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2020年4月3日金曜日

[東方閃電]全能神教会 「ノアの日々が来た」終わりの日の箱舟に乗る 日本語



「ノアの日々が来た」終わりの日の箱舟に乗る  日本語 
ノアの時代の人類を振り返りましょう。悔い改めることを考えずに、人はあらゆる種類の邪悪な活動を行いました。誰も神の言葉を聞きませんでした。人々の頑固さと悪は神の怒りを呼び起こし、ついに大洪水の災いに人々は飲み込まれました。ノアと彼の八人の家族だけが神の言葉に耳を傾け、生き延びられました。今日、世の終わりはすでに到来しました。人類の堕落はさらに深刻になってきています。誰もが悪をあがめます。宗教界全体は世界の潮流に従います。人々は真理を少しも愛しません。ノアの時代はすでに到来しました。人類を救うために、人類の中で世の終わりの裁きの働きを行おうと、神はもう一度再来しました。これは神が人を救う最後の時です。人類は何を選べばよいのでしょうか。
これは実話です。四川省の清平镇の住民たちは全能神の国の福音を受け入れることを繰り返し拒否したため、二度の災いを経験しました。汶川大地震の間、全能神を信じる多くの兄弟姉妹たちは神によって奇跡的に保護され、生き残りました。これらの事実は証しを立てられました。神を受け入れ従う人々と神を否定し抵抗する人々です。これらの二種類の人々には、ふたつの非常に異なる結末があります。

2020年3月16日月曜日

[東方閃電]全能神教会 ゴスペル音楽 ワーシップソング 「神の国での新しい生活のために賛美しよう」




ゴスペル音楽 ワーシップソング 「神の国での新しい生活のために賛美しよう」 私たちは神様の御声を聞き 神の家に帰ってきた 私たちは集まって御言葉を食べ飲みし 祝宴に参加する 私たちは、悲しみや混乱に別れを告げ新しい人生を送る 日々御言葉が共にあり それをいっぱいに浴びる 真理についての交わりで心を開き 私たちの心はとても明るくなる 私たちは御言葉を黙想して 聖霊が私たちを啓く 私たちの障壁や偏見は取り除かれ私たちは神様の愛の中に住む 私たちは真理を理解し自由にされ心は蜜のように甘い 私たちは愛し合い、互いに距離はない 私たちは神様の心を理解しもはや消極的ではない 御言葉の中に生き 私たちは神の麗しさを見る 私たちは人生で光の道を歩んだがこれはすべて神様の導き 私たちは神様への賛美を大声で歌い 踊りまた踊る 私たちは神の国での新しい生活を賛美し 心は真に幸せ 私たちを救ったのは神様で 私たちは神様の民になった 神様の御座の前に引き上げられることは 比類なき楽しさ 御言葉はとても貴く、そのすべてが真理 御言葉の裁きを受け入れて 私たちの堕落が完全に暴かれた 傲慢な性質により 私たちは実に理性に欠けている 御言葉が私たちを刈り込み取り扱い自己を知るようになった 私たち顧み、自己を理解し、真に悔い改める 裁きと刑罰を通して 私たちの堕落は清められる 私たちは堕落した性質を捨て去り 新しい人間になる 私たちは合格できるように本分を尽くし神様の愛に報いる 私たちはそれぞれなすべきことをして神様に忠誠を尽くす 証しに固く立ち、神様の御心を達成する 私たちはそれぞれ自分の光と熱を放ち 神様のために証しを広める 神様への純粋で誠実な愛は幸福で甘い 私たちは神様への賛美を大声で歌い 踊りまた踊る 私たちは神の国での新しい生活を賛美し 心は真に幸せ 私たちを救ったのは神様で 私たちは神様の民になった 神様の御座の前に引き上げられることは 比類なき楽しさ 私たちは、心と手をつなぎ神様を証しする 私たちは、御国の福音を広め 苦難や疲労を決して恐れない 患難や試練を通して 私たちは祈り、神様に頼る その道は辛く険しいが 神様は道を開いてくださる 御言葉の真理を知ると 私たちの心は力を得る 御言葉は私たちを勇気づけ 私たちは前へと突き進む 私たちは肩を並べて手と手をとりあって 神様のために証し体と心を神様にささげる 苦しみがどんなに大きくても 私たちは心から喜ぶ 御言葉の導きで、私たちはサタンに勝利する 真に神様を愛し、それを決して悔やまない 私たちは赤い大きな竜を完全に見捨てた 私たちは勝利の兵士だ 私たちは、神様を愛する道において証しし 決して引き下がらない 私たちは神様への賛美を大声で歌い 踊りまた踊る 私たちは神の国での新しい生活を賛美し 心は真に幸せ 私たちを救ったのは神様で 私たちは神様の民になった 神様の御座の前に引き上げられることは 比類なき楽しさ 私たちは神様への賛美を大声で歌い 踊りまた踊る 私たちは神の国での新しい生活を賛美し 心は真に幸せ 私たちを救ったのは神様で 私たちは神様の民になった 神様の御座の前に引き上げられることは 比類なき楽しさ 『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2020年3月2日月曜日

[東方閃電]全能神教会 ある体験の中、私は神の御加護を目の当たりにしました

私達は今まで一度も神を信じたことはありませんでした。しかし、2005年、神にお引き上げ頂いたことで、私の旦那、義理の父、伯父、そして私は全員が世の終わりの神の働きを受け入れる事が出来ました。その後すぐに、私は教会から書籍の管理業務に就かされました。後に、私達の自宅で火事が発生し、この火災の中で私達は神の奇跡的な御加護を授かったのです。神は正に全能であられるのです!

2006年3月のある日、昼食後の午後1時頃、外では雪が激しく降っていました。私の旦那、娘と私は家の中にいて、火の近くで体を温めながらトウモロコシを脱穀していた時、突然外から、「お宅の家が火事になってるぞ!急いで、外に出て火を消すんだ!」、と大きい叫び声がしたのです。私達が急いで外に出て見ると、台所と豚小屋の屋根が既に燃えていたのです。3人の無信仰者が火を消すのを手伝いに来てくれて、「ほら、火を消すのを手伝って!」、と大声で叫びました。近隣の村2つにも私達の叫び声が届き、直ぐに30人から40人もの人達が火を消すのを手伝いに来てくれたのです。この時、私は誰かがこう口にしたのを耳にしました、「この家族は神を信仰していないのか?どうやったら火事なんかが起るんだ?でもこの家族の家は燃えてしまったから、これでも神を信じるだろうか。」私はこの時点では彼らの言っていることはどうでもいいと思いました。そして、私は炎が増々激しくなっていくのが見えました。強い風が燃え盛る炎を家の中心部に向って追いやっていました。家の中には教会の書籍と我が家の穀物があったので私はとても不安でした。この切羽詰まった瞬間、私は続けて神に呼び掛けました。「ああ神様!どうか教会の書籍と我が家の穀物を御守り下さい、これらの物が燃えてしまわないようにして下さい。」 私が祈りを捧げた後、奇跡が起こり、風の吹く方向が突然変わったのです。その時、私は家の中の物全てが保護されると分かり不安な気持ちが少し薄れて行きました。火を消そうとしていた人達が燃えてしまった物にどれだけ金銭的な価値があるかと話しているのを聞いた時、私は豚小屋に2匹の豚がいることを思い出しました。私の旦那は豚達を助けようと駆けつけました。しかし彼が中に入ったとたん、燃えた破片の塊が突然降りかかり、入口をふさいでしまったのです。私はこれを見て心臓が喉につまりそうになり、心の中で必死に神に呼び掛け、旦那を御守り下さるよう懇願しました。無信仰者達は皆、私の旦那が大きな危険にさらされているのではないかと心配していました。しかし、皆が見詰める中、私の旦那が1匹50キロ以上ある豚2匹を前に押しやりながらついにその無事な姿を現したのです。これで、私の心はやっと落ち着きを取り戻しました。炎は1時間もしくはそれ以上燃え続けた末に全体で台所と豚小屋を2つ燃焼させ、およそ4000元ほどの損害が出てしまいました。

私達は後ほど、この大火災は火遊びをしていた子供によって起っていたことが分かりました。この時、私は神のこの御言葉を思い出しました。「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなたに対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある――その背後にはすべて戦いがある…神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである…あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)この神の御言葉の中に、今日私達が自宅の火災に直面した時、これは表面的には子供の火遊びによって引き起こされていたように見えましたが、実は霊的な世界ではサタンが神と賭けをしていたのです。サタンはこれを利用して私に神を非難させて、裏切らせて、拒絶させたがっていたのだと理解することが出来ました。無信仰者達が「でもこの家族の家は燃えてしまったから、これでも神を信じるだろうか」と言った時、あれはサタンが私を誘惑していたのです。もし無信仰者達の言う通りに神を非難し、批判していたら、私は神に対する証言が出来なくなっていたことでしょう。私は神の御心を理解した後すぐ、こう神に祈りを捧げました。「ああ神様!私の今日の体験はあなたからの試練であり、サタンからの誘惑だったのですね。私がサタンの前であなたの証言を出来るよう、どうか私に信念と精神力をお与え下さい、そしてこの事態に関する不平を漏らさないようにして下さい。私は全ての出来事と物事はあなたの手中にあると信じています。私の運命はあなたの手中にあり、私はあなたの御主権と御采配に従います。」

あの夜、私の家族は普段通りに集まって神の御言葉を頂き、私は旦那にこう問いかけました、「あなたの木材が燃えてしまったけど、神様のことを責めてる?」すると彼はこう言いました、「不満なんか何もないよ。豚を助けてやろうとして豚小屋に行った時、お前達は皆俺のいのちの事を心配して、何か良くないことが起るんじゃないかとビクビクしていたけど、俺は内心全く怖がってなかったんだ。最終的には無事に出て来れたし。これが神の御加護じゃないのか?神の御加護がなかったら、我が家は完全に燃え尽きていただろうし、俺のいのちもどうなっていたことか。我が家にはまだ物があるんだし、俺たちは神の御気遣いと御加護、そして俺達を愛して下さっていることを感謝しなきゃ。」 確かに、私はこの経験を通じて、神は私達のことを御気遣いになられ、私達を御守り下さっていることを本当に目の当たりにすることができました。我が家に火が付いた時、もし神が、数住人の人達を結集して、私達の所に来て火を消すようにして下さっていなければ、自分達だけの力では人を消すことは不可能であったでしょう。風が吹いて炎を家の中心部に押し向けていた時も、神が偉大な御力で風の方向を変えて下さっていなければ、教会の書籍、我が家の穀物、そして我が家そのものは燃え尽きていたことでしょう。私の旦那が炎を顧みず豚を救いに行った時も、神の御加護がなければ、旦那はあの大きな炎の勢いの中では焼け死んでいた可能性が高く、髪の毛が一本も焼けずにすんなりと歩いて出て来るようなことはなかったでしょう。私達は交流すればするほど、神の偉大な御力と愛をどんどん理解していくことが出来ました。私達は不平を言わなかっただけでなく、心の中が神に対する計り知れない感謝の意でいっぱいになっていたのです。

この経験から、私は神の全能さと奇跡的な御業を自分の目で見ることが出来た上に、神の優しさと素晴らしさを実感することも出来ました。火災の後、我が家の状況は以前に比べると少し悪くなってしまったものの、神に従う私の心は全く変わりませんでした。他人の言うことに関わらず、私は神がどのような行動を成されようとも、その全てが常に人々を救い、完全にすることを目的とされておられるのだと堅く信じています。私は自分の霊的背丈を考慮すると神の証言をするのは不可能だったと解っています。しかしこの試練の間、私は神の証言をして、サタンを辱めることが出来ましたが、その全ては神の御働きから生まれた結果であったのです。今後、私は神の御言葉をもっと読み、更なる真理を手にして、あらゆる種の試練を受ける際にも私の真の霊的背丈を以て神の証言をいたします。全ての栄光、全能の神にあれ!

用心(四川省宜宾市)

2020年2月6日木曜日

キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする 日本語吹き替え




キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする   日本語吹き替え
終わりの日、主イエスの再来を待つキリスト教徒たちの間で緊張感が高まる中、実際に主はいかにして再来されるのかという疑問が出る。「雲に乗ってお見えになる」と言う者もいるが、それに対し、再来の預言が他にもあると指摘して異議を唱える声もある。「見よ、わたしは盗人のように来る」(黙示録16:15)、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカ 17:25)、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイ25:6)もし主が誰にでも見えるように雲に乗って来られるなら、主が密かに現れ、苦しみ、捨てられるという奥義や、再来の証しをする者たちが出て来るという御言葉はどう説明できるのだろうか。主はどのような形でお姿を表されるのか。本作「主の到来の形」は、私たちの疑問にユーモラスに答えていく。

2019年12月12日木曜日

[東方閃電]全能神教会 「神はただサタンを打ち負かし、全人類を救うために受肉する 」キリストの人間に対する真の愛


Ⅰ
神が肉体として地上にいる間
人々の間で神の業を行なう
全ての業にはたった一つの目的がある
それは悪魔サタンを打ち倒すこと
神は人を征服することでサタンを倒す
また人々を完全な存在にすることで
世界に鳴り響くような証しとするならば
これもサタンの敗北のしるし
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった

Ⅱ
悪魔のサタンを打ち倒すためには
まず人を征服し完全なものにする
本質的にサタンを打ち破ると同時に
神は人を苦悩の世界から救う
この業を為すのが中国でも全宇宙でも
すべてサタンを倒し人々を救うために
人々が安息の地へ入ることができるように
神は人類を救おうとする
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
神が普通の肉体に宿たのは
サタンを打ち倒すためである
この受肉の神の業は
天の下で神を愛する全ての者を救うこと
人類を征服して サタンを打ち破るため
人類を救うためにサタンを倒すことは
神の業全ての真髄から切り離せない
神は全人類を救うため
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
『言葉は肉において現れる』より

2019年8月2日金曜日

クリスチャン映画「天国の民」日本語吹き替え



主イエスはこうおっしゃいました。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイによる福音書18:3)。主イエスは私たちに、正直な人だけが天国に入れる、正直な人だけが天国の民になれるとおっしゃいました。このムービーは程諾というクリスチャンが神様の働きを経験したストーリーと、人生において正直な人になることを追い求める過程を明らかにします。 程諾はかつて医者でした。彼女は神様を信じるようになったあとも、日常生活で自分の利益や体面を害することに出会うたび、いまだに嘘をついたり騙したりせずにはいられません。試練や艱難に遭遇したときなど、神様についての誤解を膨らませて不平を言いさえしますが、何度も真理を探し求めることで自分の不正直さ根源、また自己中心的で欺瞞に満ちたサタン的な本性についての認識を得ます。彼女は嘘をつきがちな自分の傾向と心の中の不正直さを解消するため、真理を追い求めることに集中し始めます。その後、本分を尽くしているさなかに中国共産党政府によって逮捕され、過酷な拷問に苦しむとき、彼女は嘘をつくくらいならむしろ死のうと決心して神様を否定することを拒みます。鳴り響くような美しい神様の証しをするのです。程諾は徐々に正直な人になり、真に神様を愛し、神様に従うことができるようになります。では、彼女のストーリーとはいったいどのようなものでしょうか。

2019年7月28日日曜日

絵画展:全能神の現れ、働きと全能神教会の歴史


主イエスは預言しました。「見よ、わたしは、すぐに来る」。(ヨハネの黙示録 22:7)「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」。(マタイによる福音書 24 : 27)「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17 : 24-25)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 2:7)今日、この主イエスの預言がすべて成就しました。神の現れを待ち望み、主イエスが雲に乗って来ることを願う大勢の人々が、神の声を聞き、神の御座の前に上げられました。1991年、世界の東方である中国で、人の子が語り始め、夜明け前の暗い夜の沈黙を打ち砕き、中国のさまざまなキリスト教宗派を揺り動かしました。人々は大いに喜び、騒ぎながら語り合い、主イエスが再臨し、神が語り始めたことを証ししたのです。わずか10年余りで、この人の子が発した言葉は中国本土に広まりました。それは、中国における全能神の現れと働きでした。全能神の現れと働きは中国全土に興奮を巻き起こしただけでなく、世界中を揺り動かしました。全能神が表した数百万の言葉は、インターネットで公開され、各国で閲覧できます。神の現れと働きを待ち望んでいた大勢の人々がその言葉を求め、学び始めています。また、専門家や学者も注目しています。2018年10月下旬、「全能神の現れと働き」と題する絵画展が韓国ソウルの全能神教会(CAG)で開催されました。世界で名をはせる多くの専門家や学者が研究のために来場しました。当教会のクリスチャンが訪問者に、全能神の言葉と働きを体験してからの気持ちや認識を説明しました。
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「万物の主権を握るお方」上映 観客はいのちの神秘に思いをめぐらす

2019年7月13日土曜日

キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする 日本語吹き替え



終わりの日、主イエスの再来を待つキリスト教徒たちの間で緊張感が高まる中、実際に主はいかにして再来されるのかという疑問が出る。「雲に乗ってお見えになる」と言う者もいるが、それに対し、再来の預言が他にもあると指摘して異議を唱える声もある。「見よ、わたしは盗人のように来る」(黙示録16:15)、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカ 17:25)、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイ25:6)もし主が誰にでも見えるように雲に乗って来られるなら、主が密かに現れ、苦しみ、捨てられるという奥義や、再来の証しをする者たちが出て来るという御言葉はどう説明できるのだろうか。主はどのような形でお姿を表されるのか。本作「主の到来の形」は、私たちの疑問にユーモラスに答えていく。

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キリスト教会漫才2018「校内尋問」あなたは中国における人権の現状を理解しているか

2019年5月16日木曜日

キリスト教ドキュメンタリー映画「万物の主権を握るお方」神様の大いなる力を証しする



 キリスト教ドキュメンタリー映画「万物の主権を握るお方」神様の大いなる力を証しする、神様に感謝いたします。広大な宇宙に広がる天体。それぞれが寸分の狂いもなく軌道を回る。天の下では山も、川も、湖もそれぞれの領域を守り、あらゆる生物はいのちの法則に従い、四季を通じて生き、繁殖する・・・全ては美しく、完璧に作られ、配置されている―それを支配する力強い手は存在するのか。この世に生まれた瞬間から、だれもがその人生に託された役割を担う。人はみな生まれ、老い、病み、そして死ぬ―喜びと悲しみを繰り返しながら・・・人はいったいどこから来てどこへ行くのか?私たちの運命は誰が握っているのか。太古の昔から今日まで、偉大な国家が興り、王朝が栄えては、衰退していった。歴史の渦の中で、国々と民族が繁栄しては消えていった・・・自然の法則同様、人類発展の法則にも神の奥義がある。あなたはその答えが知りたいだろうか。ドキュメンタリー「万物の主権を握るお方」が、あなたをその真髄へと導き、奥義を明らかにする。

2019年5月13日月曜日

受肉の奥義(1)

 


 恵みの時代に、ヨハネはイエスのために道を整えた。ヨハネは神自身の働きをすることはできず、ただ人の本分を尽くしただけであった。ヨハネは主の先駆者であったが、神を表すことはできなかった。彼はただ聖霊に用いられた人間であった。イエスのバプテスマに続いて、「聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り」、それからイエスは自分の働きを開始した。すなわち、キリストとしての職分を始めたのである。それがイエスが神の身分を取った理由である。イエスは神から来たからである。これ以前のイエスの信仰がどのようであったとしても──おそらく時には弱く、時には強かったのであろうが──それはすべてイエスが職分を始める前の普通の人の生活であった。イエスがバプテスマを受けた(油を注がれた)後、直ちに神の力と栄光が備わり、それにより職分を始めた。イエスはしるしと不思議、奇跡を行い、力と権威をそなえていた。神の代わりに自ら働きを行なったからである。イエスは神の代わりに霊の働きをし、霊の声を表現した。よって、イエスは神自身であった。これは争う余地がない。ヨハネは聖霊に用いられた。彼は神を表すことはできず、神を表すことは彼にとって不可能であった。もしヨハネが神を表すことを望んだとしても、聖霊はそれを許さなかったであろう。というのは、神自身が成就するはずの働きをヨハネがすることはできなかったからである。おそらく、彼には多くの人間としての意思、あるいは何か逸脱したものがあったであろう。どんな状況下においてもヨハネは神を直接表すことはできなかった。彼の過ちや間違いは自分自身を表していたが、働きは聖霊の象徴であった。それでも尚、彼のすべてが神を代表していたと言うことはできない。彼の逸脱や間違いも神を表していたであろうか。人を表すことにおいて間違いがあるのは普通のことであるが、神を表しながら逸脱しているなら、それは神に対して不名誉なことにならないであろうか。それは聖霊に対する冒涜ではないであろうか。たとえ人が他人に称賛されても、人が神の代わりをすることを聖霊は軽々しく許可しない。人が神でないなら、最後まで立ち続けることはないであろう。聖霊は人が気の向くままに神を表すことを許さない。たとえば、聖霊はヨハネに証しし、彼がイエスの道を整える者であることを明らかにしたが、聖霊によって彼になされた働きはよく釣り合いのとれたものであった。ヨハネに求められたことはイエスのために道を整える者になること、イエスのために道を備えることだけであった。すなわち、聖霊は道を整えるというヨハネの働きだけを支え、彼にそのような働きをすることだけを許した。ヨハネは他のことをすることを許されなかった。ヨハネは道を整えた預言者エリヤを表していた。これにおいて聖霊はヨハネを支えた。働きが道を整えることである限り、聖霊はヨハネを支えた。しかし、もしヨハネが自分自身が神であり贖いの働きを完成するために来たのだと主張していたなら、聖霊は彼を戒めなければならなかったであろう。ヨハネの働きがどれほど偉大であったにせよ、また聖霊に支えられていたとしても、その働きには境界がなかったわけではない。ヨハネの働きが聖霊に支えられていたことは確かに真実だが、当時彼に与えられていた力は道を整えることに限られていた。ヨハネはその他の働きは全くできなかった。というのは、彼はイエスではなく、道を整えるヨハネにすぎなかったからである。よって、聖霊による証が鍵であるが、人が聖霊により行なうことを許された働きは、それよりはるかに重要である。ヨハネも当時は確固とした証しを立てられていたのではないのか。ヨハネの働きも偉大ではなかったのか。ヨハネの働きはイエスの働きを超えることはできなかった。なぜなら、ヨハネは聖霊によって用いられた人間にすぎず、直接神を現わすことはできなかったからである。そのため、ヨハネの成した働きは限られていた。ヨハネが道を整える働きを終えた後、彼の証しを支える者はなく、新たな働きが続くこともなく、神自身の働きが始まったときに、ヨハネは去った。

 悪霊に取りつかれ「私が神だ!」としつこく叫んでいる人たちがいる。しかし、最後まで彼らは立ち続けていることはできない。というのは、彼らは自分が何を表しているかに関して誤っているからである。彼らはサタンを表し、聖霊は彼らに何の注意も払わない。自分をどれほど高く褒めたてても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、「わたしは神である、わたしは神の愛するひとり子である」と叫ぶことはない。しかし、わたしがする働きは神の働きである。わたしは叫ぶ必要があるだろうか。褒めたてる必要はない。神はその働きを自分で行なうのであり、人に地位や敬称を与えてもらう必要はない。神の働きは神の身分と地位を表すのに十分である。バプテスマの前、イエスは神そのものではなかったのか。イエスは受肉した神の肉体ではなかったのか。イエスは証をされて初めて神のひとり子となったのだ、などと言うことは到底できない。イエスという名の人がイエスが働きを開始する前には存在しなかったのだろうか。あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたが神であると主張しようとするのは意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神と認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神に関する限り、その人は神の霊の受肉した肉体である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。新しい時代のために道をつけることができない、あるいは古い時代を終わらせたり、新しい時代の到来を告げたり、新しい働きをすることはできないのであれば、あなたは神と呼ばれることはできない。

 聖霊に用いられる人でさえ神を表すことはできない。そして、その人は神を表すことができないだけではなく、その働きも直接神を表すことはできない。すなわち、人の体験は神の経営(救い)の内部に直接置くことはできないし、神の経営(救い)を表すこともできない。神自身が行なう働きはすべて、神の経営(救いの)計画の中で神が行なおうとする働きであり、偉大な経営(救い)に関係している。人(聖霊に用いられる人)によってなされる働きは、その人の個人的体験を提供することである。それは以前の人たちが歩いた道を越えて新しい体験の道を見つけ、兄弟姉妹を聖霊の指導の下で導くことである。この人たちが提供するのは、彼ら個人の体験や霊的な人たちの霊的書物である。彼らは聖霊によって用いられているが、その働きは六千年計画の偉大な経営(救い)の働きとは関係していない。彼らはただ自分たちが果たしている役目が終わるか、自分たちの生涯が終わるまでの間、聖霊の流れの中で人々を導くために、様々な時代に聖霊によって立てられている人たちにすぎない。彼らが行なう働きはただ神のために適切な道を用意するか、あるいは地上における神自身による経営(救い)のある側面を続けていくことだけである。そのような人たちは、神の経営(救い)の中で偉大な働きをすることはできず、新しい道を開拓することもできず、ましてや前の時代からの神のすべての働きを終わらせることなどできない。よって、彼らがする働きはただ被造物が己の役目を果たすことを表しているだけで、神自身が行なう職分を表すことはできない。これは、彼らがする働きは神自身の行なうものとは同じではないからである。新しい時代を招き入れる働きは神に代わって人がすることはできない。神以外の誰によってもなされることはない。人がする働きのすべては被造物の一人としての本分を果たすことだけで、聖霊によって動かされ、啓かれたときに果たされる。そのような人たちが与える指導は、人が日常生活でどのように実践し、神の心に一致してどのように行動すべきかということを人に示すことである。人の働きは神の経営(救い)に関わることも霊の働きを表すこともない。たとえば、ウィットネス・リー(李常受)やウオッチマン・ニー(倪柝聲)の働きは道を先導することであった。道が新しいものであろうと古いものであろうと、働きの前提は聖書の原則を超えないということであった。地方教会の復興であれ設立であれ、彼らの働きは教会を築くことであった。彼らの働きは、イエスや弟子たちが恵みの時代にやり終えなかった働き、或いはさらに展開しなかった働きを引き継いでいた。彼らがその働きにおいて行なったのは、頭を覆うこと、バプテスマを受けること、パンをさくこと、ぶどう酒を飲むことなど、イエスがその初期の働きにおいて自分以降の世代の人々に行なうように命じたことを復活させることであった。彼らの働きは単に聖書を守り、聖書の中に道を求めることであったと言うことができる。彼らは新しい進歩を一切遂げなかった。したがって、彼らの働きには聖書内における新しい道の発見と、以前よりは良い現実的な実践しか見受けられない。彼らの働きには、神の現在の意図を見受けることはできず、ましてや終わりの日に神が行なうである新しい働きに関しては何もない。これは、彼らが歩んだ道はやはり古い道であったので、刷新や進歩はなかったからである。彼らはイエスの磔刑の事実にこだわり、人々に悔い改め罪を告白させるという実践や、最後まで耐えるものが救われるということわざや「男は女の頭である」「妻は夫に従え」といった聖句、さらに女性信者は説教できず、従うことのみできるという伝統的な観念を維持した。もしもこのような指導が継続していたなら、聖霊が新しい働きを行ない人々を教義から解放し、自由と美の領域へと導くことはできなかったであろう。そういうわけで、時代が変わるこの段階の働きは、神自身が行ない語らなくてはならないのである。そうしなければ、神の代わりにこれらの働きを行なえる人はいない。今までは、この流れの外側では聖霊のあらゆる働きは行き詰まり、聖霊に使われていた人々は道に迷ってしまった。よって、聖霊に用いられた人の働きは神自身による働きと同じではないので、その身分や誰に代わって行動しているかもまた異なっている。これは聖霊が意図する働きが異なるため、働くすべての人たちに異なった身分や地位が与えられるためである。聖霊によって用いられる人たちはまた新しい働きをするかもしれないし、また昔なされた働きを排除するかもしれないが、彼らの働きは新しい時代の神の性質や心を表現することはできない。彼らはただ前代の働きを取り除くためだけに働き、神の性質を直接表すために新しい働きをするわけではない。このように、彼らがどれだけ多くの時代遅れの実践を廃止し、新しい実践を導入しようとも、彼らは依然として人や被造物を代表しているのである。しかし、神自身が働くとき、神は公然と古い時代の実践の撤廃を宣言したり、新しい時代の始まりを直接宣言することはない。神はその働きにおいて直接的で率直である。神は意図する働きを遂行する上で率直である。すなわち、神は自身がもたらした働きを直接表現し、本来意図したように自身の働きを遂行し、神であることと神の性質を表現する。人の見方では、神の性質、また神の働きはかつての時代とは異なっている。しかし、神の見地からは、これは神の働きの継続でありさらなる展開に過ぎない。神自身が働くとき、神はその言葉を表現し、直接新しい働きをもたらす。それとは対照的に、人が働くときは、熟考と研究によってなされるか、あるいは他人の働きに基づいて築かれた知識の発展と実践の体系化である。すなわち、人によってなされる働きの本質は設立された秩序に従い「新しい靴で古い道を歩く」ことである。これは聖霊に用いられる人が歩く道でさえ神自身によって開かれたものに基づいているという意味である。所詮人は人であり、神は神である。

 ヨハネは、アブラハムにイサクが生まれたように、約束によって生まれた。ヨハネはイエスのために道を整え、多くの働きを成したが、神ではなかった。むしろ、ヨハネは預言者であった。イエスのために道を整えたからである。ヨハネの働きも偉大であり、ヨハネが道を整えた後初めて、イエスは公に自分の働きを始めた。実質的には、ヨハネは単にイエスのために働いただけであり、ヨハネの働きはイエスの働きのためであった。ヨハネが道を整えた後、イエスは自分の働きを始めた。それはより新しく、より具体的で、より細かい働きだった。ヨハネが行なったのは、最初の働きだけだった。それより多くの新たな働きは、イエスによって成された。ヨハネも新たな働きを成したが、新たな時代へと案内した者ではなかった。ヨハネは約束の下に生まれ、その名前は天使が与えた。当時、彼の父ザカリヤの名をつけたかった人たちもいたが、ヨハネの母は「この子をその名前で呼ぶことはできません。ヨハネという名にしなければなりません」と主張した。これはすべて聖霊によって命じられたのである。それでは、ヨハネはなぜ神と呼ばれなかったのだろうか。イエスの名もまた聖霊に命じられた。そして、イエスは聖霊から、聖霊の約束によって生まれた。イエスは神であり、キリストであり、人の子であった。ヨハネの働きも偉大であったが、なぜ彼は神と呼ばれなかったのだろうか。イエスの働きとヨハネの働きの違いは正確に言って何だったのだろうか。ヨハネはイエスのために道を整える人であったことが唯一の理由だろうか。あるいは、神にあらかじめ定められたからだろうか。ヨハネはまた「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、天の国の福音も宣べ伝えたが、彼の働きはさらに展開されず、導入部分だけであった。それとは対照的に、イエスは新しい時代を切り開き古い時代を終わらせたが、イエスはまた旧約聖書の律法を成就した。イエスの働きはヨハネの働きより偉大で、さらにイエスは全人類を贖うために来たのであり、その段階の働きを達成した。ヨハネはただ道を整えただけであった。彼の働きは偉大で、言葉もたくさん語り、彼に従った弟子たちも数多かったが、ヨハネの働きは人に新しい始まりをもたらす以上のことは何もなかった。人は彼からいのちも、道も、より深い真理も受けておらず、彼を通して神の旨の理解を得ることもなかった。ヨハネはイエスの働きのために新境地を切り開き、選ばれた人を準備した偉大な預言者(エリヤ)であった。ヨハネは恵みの時代の先駆者であった。そのような事柄はただ彼らの普通の人間の外観を見ていても分からない。特にヨハネは、極めて偉大で、その上聖霊に約束され、聖霊によって支えられた働きをしていたので余計にそうである。だから彼らのそれぞれの身分はその働きを通してでなければ区別することはできない。というのは人の外観からその人の本質を知ることはできないし、人は聖霊の真の証を確認することはできないからである。ヨハネによってなされた働きとイエスの働きとは同じではなく、性質が違っている。それが、神であるかどうかを決定するものである。イエスの働きとは、始めて、続けて、終わらせて、達成することであった。これらの段階をそれぞれイエスは実行したが、一方ヨハネの働きは、始まりの働き以上ではなかった。最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。イエスは人々に説教し、あらゆる場所で天の国の福音を宣べ伝えた。この点ではイエスとヨハネは同じであったが、イエスは新しい時代の到来を告げ、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が恵みの時代に実践すべきことと従うべき道に関する言葉がイエスの口から発せられた。そして、最終的にイエスは贖いの働きを終えた。ヨハネはそのような働きを決して実行することはできなかった。だから、神自身の働きを行なったのはイエスで、イエスが神自身であり、神を直接表すのもイエスである。人の観念では、約束によって生まれた者、霊から生まれた者、聖霊によって支えられている者、新たな道を開く者は神であると言う。このような論法によれば、ヨハネも神であり、モーセもアブラハムもダビデも神である、ということになる。これは、よくできた冗談ではないのか。

 イエスも伝道を行う前は普通の人間に過ぎず、聖霊のすることに従って行動していただけであった。イエスが当時自分の身分を意識していたかどうかはともかく、神から示されたことにはすべて従っていた。聖霊は、イエスがその職分を開始する前には、その身分を決して明かさなかった。イエスがこのような律法や掟を廃止したのは、職分を始めた後であり、イエスが公に働きを始めた後に、彼の言葉は権威や力に満ちた。イエスの働きが始まった後初めて、新たな時代を生み出すという彼の業が始まった。それ以前の二十九年間、聖霊はイエスの中に隠れたままであり、その間イエスは人を表していただけであり、神の身分や働きは持たなかった。イエスがその働きと職分を始めた時点から、イエスは、自分がどれほど人に知られているかに関わらず、自身の内部の計画通りに働きを行ったが、そのイエスの働きは、神自身を直接表したものであった。イエスはその頃、周囲の者に「あなたがたはわたしをだれと言うか」と尋ねた。彼らは答えた。「あなたは最も偉大な預言者であり、私たちのよき医者です」、また「あなたは大祭司です」と答えた者もいた。様々な答えが出た。イエスはヨハネであるとか、エリヤであるとか言う者もいた。イエスはそれからシモン・ペテロの方を向いて「あなたはわたしをだれと言うか」と尋ねると、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えた。その時から、人々はイエスが神であることを知った。イエスの身分が知られたとき、その認識に最初に至ったのはペテロであり、それを口に出したのもペテロだった。そしてイエスは言った。「あなたにこの事をあらわしたのは、肉血ではなく、わたしの父である」。イエスがバプテスマを受けた後、他の者が認識していたかどうかはさておき、イエスの働きは神に代わっての働きであった。イエスが来たのは、自らの働きを行うためであって、自分の身分を明らかにするためではない。イエスの身分が公に人に知られるようになったのは、ペテロのこの言葉の後であった。イエスが神自身であることを人間が認識していたかどうかに関わらず、イエスは時が来ると自分の働きを始めた。そして、人間が認識していたかどうかに関わらず、イエスは自分の働きを以前のように続けた。たとえ人が拒否したとしても、イエスは自分の働きを行い、成すべき時にそれを遂行する。イエスが来たのは働き、職分を果たすためであり、人間が神の肉を知るためではなく、人間が神の働きを受けるためであった。もしあなたが今日の段階の働きは、神自身の働きであることを認識できないなら、それはあなたにはビジョンが欠けているからである。それでもこの段階の働きを否定することはできない。あなたがそれを認識できないからと言って、聖霊が働いていないとか、神の働きは間違っているとかいう証明にはならない。聖書の中のイエスの働きに照らし合わせて現在の働きを調べ、矛盾している点を用いてこの段階の働きを否定しようとする人々さえいる。これは目が見えない者のすることではないだろうか。聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。

 イエスが地上にいた時間は三十三年半だった。つまり、イエスは地上で三十三年半暮らした。そのうちイエスが自身の働きを成したのは三年半だけだった。そして、残りの年月は、普通の人間の生活をしていた。はじめのうち、イエスはシナゴーグの礼拝に出席し、そこで祭司の聖書の解説や他者の説教を聞いた。イエスは聖書について多くの知識を得た。イエスは生まれつきそのような知識を持っていたわけではなく、読んだり聞いたりすることでそのような知識を得た。イエスが十二歳のときにシナゴーグでラビに質問をしたことは、聖書にはっきり記録されている。昔の預言者の預言はどのようなものだったか。モーセの律法はどのようなものか。旧約聖書とは。そして、神殿で祭司の服を着て神に仕えることの意味は何だったのか等、イエスはたくさんの質問をした。そのような知識も理解もなかったからだ。イエスは聖霊により母胎に宿ったが、まったく普通の人として生まれた。多少の個性はあったものの、イエスは依然として普通の人だった。イエスの知恵は身長や年齢とともに続けて増し、イエスは普通の人と同じような人生の過程を通過した。人は、イエスが幼児期、青春期、中年期を経験していないと想像する。イエスは生まれるなり三十歳の人として生涯を始め、業を完了して十字架につけられたと人は思っている。おそらくイエスの人生は、普通の人の人生と同じようには流れなかっただろうと信じている。おそらく、イエスは食べもせず、人と交際もせず、人に簡単に姿を見られることもなかったのだろうと信じている。イエスは神なのだから、見るものを恐れさせるような奇人だろうと信じている。肉となった神は絶対に人間のような生活をしないと人々は信じている。彼らは、イエスは聖なる人なので、歯を磨いたり、顔を洗ったりしなくてもきれいであると信じている。これは純粋に人の観念ではないだろうか。聖書には人としてのイエスの生涯についての記録はなく、イエスの働きについてしか記録がないが、このことでイエスが普通の人間性をもっていなかったとか、三十歳になるまで普通の人間の生活をしなかったという証明にはならない。イエスは二十九歳で公に働きを始めたが、それ以前のイエスの人としての全生涯を否定することはできない。聖書はただその時期のことは記録から取り除いているだけである。それは普通の人性としてのイエスの生涯で、神性としての働きの時期ではなかったので、それを記録しておく必要はなかったのである。イエスのバプテスマ前には聖霊は直接には働かず、職分を始めるべき日までイエスを普通の人としてのその生活に留めた。イエスは受肉した神であったが、普通の人として成熟過程を経た。この過程は聖書から省かれている。というのは、人のいのちの成長に大きな助けにはならないから省かれたのである。イエスのバプテスマ以前は隠された時期で、イエスはしるしも不思議も行わなかった。イエスがバプテスマを受けて初めて、恵み、真理、愛、憐みが豊かに溢れた人類の贖いの働きのすべてを開始した。この働きの始まりはまさに恵みの時代の始まりでもあった。このため、それは書き留められ、現在に至るまで受け継がれてきた。それは恵みの時代の人々がその時代の道を歩み、十字架の道を歩むために、道を開き、すべてを完成させるためであった。そのような記録は人によって書かれたものだが、すべては事実の記述であり、ところどころに小さな誤りがあるだけである。とにかく、これらの記録を誤りとすることはできない。これらは人によって書かれたため誤りも見られるが、完全に事実である。イエスは平凡な普通の人性だったと言う者もいるかもしれないが、それならば、どうしてしるしや不思議を行なうことができたのだろうか。イエスが経験した四十日間の誘惑は、奇跡のしるしであり、普通の人には達成することができないものだ。イエスの受けた四十日間の誘惑は、聖霊の業であった。では、イエスの中に超自然的なものがまったくないとどうして言えるだろうか。イエスがしるしや不思議を行なえたことは、彼が普通の人ではなく超越的な人であることの証明ではない。それは聖霊が彼のような普通の人の中で働き、それにより、イエスは奇跡を起こして、より偉大な業を成すことができたというだけである。イエスがその職分を果たす前、あるいは聖書に記されているように聖霊がイエスに降りる前は、イエスは普通の人で、超自然的なところは少しもなかった。聖霊の降臨により、すなわち、イエスがその職分を始めた時、イエスは超自然的なもので満たされた。そのように人は、神の受肉した肉体は普通の人間性は全くなく、さらに受肉した神には人間性がないと誤って信じるようになる。確かに、神が地上にくると、神の働きと人が神に関して見る全てのことは超自然的である。目で見、耳で聞くことはすべて超自然的なことであるのは、神の働きと言葉は人には理解できず、達成不可能なことであるからである。もし天の何かが地上にもたらされるなら、超自然的以外のものであり得ようか。天の国の奥義が地上にもたらされたなら、それは人が理解したり推測したりすることのできない奥義であり、あまりにも素晴らしく知恵に満ちているが、それらはすべて超自然ではないであろうか。しかし、たとえどんなに超自然的でも、それらは神の普通の人間性において行なわれるということを知らなければならない。神の受肉した体は人間性を備えている。そうでなければ、それは神の受肉した体ではないであろう。当時、イエスは非常に多くの奇跡を行なった。当時のイスラエル人が見たものは、超自然的なものに満ちていた。彼らは天使や使者を見、ヤーウェの声を聞いた。これらはすべて超自然的なことではなかっただろうか。確かに、現在では人間を騙すために超自然的なものを通して働く邪悪な霊がいる。これは、現在は聖霊が行わない働きを通して人間を騙そうとする邪悪な霊による模倣にすぎない。多くの邪悪な霊が奇跡や病の癒しなどの働きを模倣する。これは邪悪や霊の働き以外の何物でもない。現在は聖霊はもはやこのような働きをしないからである。以降、聖霊の働きを模倣するのは、すべて邪悪な霊である。当時イスラエルで行なわれた働きはすべて、超自然的なものであった。だが今では、聖霊はそのようなやり方では働かない。これ以上のそのような働きはサタンによる業と妨害であり、悪霊から来る。しかし、超自然的なものの全てが悪霊の行為であるとは言えない。それは、神の働きのどの時代かによる。現在の受肉した神による働きを考えてみよ。そのうちどの部分が超自然的でないであろうか。神の言葉は、あなたには理解できず、到達不可能である。そして、神の働きはだれにもできない。神が理解することを人が理解することはできず、人は神の知識がどこから来るのかを知ることもできない。「私もあなたと同じように普通なのに、あなたの知っていることを私が知らないのはどういうことか。私の方が年上で経験も豊富なのに、どうして、私の知らないことをあなたが知っているのだろうか」と言う人がいる。これはすべて、人間に関する限り、人間にはできないことなのだ。また、「イスラエルで行われた働きについて本当に知っている人は誰もいないのに、どうしてあなたは知っているのですか。聖書解説者すら説明できないのに、あなたはどうして知っているのですか」と言う人もいる。これらはすべて超自然の問題ではないのだろうか。今日の受肉した神はいかなる不思議も経験しなかったが、あらゆることを知っており、神から言葉がいとも簡単に発せられる。これは超自然的なものではないのか。神の働きは、肉により達成可能な範囲を超えている。そのような働きは、肉による者の考えでは達成できず、人の知力や理屈ではまったく考えが及ばない。今日の受肉した神は聖書を読んだことがなかったが、イスラエルでの神の働きについて理解している。そして、地上で語っているにもかかわらず、第三の天の奥義について話す。人がこれらの言葉を読むと、「これは第三の天の言語ではないだろうか」という思いで圧倒される。これらはすべて、普通の人にできることを超えた事柄ではないだろうか。また、イエスが四十日間断食したことは、超自然的なことではなかっただろうか。四十日間の断食があらゆる場合において超自然的で、悪霊の行為であると言うなら、イエスを非難したことにならないだろうか。イエスがその働きを始める前は、まったく普通の人のようだった。イエスも学校で勉強した。それ以外にどうして読み書きを習得できたというのか。神が肉となったとき、霊は肉の中に隠されていた。だが、普通の人間として、イエスも成長と成熟の過程を経る必要があった。そして、イエスの認知能力が成熟し、物事の分別がつくまでは、イエスは普通の人と見なされていた。イエスの人間性が成熟した後初めて、職分を開始することができた。イエスの普通の人間性がまだ成熟しておらず、物事の道理もよく分からないときに、どうして職分を果たすことができただろうか。イエスが六歳か七歳で働きをすることなど考えられないはずである。神はなぜ、受肉してすぐに自身を明らかにしなかったのだろうか。それは、神の肉の人間性がまだ成熟していなかったからである。肉の認知過程、またその肉の普通の人間性がまだ完全に神のものになっていなかったのである。このため、イエスが肉による働きを行うには、それに相応しいだけの普通の人間性と常識を身に付けることがどうしても必要だったのである。そうして初めてイエスはその働きを開始することができたのである。イエスが働きに適していなければ、更に成長、成熟する必要があった。イエスが七歳か八歳で自分の働きを始めても、人は彼を天才児として扱わなかっただろうか。誰もがイエスを子供だと考えたのではないだろうか。イエスに説得力のあると誰が思っただろうか。その身長は演壇ほどもない七、八歳の子供に説教ができたであろうか。その人間性が成熟するまでは、イエスはその働きに適していなかった。イエスの人間性がまだ未熟だったのだから、その働きの大部分が到底成し遂げられなかった。肉体にある神の霊の働きもまたそれ自体の原理に従っている。イエスが普通の人間性を備えて初めて、父なる神の働きや義務を行なうことができたのである。そうしてはじめて、イエスはその働きを始めることができた。イエスは幼年時代には、古代に起こったことのほとんどを全く理解できず、ラビに聞いて初めて理解することができたのである。もしもイエスが言葉を話すようになってすぐ働きを始めていたなら、どうして誤りを犯さないでいられただろうか。神が間違えることなどあり得ようか。よって、イエスが働きを開始したのは、イエスにとって可能になってからであった。働きを行なうことが完全に可能になるまでその働きを実行しなかったのである。二十九歳で、イエスはすでにかなり成熟しており、その人間性はイエスが行うべき働きを遂行するには十分であった。三十年間隠されていた聖霊はその時初めて現われ、神の霊は正式にイエスの中で働き始めた。当時ヨハネはイエスのために道を用意するべく七年間働いていた。そして、この仕事を終えると、ヨハネは投獄された。それから重荷はすべてイエスにふりかかった。もしイエスが人間性にも欠けるところが多く、青年になったばかりの二十一、二十二歳で、まだ多くのことの理解に欠けるままでこの働きを遂行していたならば、イエスは取り仕切ることができなかったであろう。当時、イエスが中年になって働きを始めたとき、ヨハネは働き始めてすでにかなりの時が経っていた。その年齢では、イエスの普通の人間性はなすべき働きを遂行するには十分であった。今や受肉した神も正常な人間性を持つ。あなたがたと比べれば成熟してはいないが、その人間性はその状態で自らの働きに着手するにはすでに十分である。今日の働きを取り巻く状況はイエスの時代とは全く同じではない。イエスはなぜ十二人の弟子を選んだのであろうか。すべてはイエスの働きを支え、協力するためであった。ひとつには当時のイエスの働きの基礎作りをするためであり、同時に、その後のイエスの働きの基礎作りをするためでもあった。当時のイエスの働きに合わせて十二人の弟子を選ぶことは、イエスの考えであったが、それは同時に神自身の考えでもあったからである。イエスは十二人の弟子を選んで、あらゆる場所で説教ができるように彼らを導く必要があると信じていた。だが今日、あなたがたに同じようにする必要はない。受肉した神の働きには多くの原則があり、人間にはどうしても分からないことがたくさんある。人間は自分の観念を絶えず用いて分からないことを推し量ったり、あるいは神に過度の要求をする。そして今日にいたるまで、自分の知識が自分の観念だけで成り立っていることに全く気づいていない人たちが多数いる。神が受肉する時代や場所に関わらず、肉における神の働きの原則は変わらない。神は肉となりながら、働きにおいて肉体を超越することはできない。また神は肉となりながら、肉体の普通の人間性の中で働かないことはできない。そうでなければ、神の受肉の意義は全くなくなり、ことばが肉となったことは全く無意味になってしまう。さらに、天の父(霊)だけが神の受肉を知っており、他の誰も、肉となった神自身さえも、あるいは天の使者たちさえも知らない。そのように、神の肉における働きはもっと普通のことであり、確かにことばが肉となることを申し分なく証明することができる。なお肉とは、平凡で普通の人を意味する。

 なぜ神自身が時代の到来を告げなければならないのかと不思議に思う人がいるかもしれない。被造物が神の代わりをすることはできないのであろうか。神が新しい時代の到来を告げるために、わざわざ肉となることをあなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代に案内するとき、同時に前の時代を終わらせる。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身であるので、前の時代を終わらせるのも神でなければならない。それは神がサタンを負かし、世界を征服する証拠である。神が人々のもとで働くときはいつも、新しい戦いの始まりである。新しい働きの始まりがなくては、当然古い働きの終結もないということである。古い働きの終わりがないということは、サタンとの戦いの終わりがまだ来ていないという証拠である。神自身が人のもとに来て新しい働きを実践して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しいいのち、新しい始まりを獲得することができる。そうでなければ人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。一つの時代が神によって導かれるたびに、人間の一部は自由にされ、それによって人間は新しい時代に向けて神の働きと共に前進する。神の勝利は神に従うすべての人たちの勝利でもある。もし被造物である人類が時代を終えることを任されたなら、人間の視点からであろうとサタンの視点からであろうと、それは神に反抗するか裏切る行為でしかなく、神に対する従順から出たものではなく、そのような人間の働きはサタンの道具にされてしまうことになる。人が神によって案内された時代において神に服従してついて行くときにのみ、サタンは完全に納得させられることができる。それが被造物の本分だからである。そして、あなたがたに必要なのは服従することだけで、それ以上にはあなたがたは何も求められていない、とわたしは言う。それこそ各自が自分の本分をわきまえ、自分の役目を果たすことの意味である。神は自身の働きを行ない、人が神の働きを神に代わってすることは必要としておらず、被造物の働きに神が関与することもない。人は自分自身の本分を果たし、神の働きに関与しない。これが本当の服従であり、サタンが敗北したという証拠である。神自身が新しい時代に案内したあとは、神はもはや人のもとで働くために到来することはない。そうして初めて、人は自分の本分を果たすために、新しい時代に正式に一歩踏み出し、被造物としての使命を果たすのである。これがだれも背くことのできない働きの原則である。このように働くことだけが賢明で道理にかなっている。神の働きは神自身が行なう。神の働きを始動させるのは神で、それを終わらせるのも神である。働きを計画し管理するのも神であり、それ以上に、働きを成就するのも神である。それは聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営(救い)の働きに関連する全てのことは神自身により行なわれる。神は六千年の経営(救いの)計画の支配者で、誰も神の代わりに働くことはできず、神の働きを終わらせることはできない。というのは、すべてを支配するのは神だからである。神は世界を創造し、神は全世界が神の光の中に生きるよう導き、全時代を終わらせ、それにより神の計画すべてを成就させるであろう。

2019年4月25日木曜日

キリスト教映画「知らぬが命取り」なぜ愚かな乙女は天国へ入ることができないのか 日本語



キリスト教映画「知らぬが命取り」なぜ愚かな乙女は天国へ入ることができないのか 日本語  ヂェン・ムーエンは米国の中国系キリスト教会の労同者です。ヂェン・ムーエンは長年主を信じ、主のために熱心に働き、尽くしてきました。あるとき彼の叔母が主イエス・キリストが真理を示し、終わりの日に人を裁き清めの御働きをするために再臨された、と証したのです。その福音にヂェン・ムーエンは胸が高鳴りました。全能神の御言葉を読み、全能神教会の映画や動画を観て、全能神の御言葉が真理であること、全能神こそが主イエス・キリストの再来に違いないこと、を確信しました。彼は兄弟姉妹達と共に、終わりの日の全能神の御働きを学び始めました。しかし、教会の指導者であるマー牧師がそのことを知ると、牧師はヂェン・ムーエンらを何度も妨害しようとしました。牧師は中国共産党政府の宣伝用の動画を見せました。それは東方閃電を中傷し非難する内容でした。その目的はヂェン・ムーエンが真の道を学ぶのをやめさせることにありました。この動画を観たヂェン・ムーエンは当惑しました。彼の目には全能神の御言葉が真理であり、神の声であることは明白です。それなのになぜ宗教界の牧師や長老たちは全能神を非難するのでしょうか。牧師ら自らが求め学ぶことを拒絶するだけでなく、他者が真の道を受け入れることも止めようとします。それは何故なのでしょう。ヂェン・ムーエンは、欺かれて誤った道に迷うことを恐れますが、神の国に召されるチャンスを失うことも恐れます。葛藤し困惑するヂェン・ムーエンに、マー牧師は中国共産党と宗教界の作成した、さらに否定的な宣伝映像を見せて心の疑念を大きくさせるのです。ヂェン・ムーエンは牧師の言うことに耳を傾け、真の道を学ぶことを放棄することに決めました。その後、全能神教会の真理の証しや分ちあいを聴いたヂェン・ムーエンは、真の道を学ぶにあたり基本原則の核となるのは、その道に真理があるかどうか、そしてそれが神の声を表しているかどうかを見極めることだと理解しました。多くの真理を表すことができる者がいるならそれがキリストの出現にちがいない、なぜなら、堕落した人間に真理を表すことなどできないからです。これは争いようのない事実です。真の道を学ぶ際に神の声に耳を傾けることに注意を払わず、代わりに、想像に依りかかり白い雲に乗った主イエスの降臨を待つような者は、決して神の出現を迎えることができないでしょう。ヂェン・ムーエンはようやく、主イエスの御言葉から神の声を聴いた賢い乙女たちの奥義を理解することができました。そしてもう、中国共産党政府や宗教界の牧師や長老の、偽りと愚かしい論理を信じるまいと決心し、宗教界の牧師の拘束や縛りから逃れました。ヂェン・ムーエンは、真の道を学ぶ難しさを深く経験しました。洞察力や真理への求めがなくては、神の声を聴くことも神の玉座の御前に召されることもないどころか、サタンに欺かれ支配されて、悪魔の罠にかかり死ぬしかないでしょう。このことは、まさに聖書に「わたしの民は知識がないために滅ぼされる。」(ホセア書4:6)「愚かな者は知恵がなくて死ぬ。」(箴言10:21)と書いてあるとおりです。

2019年4月2日火曜日

ゴスペル音楽 ワーシップソング 「神の国での新しい生活のために賛美しよう」



ゴスペル音楽 ワーシップソング 「神の国での新しい生活のために賛美しよう」 私たちは神様の御声を聞き 神の家に帰ってきた 私たちは集まって御言葉を食べ飲みし 祝宴に参加する 私たちは、悲しみや混乱に別れを告げ新しい人生を送る 日々御言葉が共にあり それをいっぱいに浴びる 真理についての交わりで心を開き 私たちの心はとても明るくなる 私たちは御言葉を黙想して 聖霊が私たちを啓く 私たちの障壁や偏見は取り除かれ私たちは神様の愛の中に住む 私たちは真理を理解し自由にされ心は蜜のように甘い 私たちは愛し合い、互いに距離はない 私たちは神様の心を理解しもはや消極的ではない 御言葉の中に生き 私たちは神の麗しさを見る 私たちは人生で光の道を歩んだがこれはすべて神様の導き 私たちは神様への賛美を大声で歌い 踊りまた踊る 私たちは神の国での新しい生活を賛美し 心は真に幸せ 私たちを救ったのは神様で 私たちは神様の民になった 神様の御座の前に引き上げられることは 比類なき楽しさ 御言葉はとても貴く、そのすべてが真理 御言葉の裁きを受け入れて 私たちの堕落が完全に暴かれた 傲慢な性質により 私たちは実に理性に欠けている 御言葉が私たちを刈り込み取り扱い自己を知るようになった 私たち顧み、自己を理解し、真に悔い改める 裁きと刑罰を通して 私たちの堕落は清められる 私たちは堕落した性質を捨て去り 新しい人間になる 私たちは合格できるように本分を尽くし神様の愛に報いる 私たちはそれぞれなすべきことをして神様に忠誠を尽くす 証しに固く立ち、神様の御心を達成する 私たちはそれぞれ自分の光と熱を放ち 神様のために証しを広める 神様への純粋で誠実な愛は幸福で甘い 私たちは神様への賛美を大声で歌い 踊りまた踊る 私たちは神の国での新しい生活を賛美し 心は真に幸せ 私たちを救ったのは神様で 私たちは神様の民になった 神様の御座の前に引き上げられることは 比類なき楽しさ 私たちは、心と手をつなぎ神様を証しする 私たちは、御国の福音を広め 苦難や疲労を決して恐れない 患難や試練を通して 私たちは祈り、神様に頼る その道は辛く険しいが 神様は道を開いてくださる 御言葉の真理を知ると 私たちの心は力を得る 御言葉は私たちを勇気づけ 私たちは前へと突き進む 私たちは肩を並べて手と手をとりあって 神様のために証し体と心を神様にささげる 苦しみがどんなに大きくても 私たちは心から喜ぶ 御言葉の導きで、私たちはサタンに勝利する 真に神様を愛し、それを決して悔やまない 私たちは赤い大きな竜を完全に見捨てた 私たちは勝利の兵士だ 私たちは、神様を愛する道において証しし 決して引き下がらない 私たちは神様への賛美を大声で歌い 踊りまた踊る 私たちは神の国での新しい生活を賛美し 心は真に幸せ 私たちを救ったのは神様で 私たちは神様の民になった 神様の御座の前に引き上げられることは 比類なき楽しさ 私たちは神様への賛美を大声で歌い 踊りまた踊る 私たちは神の国での新しい生活を賛美し 心は真に幸せ 私たちを救ったのは神様で 私たちは神様の民になった 神様の御座の前に引き上げられることは 比類なき楽しさ 『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2019年3月18日月曜日

クリスチャン映画「福音の使者」 神の福音を伝えることはクリスチャンの責任だ 予告編 日本語吹き替え



クリスチャン映画「福音の使者」 神の福音を伝えることはクリスチャンの責任だ 予告編 日本語吹き替え
キリスト教徒チェン・イーシンは主を長年信じ、終わりの日の主イエス・
全能神をお迎えする幸運に恵まれていた。彼女は全能神の御言葉から、人類を一刻も早く救いたい神の御心と、被造物が果たすべく使命と責任を理解したため、福音を伝えて終わりの日の神の働きを証し始めた。その間、多くの都市や省に渡り、何度も宗教界からの抑圧と拒絶や中共政府による追跡と迫害に見舞われる。多くの苦難に遭う彼女だが、神の御言葉の導きの下、使命を背負い続け、危険を恐れず勇敢に前進する。

2019年3月5日火曜日

全能神教会御言葉の抜粋「「唯一の神自身 9」4




 ここで話をしたことは、すべてが人間ひとりひとりの生存と密接に関連している。あなたがたには「あなたの言うことは話が大きすぎて理解できない」という意見があったり、あるいは「あなたの言うことは私と無関係だ」という者が居たりするかも知れない。しかし、あなたは万物のひとつとして生きているということ、神の支配下にある万物のひとつであるということを忘れてはならない。万物は神の支配から切り離すことが出来ないので、神の支配から自分を切り離すことが出来る人間は居ない。神による支配と供給を失うと、人間の命、すなわち人間の肉にある命は消滅するであろう。これが、神が人間の生活環境を定めたことの重要性である。人種を問わず、また東洋、西洋など居住地域を問わず、人間は、神が人類のために用意した自らの生存環境から自らを切り離すことはできず、神が用意した生存環境による養育と供給から自らを切り離すことができない。あなたの生活手段や、あなたが生活を依存している物事、肉にある命の維持を依存している物事が何であれ、あなたは神による支配と管理から自らを切り離すことが出来ない。一部の人々は、「私は農民では無く、作物を栽培して生計を立てていない。私は食料を天に依存していないので、神により定められた生存環境で生存していない、と言えるであろう。そうした環境からは、何も与えられていない。」などと言う。しかし、それは誤っている。それが誤っているのは何故か。あなたは作物を栽培して生計を立てていないと言うが、穀類を食べないだろうか。あなたは、肉を食べないだろうか。あなたは、卵を食べないだろうか。あなたは、野菜や果物を食べないだろうか。あなたの食べ物や必需品は、全て神が人間のために定めた生存環境と切り離すことが出来ない。人間に必要な物の源は、神が造った万物やこうした生存環境と切り離せない。あなたが飲む水、着ている衣服、使っているあらゆる物のうち、万物から得た物では無いものは、あるだろうか。一部の人々は、「万物から得た物以外の物が多少ある」と言うかもしれない。それは何であろうか。例を挙げられるだろうか。一部の人々は、「プラスチックは万物から得た物以外の物だ。プラスチックは人間が造った化学物質だ」と言うかもしれない。しかし、それは誤っている。それは何故であろうか。プラスチックは人間が造った化学物質だが、プラスチックの原材料は、何に由来するであろうか。(原材料は、最初に神が造られた物に由来する。)原材料は、神が造った物質から得たものである。あなたが享受するもの、見るもの、使うものは、全て神が造った万物から得たものである。つまり、人種、生活手段、居住する生存環境の種類を問わず、人間は自分自身を神から供給される物事から切り離すことが出来ない。そうしたわけで、本日話をしている事項は「神が万物の生命の源である」という主題に関連していると言えるであろうか。本日話をしている事柄は、この大きな主題に含まれるであろうか。本日このような話をしたのは、ひとえにこの関連性があるからである。本日の話には、多少抽象的で話が難解な部分もあるかも知れない。しかし、この主題に関するあなたがたの理解が多少向上したことであろう。

 前回まで数回の話で説明した事項は、比較的広範囲におよぶものであり、その対象も幅広いものであったので、理解するには多少の努力が必要である。なぜなら、これらの事項は、人間の神に対する信仰のなかで嘗て直面したことの無いものだからである。この話を神秘であると捉える者と、話として捉える者が居るが、どちらの観点が正しいであろうか。あなたがたは、この話をどのような観点で聞いているだろうか。この話から何が分かったであろうか。誰かに述べて貰いたい。(神の権威の一側面を認識し、神の高潔を知り、それらを知ったことにより人間に対する神の愛を認識した。神の業には、それぞれに、人間に対する神の周到な采配と計画が含まれている。神は人間を愛し、慈しんでいるので、十分に配慮して人間の食料を与えた。)(神の業と、神が万物を整然と整えたこと、万物に律法があることを理解した。また本日の話により、神の業と、人間の救いのための神による周到な采配について理解が深まった。)数回にわたり話をしてきたなかで、神による万物支配の範囲がどのようなものかを理解したであろうか。(それは人類と物事のすべてである。)神はあるひとつの人種の神であるだろうか。神はあるひとつの種類の人間の神であるだろうか。神は限られた一部の人間の神であるだろうか。(そうではない。)そうではないので、人間の神に関する認識において、神が限られた一部の人間の神であるか、あるいは神があなたがただけの神であるという見解は正しいであろうか。神は万物を管理し、支配しているので、人間は神による万物支配で明示された神の業、知恵、全能性を理解できるはずである。これは人間が理解すべき事柄である。神が万物と人間を管理し、支配していると言いながら、神による人間支配に関する認識が皆無であるとすれば、神が万物を支配していることを真に認識できるであろうか。あなたには、それが出来るだろうか。あなたは心の中で「私の一生も神により支配されていることは分かるので、そのように認識出来る」と考えるかも知れない。しかし、神はそれほど小さな存在であるだろうか。神はそのような存在ではない。あなたは、自分自身に対する神の救いと業のみを理解し、そうした救いと業から神による支配を認識している。それでは範囲が小さすぎるので、あなたの神に関する真の認識に悪影響を与える。またこれは、神による万物支配に関するあなたの真の認識を制限する。あなたの認識を、神があなたに与える物事と救いに限定した場合、あなたは神が万物と人間を支配していることを認識することは、決して出来ない。あなたがこうした事柄の全てを理解できなかった場合、あなたは神があなたの運命を支配していることを、真に認識出来るか、というと、それは出来ない。その側面は、決して心の中で理解することが出来ない。あなたがその段階の理解に達することは、決して無い。これについては理解したことと思う。(理解した。)事実、わたしが話をしている事項、内容について、わたしはあなたがたがどの程度理解できるかを知っている。それではその事項についてわたしが話し続けているのは何故であろうか。なぜなら、これらの事項は、神に付き従い、神に救い出されることを求める全ての者が理解すべき事柄だからである。これらの者は、これらの事項を知っている必要がある。こうした事項について、あなたは現時点において理解していないが、いつかあなたのいのちと真理の経験が一定の段階に達し、あなたのいのちの性質の変化が一定のレベルに達し、そしてあなたの背丈が一定のレベルに達した時に初めて、ここでわたしがあなたがたに伝えている事項に関する話により、あなたの神に関する認識の追求に役立ち、あなたの神の認識への追求を満足させるであろう。そうしたわけで、これらの話は、あなたがたの今後における神による万物支配の理解、そして神自身に関する理解の基礎を固め、準備することを目的とするものであった。

 ある者の心の中にある神に関する認識の程度により、神がその者の心をどの程度掴んでいるかが決まる。その者の心の中の神に関する認識の量は、神のその者の心の中における地位の高さである。あなたの知る神が空虚で曖昧な場合、あなたの心の中の神もまた空虚で曖昧である。あなたの知る神が、あなたの範囲に限定されている場合、あなたの神は極めて小さい神であり、その神と真の神との間には何の関連性も繋がりも無い。ゆえに、神の実際の業や神の実際、神の全能性、神自身の真の身分、神が持っているものや神が何であるか、神が万物において示した事柄を知ることは、神の認識を求める者それぞれにとって、極めて重要である。これらの事柄は、人間それぞれのいのち、すなわち真理を追求する実際のいのちと不可分である。神に関する認識を、言葉だけに限定した場合、あるいは自分自身の数少ない経験やあなた自身が数えるだけの神の恵み、神への証しだけに限定した場合、あなたの神は、間違い無く真の神では無いと言える。あなたの神は間違い無く真の神自身ではなく、またあなたがたが信じる神は、神では無いとも言えるであろう。それは、わたしが話をしている神は、万物を支配し、万物と共にあり、万物を管理する神であるからである。その神こそが、人類全体と万物の運命を握っている神である。わたしが話をしている神の業は、ごく一部の人々に限定されていない。つまり、そうした業は、現在神に付き従う者に限定されていない。神の業は、万物に、すなわち万物の生存、万物の変化の律法において表されている。あなたが神の万物における業を認識出来ないのであれば、あなたは神の業の証に立つことは出来ない。あなたが神の証に立つことが出来ない場合、自分が知っている小さな神、自分だけの考えに限定された、自分の狭い心の中に居る神とやらについて語り続ける場合、神があなたの信仰を讃えることは決して無いであろう。あなたが神の証に立つ時、自分がいかにして神の恵みを享受し、神の鍛錬と懲らしめを受け、神の祝福を享受しているかだけで神の証をするのであれば、それは甚だ不適切であり、神に満足してもらうには程遠いものである。神の心に沿う方法で神の証をすること、真の神自身の証に立つことを望むのであれば、神の業から神が持っているものや神が何であるかを理解する必要がある。あなたは、神による万物支配から神の権威を理解し、神が全人類に対して施すという事実を理解する必要がある。自分の食料や飲料、生活必需品が神に由来することを認めるのみで、神が万物により全人類に対して施すという事実、神が万物を支配することにより全人類を導いているという事実を理解しないのであれば、神の証に立つことは決して出来ない。あなたがたは、これで完全に理解したであろう。わたしは、何を目的として話をしているであろうか。わたしの話の目的は、あなたがたがこの真理を軽視しないようにすること、わたしが話をしている事柄が、あなたがた自身がいのちに入ることと無関係であると考えないようにすること、そしてこれらの事項が単なる知識や原理であると思わないようにすることである。そうした態度でこの話を聞いた場合、あなたがたが得るものは皆無である。あなたがたは神を知る好機を失うであろう。これで理解できただろうか。
 わたしは、何を目的としてこれらの事項について話をしているであろうか。わたしの目的は、人々に神を知らしめること、神の実際の業について理解せしめることである。あなたに神を知る機会や可能性があるのは、神と神の業について理解した時のみである。たとえば、ある者について理解したい場合、あなたがたはどのような方法でその者を理解するであろうか。その者の外観を観察することによってであろうか。その者の着衣や着こなし方を観察することによってであろうか。その者の歩き方を観察することによってであろうか。その者の知識の範囲を考察することによってであろうか。そのような方法でないことは間違い無いだろう。それでは、あなたがたはどのような方法でその者を理解するであろうか。あなたがたは、その者の思想や話、態度、その者が表出ないし明示する事柄により判断するであろう。これが、あなたがたがその者を知り、理解する方法である。それと同様に、神や、神の実践的側面、神の真の側面について知りたい場合は、神の業など、神が行う実践的な事柄の全てにより神を知る必要がある。これが最適かつ唯一の方法である。これで理解できただろうか。神は万物に対して神の業を示し、万物を支配し、万物の律法を制御している。人間にとって、神を理解し知ることは、絶対的に必要なことである。

2019年2月23日土曜日

キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする 日本語吹き替え



キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする 日本語吹き替え
終わりの日、主イエスの再来を待つキリスト教徒たちの間で緊張感が高まる中、実際に主はいかにして再来されるのかという疑問が出る。「雲に乗ってお見えになる」と言う者もいるが、それに対し、再来の預言が他にもあると指摘して異議を唱える声もある。「見よ、わたしは盗人のように来る」(黙示録
16:15)、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカ 17:25)、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイ25:6)もし主が誰にでも見えるように雲に乗って来られるなら、主が密かに現れ、苦しみ、捨てられるという奥義や、再来の証しをする者たちが出て来るという御言葉はどう説明できるのだろうか。主はどのような形でお姿を表されるのか。本作「主の到来の形」は、私たちの疑問にユーモラスに答えていく。

2019年2月22日金曜日

クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(6)山東省招遠事件の真相を知っていますか



クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(6)山東省招遠事件の真相を知っていますか
中国と世界中に衝撃が走った山東省招遠事件のことは多くの人が知っています。この事件では多くの疑惑が生じました。人々はまた事件の背後の事実と真相を本当に知りたがっています。この短いビデオが皆様の質問に答え、疑念を取り除くことでしょう。

2019年2月20日水曜日

クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(4)中国共産党がキリストを普通の人間と呼ぶ間違いを暴露



クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(4)中国共産党がキリストを普通の人間と呼ぶ間違いを暴露
恵みの時代に、受肉した主イエスは一見どこにでもいる普通の人間のように見えましたが、主イエスは「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って悔い改めの道をもたらし、 十字架に磔されることで人類の罪を贖うという働きを行いました。主イエスが受肉した神であったことを証明するにはこれで十分です。終りの日のキリストである全能神は主イエスのように外見は普通の人間のように見えますが、真理を表して、人類を清めて救うという働きを行うことができます。これが全能神が受肉した神である証明になります。ところが中国共産党はキリストは普通の人間であると言い、躍起になってキリストを否定、非難しています。なぜ中国共産党はここまでばかげていて理不尽なのでしょうか。

2019年2月19日火曜日

クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(3)正しい宗教とは、邪教とは



クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(3)正しい宗教とは、邪教とは
中国共産党はマルクス・レーニン主義の無神論政党であり、あらゆる神学に反対しています。中国共産党はあらゆる宗教団体を「邪教」として非難しています。これは真理に合致するのでしょうか。結局のところ、何が正しくて何が悪なのかは、真理と一致しているかどうか、そして神の言葉が決定基準であるかどうかに基づいていなければなりません。それでは正しい宗教とは、邪教とは何でしょうか。この短いビデオをご覧ください。

2019年2月18日月曜日

クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(2) 中国共産党の科学にもとづく神の支配の否定 これは恩恵か、禍か



クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(2) 中国共産党の科学にもとづく神の支配の否定 これは恩恵か、禍か 中国共産党は唯物論や進化論のような主張を利用して、神の存在と神の支配を否定するのに努力を惜しみません。また科学が人類に発展と幸福をもたらすことができるとも信じています。これは本当に事実なのでしょうか。今日の科学的な発展は、究極的には人類に恩恵を、それとも禍をもたらさしたでしょうか。

2019年2月17日日曜日

クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(1)封建的迷信として宗教信仰を非難する中国共産党の愚行



クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(1)封建的迷信として宗教信仰を非難する中国共産党の愚行
中国共産党は、宗教信仰は科学知識の遅れていた人間が超自然的な力に対して抱く恐怖と崇拝から生じたものであり、宗教は迷信だと言っています。更に、封建的迷信に対抗するという名目で、宗教信仰を非難して禁止しています。中国共産党のこのような視点の基準は何なのでしょうか。中国共産党が宗教信仰を封建的な迷信として非難することの愚かさは結局どこにあるのでしょうか。