神による愛の定義、そして神が愛について述べる方法は、神の本質の一側面と関連しているが、その側面とは何であろうか。前回は、極めて重要な主題に関して伝えたが、それは人間が頻繁に取り上げて議論してきた事項であり、神への信仰のなかで頻繁に述べられる言葉であるが、その言葉は人間にとって親しみがあり、しかし馴染みの薄いものでもある。しかしそれは何故だろうか。それは人間の言葉に由来する言葉であり、人間にとってその定義は明瞭でありかつ曖昧でもある。しかしその言葉とは何であろうか。(聖さである。)そう、聖さである。それが前回伝えた主題であった。この主題については少し伝えたが、伝えた内容は不完全であった。前回伝えた部分に基づいて、全員が神の聖さに関して新たな認識が得られたであろうか。(得られた。)その新たな認識とは何であると、あなたがたは考えているであろうか。つまり、その認識ないし言葉のうち、神の聖さについてわたしが伝えた事柄が、神の聖さに関するあなたがたの認識と違う、あるいは差があるとあなたがたに感じさせた事柄は、何であろうか。あなたがたは覚えているだろうか。前回伝えた事柄は印象に残っているであろうか。(神は、神の御心で感じられていることを述べられ、それは純真である。これが聖さのひとつの側面である。)それはひとつの側面である。そのほかには、何かあるだろうか。(神が人間に対して怒りを感じる場合にも聖さがあり、それは汚れが無いものである。)(神の権威に、完全さ、誠実さ、知恵、そして万物支配を見る。これらの事柄を理解している。)「万物支配」は神の権威に関する事柄である。ここでは神の聖さについて話をしている。(神の聖さに関し、神の義なる性質には、神の怒りと憐れみがあるということが分かった。それが印象深かった。そのことでは、神の義なる性質が唯一のものであることについても伝えられたが、以前はそうした理解もなく、そうした定義付けもしていなかった。しかし前回伝えられた中で、神の怒りが人間の怒りとは違う事について語られた。神の怒りは、いかなる創造物にも無いものである。神の怒りは肯定的なものであり、原則に基づくものであり、神固有の本質が原因となって与えられるものである。その原因は神が悪なるものを見られたことであって、それにしたがって神の怒りが発せられる。神の憐れみもまた、いかなる創造物にも無いものであることが分かる。人間の行いが善良であり、義なる行動で、憐れみと類似していると考えられる場合でも、それは純真ではなく、その背景には動機がある。いわゆる憐れみには、偽のものや空虚なものさえある。しかし、神が人間に対して憐れみを示された時、そこに神の救いを見てきたが、その憐れみにより人間は直接的に救いの道に置かれる。その憐れみにより、人間は神を信仰する正しい道に置かれるので、人間は美しい終着点と希望を与えられる。このように、神の憐れみは神の本質に含まれている。したがって、神が怒りによって、ある町を滅ぼされたとしても、神には憐れみ深い本質があるので、神は時間や場所を問わずに憐れみを示され、その町の人々を保護されることができる。私はそのように理解している。)あなたは、神の義なる性質について、ある程度理解している。
たった今あなたがたに質問した時、あなたがたのうち大部分の者が、神の愛は極めて大きく、また実在するものであると認識しているが、あなたがたには神の聖なる本質に関する認識が欠如している。本日の主題では、この部分、すなわち神の聖さに関する認識について話をする。人間は往々にして神の義なる性質と神の聖さを関連づけ、また人間は皆神の義なる性質について知っているし、その詳細について聞いたことがある。さらに、多くの人々が、交わりの中で神の義なる性質は聖なるものであると言って、神の聖さと義なる性質を結びつける。「聖さ」という語については、皆知っており、一般に用いられる語であるが、この語の含意について、人間は、どのような聖さの現れを見ることが出来るであろうか。神は、人間が認識可能なものとして、何を明示しているであろうか。残念ながら、これについて知っている者はいない。神の性質は義であると言うが、神の義なる性質について、それが聖なるものであると言った場合、それは少し曖昧に感じ、困惑する。何故であろうか。神の性質が義である、あるいは神の義なる性質が聖なるものであると言うが、あなたがたの心の中では、神の聖さにはどのような特徴があり、神の聖さをどのように理解しているであろうか。つまり、人間が聖なるものであると認識するのは、神が明示したものごとや、神であるすべて、神の持っているすべてであろうか。あなたがたは今までそうしたことについて考えたことがあるだろうか。人々が一般に用いられる言葉を頻繁に述べることや、人々が何度も繰り返して言う文句がある一方で、そうした人々は自分が言っていることをまったく知らない、という状況が見受けられる。人々は皆、そのように習慣的に口にするので、それが決まり文句になる。しかし、そうした人々がそれを詳しく調べたとしたら、自分はそうした決まり文句の真意や、それが何を指すかを知らないということに気付くであろう。たとえば「聖なる」という言葉は、神の聖さに関し、それが神の本質のどの側面を指しているかを知っている者はいない。「聖なる」という言葉を神と調和させることに関して知る者はおらず、人々は困惑し、神が聖なる存在であることの認識のしかたは、広範にわたる。しかし、あなたがたがそのことを考えた場合、神はどのように聖なる存在であるのであろうか。それを知っている者はいるだろうか。残念ながら、この問題について明瞭に把握している者はいない。本日は、神の聖なる本質に関する実際の内容を理解できるように、「聖なる」という言葉を神と調和させるという主題について伝える。そうすることで、一部の人々が、不注意にこの言葉を習慣として用いたり、意味を知らず、自分の考えが正しいか否かを知りもしないのに、物事をみだりに語ったりするのが防がれるであろう。人々は、常にこうした話し方で「聖なる」という言葉を用いる。あなたも、私も「聖なる」という言葉を用いるが、それが人々の習慣的発言となり、よって意図せず「聖なる」という言葉を汚している。
「聖なる」という言葉は、表面的には極めて分かりやすいであろう。人々は、少なくとも「聖なる」という言葉が、たった今歌った聖歌「汚れ無き純真な愛」の内容のように、「清らかで汚れなく、神聖で純粋であることを意味すると考えている。この聖歌では「聖なる」と「愛」が組み合わされているが、神の愛は神の本質の一部であるので、これは正しいが、それが全てではない。しかし、人間の考えでは、この言葉を純粋で清らかである、あるいは汚れや染みがないと自分が思うものごとと関連づける傾向がある。たとえば、蓮の花が清らかであると言う人々がいるが、そうした人々は、どのようにしてこの花をそのように定義しているだろうか。(「蓮の花は泥の中で育つが、汚れのない花を咲かせる」)泥水の中から汚れない花を咲かせるので、人々は蓮の花に「聖なる」という言葉を適用するようになった。誰かが書いた恋愛小説やその内容を聖なるものと考える人や、偉業を成し遂げる架空の主人公を聖なるものと考える人々もいる。さらに、聖人や使徒、神が働く時に神に従った人々など、聖書の登場人物や霊的内容を取り扱う書籍で取り上げられている人物について、そうした人物の霊的体験が聖なるものであると考える人々もいる。こうした事は、全て人間が考えた物事であり、人間が考える概念である。人間がこうした概念を抱くのは何故であろうか。その理由はひとつであり、その理由は明解である。それは、人間が腐敗した性質のなかで生活し、邪悪と汚れの世界に住んでいるからである。人間が見るもの、触れるもの、体験するものは、全てサタンの邪悪さと堕落であり、サタンの影響下における人間同士に発生する策謀と内紛、戦争である。したがって、神が人間に対して業を行う時、さらには人間に言葉を述べ、人間に対して神の性質と本質が示された時ですら、人間は聖さとは何かを理解し、受け容れることが出来ない。その上、このことは、神は聖なる存在であると人間が頻繁に述べる根拠となっている。人間は汚れと腐敗のなかで生活しており、サタンの支配下にいるため、人間は光を見ず、有益な物事を知らず、また真理を知らない。したがって、聖さとは何かを真に知る者は、ひとりもいない。それを踏まえると、腐敗した人間世界に聖なる物や聖なる人間が存在するであろうか。(存在しない。)確実に存在しないと言える。なぜなら、聖なるものは、神の本質のみだからである。前回は、神の本質の聖さに関して少し伝え、伝えた内容は神の聖さに関する人間の知識を知る手がかりとなったが、十分な内容ではない。前回の内容は、人々が神の聖さや、神の聖さが唯一無二のものであることを完全に理解する上で十分に役立てられるものではない。さらに、前回の内容では、神において完全に具現化されている聖さの真の意味に関する側面を人々が理解できるようにすることが、十分にできない。したがって、この主題に関して引き続き伝える必要がある。前回の第3部においては、3つの事項について話をしたので、ここではまず聖句を読むことから始めて、4番目の事項について話をする。

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