法である。ソドムの人々を焼き尽くしたことは、人々の身体だけでなく、人々の霊魂全体を滅ぼすものであり、それにより、物質的世界と人間が見ることの出来ない世界の両方において、町の中に居た人々の存在の消滅が確実なものとされた。それは、神が怒りを明示し、表現する方法のひとつである。こうした態様の明示や表現は、神の怒りの本質の一面であり、したがって、当然ながら神の義なる性質の本質の明示でもある。神が怒りを伝える時、神は憐れみと慈愛の明示を一切停止し、寛容と忍耐を明示することは無くなる。忍耐を継続し、今一度憐れみと寛容を与えるよう神を説得できる人間、物、理由は一切存在しない。そうした神の持っているものに代えて、神は一瞬の迷いもなく、神の怒りと威厳を伝え、神の望むところに従って、神が望む業を迅速かつ円滑に行う。人間が反してはならない神の怒りと威厳は、こうして伝えられ、それは神の義なる性質のある側面を表すものでもある。神が人間に対する懸念と愛の証を得るとき、人間は神の怒りを感じることも、神の威厳を理解することも、反抗に対する神の不寛容さを感じることも出来ない。それが原因で、常に人間は、神の義なる性質が単に憐れみと寛容さと愛のみであると考えるようになった。しかし、神が町を滅ぼしたり、人間を憎悪したりということを知ると、人間は神が人間を滅ぼす時の怒りと威厳により、神の義なる性質の別の側面を見ることができる。これが、反抗に対する神の不寛容さである。反抗を一切甘受することの無い神の性質は、あらゆる神の創造物の想像を超え、それ以外の物にも、その性質を阻んだり干渉したり出来る物は存在せず、そうした性質を模倣したり、偽ったりすることが出来ないのは尚更である。したがって、神の性質の様々な側面のなかでも、この側面は、人間が最も詳しく知るべきものである。この種の性質は、神自身だけに存在し、他の誰にも存在しない。神がこの種の義なる性質を持っている理由は、人間を腐敗させ、食い物にする邪悪さ、腹黒さ、反逆、サタンの悪意に満ちた行動を、神が嫌悪しているからであり、また神に反逆する全ての罪の行いを神が嫌悪しているからである。さらに神の聖なる清い本質もその理由となっている。それゆえ、創造物やそれ以外の物が、神に対して率直に反対ないし対抗することを、神は甘受しないのである。たとえ、神が嘗て憐れみを示した者や神の選民となった者であったとしても、神の性質を挑発し、神の忍耐と寛容の原則を超えただけで、神は自身の義なる性質、すなわち、いかなる反抗をも甘受しない性質を、全く容赦なく、また躊躇なく示す。

神の怒りは、あらゆる正義の力と肯定的な物事を守る

 これらの神の言葉と考え、業を理解することで、あなたは、何者も背くことの出来ない、神の義なる性質を理解できるであろうか。人間がどの程度理解できるかを問わず、結局のところ、これは、神のみが持つ性質の一側面である。反抗に対する神の寛容さの不在は神のみが持つ本質であり、神の怒りは神特有の性質であり、神の威厳は神のみの独占的本質である。神の怒りの根底となる原則は、神のみが持つ身分と地位を証明するものである。この原則が唯一の神自身を象徴するものであることは、言うまでも無い。神の性質は、神自身の固有の本質である。神の性質は時間の経過とともに変化することも、場所によって変化することもない。神の固有の性質は、神のみにある本質である。神が誰に対して業を行うかを問わず、神の本質も、神の義なる性質も、不変である。ある者が神を怒らせた場合、神が伝える怒りは、神固有の性質である。この時、神の怒りの基底にある原則や、神固有の身分や地位は不変である。神は、神の本質が変化したり、神の性質に異なる要素が生まれたりしたことを理由として、怒ることは無く、神が怒るのは、人間の神に対する反抗が、神の性質に反するからである。人間の神に対する目に余る挑発は、神固有の身分と地位に対する深刻な挑戦である。神から見ると、人間が神に挑戦するということは、人間が神と争っており、神の怒りを試していることを意味する。人間が神に反抗し、神と争い、神の怒りを継続的に試す時は、罪がはびこる時でもあり、その時、神の怒りは自然と出現する。したがって、神が怒りを示していることは、あらゆる邪悪な力が滅びること、あらゆる敵対勢力が破壊されるということを象徴するものである。これが神の義なる性質と、神の怒りの独自性である。神の威厳と聖さが試された時、正義の力が阻害され、人間に理解されなかった場合、神は、怒りを伝える。神の本質に基づけば、神と争い、神に敵対し、敵対する地上の様々な力は、すべて邪悪であり、腐敗した不当なものであり、すべてサタンに由来し、サタンに属する。神は正義であり、光であり、完璧に聖であるので、邪悪で腐敗した、サタンに属する物事は、神の怒りが発せられると消滅する。

 神の怒りの噴出は神の義なる性質を示す側面のひとつに過ぎないものの、神の怒りが、その対象について無差別なことや、原則が無いということは決して無い。それとは反対に、神は怒りやすくなく、神が軽率に怒りや威厳を示すことは無い。更に、神の怒りはかなり制御され、計測されているので、神の怒りと、人間が怒りを爆発させたり、発散させたりするのとは比較することは出来ない。聖書には、人間と神との対話が多く記録されている。聖書に登場する人間の一部は、発言が浅薄で、無知で、稚拙であるが、神はそうした人間を打ち倒すことも、非難することも無い。特に、ヨブの試練の間、ヤーウェ神はヨブの3人の友やその他の者たちの発言を聞いて、その者たちをどのように扱ったであろうか。神はその者たちを非難したであろうか。神はその者たちに対して、激怒したであろうか。神は、そのようなことを一切しなかった。その代わり、神はヨブに対し、その者たちのために祈るよう命じ、神はその者たちの誤りを気に留めることは無かった。これらの例では、神が腐敗した無知な人間を扱う主な姿勢が示されている。したがって、神の怒りの発出は、神の気分を示したり晴らしたりするものでは決して無い。神の怒りは、人間が考えるような感情の爆発では無い。神は、自分の気分を制しきれなかったり、怒りが我慢の限界を超えたりすることが原因となって、怒りを発出させることが無い。逆に、神の怒りは、神の義なる性質を示し、その性質を純粋に表出し、神の聖なる本質の象徴を表出するものである。神は怒りで、反抗を容赦しない。これは、神の怒りが動機を区別しないということでも、無主義であるということでも無い。動機を区別せずに無主義で手当たり次第に怒りを爆発させるのは、腐敗した人間固有の特色である。人間が地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにする。人間は、自分の力を示し、自分の地位や身分が普通の人々とは違うことを他人に知らしめるため、明確な理由なく激怒することさえ多々ある。無論、地位の無い腐敗した人間も、頻繁に取り乱す。そのような人間の怒りは、その人間の個人的利益に対する危害によって発生させられる場合が往々にしてある。自分の地位と威厳を守るため、腐敗した人間は感情を発散させ、傲慢な本質を露わにすることが往々にしてある。人間は、罪の存在を防御するために突然激怒して感情を露わにし、そうした行動によって、その者は自分の不満を表す。こうした行動は汚れや謀略に満ちている。人間の腐敗と邪悪、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちている。正義が邪悪に挑む場合、人間は正義を守るために怒りを爆発させることは無い。それとは逆に、正義の力が危機にあるとき、迫害されたとき、攻撃されたとき、人間の態度は、無視、回避、畏縮といった類いのものである。しかし、邪悪の力に対峙した時、人間の態度は、迎合する、ぺこぺこ頭を下げるといった類いのものである。したがって、人間の怒りの爆発は、邪悪な力にとって逃げ道であり、肉欲に満ちた人間の、猛烈で抑制できない邪悪な行動の表出である。しかしながら、神が怒りを示す時は、邪悪な力は全て阻止され、人間を傷つける全ての罪が阻止され、神の業を阻害する敵意のある力が明らかにされ、取り上げられて呪われ、神に反逆するサタンの僕は罰せられて根絶される。その者たちがいなくなった後、神の業は何ものにも阻害されることなく進められ、神の経営(救いの)計画は、予定通り一歩ずつ着実に実行され、神の選民はサタンの妨害や策略の対象となることなく、神に付き従う者は、静寂と平和の中で神の導きと施しを楽しむ。神の怒りは、あらゆる邪悪の力の増大と横行を阻止する防衛手段であり、また正義で肯定的な物事全ての存在を守り、広め、それを抑圧や破壊から永久に保護する防衛手段である。

 神のソドム殲滅から、神の怒りの本質を理解できるであろうか。神の怒りの中に、何か含まれているものはあるだろうか。神の怒りは、純粋であろうか。人間の言葉で言うと、神の怒りには混じり物はないだろうか。神の怒りの根底に、何か策略はあるだろうか。何か陰謀はあるだろうか。何か口に出来ない秘密はあるだろうか。わたしは断固として、厳粛にこう言える。「神の怒りには、誰も疑う余地がない」神の怒りは、純粋で混じり物のない怒りであり、その他の意図や目的は無い。神の怒りの理由は純粋であり、一点の非も無く、非難する余地が無い。神の怒りは、いかなる創造物にも存在しない、神の聖なる本質の自然な明示である。これは神固有の義なる性質であり、創造主の本質と、創造物の本質との顕著な相違点である。

 人間が他人の前で怒るか、あるいは陰で怒るかを問わず、人間には皆様々な意図と目的がある。このような人間達は、自分自身の信望を構築している場合や、自らの利益を守ろうとしている場合、自分の外聞や面目を保とうとしている場合などがあるであろう。自分の怒りをある程度抑えるよう努める者も居れば、全く抑えようとする様子が無く、好きなときに心ゆくまで怒りを露わにする者も居る。つまり、人間の怒りは、自分自身の腐敗した性質から生まれている。その目的が何であれ、怒りは人間の肉欲や本性に関連するものであって、正義や不正義とは無関係である。なぜなら、人間の本性や本質には、真理に相当するものが皆無だからである。したがって、腐敗した人間の感情と、神の怒りとは、同じ次元で議論してはならない。サタンにより腐敗させられた人間の行動は、例外なく腐敗を保護する願望から始まり、腐敗を基礎としている。したがって、人間の怒りと神の怒りは、理論上どれほどの妥当性があるように思われようと、同じ次元で議論すべきではない。神が怒りを示す時、邪悪な力が阻止され、邪悪な物事が破壊される一方、正義であり、肯定的な物事は、神の慈しみと保護を与えられ、存続が可能となる。神が怒りを伝えるのは、不正義で邪悪な物事が、正義で肯定的な物事の通常の活動と発達を妨害し、破壊するからである。神の怒りの目的は、神自身の地位や身分を守るためではなく、正義であり、肯定的であり、善良で美しい物事、そして人間の普通の存在における律法と秩序を守るためである。これが神の怒りの根底にある原因である。神の怒りは極めて適切であり、自然であり、神の性情の真の明示である。神の怒りの根底には、意図や虚偽、策略が無く、また腐敗した人間に共通する、欲望も狡猾さも悪意も暴力も邪悪も全く存在しない。神が怒りを伝える前に、神は既にあらゆる物事の本質を極めて明瞭かつ完全に把握しており、また正確かつ明瞭な定義と結論を導き出している。故に、神のあらゆる業の目的は、神の姿勢と同様、極めて明確である。神の心に混乱は無く、神は盲目でもなく、衝動的でもなく、軽率でも無く、そしてなによりも無原則ではない。これが神の怒りの実践的側面であり、この側面のため、人間は普通の存在を続けることができるのである。神の怒りが無ければ、人間は異常な生活条件へと陥るであろう。正義であり、美しく善良な物事が破壊され、消滅するであろう。神の怒りなくしては、創造を司る律法と秩序が破壊され、完全に転覆さえするであろう。人間が造られて以来、神は義の性質により人間の正常な生活を継続的に守っている。神の義なる性質に怒りと威厳が含まれているため、邪悪な人間や物事、人間の普通の生活を阻害し損なうあらゆる物事が、神の怒りによる罰を受け、制限され、破壊される。過去数千年にわたり、神は義なる性質により、神に反抗し、サタンの僕や手先となったあらゆる不浄な悪霊を、人間を経営する業の中で継続的に倒し、破壊して来た。したがって、人間に対する神の救いの働きは、常に神の計画に従って進行してきた。つまり、神の怒りの存在のおかげで、人間の中で最も義なる運動は、かつて破壊されたことが無い。

 ここまでの話で、神の怒りの本質について認識を得たので、サタンの邪悪を見分ける方法について、一層深く理解したはずである。

2018年12月10日月曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 2」2


ソドムは神の怒りを示すために滅ぼされた

 ソドムの人々が2人の使いに会った時、ソドムの人々は来訪の目的を尋ねることも、神の心を広めるために来たのかどうかを尋ねることも無かった。それとは反対に、人々は徒党を組み、あたかも野良犬か狼であるかのように、物も言わせず2人の使いを捉えようとした。神はこの出来事を見ていたであろうか。このような人間の行いを見た神は、どのように感じたであろうか。神は、この町を滅ぼすことを決定し、躊躇も容赦も全く無かった。やがてその日が訪れ、神は計画通りに業を行った。従って創世記19:24~25には「ヤーウェは硫黄と火とをヤーウェの所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。」とある。この2つの聖句では、神がこの町を滅ぼした方法と、神が何を滅ぼしたかが記されている。聖書では、神がこの町を火で焼いたことが最初に述べられており、次に、その火の威力は、全ての人々と地の草木をすべて滅ぼすに十分であったことが記されている。つまり、天から降った火は、ソドムの町を破壊しただけでなく、町中の人々を含めて、生きとし生けるものも、すべて跡形も無く滅ぼした。ソドムが滅ぼされた後には、生き物が全く存在しなかった。全く生き物が存在せず、生き物が居たことが感じられることすら無かった。町は不毛の地となり、そこには死の静寂があるのみであった。虐殺や殺人など、神に反する邪悪な行いは、もはやこの地に存在しなかった。

 神がこれほど徹底的にこの地を焼き尽くすことを望んだのは、何故であろうか。その事実から分かることは、何であろうか。神は、自身が造った人間や万物がこのように破壊されるのを、見ていることができるであろうか。天から降った火からヤーウェ神の怒りを理解することが出来れば、破壊の対象が何であったか、そしてとソドムの町の破壊の程度からヤーウェ神の怒りがどれほどであったかを理解するのはそれほど困難ではない。神が町を見捨てる時、神は、その町に神の罰を下す。神が町を嫌悪する時、神は、神の怒りをその町の人々に伝える警告を繰り返し行う。しかし、神が町を滅ぼすと決めた時、つまり、神の怒りと威厳が反故にされた場合、神は罰や警告を与えるのを止める。その代わりに、神はその町を破壊する。神は、その町を完全に消滅させるのである。これが神の義なる性質である。

ソドムによる神への反抗と敵対の繰り返しの後、神はソドムを完膚なきまでに根絶した

 神の義なる性質に関する概要を理解した後、神が罪の町とみなしたソドムについて再検討することとする。ソドムの町の実態を理解することで、神がこの町を破壊される必要があった理由、そして神がそこまで完全に破壊した理由を理解することができる。そうした理解より神の義なる性質を知ることができる。

 人間の立場から見ると、ソドムは人間の欲望と邪悪さを完全に満足させることが出来る町であった。毎晩行われる音楽と踊りに誘惑され、人はソドムの栄華の虜となる。ソドムの邪悪さが人間の心を蝕み、人間を誘惑して退廃させた。ソドムは、穢れた魂と悪霊がたけり狂う町であった。罪と殺人、血なまぐさい死臭で溢れていた。ソドムは、人々が恐怖で凍り付き、恐れて逃げ出す町であった。ソドムでは、老若男女をとわず、誰ひとりとして真理の道を求める者、光を求め、罪から立ち去ろうとする者は居なかった。ソドムの人々はサタンの支配と腐敗と偽りの下で生活していた。ソドムの人々は人間性を失い、思慮分別を失い、人間という存在の元来の目的を見失っていた。ソドムの人々は神への謀反という罪を数え切れない程犯し、神の導きを拒み、神の心に反発した。ソドムの町、ソドムの人々と生き物すべてを、徐々に破壊へと追いやったのは、ソドムの人々の邪悪な行動であった。

 この2つの聖句には、神の使い2人がソドムに到着した時の、2人の使いに対するソドムの人々の行動が記録されており、ソドムの人々の腐敗の程度に関する詳細は記録されていないものの、単純な事実により、ソドムの人々の腐敗、邪悪さの程度や、ソドムの人々がどの程度神を反抗していたかが明示されている。また、そうした単純な事実により、ソドムの町の人々の素顔と真の実態も披瀝される。ソドムの人々は、神の警告を受け容れなかったのみならず、神の懲罰をも恐れなかった。それどころか、ソドムの人々は神を侮蔑していた。ソドムの人々は、盲目的に神を反抗していた。神が何をどのようにしたとしても、ソドムの人々の邪悪な性質は強くなるばかりであって、神への敵対を繰り返した。ソドムの人々は神の存在、神の来訪、神の罰、そしてとりわけ神の警告に対して敵意を抱いていた。ソドムの人々は、自分自身以外の何ものにも価値を見出さなかった。ソドムの人々は自分達が傷つけ、食い物にできる人々すべてを傷つけ、食い物としており、神の使いに対しても、その例に漏れることは無かった。ソドムの人々の邪悪な所行全てを考慮すると、神の使いを傷つけたことは氷山の一角に過ぎず、それにより明示されている人々の邪悪さは、大いなる海のひとしずくに過ぎない。したがって、神はソドムの人々を火で破壊することに決定した。神は洪水や嵐、地震、津波など、火以外の方法は用いなかった。神がソドムの破壊に火を用いたことは、何を意味するであろうか。それは、ソドムの町の完全なる破壊を意味する。それは、ソドムの町という存在が地球上から完全に消滅した事を意味する。ここで言う「破壊」とは、町の形態や構造や外観が消滅しただけでなく、町の中にいた人々の魂も消え去り、根絶されたということを意味する。簡単に言えば、ソドムに関係する全ての人々、出来事、物体が破壊されたということである。ソドムの人々に来世や再生は無く、神はソドムの人々を、神の創造物である人類から永久に根絶させた。「火の使用」は、罪の阻止を示し、罪の終わりを意味する。その罪は消滅し、広まることが無くなる。それは、サタンの邪悪の温床が無くなり、サタンの邪悪の留まる場所として与えられた、墓さえも奪われたことを意味した。神とサタンの戦いにおいて、神が火を用いられるということは、神の勝利の証をサタンに焼き付ける烙印のようなものである。ソドムの破壊は、人間を腐敗させ、虜にすることで神に対抗するサタンの野望における大いなる失策であり、またそれと同様に、人間が発達する過程において、神の導きを拒み、悪に身を委ねた場合の屈辱を示すものである。さらにソドムの破壊は、神の義なる性質を真に明示するものとなる記録でもある。

 神が天から降らせた火がソドムを灰にした事は、「ソドム」という名の町と、そこにあった全て物事の存在が消滅したことを意味する。ソドムは神の怒りにより、すなわち神の怒りと威厳により破壊された。神の義なる性質のため、ソドムは然るべくして神の罰を受けた。すなわち、ソドムは神の義なる性質により、然るべきして終焉を迎えた。ソドムの存在が消滅したのは、ソドムの邪悪が原因であり、またそれは、ソドムの町やそこに住むあらゆる人々、そこに生きるあらゆる物を二度と見たくないという神の望みでもあった。「ソドムの町を二度と見たくない」という神の望みは、神の怒りであり、神の威厳でもある。神がソドムを焼き尽くしたのは、ソドムの邪悪と罪が、神を怒らせ、いらだたせ、激しく嫌悪させたためであり、またソドムの町やそこに住むあらゆる人々、そこに生きるあらゆる物を二度と見たくないと望ませたためであった。ソドムが焼け落ち、灰だけが残された後、ソドムは真に神の目に存在しないものとなり、神のソドムに関する記憶すら消え去った。このことは、天の火が、ソドムの町全体と町の邪悪に満ちた人々や罪に染められた全ての物事が破壊されただけでは無く、天の火は、人間の邪悪と、神に対する反抗の記憶をも破壊した。これが、神がソドムの町を焼いた目的であった。

 この時、人間は腐敗を極めたのであった。人間は、神の存在、人間の出自を知らなかった。もし誰かが神のことを口にしようものなら、ソドムの人々は攻撃し、中傷し、冒涜したであろう。神の警告を伝えるために神の使いが来た時ですら、腐敗したソドムの人々は悔い改めの姿勢を見せなかったのみならず、自分達の邪悪な行いを止めようともしなかった。それどころか、ソドムの人々は、恐れ多くも神の使いを痛めつけようとした。ソドムの人々が明確に示したのは、神に対する極端な敵意のある本性であり、本質であった。腐敗したソドムの人々の神に対する反抗は、ソドムの人々の腐敗した性質の明示や、真相の理解の欠如に起因する誹謗中傷であるだけでは無かった。ソドムの人々の邪悪な行いは愚かさや無知に起因するものでは無く、またソドムの人々が裏切られたからでも無く、勿論、誤った方向へと導かれたからでも無かった。ソドムの人々の行いは、目に余るほど激しい神への敵意、反抗、そして騒動のレベルに達していた。当然ながら、人間のこうした行いは神の怒りを買い、また犯してはならない神の性質を激怒させることになる。したがって、神は直接的かつ隠すこと無く、神の怒りと威厳を示した。それは、神の義なる性質の、真の明示である。罪に満ちた町を見た神は、最も迅速な方法でその町を滅ぼすことを望んだ。つまり、神はソドムの町の人々とその罪を、最も完全な方法で根絶し、町の人々を抹殺し、地上の罪が増加するのを防ごうとした。その最も迅速で完全な方法とは、ソドムの町を火で焼きつくすことであった。ソドムの人々に対する神の姿勢は、見捨てることでも無視することでもなく、怒りと威厳、そして権威を用いてソドムの人々を罰し、打ちのめし、絶滅させるというものであった。ソドムの人々に対する神の姿勢は、身体的な破壊だけで無く、霊的なもの、永久の根絶的な破壊であった。これが、ソドムの人々が「消滅」することに対する神の望みに関する、真の含意であった。

2018年11月14日水曜日

全能神教会の御言葉讃美歌「神の性質は崇高で偉大である」


Ⅰ 神の怒りは向けられる 正しくないものが人間を虐げ 闇と悪の存在や 真理を追いやり 善に逆らうものがある事に 神の怒りは象徴する 全ての悪いものの終りを 更にまた神の聖さを 神の喜びは 義と光が世界を訪れ 闇と悪の崩壊 神の喜びは 人間に光と美しい 生活をもたらす 神の喜びは 義である それは良いもの全ての象徴 幸運の象徴 幸運の象徴 Ⅱ 神は悲しむ 望みである人間が闇の中にいて 人間への業が神の意志にそぐわず 愛する全ての人間が光の中で生きられぬ事に 神は悲しむ 罪無く誠実なのに盲目な者たちを 善良なのに確信が持てない者たちを 神の悲しみは 神の善と憐みと 美と慈愛の象徴 神の喜びは 義と光が世界を訪れ 闇と悪の崩壊 神の喜びは 人間に光と美しい 生活をもたらす 神の喜びは 義である それは良いもの全ての象徴 幸運の象徴 幸運の象徴 Ⅲ 神は幸せに思う 敵を打ち人間の真心が勝ち 敵の勢力が退き消える事 人類が平穏な生活を送る事を 神の幸せは 人が思う幸福とは違い 幸福にまさる実を刈り入れる味わい 神の幸せは もうこれ以上 人類が苦しむ事がない事  神の幸せは 人類が光の世界に 入ることの象徴 神の喜びは 義と光が世界を訪れ 闇と悪の崩壊 神の喜びは 人間に光と美しい 生活をもたらす 神の喜びは 義である それは良いもの全ての象徴 幸運の象徴 幸運の象徴 『言葉は肉において現れる』より

2018年11月12日月曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 6」6


 サタンは邪悪であると言えるが、それを確認するためには、サタンによる人間の堕落の結末と、それがどのような性質と本質を人間にもたらすかを検討する必要があります。これについては皆ある程度知っているので、発言してください。サタンが人間を堕落させると、人間はどのような性質を表しますか。(傲慢さ、横柄さ、身勝手さ、卑劣さ、不正と狡猾さ、陰湿さ、悪意、そして人間性の欠如です。)全体として、人間性が欠如していると言えるのではないでしょうか。他の兄弟姉妹も発言させてください。(傲慢、不正直、悪意、身勝手、貪欲、浅薄、偽り。)ある側面の性質により明示されることではなく、その性質の本質が何なのかを言ってください。(ひとたび人間がサタンに堕落させられると、通常その人間は傲慢で独善的、思い上がってうぬぼれが強く、貪欲で利己的になります。こうした性質が最も深刻です。)(人間がサタンに堕落させられた後、人間は物質的にも精神的にも悪徳な行動を取ります。そして神に対して敵意を持ち、神を拒否し、神に反抗し、人間がもつべき良心と理知を失います。)あなたがたが言ったことは、細部の相違点を除いてすべて基本的には同じことです。詳細にもっと関心を持っている人もいるようです。概括すると、最も多く挙げられたのは「傲慢さ」という語です。傲慢さや不正直、悪意や利己的なども挙げられましたが、あなたがたは皆同じことを見落としました。良心のない人たちは、理知を失い人間性が欠如していますが、あなたがたのうち誰も挙げなかった同じくらい重要なことがまだあります。それは何ですか。(裏切りです。)その通りです。誰も「裏切り」を挙げませんでした。サタンに堕落させられた人間全員に存在する、こうした性質による究極的な結末は、神への裏切りです。神がどのような言葉を人間に述べても、どのような働きを人間に行なっても、堕落した人間は、真理であると分かっている事柄を認めません。つまり、神をもはや認めず、神を裏切るのです。これがサタンによる人間の堕落の結末です。それは人間の堕落した性質すべてに共通することです。人間が習得する知識、知っている科学、人間が理解している迷信や伝統文化、社会動向など、サタンが人間を堕落させるのに用いる方法の中に、何が義であり、何が不義であるかを判断するために人間が使用できるものがありますか。そこから判断基準を得ることができますか。(いいえ。)人間が何が聖なるもので何が邪悪かを判断する上で役立ちそうなものがありますか。(ありません。)人間に役立つ判断基準や基礎はそこにはありません。人々は「聖なる」という言葉を知っていても、聖なるものが何であるかを実際に知る者はいません。こうしたサタンが人間にもたらす物事により、人間は真理を知ることができますか。それにより、人間は人間性をますます向上させつつ生きることができますか。それにより、人間は神をますます礼拝できるような生活を送れるようになりますか。(なりません。)それにより人間が神を礼拝することや、真理を理解することや、聖さと邪悪が何であるのかを知ることが可能となることが無いことは明らかです。それとは反対に、人間は一層堕落し、神から遠ざかって行きます。これが、サタンは邪悪であると言われる理由です。サタンの邪悪な性質を数多く解剖して、サタンの本質や、サタンの実質に関するあなたがたの認識において、サタンに聖さの要素を見出しましたか。(いいえ。)それは確かです。それでは、あなたがたはサタンの本質に、神との類似点を見出しましたか。(いいえ。)サタンの表出には、神との類似点がありますか。(いいえ。)それでは、あなたがたに尋ねます。神の聖さとは、あなたがたの言葉で言うと、正確には何ですか。まず、神の聖さは何と関連して語られますか。神の本質に関連して語られますか。それとも、神の性質の一部に関連してですか。(神の聖さは、神の本質に関連して語られます。)わたしたちは、所望の話題について明確な足がかりを得なければなりません。神の聖さは、神の本質に関連して語られます。まず、神の本質の引き立て役として、サタンの邪悪さを用いましたが、神の中に何らかのサタンの本質を見出しましたか。人間の本質をひとつでも見出したか。誰か、回答してください。(神様の聖さは唯一無二のものであり、信実であり、真摯であり、神様には堕落したご性質はありません。神様は完全に肯定的で、神様が人間に与えられる物事も、すべて肯定的である。)(神様の本質は全て肯定的で、神様が明示されることは全て人間の救いと、人間が正常な人間らしさを生かし出すためです。それは、神様が人間を真に保護するため、人間が正常な人間性を生かし出す実現するためです。)正常な人間性を生かし出す実現するためだけですか。(人間が本当に真理を知るためです。神様の聖さは、神様の人間に対する真の愛と救いです。)(神様の本質が明示することは全て肯定的である。神の真実性、信実さ、無私さ、謙虚さ、そして神の人間に対する愛は、全て神の聖なる本質を表出しています。)(神は傲慢でも利己的でもなく、裏切ることもなく、この面でも神様の聖なる本質が明示されています。)なるほど。他に追加することはありますか。(神様には、サタンの堕落した性質の形跡が全くありません。サタンであるものは完全に否定的なものである一方、神様のもつものはすべてが肯定的です。神様は常に人間のすぐ傍らにいらっしゃることがわたし達にはわかります。幼時期から成熟した現在に至るまで、とくに道を見失った時、神様は常に共にいて人間を見守られ、安全に保たれました。神様には偽りや誤魔化しがありません。神様は明瞭かつ分かりやすく御言葉を述べられ、それもまた神様の真の本質です。)よろしい。(神様の御業には、他意も、豪語も、空虚な約束も、偽りも無く、サタンの堕落した性質は一切見られません。人間が信じることが出来るのは神様のみであり、神様の御働きは信実で真摯です。神様の御働きからは、神様が人間に誠実であるように、知恵を得るように、善悪を見分けることができるように、そして様々な人々、出来事、物事に対して分別を持つように、と言われているのが分かります。そこに神様の聖さが見えます。)。それで全てですか。(はい。)自分の回答に満足していますか。あなたがたは心で本当にどの程度、神に関して理解していますか。神の聖さをどの程度理解していますか。あなたがたは、それぞれ心の中にある程度の知覚的理解を持っていることは知っています。なぜなら全員が自分に対する神の働きを感じることができ、また程度の差があるものの、全員が多くの物事を神から得ているからです。神から恵みや祝福を受け、啓きと光を受け、神の裁きと刑罰を得ているので、神の本質に関して、ある程度の簡単な認識があるでしょう。

 本日話し合っている神の聖さは、大部分の人々にとって奇妙に感じられるかもしれませんが、どのように感じるかにかかわらず、この話題を始めたので、あなたがたは、今後道を進んでいくにつれて一層深い理解を得るでしょう。自分自身の経験のなかで、徐々に感じ、理解するようになる必要があります。現在、神の本質に関するあなたがたの知覚的理解には、学び、確認し、実感し、経験するための長い時間が必要です。やがて心から神の聖さが、神の完璧な本質であり、神の無私な愛であり、神が人間に与える物事のすべてが無私であることを知り、神の聖さは汚れ無く、非難の余地が無いことを知るでしょう。神の本質は、神が自身の身分を誇示するために用いるただの言葉ではなく、むしろ神は神の本質を用いて、静かに、真摯に個々の人間を取り扱うのです。つまり、神の本質は空虚なものでも、理論的なものでも、教義上のものでも無く、ましてやある種の知識などでは無いのです。神の本質は人間のための教育の一種ではなく、神自身の行ないの真の顕示であり、神がもつもの、神であるものの本質の顕示です。人間はこの本質を知り、理解しなければなりません。なぜなら、神が行なうこと、神が言う言葉は全て偉大な価値があり、一人ひとりの人間にとって極めて重要であるからです。あなたが神の聖さを理解した時、あなたは神を真に信仰することができ、神の聖さを理解した時、「唯一の神自身」という言葉の真意を本当に理解できます。あなたは他の道を歩むことも可能であると想像することはもはや無く、神があなたのために用意した全てを裏切ろうとはもはや思わなくなります。神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみいのちに通じる明るい正しい道を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人生を送ることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができます。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、これ以上苦しまないよう、辛苦の海からあなたを救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。無私にあなたを救うのは神自身のみであり、あなたの将来や運命、人生に究極的に責任を負うのは神のみであり、神はあなたのためにあらゆる物事を手配します。これは、被造物や非被造物のいずれも成し得ないことです。被造物や非被造物に、このような神の本質を持つものは存在しないので、あなたを救い、導く能力のある人や物は存在しません。これが人間にとっての神の本質の重要性です。あなたがたは、わたしがたった今語ったこれらの言葉が原理的に多少役立つであろうと感じるかも知れません。しかし、あなたが真理を求め、真理を愛しているのであれば、今後わたしの言葉はあなたの運命を変えるのみならず、人生の正しい道へとあなたを導くでしょう。あなたがたは、このことを理解していますね。(はい。)それでは、あなたがたは神の本質を認識することに、今では多少の関心がありますか。(はい。)関心を持つことは良いことです。それでは、神の聖さを認識することに関する本日の話題をここで締めくくります。

 本日の集会の最初にあなたがたがしたことでわたしを驚かせたことについて話します。あなたがたの中にはありがたく思っていたり、感謝の気持ちを抱いていたりして、その思いを身体的に表現したかったかも知れません。それは咎められることではなく、正しくも誤ってもいません。しかし、あなたがたに理解して欲しいことがあります。それは何でしょうか。まず、あなたがたが、たった今したことについて質問します。それは礼拝のためにひれ伏したのですか、ひざまずいたのですか。誰か答えられますか。(ひれ伏していたと思います。)あなたがたがひれ伏していたと思っているということですが、その意味は何ですか。(礼拝です。)それでは、ひざまずいて礼拝することとは何でしょうか。これまであなたがたとこのことについて話し合ったことはありませんが、今日はこのことを話す必要があると感じます。あなたがたは普段の集会でひれ伏しますか。(いいえ。)祈るときにはひれ伏しますか。(はい。)条件が許す場合、祈る度にひれ伏しますか。(はい。)それは素晴らしい。しかし、ここでわたしがあなたがたに理解してもらいたいことは何でしょうか。それは、ひざまずくことが神に認められる二種類の人間についてです。聖書を参照したり、霊的人物の行動を参照したりする必要はありません。わたしが今ここで、ある真実を述べます。まず、ひれ伏して礼拝することと、ひざまずいて礼拝することは同じではありません。ひれ伏す者がひざまずくのを神が受け入れるのは何故ですか。それは、神が誰かを呼び、神からの任務を受け入れるよう命ずるのですから、その人は神の前でひれ伏します。これが第一の種類の人間です。第二の種類は、神を畏れ、悪を避ける人間がひざまずいて礼拝することです。この二種類の人間があるだけです。あなたがたはどちらの種類に属していますか。答えられますか。多少気持ちが傷つく人もいるかも知れませんが、これは事実の真相です。祈りを捧げる際に人々がひざまずくことについては、何も言うことがありません。それは適切であり、然るべきものでしょう。なぜなら、人々が祈る時大抵は、神に対して自分の心を開き、神と対面して、何かを求めて祈っているからです。それは神との心と心の意思疎通、意志交換です。単なる形式として行なうなら、そうあるべきではありません。本日のあなたがたの行動について咎めるつもりはありません。あなたがたがこの原則を理解できるように、明確にしたいだけなことはわかりますね。(はい。)それならば、そうした行動を続けないで欲しい。それでは、人間が神の前でひれ伏し、ひざまずく機会はあるでしょうか。今後、機会は必ずあるでしょう。遅かれ速かれ、その時が来ますが、それは今ではありません。わかりますか。(はい。)このように伝えると、悲しくなりますか。(いいえ。)よろしい。こうした言葉はあなたがたの動機付けや激励となり、あなたがたは現在における人間と神との窮状や、人間と神との関係がどのようなものであるかを心で理解することができるかもしれません。最近、わたし達はずいぶん話し合い、交流していますが、神に関する人間の認識は、未だに十分と言うには程遠いです。人間が神を認識するために進むべき道のりは、まだ先が長いです。わたしの意図は、あなたがたに早急にそうさせることでも、そうした意欲や感情を示させることでもありません。あなたがたが本日取った行動は、おそらくあなたがたの真の気持ちを示し表現するもので、わたしはそれを感じました。そうしたわけで、あなたがたがそうしている最中、わたしは立ち上がって、あなたがたの幸いを願う気持ちを表したかったのです。なぜなら、わたしはあなたがた全員の幸いを願っているからです。わたしは、あらゆる言動において、あなたがたがあらゆることを正しく理解して正しい見方ができるように、あなたがたを助け、導くことに最善を尽くしています。このことは理解できますね。(はい。)それは良かったです。人々は、神の様々な性質、神がもつもの、神であるものの側面、また神の働きについてはある程度理解しているものの、この理解の大部分が、表面的な読書、原理の理解、あるいは単にそれらについて考えることに留まっています。人間に最も不足しているのは、実経験から得られる真の理解と見解です。神は、人間の心を目覚めさせるために様々な方法を用いているものの、人間の心がついに目覚めるまでの道のりは、まだ先が長いです。わたしは、神に取り残され、無視され、見捨てられたように誰かが感じるのを見たくありません。わたしは、あなたがた全員が真理と神への理解を追求し、揺るがぬ意志で、不安や負担なく、勇気を持って前進することを望んでいます。あなたがこれまでどのような悪いことを行なったとしても、どれほど大きく道を外れたとしても、どれほど過ちを犯したとしても、そうしたことを神を知ろうとする追求における負担や重荷としてはなりません。絶えず前進しなさい。それが何時起ころうと、人間の救いである神の心は決して変わりません。これが神の本質のなかで最も貴い部分です。これで、少し気持ちが楽になりましたか。(はい。)あなたがたが万事において、そしてわたしが語った言葉に関して、正しく取り組めることを願っています。それでは、これでこの会を終わりましょう。皆、ごきげんよう。(ごきげんよう。)

 脚注:

 a.原文は「人間による科学の追究と奥義の探索を満足させる」。

 b.原文では「の泥沼」が省略されている。

2018年10月19日金曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「神の義なる性質、すなわち神の怒りと憐れみは、時間と場所を問わず、全ての物事において表出される。神は、こうした側面をありとあらゆる所で、ありとあらゆる瞬間に、鮮明に表出する。」


2018年10月5日金曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 5」2


 神による愛の定義、そして神が愛について述べる方法は、神の本質の一側面と関連しているが、その側面とは何であろうか。前回は、極めて重要な主題に関して伝えたが、それは人間が頻繁に取り上げて議論してきた事項であり、神への信仰のなかで頻繁に述べられる言葉であるが、その言葉は人間にとって親しみがあり、しかし馴染みの薄いものでもある。しかしそれは何故だろうか。それは人間の言葉に由来する言葉であり、人間にとってその定義は明瞭でありかつ曖昧でもある。しかしその言葉とは何であろうか。(聖さである。)そう、聖さである。それが前回伝えた主題であった。この主題については少し伝えたが、伝えた内容は不完全であった。前回伝えた部分に基づいて、全員が神の聖さに関して新たな認識が得られたであろうか。(得られた。)その新たな認識とは何であると、あなたがたは考えているであろうか。つまり、その認識ないし言葉のうち、神の聖さについてわたしが伝えた事柄が、神の聖さに関するあなたがたの認識と違う、あるいは差があるとあなたがたに感じさせた事柄は、何であろうか。あなたがたは覚えているだろうか。前回伝えた事柄は印象に残っているであろうか。(神は、神の御心で感じられていることを述べられ、それは純真である。これが聖さのひとつの側面である。)それはひとつの側面である。そのほかには、何かあるだろうか。(神が人間に対して怒りを感じる場合にも聖さがあり、それは汚れが無いものである。)(神の権威に、完全さ、誠実さ、知恵、そして万物支配を見る。これらの事柄を理解している。)「万物支配」は神の権威に関する事柄である。ここでは神の聖さについて話をしている。(神の聖さに関し、神の義なる性質には、神の怒りと憐れみがあるということが分かった。それが印象深かった。そのことでは、神の義なる性質が唯一のものであることについても伝えられたが、以前はそうした理解もなく、そうした定義付けもしていなかった。しかし前回伝えられた中で、神の怒りが人間の怒りとは違う事について語られた。神の怒りは、いかなる創造物にも無いものである。神の怒りは肯定的なものであり、原則に基づくものであり、神固有の本質が原因となって与えられるものである。その原因は神が悪なるものを見られたことであって、それにしたがって神の怒りが発せられる。神の憐れみもまた、いかなる創造物にも無いものであることが分かる。人間の行いが善良であり、義なる行動で、憐れみと類似していると考えられる場合でも、それは純真ではなく、その背景には動機がある。いわゆる憐れみには、偽のものや空虚なものさえある。しかし、神が人間に対して憐れみを示された時、そこに神の救いを見てきたが、その憐れみにより人間は直接的に救いの道に置かれる。その憐れみにより、人間は神を信仰する正しい道に置かれるので、人間は美しい終着点と希望を与えられる。このように、神の憐れみは神の本質に含まれている。したがって、神が怒りによって、ある町を滅ぼされたとしても、神には憐れみ深い本質があるので、神は時間や場所を問わずに憐れみを示され、その町の人々を保護されることができる。私はそのように理解している。)あなたは、神の義なる性質について、ある程度理解している。

 たった今あなたがたに質問した時、あなたがたのうち大部分の者が、神の愛は極めて大きく、また実在するものであると認識しているが、あなたがたには神の聖なる本質に関する認識が欠如している。本日の主題では、この部分、すなわち神の聖さに関する認識について話をする。人間は往々にして神の義なる性質と神の聖さを関連づけ、また人間は皆神の義なる性質について知っているし、その詳細について聞いたことがある。さらに、多くの人々が、交わりの中で神の義なる性質は聖なるものであると言って、神の聖さと義なる性質を結びつける。「聖さ」という語については、皆知っており、一般に用いられる語であるが、この語の含意について、人間は、どのような聖さの現れを見ることが出来るであろうか。神は、人間が認識可能なものとして、何を明示しているであろうか。残念ながら、これについて知っている者はいない。神の性質は義であると言うが、神の義なる性質について、それが聖なるものであると言った場合、それは少し曖昧に感じ、困惑する。何故であろうか。神の性質が義である、あるいは神の義なる性質が聖なるものであると言うが、あなたがたの心の中では、神の聖さにはどのような特徴があり、神の聖さをどのように理解しているであろうか。つまり、人間が聖なるものであると認識するのは、神が明示したものごとや、神であるすべて、神の持っているすべてであろうか。あなたがたは今までそうしたことについて考えたことがあるだろうか。人々が一般に用いられる言葉を頻繁に述べることや、人々が何度も繰り返して言う文句がある一方で、そうした人々は自分が言っていることをまったく知らない、という状況が見受けられる。人々は皆、そのように習慣的に口にするので、それが決まり文句になる。しかし、そうした人々がそれを詳しく調べたとしたら、自分はそうした決まり文句の真意や、それが何を指すかを知らないということに気付くであろう。たとえば「聖なる」という言葉は、神の聖さに関し、それが神の本質のどの側面を指しているかを知っている者はいない。「聖なる」という言葉を神と調和させることに関して知る者はおらず、人々は困惑し、神が聖なる存在であることの認識のしかたは、広範にわたる。しかし、あなたがたがそのことを考えた場合、神はどのように聖なる存在であるのであろうか。それを知っている者はいるだろうか。残念ながら、この問題について明瞭に把握している者はいない。本日は、神の聖なる本質に関する実際の内容を理解できるように、「聖なる」という言葉を神と調和させるという主題について伝える。そうすることで、一部の人々が、不注意にこの言葉を習慣として用いたり、意味を知らず、自分の考えが正しいか否かを知りもしないのに、物事をみだりに語ったりするのが防がれるであろう。人々は、常にこうした話し方で「聖なる」という言葉を用いる。あなたも、私も「聖なる」という言葉を用いるが、それが人々の習慣的発言となり、よって意図せず「聖なる」という言葉を汚している。

 「聖なる」という言葉は、表面的には極めて分かりやすいであろう。人々は、少なくとも「聖なる」という言葉が、たった今歌った聖歌「汚れ無き純真な愛」の内容のように、「清らかで汚れなく、神聖で純粋であることを意味すると考えている。この聖歌では「聖なる」と「愛」が組み合わされているが、神の愛は神の本質の一部であるので、これは正しいが、それが全てではない。しかし、人間の考えでは、この言葉を純粋で清らかである、あるいは汚れや染みがないと自分が思うものごとと関連づける傾向がある。たとえば、蓮の花が清らかであると言う人々がいるが、そうした人々は、どのようにしてこの花をそのように定義しているだろうか。(「蓮の花は泥の中で育つが、汚れのない花を咲かせる」)泥水の中から汚れない花を咲かせるので、人々は蓮の花に「聖なる」という言葉を適用するようになった。誰かが書いた恋愛小説やその内容を聖なるものと考える人や、偉業を成し遂げる架空の主人公を聖なるものと考える人々もいる。さらに、聖人や使徒、神が働く時に神に従った人々など、聖書の登場人物や霊的内容を取り扱う書籍で取り上げられている人物について、そうした人物の霊的体験が聖なるものであると考える人々もいる。こうした事は、全て人間が考えた物事であり、人間が考える概念である。人間がこうした概念を抱くのは何故であろうか。その理由はひとつであり、その理由は明解である。それは、人間が腐敗した性質のなかで生活し、邪悪と汚れの世界に住んでいるからである。人間が見るもの、触れるもの、体験するものは、全てサタンの邪悪さと堕落であり、サタンの影響下における人間同士に発生する策謀と内紛、戦争である。したがって、神が人間に対して業を行う時、さらには人間に言葉を述べ、人間に対して神の性質と本質が示された時ですら、人間は聖さとは何かを理解し、受け容れることが出来ない。その上、このことは、神は聖なる存在であると人間が頻繁に述べる根拠となっている。人間は汚れと腐敗のなかで生活しており、サタンの支配下にいるため、人間は光を見ず、有益な物事を知らず、また真理を知らない。したがって、聖さとは何かを真に知る者は、ひとりもいない。それを踏まえると、腐敗した人間世界に聖なる物や聖なる人間が存在するであろうか。(存在しない。)確実に存在しないと言える。なぜなら、聖なるものは、神の本質のみだからである。前回は、神の本質の聖さに関して少し伝え、伝えた内容は神の聖さに関する人間の知識を知る手がかりとなったが、十分な内容ではない。前回の内容は、人々が神の聖さや、神の聖さが唯一無二のものであることを完全に理解する上で十分に役立てられるものではない。さらに、前回の内容では、神において完全に具現化されている聖さの真の意味に関する側面を人々が理解できるようにすることが、十分にできない。したがって、この主題に関して引き続き伝える必要がある。前回の第3部においては、3つの事項について話をしたので、ここではまず聖句を読むことから始めて、4番目の事項について話をする。

2018年9月25日火曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「神の性質を理解することの並ならぬ重要性」


全能神は言われた。「神の性質を理解しなければ、神のためにあなたが行うべき働きを成すことは不可能である。神の本質を知らなければ、神に対する畏怖および畏敬の念を保つことも不可能であり、いいかげんな形式主義と投げやりな態度だけで、さらには救い難い冒涜のみが残るであろう。神の性質を理解することは極めて重要であり、神の本質についての認識は疎かにできないものの、これを徹底的に調べ、掘り下げて考える者はいなかった。わたしが発布した行政を皆が見過ごしているのは明らかである。神の性質を理解しなければ、神の性質を簡単に犯すことになる。このような悪行は、神自身を激怒させることに等しく、最終的には行政に触れるだろう。ここで認識すべきことは、神の本質を知るときに神の性質を理解できること、そして神の性質を理解することは行政を理解することに等しいということである。もちろん、行政の多くは神の性質が関わるものであるが、それらに神の性質の全てが表されているわけではないため、神の性質をさらによく理解することが必要となる。」 『言葉は肉において現れる』より

2018年9月8日土曜日

全能神教会御言葉の抜粋「神の性質と神の業の結果を知る方法」10

 人間の運命は、神に対する人間の姿勢で決定される

 神は、生きている神であり、人間が様々な状況に対して様々な方法で対応するように、そうした行動に対する神の姿勢も異なる。なぜなら、神は操り人形でも、空気のような存在でもないからである。神の姿勢について知ることは、人間にとって追究の意義があることである。人間は、神の姿勢を知ることにより、神の性質を知り、神の心を少しずつ理解できることを知る必要がある。神の心を少しずつ理解する時、神を畏れ、悪を避けることは、実行するのが困難だとは感じなくなるであろう。さらに、あなたが神を理解した時、神に関して結論を出すことは、それにも増して困難である。神に関する結論を出すことを止めた時、あなたが神を侵害する可能性が低下し、無意識のうちに神はあなたを導いて神に関する認識を与え、よってあなたは、心から神を畏れるようになるであろう。あなたは、自分が習得した教義や文書、理論などで神を定義するのを止めるであろう。そのかわりに、万事において神の趣意を常に求めることにより、あなたは無意識のうちに神の心を求める人間となる。

 神の業は、人間が目で見ることも触れることも出来ないものであるが、神に関しては、各人のあらゆる行動と、神に対する姿勢は、神にとって認識できるだけでなく、見ることが出来るものである。このことは、全ての人が認識し、明確に理解する必要のある事柄である。あなたは、常々自分に対して「神は、私がここで何をしているか知っているだろうか。神は、私が今何を考えているか分かるだろうか。知っているのだろうか、それとも知らないのだろうか。」などと問いかけるであろう。あなたがこのような観点で、神に付き従い、神を信仰しつつ、神の業や存在を疑っているのであれば、遅かれ早かれ神の怒りに触れる日が訪れるであろう。なぜなら、あなたは既に危険な崖の縁をよろめき歩いているからである。これまでに、長年にわたり神を信仰し続けてきたものの、真理の現実を未だに得ておらず、神の心を理解していない人々を大勢見てきた。こうした者のいのちの背丈は、極めて浅薄な教義に従うだけで、全く進歩していない。これは、そうした者が、神の言葉を自らのいのちとして捉えず、神の存在を直視して神の存在を認めたことが無いからである。あなたは、神がこうした者を見て、喜びに満たされると思うであろうか。こうした人々に神の心が安らぐであろうか。その場合、人間の運命は、人間が神を信仰する方法により決まる。問題となるのが、あなた方がどう神を求めるかであれ、どう神を扱うかであれ、最も重要なのは、あなた方の姿勢である。神を、あなた方の頭の後ろにある空気のようなものとして軽視しないこと。あなた方が信仰する神を、常に生きている神、実在する神と考えること。神は手持ち無沙汰で第三の天にいることは無く、神は常に人間それぞれの心や、それぞれ何をしているか、些細な発言や行動、神に対してどのような態度であるか、どのような姿勢であるかを、くまなく見ている。あなたが進んで自らを神に捧げるか如何を問わず、あなたのあらゆる態度、心の奥深くにある考えや思いのすべてが、神の前にあり、神に見られている。あなたに関する神の意見や姿勢は、あなたの態度、行動、神に対する姿勢に従って、継続的に変化している。あたかも神があなたを溺愛しなければならず、神があなたから離れることが出来ず、神のあなたに対する姿勢が永遠に変わらないかのように、神の手の中にいる乳児のような立場に自らを置く者に勧告するが、そのような空想は捨てること。神は、人間ひとりひとりの扱いにおいて、義である。神は、人間の征服と救いの業に、熱心に取り組んでいる。それが神による経営である。神は人間ひとりひとりを、愛玩動物のようにではなく、真剣に取り扱う。神の人間に対する愛は過保護や甘やかしではなく、人間に対する神の慈悲と寛容は、大目にみることでも無頓着でもない。むしろ、神の人間に対する愛は、大切にし、憐れみ、いのちを敬うことである。神の哀れみと寛容は、神の人間に対する期待を伝えるものであり、人類の存続に必要なものである。神は生きており、実在する。神の人間に対する姿勢には原則があり、一切独善的ではなく、また変化しうるものである。人類に対する神の心は、時間や状況、各人の姿勢に従って、徐々に変化している。したがって、あなたは、このことについて明確に理解し、また神の本質は変化し得ず、神の性質は様々な時期に様々な状況で表出することを理解すべきである。あなたはこれが深刻な問題であると考えず、自分自身の考え方を用いて、神がどのように業を行うべきかを想像するかも知れない。しかし、あなたの観点とは全く正反対の物事が真実である場合もあり、自分自身の考え方で神を試みて神を測ることにより、あなたは既に神の怒りを買っている。これは、神はあなたが考えるように物事を対処するのではなく、またこの問題に対する神の対処方法も、あなたが言うような方法では無いからである。ゆえに、身の回りの物事全てに対し、注意深く慎重に接し、全てのことにおいて、神を畏れ、悪を避けるという原則に従って神の道を歩むことを学ぶよう、あなたに伝えておく。あなたは、神の心と神の姿勢に関する諸問題を確実に理解する必要があるので、あなたに伝えることのできる目が開かれた人々を見つけて熱心に求めるように。自分が信じる神を、操り人形のようなものと捉えたり、任意に判断して勝手に結論を出したり、神に相応しい敬いの念をもって神を扱わないようなことの無いように。神の救いの過程や神があなたの結末を決定する時、神があなたに与えるのが、哀れみであるか、寛容であるか、裁きであるか、刑罰であるかを問わず、あなたに対する神の姿勢は一定ではない。その姿勢は、あなたの神に対する姿勢や、あなたの神に関する理解により異なる。あなたの一時的な認識や解釈で神を永久的に定義しないこと。死んだ神でなく、生きている神を信仰すること。それを覚えておくように。ここでは、あなた方の現在の状態と背丈に応じて、あなた方が知るべき真理をいくつか話したが、あなた方の情熱を奪わないよう、わたしはこれ以上の事を求めることは控える。そうしなければ、あなた方の心は過度に荒涼として、神に対して過度に落胆するおそれがあるからだ。あなた方が落ち込まずに、あなた方の心にある神への愛と、神を敬う姿勢を用いて今後の道を歩んでほしい。神への信仰をどのように扱うかに関する問題で混乱しないこと。その問題を、最も重要な問題のひとつとして扱うこと。その問題を自分の心に留め、実行に移し、実生活と関連させること。口先だけの美辞麗句として用いないこと。なぜなら、これは生死にかかわる問題であり、あなた方の運命を決める問題だからである。この問題を子どもの遊びのような、冗談として扱わないこと。本日の話をした内容から得た、あなた方の知識的な収穫は何であろうか。本日の話について、何か質問したいことはあるだろうか。

 本日の話の主題は、多少新しい内容であり、あなた方の観点や、通常あなた方が追求し、留意する物事から離れたものであるが、暫く聞いているうちに、本日話した内容が全て皆一様に理解できるようになるであろう。これらの事項は、以前あなた方が考えたことの無かった新しい事項であるが、あなた方の負担とならないことを望んでいる。本日の話は、あなた方を怖がらせるためのものでも、あなた方を取り扱いしようとするものでも無く、事実の真相をあなた方が理解するのを支援することが目的である。結局、神と人間の間には距離がある。人間は神を信じているものの、人間は神を理解したことは無く、神の姿勢を知ったことは無い。神の姿勢に関する懸念をどう払しょくするかを熱心に解決しようとしたことはない。むしろ、人間は盲目的に信仰し、盲目的に生き続け、神に関する認識と理解について不注意であった。したがって、あなた方のそうした問題を解消し、あなた方が信仰する神が、どのような神であるか、何を考えているか、様々な人々を取り扱う際に、どのような姿勢であるか、あなた方は神の要求を完全に満たした状態からどれくらい離れているか、あなた方の行動と神が要求する基準の間に、どの程度差があるかを理解できるように支援する必要があると感じた。それをあなた方が知ることの目的は、それを用いてあなた方が歩んでいる道がどのような収穫に繋がっているか、その道であなたが得られなかった事柄、あなた方が関与していない領域には、どのようなものがあるかを計測し、理解する基準を、あなた方の心の中に与えることである。あなた方が互いに話し合う時、通常は一般的な事項について話をするが、その範囲は狭く、内容は浅薄である。神の趣意と、あなた方が話し合う事柄の間、あるいはあなた方の会話と、神の要求の範囲や基準の間には、隔たりがある。そのような状態が長期的に進行すると、あなた方は神の道から益々外れて行く。あなた方は既存の神の言葉を取り上げて、それを崇拝対象や儀式、規則に変える。それが全てである。事実、神はあなた方の心に全く存在せず、神はあなた方の心を得たことが無い。神を知る事は極めて困難だ、という者がいるが、それは事実である。神を知る事は確かに困難である。人々が自分の本分を尽くして外でやるべき事をやり遂げるように命じられるなら、勤勉であるようにと命じられるなら、人々は、神への信仰は至って容易であると考える。なぜなら、それらは全て人間の能力の範囲内だからである。しかし、神の趣意や人間に対する神の姿勢の話になると、誰にとっても問題は遙かに困難になる。そうした問題には、真理に関する人間の理解と、現実に入ることが関与するからである。ある程度困難なのは当然のことである。しかし、最初の扉を通過して中に入った後は、次第に容易になってゆく。

 神を畏れることは、神を神として扱うことから始まる

 ある者から質問があった。その質問は、現在人間は、ヨブよりも神に関する認識が多いにもかかわらず、人間が神を畏れられないのは何故か、ということである。この問題については、先般少しだけ触れたであろう。事実、この問題の本質、すなわちヨブは当時、神を知らなかったが、ヨブは神を神として取り扱い、神を天と地にある万物の主とみなした件についても以前に話をした。ヨブは神を敵とはみなさなかった。むしろ、ヨブは神を万物の創造主として崇めた。現在、人間が神をこれほどまでに拒否するのは、何故だろうか。現在の人間が、神を畏れられないのは、何故だろうか。その理由のひとつとして、現在の人間がサタンにより深く腐敗させられていることがある。そうした人々にはサタンのような本質が深く浸透しており、そうした人々は神の敵となる。したがって、そうした人々は神を信仰し、認めているものの、神を拒み、自らを神の敵としてしまうことがある。それは人間の本質により判断される。もうひとつの理由は、そうした人々が神を信じている一方で、神を神として取り扱わないことである。そうした人々は、神を人間に反対する存在と考え、敵と見なし、神と和解することが出来ない。それほど単純なことである。この問題については、前回話をしたであろう。考えて欲しいのだが、そのことが理由であろうか。あなたには神に関して多少の知識があるが、その知識とは一体何であろうか。それは皆が話題にしていることではないだろうか。それは神があなたに伝えた事ではないだろうか。あなたは、理論上、教義上の側面しか知らないが、神の実際の側面を体験したことがあるだろうか。あなたには、主体的な知識があるだろうか。あなたには、実践的な知識と経験があるだろうか。神が伝えなかったとしたら、その知識を得られたであろうか。あなたの理論上の知識は、本当の知識ではない。つまり、あなたにどれほど知識があるか、あなたがその知識をどのようにして得たかを問わず、神に関する真の知識を得る以前において、神はあなたの敵であり、あなたが神を神として取り扱うまで、神はあなたに敵対する立場に置かれている。なぜなら、あなたはサタンの化身だからである。

 あなたがキリストと共にあるのであれば、あなたはキリストに毎日3回の食事を振る舞い、おそらくお茶も振る舞い、生活に必要な物事を手配し、外見上キリストを神として扱うだろう。何か起きると、人間の観点は、常に神の観点と相反するものになる。人間は神の観点を理解できず、受け入れられない。人間は表面上では神と折り合いが付くかも知れないが、それは神と一致することを意味するものではない。何かが起こるとすぐに、人間の不服従の真実が現れ、人間と神の間にある敵対心が確認される。この敵対心は神が人間に敵対しているのでも、神が人間に敵対することを望んでいるのでも、神が人間を敵対する立場に置き、敵対するものとして扱っているのでもない。むしろ、それは人間の主体的意志と無意識の精神に潜む、神に敵対する本性の問題である。人間は神に由来するもの全てを研究対象とみなすので、神に由来する物事や神が関与する物事に対する人間の反応は、何よりも推測し、疑念を抱き、すぐに神と矛盾し神に反する姿勢を取ることである。その後、人間はそうした受動的な精神状態となり、神と対立し、神と争い、そうした神は人間が従うに値するかどうか疑念を抱くことさえある。人間の理性は、今後はそのようにあるべきでは無いと言うものの、人間はそうすることを選び、何も躊躇せずに、最期まで一貫してそのまま続行する。たとえば、神に関する噂や悪口を人間が聞いた時の最初の反応は、どのようなものであろうか。最初の反応は、その噂の真偽を知らないし、実在するかどうかも分からないので、様子を見よう、というようなものであろう。その後、人間は、それを確かめることは出来ないが、それは存在するのだろうか、その噂は本当だろうか、と考える。この者は、そのような思いを表に出さないが、その者の心には既に疑念が生じ、神を否定し始めている。こうした姿勢や観点の本質は、何であろうか。それは裏切りではなかろうか。人間がそうした問題に遭遇する以前は、その者の観点を知ることは出来ず、その者は神と敵対しておらず、神を敵とみなしていないように思われる。しかし、その者が、その問題に直面するとすぐに、人間はサタンの味方をして、神と敵対する。このことにより示されている事は、何であろうか。それは、人間と神が敵対していることを示している。それは、神が人間を敵として扱っているのではなく、人間の本質自体が神に敵対するものだからである。どれ位の期間神に付き従っているか、どの程度の代償を支払うか、どの程度神を称えるか、どう神を拒否せずにいるか、それだけでなく自らに対して神を愛すよう促しているかを問わず、人間は決して神を神として扱うことができない。それは人間の本質により決定されることではなかろうか。あなたが神を神として扱い、神が神であることを心から信じている場合、あなたは依然として神に対して疑念を抱くであろうか。自分の心の中の神に対して疑問があり得るであろうか、というと、それは有り得ない。この世の傾向は極めて邪悪であり、人類も極めて邪悪である。こうした人間に関して、あなたが何も認識していないのは、何故だろうか。あなた自身、極めて邪悪である。あなたにはその認識が無いのは、何故だろうか。しかし、一部の噂や悪口には、神に関する極めて大きな概念を生み出し、極めて大量の考えを生み出すものもあり、それにより、あなたの背丈がどれほど未熟であるかが示されている。何匹かの蚊や煩わしい蝿の「羽音」だけで、あなたを欺くには十分であろうか。これはどのような種類の者であろうか。神がこのような者をどう思っているかを知っているだろうか。実際には、こうした者を神が取り扱う姿勢は、極めて明瞭である。こうした者に対する神の処遇は、単に冷遇されるだけである。神の姿勢は、そうした者に留意せず、そうした無知な人々を本気で相手にしないことである。それは何故であろうか。それは、神の心では、そうした意を決して最期まで神に反抗し、神と親和する方法を求める計画が一切無い人間を得る計画は、一切無いからである。わたしが述べた事により傷付く者が少なからずいるであろう。あなた方は、わたしの言葉で常に傷付くことを望むであろうか。あなた方がそう望むか如何を問わず、わたしの述べた事は全て真理である。わたしが常にあなた方を傷つけ、あなた方の傷を露わにするようであれば、それはあなた方の心の中にある高尚な神の姿に影響を与えるのではなかろうか。(そのようなことは無い。) わたしもそのような事が無いと思う。なぜなら、単にあなた方の心には、神が存在しないからである。あなた方の心の中にいる高尚な神、あなた方が守ろうとする神は、神ではない。それは、人間の想像の産物であり、その神は存在しない。したがって、この問題の答えをわたしが述べた方が、格段に良い。それが真実の全てではないだろうか。真の神は、人間の想像物ではない。あなた方全員がこの事実を認めることが出来ることを願っている。そうすることは、あなた方の神に関する認識に役立つ。

 神に認められない人々

 神の心において、自分の信仰が認められたことの無い人々がいる。換言すると、そうした人々の信仰を神が讃美しないため、そうした人々が神に付き従う者であることを、神が認めない。こうした人々は、何年にわたり神に付き従って来たかによらず、自分の考えや観点は全く変わらない。こうした人々は、信仰を持たない人々のようであり、信者以外の原則や作法に従って物事を対処し、信者以外の人々が持つ生存の規則や信念を遵守している。こうした人々は神の言葉を自分自身のいのちであることを決して認めず、神の言葉が真理であると決して信じず、神の救いを受ける意志が一切無く、神を自らの神として認めたことが一度も無い。こうした者は、神に対する信仰を、一種の余暇活動の趣味として捉え、神を単なる霊的な必需品のように扱っているため、神の性質や本質を理解しようとすることが有意義だと考えていない。真の神に該当する物事全てが、こうした人々に無縁であると言えるであろう。こうした人々は無関心であり、わざわざ反応することも無い。これは、こうした者の心の深部において、神は視認できず、触れる事も出来ず、したがって神は存在しない、と常に激しい口調で伝える声があるからである。こうした人々は、そのような神を理解しようとすることは、努力に値しない、自分自身を騙そうとしているだけだと考えている。こうした人々は言葉で神を認めるのみで、本気で証しをすることは無い。また、こうした人々は実践的には何もせず、自分達が利口だと考えている。神は、こうした人々のことを、どう思うであろうか。神は、こうした人々を、信者以外の者とみなす。「信者以外の者が神の言葉を読めるだろうか。その者が自分の本分を尽くせるだろうか。その者は『私は神のために生きる』と述べられるだろうか」と質問する者がいる。多くの場合、人間が見るのは、人々の表面的な物事であり、その本質ではない。しかし、神は表面的な物事を見ず、内面的な本質のみを見る。したがって神には、こうした人々に対してそのような姿勢であり、そのように定義されている。こうした人々が「神はなぜこのようなことをするのだろうか。神はなぜあのようなことをするのだろうか。それは私には理解できない、これは私が理解不可能なことだ、それは人間の考えと一致しない、あなたは私に説明する必要がある」など言うことについて、わたしの答えはこうだ。「わたしがこうした事柄について話す必要があるだろうか。この問題はあなたに関係があるだろうか。あなたは、自分が何者だと考えているだろうか。あなたはどこから来たであろうか。あなたは神に助言する資格があるだろうか。あなたは、神を信じているであろうか。神は、あなたの信仰を認めているだろうか。あなたの信仰は、神と無関係であるが、神の業は、あなたにどのような関係があるというのか。あなたは、自分が神の心の何処に位置するかを知らないが、それでもあなたは神と対話する資格があるだろうか。」

 勧告

 こうした話を聞いて、あなた方は不快であろうか。こうした話を聞きたくない、あるいは受け入れたくないと思うかも知れないが、これらは全て事実である。この段階の業は神が行うものであるので、あなた方が神の趣意や神の姿勢に無関心であり、神の本質と性質を理解しなかったとしたら、結局失うのはあなた方である。わたしの話を、聞くに堪えない、といって責めたり、わたしの話のせいで情熱が冷めた、といって責めたりしないように。わたしは真理を述べているのであり、あなた方を落胆させるつもりは無い。わたしがあなた方に何を求め、あなた方がそれを行うようにどう要求されているかを問わず、わたしはあなた方が正しい道を歩むこと、神の道に従い、そこから外れないことを願っている。神の言葉と神の道に従って進まなかった場合、あなた方が神に反抗し、正しい道から外れてしまっていることは、疑念の余地が無い。したがって、わたしがあなた方のために明確にし、あなた方にはっきりと明瞭に、一抹の疑念も無く信じさせなければならない事柄があると感じている。そうすることで、神の姿勢、神の趣意、神が人間を完全にする方法、神がどのようにして人間の結末を決定するかをはっきりと理解できるようになるためだ。あなた方がこの道に踏み出すことが出来ない日が来た時、わたしには一切の責任が無い。なぜなら、本日の話を、極めて明瞭にあなた方に伝えたからである。あなた方が自分の結末をどのように扱うかについては、完全にあなた方次第である。神は、様々な人々の結末に関し、様々な姿勢をとる。神には、人間を評価する独自の方法と必要条件の基準がある。神が人間を評価する基準は、万人に対して公平なものであることは確実である。そうしたわけで、一部の人々の恐れは不要である。これで安心しただろうか。本日の話はこれで終わりである。ごきげんよう。

2018年9月6日木曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉の抜粋「神の性質と神の業の結果を知る方法」9

 神の業の最中に逃げ出す者に対する神の姿勢

 こうした者はいたる所で見受けられる。こうした者は、神の道について確信した後、諸事情により黙って挨拶もせずに立ち去り、自分の心が望むように行動する。この者が立ち去る理由については、今は話をしない。まず、こうした者に対する神の姿勢について話をする。それは極めて明瞭である。神の観点から見ると、この者が立ち去った時点で、その者の信仰は終わる。それを終わらせたのは、その者ではなく神である。この者が立ち去ったということは、その者が既に神を拒否し、神を求めていないことを意味する。それは、既にその者が神の救いを受け入れないということを意味する。その者が神を求めていないのであれば、神は依然としてその者を求めることができるであろうか。さらに、この者にそうした姿勢と観点があり、神から去ることを決心している場合、この者は既に神の性質を侵害している。たとえ、そうした者が神に対して怒りを爆発させることも神を罵ることも無く、下劣な行動や過度の行動を取ることも無く、またその者が、「外で十分楽しんで満足するか、神が何らかの理由で再び必要になったら、戻って来よう」、あるいは、「神に呼ばれたら、戻って来よう」などと考えていても、この者は既に神の性質を侵害している。あるいは、こうした者は、「外で傷付いて、外界の闇が暗過ぎて邪悪過ぎて、世の中に流されたくないと思ったら、神のもとへ戻ろう」などと言う。この者は、いつになったら戻るかを自分の心で計算し、戻る可能性を残しているものの、自分でどのように考え、計画したとしても、それが希望的憶測に過ぎないことに気付かない。こうした者の最大の過ちは、自分が立ち去りたいと考えた時、神がどう感じるかが不明瞭なことである。その者が神のもとから立ち去ろうと決めた時から、神は完全にその者を見捨て、心の中でその者の結末を既に決めている。それはどのような結末であろうか。それは、その者がハムスターのような存在のひとつに過ぎず、ハムスターと共に滅びるということである。そして、こうした状況は頻繁に見受けられる。ある者が神を見捨てても、その者は罰を受けない。神は、神自身の原則に従って対処する。人間に見える物事もあるが、神の心の中だけで結論付けられるので、人間にはその結果が見えない。人間に見える物事が必ずしもその物事の真の側面であるとは限らず、人間には見えない側面こそが、神の心の本当の考えと結論である。

 神の業の最中に立ち去る者は、真の道を捨てる者である

 それでは、神がそうした者に深刻な罰を与えるのは何故だろうか。神がそうした者に対して激怒しているのは、何故だろうか。まず、神の性質が威厳であり怒りであることは、わたし達全員が知っている。神は誰かに殺される羊ではなく、ましてや人間の思い通りになる操り人形などではない。 神は人間の言いなりになる空気のような存在でもない。あなたが神の存在を本当に信じているならば、神を畏れる心を持ち、神の本質を怒らせてはならないことを知る必要がある。この怒りを引き起こすものは、言葉かもしれないし、考えやあるいは下劣な行動かもしれない。あるいは穏やかな行動、人間の目と倫理から見て容認できる行動、教義、理論などに起因する場合がある。しかし、あなたがひとたび神の怒りに触れると、あなたの機会は失われ、あなたは終わりの時を迎える。それは極めて悲惨なことである。神に反することが許されないということを理解していなければ、あなた方は神を畏れず、常に神に反している可能性がある。どのようにして神を畏れるかを知らなければ、神を畏れることは出来ず、どのように神の道を歩み、神を畏れ、悪を避ければよいか分からない。それを知った後は、神に反してはならないことを意識し、神を畏れ、悪を避けるとは何かを知ることが出来るであろう。

 神を畏れ、悪を避ける道を歩むことは、必ずしもどの程度真理を知り、どれほどの試練を経験し、どの程度鍛錬してきたか、ということではない。むしろ、それは、神に関して、あなたの心の真髄は何か、あなたの神に対する姿勢がどのようなものかによる。人間の本質と主体的姿勢が極めて重要な鍵である。神を捨て去った者に関し、そうした者の神に対する卑劣な姿勢と真理を軽視する心により、神の性質が侵害される。こうした者が神に赦されることは決して無いであろう。既にこうした者は神の存在を知り、神は既に来たという知らせを受け、神の新たな業を経験してさえいる。こうした者が立ち去ることは、迷いに起因する事例でも、その事に関する理解が不明瞭であった事例でもない。まして、そうした者は、強制的に立ち去らされたものでは決して無い。むしろ、それはそうした者が意識的に、明瞭な精神状態で、神から去ることを選んだものである。そうした者が立ち去ったのは、道を見失ったものでも、捨て去られたものでもない。したがって、神の目から見ると、そうした者は群れから迷い出た羊と同様の事例では無く、ましてや道を見失った放蕩息子と同様の事例でも無い。こうした者は罰を受けずに立ち去った者であり、そうした条件や状況により、神の性質が侵害され、その侵害に鑑みて、神はその者に絶望的な結末を与える。こうした結末は恐ろしいものではないだろうか。したがって、ある者が神を知らない場合、その者は神を侵害する恐れがある。それは決して些細なことでは無い。ある者が、神の姿勢を真剣に受け止めず、またその者は迷える子羊であり、神はその者が改心するのを待ち、その者が戻るのを心待ちにしていると考えているとしたら、その者は罰の日からそれほど離れていない。神はその者が戻るのを拒むだけではない。それは、その者が神の性質を侵害した2度目の事例であり、さらに酷い問題である。その者の不適切な姿勢により、神の行政命令が既に犯されている。神はその者が戻るのを許すであろうか。こうした問題に関する神の原則は、その者が既に真の道を確信しつつ、意識的かつ明瞭な精神状態で神を拒否し、神から離れた場合、神はその者の救いの道を遮断し、神の国の門は、それ以降その者に対して閉ざされる。その者が再び現れて門戸を叩いても、神はその者のために扉を二度と開かないであろう。その者は、永遠に閉め出される。あなた方のうちには、聖書のモーセに関する聖句を読んだことがある者がいるであろう。神がモーセに油を注いた後、250人の指導者たちは、モーセの行動などを理由として、それに不服であった。こうした指導者たちが従うことを拒んだのは、誰であろうか。それはモーセではない。この指導者たちは、神の計画に従うのを拒み、それに関する神の業に従うのを拒んだ。その指導者たちは「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、ヤーウェがそのうちにおられるのに、…」と言った。人間から見て、この言葉は極めて深刻であろうか。この言葉は全く深刻でない。少なくとも、この言葉の文字通りの意味は、深刻ではない。法的な意味では、これらの者は何ら違法ではない。なぜなら、これらの者の言葉は、表面的には敵対的な表現や語句は無く、ましてや冒涜的意義も無いからである。発言内容には、一般的な文しか含まれていない。それでは、こうした語句が神の怒りに触れる理由は何であろうか。なぜなら、これらの者は、人間でなく神に対して語っているからである。これらの者が示した姿勢と性質は、まさしく神の性質、特に侵害してはならない神の性質を侵害するものである。これらの者の結末は、皆知っている。神を捨てた人々に関し、その人々の観点はどのようなものであろうか。その人々の姿勢はどのようなものであろうか。さらに、その人々の観点と姿勢の結果として、神がその人々をそのように扱う結果になったのは何故であろうか。それは、その人々が、それが神であることを明確に認識しつつ、神を裏切ることを選んだからである。その人々が救いの機会を完全に剥奪されたのは、そのためである。それは聖句にある通りである。すなわち、「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。」この問題について、明確に理解したであろうか。

2018年9月2日日曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉の抜粋「神の性質と神の業の結果を知る方法」8

 人間の結末を決定するのは誰か

 重要度が最も高い部類に入る事柄がもう一つある。それは、あなた方の神に対する姿勢である。この姿勢は極めて重要である。この姿勢により、あなた方が最終的に滅びへ向かうか、神があなた方のために計画した美しい終着点へ向かうかが決定される。神の国の時代においては、20年以上にわたり、既に神は業を行っている。その20年間において、おそらくあなた方は、自分の実績について、心中に疑問があるであろう。しかし、神の心の中では、あなた方各人について、実際に正確な記録を取っている。各人が神に付き従い、神の説教を聞き始めた時から始まり、更に真理を理解するようになり、自らの本分を果たす時まで、神はそうした各人の示した事柄全てを記録している。ある者が自分の本分を尽くした時、あるいは様々な難しい状況や試練に遭遇した時、その者の姿勢は、どのようなものであろうか。この者は、どう行動するであろうか。この者は、心の中で、神に対して、どう感じるであろうか。神は、そうしたすべてを考慮し、記録している。あなた方の立場から見ると、これらの問題は難解かも知れない。しかし、神の立場から見ると、それは全て明瞭であり、いいかげんな部分は少しも無い。これは、各人の結末や運命、将来の見通しが関係する問題である。さらに、この問題は、神が自らの献身的努力の全てが注がれる問題である。従って、神は少しも怠ることは無く、ほんの僅かな不注意も許さない。神はこの人類の調書を記録し、神に従う人間の最初の時から終わりの時に至る調書を記録している。この期間におけるあなた方の神に対する姿勢により、あなた方の運命が決定される。これは真実ではなかろうか。現在まで、あなた方は神が義であると信じているであろうか。神の業は適切であろうか。あなた方は、依然として別の姿の神を頭の中で考えているであろうか。(考えていない。) それならば、人間の結末を定めるのは、神であろうか、それとも人間自身であろうか。(神が定められるものである。)誰が結末を定めるであろうか。(神である。)あなた方は、そのことを確信しているであろうか。香港の教会の兄弟姉妹の意見を聞こう。それを定めるのは誰であろうか。(それは人間自身が定める。)それは人間自身が定めるというのか。それは、人間の結末が神と無関係だということではなかろうか。韓国の教会の方々の意見を聞こう。(人間の結末は、人間の行動全てと、歩んで来た道に基づいて神が定められる。)それは非常に客観的な答えである。ここで、あなた方全員に伝えなければならないことがある。それは、神の救いの業の過程において、神は人間に対して基準を設定する。この基準とは、人間が神の言葉に従い、神の道を歩むことである。人間の結末を計る基準は、この基準である。この神の基準に従って実行した場合、良い結末が得られ、そうでない場合は、良い結末は得られない。それでは、この結末を定めるのは誰であるとあなた方は言うだろうか。それは神が単独で定めるのではなく、神と人間が共に定めるものである。それは正しいだろうか。(その通りである。)それは何故であろうか。それは、人間の救済に着手し、美しい終着点を計画することを希望しているのは、神であり、人間は神の業の対象であり、その結末と終着点は神が人間のために計画するものだからである。神の業の対象が存在しなかったならば、神は業を行う必要が無かった。神が業を行わなかったとしたら、人間には救いの機会が無い。救いの対象は人間であり、人間はその過程で受動的立場にあるが、神による救いの業が成功するか如何を決定するのは、この人間の立場の姿勢である。神があなたに与える、神の導きが無ければ、あなたは神の基準を知る事が出来ず、したがってあなたは目標が無くなってしまう。あなたにこの基準と目的があり、しかしあなたが協力せず、実践せず、代償を払わなかった場合、依然としてその結末を得られないであろう。これが、この結末が神と不可分であり、人間とも不可分であると言う理由である。これで、あなた方は人間の結末は誰が決めるかを理解したであろう。

 人間には経験に基づいて神を定義する傾向がある

 神を知ることに関する事項を伝えている時、気付いたことはあるだろうか。現在における神の姿勢に変化があったことに気付いたであろうか。神の人間に対する姿勢は変化しないものであろうか。神は常にそのように寛容で、神の愛と憐れみの全てを無制限に人間に与えるであろうか。この問題には、神の本質も関与する。以前にも話をした、放蕩息子と呼ばれる話の質問をもう一度検討する。この質問に対するあなた方の回答はそれほど明確では無かった。つまり、あなた方は、神の趣意を十分に理解していないということである。神が人類を愛されていることを知った後、人間は、神を愛の象徴として定義する。人間の行動、態度、人間が神をどう扱うか、人間がどれほど不従順であるかを問わず、神には愛があり、神の愛は無限であり、計り知れないので、そうした事は問題にならない。神には愛があるので、人間に対して忍耐できる。神には愛があるので、人々に対してそして人々の未熟さに対して憐み深くあることができ、人間の無知さそして不従順に対して憐み深くあることができる。本当にそれが実状であろうか。一部の人々にとって、神の寛容さを1回ないし複数回経験した時、人間は神に関する独自の認識のなかで、それを重要視し、神は永遠に寛容であり、憐れみ深くあると考え、人生を通して、その寛容さが、神が人間を取り扱う基準であるとみなす。神の寛容さをひとたび経験した時、神は寛容であり、その寛容さは無限で無条件であり、全く原則は無い、と恒久的に定義する人々もいる。こうした考えは正しいであろうか。神の本質や神の性質に関する事項を議論する時、あなた方は毎回混乱しているようである。あなた方がそのような状態であるのを見ると、少し腹が立つ。あなた方は、今までに神の本質に関して多の真理を聞き、神の性質に関しても、数多くの事項について話を聞いてきた。しかし、あなた方の心の中では、こうした諸問題や、それらの側面に関する真理は、理論と文書に基づく記憶でしかない。あなた方のうち、神の性質が何であるかを実生活で体験したり、神の性質が何かを理解したり出来るものはいない。したがって、あなた方は全員、その信仰において思考が混乱し、盲目に信仰した結果、神に対して不適切な姿勢を取るようになり、神を払いのけるようになった。あなた方の神に対するこうした姿勢は、どのような結果を招くであろうか。その結果、あなた方は神に関することを常に結論付けることになる。あなた方は、多少の認識知識を得ると、それに大いに満足し、神の全てを得たような気分になる。その後は、神がそのような存在であると決めつけ、神が自由に動けないようにしてしまう。神が何か新しい業を行った時は、それが神であることを決して認めない。やがて、神が「わたしはもはや人間を愛していない。今後人間には憐れみを与えない。今後は人間に寛容さや忍耐をもって接しない。わたしは人間に対する極度の嫌悪感と反感に満たされている」と言った時、人間はそうした発言に心の底から対抗する。一部の人々は「あなたはもはや私の神ではなく、私が付き従いたい神ではない。あなたがそのような発言をするのであれば、あなたは私の神の資格を失い、私はあなたに付き従う必要はない。あなたが憐れみや愛、寛容さをくださらないのであれば、私はもはやあなたに付き従わない。あなたが私に対して常に制限無く寛容であり、忍耐深くあり、また、あなたが愛であること、寛容であること、そして忍耐深くあることを私に示された場合のみ、私はあなたに付き従うことが可能であり、あなたに最期まで付き従う確信を持つことができる。あなたの寛容さと憐れみを与えられているので、私の不従順や侵害は無制限に赦され、無制限に見逃され、私はいつでも、どこでも罪を犯し、いつでもどこでも罪を告白して赦され、いつでもどこでもあなたの怒りを買うことができる。あなたは、私の結末を決めたり、自分自身の考えを持ってはならない。」とさえ言うであろう。あなた方は、このような疑問についてそこまで主観的かつ意識的に考えないかも知れないが、神を自分の罪を赦すための道具や、美しい終着点を得るための存在とみなす時、あなたはいつのまにか、生きる神を、あなたに対抗する存在、あなたの敵としてしまっている。わたしはそう理解している。あなたは、引き続き「私は神を信じる」「私は真理を求めている」「私は自分の性質を変えたい」「私は闇の影響から解放されたい」「私は神に満足してほしい」「私は神に服従したい」「私は神に忠実であり、自分の本分をしっかり尽くしたい」などと言うかも知れない。しかし、あなたの言うことがどれほど好感の持てるものであったとしても、あなたがどれほど理論に通じていたとしても、その理論がどれほど印象深いものであったとしても、どれほど高潔であったとしても、実際には、自分が身に付けた規則、教義、理論を使い、神に関する結論を導き出して、何の違和感も無く神を自分に反対する存在としまっている。あなたは文書や教義を身に付けていたとしても、本当に真理の現実に入っていないので、神に近付き、知り、理解することは極めて困難である。これは極めて哀れである。

 わたしは、ビデオで、ある場面を見たことがある。その場面では、数名の姉妹が『言葉が肉において現れる』の書籍を高く掲げていた。これらの姉妹は、この書籍を自分達の中央に、自分達の頭よりも高く掲げていた。これは単なる映像であるが、その映像により、わたしの中で喚起された事は、映像では無い。むしろ、その映像でわたしが考えたことは、人々が心の中で高く掲げているのは、神の言葉ではなく、神の言葉が記された書籍である、ということである。それは極めて憂鬱なことである。そのような実践のしかたは、神を高く掲げることでは無い。それは、あなた方が神を理解していないので、極めて明瞭な、些細な疑問に対して、自分自身で答えを考え出さなければならないことが原因である。わたしがあなた方に対し、何かを真剣に質問する時、あなた方は自分の予想や自分自身の想像で答え、疑念のある口調で、わたしに質問を返す者もいる。これにより、あなた方が信じる神が真の神ではないと、わたしは一層はっきりと確信する。神の言葉を長年にわたり読んで来たあなた方は、神の言葉や業、そして更に多くの教義を用いて、再び神に関する結論を出す。さらに、あなた方は神を理解しようとしたことはなく、神の趣意を理解しようとしたこともなく、神の人間に対する姿勢や、神がどのように考えるか、神が悲しむのは何故か、神が怒るのはなぜか、神が人間を拒否するのは何故かなどの疑問を理解しようとしたことが無い。また、それ以上に多くの者が、神は人類の行動を観察しているのみであり、神は人間に対していかなる姿勢を取ることも無く、神が神自身の考えを持つことも無く、したがって神は常に沈黙していると考えている。それとは別に、一層深刻な行動を取る部類の人々もいる。この部類の人々は、神は黙って従っているので何も発言しないと信じている。神は待っているために何も発言しない、神はこれといった姿勢がなく、神の姿勢は既に書物で説明されていて、人間に対して完全に示されていて、何度も繰り返し人間に伝えられる必要はないので、神は発言しないと信じている。神は黙しているものの、依然として神には姿勢があり、観点があり、人間に対して要求する基準を持っている。人間は神を理解し、神を求めようとしないものの、神の姿勢は極めて明瞭である。かつて熱狂的に神に付き従っていたが、ある時点で神を捨て去った者がいたとする。その者が、今神の許へ戻りたいと思った場合、驚いたことに、あなた方は神がどのような見方をするか、どのような姿勢を取るかを知らない。これは痛ましいことではなかろうか。実際には、これは極めて表面的な事である。あなた方が神の心を真に理解したならば、そうした者に対する神の姿勢を知り、あなた方が曖昧な回答をすることは無いであろう。あなた方はそれを知らないので、わたしがあなた方に知らせたい。

2018年8月28日火曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉讃美歌「神の本質は全能で実際的である」


Ⅰ
神は実際に業を行う間
その性質と自分の全てを表す
神の全能性は
人ができない業を行うことに示され
その実際性は
神がその業を自ら為すことに示される
神は全能で実際的である
神の言葉は全能の力とともにあり
神は権威とともにある
神が言ったことは実現する
神が話す時、結果よりも前にその全能性が現れる
心に留めよ
神の本質は全能で実際的
これらは互いに強め合う
神の業は神の性質と神とは何かを示す
神の存在には、全能と義と威厳がある
Ⅱ
律法の時代にある出来事があった
神はヨナにニネベへ行くよう命じた
その時、神の実際性がこのようにして示された
ヨナは神から受けた命令を拒否し
彼は大魚に飲み込まれた
しかし彼は
そこで3日間、死なずに生き延びた
神はヨナにしたことで全能であることを示した
神はいつもその業で自分の性質と自らの全てを示す
Ⅲ
神はふたつの本質を持つ
それは全能と実際的であること
それらはあらゆる神の業の段階と
神が為すことのあらゆる点に見ることができる
これが神を知る道のひとつ
心に留めよ
神の本質は全能で実際的
これらは互いに強め合う
神の業は神の性質と神とは何かを示す
神の存在には、全能と義と威厳がある
神の存在には
義と威厳がある
義と威厳がある
『言葉は肉において現れる』より

2018年8月27日月曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉の抜粋「神の性質と神の業の結果を知る方法」6

 実践的質問は人々に様々な困惑をきたす

 前述した種類のほか、別の種類の者として、最も悲惨な結末を迎える者がいる。こうした者について話をするのは、わたしにとって最も気が進まないことである。こうした者が悲惨なのは、その者が神の罰を受けているからでも、神のその者に対する要求が過酷だからでも、悲惨な結末を迎えるからでもない。むしろ、その者が悲惨なのは、その結末が、その者の自業自得であり、いわゆる墓穴を掘っているからである。これはどのような種類の者であろうか。この者は正しい道を歩まず、かつその結末は事前に明示されている。神はそうした人々を、嫌悪の対象として最も相応しい者とみなす。よく言われるように、こうした者は最も悲惨である。こうした者は、神に付き従い始めた時は極めて熱心であり、多くの代償を払い、神の業の見通しについて好ましい意見を持っており、自分の将来について想像に満ちあふれ、ことさらに神について確信し、神は人間を全き存在とする、人間を栄光の道へと導くことが出来ると信じている。しかし、何故か、こうした者は、神の業の最中に、逃げ出してしまう。その者が逃げ出すとは、どのような意味であろうか。それは、その者が別れの挨拶もせずに消え失せてしまうということである。その者は無言で立ち去る。こうした者は、自分が神を信仰していると主張するが、神の信仰の道が定着していることは決して無い。したがって、こうした者は、何年信仰しても、神から立ち去ることがある。事業を始めるために去る者もいれば、自分の人生を送るために去る者や、富を得るために去る者、結婚して子をもうけるために去る者もいる。こうした去った者の中には、良心の呵責で戻りたいと思う者と、上手くいかずに世界を何年も流浪する者がいる。こうした流浪者は多くの苦難を経験し、この世界に存在することが耐えがたい苦痛であり、神から離れることは不可能であると考えている。こうした流浪者は神の家に戻って安らぎと平和、喜びを得ることを願い、災いを避けるためまたは救われて美しい終着点を得るために、神を信仰し続けたいと願う。なぜなら、そうした人々は、神の愛が無制限であり、神の恵みは尽きること無く、使い果たすことが出来ないものだと考えているからである。そうした人々は、誰が何をしたとしても、神はその誰かを赦し、その者の過去に対して寛容であるはずだと考えている。そうした人々は、戻って本分を尽くしたいと言う。自分の所持品の一部を教会に寄付し、そうすることで教会に戻れることを願う者もいる。こうした人々に対する神の姿勢は、どのようなものであろうか。神は、こうした人々の結末をどのようにして決めるであろうか。自由に発言して欲しい。(神はこうした者が戻ることを認めると考えていたが、今の話を聞いて、戻ることを許さないかも知れないと思う。)その理由は何であろうか。(こうした者は、死の結末を避けるために神の前に来る。こうした者は心からの誠意で戻ったのでは無い。むしろ、こうした者は神の業が間もなく終わることを知り、祝福を与えられるという妄想を抱いて神の前に来た。)それは、こうした者が神を誠実に信仰していないので、神は戻ることを許さない、ということであろうか。そうであろうか。(その通りである。)(私は、こうした者が日和見主義者であり、神を誠実に信仰していないと考えている。)こうした者は神を信仰するために来たのではなく、日和見主義者である。素晴らしい発言である。日和見主義者は誰もが嫌う種類の者である。日和見主義者は周囲に流され、見返りが無ければ何もしようとしない。当然こうした者は見下すべき者である。その他の者は、意見があるだろうか。(神はそうした者が戻るのを認めないであろう。なぜなら、神の業は終わろうとしており、人々の結末が決定されるのは、今だからである。そうした者は、そのような状況になった今、戻りたいと思っている。戻りたい理由は、真理を追究したいと心から思っているからでは無く、そうした者が災いが降るのを見たから、あるいは外的要因に影響されたからである。こうした者に真理を本当に求める心があったとしたら、途中で逃げ出したりはしなかったはずである。)その他の意見はあるだろうか。(戻ることを許されないであろう。神はそうした者に何度も機会を与えたが、その者の神に対する姿勢は、常に神を無視することであった。その者の意図が何であるかを問わず、そうした者が本当に悔い改めたとしても、神はそうした者が戻るのを許さないであろう。なぜなら、神は既にそうした者に多くの機会を与えたにもかかわらず、その者は既に自分自身の姿勢を示すものとして、神を去りたいと思った。したがって、その者が今になって戻ってきても、神は戻ることを許さないであろう。)(私も、神はそうした者を受け入れないと思う。なぜなら、人間が真の道を理解し、それほどの長期間にわたって神の業を経験してなお、サタンを信奉する世界に戻ったならば、それは神に対する大いなる裏切りである。神の本質は憐れみや愛であるものの、そうした憐れみや愛の対象となる者がどのような者であるかによる。その者が安らぎと望みをかけられる何かを求めて神の前に来たのであれば、その者は神を誠実に信仰する者ではなく、その者に対する神の憐れみは、それに相応するものとなる。)神の本質は憐れみであるが、それでは何故、こうした者にもう少し憐れみを与えないのであろうか。少し憐れみが与えられれば、その者には機会が与えられるのではないだろうか。以前は、神はあらゆる者を救うことを望み、誰ひとりとして滅びることを望まない、と言われていた。百匹の羊のうち、1匹が迷い出た場合、神は99匹のひつじを残し、その迷い出ている羊を捜しに出かける。現在、こうした者について、真の神への信仰のため、神はそうした者を受け入れ、もう一度機会を与えるべきであろうか。これは難しい問題ではなく、極めて平易であり、簡明である。あなた方が神を真に理解し、神に関する真の認識があるならば、それほど多くの説明も、推量も不要であろう。あなた方の答えの考え方は正しいが、答えと神の姿勢には依然として差がある。

 あなた方のなかに、神はそうした者が戻るのを許さないと確信している、と答えた者がいた。その他の者は、それほど確信が無く、神は許すかもしれず、また許さないかも知れないと考えている。この姿勢は、比較的穏健である。また、神がそうした者が戻るのを許すことを願う、という観点の者もいた。この姿勢は曖昧である。確信のある姿勢の者は、神が現在まで行ってきた業は完了しており、神はそうした流浪者に対して寛容である必要がなく、こうした流浪者は戻ることを許されない、と考えている。穏健な者は、この問題はその流浪者の状況にしたがって対処すべきであると考えている。すなわち、その流浪者の心が神から切り離すことが出来ないものであり、その流浪者が神を真に信仰し、真理を求めるものであるならば、神はその流浪者の過去や、従前の弱さ、過ちを覚えていないはずで、神はその流浪者を赦し、もう一度機会を与え、神の家に戻し、神の救いを与えるはずだと考えている。しかし、この流浪者が再び逃げ去った場合、神はこの者を求めなくなり、それはこの流浪者に対する不正であるとは考えられない、と考えている。それ以外に、神がその流浪者が戻るのを許すことを願う人々もいる。この人々は、神がその流浪者が戻るのを許すかどうかを明確に知らない。神がその流浪者が戻るのを許すべきであると考えているが、神がその流浪者が戻るのを許さなかった場合、この意見の人々は、神の観点に準拠していない部分が多少あると考えられる。こうした人々が、神がそうした流浪者が戻るのを許すべきで無いと考えていて、神が、人間への神の愛は無限であり、その者にもう一度機会を与えたいと述べたとしたら、それは人間の無知さが白日の下に晒された例ではなかろうか。いずれにせよ、あなた方には、それぞれ自分の意見がある。そうした観点は自分自身の意見の認識であり、真理や神の趣意に関する自分の理解の深さが反映されたものである。これが的確な言い方であろう。この件について、あなた方が自分の意見を持っているというのは、素晴らしい事である。しかし、あなた方の意見が正しいかどうかについては、疑問が残る。あなた方は、多少不安ではなかろうか。「それでは何が正しいのだろうか。明確に分からないし、神が正確にはどうお考えかを知らない。神は私に何も述べられていない。どうすれば、神が考えられている物事を知ることが出来るだろうか。人間に対する神の姿勢は、愛である。今までの神の姿勢によれば、神はこの流浪者が戻るのを許されるに違いない。しかし、現在の神の姿勢については、明確に知らない。神はその者が戻るのを許されるかもしれないし、許されないかもしれない、としか言えない。」これは不条理ではないか。あなた方は、この問題に極めて困惑している。この問題について、適切な意見が無いのであれば、あなた方の教会でこのような流浪者に対処する場合、あなた方はどうするであろうか。この問題に適切に対処しなければ、恐らく神の怒りを買うだろう。これは危険な問題ではないだろうか。

 わたしが話をしている問題について、わたしは何故、あなた方の意見を聞きたいのだろうか。わたしは、あなた方の観点を試し、あなた方の神に関する認識がどれほどかを試し、神の趣意や神の姿勢に関する、あなた方の理解がどれほどかを試したいと考えているからである。その答えは何であろうか。その答えは、あなた方の観点にある。あなた方の中には、極めて保守的な者や、想像で推測している者がいる。「推測」とは、何であろうか。推測とは、神がどう考えるかに関して全く知らないので、神がこう考えているであろう、ああ考えているだろうといった事に関する根拠の無いことを思いつくことである。あなた方は、自分の推測が正しいか、誤りかを実際には知らないので、曖昧な意見を述べる。この事実から、何が分かるであろうか。神に付き従う時、人間は、神の趣意を配慮したり、神の考えや神の人間に対する姿勢に留意したりすることが、ほぼ無い。あなた方は神の考えを理解していないので、神の趣意や性質に関する質問をされると、混乱し、確信するのが極めて困難になり、推測したり予想したりする。その姿勢は何を意味するであろうか。その姿勢は、神を信仰する者の大部分は、神を空気のような不明瞭なものとみなしているという事実を証明するものである。わたしがこう述べるのは何故であろうか。それは、毎回あなた方が問題に遭遇する時、あなた方は神の趣意を知らないからである。あなた方がそれを知らないのは何故だろうか。あなた方がそれを知らないのは、現在に限らない。あなた方は、最初から最後まで、こうした問題に対する神の姿勢を知らない。あなたは、神の姿勢が見えず、分からない時、それについて考えたことがあるであろうか。それを模索したことがあるであろうか。それを伝えたことがあるであろうか。そのようなことは無い。これにより、あなたが信仰する神と、真の神とは、無関係であるという事実が裏付けられる。あなた方は神を信じているが、自分や、自分の主導者の意志、神の言葉の表面的かつ教義的な意味のみを考え、神の心を真剣に知ろうとしたり、求めたりすることは全く無い。これが現状ではないだろうか。この問題の本質は酷いものである。わたしは、長年にわたり、神を信仰する大勢の人々と出会って来た。こうした信仰はどのような形態であろうか。神が空気のような存在であるかのように、神を信仰する人々がいる。こうした人々は、神の存在に関する疑問に答えられない。なぜなら、こうした人々は神の存在や不在を感じる事も意識することも出来ず、ましてや神を明確に理解することなど出来ないからである。こうした人々は、無意識のうちに、神は存在しないと考えている。その一方で、神が人間であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、自分達に出来ないことが神にも出来ず、神は自分達と同様に考えているに違いない、と考えている。こうした者による神の定義は「目に見えず、触れることの出来ない人間」である。そのほかにも、神が操り人形であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、神には感情が無く、神は彫像であると考えている。問題が発生した場合、神はどのような姿勢も取らず、観点も意見もなく、人間の思うままである。人間は、単に自分達の好き勝手に信仰しているだけである。こうした者が神を偉大な存在とした場合、神は偉大であり、小さな存在とした場合、神は小さいものとなる。人間が罪を犯して神の慈しみや寛容、愛が必要な時、神は慈しみを与えなくてはならない。こうした人々は、自分の心で神を考え出し、その神に自分達の要求や、願望を全て満たさせる。時や場所、そうした人々が何をしているかを問わず、そうした人々は、神の扱いや神への信仰に、そうした妄想を適用する。自分が神の性質を侵害しても、神は自分達を救うことが出来ると考えている者さえいる。これは、そうした人々が、神の愛は無限であり、神の性質が義であり、人間がどれほど神の怒りを買ったとしても、神はそれを一切覚えていることが無い。人間の過失や侵害、不従順は、その者の性質の一時的な現れであるので、神は人々に対して機会を与え、寛容かつ辛抱強い。神は、そうした人々を今まで同様、愛するであろう。したがって、依然として救いの希望は大いにあると考えていることが原因である。事実、ある者が神をどのように信仰しているかを問わず、その者が真理を求めていない限り、神はその者に否定的な姿勢を取る。それは、あなたが神を信仰している時に、神の言葉が記された本を大切にし、毎日読んで研究しているものの、真の神を無視し、空気や普通の人間、あるいは操り人形のように扱っているからである。わたしがこう説明するのは何故であろうか。なぜなら、わたしの知るところによると、あなた方が問題に遭遇しているか、難しい状況に遭遇しているかを問わず、あなた方の無意識の領域にあり、あなた方の内部で形成された物事には、神の言葉や真理の追究と関連する物事が一切無いからである。あなた方が理解しているのは、自分が考えている物事や自分の観点のみであり、そうした自分の考えや観点を神に対して強制しているのである。そうした物事が神の観点とされ、遵守すべき基準とされている。このような状態を続行すると、時間と共に、あなた方は神から徐々に遠ざかって行く。