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2020年4月6日月曜日

[東方閃電]全能神教会 ワーシップソング 「国籍と民族の観念を打ち破り神の現れを求めよ」英語MV 日本語字幕



ワーシップソング 「国籍と民族の観念を打ち破り神の現れを求めよ」英語MV 日本語字幕
国籍がどこであろうと
あなたはそこから踏み出し
自分自身を乗り越えるべきだ
そこから踏み出すべきだ
束縛から脱して
被造物の視点から神の働きを見よ
そうすれば、あなたは
神の歩みを制限しないだろう
打ち破れ、打ち破れ
国籍と民族の観念を
そして神の現れを求めよ
打ち破れ、そうすれば
あなたは自分の考えに束縛されず
神の現れを喜んで迎えられる
さもないと、永遠に暗闇の中にとどまり
決して神に認められないだろう
神の現れを求めよ!
神の現れを求めよ!

今では、多くの人が
神が特定の国や民族に現れることなど
ありえないと思っている
神の働きの意義はなんと深遠だろう
そして神の現れはなんと重要だろう!
人の観念と思いでどうして
それを測ることができるだろう
打ち破れ、打ち破れ
国籍と民族の観念を
そして神の現れを求めよ
打ち破れ、そうすれば
あなたは自分の考えに束縛されず
神の現れを喜んで迎えられる
さもないと、永遠に暗闇の中にとどまり
決して神に認められないだろう
神の現れを求めよ!
神の現れを求めよ!

神は全人類の神であって
いかなる国にも所有されない
神はその働きを計画どおりに行い
どんな形式や国にも縛られない
おそらくあなたはこの形式を
想像したことがないだろう
あるいは、その形式へのあなたの態度は
拒絶かもしれない
あるいは、神が現れる国や民族は
差別されている国かもしれない
だが神は知恵を持っている
神は偉大な力と真理、そして性質により
神と心を一つにする人々の群れを
神が完成させる人々の群れを勝ち取った
征服され
あらゆる試練や患難に耐え
最後まで神に従うことができる者たちの群を
打ち破れ、打ち破れ
国籍と民族の観念を
そして神の現れを求めよ
打ち破れ、そうすれば
あなたは自分の考えに束縛されず
神の現れを喜んで迎えられる
さもないと、永遠に暗闇の中にとどまり
決して神に認められないだろう
神の現れを求めよ!
神の現れを求めよ!
神の現れを求めよ!
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
もっと注目:
礼拝賛美ダンス「歌とダンスで神を讃美せよ」日本語字幕


2019年5月13日月曜日

受肉の奥義(1)

 


 恵みの時代に、ヨハネはイエスのために道を整えた。ヨハネは神自身の働きをすることはできず、ただ人の本分を尽くしただけであった。ヨハネは主の先駆者であったが、神を表すことはできなかった。彼はただ聖霊に用いられた人間であった。イエスのバプテスマに続いて、「聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り」、それからイエスは自分の働きを開始した。すなわち、キリストとしての職分を始めたのである。それがイエスが神の身分を取った理由である。イエスは神から来たからである。これ以前のイエスの信仰がどのようであったとしても──おそらく時には弱く、時には強かったのであろうが──それはすべてイエスが職分を始める前の普通の人の生活であった。イエスがバプテスマを受けた(油を注がれた)後、直ちに神の力と栄光が備わり、それにより職分を始めた。イエスはしるしと不思議、奇跡を行い、力と権威をそなえていた。神の代わりに自ら働きを行なったからである。イエスは神の代わりに霊の働きをし、霊の声を表現した。よって、イエスは神自身であった。これは争う余地がない。ヨハネは聖霊に用いられた。彼は神を表すことはできず、神を表すことは彼にとって不可能であった。もしヨハネが神を表すことを望んだとしても、聖霊はそれを許さなかったであろう。というのは、神自身が成就するはずの働きをヨハネがすることはできなかったからである。おそらく、彼には多くの人間としての意思、あるいは何か逸脱したものがあったであろう。どんな状況下においてもヨハネは神を直接表すことはできなかった。彼の過ちや間違いは自分自身を表していたが、働きは聖霊の象徴であった。それでも尚、彼のすべてが神を代表していたと言うことはできない。彼の逸脱や間違いも神を表していたであろうか。人を表すことにおいて間違いがあるのは普通のことであるが、神を表しながら逸脱しているなら、それは神に対して不名誉なことにならないであろうか。それは聖霊に対する冒涜ではないであろうか。たとえ人が他人に称賛されても、人が神の代わりをすることを聖霊は軽々しく許可しない。人が神でないなら、最後まで立ち続けることはないであろう。聖霊は人が気の向くままに神を表すことを許さない。たとえば、聖霊はヨハネに証しし、彼がイエスの道を整える者であることを明らかにしたが、聖霊によって彼になされた働きはよく釣り合いのとれたものであった。ヨハネに求められたことはイエスのために道を整える者になること、イエスのために道を備えることだけであった。すなわち、聖霊は道を整えるというヨハネの働きだけを支え、彼にそのような働きをすることだけを許した。ヨハネは他のことをすることを許されなかった。ヨハネは道を整えた預言者エリヤを表していた。これにおいて聖霊はヨハネを支えた。働きが道を整えることである限り、聖霊はヨハネを支えた。しかし、もしヨハネが自分自身が神であり贖いの働きを完成するために来たのだと主張していたなら、聖霊は彼を戒めなければならなかったであろう。ヨハネの働きがどれほど偉大であったにせよ、また聖霊に支えられていたとしても、その働きには境界がなかったわけではない。ヨハネの働きが聖霊に支えられていたことは確かに真実だが、当時彼に与えられていた力は道を整えることに限られていた。ヨハネはその他の働きは全くできなかった。というのは、彼はイエスではなく、道を整えるヨハネにすぎなかったからである。よって、聖霊による証が鍵であるが、人が聖霊により行なうことを許された働きは、それよりはるかに重要である。ヨハネも当時は確固とした証しを立てられていたのではないのか。ヨハネの働きも偉大ではなかったのか。ヨハネの働きはイエスの働きを超えることはできなかった。なぜなら、ヨハネは聖霊によって用いられた人間にすぎず、直接神を現わすことはできなかったからである。そのため、ヨハネの成した働きは限られていた。ヨハネが道を整える働きを終えた後、彼の証しを支える者はなく、新たな働きが続くこともなく、神自身の働きが始まったときに、ヨハネは去った。

 悪霊に取りつかれ「私が神だ!」としつこく叫んでいる人たちがいる。しかし、最後まで彼らは立ち続けていることはできない。というのは、彼らは自分が何を表しているかに関して誤っているからである。彼らはサタンを表し、聖霊は彼らに何の注意も払わない。自分をどれほど高く褒めたてても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、「わたしは神である、わたしは神の愛するひとり子である」と叫ぶことはない。しかし、わたしがする働きは神の働きである。わたしは叫ぶ必要があるだろうか。褒めたてる必要はない。神はその働きを自分で行なうのであり、人に地位や敬称を与えてもらう必要はない。神の働きは神の身分と地位を表すのに十分である。バプテスマの前、イエスは神そのものではなかったのか。イエスは受肉した神の肉体ではなかったのか。イエスは証をされて初めて神のひとり子となったのだ、などと言うことは到底できない。イエスという名の人がイエスが働きを開始する前には存在しなかったのだろうか。あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたが神であると主張しようとするのは意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神と認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神に関する限り、その人は神の霊の受肉した肉体である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。新しい時代のために道をつけることができない、あるいは古い時代を終わらせたり、新しい時代の到来を告げたり、新しい働きをすることはできないのであれば、あなたは神と呼ばれることはできない。

 聖霊に用いられる人でさえ神を表すことはできない。そして、その人は神を表すことができないだけではなく、その働きも直接神を表すことはできない。すなわち、人の体験は神の経営(救い)の内部に直接置くことはできないし、神の経営(救い)を表すこともできない。神自身が行なう働きはすべて、神の経営(救いの)計画の中で神が行なおうとする働きであり、偉大な経営(救い)に関係している。人(聖霊に用いられる人)によってなされる働きは、その人の個人的体験を提供することである。それは以前の人たちが歩いた道を越えて新しい体験の道を見つけ、兄弟姉妹を聖霊の指導の下で導くことである。この人たちが提供するのは、彼ら個人の体験や霊的な人たちの霊的書物である。彼らは聖霊によって用いられているが、その働きは六千年計画の偉大な経営(救い)の働きとは関係していない。彼らはただ自分たちが果たしている役目が終わるか、自分たちの生涯が終わるまでの間、聖霊の流れの中で人々を導くために、様々な時代に聖霊によって立てられている人たちにすぎない。彼らが行なう働きはただ神のために適切な道を用意するか、あるいは地上における神自身による経営(救い)のある側面を続けていくことだけである。そのような人たちは、神の経営(救い)の中で偉大な働きをすることはできず、新しい道を開拓することもできず、ましてや前の時代からの神のすべての働きを終わらせることなどできない。よって、彼らがする働きはただ被造物が己の役目を果たすことを表しているだけで、神自身が行なう職分を表すことはできない。これは、彼らがする働きは神自身の行なうものとは同じではないからである。新しい時代を招き入れる働きは神に代わって人がすることはできない。神以外の誰によってもなされることはない。人がする働きのすべては被造物の一人としての本分を果たすことだけで、聖霊によって動かされ、啓かれたときに果たされる。そのような人たちが与える指導は、人が日常生活でどのように実践し、神の心に一致してどのように行動すべきかということを人に示すことである。人の働きは神の経営(救い)に関わることも霊の働きを表すこともない。たとえば、ウィットネス・リー(李常受)やウオッチマン・ニー(倪柝聲)の働きは道を先導することであった。道が新しいものであろうと古いものであろうと、働きの前提は聖書の原則を超えないということであった。地方教会の復興であれ設立であれ、彼らの働きは教会を築くことであった。彼らの働きは、イエスや弟子たちが恵みの時代にやり終えなかった働き、或いはさらに展開しなかった働きを引き継いでいた。彼らがその働きにおいて行なったのは、頭を覆うこと、バプテスマを受けること、パンをさくこと、ぶどう酒を飲むことなど、イエスがその初期の働きにおいて自分以降の世代の人々に行なうように命じたことを復活させることであった。彼らの働きは単に聖書を守り、聖書の中に道を求めることであったと言うことができる。彼らは新しい進歩を一切遂げなかった。したがって、彼らの働きには聖書内における新しい道の発見と、以前よりは良い現実的な実践しか見受けられない。彼らの働きには、神の現在の意図を見受けることはできず、ましてや終わりの日に神が行なうである新しい働きに関しては何もない。これは、彼らが歩んだ道はやはり古い道であったので、刷新や進歩はなかったからである。彼らはイエスの磔刑の事実にこだわり、人々に悔い改め罪を告白させるという実践や、最後まで耐えるものが救われるということわざや「男は女の頭である」「妻は夫に従え」といった聖句、さらに女性信者は説教できず、従うことのみできるという伝統的な観念を維持した。もしもこのような指導が継続していたなら、聖霊が新しい働きを行ない人々を教義から解放し、自由と美の領域へと導くことはできなかったであろう。そういうわけで、時代が変わるこの段階の働きは、神自身が行ない語らなくてはならないのである。そうしなければ、神の代わりにこれらの働きを行なえる人はいない。今までは、この流れの外側では聖霊のあらゆる働きは行き詰まり、聖霊に使われていた人々は道に迷ってしまった。よって、聖霊に用いられた人の働きは神自身による働きと同じではないので、その身分や誰に代わって行動しているかもまた異なっている。これは聖霊が意図する働きが異なるため、働くすべての人たちに異なった身分や地位が与えられるためである。聖霊によって用いられる人たちはまた新しい働きをするかもしれないし、また昔なされた働きを排除するかもしれないが、彼らの働きは新しい時代の神の性質や心を表現することはできない。彼らはただ前代の働きを取り除くためだけに働き、神の性質を直接表すために新しい働きをするわけではない。このように、彼らがどれだけ多くの時代遅れの実践を廃止し、新しい実践を導入しようとも、彼らは依然として人や被造物を代表しているのである。しかし、神自身が働くとき、神は公然と古い時代の実践の撤廃を宣言したり、新しい時代の始まりを直接宣言することはない。神はその働きにおいて直接的で率直である。神は意図する働きを遂行する上で率直である。すなわち、神は自身がもたらした働きを直接表現し、本来意図したように自身の働きを遂行し、神であることと神の性質を表現する。人の見方では、神の性質、また神の働きはかつての時代とは異なっている。しかし、神の見地からは、これは神の働きの継続でありさらなる展開に過ぎない。神自身が働くとき、神はその言葉を表現し、直接新しい働きをもたらす。それとは対照的に、人が働くときは、熟考と研究によってなされるか、あるいは他人の働きに基づいて築かれた知識の発展と実践の体系化である。すなわち、人によってなされる働きの本質は設立された秩序に従い「新しい靴で古い道を歩く」ことである。これは聖霊に用いられる人が歩く道でさえ神自身によって開かれたものに基づいているという意味である。所詮人は人であり、神は神である。

 ヨハネは、アブラハムにイサクが生まれたように、約束によって生まれた。ヨハネはイエスのために道を整え、多くの働きを成したが、神ではなかった。むしろ、ヨハネは預言者であった。イエスのために道を整えたからである。ヨハネの働きも偉大であり、ヨハネが道を整えた後初めて、イエスは公に自分の働きを始めた。実質的には、ヨハネは単にイエスのために働いただけであり、ヨハネの働きはイエスの働きのためであった。ヨハネが道を整えた後、イエスは自分の働きを始めた。それはより新しく、より具体的で、より細かい働きだった。ヨハネが行なったのは、最初の働きだけだった。それより多くの新たな働きは、イエスによって成された。ヨハネも新たな働きを成したが、新たな時代へと案内した者ではなかった。ヨハネは約束の下に生まれ、その名前は天使が与えた。当時、彼の父ザカリヤの名をつけたかった人たちもいたが、ヨハネの母は「この子をその名前で呼ぶことはできません。ヨハネという名にしなければなりません」と主張した。これはすべて聖霊によって命じられたのである。それでは、ヨハネはなぜ神と呼ばれなかったのだろうか。イエスの名もまた聖霊に命じられた。そして、イエスは聖霊から、聖霊の約束によって生まれた。イエスは神であり、キリストであり、人の子であった。ヨハネの働きも偉大であったが、なぜ彼は神と呼ばれなかったのだろうか。イエスの働きとヨハネの働きの違いは正確に言って何だったのだろうか。ヨハネはイエスのために道を整える人であったことが唯一の理由だろうか。あるいは、神にあらかじめ定められたからだろうか。ヨハネはまた「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、天の国の福音も宣べ伝えたが、彼の働きはさらに展開されず、導入部分だけであった。それとは対照的に、イエスは新しい時代を切り開き古い時代を終わらせたが、イエスはまた旧約聖書の律法を成就した。イエスの働きはヨハネの働きより偉大で、さらにイエスは全人類を贖うために来たのであり、その段階の働きを達成した。ヨハネはただ道を整えただけであった。彼の働きは偉大で、言葉もたくさん語り、彼に従った弟子たちも数多かったが、ヨハネの働きは人に新しい始まりをもたらす以上のことは何もなかった。人は彼からいのちも、道も、より深い真理も受けておらず、彼を通して神の旨の理解を得ることもなかった。ヨハネはイエスの働きのために新境地を切り開き、選ばれた人を準備した偉大な預言者(エリヤ)であった。ヨハネは恵みの時代の先駆者であった。そのような事柄はただ彼らの普通の人間の外観を見ていても分からない。特にヨハネは、極めて偉大で、その上聖霊に約束され、聖霊によって支えられた働きをしていたので余計にそうである。だから彼らのそれぞれの身分はその働きを通してでなければ区別することはできない。というのは人の外観からその人の本質を知ることはできないし、人は聖霊の真の証を確認することはできないからである。ヨハネによってなされた働きとイエスの働きとは同じではなく、性質が違っている。それが、神であるかどうかを決定するものである。イエスの働きとは、始めて、続けて、終わらせて、達成することであった。これらの段階をそれぞれイエスは実行したが、一方ヨハネの働きは、始まりの働き以上ではなかった。最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。イエスは人々に説教し、あらゆる場所で天の国の福音を宣べ伝えた。この点ではイエスとヨハネは同じであったが、イエスは新しい時代の到来を告げ、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が恵みの時代に実践すべきことと従うべき道に関する言葉がイエスの口から発せられた。そして、最終的にイエスは贖いの働きを終えた。ヨハネはそのような働きを決して実行することはできなかった。だから、神自身の働きを行なったのはイエスで、イエスが神自身であり、神を直接表すのもイエスである。人の観念では、約束によって生まれた者、霊から生まれた者、聖霊によって支えられている者、新たな道を開く者は神であると言う。このような論法によれば、ヨハネも神であり、モーセもアブラハムもダビデも神である、ということになる。これは、よくできた冗談ではないのか。

 イエスも伝道を行う前は普通の人間に過ぎず、聖霊のすることに従って行動していただけであった。イエスが当時自分の身分を意識していたかどうかはともかく、神から示されたことにはすべて従っていた。聖霊は、イエスがその職分を開始する前には、その身分を決して明かさなかった。イエスがこのような律法や掟を廃止したのは、職分を始めた後であり、イエスが公に働きを始めた後に、彼の言葉は権威や力に満ちた。イエスの働きが始まった後初めて、新たな時代を生み出すという彼の業が始まった。それ以前の二十九年間、聖霊はイエスの中に隠れたままであり、その間イエスは人を表していただけであり、神の身分や働きは持たなかった。イエスがその働きと職分を始めた時点から、イエスは、自分がどれほど人に知られているかに関わらず、自身の内部の計画通りに働きを行ったが、そのイエスの働きは、神自身を直接表したものであった。イエスはその頃、周囲の者に「あなたがたはわたしをだれと言うか」と尋ねた。彼らは答えた。「あなたは最も偉大な預言者であり、私たちのよき医者です」、また「あなたは大祭司です」と答えた者もいた。様々な答えが出た。イエスはヨハネであるとか、エリヤであるとか言う者もいた。イエスはそれからシモン・ペテロの方を向いて「あなたはわたしをだれと言うか」と尋ねると、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えた。その時から、人々はイエスが神であることを知った。イエスの身分が知られたとき、その認識に最初に至ったのはペテロであり、それを口に出したのもペテロだった。そしてイエスは言った。「あなたにこの事をあらわしたのは、肉血ではなく、わたしの父である」。イエスがバプテスマを受けた後、他の者が認識していたかどうかはさておき、イエスの働きは神に代わっての働きであった。イエスが来たのは、自らの働きを行うためであって、自分の身分を明らかにするためではない。イエスの身分が公に人に知られるようになったのは、ペテロのこの言葉の後であった。イエスが神自身であることを人間が認識していたかどうかに関わらず、イエスは時が来ると自分の働きを始めた。そして、人間が認識していたかどうかに関わらず、イエスは自分の働きを以前のように続けた。たとえ人が拒否したとしても、イエスは自分の働きを行い、成すべき時にそれを遂行する。イエスが来たのは働き、職分を果たすためであり、人間が神の肉を知るためではなく、人間が神の働きを受けるためであった。もしあなたが今日の段階の働きは、神自身の働きであることを認識できないなら、それはあなたにはビジョンが欠けているからである。それでもこの段階の働きを否定することはできない。あなたがそれを認識できないからと言って、聖霊が働いていないとか、神の働きは間違っているとかいう証明にはならない。聖書の中のイエスの働きに照らし合わせて現在の働きを調べ、矛盾している点を用いてこの段階の働きを否定しようとする人々さえいる。これは目が見えない者のすることではないだろうか。聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。

 イエスが地上にいた時間は三十三年半だった。つまり、イエスは地上で三十三年半暮らした。そのうちイエスが自身の働きを成したのは三年半だけだった。そして、残りの年月は、普通の人間の生活をしていた。はじめのうち、イエスはシナゴーグの礼拝に出席し、そこで祭司の聖書の解説や他者の説教を聞いた。イエスは聖書について多くの知識を得た。イエスは生まれつきそのような知識を持っていたわけではなく、読んだり聞いたりすることでそのような知識を得た。イエスが十二歳のときにシナゴーグでラビに質問をしたことは、聖書にはっきり記録されている。昔の預言者の預言はどのようなものだったか。モーセの律法はどのようなものか。旧約聖書とは。そして、神殿で祭司の服を着て神に仕えることの意味は何だったのか等、イエスはたくさんの質問をした。そのような知識も理解もなかったからだ。イエスは聖霊により母胎に宿ったが、まったく普通の人として生まれた。多少の個性はあったものの、イエスは依然として普通の人だった。イエスの知恵は身長や年齢とともに続けて増し、イエスは普通の人と同じような人生の過程を通過した。人は、イエスが幼児期、青春期、中年期を経験していないと想像する。イエスは生まれるなり三十歳の人として生涯を始め、業を完了して十字架につけられたと人は思っている。おそらくイエスの人生は、普通の人の人生と同じようには流れなかっただろうと信じている。おそらく、イエスは食べもせず、人と交際もせず、人に簡単に姿を見られることもなかったのだろうと信じている。イエスは神なのだから、見るものを恐れさせるような奇人だろうと信じている。肉となった神は絶対に人間のような生活をしないと人々は信じている。彼らは、イエスは聖なる人なので、歯を磨いたり、顔を洗ったりしなくてもきれいであると信じている。これは純粋に人の観念ではないだろうか。聖書には人としてのイエスの生涯についての記録はなく、イエスの働きについてしか記録がないが、このことでイエスが普通の人間性をもっていなかったとか、三十歳になるまで普通の人間の生活をしなかったという証明にはならない。イエスは二十九歳で公に働きを始めたが、それ以前のイエスの人としての全生涯を否定することはできない。聖書はただその時期のことは記録から取り除いているだけである。それは普通の人性としてのイエスの生涯で、神性としての働きの時期ではなかったので、それを記録しておく必要はなかったのである。イエスのバプテスマ前には聖霊は直接には働かず、職分を始めるべき日までイエスを普通の人としてのその生活に留めた。イエスは受肉した神であったが、普通の人として成熟過程を経た。この過程は聖書から省かれている。というのは、人のいのちの成長に大きな助けにはならないから省かれたのである。イエスのバプテスマ以前は隠された時期で、イエスはしるしも不思議も行わなかった。イエスがバプテスマを受けて初めて、恵み、真理、愛、憐みが豊かに溢れた人類の贖いの働きのすべてを開始した。この働きの始まりはまさに恵みの時代の始まりでもあった。このため、それは書き留められ、現在に至るまで受け継がれてきた。それは恵みの時代の人々がその時代の道を歩み、十字架の道を歩むために、道を開き、すべてを完成させるためであった。そのような記録は人によって書かれたものだが、すべては事実の記述であり、ところどころに小さな誤りがあるだけである。とにかく、これらの記録を誤りとすることはできない。これらは人によって書かれたため誤りも見られるが、完全に事実である。イエスは平凡な普通の人性だったと言う者もいるかもしれないが、それならば、どうしてしるしや不思議を行なうことができたのだろうか。イエスが経験した四十日間の誘惑は、奇跡のしるしであり、普通の人には達成することができないものだ。イエスの受けた四十日間の誘惑は、聖霊の業であった。では、イエスの中に超自然的なものがまったくないとどうして言えるだろうか。イエスがしるしや不思議を行なえたことは、彼が普通の人ではなく超越的な人であることの証明ではない。それは聖霊が彼のような普通の人の中で働き、それにより、イエスは奇跡を起こして、より偉大な業を成すことができたというだけである。イエスがその職分を果たす前、あるいは聖書に記されているように聖霊がイエスに降りる前は、イエスは普通の人で、超自然的なところは少しもなかった。聖霊の降臨により、すなわち、イエスがその職分を始めた時、イエスは超自然的なもので満たされた。そのように人は、神の受肉した肉体は普通の人間性は全くなく、さらに受肉した神には人間性がないと誤って信じるようになる。確かに、神が地上にくると、神の働きと人が神に関して見る全てのことは超自然的である。目で見、耳で聞くことはすべて超自然的なことであるのは、神の働きと言葉は人には理解できず、達成不可能なことであるからである。もし天の何かが地上にもたらされるなら、超自然的以外のものであり得ようか。天の国の奥義が地上にもたらされたなら、それは人が理解したり推測したりすることのできない奥義であり、あまりにも素晴らしく知恵に満ちているが、それらはすべて超自然ではないであろうか。しかし、たとえどんなに超自然的でも、それらは神の普通の人間性において行なわれるということを知らなければならない。神の受肉した体は人間性を備えている。そうでなければ、それは神の受肉した体ではないであろう。当時、イエスは非常に多くの奇跡を行なった。当時のイスラエル人が見たものは、超自然的なものに満ちていた。彼らは天使や使者を見、ヤーウェの声を聞いた。これらはすべて超自然的なことではなかっただろうか。確かに、現在では人間を騙すために超自然的なものを通して働く邪悪な霊がいる。これは、現在は聖霊が行わない働きを通して人間を騙そうとする邪悪な霊による模倣にすぎない。多くの邪悪な霊が奇跡や病の癒しなどの働きを模倣する。これは邪悪や霊の働き以外の何物でもない。現在は聖霊はもはやこのような働きをしないからである。以降、聖霊の働きを模倣するのは、すべて邪悪な霊である。当時イスラエルで行なわれた働きはすべて、超自然的なものであった。だが今では、聖霊はそのようなやり方では働かない。これ以上のそのような働きはサタンによる業と妨害であり、悪霊から来る。しかし、超自然的なものの全てが悪霊の行為であるとは言えない。それは、神の働きのどの時代かによる。現在の受肉した神による働きを考えてみよ。そのうちどの部分が超自然的でないであろうか。神の言葉は、あなたには理解できず、到達不可能である。そして、神の働きはだれにもできない。神が理解することを人が理解することはできず、人は神の知識がどこから来るのかを知ることもできない。「私もあなたと同じように普通なのに、あなたの知っていることを私が知らないのはどういうことか。私の方が年上で経験も豊富なのに、どうして、私の知らないことをあなたが知っているのだろうか」と言う人がいる。これはすべて、人間に関する限り、人間にはできないことなのだ。また、「イスラエルで行われた働きについて本当に知っている人は誰もいないのに、どうしてあなたは知っているのですか。聖書解説者すら説明できないのに、あなたはどうして知っているのですか」と言う人もいる。これらはすべて超自然の問題ではないのだろうか。今日の受肉した神はいかなる不思議も経験しなかったが、あらゆることを知っており、神から言葉がいとも簡単に発せられる。これは超自然的なものではないのか。神の働きは、肉により達成可能な範囲を超えている。そのような働きは、肉による者の考えでは達成できず、人の知力や理屈ではまったく考えが及ばない。今日の受肉した神は聖書を読んだことがなかったが、イスラエルでの神の働きについて理解している。そして、地上で語っているにもかかわらず、第三の天の奥義について話す。人がこれらの言葉を読むと、「これは第三の天の言語ではないだろうか」という思いで圧倒される。これらはすべて、普通の人にできることを超えた事柄ではないだろうか。また、イエスが四十日間断食したことは、超自然的なことではなかっただろうか。四十日間の断食があらゆる場合において超自然的で、悪霊の行為であると言うなら、イエスを非難したことにならないだろうか。イエスがその働きを始める前は、まったく普通の人のようだった。イエスも学校で勉強した。それ以外にどうして読み書きを習得できたというのか。神が肉となったとき、霊は肉の中に隠されていた。だが、普通の人間として、イエスも成長と成熟の過程を経る必要があった。そして、イエスの認知能力が成熟し、物事の分別がつくまでは、イエスは普通の人と見なされていた。イエスの人間性が成熟した後初めて、職分を開始することができた。イエスの普通の人間性がまだ成熟しておらず、物事の道理もよく分からないときに、どうして職分を果たすことができただろうか。イエスが六歳か七歳で働きをすることなど考えられないはずである。神はなぜ、受肉してすぐに自身を明らかにしなかったのだろうか。それは、神の肉の人間性がまだ成熟していなかったからである。肉の認知過程、またその肉の普通の人間性がまだ完全に神のものになっていなかったのである。このため、イエスが肉による働きを行うには、それに相応しいだけの普通の人間性と常識を身に付けることがどうしても必要だったのである。そうして初めてイエスはその働きを開始することができたのである。イエスが働きに適していなければ、更に成長、成熟する必要があった。イエスが七歳か八歳で自分の働きを始めても、人は彼を天才児として扱わなかっただろうか。誰もがイエスを子供だと考えたのではないだろうか。イエスに説得力のあると誰が思っただろうか。その身長は演壇ほどもない七、八歳の子供に説教ができたであろうか。その人間性が成熟するまでは、イエスはその働きに適していなかった。イエスの人間性がまだ未熟だったのだから、その働きの大部分が到底成し遂げられなかった。肉体にある神の霊の働きもまたそれ自体の原理に従っている。イエスが普通の人間性を備えて初めて、父なる神の働きや義務を行なうことができたのである。そうしてはじめて、イエスはその働きを始めることができた。イエスは幼年時代には、古代に起こったことのほとんどを全く理解できず、ラビに聞いて初めて理解することができたのである。もしもイエスが言葉を話すようになってすぐ働きを始めていたなら、どうして誤りを犯さないでいられただろうか。神が間違えることなどあり得ようか。よって、イエスが働きを開始したのは、イエスにとって可能になってからであった。働きを行なうことが完全に可能になるまでその働きを実行しなかったのである。二十九歳で、イエスはすでにかなり成熟しており、その人間性はイエスが行うべき働きを遂行するには十分であった。三十年間隠されていた聖霊はその時初めて現われ、神の霊は正式にイエスの中で働き始めた。当時ヨハネはイエスのために道を用意するべく七年間働いていた。そして、この仕事を終えると、ヨハネは投獄された。それから重荷はすべてイエスにふりかかった。もしイエスが人間性にも欠けるところが多く、青年になったばかりの二十一、二十二歳で、まだ多くのことの理解に欠けるままでこの働きを遂行していたならば、イエスは取り仕切ることができなかったであろう。当時、イエスが中年になって働きを始めたとき、ヨハネは働き始めてすでにかなりの時が経っていた。その年齢では、イエスの普通の人間性はなすべき働きを遂行するには十分であった。今や受肉した神も正常な人間性を持つ。あなたがたと比べれば成熟してはいないが、その人間性はその状態で自らの働きに着手するにはすでに十分である。今日の働きを取り巻く状況はイエスの時代とは全く同じではない。イエスはなぜ十二人の弟子を選んだのであろうか。すべてはイエスの働きを支え、協力するためであった。ひとつには当時のイエスの働きの基礎作りをするためであり、同時に、その後のイエスの働きの基礎作りをするためでもあった。当時のイエスの働きに合わせて十二人の弟子を選ぶことは、イエスの考えであったが、それは同時に神自身の考えでもあったからである。イエスは十二人の弟子を選んで、あらゆる場所で説教ができるように彼らを導く必要があると信じていた。だが今日、あなたがたに同じようにする必要はない。受肉した神の働きには多くの原則があり、人間にはどうしても分からないことがたくさんある。人間は自分の観念を絶えず用いて分からないことを推し量ったり、あるいは神に過度の要求をする。そして今日にいたるまで、自分の知識が自分の観念だけで成り立っていることに全く気づいていない人たちが多数いる。神が受肉する時代や場所に関わらず、肉における神の働きの原則は変わらない。神は肉となりながら、働きにおいて肉体を超越することはできない。また神は肉となりながら、肉体の普通の人間性の中で働かないことはできない。そうでなければ、神の受肉の意義は全くなくなり、ことばが肉となったことは全く無意味になってしまう。さらに、天の父(霊)だけが神の受肉を知っており、他の誰も、肉となった神自身さえも、あるいは天の使者たちさえも知らない。そのように、神の肉における働きはもっと普通のことであり、確かにことばが肉となることを申し分なく証明することができる。なお肉とは、平凡で普通の人を意味する。

 なぜ神自身が時代の到来を告げなければならないのかと不思議に思う人がいるかもしれない。被造物が神の代わりをすることはできないのであろうか。神が新しい時代の到来を告げるために、わざわざ肉となることをあなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代に案内するとき、同時に前の時代を終わらせる。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身であるので、前の時代を終わらせるのも神でなければならない。それは神がサタンを負かし、世界を征服する証拠である。神が人々のもとで働くときはいつも、新しい戦いの始まりである。新しい働きの始まりがなくては、当然古い働きの終結もないということである。古い働きの終わりがないということは、サタンとの戦いの終わりがまだ来ていないという証拠である。神自身が人のもとに来て新しい働きを実践して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しいいのち、新しい始まりを獲得することができる。そうでなければ人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。一つの時代が神によって導かれるたびに、人間の一部は自由にされ、それによって人間は新しい時代に向けて神の働きと共に前進する。神の勝利は神に従うすべての人たちの勝利でもある。もし被造物である人類が時代を終えることを任されたなら、人間の視点からであろうとサタンの視点からであろうと、それは神に反抗するか裏切る行為でしかなく、神に対する従順から出たものではなく、そのような人間の働きはサタンの道具にされてしまうことになる。人が神によって案内された時代において神に服従してついて行くときにのみ、サタンは完全に納得させられることができる。それが被造物の本分だからである。そして、あなたがたに必要なのは服従することだけで、それ以上にはあなたがたは何も求められていない、とわたしは言う。それこそ各自が自分の本分をわきまえ、自分の役目を果たすことの意味である。神は自身の働きを行ない、人が神の働きを神に代わってすることは必要としておらず、被造物の働きに神が関与することもない。人は自分自身の本分を果たし、神の働きに関与しない。これが本当の服従であり、サタンが敗北したという証拠である。神自身が新しい時代に案内したあとは、神はもはや人のもとで働くために到来することはない。そうして初めて、人は自分の本分を果たすために、新しい時代に正式に一歩踏み出し、被造物としての使命を果たすのである。これがだれも背くことのできない働きの原則である。このように働くことだけが賢明で道理にかなっている。神の働きは神自身が行なう。神の働きを始動させるのは神で、それを終わらせるのも神である。働きを計画し管理するのも神であり、それ以上に、働きを成就するのも神である。それは聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営(救い)の働きに関連する全てのことは神自身により行なわれる。神は六千年の経営(救いの)計画の支配者で、誰も神の代わりに働くことはできず、神の働きを終わらせることはできない。というのは、すべてを支配するのは神だからである。神は世界を創造し、神は全世界が神の光の中に生きるよう導き、全時代を終わらせ、それにより神の計画すべてを成就させるであろう。

2019年3月24日日曜日

【アカベラ】讃美歌「創られた者の心の声」神の愛を賛美する



【アカベラ】讃美歌「創られた者の心の声」神の愛を賛美する
I
叫びたくても相応しい場所がなかった
歌いたくても歌いたい歌がなかった
創られた者として愛を表したかった
至る所を捜しても言葉は見つからなかった
言うことができたのは私の気持ちだけだ
現実的で真実なる神よ
私の心の内なる愛よ
私は両手を上げてあなたを賛美して
あなたがこの世に来たことを喜ぶ
Ⅱ
神は人を創造した
神は再び肉となる程人を愛している
よい時も悪い時も 逆境と悲しみに絶えて
私たちを救い美しい場所へ導いた
だからいつも感謝する 
現実的で真実なる神よ
私の心の内なる愛よ
堕落してしまった私をあなたは救ってくれた
あなたを礼拝せずにはいられない
Ⅲ
被造物は神を崇める それが使命だ
サタンは笑い安逸に祝福をする
しかし私は嫌悪し
サタンの支配の中で
この世・肉・安逸や快楽を渇望するより
神を愛するために裁きの中で生きたい
現実的で真実なる神よ
私の心の内なる愛よ  
土で作られた私でもあなたを愛してる
これこそが最高の祝福なのである
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

2018年12月9日日曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「神はすべての被造物の主である」


全能神は言われた。「実際、神は万物の主である。神はすべての被造物の神である。神はイスラエル人だけの神ではなくユダヤ人だけの神でもない。神は万物の神である。…神の最初の働きはユダヤで、イスラエルの範囲内で行われた。異邦人の諸国では時代を開始する働きは全くしなかった。神の働きの最終段階は異邦人の間で行われるだけでなく、なおさら呪われた人々の間で行われる。この点はサタンに屈辱を確実に与え得る証拠である。こうして、神は全宇宙の被造物すべての神に「なり」、万物の主、命あるすべてのものにとって崇拝の対象になる。」 『言葉は肉において現れる』より

2018年12月4日火曜日

全能神の発表「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」

 受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊にまとわれた肉である。この肉はどのような肉の人間とも異なっている。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が肉となったものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はどのような人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性であれ、神性であれ、いずれも天の父の心に従う。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。ゆえに、受肉した神は神自身の経営(救い)を妨げるような働きは絶対に行わない。このことをすべての人が理解すべきである。聖霊の働きの本質は人を救うことであり、また神自身の経営のためである。同様に、キリストの働きは人を救い、神の心を達成するためのものである。神が肉となったので、キリストは自身の肉のうちにある本質を知っており、よってキリストの肉は神の働きを引き受けるに充分である。神の霊のなすすべての働きは受肉の期間にキリストがなす働きに取って代わられる。受肉の期間を通してすべての働きの核心にあるのはキリストの働きである。それはほかのどの時代の働きとも混同することはできない。そして神が肉となるのであるから、神は肉としての働きをする。神は肉の形をとって来るので、自身のなすべき業を肉となったままで成し遂げる。神の霊であれ、キリストであれ、どちらも神自身であり、神はなすべき働きをし、果たすべき宣教の働きをする。

 神の本質そのものが権威を行使するが、キリストは神によってもたらされる権威に完全に服従することができる。霊の働きであれ、肉の働きであれ、互いに相反するものではない。すべての被造物におよぶ権威となるのは神の霊である。神の本質を持った肉も権威を持っているが、肉を持った神は父なる神の心に沿ったすべての働きをすることができる。こうしたことは人にはすることも考えることもできない。神自身が権威であるが、神の肉は神の権威に服従することができる。この言葉に秘められた意味はこうである。「キリストは父なる神の心に服従する」。神は霊であり、救いの働きができるように、受肉した神も救いの働きをなすことができる。いずれにしても、神自身が神自身の働きをする。神は阻止することも、干渉することもせず、まして互いに対立する働きをすることはない。霊と肉による働きの本質は似ているからである。霊であれ、肉であれ、どちらも一つの心を満たし、同じ働きを管理するために働くからである。霊と肉とは二つの異なる性質を持っているが、その本質は同じである。どちらも神自身の本質を持ち、神自身の身分を持っている。神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善良さと、すべての愛の現れである。肉の体を持っていても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてさえも、神は心底から父なる神に従い、他の選択肢は考慮しない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうすべてのものはサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンに似た特質を持っている理由は、サタンが人に働き、サタンによって堕落させられたからである。キリストはサタンによって堕落させられていない。ゆえにキリストは神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。どんなに働きが困難で、肉が弱くても、キリストは肉のうちに生きながら、神自身の働きを阻止するようなことは決してせず、ましてや不従順な行いで父なる神の心を無視するようなことは行わない。キリストは父なる神の心に逆らうくらいならむしろ肉の痛みに耐える。イエスが祈って「父よ、もしできることならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。けれどわたしの思いのままにではなく、心のままにしてください。」と言ったようにである。人は意志で選択するが、キリストはそうしない。キリストは神自身の身分を持っているが、肉を持つ神の観点から、なお父なる神の心を求め、父なる神がキリストに委ねた任務を果たす。これは人には不可能なことである。サタンから発生するものは神の本質を持つことができず、神に逆らい、抵抗する性質しか持ちえない。その性質は完全に神に服従することができず、ましてや神の心に進んで従うことなどできない。キリスト以外の人間はみな神に反する行いをすることができ、神に委ねられた働きを直接引き受けることのできる者はひとりもおらず、神の計画を自分自身がなすべき本分と考えることのできる者もひとりもいない。父なる神の心に服従することはキリストの本質である。そして神への不従順はサタンの特性である。この二つの性質は相いれないものであり、サタンの特質を持つものでキリストと呼ばれ得るものはひとりもいない。キリストの代わりとして人が神の働きをすることができないのは、人には神の本質がひとつも備わっていないからである。人は自己の利益と将来の可能性のために神に仕えて働くが、キリストは父なる神の心を遂行するために働く。

 キリストの人間性はキリストの神性によって支配されている。キリストは肉を持っているが、その人間性は肉を持った人間のそれとはまったく同じではない。キリストは特有の性格を持っており、これもキリストの神性によって支配されている。キリストの神性は弱さを持たない。キリストの弱さはキリストの人間性の持つ弱さを指す。この弱さはある程度キリストの神性を制限するが、そのような限界は一定範囲内、一定時間内に限られ、際限のないものではない。キリストが神性による働きをする時が来ると、それはキリストの人間性とは関係なく行われる。キリストの人間性はすべてキリストの神性によって指示される。キリストの人間性による普通の生活とは別に、人間性によるほかのすべての行動はキリストの神性によって影響され、働きかけられ、指示される。キリストは人間性を持っているが、それは神性による働きを邪魔するものではない。それはキリストの人間性がキリストの神性によって指示されているからにほかならない。キリストの人間性は、ほかの人々の前ではその行いにおいて成熟していないが、それはキリストの神性のなす普通の働きに影響を与えることはない。キリストの人間性は堕落していないとわたしが言うのは、キリストの人間性はその神性によって直接指示され、普通の人のよりも高度な理知を持っていることを意味している。キリストの人間性は働きにおいて神性によって指示されることに最も適している。キリストの人間性は神性による働きを現し、神性による働きに服従することに最高の能力を発揮する。神が肉を持って働きをなす時、神は肉を持つ人が果たすべき本分を決して見失わない。キリストは天にいる神を真心で崇拝することができる。キリストは神の本質を持ち、その身分は神自身のそれと同じである。それは、キリストはこの地上に来、人の外観を持つ被造物となり、かつては持っていなかった人間性を今は持っているということでしかない。キリストは天にいる神を崇拝することができるということだ。これはキリストが神自身であるということで、人にはまねのできないことである。キリストの身分は神自身である。キリストが神を崇拝するのは、肉の観点からである。ゆえに、「キリストは天にある神を崇拝する」という言葉は間違いではない。キリストが人に要求するものはまさに神自身の存在である。キリストが人間に要求する事柄は、自身も既に成し遂げている。キリストは人間に要求しておきながら自らはそれらから免れるようなことはしない。そのようなすべてがキリストの存在を作り上げているからである。どのように働いても、神に敵対するようなやり方でキリストが働くことはない。キリストが人に何を要求しても、人がなしえる以上の要求はしない。キリストのすることはひたすら神の心を行うことであり、神の経営(救い)のためである。キリストの神性はすべての人を超越するもので、ゆえにキリストはあらゆる被造物の最高の権威である。この権威はキリストの神性、すなわち神自身の性質と存在そのものであり、それはキリストの身分を決定する。よってキリストの人間性がいかに普通であっても、キリストが神自身の身分を持っていることは否定できない。どのような観点からキリストが語っても、どのようにキリストが神の心に従っても、キリストは神自身ではないと言うことはできない。愚かで無知な者はしばしばキリストの普通の人間性を欠陥と見なす。どれほどキリストが自身の神性を現し、明らかにしても、人は彼がキリストであることを認めることができない。そしてキリストが服従と謙遜を示せば示すほど、愚かな人間は益々キリストを軽くあしらう。キリストに対して排他的、侮蔑的な態度をとり、一方で尊大な姿の「偉人たち」を高い地位に置いて崇拝する者たちさえいる。人の神に対する抵抗と不従順は、肉を持った神の本質が神の心に従うという事実とキリストの普通の人間性とから来る。ここに人の神に対する抵抗と不従順の根源がある。もしキリストが人間としての外観を持たず、被造物としての観点から父なる神の心を求めることもせず、超人間性を持っていたならば、不従順になる人間はおそらくいないだろう。人が常に天にいる目に見えない神の存在を信じようとする理由は、天にいる神は人間性を持たず、被造物としての性質を一つも持たないからである。そこで人は常に天にいる神には最大の尊敬を払い、キリストには侮蔑的な態度をとる。

 キリストは地上で神自身の代わりに働くが、肉の姿を人々に見せようと来るのではない。すべての人がキリストの姿を見るために来るのではない。自身の手によって人が導かれ、新たな時代へ入ることができるように来るのである。肉なるキリストの役割は、神自身、つまり肉における神の働きを果たすことであり、人にキリストの肉の本質を十分理解させることではない。キリストがいかに働いても、それは肉の可能性を超えるものではない。キリストがいかに働いても、普通の人間性を持つ肉として働くのであり、神の真の姿を全て明らかにしてはいない。それに加えて、キリストの働きは、人間が思うような超自然的なものでも、計り知れないものでもない。キリストは肉において神自身を現わし、神自身のするべき働きを直接遂行するけれども、父なる神の存在を否定したり、自身の働きを誇示したりしない。むしろ、謙虚に肉のうちに自身を隠したままにする。キリスト自身以外でキリストを名乗る者はみな、キリストの性質を持ってはいない。そのような偽キリストたちの高慢で己を称えるような性質をキリストの性質と比べたならば、キリストの肉がどのようなものであるかは明白である。偽りの多い偽キリストであればあるほど自己を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の性質を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、キリストは働きを通して身分を明確にし、自身の現すものによって自身の本質を証明する。キリストの本質は根拠のないものではない。キリストの身分は自身の手によって握られてはいなかった。それはキリストの働きと本質によって決定される。キリストは神自身の本質を持っており、神自身の働きをすることができるが、やはりキリストは霊とは違って、肉である。キリストは霊の性質を持つ神ではない。肉の外殻を持った神である。したがって、いかに普通で弱くとも、どのように父なる神の心を求めても、キリストの神性は否定できない。肉となった神のうちにあるものは、普通の人間性とその弱さだけではない。そこにはキリストの肉における行いとともに、神性の素晴らしさと奥深さも存在する。ゆえに人間性と神性の両方が実際に、具体的にキリストのうちに存在する。これは無意味や超自然的なものでは全くない。キリストは働きを遂行するという本来の目的を持って地上に来る。地上での働きを遂行するためには普通の人間性を持っていることは必須である。そうでなければ、いかにキリストの神性が偉大であっても、その本来の機能を有効に使うことができない。キリストの人間性は非常に重要であるが、それはキリストの本質ではない。キリストの本質は神性である。ゆえに、キリストが地上で職分を始める瞬間はキリストがその神性を現し始める瞬間である。キリストの人間性は肉を持った普通の生活を維持するためだけにあり、それにより、キリストの神性が肉において普通に働きを行うことができるのである。キリストの働き全体を指示するのはキリストの神性なのである。キリストが働きを完了する時は、自身の宣教の働きを全うした時である。人が知るべきことはキリストの働き全体であり、働きを通して人間が自身を知るようにする。働きを行う過程で、キリストは自身の神性を充分に現す。それは人間性によって汚された性質でもなければ、人間の考えや振る舞いで汚されてもいない。キリストの職分が終わりを迎えるまでには、キリストは現わすべきその性質を全て表現し尽くすであろう。キリストの働きは人によって指示されない。キリストの性質の現れもいたって自由であり、精神で支配されることも、思考で処理されることもなく、自然に啓示する。これは人には成し遂げることができない。環境が厳しかったり、条件が合わなかったりしても、キリストは適切な時にその性質を現すことができる。キリストである者がキリストであることを現し、一方キリストでない者たちはキリストの性質を持たない。ゆえに、たとえすべての人たちがキリストに抵抗したり、キリストに対する見解を持ったりしたとしても、キリストによって現わされた性質が神の性質であるということを、人間の見解に基づいて否定できる者はいない。真心でキリストを求め、意志を持って神を求めるすべての者は、キリストの神性の現れに基づいて彼はキリストであると認めるであろう。人の観念と一致しないキリストの側面に基づいて彼らがキリストを否定することはない。人はとても愚かであるが、すべての人は、何が人の意志によるもので、何が神から出たものかをはっきりと知っている。多くの人々は自分の考えに基づいて、意図的にキリストを拒否しているというだけである。そうでなければ、キリストの存在を否定する理由など誰にもない。というのはキリストによって現わされた神性は確かに存在し、キリストの働きはすべての人が肉眼で確認できるものだからである。

 キリストの働きと現れはキリストの本質を決定する。キリストは託された働きを真心を持って完成することができる。キリストは天にいる神を心から崇拝し、真心を持って父なる神の心を求めることができる。これはすべてキリストの本質によって決定されている。そしてキリストの自然な現れもキリストの本質によって決定されている。キリストの「自然な現れ」と呼ばれるのは、キリストの表現が模倣でも、人による教育の結果でも、長年に亘る人による育成の結果でもないからである。キリストはそれを学んだのでも、それでわが身を飾ったのでもない。むしろ、それはキリストのうちに本来的に備わっているものである。人はキリストの働き、表現、人間性、そして普通の人間性を持った全生涯を否定するかもしれないが、キリストが真心で天にいる神を崇拝することを否定できるものは一人もいない。キリストが父なる神の心を果たすために来たことを否定できる者はおらず、キリストが父なる神を心から求めていることを否定できる者もいない。人が想像するように、彼の姿は五感に心地よいわけでも、話す言葉に特別な重みがあるわけでも、その働きに地を揺るがし、天を揺さぶるほどの驚きがあるわけでもないが、彼は確かにキリストであり、真心で父なる神の心を全うし、父なる神に完全に服従し、死にまで従う者である。これは彼の本質がキリストの本質であるからである。この事実は人には信じがたいものだが、確かに存在する。キリストの職分が全うされた時、キリストの働きを通して、キリストの性質と存在は天にいる神の性質と存在を現すことを、人は知るであろう。その時、キリストがその働きを通して成し遂げたものを見て、この者はまことに肉となった言葉であり、血と肉による人間とは異なることがはっきりと分かるであろう。キリストの地上での働きの各段階はそれぞれ重要な意味を持つが、それぞれの段階における実際の働きを経験する人間は、彼の働きの意味を把握することができない。第二の受肉における数段階での働きに関してはとりわけそうである。キリストの言葉を見聞きしただけで、キリストに出会ったことのない者たちのほとんどは、キリストの働きについていかなる観念も持っていない。キリストに出会い、言葉を聞き、働きを経験した者たちにとっては、働きを受け入れることが難しい。これはキリストの外見と普通の人間性が人の好みに合わないせいではないのか。キリストが去ってからその働きを受け入れる者たちはそのような困難に出遭うことはないだろう。彼らはキリストの働きを単に受け入れ、キリストの普通の人間性に接することがないからだ。人は神に対する己の考えを捨てることができず、キリストをあれこれと入念に調べ上げる。これは人がキリストの外見だけに注目し、キリストの働きと言葉に基づいた本質を認めることができないことが原因だ。もし人がキリストの外見に目を閉じ、キリストの人間性を討論するのを避け、人には成し得ない働きをし、人には成し得ない言葉を語るその神性についてのみ語るのなら、人の観念は半分に減り、すべての人々の困難が解決することさえあり得るだろう。肉となった神が働きをする間、人はキリストに耐えることができず、キリストについてさまざまな考えを抱き、しばしば抵抗し、不従順になる。人は神の存在に耐えられず、キリストの人間性と隠れた性質に「寛容」を示すことができず、父なる神に従うキリストの本質を「赦す」ことができない。したがって、キリストは働きを終えた後、永遠に人と共に留まることができない。人はキリストが傍らで生活することを許そうとしないからである。キリストが働きをする間、人が「寛容を示す」ことができなければ、キリストが職分を全うした後、彼らの傍らで生活を続け、彼らがキリストの言葉を徐々に経験していくのを見るなど、耐えられるだろうか。そうなれば、多くの者がキリスト故に躓くのではないだろうか。人はキリストが地上で働くことだけを許す。これが人の寛容の最大許容範囲である。働きのためでなければ、人はとっくにキリストを地上から追放しているだろう。それほどであれば、働きを終えてしまった後にどれだけ人は寛容を示すことができるだろうか。人はキリストを処刑し、死に至るまで拷問するのではないだろうか。この者がキリストと呼ばれなければ、人間の中で働きをすることはまず出来なかった。もしキリストが神自身の身分を持って働きをせず、普通の人間としてのみ働いたなら、人はキリストが発する言葉にひとつも耐えることはせず、ましてや働きとなればほんの一部でさえ耐えることはしなかっただろう。そのようなわけで、キリストは働きのうちにのみ身分を持つことができる。このようにして、キリストの働きは、こうしなかった場合よりも強力である。それは、人はみな立派な身分や地位のある者に従おうとするからである。キリストが神自身の身分を持って働かなかったなら、神自身として現れなかったなら、キリストが働くチャンスは全くなかったであろう。神の本質を持ち、キリストであるという事実にもかかわらず、人がその態度を和らげてキリストが人間の間で容易に働けるようにはしない。キリストは神自身の身分を持って働く。そのような働きは、身分を持たずになされる働きよりも何十倍も強力だが、それでも人はキリストに完全には服従しない。人はキリストの身分にのみ従い、キリストの本質には従わないからである。そうであれば、キリストがその地位から身を引く時がくるならば、人は一日たりともキリストが生き長らえることを許せるだろうか。神は人と共に地上に生き、自身の手でなした働きが後年もたらす効果を見たいと考える。しかしながら、人はキリストがたった一日でも留まることに耐えられないため、キリストは諦めるしかなかった。神が人の中でするべき働きをなし、職分を全うすることを許すのが人の寛容と優しさの限界である。キリストに直接征服された者たちはそのような優しさを示すが、彼らでもキリストが働きを終えるまで留まることを許すだけで、その後はたった一瞬でも留まることを許さない。そうであれば、キリストに征服されていない者たちはどうだろう。人が肉となった神をこのように扱うのは、彼が普通の人の外殻を持ったキリストであるからなのではないのだろうか。彼が神性だけを持ち、普通の人間性を持たなかったならば、人にとっての困難はいとも容易に解決されるのではないのだろうか。彼の本質はまさに父なる神の心に従うキリストの本質であるにもかかわらず、人は彼の神性をしぶしぶ認めるだけで、普通の人としての彼の外殻には興味を示さない。そのようなわけで、キリストは人の中で喜びも悲しみも分かち合うために人の間に住まうという働きを取り消すしかなかった。人はもはやキリストの存在に耐えられなかったからである。

2018年11月25日日曜日

全能神教会の御言葉カード

全能神は言われた。「神が約束を述べた時、万物がその実現に寄与し、その実現のために操作され、全ての被造物が創造主の支配により指揮され、準備されて、それぞれの役割を担い、それぞれの機能を果たした。これは創造主の権威の顕現である。」


2018年11月12日月曜日

全能神教会御言葉の抜粋「唯一の神自身 6」6


 サタンは邪悪であると言えるが、それを確認するためには、サタンによる人間の堕落の結末と、それがどのような性質と本質を人間にもたらすかを検討する必要があります。これについては皆ある程度知っているので、発言してください。サタンが人間を堕落させると、人間はどのような性質を表しますか。(傲慢さ、横柄さ、身勝手さ、卑劣さ、不正と狡猾さ、陰湿さ、悪意、そして人間性の欠如です。)全体として、人間性が欠如していると言えるのではないでしょうか。他の兄弟姉妹も発言させてください。(傲慢、不正直、悪意、身勝手、貪欲、浅薄、偽り。)ある側面の性質により明示されることではなく、その性質の本質が何なのかを言ってください。(ひとたび人間がサタンに堕落させられると、通常その人間は傲慢で独善的、思い上がってうぬぼれが強く、貪欲で利己的になります。こうした性質が最も深刻です。)(人間がサタンに堕落させられた後、人間は物質的にも精神的にも悪徳な行動を取ります。そして神に対して敵意を持ち、神を拒否し、神に反抗し、人間がもつべき良心と理知を失います。)あなたがたが言ったことは、細部の相違点を除いてすべて基本的には同じことです。詳細にもっと関心を持っている人もいるようです。概括すると、最も多く挙げられたのは「傲慢さ」という語です。傲慢さや不正直、悪意や利己的なども挙げられましたが、あなたがたは皆同じことを見落としました。良心のない人たちは、理知を失い人間性が欠如していますが、あなたがたのうち誰も挙げなかった同じくらい重要なことがまだあります。それは何ですか。(裏切りです。)その通りです。誰も「裏切り」を挙げませんでした。サタンに堕落させられた人間全員に存在する、こうした性質による究極的な結末は、神への裏切りです。神がどのような言葉を人間に述べても、どのような働きを人間に行なっても、堕落した人間は、真理であると分かっている事柄を認めません。つまり、神をもはや認めず、神を裏切るのです。これがサタンによる人間の堕落の結末です。それは人間の堕落した性質すべてに共通することです。人間が習得する知識、知っている科学、人間が理解している迷信や伝統文化、社会動向など、サタンが人間を堕落させるのに用いる方法の中に、何が義であり、何が不義であるかを判断するために人間が使用できるものがありますか。そこから判断基準を得ることができますか。(いいえ。)人間が何が聖なるもので何が邪悪かを判断する上で役立ちそうなものがありますか。(ありません。)人間に役立つ判断基準や基礎はそこにはありません。人々は「聖なる」という言葉を知っていても、聖なるものが何であるかを実際に知る者はいません。こうしたサタンが人間にもたらす物事により、人間は真理を知ることができますか。それにより、人間は人間性をますます向上させつつ生きることができますか。それにより、人間は神をますます礼拝できるような生活を送れるようになりますか。(なりません。)それにより人間が神を礼拝することや、真理を理解することや、聖さと邪悪が何であるのかを知ることが可能となることが無いことは明らかです。それとは反対に、人間は一層堕落し、神から遠ざかって行きます。これが、サタンは邪悪であると言われる理由です。サタンの邪悪な性質を数多く解剖して、サタンの本質や、サタンの実質に関するあなたがたの認識において、サタンに聖さの要素を見出しましたか。(いいえ。)それは確かです。それでは、あなたがたはサタンの本質に、神との類似点を見出しましたか。(いいえ。)サタンの表出には、神との類似点がありますか。(いいえ。)それでは、あなたがたに尋ねます。神の聖さとは、あなたがたの言葉で言うと、正確には何ですか。まず、神の聖さは何と関連して語られますか。神の本質に関連して語られますか。それとも、神の性質の一部に関連してですか。(神の聖さは、神の本質に関連して語られます。)わたしたちは、所望の話題について明確な足がかりを得なければなりません。神の聖さは、神の本質に関連して語られます。まず、神の本質の引き立て役として、サタンの邪悪さを用いましたが、神の中に何らかのサタンの本質を見出しましたか。人間の本質をひとつでも見出したか。誰か、回答してください。(神様の聖さは唯一無二のものであり、信実であり、真摯であり、神様には堕落したご性質はありません。神様は完全に肯定的で、神様が人間に与えられる物事も、すべて肯定的である。)(神様の本質は全て肯定的で、神様が明示されることは全て人間の救いと、人間が正常な人間らしさを生かし出すためです。それは、神様が人間を真に保護するため、人間が正常な人間性を生かし出す実現するためです。)正常な人間性を生かし出す実現するためだけですか。(人間が本当に真理を知るためです。神様の聖さは、神様の人間に対する真の愛と救いです。)(神様の本質が明示することは全て肯定的である。神の真実性、信実さ、無私さ、謙虚さ、そして神の人間に対する愛は、全て神の聖なる本質を表出しています。)(神は傲慢でも利己的でもなく、裏切ることもなく、この面でも神様の聖なる本質が明示されています。)なるほど。他に追加することはありますか。(神様には、サタンの堕落した性質の形跡が全くありません。サタンであるものは完全に否定的なものである一方、神様のもつものはすべてが肯定的です。神様は常に人間のすぐ傍らにいらっしゃることがわたし達にはわかります。幼時期から成熟した現在に至るまで、とくに道を見失った時、神様は常に共にいて人間を見守られ、安全に保たれました。神様には偽りや誤魔化しがありません。神様は明瞭かつ分かりやすく御言葉を述べられ、それもまた神様の真の本質です。)よろしい。(神様の御業には、他意も、豪語も、空虚な約束も、偽りも無く、サタンの堕落した性質は一切見られません。人間が信じることが出来るのは神様のみであり、神様の御働きは信実で真摯です。神様の御働きからは、神様が人間に誠実であるように、知恵を得るように、善悪を見分けることができるように、そして様々な人々、出来事、物事に対して分別を持つように、と言われているのが分かります。そこに神様の聖さが見えます。)。それで全てですか。(はい。)自分の回答に満足していますか。あなたがたは心で本当にどの程度、神に関して理解していますか。神の聖さをどの程度理解していますか。あなたがたは、それぞれ心の中にある程度の知覚的理解を持っていることは知っています。なぜなら全員が自分に対する神の働きを感じることができ、また程度の差があるものの、全員が多くの物事を神から得ているからです。神から恵みや祝福を受け、啓きと光を受け、神の裁きと刑罰を得ているので、神の本質に関して、ある程度の簡単な認識があるでしょう。

 本日話し合っている神の聖さは、大部分の人々にとって奇妙に感じられるかもしれませんが、どのように感じるかにかかわらず、この話題を始めたので、あなたがたは、今後道を進んでいくにつれて一層深い理解を得るでしょう。自分自身の経験のなかで、徐々に感じ、理解するようになる必要があります。現在、神の本質に関するあなたがたの知覚的理解には、学び、確認し、実感し、経験するための長い時間が必要です。やがて心から神の聖さが、神の完璧な本質であり、神の無私な愛であり、神が人間に与える物事のすべてが無私であることを知り、神の聖さは汚れ無く、非難の余地が無いことを知るでしょう。神の本質は、神が自身の身分を誇示するために用いるただの言葉ではなく、むしろ神は神の本質を用いて、静かに、真摯に個々の人間を取り扱うのです。つまり、神の本質は空虚なものでも、理論的なものでも、教義上のものでも無く、ましてやある種の知識などでは無いのです。神の本質は人間のための教育の一種ではなく、神自身の行ないの真の顕示であり、神がもつもの、神であるものの本質の顕示です。人間はこの本質を知り、理解しなければなりません。なぜなら、神が行なうこと、神が言う言葉は全て偉大な価値があり、一人ひとりの人間にとって極めて重要であるからです。あなたが神の聖さを理解した時、あなたは神を真に信仰することができ、神の聖さを理解した時、「唯一の神自身」という言葉の真意を本当に理解できます。あなたは他の道を歩むことも可能であると想像することはもはや無く、神があなたのために用意した全てを裏切ろうとはもはや思わなくなります。神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみいのちに通じる明るい正しい道を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人生を送ることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができます。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、これ以上苦しまないよう、辛苦の海からあなたを救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。無私にあなたを救うのは神自身のみであり、あなたの将来や運命、人生に究極的に責任を負うのは神のみであり、神はあなたのためにあらゆる物事を手配します。これは、被造物や非被造物のいずれも成し得ないことです。被造物や非被造物に、このような神の本質を持つものは存在しないので、あなたを救い、導く能力のある人や物は存在しません。これが人間にとっての神の本質の重要性です。あなたがたは、わたしがたった今語ったこれらの言葉が原理的に多少役立つであろうと感じるかも知れません。しかし、あなたが真理を求め、真理を愛しているのであれば、今後わたしの言葉はあなたの運命を変えるのみならず、人生の正しい道へとあなたを導くでしょう。あなたがたは、このことを理解していますね。(はい。)それでは、あなたがたは神の本質を認識することに、今では多少の関心がありますか。(はい。)関心を持つことは良いことです。それでは、神の聖さを認識することに関する本日の話題をここで締めくくります。

 本日の集会の最初にあなたがたがしたことでわたしを驚かせたことについて話します。あなたがたの中にはありがたく思っていたり、感謝の気持ちを抱いていたりして、その思いを身体的に表現したかったかも知れません。それは咎められることではなく、正しくも誤ってもいません。しかし、あなたがたに理解して欲しいことがあります。それは何でしょうか。まず、あなたがたが、たった今したことについて質問します。それは礼拝のためにひれ伏したのですか、ひざまずいたのですか。誰か答えられますか。(ひれ伏していたと思います。)あなたがたがひれ伏していたと思っているということですが、その意味は何ですか。(礼拝です。)それでは、ひざまずいて礼拝することとは何でしょうか。これまであなたがたとこのことについて話し合ったことはありませんが、今日はこのことを話す必要があると感じます。あなたがたは普段の集会でひれ伏しますか。(いいえ。)祈るときにはひれ伏しますか。(はい。)条件が許す場合、祈る度にひれ伏しますか。(はい。)それは素晴らしい。しかし、ここでわたしがあなたがたに理解してもらいたいことは何でしょうか。それは、ひざまずくことが神に認められる二種類の人間についてです。聖書を参照したり、霊的人物の行動を参照したりする必要はありません。わたしが今ここで、ある真実を述べます。まず、ひれ伏して礼拝することと、ひざまずいて礼拝することは同じではありません。ひれ伏す者がひざまずくのを神が受け入れるのは何故ですか。それは、神が誰かを呼び、神からの任務を受け入れるよう命ずるのですから、その人は神の前でひれ伏します。これが第一の種類の人間です。第二の種類は、神を畏れ、悪を避ける人間がひざまずいて礼拝することです。この二種類の人間があるだけです。あなたがたはどちらの種類に属していますか。答えられますか。多少気持ちが傷つく人もいるかも知れませんが、これは事実の真相です。祈りを捧げる際に人々がひざまずくことについては、何も言うことがありません。それは適切であり、然るべきものでしょう。なぜなら、人々が祈る時大抵は、神に対して自分の心を開き、神と対面して、何かを求めて祈っているからです。それは神との心と心の意思疎通、意志交換です。単なる形式として行なうなら、そうあるべきではありません。本日のあなたがたの行動について咎めるつもりはありません。あなたがたがこの原則を理解できるように、明確にしたいだけなことはわかりますね。(はい。)それならば、そうした行動を続けないで欲しい。それでは、人間が神の前でひれ伏し、ひざまずく機会はあるでしょうか。今後、機会は必ずあるでしょう。遅かれ速かれ、その時が来ますが、それは今ではありません。わかりますか。(はい。)このように伝えると、悲しくなりますか。(いいえ。)よろしい。こうした言葉はあなたがたの動機付けや激励となり、あなたがたは現在における人間と神との窮状や、人間と神との関係がどのようなものであるかを心で理解することができるかもしれません。最近、わたし達はずいぶん話し合い、交流していますが、神に関する人間の認識は、未だに十分と言うには程遠いです。人間が神を認識するために進むべき道のりは、まだ先が長いです。わたしの意図は、あなたがたに早急にそうさせることでも、そうした意欲や感情を示させることでもありません。あなたがたが本日取った行動は、おそらくあなたがたの真の気持ちを示し表現するもので、わたしはそれを感じました。そうしたわけで、あなたがたがそうしている最中、わたしは立ち上がって、あなたがたの幸いを願う気持ちを表したかったのです。なぜなら、わたしはあなたがた全員の幸いを願っているからです。わたしは、あらゆる言動において、あなたがたがあらゆることを正しく理解して正しい見方ができるように、あなたがたを助け、導くことに最善を尽くしています。このことは理解できますね。(はい。)それは良かったです。人々は、神の様々な性質、神がもつもの、神であるものの側面、また神の働きについてはある程度理解しているものの、この理解の大部分が、表面的な読書、原理の理解、あるいは単にそれらについて考えることに留まっています。人間に最も不足しているのは、実経験から得られる真の理解と見解です。神は、人間の心を目覚めさせるために様々な方法を用いているものの、人間の心がついに目覚めるまでの道のりは、まだ先が長いです。わたしは、神に取り残され、無視され、見捨てられたように誰かが感じるのを見たくありません。わたしは、あなたがた全員が真理と神への理解を追求し、揺るがぬ意志で、不安や負担なく、勇気を持って前進することを望んでいます。あなたがこれまでどのような悪いことを行なったとしても、どれほど大きく道を外れたとしても、どれほど過ちを犯したとしても、そうしたことを神を知ろうとする追求における負担や重荷としてはなりません。絶えず前進しなさい。それが何時起ころうと、人間の救いである神の心は決して変わりません。これが神の本質のなかで最も貴い部分です。これで、少し気持ちが楽になりましたか。(はい。)あなたがたが万事において、そしてわたしが語った言葉に関して、正しく取り組めることを願っています。それでは、これでこの会を終わりましょう。皆、ごきげんよう。(ごきげんよう。)

 脚注:

 a.原文は「人間による科学の追究と奥義の探索を満足させる」。

 b.原文では「の泥沼」が省略されている。

2018年11月11日日曜日

全能神教会の御言葉の朗読動画「福音を広める働きは、人を救う働きでもある」


全能神は言われた。「終わりの日に、わたしの名は異邦人の間で広められ、わたしの業は異邦人によって知られることとなり、彼らはわたしを、全能の神と呼ぶであろう。その結果わたしの言葉が速やかに実現されるだろう。わたしは全ての人々に、わたしが、イスラエル人の神であるだけではなく、全ての異邦人の神でもあり、わたしが呪った民族の神でさえもあることを、知らしめる。わたしは、全ての人々に、わたしが全ての被造物の神であることを分からせる。これが、わたしにとって最大の仕事であり、終わりの日のためのわたしの行動計画の目的であり、終りの日に達成されるべき働きのすべてである。」 『言葉は肉において現れる』より