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2020年3月2日月曜日

[東方閃電]全能神教会 ある体験の中、私は神の御加護を目の当たりにしました

私達は今まで一度も神を信じたことはありませんでした。しかし、2005年、神にお引き上げ頂いたことで、私の旦那、義理の父、伯父、そして私は全員が世の終わりの神の働きを受け入れる事が出来ました。その後すぐに、私は教会から書籍の管理業務に就かされました。後に、私達の自宅で火事が発生し、この火災の中で私達は神の奇跡的な御加護を授かったのです。神は正に全能であられるのです!

2006年3月のある日、昼食後の午後1時頃、外では雪が激しく降っていました。私の旦那、娘と私は家の中にいて、火の近くで体を温めながらトウモロコシを脱穀していた時、突然外から、「お宅の家が火事になってるぞ!急いで、外に出て火を消すんだ!」、と大きい叫び声がしたのです。私達が急いで外に出て見ると、台所と豚小屋の屋根が既に燃えていたのです。3人の無信仰者が火を消すのを手伝いに来てくれて、「ほら、火を消すのを手伝って!」、と大声で叫びました。近隣の村2つにも私達の叫び声が届き、直ぐに30人から40人もの人達が火を消すのを手伝いに来てくれたのです。この時、私は誰かがこう口にしたのを耳にしました、「この家族は神を信仰していないのか?どうやったら火事なんかが起るんだ?でもこの家族の家は燃えてしまったから、これでも神を信じるだろうか。」私はこの時点では彼らの言っていることはどうでもいいと思いました。そして、私は炎が増々激しくなっていくのが見えました。強い風が燃え盛る炎を家の中心部に向って追いやっていました。家の中には教会の書籍と我が家の穀物があったので私はとても不安でした。この切羽詰まった瞬間、私は続けて神に呼び掛けました。「ああ神様!どうか教会の書籍と我が家の穀物を御守り下さい、これらの物が燃えてしまわないようにして下さい。」 私が祈りを捧げた後、奇跡が起こり、風の吹く方向が突然変わったのです。その時、私は家の中の物全てが保護されると分かり不安な気持ちが少し薄れて行きました。火を消そうとしていた人達が燃えてしまった物にどれだけ金銭的な価値があるかと話しているのを聞いた時、私は豚小屋に2匹の豚がいることを思い出しました。私の旦那は豚達を助けようと駆けつけました。しかし彼が中に入ったとたん、燃えた破片の塊が突然降りかかり、入口をふさいでしまったのです。私はこれを見て心臓が喉につまりそうになり、心の中で必死に神に呼び掛け、旦那を御守り下さるよう懇願しました。無信仰者達は皆、私の旦那が大きな危険にさらされているのではないかと心配していました。しかし、皆が見詰める中、私の旦那が1匹50キロ以上ある豚2匹を前に押しやりながらついにその無事な姿を現したのです。これで、私の心はやっと落ち着きを取り戻しました。炎は1時間もしくはそれ以上燃え続けた末に全体で台所と豚小屋を2つ燃焼させ、およそ4000元ほどの損害が出てしまいました。

私達は後ほど、この大火災は火遊びをしていた子供によって起っていたことが分かりました。この時、私は神のこの御言葉を思い出しました。「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなたに対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある――その背後にはすべて戦いがある…神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである…あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)この神の御言葉の中に、今日私達が自宅の火災に直面した時、これは表面的には子供の火遊びによって引き起こされていたように見えましたが、実は霊的な世界ではサタンが神と賭けをしていたのです。サタンはこれを利用して私に神を非難させて、裏切らせて、拒絶させたがっていたのだと理解することが出来ました。無信仰者達が「でもこの家族の家は燃えてしまったから、これでも神を信じるだろうか」と言った時、あれはサタンが私を誘惑していたのです。もし無信仰者達の言う通りに神を非難し、批判していたら、私は神に対する証言が出来なくなっていたことでしょう。私は神の御心を理解した後すぐ、こう神に祈りを捧げました。「ああ神様!私の今日の体験はあなたからの試練であり、サタンからの誘惑だったのですね。私がサタンの前であなたの証言を出来るよう、どうか私に信念と精神力をお与え下さい、そしてこの事態に関する不平を漏らさないようにして下さい。私は全ての出来事と物事はあなたの手中にあると信じています。私の運命はあなたの手中にあり、私はあなたの御主権と御采配に従います。」

あの夜、私の家族は普段通りに集まって神の御言葉を頂き、私は旦那にこう問いかけました、「あなたの木材が燃えてしまったけど、神様のことを責めてる?」すると彼はこう言いました、「不満なんか何もないよ。豚を助けてやろうとして豚小屋に行った時、お前達は皆俺のいのちの事を心配して、何か良くないことが起るんじゃないかとビクビクしていたけど、俺は内心全く怖がってなかったんだ。最終的には無事に出て来れたし。これが神の御加護じゃないのか?神の御加護がなかったら、我が家は完全に燃え尽きていただろうし、俺のいのちもどうなっていたことか。我が家にはまだ物があるんだし、俺たちは神の御気遣いと御加護、そして俺達を愛して下さっていることを感謝しなきゃ。」 確かに、私はこの経験を通じて、神は私達のことを御気遣いになられ、私達を御守り下さっていることを本当に目の当たりにすることができました。我が家に火が付いた時、もし神が、数住人の人達を結集して、私達の所に来て火を消すようにして下さっていなければ、自分達だけの力では人を消すことは不可能であったでしょう。風が吹いて炎を家の中心部に押し向けていた時も、神が偉大な御力で風の方向を変えて下さっていなければ、教会の書籍、我が家の穀物、そして我が家そのものは燃え尽きていたことでしょう。私の旦那が炎を顧みず豚を救いに行った時も、神の御加護がなければ、旦那はあの大きな炎の勢いの中では焼け死んでいた可能性が高く、髪の毛が一本も焼けずにすんなりと歩いて出て来るようなことはなかったでしょう。私達は交流すればするほど、神の偉大な御力と愛をどんどん理解していくことが出来ました。私達は不平を言わなかっただけでなく、心の中が神に対する計り知れない感謝の意でいっぱいになっていたのです。

この経験から、私は神の全能さと奇跡的な御業を自分の目で見ることが出来た上に、神の優しさと素晴らしさを実感することも出来ました。火災の後、我が家の状況は以前に比べると少し悪くなってしまったものの、神に従う私の心は全く変わりませんでした。他人の言うことに関わらず、私は神がどのような行動を成されようとも、その全てが常に人々を救い、完全にすることを目的とされておられるのだと堅く信じています。私は自分の霊的背丈を考慮すると神の証言をするのは不可能だったと解っています。しかしこの試練の間、私は神の証言をして、サタンを辱めることが出来ましたが、その全ては神の御働きから生まれた結果であったのです。今後、私は神の御言葉をもっと読み、更なる真理を手にして、あらゆる種の試練を受ける際にも私の真の霊的背丈を以て神の証言をいたします。全ての栄光、全能の神にあれ!

用心(四川省宜宾市)

2019年4月11日木曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 4

 信仰の無い者は、しばしば目に見える物全てが存在し、目に見えない物や人間から遠く離れた物は存在しないと考える。信仰の無い者は、「生死の周期」も「罰」も存在しないと考えたがり、良心の呵責無く罪を犯し、悪業を行い、その後罰を受け、動物に生まれ変わる。信仰の無い者のうち殆どの者が、この悪循環に陥っている。それは何故であろうか。それは、こうした人々は、生きる物全ての管理に対し、霊的世界が厳格であることを知らないからである。信じるかどうかを問わず、この事実は存在し、神の目により確認される物事の範囲から逃れられる人や物、天の命令や神の規則によるきまりや制限から逃れられる人や物は存在しない。したがって、あなたがた各人に、この簡単な例について話をする。神を信じるかどうかを問わず、罪を犯し、悪業を行うことは認められず、そうした行動には報いがある、ということは、絶対的である。金銭をめぐって他人に対して不正を行った者が罰せられる時、その罰は公平妥当であり、かつ義である。こうした典型的な行動は、霊的世界において神による規則と天の命令により罰せられ、いわんや強姦や強奪、詐欺や欺き、窃盗や強盗、殺人や放火など、重篤な犯罪や邪悪な行いに対しては、それにも増して様々な重さの罰の対象となる。それでは、こうした様々な重さの罰には、どのようなものがあるだろうか。その期間により重さが決まる罰もあれば、様々な方法で重さが決まる罰、生まれ変わるときの行き先で重さが決まる罰もある。たとえば、一部には、口汚い人がいる。ここで「口汚い」、とは何を意味するであろうか。それはしばしば他人に暴言を吐いたり、汚い言葉を使ったり、他人を罵倒するような言葉を使うことである。汚い言葉により示される事は何であろうか。それは、その人の心が汚れていることを示す。他人を罵倒する汚い言葉は、しばしばそうした人々が口にするが、そうした汚い言葉には、厳しい報いが伴う。そうした人々が死んで相応の罰を受けた後、口の利けない人として生まれ変わる可能性がある。一部の人々は生前極めて計算高く、他人を利用することが多い。そうした人々の手口は、極めて周到であり、他人を傷つけることを数多く行う。こうした人々が生まれ変わる時、知能や精神に障害がある者として生まれ変わる可能性がある。一部の人々は、他人のプライバシーを頻繁にのぞき見て、見るべきでは無い内情を見たり、知るべきでは無い事柄を知ったりすることが多々あるが、そうした人々は、生まれ変わると全盲者となる可能性がある。生前は短気で喧嘩をすることが多く、邪悪な行いを多数行った者は、それに準じて身体障害や手足の不自由を持って生まれ変わったり、背むしや斜頸となったり、肢体不自由になったり、一方の足が他方よりも短くなったりする。こうした人々は、この場合、生前に行った邪悪な行動の程度に基づいて、様々な罰の対象となっている。それでは、斜視の人々が居るのは何故だと言えるだろうか。斜視の人は多数居るであろうか。現在、斜視の人々が多数いる。そうした人々は、生前に目を使いすぎたり、悪業が多すぎたりしたために斜視となって生まれ変わり、重篤な場合は全盲者となる。斜視の人々を見るのは気持ちの良いものだろうか。斜視の人々は好印象を与えるであろうか。こうした人々は、顔立ちが美しく、肌がきれいで色が明るく、目が大きく二重だが、残念ながら片方の目が斜視となっている。斜視の人々は、どのように見えるであろうか。斜視はその者の表情に全面的な影響を与えるのではないか。こうした影響を受けている人々は、どのような人生を送るであろうか。斜視の人々は、他の人と会う時に「私は斜視だ。あまり頻繁に他人を見てはならない。他人に自分の目を見られたくない。私は前にかがんで話をする必要がある。相手の顔を見てはならない。」などと考えるであろう。斜視は、その人の物の見方や、相手の顔を見る能力に影響を与える。この点について、斜視の人々は目の機能を喪失していないだろうか。こうした人々の前世における行き過ぎた行為は、それにより贖われていないだろうか。したがって、こうした人々は、その次の人生では、従前ほど悪業を行わなくなる。これが報いである。

 一部の人々は、生前には他の人々と仲良くできて、自分の周囲の人々や家族、友人、同僚やその関係者に対して親切な行為を多数行う。こうした人々は他人を助け、思いやりと配慮を与え、金銭的に支援し、他人はこうした人々を高く評価するが、こうした人々は、霊的世界に戻った時、罰を受けることはない。信仰の無い人々が何らかの方法で罰を免れるということは、その人々が極めて善人であったことを意味する。こうした人々は、神の存在を信じず、蒼天のみを信じる。こうした人々は、天に自分達を見守る魂があると信じているが、こうした人々が信じるのはそれが全てである。それでは、その結果はどうなるであろうか。こうした人々は極めて行いが良い。こうした人々は親切で思いやりがあり、最終的に霊的世界に戻ったとき、霊的世界ではこうした人々を極めて厚遇し、こうした人々はやがて生まれ変わる。それでは、こうした人々はどのような家庭に生まれるであろうか。その家庭は裕福では無いものの、家族生活は平和であり、家族の者同士は調和し、平穏で幸福な日々を送り、皆幸せで良い生活を送るであろう。こうした人々が成人すると、多数の息子と娘を授かり、大家族となって、子供達は皆才能に溢れて成功し、子供達とその家族は幸運に恵まれるであろう。そして、こうした結果は、その者の前世と密接に関連している。つまり、死後に生まれ変わって行く先まで、ある者の人生全体、すなわち、男になるか、女になるか、またその者の使命や将来の人生で経験すること、障壁や、どのような祝福を享受するか、誰に出会うか、何が起こるかについては、誰もそれを予測したり、回避したり、逃げ隠れしたり出来ない。すなわち、あなたの人生が決定された後は、あなたに何が起こるかについて、どれほど懸命に、またどのような方法を用いてそれを避けようとしたとしても、霊的世界で神により定められた人生の進路を外れることは決して出来ない。なぜなら、生まれ変わった時、あなたの運命は既に決定されているからである。それが良いか悪いかを問わず、全員がそれに直面し、前進し続ける必要がある。これは、この世に生きる者全員にとって不可避な問題であり、それよりも現実的な問題は存在しない。これらのことは全て理解できたであろう。

 それを踏まえて、あなたがたは、信仰の無い者の生と死の周期について、神が極めて正確で厳格な検査と管理を行っていることを理解できるであろうか。まず、神は霊的世界における様々な天の命令や規則、組織を定め、そうした天の命令や規則、組織が宣言された後、それらは霊的世界の様々な役務を担当する者により、神が定めた通り厳密に施行され、敢えてそれらに違反する者は居ない。したがって、人間の世界における人間の生死の周期、そしてある者が動物として生まれ変わるか、人間として生まれ変わるかについては、その両方に法則が存在する。これらの法則は神に由来するため、敢えてそれに背く者は居らず、背くことが出来る者も居ない。人間が見ることの出来る物質世界が規則正しく秩序が保たれているのは、こうした神の統治と法則のためである。人間が全く見ることの出来ない別の世界と平和に共存し、そこで調和して生活出来るのは、こうした神の統治のためであり、これらは全て神の統治と不可分のものである。肉にある魂の命が死んだ後も、魂には命があるとすれば、神の管理が無かったとしたら、その魂はどうなるであろうか。その魂は様々な場所をさまよい、様々な所に入り込んで、人間の世界の生き物を害することすらあるであろう。こうした危害は人間だけでなく、植物や動物も対象となるが、最初に害を受けるのは、人間であろう。こうした魂が管理されておらず、人間に危害を加え、極めて邪悪な物事を行ったとしたら、霊的世界にこうした魂の適切な処遇も存在するであろう。事態が深刻な場合、その魂はやがて消滅し、破壊されるであろう。可能であれば、どこかに置かれた後に生まれ変わるであろう。つまり、霊的世界における様々な魂の管理は、様々な段階と規則に従って命じられ、実施されている。人間の物質世界が混沌としたものとならず、物質世界の人間が正常な精神と分別を持ち、肉体にあって秩序ある生活を送っているのは、こうした管理があるために他ならない。人間がそうした通常の生活を送ることによって初めて、肉体にあって生活する者は繁栄し、何世代にもわたって繁殖を続けることができる。

 たった今話した事について、あなたがたはどう思うであろうか。そうした内容はあなたがたにとって新たなものであろうか。また、そのような話を聞いて、どう感じているであろうか。新しいということ以外に、何か感想はあるであろうか。答えて欲しい。(人間は正しく行動する必要があると思った。また神は偉大であられ、畏るべきお方であると感じた。)(神に対する敬意が増した。今後自分に何かあった時は一層注意しようと思う。自分の言動を向上させようと思う。) (神が様々な種類の人間の終わりの時をどのように扱われるかに関する神のお話を聞いて、神のご性質はいかなる反抗をも許されず、神を敬うべきであると感じた。また神が好まれる人間の種類、神が好まれない人間の種類について認識し、神が好まれる人間になりたいと思った。)この範囲に関して神の行動には原則があることを理解できたであろうか。神はどのような原則に従って行動しているであろうか。(神は人間の終わりの時を、その人間のすべての行いにしたがって決められる。) それは今話をした、信仰の無い人々の様々な終わりの時に関する事柄である。信仰の無い人々について、神の業が基づく原則は、善良を讃え、邪悪を罰するものであるだろうか。神の業には原則があることを理解したであろうか。あなたがたは、原則があるということを理解できるであろう。信仰の無い人々は、実際に神を信じて居らず、神の指揮に従わず、神の統治を認識しておらず、ましてや神を認めることなど無い。さらに深刻なことには、こうした人々は神を冒瀆し、神を呪い、神を信じる者に対して敵意を持っている。こうした人々は、神に対してそのような姿勢であるが、こうした人々に対する神の統治は、神の原則から逸脱することが無い。神は、神の原則と性質に従い、こうした人々を規則的に管理する。神は、こうした人々の敵意をどのように見なすか、というと、それを無知とみなす。そうしたわけで、神はこうした人々すなわち信仰の無い人々の大部分を、1回動物として生まれ変わらせられる。それではあなたに尋ねるが、神は信仰の無い人々をどのように見ているであろうか。(家畜として見ている。)神の目から見ると、こうした人々は、家畜の類いである。神は家畜を管理し、人間を管理するので、神はこの種の人々に対しても同じ原則がある。こうした人々に対する神の管理とこうした人々に対する神の業においても、やはり神の性質と神の万物支配の法則が存在することが分かる。これで、あなたがたはわたしが今話をした信仰の無い者を神が管理する原則における神の統治を理解したであろうか。神の義なる性質を理解したであろうか。(理解した。) あなたがたは神の統治と神の性質を理解した。つまり、神が取り扱う物が、万物のうち何であれ、神は神自身の原則と性質にしたがって業を行う。これは神の本質である。神は、こうした人々を家畜とみなすことで神が定めた規則や天の命令に何気なく反することは、決して無い。神は全く秩序を乱すことなく、原則に従って業を行い、神の業はいかなる要素にも影響されることが一切なく、業が何であるかを問わず、すべて神自身の原則に従うものである。これは、神には、いかなる創造物も持ち得る事の無い、神自身に特有の本質があるという事実により判断される。神は、神が造ったあらゆる物や人間、生き物について、その取り扱い、それに対する姿勢、経営、管理、支配について、誠実で、責任を持っており、決して不注意でいることはない。神は善良な人々に対して慈悲深く親切であり、邪悪な人々に対しては容赦ない罰を与える。そして様々な生き物については、人間の世界における、その時々の必要性に従い、時宜を得た規則的な方法で、適切な采配を行うので、そうした様々な生き物は、それぞれが受け持つ役割に従い、秩序をもって生まれ変わり、秩序をもって物質世界と霊的世界の間を行き来する。これは、人間が理解し、知るべきことである。

 生き物の死、すなわち物理的な生命の終焉は、その生き物が物質世界から霊的世界へと移動したことを示す一方、物理的な生命の誕生は、生き物が霊的世界から物質世界に来て、その役割を負い、果たし始めるということを示す。それが生き物の出発であるか、到着であるかを問わず、そうした出発と到着は両方とも霊的世界における業と不可分である。ある者が物質世界に到来した時、霊的世界において、その者が生まれる家庭、その者が現れる時代、時期、そしてその者が担う役割に関して、その者に適した采配と定義は、神により既に完了されている。そうしたわけで、その者の生涯全体、その者の行動や、その者が進む方向性は、霊的世界における采配に従い、一切の誤り無く進行してゆく。その一方で、物理的な生命が終焉を迎える時、そして終焉のかたちと場所は、霊的世界においては明瞭で認識可能である。神は物質世界を支配し、また霊的世界を支配し、また神は通常における魂の生死の周期を遅延させることは一切無く、ある魂の生死の周期に関する采配において誤ることも一切無い。霊的世界の当局に仕える執行官は、それぞれ神の指示と支配に従い任務を遂行し、なすべき事を行う。そのため、人間の世界では、人間が認識するあらゆる物質的現象は秩序があり、混沌は一切存在しない。こうしたことは、すべて神の秩序ある万物支配と、神の権威による万物支配のおかげであり、神の支配下にある物事には、人間が生活する物質世界のほか、人類の背後にある目に見えない霊的世界がある。そうしたわけで、人間が良い生活を望み、好ましい環境を望むのであれば、物質世界全体において与えられることに加え、誰も見ることが出来ず、人間のためにあらゆる生き物を統治し、秩序のある霊的世界においても与えられる必要がある。ここまでの話で、神が万物の生命の源である、と言った時の、「万物」に対する意識と知識が増えたのではないだろうか。

2019年3月31日日曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 3




1) 信仰の無い人々の生死の周期

    それでは、まず信仰の無い人々の生死の周期の話をする。ある者が死ぬと、その者は霊界の執行官により取り去られる。それでは、その者の何が取り去られるか、というと、それはその者の肉体ではなく、魂である。その者の魂が取り去られると、死んだばかりの者の魂を受け付けることを専門とする霊界の部局に辿り着く。(注:死者が死後最初に行く場所は、死者の魂にとって未知の場所である。)魂がこの場所へと持ち込まれた時、役人が最初の検査を行い、名前や住所、年齢、その者が生涯に行ってきた物事が確認される。死者の生前の行動は、全て帳簿に記録され、それが正確であることが確認される。それらの確認が完了した後、その者の生前の態度や行動により、罰を受けるか、人間として再び肉体を与えられるかが判断される。これが第一段階である。この第一段階は恐ろしいであろうか。この段階はそれほど恐ろしいものではない。なぜなら、この段階では、その者が暗く馴染みの無い場所に到着するだけだからである。それほど恐ろしいものではない。

    第二段階では、その者が生前多くの悪業を行った場合、あるいは多くの邪悪な所行があった場合、その者は刑場へと連れられて罰せられる。こうした者が連れて行かれるのは、明白に人間を処罰する場所である。人間がどのように罰せられるかに関する具体的な内容は、その者が生前犯した罪や、邪悪な所行を行った回数により異なる。これが第二段階で最初に行われる事である。その者が生前行った物事や邪悪な所行が原因となって、その者が罰を受けた後に再び受肉して物質世界に再び生まれたとき、一部の者は引き続き人間となり、別の一部の者は動物となる。つまり、ある者が霊的世界に戻った後、その者は、自分が行った悪業のために罰せられた上、その悪業のため、その後再び受肉する際に、人間では無く動物となる。こうした者が生まれ変わる動物の範囲には、牛、馬、豚、犬などがある。一部の者は空を飛ぶ鳥や、アヒル、ガチョウなどになる。こうした者が動物として生まれ変わった後に死ぬと、霊的世界に還り、従前と同様に、その者の行いに基づいて霊的世界において人間として生まれ変わるかどうかが決定される。

    大部分の人々は、邪悪な行いが多すぎるため、また罪が深すぎるため、生まれ変わった時に7回から12回は動物となる。7回から12回とは、恐ろしいことではないか。あなたがたにとって、恐ろしいことは何であろうか。人間が動物となるとは、恐ろしいことである。人間にとって、動物となって最も辛い事柄は何であろうか。言葉が無く、単純な考えしか無く、動物が行う行動しか出来なくなり、動物の食べものを食べ、単純な精神を持ち、動物の身振りによる言葉を用い、直立歩行や人間との意思疎通が不可能となり、人間の行動や活動は動物と全く無関係である。つまり、動物となると、あなたがたは生き物のうち最低の存在となり、それは人間であることよりも遙かに辛いことである。これが、邪悪な行動を多く行い、深刻な罪を犯した者に対する霊的世界の罰の一側面である。罰の重さに関しては、人間がどのような動物となるかで決定される。たとえば、豚となるのは、犬となるよりも良いであろうか。豚の生活は、犬の生活よりも良いであろうか、それとも悪いであろうか。間違い無く悪いであろう。人間が牛や馬になった場合、豚よりも良い生活を送ることが出来るであろうか。(良い生活を送ることが出来る。)あなたがたには、選択肢がある場合、好みがあるようである。猫になった者は、比較的快適であろうか。猫になるのは、馬や牛になるよりも大幅に快適であろう。様々な動物から選択できるとしたら、猫を選ぶのが快適であろう。なぜなら、殆どの時間を怠けて寝て過ごすことができるからである。牛や馬になると、労働が比較的多いので、人間が牛や馬に生まれ変わった場合、勤勉に働く必要があり、それは重い罰のように思われる。犬になるのは、牛や馬になるよりも僅かに良いであろう。なぜなら、犬は飼い主と親しい関係にあるからである。さらに、現在、多くの人々が犬を飼い、3年、5年経つと犬は人間の言うことの多くを理解するようになる。犬は飼い主の言葉を数多く理解できるので、飼い主の事を十分理解し、飼い主の気分や要求に合わせることが出来る。したがって飼い主は犬の扱いを向上し、犬の食べ物や飲み物も向上し、犬に痛みがある場合には比較的手厚く看護される。したがって、犬は幸福な生涯を送るのではなかろうか。ゆえに、犬になるのは、牛や馬になるよりも良い。こうして、ある者の罰の重さが、その者が何回動物に生まれ変わるか、どのような動物として生まれ変わるかを決定する。これについては理解したであろう。

   一部の人々は、生前に犯した罪の回数が多すぎるため、7回から12回、動物に生まれ変わる罰を受ける。十分な回数の罰を受けて霊的世界に戻った時、こうした人々は別の場所へと連れて行かれる。この場所の様々な魂は既に罰を受け、人間として生まれ変わる準備をしている種類のものである。この場所では、どのような家庭に生まれるか、生まれ変わった時にどのような役割を担うかなどにより、それぞれの魂が分類される。たとえば、この世に生まれた時に歌手となる人々は他の歌手達と一緒にされ、この世に生まれた時に実業家となる人々は他の実業家と一緒にされ、人間として生を受けた時に科学研究者となる人々は、他の科学研究者と一緒にされる。魂が分類された後は、丁度現在の人々が電子メールを送信する時のように、それぞれ異なる時期に送り出される。これで生死の周期の一巡が完了するが、極めて劇的である。ある者が霊的世界に到着したその日から、その者に対する罰が終わるまで、その者は何度も動物として生まれ変わり、そしてその者が人間として生まれ変わるよう準備される。これがその過程の全てである。

   それでは、罰を受け終えて動物として生まれ変わることが無くなった者は、すぐに物質世界へと送られて人間となるであろうか。その者が人間となるまでには、どの程度の期間を要するであろうか。こうした者が人間になる頻度はどの程度であろうか。[a]これには、時期的な制限がある。霊的世界で発生する事柄には、それに関連する時期的な制限と規則が適用されるが、それは数値で説明すれば、理解できるであろう。短期間のうちに生まれ変わった者については、その者が死んだ時に人間として生まれ変わる準備が行われる。その期間は、最短で3日である。その期間が3ヵ月の人々も居れば、3年の人々も、30年の人々も、300年の人々も、3000年の人々も居る。それでは、こうした時期的な規則について、どのようなことが言えるであろうか。またその規則の詳細はどのようなものであろうか。人間の世界である物質世界への魂の到来は、必要性に基づくものである。それは、その魂がこの世で担う役割に準じたものである。人々が普通の人間として生まれ変わった場合、大部分の人々が極めて短い期間を経て生まれ変わる。なぜなら、人間の世界には、こうした普通の人々に対する差し迫った需要があるからである。そうしたわけで、こうした人々は、3日後に、死ぬ前の家庭とは全く異なる家庭へと送られる。しかし、この世の中で特別な役割を担うべき人々も居る。「特別な」というのは、人間の世界には、そうした人々に対する大きな需要は無く、そうした役割を担うために必要とされる人々は、それほど多く無いので、そうした人々が生まれ変わるのは300年後となる場合もある。[b]すなわち、こうした魂は、300年に1度、あるいは3000年に1度、この世に現れる、ということである。それは何故だろうか。それは、300年間あるいは3000年間、そうした役割は人間の世界で必要とされず、したがってそうした魂は霊的世界のどこかに留められているからである。たとえば、孔子は中国の伝統文化に甚大な影響を及ぼした。あなたがたは皆、孔子のことを知っているであろう。孔子の出現は、当時の人々の文化、知識、伝統、思想に大きな影響を及ぼした。しかし、そのような人間は、それぞれの時代に必要とされることは無く、したがって孔子は霊的世界に留められ、300年、あるいは3000年にわたって待機した後に生まれ変わる必要がある。人間の世界では、孔子のような人間を必要としていないため、孔子は何もせずに待機している必要があった。なぜなら、孔子のような役割は極めて少なく、孔子のような人間がなすべきことは少ないので、孔子は殆どの期間、霊的世界のどこかで、何もせずに留められ、人間の世界で孔子が必要となった時に送られる必要があったからである。霊的領域における時間的な規則はこのようなものであり、大部分の人々がそれに従って生まれ変わる。普通の人間か特別な人間かを問わず、霊的世界には、人間の生まれ変わりの処理に関する適切な規則と慣行があり、そうした規則と慣行は神に由来し、神から送られたものであり、霊的世界の執行官その他の存在により決定されたり管理されたりするものでは無い。これで、あなたがたはこのことを理解したであろう。

   あらゆる魂にとって、生まれ変わった後に担う役割、その魂の生涯における役割、その魂が生まれる家庭、その魂の人生がどのようなものかは、それ以前の人生と密接に関連している。様々な人々が人間の世界に現れ、人々が担う役割や行う任務も異なる。それでは、その任務とは何であろうか。一部の人々は、負債返済のために現れる。つまり、前世において他人からの借入額が多すぎた場合、その負債を返済する。その一方で、債権回収のために現れる人々も居る。こうした人々は前世において様々な事柄で騙されて金銭を巻き上げられたので、霊的世界に到着した後、霊的世界による公平に基づいて、その生涯で債権を回収することが許可されている。一部の人々は、恩返しをするために現れる。すなわち、死ぬ前に前世で誰かの厚意を受け、生まれ変わってその恩を返す素晴らしい機会を与えられる。その一方で、命を奪うために生まれ変わった人々も居る。それでは、こうした人々は誰の命を奪うのであろうか。それは、前世でそうした人々を殺した者の命である。つまり、各人の現在における人生には、前世との密接な関連性があり、断つことの出来ないつながりがある。すなわち、各人の現在における人生は、前世により大きく影響される。たとえば、チャン氏が生前に巨額の金銭をめぐってリー氏を騙したとする。チャン氏はリー氏に負債があるであろうか。負債がある場合、当然リー氏はチャン氏の負債を回収すべきである。したがって、両氏の死後には解消すべき負債が残されるが、両氏が生まれ変わった時、チャン氏が人間として生まれ変わった時、リー氏はどのようにしてチャン氏の負債を回収するであろうか。回収方法のひとつとして、リー氏がチャン氏を父として、その息子となって生まれ変わり、負債を回収するというのがある。それが現在の人生において実現されることがらである。リー氏の父親チャン氏は多くの収入を得るが、息子のリー氏がそれを浪費する。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、息子のリー氏がそれを消費してチャン氏を「助ける」。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、決して十分ということは無く、何故か、最終的には常にその息子が父親の金銭を、様々な事柄や方法で使う。チャン氏は不思議に思う。「いったいどうなっているのだ。なぜ、私の息子は常に問題を起こすであろうか。他の人々の息子が立派なのは何故だろうか。私の息子は野心が無く、役立たずで収入を得られず、常に私が金銭的支援をしなければならないのは何故だろうか。私は息子を支援する必要があるので支援するが、私がいくら金銭を渡しても、息子には常にそれ以上の金額が必要となるのは何故だろうか。息子がまともに働けないのは何故だろうか。息子が怠惰で飲み食いをしては風俗や賭博に明け暮れるのは何故だろうか。一体どうなってしまっているのだろうか。」チャン氏は暫く考える。「それは、前世において私には息子に借りがあるからではないだろうか。そうだ、前世において私には息子に借りがあるからというのは、あり得る。それならば、借りを返そうではないか。これは、私が借りを完済するまで終わることがないであろう。」やがて、リー氏が債務を回収し終え、40代、50代になって、突然目覚める日が来るであろう。「自分の半生では、何も善い行いをしなかった。父が稼いだ金を、すべて浪費してしまった。私は善人になる必要がある。私は決心した。私は正直に、正しい生活を送り、二度と父を悲しませない。」リー氏は、なぜこのように考えるのであろうか。突然リー氏が変わり、向上するのは何故であろうか。それには何か理由があるであろうか。その理由とは何であろうか。実は、それはリー氏が債権を回収し終えたことが、その理由である。これについては、因果関係がある。話の発端は、両氏が生まれる前にまで遡り、両氏の前世における経緯が現在の人生にまで持ち越されているので、どちらも相手を責めることは出来ない。チャン氏が息子に何を諭しても、息子は一切聞こうとせず、真面目に働こうとはしなかったが、負債が返済された日には、息子を諭す必要は無く、息子は自然と理解した。これは簡単な例だが、当然この他にも類似する事例が多数ある。それでは、この例から何が分かるであろうか。(両者は善良で無ければならない。)両者は悪業を行ってはならず、悪業には、それに対する報いがあるということである。信仰の無い者は、お分かりの通り、悪業を数多く行い、その悪業に相応する報いがあるであろう。しかし、こうした報いは自主的なものであろうか。報いのある物事には、すべてその背景と原因がある。あなたは、誰かに対して金銭関連で不正を行っても、自分には何も起こらないと思うであろうか。金銭をめぐって誰かを騙し、金銭を騙し取った後に、あなたには何の報いも無いと思うのか。それは有り得ない。した事には、必ず結果がある。誰であれ、神を信じるか否かにかかわらず、誰もが自分の行動に責任を負わなければならない。その行動による結果と対峙しなければならない。ここで挙げた簡単な例では、チャン氏が罰を受け、リー氏が償還を受けているが、これは公平であるか、というと、公平である。人間がこのような行動を取った場合、そのような結果となる。それでは、このことは霊的世界の管理と無関係であるか、というと、このことは霊的世界の管理と不可分の関係にある。神を信じない、信仰の無い者であっても、その存在は、誰も逃れることの出来ない天の命令や規則の対象となる。いかに人間の世界において地位が高い者であっても、この事実から逃れられる者は居ない。

2019年3月21日木曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 2



1.神が霊的世界を支配し、統治する方法

物質世界では、人間が物事や現象を理解できなかった場合、人間は書物を紐解き関連する情報を探したり、様々な方法により、そうした物事などの原因や経緯を調べたりすることができる。しかし、本日話をしている、それ以外の世界、すなわち物質世界以外の霊的世界に関しては、人間にはその内情や真実を知る事ができる方法が無い。わたしがこう述べるのは何故であろうか。人間世界では、物質世界のあらゆる物事が、人間の物理的生活と不可分であり、人間は物質世界のあらゆる物事が人間の物理的な命と不可分であると感じるので、大半の人間は目の前にあり、見ることができる物理的な物事のみを意識し、あるいは見ているのである。しかし、霊的世界すなわちその他の世界に関しては、大部分の人々が信じないと言って良いであろう。それは、霊的世界が人間にとって不可視であり、人間は、霊的世界を理解すること、それについて知ることは不要であり、ましてや霊的世界が物質世界とは全く異なることについて述べることは、一切不要であると考えるからである。神にとって、霊的世界は開かれたものであるが、人間にとって霊的世界は隠されており、開かれたものでは無いので、人間が霊的世界の様々な側面を理解するための経路を探すのは、困難である。霊的世界に関してわたしが述べる事柄は、神の管理と統治に関する事柄のみである。無論、それらの事柄は人間の結末や終着点にも関連する。しかしわたしは謎を解明しているのでも、あなたがたが知りたい秘密を話しているのでも無い。なぜなら、この事柄は神による統治、支配、そして神が与えることに関連するものであり、したがってわたしはあなたがたが知る必要のある部分のみについて話をする。

 まず、あなたがたに質問するが、あなたがたの心の中では、霊的世界とは何であろうか。一般的に言うと、霊的世界とは物質世界以外の世界であり、人間にとって見ることも触れることも出来ない世界である。しかし、あなたがたの想像では、霊的世界とはどのようなものであろうか。おそらく、霊的世界は見ることが出来ないので、あなたがたは想像することが出来ないであろう。しかし、霊的世界に関する伝説を聞くと、霊的世界について考えるのを止めることは出来ない。わたしがこう述べるのは何故であろうか。多くの人々が、幼い頃に経験することがある。誰かが幽霊や亡霊に関する怪談をすると、子供達はそれを怖がる。それでは、子供達はなぜ怖がるのであろうか。それは、子供達が幽霊や亡霊を想像するからである。子供達は幽霊や亡霊を見ることが出来ないものの、自分達の部屋や、隠された場所、暗い場所などの至る所に存在するように感じるので、子供達は恐怖で眠れなくなる。特に夜中は、子供達は部屋や中庭に独りで居ることが出来ない。それが、あなたがたの想像する霊的世界であり、人間が恐ろしいと考える世界である。人間はそれぞれ多少の想像力があり、誰もが何かを感じることができる。

 それでは、霊的世界について話をしよう。霊的世界とは何であろうか。わたしが簡潔に説明する。霊的世界とは、物質世界とは異なる重要な場所である。それでは、わたしがそれを重要であると言う理由は何であろうか。これについて詳細に話をする。霊的世界の存在は、人間の物質世界と不可分の関連性がある。霊的世界は、神による万物の統治のうち人間の生死の周期において重要な役割を担い、この役割がその存在が重要である理由のひとつである。霊的世界は五感で認識できない領域であるため、それが存在するかどうかを正確に判断できる者は存在しない。霊的世界における出来事は人類の存在と密接に関連し、そのため人間の生き方もまた霊的世界から甚大な影響を受ける。これは神による統治に関連するであろうか、というと、関連する。こう述べると、わたしがこの事項について話をする理由を理解できるであろう。霊的世界は神による統治と管理に関連するから、というのが、その理由である。このように、人間が見ることのできない世界における天の命令や律法、統治組織は、物質世界におけるどの国家の法令や組織よりも遙かに優れており、この世界に生きるもののうち、そうした命令や律法、統治組織に背いたり濫用したりしようとする者は、一切居ないであろう。これは神による統治と管理に関連するであろうか。霊的世界には、明確な行政命令と、明確な天の命令、規則がある。様々な段階と領域において、執行官は厳密にその任務と規則を遵守する。なぜなら、執行官は天命に背いた時の報いが何か、神がどのように邪悪を罰し、善良に報いるか、神がどのように万物を統治し、支配するか、そして神がどのようにして天の命令と憲章を実施するかを明確に理解しているからである。これらの事柄は、人間が住む物質世界と異なるであろうか、というと、大いに異なる。霊的世界は、物質世界とは全く異なる世界である。天の命令と規則があるため、霊的世界は、神による統治、支配、そして神の性質と神が持っているものや神であるものに関連する。この話を聞くと、あなたがたはわたしがこの事項について話す必要性が大いにあると感じないであろうか。霊的世界の秘密について知りたいと思わないであろうか。霊的世界の概念は、これまで述べた通りである。霊的世界は、物質世界と共存し、同時に神による支配と統治の対象となっているものの、神による霊的世界の統治は、神による物質世界の統治よりも遙かに厳格なものである。詳細に関しては、まず霊的世界がどのように人間の生死の周期の働きに関与しているかという問題を取り扱う必要がある。なぜなら、この働きは、霊的世界の存在の働きの大きな部分だからである。

 すべての人間を3つの類型に分類する。最初の類型は、信仰の無い人々で、信者以外の者である。これらの者を、信者以外の者という。信者以外の者のうち、大部分は金銭のみを信じ、自分自身の利益のみを追求し、物質主義的であり、物質世界のみを信じ、生死の周期や、神性、幽霊に関する噂は信じない。こうした人々を、信者以外の者と分類し、それを最初の類型とする。2番目の類型は、信仰の無い人々以外で、様々な宗教の信者の人々である。人類のうち、こうした信者を、数種類に大別する。この種の人々は、ユダヤ教徒、カトリック教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒の5種類に分類される。信者には、これらの種類がある。3番目の類型は、神を信仰する人々であり、あなたがたに関連する類型である。この種の信者は、現在神に付き従っている人々である。この種の信者は、神の選民と、奉仕者という2種類に区分される。そうしたわけで、これらの主要な類型は明確に区別されている。これで、あなたがたは、心の中で人間の類型と階層を明確に区別できる。最初の類型は、信者以外の人々である。信者以外の人々がどのような人々かは、既に述べた。信者以外の人々の多くは、蒼天を信じ、風、雨、雷は、すべてこの蒼天により支配されていると信じ、穀物の植え付けや収穫の際にこの蒼天に依存しているものの、神の信仰の話になると、反感を抱く。これは神の信仰であると言えるであろうか。こうした人々は信仰の無い人々に含まれる。神を信仰せず、蒼天のみを信じる人々は、すべて信仰の無い人々である。神を信仰することも、神に付き従うことも無い人々は、すべて信仰の無い人々である。2番目の類型は、5大宗教に属する人々であり、曖昧な神を信仰する人々である。3番目の類型は、終わりの日に受肉した実践の神を信じ、神に現在付き従っている人々である。それでは、わたしが全ての人間をこれらの類型に分類したのは、何故だろうか。(それらの類型の人々には、それぞれ異なる終着点と終末があるからである。)それは側面のひとつである。それは、こうした異なる人種や類型の人々が霊的世界へと還る時、人々はそれぞれ異なる場所へと向かい、生死の周期に関する異なる法則の対象となるからであり、そのことが、わたしが人間をこうした3つの類型に分類した理由である。

2019年3月17日日曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 10」 1




神は万物の生命の源である (4)

    本日は専門的な事項について話し合っている。あなたがたそれぞれが知り、経験し、理解すべき主要な事項は、主に2つしかないが、その2つとは何であっただろうか。そのうち1つは人間の個人的ないのちの成長であり、もう1つは神を知ることに関するものである。本日は、あなたがたに選択の機会を与えるので、ひとつ選んで欲しい。あなたがたが聞きたい話題は、人間の個人的ないのちの経験に関する話題であろうか、それとも神自身を知ることに関する話題であろうか。このような選択の機会をあなたがたに与える理由は、本日、わたしは、神を知ることに関して、新しい事柄をあなたがたと話し合いたいと考えているからである。いずれにせよ、まずは先述した2つの話題のうちいずれかを、あなたがたに選択してもらうことにしよう。(神を知ることに関する話題を選択する。)(神に関する認識を話し合う方が良いと思う。)あなたがたは、神を知ることに関して最近わたしたちが話し合っている事柄が達成可能だと思うであろうか。(神が最初に交わりを行われた時は、それが達成可能だとは感じなかった。その後、神は数回の交わりを行われ、最初の交わりを顧みたとき、神が造られた環境のなかで、兄弟姉妹が皆その領域における経験に留意していた。)それは大部分の人々にとって、手の届かない領域にあると言えるであろう。あなたがたは、そうした言葉により確信は得ないかも知れない。わたしがこう述べるのは何故であろうか。その理由は、以前にわたしが述べた事柄は、わたしがどのように述べたか、どのような言葉を用いたかを問わず、あなたがたがそれを聞いた時、わたしが述べた事柄を、言葉としてまた理論的には認識したが、しかしあなたがたの深刻な問題として、わたしがそのような事柄を述べた理由、わたしがそうした事柄について話をした理由を理解していなかったからである。このことが問題の要点である。このように、その言葉を聞くことにより、神や神の業に関するあなたがたの知識が増し、豊富になったにもかかわらず、あなたがたにとって神を知ることが依然として困難なのは何故であろうか。それは、わたしの話を聞いても、あなたがたのうち大部分の者が、わたしがその話をした理由と、その話と神を知ることのつながりを理解していないからである。そうではないだろうか。その話と、神を知ることのつながりを理解できないことは、何と関連するであろうか。あなたがたは、このようなことを考えたことがあるだろうか。おそらくあなたがたは、このようなことを考えたことが無いであろう。あなたがたがそれらの事柄を理解していないのは、あなたがたのいのちの経験が表面的すぎるからである。神の言葉に関する人間の認識と経験が極めて浅薄な段階のままである場合、神に関する人間の認識は、曖昧で抽象的なもの、初歩的なもの、原理的なもの、理論上のものに留まる。理論上は、論理的で合理的のように思われるが、大部分の人々が発言する神に関する認識は、空虚なものである。それでは、わたしがそれを空虚であると言う理由は何であろうか。それは、事実として、あなたの心中では、神について知ることに関してあなたが発言する言葉が正しいかどうか、正確かどうかが明瞭ではないからである。そうしたわけで、神について知ることに関する情報を、大部分の人々が聞いたことがあるにもかかわらず、こうした人々の神に関する認識は、論理的で曖昧で抽象的な原理の域を超えないものである。

    それでは、この問題はどうすれば解決できるであろうか。あなたがたは、このようなことを考えたことがあるだろうか。ある者が真理を追求しなかった場合、その者は現実を獲得できようか。(獲得できない。)その通りである。その者が現実を知ることが出来ないのは、確実である。ある者が真理を追求しなかった場合、その者には現実が欠如し、したがってその者には神の言葉に関する認識や経験が無いことは確実である。それでは、神の言葉を知らない者は、神を知ることが出来るであろうか。絶対にそのようなことは無い。それら2つの事項の間には、相互に関連性がある。したがって、大部分の人々が「神を知ることは、何と難しいことであろうか。こんなに困難なのは何故だろうか。神に関する認識について、私には何も述べられないのは何故だろうか。」などと言う。自分自身を知ることについては、何時間でも話を出来るが、神を知ることについて述べようとすると、絶句してしまうのである。何か述べることがあったとしても、それには無理があったり、曖昧なものとなってしまったりして、話している本人が聞いても不自然に思われる。これが原因である。神を知ることが困難すぎる、難儀だ、それについて何も話せることが無い、語り合って相手や自分自身に与えることが無い、と感じる場合、それは、あなたが神の言葉を体験したことが無い者であることを示すのである。神の言葉とは何であろうか。神の言葉は、神が持っているものや神が何であるかを表出されたものではないか。神の言葉を体験したことが無い場合、神が持っているものや神が何であるかに関する認識を得ることが出来るであろうか。間違い無く出来ないであろう。これらの事柄は、すべて相互に関連している。神の言葉に関する体験が無い場合、神の心を把握することは出来ず、したがって、神の性質や、神が好む事柄や嫌悪する事柄、人間に対する神の要求、善良な者に対する神の姿勢、邪悪な者に対する神の姿勢を知ることは無く、こうした事柄は全て曖昧で不明瞭なものになることは確実である。そうした不明瞭さにもかかわらず、神を信じている場合、真理を求めて神に付き従っていると言った場合、そうした発言には現実性があるであろうか。そうした発言に現実性は無いのだ。そのことを踏まえて、選択して欲しい。本日の話題として、あなたがたはどちらを選択するであろうか。(いのちの成長と人間の個人的ないのちの経験を選択する。)(いのちの成長を選択する。)いのちの成長に関してあなたがたに欠如しているのは、どの領域の事項であろうか。あなたがたの心が、あなたがたに訴えている事柄は、何かあるだろうか。あなたがたは、まだ知らないであろう。その他の人達は、どちらの事項を選ぶであろうか。神の認識に関する話と、いのちの経験に関する話のうち、どちらを希望するであろうか。(神を知ることに関する話題を選択する。)(神を知ることに関する話題である。)あなたがたのうち大部分が、神を知ることに関する話題を選択した。それでは、神に関する認識について、話を続けることにする。

 あなたがたは皆、本日の事項に関する話を聞くことを熱望しているであろう。本日の話題は、最近話をした事項、「神は万物の生命の源である」にも関連する。「神は万物の生命の源である」に関しては、これまで数回話をしたが、それらの話は、神が造った地球上に万物が存在できるようにするために、神が万物を支配していること、神はどのような手段を用いて万物を支配しているか、どのような原則にしたがって万物を管理しているかを人々に伝える様々な方法や観点を用いることが目的であった。また、神が人間に与える方法、つまり、神はどのような手段で人間に与えるか、神は人間にどのような生活環境を与えるか、神は人間に安定した生活環境を与えるために、どのような手段と推進力を用いるかについても、多くの事柄を話した。神の万物に対する支配、神の万物統治、神の経営の関係については直接的に話をせず、神がこのような方法で万物を統治する理由、そして神がこのような方法で人間に与え、人間を育む理由について、間接的に話をしたが、これらはすべて神の経営に関する事柄である。マクロ的な環境から、人間の基本的な生活必需品や食糧など、それよりも遙かに小さな事柄まで、また神が万物を支配し、規律に従って機能させることから、様々な人間のために神が造った適正な生活環境などに至るまで、話した内容は極めて広範である。この広範な内容は、全て人間が肉にあってどのように生きるかに関連している。つまり、この内容は、たとえば山、川、海、平原など、人間が目で見て感じることができる、物質世界の物事に関連するものである。これらの物は、全て目で見て触れることが出来るものである。わたしが空気や気温について話をする時、あなたがたは呼吸により空気の存在を直接感じ、身体により気温の高低を直接感じることができる。森の中の木々や草、鳥や獣、空を飛ぶものや地を歩むもの、巣穴から出てくる様々な小動物は、すべて人間の目で見て、耳で聞くことのできるものである。こうした物の範囲は極めて広いが、すべて物質世界のみを表すものである。人間の目に見える物は何であろうか。目に見える物は、物質的な物である。物質的な物とは人間が見たり触れたりすることが出来るものである。すなわち、手に触れた時にその物を感じ、目で見た時に脳が人間に映像すなわち図画を与えるものである。物質的な物は、実在する事実であり、人間にとって抽象的では無く、角ばっていたり丸かったり、背が高かったり低かったり、大きかったり小さかったりといった姿形があるものであり、人間に対してそれぞれ異なる印象を与える。これらの物質的な物は、物質世界の物全体の一部を構成するものである。それでは、神にとって、「神による万物の統治」の「万物」には、何が含まれるであろうか。この「万物」には、人間が見て触れることのできる物だけでなく、目に見えず、触れることの出来ない物も含まれる。これは、神による万物の統治の真の意味のひとつである。これらの物事は目に見えず触れることの出来ない物事であるが、これらの物事もまた実在する物事である。神にとっては、その物事が神の目で観察可能であり、かつ神の統治の範囲内にあれば、その物事は実在する。人間にとって、それらの物事は抽象的であり、想像不可能なことであり、目に見えず触れることが出来ないとしても、神にとって、それらの物事は実在する。神が支配する万物のもうひとつの世界は、そのようなものであり、それが神が支配する万物の範囲の、もうひとつの部分である。本日は、この事項について、すなわち神が霊的世界をどのようにして支配し、統治するかについて、話をする。この事項では、神が万物を支配し、統治する方法について話をするので、この事項は物質世界の外部の世界である霊的世界に関連するものであり、したがって人間にとっては、最も理解が必要とされる事項である。この内容について話し合い、理解して初めて、人間は「神は万物の生命の源である」という言葉の本当の意味を、真に理解できるようになる。そして、この事項の狙いは、「神は万物を支配し、管理する。」という主題を完結させることである。この事項に関する話を聞いた時、その話が異様である、あるいは信じがたいと感じるかも知れないが、あなたがたがどう感じるかを問わず、霊的世界が、神により支配されている万物の一部である以上、あなたがたはこの事項から何らかの知識を得るべきであることは間違い無い。この内容について話し合い、理解して初めて、人間は「神は万物の生命の源である」という言葉の意味を、更に深く理解し、その言葉に関する認識を得るだろう。

2019年2月21日木曜日

クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(5)結局クリスチャンの家族崩壊は誰のせい



クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(5)結局クリスチャンの家族崩壊は誰のせい
主イエスはこう言われました。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」(マルコによる福音書
16:15)神の要求に従い、クリスチャンは福音を広めて神の証しをして、多くの人が神の救済を得られるようにと働いています。彼らの行いは善意と徳に満ちています。しかし、中国共産党は神を信じる人々を大々的に逮捕して迫害しています。これにより、数えきれないほどのクリスチャンが家に帰れなくなりました。そのような家族は離散し、家は壊され、人々は命を失っています。それにもかかわらず中国共産党は、これらはすべてクリスチャンが福音を説くために家と仕事を捨てたことで生じていると言います。この中国共産党の声明は事実と一致しているのでしょうか。結局クリスチャンの家族が離散したのは誰のせいでしょうか。

2018年11月8日木曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「神を信じているなら神に従うべきだ」


全能神は言われた。「神に従う秘訣は新しい光を正しく認識し、光を受け入れて、それを実践できることである。このことだけが本当の従順である。…神の恩恵に囲まれて生きることだけに満足せず、積極的に真理を渇望し、真理を探求し、神のものとされることを求めること――これこそが意識して神に従うことの意味である。これこそが正に神が望んでいる信仰である。」 『言葉は肉において現れる』より

2018年11月3日土曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 6」3


 これらの社会的動向は、あなたがたにとって今では分かりやすいものです。簡単で、人々にとって身近でよく見られる一般的な例を挙げました。これらの社会的動向は、人間に大きな影響を及ぼしますか。(はい。)これらの社会的動向は、人間に深刻な悪影響を及ぼしますか。(はい。)人々にとって、極めて深刻な悪影響です。サタンは、こうした社会的動向を次々と用いて、人間の何を堕落させますか。(良心、理知、人間性、倫理です。)他には。(人間の人生観です。)社会的動向は人間の漸進的退廃をもたらしますか。(はい。)サタンはこうした社会的動向を用いて、少しずつ人間を誘惑して悪の巣窟へと誘い、社会的動向に捕らわれた人間は、気付かぬうちに金銭や物欲、邪悪と暴力を擁護するようになります。ひとたびこうした物事が人間の心に入ると、人間はどうなりますか。人間は邪悪なサタンと化すのです。それは、人間の心のどのような心理的傾向に起因しますか。人間は何を擁護しますか。人間は邪悪と暴力を好むようになるのです。人間は美や善を嫌い、またそれ以上に平和を嫌います。人間は通常の人間性による質素な生活を送ろうとせず、高い地位や大きな富を得ることを望み、肉の享楽に耽溺し、自分の肉を際限も制約もなく満足させるために努力を惜しまず、すなわち自分の求めるあらゆる事を行います。それならば、人間がこうした動向に没頭した場合、取得した知識はあなたが自由になるのに役立ちますか。あなたが知る伝統文化や迷信は、この窮地を投げ捨てるのに役立ちますか。人間が把握している伝統的な倫理や儀式は、人間が自制する上で役立ちますか。例として、『三字経』を考えてみましょう。三字経は、人間がこうした社会動向の泥沼[b]から抜け出す上で、役立つことがありえますか。(ありえません。)このように、人間はますます邪悪で、傲慢で、尊大で、自己中心的で悪意に満ちてゆきます。人間同士の愛情も家族同士の愛情も無くなり、親戚や友人同士の理解も無くなり、人間関係は暴力に満ちたものとなっています。誰もが暴力的方法を使用して、他の人間のそばで生活することを望み、自分自身の生活を確保するために、暴力を使います。地位や利益を得るためにも暴力を用い、また暴力や邪悪な方法を用いてしたい放題です。このような人類は恐ろしいものではないですか。(その通りです。)今わたしが述べた事を聞いて、サタンが堕落させたこのような人々や世界、環境の中で暮らすのは恐ろしいと思いませんか。(思います。)それでは、あなたがたは自分達が哀れだと感じたことはあるでしょうか。今、少々そのように感じているはずです。(はい。)あなたがたの口調からすると、あなたがたは「サタンは実に様々な方法で人間を堕落させている。サタンはあらゆる機会を捉え、あらゆる所に存在する。それでも人間は救われることができるだろうか」と考えているようです。それでも人間は救われることができるでしょうか。人間は自分自身を救うことができるでしょうか。(できません。)玉皇大帝は人間を救うことができるでしょうか。孔子は人間を救うことができるでしょうか。觀世音菩薩は人間を救うことができるでしょう。(できません。)それでは、誰に人間を救うことができますか。(神様です。)しかし、一部の人々は心の中に疑問を抱いて、「サタンは人間を極めて激しく害しているので、わたしたちには生きていく希望も自信もない。人間は皆堕落のただ中で生活し、いずれにしても誰もが神を拒否している。今や、人間の心は落ち込めるところまで落ちてしまった。サタンが人間を堕落させている間、神はどこにいるのか。神は何をしているのか。神が人間のために何をしているとしても、人間にはそれを感じることができない」と思います。一部の人々はどうしても意気消沈し、ある程度落胆します。あなたがたにとって、この気持ちは極めて深いものです。なぜなら、わたしがずっと述べていることは、皆に徐々に理解させ、希望が無いことをますます強く感じさせ、神に見捨てられたとますます強く感じさせるためだからです。しかし、心配は無用です。今日の主題「サタンの邪悪さ」は、わたしたちの真の主題ではありません。とは言え、神の聖なる本質を議論するためには、まずサタンがどう人間を堕落させるのかやサタンの邪悪さについて議論し、人間が現在置かれている状況を明確にする必要があります。これらの事を議論する目的のひとつは、人間がサタンの邪悪さを理解することであり、もうひとつは、真の聖さとは何かを一層深く理解出来るようにすることです。

 わたしがここまで話した事は、前回よりもはるかに詳細なものですか。(はい。)それでは、あなたがたの認識は深まりましたか。(はい。)多くの人が今、神の聖さとは、正確には何なのかについて述べて欲しいと望んでいることは承知していますが、わたしが神の聖さについて述べる時、わたしはまず神の行なう業について話します。その後で神の聖さとは正確には何なのかをあなたがたに尋ねますので、注意して聞いてください。わたしは、あなたがたに直接述べず、あなたがたに自分で理解してもらいたいので、そのための余地を与えます。このやり方をどう思いますか。(良いと思います。)それでは注意して聞いてください。

 サタンが人間を堕落させるとき、あるいは留まることを知らない危害を加えるとき、神は何もせず傍観することも、神の選民を無視したり、見て見ぬふりをしたりすることもありません。サタンが行うことは、神にとって全て明瞭であり、神はその全てを理解しています。サタンが何をしても、サタンがどのような動向を引き起こしたとしても、神はサタンが何をしようとしているかを知っており、神はその選民を見捨てることは無いのです。神は、その代わりに、誰の気を引くこともなく、秘密裏に、静かに、必要なことすべてを行います。神が誰かに対して働き始める時、誰かを選ぶ時、神はそれを誰にも告げず、またサタンに告げることも無ければ、それを誇示することが無いのは、なおさらです。神は静かに、そして自然に必要なことを行うのみです。まず、神はあなたの家族を選びます。家族の背景はどのようなものか、あなたの両親や祖先は誰かといった事柄は、既に神により決定されています。つまり、そうした事柄は神が取り急ぎ決めたことではなく、遠い過去に始まった業です。神があなたの家族を選ぶと、神はあなたが生まれる日を選びます。今、神はあなたが産声を上げてこの世に生まれて来るのを、あなたの誕生を見、あなたが最初の言葉を口にするのを見、あなたが躓きながら歩くことを覚えるのを見ています。あなたは最初の一歩を踏み出し、その後もう一歩を踏み出し、今では走ったり、跳んだり、話をしたり、自分の感情を表現できます。こうして人間が成長するにつれて、サタンの眼差しは獲物を睨む虎のように、人間ひとりひとりに注がれています。しかし神は働く時、人間や出来事、物事、場所、時間の制限を受けることが一切無く、神が行うべきこと、行なわなくてはならないことを行います。成長過程において、人が自分が好まない物事や疾病、挫折に遭遇することがあります。しかし、その道を進む時、あなたのいのちと将来は、完全に神の慈しみのもとにあります。神は、人生全体にわたってあなたの傍らにあり、あなたを守り、見守るという真の保証をあなたに与えます。あなたは、それを知らずに育ちます。あなたは新たな物事に接し、この世の中と人間を知るようになります。あなたにとってすべてが新鮮です。あなたは自分のことや、好きなことをするのを好みます。あなたは自分の人間性と生活環境の中で生活し、神の存在については一切の認識をもちません。それでも神はあなたが成長し、前進してゆく過程のすべてを見ています。あなたが知識を習得したり、科学を学習したりしている時でさえ、神はあなたの側から一歩も離れることが無いのです。あなたは、他の人々と全く同様に、世界を知り、世界と接触するなかで、あなた自身の理想を確立し、趣味を持ち、興味の対象を持ち、高尚な大志を抱くようになります。あなたは、自分の将来について頻繁に思索し、自分の将来がどうなるかを思い描きます。しかし、その過程で何があったとしても、神は全てをはっきりと見ています。あなたは自分の過去について忘れたかもしれませんが、神以上にあなたを深く理解している者はありません。あなたは神の見守る中で生活し、成長し、成熟します。この間、神の最も重要事項は、誰も気付くことができず、誰も知らないことです。神がそれについて、あなたに伝えることは当然ありません。その最も重要な事とは何でしょうか。知っていますか。(人々を神の前に来させることです。)それでは、人々を神の前に来させるため、神は何をするのでしょうか。神は人々をいつ神の前に来させますか。知っていますか。それは神の主要事項ですか。それは神の行なう最も重要なことですか。それは、神がある人間を救うという保証であると言えます。つまり、神はその人を救うことを望むので、神はそれを行う必要があり、その務めは人間にとっても神にとっても極めて重要なのです。知っていますか。あなたがたは、このことについて実感や概念が全く無いようなので、わたしが話します。あなたが生まれた時から現在に至るまで、神はあなたに対して多くの働きを行なってきましたが、神が行ったことを全て詳しく伝えることはありません。神はあなたに知らせることはなく、あなたに伝えませんでした。しかし、人間にとって、神の行いは全て重要です。神にとって、それは行うべき事です。神の心中には、神がなすべきことで、それらよりも遙かに重要なことがあります。何でしょうか。それは、人間が生まれてから現在に至るまで、神は人間ひとりひとりの安全を保証する必要があるということです。これを聞いても、あなたがたは完全に理解できないと感じ、「その安全とは、それほど重要なものなのか」と言うかも知れません。「安全」という言葉の文字通りの意味は何ですか。あなたがたは、それを平安である、災害や災難に遭遇することが無いことである、良い生活を送ることである、普通に生活することであるなどと理解しているでしょう。しかし、安全とはそれほど単純なものではないということを、あなたがたの心中で知らなければなりません。それでは、わたしがこのように話している、神が行うべきこととは一体何でしょうか。安全は、神にとって何を意味するのでしょうか。本当にあなたがたの安全の保証のことでしょうか。ちょうど現在のように。いいえ。それでは、神が行なうことは何でしょうか。この安全とは、あなたがサタンにより食い尽くされない、ということなのです。これは重要ですか。あなたはサタンに食い尽くされていませんが、そうであれば、これはあなたの安全に関連するでしょうか。これはあなた個人の安全に関わり、それよりも重要な事はありません。サタンにより食い尽くされたなら、あなたの魂も肉も、もはや神に属しません。神はあなたをもはや救いません。神はそうした魂や人々を見捨てるのです。ですから、神が行うべき最も重要なことは、あなたの安全、あなたがサタンに食い尽くされないことを保証することだと言うのです。これは極めて重要ではありませんか。それでは、あなたがたはなぜ回答できないのですか。あなたがたは、神の大いなる優しさを感じることができないようですね。

 神は、人間の安全を保証すること、サタンに食い尽くされないことを保証すること以外にも、さらなることを行います。神は、誰かを選んで救う準備のために、数多くの働きを行います。まず、あなたはどのような性格か、どのような家庭に生まれるか、両親は誰か、兄弟姉妹は何名いるか、家庭の状況と経済的地位はどのようなものか、あなたの家庭状況はどうかなどは、神があなたのために、苦心して用意しました。あなたがたは、神の選民の大部分が、どのような家庭に生まれているかを知っています。名門の家庭でしょうか。そんな家も数件あるかも知れません。全くないとは断言できませんが、極めて少ないです。百万長者、あるいは億万長者など極めて裕福な家庭でしょうか。その種の家庭はまずほぼありません。それでは、神がそれらの人々のために用意するのは、どのような家庭でしょうか。(普通の家庭です。)それでは、普通の家庭とは、どのようなものですか。専ら労働者の家庭です。労働者は賃金に依存して生活し、基本的な必需品を購入することができます。労働者家庭は何があってもあなたを飢えさせることはありませんが、物質的必要性を全て満たすことは期待できません。また農家の家庭もあります。農家は作物の栽培に食糧を依存し、食糧として穀物があるので何があっても飢えることは無いですが、良い衣服はありません。また、事業や小規模商業を営む家庭や、両親が知能労働者である家庭などがあり、それらもまた普通の家庭と見なせます。また両親が事務職に従事する場合や、下級公務員である場合もあり、それらも名門とは見なすことはできません。多くの人々は普通の家庭に生まれ、それもまたすべて神が用意したことです。つまり、あなたの生活する環境は、あなたが想像するような資産家の家庭ではなく、神があなたのために決めた家庭であり、大部分の人々が、こうした家庭の制約範囲内で生活します。ここでは、例外は取り上げません。それでは、社会的地位はどうですか。ほとんどの場合、両親の経済状況は平均的であり、社会的地位は高くありません。彼らにとっては、職があるだけで十分です。長官はいるでしょうか。それでは総裁はいますか。(いません。)地位が高かったとしても、小企業の経営者や下位管理職にとどまり、社会的地位は中間で、経済状態は平均的です。もう一つの要素は家庭の生活環境です。まず、自分の子どもに影響を与えて易断や運勢判断などの道へ進ませる両親は極めて少ないか全くいません。大部分の両親は極めて普通であり、あなたがたに似ています。神は人間を選択すると同時に人間のためにこうした環境を用意しますが、それは神が人間を救う働きに大いに有益です。外面的には、神は人間のために何ら劇的なことをしていないように見えますが、神は全てを秘密裏かつ謙虚に、そして静かに行うからです。しかし実際には、神がすることは全て人間の救いのための基盤を築き、将来の道を用意し、救いに必要な全ての条件を用意するためのものです。神は、各人に指定された時間になると即時に人々を神の前に戻します。あなたが神の声を聞く時が来ると、それはあなたが神の前に行く時です。その時、ある者は既に人の親となり、ある者はまだ誰かの子のままです。換言すると、既に結婚して子をもうけた人もいれば、独身のままで自分の家庭を持っていない人もいます。しかし、人々の状況を問わず、神はあなたが選ばれる時期、神の福音と言葉があなたに届く時期を、既に決定しています。神は、あなたが神の言葉を聞くことができるよう、既に状況を設定し、あなたに福音をもたらす特定の人物や状況を決定しています。神は、あなたが知らないうちに神の前に来て神の家に戻るよう、必要とされる全ての条件を既に用意しています。また、あなたは知らないうちに神に付き従い、神があなたのために段階ごとに用意した、段階的な働きに入っていきます。神がこの時人間のために物事をおこなうのにはどのような方法があるのでしょうか。まず、神が最低限度として行うのは、人間が享受する慈悲と保護です。神は、人間が神の存在と神による業をそこに見出せるように、様々な人々や出来事、物事を用意します。たとえば、家族が病を患っているために神を信仰する人がいて、「家族が病気だが、いったいどうしたらよいのか」と言ったとします。誰かが「主イエスを信じよ」と言い、それゆえに神を信仰するようになります。その信仰は状況が原因となって生まれました。それでは、この状況を用意したのは、誰ですか。(神様です。)この病により、若い者も年老いた者も全員が信者である家庭が存在する一方で、信仰する者としない者がいる家庭も存在します。外見上は疾病のために神を信じるようになったけれど、実はその疾病は神の前へと行くように、あなたに与えられた条件であり、すなわちそれは神の優しさです。ある人々は、家庭生活が困難で平安を見出すことができないために、誰かが福音を伝える機会が訪れ、その誰かが「あなたの家庭には困難がある。主イエスを信じよ。主イエスを信じれば、平安が訪れる」と言います。その後、無意識のうちに、この人は極めて自然な状況下で神を信じるようになります。これは一種の条件ではありませんか。(その通りです。)それでは、その人の家庭に平安がないというのは、神がその人に与えた恵みではないですか。(その通りです。)それ以外の理由で神を信じるようになる人々もいます。信仰には様々な理由や在り方がありますが、神を信じるようになった理由がどのようなものであれ、実際には、それは全て神が用意し、導いたものなのです。最初、神は様々な方法であなたを選び、あなたを神の家に連れてきます。これが神があらゆる人に与える恵みです。



2018年10月27日土曜日

全能神教会の御言葉讃美歌「神への信仰の本当の意味」


Ⅰ 多くの人が神を信じているが 信仰の真の意味を理解し 神と心を一つにする術を理解する人はあまりに少ない 多くの人が「神」という言葉を知り 「神の業」という言葉も知っている しかし彼らは神も 神が実際に行う業も知らない その信仰が盲目なのは当然だ それが未知で奇妙なものなので 彼らは真剣に考えず 神の要求からかけ離れている あなたが神と その業を知らなければ 神に用いられるに相応しくなれるだろうか? あなたは本当に 神の望みを果たすことができるのだろうか? 神の存在を信じるだけでは不十分だ  それはあまりに単純で 宗教的であり 神への本当の信仰心とは言えない 真の信仰とは 神が全てを支配しているという信仰に基づき 神の業と言葉を体験して 堕落した性質から自分を解放し 神の望みを果たして神を知ることである それこそが神を本当に信じることなのだ Ⅱ 多くの人が神を信じることを 単純で浅はかだと思っている そんな信仰は意味のないものだ どうして神がそれを認めようか? 神の存在を信じるだけでは不十分だ  それはあまりに単純で 宗教的であり 神への本当の信仰心とは言えない 真の信仰とは 神が全てを支配しているという信仰に基づき 神の業と言葉を体験して  堕落した性質から自分を解放し 神の望みを果たして 神を知ることである それこそが神を本当に信じることなのだ それこそが神を本当に信じる道なのである 『言葉は肉において現れる』より

2018年10月24日水曜日

全能神の発表「序文」


 神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は「神」という言葉や「神の働き」のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を知らないすべての人々がでたらめな信仰に取りつかれているのは無理もない。人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。「神への信仰」とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。本当の信仰を持てば、堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知るようになるだろう。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。しかし、人々はしばしば神に対する信仰を、何か単純で取るに足らないものだと考える。そのような人々の信仰は意味がなく、神の承認は決して得られない。なぜなら、彼らは間違った道を歩んでいるからである。今日、相変わらず文章を通して、つまり空虚な教義を通して神を信じている人々がいる。彼らは自分たちの信仰には本質がないことや、自分たちが神の承認を得られないことに気が付かず、依然として平安と神からの十分な恩恵を願って祈っている。わたしたちは立ち止まって次のように自問するべきである。神を信じることは本当に地上で最も容易なことなのだろうか。神を信じることは神から十分な恩恵を得ることでしかないのだろうか。神を信じているが神を知らない人々、神を信じているが神に反抗している人々は本当に神の望みを満たすことができるのだろうか。

 神と人を同等なものとして語ることはできない。神の本質と神の働きは人にとって最も深遠で理解しがたい。神が人の世でみずから働きを行わず、言葉を話さなかったら、人は決して神の意志を理解することはできないし、全生涯を神に捧げてきた人々でさえ、神の承認を得ることはできない。神の働きがなければ、人の行いがどんなによくても無駄である。神の考えはいつも人の考えより高く、神の英知は人にとって測り知れないものだからである。そこで、神と神の働きを「見抜いた」人々は無力で、皆傲慢で無知だとわたしは言う。人は神の働きを決め付けるべきではないし、その上、人は神の働きを決め付けることはできない。神の目には人は蟻よりも小さいのに、どうして人が神の働きを推し測ることなどできようか。「神はあんな方法やこんな方法では働かない」とか「神はこのようである、あのようである」といつも言っている人々――彼らは皆高慢ではないだろうか。わたしたちは皆、肉体を持つすべての人々はサタンによって堕落させられていることを知るべきである。神に反抗するのは彼らの本性であり、彼らは神と同等ではなく、ましてや神の働きに助言することなどできない。神が人をいかに導くかは神自身の働きである。人は服従するべきであり、これこれしかじかの意見を持つべきではない。人はちり芥にすぎないのだから。わたしたちは神を見つけようとしているのであり、神が考慮するべき神の働きの上に自分たちの観念を重ね合わせるべきではないし、神の働きに故意に反対するために自分たちの堕落した性質を用いることなどもってのほかである。そのような行為はわたしたちを反キリストにさせるのではないだろうか。どうしてそのような人々が神を信じているなどと言えるだろう。わたしたちは神の存在を信じているので、神を満足させ、神を見たいと望んでいるので、真理の道を求め、神と融和するための道を探すべきである。わたしたちはかたくなに神に反抗するべきではない。そのような行動に何の益があるだろう。

 今日、神には新しい働きがある。あなたはこれらの言葉を受け入れないかもしれない。あなたには奇妙な言葉に感じられるかもしれないが、わたしはあなたに本性を表さないよう忠告する。神の前で本当に義に飢えかわいている人々だけが真理を得ることができ、本当に敬虔な人々だけが神によって啓発され、導かれることができるからである。口論を通して真理を求めてもそこからは何も生じない。静かに求めることによってのみわたしたちは結果を得ることができる。わたしが「今日、神には新しい働きがある」と言う時、わたしは神が再び肉となることに言及している。おそらく、あなたはこれらの言葉を気にしないか、これらの言葉を軽蔑するか、あるいはおそらくあなたにとって極めて興味深い言葉であるかもしれない。いずれにせよ、わたしは神の出現を本当に切望するすべての人々がこの事実を直視し、慎重に考慮することを希望する。結論に飛びつかない方がよい。これが賢い人々の行動すべきやり方である。

 このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。外見は本質を決定しない。その上、神の働きが人の観念と一致したことはこれまでにない。イエスの外見は人の観念とはまったく違っていたではないか。イエスの外見と衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。古代のパリサイ人がイエスに反対したのは、彼らがイエスの外見を見ただけで、イエスの語る言葉を真剣に受け止めなかったからではないだろうか。神の出現を求める兄弟姉妹には歴史の悲劇を繰り返さないで欲しい。あなたがたは、現代のパリサイ人になって神を再び十字架につけるようなことをしてはならない。あなたがたは神の再来をどのように歓迎するか慎重に考え、真理に服従する人になるにはどうしたらよいか、はっきりした考えを持つべきである。これが、イエスが雲に乗って再臨するのを待っているすべての人の責任である。わたしたちは霊的な目をこすり、非現実的な考えに満ちた言葉の餌食になってはならない。わたしたちは神が現実に行なう働きについて考え、神の実際的な面を見るべきである。イエスをまったく知らず、見たこともなく、イエスの意志をどう理解したらよいかわからないあなたがたを引き受けるために、主イエスが突然雲に乗ってあなたがたのもとに降りて来る日をひたすら楽しみにしながら、調子に乗ったり、空想にふけって自分を見失ったりしてはいけない。現実的な事柄を考えているほうがよい。

 あなたは研究のため、あるいは受け入れるつもりでこの本を開いたのかもしれない。あなたの態度がどうであれ、わたしはあなたがこの本を最後まで読み、簡単に脇に押しやってしまわないことを希望する。おそらく、これらの言葉を読んだ後、あなたの態度は変わるだろうが、それはあなたがどのくらい積極的か、どのくらい容易に物事を受け止めるかにかかっている。しかし、あなたが知っておくべきことが一つある。神の言葉は人の言葉として語ることはできないし、ましてや人の言葉は神の言葉としては語ることはできない。神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。これらの言葉を読んだ後、あなたはこれらが神の言葉であることを受け入れず、ただ啓示を受けた人の言葉として受け入れるかもしれない。そうだとすれば、あなたは無知ゆえに目が見えなくなっているのだ。どうして神の言葉が啓示を受けた人間の言葉と同じでありえようか。人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。とにかく、あなたは決して正しいものを誤りとするべきではないし、高いものを低いものとして話すべきではないし、深いものを浅いものとして話すべきではない。とにかく、あなたは真理であると知っていることを決して故意に論駁するべきではない。神の存在を信じる人はすべてこの問題を正しい観点から考えるべきであり、神の新しい働きと言葉を神の創造物として受け入れるべきである――さもないと神に排除されるであろう。

 ヤーウェの働きの後、人のあいだで神の働きを行うためにイエスは受肉した。イエスの働きは単独で実行されたのではなく、ヤーウェの働きの上に築かれた。それは律法の時代を神が終わらせた後の新しい時代のための働きであった。同様に、イエスの働きが終わった後、神は次の時代のためにさらに神の働きを続行した。神による経営(救いの)計画全体はいつも前進しているからである。古い時代が過ぎると、新しい時代に置き換えられ、古い働きが完了すると、新しい働きが神の計画を続行する。今回の受肉はイエスの働きの完了に続く神の二回目の受肉である。もちろん、この受肉は単独で起こるのではなく、律法の時代と恵みの時代の後の第三段階の働きである。神の働きの新しい段階はそれぞれいつも新しい始まりと新しい時代をもたらす。そこで神の性質、神の働き方、神の働く場所、神の名前にもそれに付随した変化がある。したがって、人にとっては、新しい時代の神の働きを受け入れるのが難しいのは無理もない。しかし、いかに人が反対しようと、それには関係なく、神はいつも自分の働きを行っており、いつも人類全体を前方に導いている。イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。

 人々が恵みの時代に留まっていれば、彼らは堕落した性質を決して免れないし、ましてや神の本来の性質を知ることはない。人々がいつも豊かな恵みの中に生きていても、神を知らず、神を満足させることができるようになる生き方をしていなければ、いくら神を信じても決して本当に神を得ることはないだろう。それはなんと哀れな形の信仰ではないか。あなたがこの本を読み終えた時、神の国の時代における受肉した神の働きの各段階を経験した時、あなたは長年の希望がついに実現されたことを感じるだろう。あなたはそのとき初めて本当に神を直接見たと感じるだろう。初めて神の顔をじっと見つめ、神自らの発言を聞き、神の働きの英知を正しく理解し、神がなんと現実的で全能かを本当に感じるだろう。あなたは過去の人々が決して目にしたり、所有したりしたことのない多くの事柄を獲得したことを感じるだろう。この時、あなたは神を信じるとは何か、神の心に従うとは何かをはっきりと知るだろう。もちろん、あなたが過去の考えに執着し、神の二度目の受肉の事実を否定、あるいは拒絶するならば、あなたがたは手ぶらなままでとどまり、何も獲得せず、ついには神に反抗するという罪を犯すだろう。真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能神の名の下に分類されるだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録1:12-16)このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)神の本当の顔は人間の言葉では十分明確に表現することはできないので、神はその本来の性質の表現を用いて人に本当の顔を示す。すなわち、人の子の本来の性質を経験した人々はすべて、人の子の本当の顔を見たのである。神はあまりに偉大なので、人の言葉で十分明確に表現することができないからである。いったん神の国の時代における神の働きの各段階を経験したら、ヨハネが燭台の明かりの中で人の子について語った言葉の意味を人は知るだろう。「そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」その時、あなたは、これほどの多くの言葉を語ったこの普通の人間が本当は神の再来であることをまったく疑う余地なく知るだろう。そしてあなたは自分がいかに祝福されているかを本当に感じ、自分がもっとも幸運であると感じるであろう。あなたはこの恩恵を受け入れたくないだろうか。

 この本の内容は『言葉は肉において現れる』から選定したもので、もちろん、諸教会に向けた聖霊の言葉でもある。これらの言葉は「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」と言うヨハネの黙示録の中の言葉の実現である。その中には預言、奥義の啓示、いのちの道など数種類の発言といった豊かな内容が含まれている。神の国の未来の予言、神の経営(救いの)計画に関する奥義の啓示、人の本質の詳細な分析、忠告の言葉や警告、厳格な裁き、心からの慰めの言葉、人生についての話、入ることについての話などがある。要するに、神の持っているもの、神であるもの、神の性質などすべてが神の働きと言葉の中に表されている。もちろん、神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。あなたは新しい時代に入りたいのか。あなたは自分の堕落した性質を排除したいのか。あなたは高い真理を獲得したいのか。あなたは人の子の本当の顔を見たいのか。あなたは価値のある生涯を送りたいのか。あなたは神によって完全にされたいのか。そうならば、あなたはどのようにイエスの再来を歓迎するつもりなのか。

 脚注:

 a. 原文では「~かどうかに関しては」と書かれている。