2018年8月27日月曜日

【東方閃電】全能神教会御言葉の抜粋「神の性質と神の業の結果を知る方法」6

 実践的質問は人々に様々な困惑をきたす

 前述した種類のほか、別の種類の者として、最も悲惨な結末を迎える者がいる。こうした者について話をするのは、わたしにとって最も気が進まないことである。こうした者が悲惨なのは、その者が神の罰を受けているからでも、神のその者に対する要求が過酷だからでも、悲惨な結末を迎えるからでもない。むしろ、その者が悲惨なのは、その結末が、その者の自業自得であり、いわゆる墓穴を掘っているからである。これはどのような種類の者であろうか。この者は正しい道を歩まず、かつその結末は事前に明示されている。神はそうした人々を、嫌悪の対象として最も相応しい者とみなす。よく言われるように、こうした者は最も悲惨である。こうした者は、神に付き従い始めた時は極めて熱心であり、多くの代償を払い、神の業の見通しについて好ましい意見を持っており、自分の将来について想像に満ちあふれ、ことさらに神について確信し、神は人間を全き存在とする、人間を栄光の道へと導くことが出来ると信じている。しかし、何故か、こうした者は、神の業の最中に、逃げ出してしまう。その者が逃げ出すとは、どのような意味であろうか。それは、その者が別れの挨拶もせずに消え失せてしまうということである。その者は無言で立ち去る。こうした者は、自分が神を信仰していると主張するが、神の信仰の道が定着していることは決して無い。したがって、こうした者は、何年信仰しても、神から立ち去ることがある。事業を始めるために去る者もいれば、自分の人生を送るために去る者や、富を得るために去る者、結婚して子をもうけるために去る者もいる。こうした去った者の中には、良心の呵責で戻りたいと思う者と、上手くいかずに世界を何年も流浪する者がいる。こうした流浪者は多くの苦難を経験し、この世界に存在することが耐えがたい苦痛であり、神から離れることは不可能であると考えている。こうした流浪者は神の家に戻って安らぎと平和、喜びを得ることを願い、災いを避けるためまたは救われて美しい終着点を得るために、神を信仰し続けたいと願う。なぜなら、そうした人々は、神の愛が無制限であり、神の恵みは尽きること無く、使い果たすことが出来ないものだと考えているからである。そうした人々は、誰が何をしたとしても、神はその誰かを赦し、その者の過去に対して寛容であるはずだと考えている。そうした人々は、戻って本分を尽くしたいと言う。自分の所持品の一部を教会に寄付し、そうすることで教会に戻れることを願う者もいる。こうした人々に対する神の姿勢は、どのようなものであろうか。神は、こうした人々の結末をどのようにして決めるであろうか。自由に発言して欲しい。(神はこうした者が戻ることを認めると考えていたが、今の話を聞いて、戻ることを許さないかも知れないと思う。)その理由は何であろうか。(こうした者は、死の結末を避けるために神の前に来る。こうした者は心からの誠意で戻ったのでは無い。むしろ、こうした者は神の業が間もなく終わることを知り、祝福を与えられるという妄想を抱いて神の前に来た。)それは、こうした者が神を誠実に信仰していないので、神は戻ることを許さない、ということであろうか。そうであろうか。(その通りである。)(私は、こうした者が日和見主義者であり、神を誠実に信仰していないと考えている。)こうした者は神を信仰するために来たのではなく、日和見主義者である。素晴らしい発言である。日和見主義者は誰もが嫌う種類の者である。日和見主義者は周囲に流され、見返りが無ければ何もしようとしない。当然こうした者は見下すべき者である。その他の者は、意見があるだろうか。(神はそうした者が戻るのを認めないであろう。なぜなら、神の業は終わろうとしており、人々の結末が決定されるのは、今だからである。そうした者は、そのような状況になった今、戻りたいと思っている。戻りたい理由は、真理を追究したいと心から思っているからでは無く、そうした者が災いが降るのを見たから、あるいは外的要因に影響されたからである。こうした者に真理を本当に求める心があったとしたら、途中で逃げ出したりはしなかったはずである。)その他の意見はあるだろうか。(戻ることを許されないであろう。神はそうした者に何度も機会を与えたが、その者の神に対する姿勢は、常に神を無視することであった。その者の意図が何であるかを問わず、そうした者が本当に悔い改めたとしても、神はそうした者が戻るのを許さないであろう。なぜなら、神は既にそうした者に多くの機会を与えたにもかかわらず、その者は既に自分自身の姿勢を示すものとして、神を去りたいと思った。したがって、その者が今になって戻ってきても、神は戻ることを許さないであろう。)(私も、神はそうした者を受け入れないと思う。なぜなら、人間が真の道を理解し、それほどの長期間にわたって神の業を経験してなお、サタンを信奉する世界に戻ったならば、それは神に対する大いなる裏切りである。神の本質は憐れみや愛であるものの、そうした憐れみや愛の対象となる者がどのような者であるかによる。その者が安らぎと望みをかけられる何かを求めて神の前に来たのであれば、その者は神を誠実に信仰する者ではなく、その者に対する神の憐れみは、それに相応するものとなる。)神の本質は憐れみであるが、それでは何故、こうした者にもう少し憐れみを与えないのであろうか。少し憐れみが与えられれば、その者には機会が与えられるのではないだろうか。以前は、神はあらゆる者を救うことを望み、誰ひとりとして滅びることを望まない、と言われていた。百匹の羊のうち、1匹が迷い出た場合、神は99匹のひつじを残し、その迷い出ている羊を捜しに出かける。現在、こうした者について、真の神への信仰のため、神はそうした者を受け入れ、もう一度機会を与えるべきであろうか。これは難しい問題ではなく、極めて平易であり、簡明である。あなた方が神を真に理解し、神に関する真の認識があるならば、それほど多くの説明も、推量も不要であろう。あなた方の答えの考え方は正しいが、答えと神の姿勢には依然として差がある。

 あなた方のなかに、神はそうした者が戻るのを許さないと確信している、と答えた者がいた。その他の者は、それほど確信が無く、神は許すかもしれず、また許さないかも知れないと考えている。この姿勢は、比較的穏健である。また、神がそうした者が戻るのを許すことを願う、という観点の者もいた。この姿勢は曖昧である。確信のある姿勢の者は、神が現在まで行ってきた業は完了しており、神はそうした流浪者に対して寛容である必要がなく、こうした流浪者は戻ることを許されない、と考えている。穏健な者は、この問題はその流浪者の状況にしたがって対処すべきであると考えている。すなわち、その流浪者の心が神から切り離すことが出来ないものであり、その流浪者が神を真に信仰し、真理を求めるものであるならば、神はその流浪者の過去や、従前の弱さ、過ちを覚えていないはずで、神はその流浪者を赦し、もう一度機会を与え、神の家に戻し、神の救いを与えるはずだと考えている。しかし、この流浪者が再び逃げ去った場合、神はこの者を求めなくなり、それはこの流浪者に対する不正であるとは考えられない、と考えている。それ以外に、神がその流浪者が戻るのを許すことを願う人々もいる。この人々は、神がその流浪者が戻るのを許すかどうかを明確に知らない。神がその流浪者が戻るのを許すべきであると考えているが、神がその流浪者が戻るのを許さなかった場合、この意見の人々は、神の観点に準拠していない部分が多少あると考えられる。こうした人々が、神がそうした流浪者が戻るのを許すべきで無いと考えていて、神が、人間への神の愛は無限であり、その者にもう一度機会を与えたいと述べたとしたら、それは人間の無知さが白日の下に晒された例ではなかろうか。いずれにせよ、あなた方には、それぞれ自分の意見がある。そうした観点は自分自身の意見の認識であり、真理や神の趣意に関する自分の理解の深さが反映されたものである。これが的確な言い方であろう。この件について、あなた方が自分の意見を持っているというのは、素晴らしい事である。しかし、あなた方の意見が正しいかどうかについては、疑問が残る。あなた方は、多少不安ではなかろうか。「それでは何が正しいのだろうか。明確に分からないし、神が正確にはどうお考えかを知らない。神は私に何も述べられていない。どうすれば、神が考えられている物事を知ることが出来るだろうか。人間に対する神の姿勢は、愛である。今までの神の姿勢によれば、神はこの流浪者が戻るのを許されるに違いない。しかし、現在の神の姿勢については、明確に知らない。神はその者が戻るのを許されるかもしれないし、許されないかもしれない、としか言えない。」これは不条理ではないか。あなた方は、この問題に極めて困惑している。この問題について、適切な意見が無いのであれば、あなた方の教会でこのような流浪者に対処する場合、あなた方はどうするであろうか。この問題に適切に対処しなければ、恐らく神の怒りを買うだろう。これは危険な問題ではないだろうか。

 わたしが話をしている問題について、わたしは何故、あなた方の意見を聞きたいのだろうか。わたしは、あなた方の観点を試し、あなた方の神に関する認識がどれほどかを試し、神の趣意や神の姿勢に関する、あなた方の理解がどれほどかを試したいと考えているからである。その答えは何であろうか。その答えは、あなた方の観点にある。あなた方の中には、極めて保守的な者や、想像で推測している者がいる。「推測」とは、何であろうか。推測とは、神がどう考えるかに関して全く知らないので、神がこう考えているであろう、ああ考えているだろうといった事に関する根拠の無いことを思いつくことである。あなた方は、自分の推測が正しいか、誤りかを実際には知らないので、曖昧な意見を述べる。この事実から、何が分かるであろうか。神に付き従う時、人間は、神の趣意を配慮したり、神の考えや神の人間に対する姿勢に留意したりすることが、ほぼ無い。あなた方は神の考えを理解していないので、神の趣意や性質に関する質問をされると、混乱し、確信するのが極めて困難になり、推測したり予想したりする。その姿勢は何を意味するであろうか。その姿勢は、神を信仰する者の大部分は、神を空気のような不明瞭なものとみなしているという事実を証明するものである。わたしがこう述べるのは何故であろうか。それは、毎回あなた方が問題に遭遇する時、あなた方は神の趣意を知らないからである。あなた方がそれを知らないのは何故だろうか。あなた方がそれを知らないのは、現在に限らない。あなた方は、最初から最後まで、こうした問題に対する神の姿勢を知らない。あなたは、神の姿勢が見えず、分からない時、それについて考えたことがあるであろうか。それを模索したことがあるであろうか。それを伝えたことがあるであろうか。そのようなことは無い。これにより、あなたが信仰する神と、真の神とは、無関係であるという事実が裏付けられる。あなた方は神を信じているが、自分や、自分の主導者の意志、神の言葉の表面的かつ教義的な意味のみを考え、神の心を真剣に知ろうとしたり、求めたりすることは全く無い。これが現状ではないだろうか。この問題の本質は酷いものである。わたしは、長年にわたり、神を信仰する大勢の人々と出会って来た。こうした信仰はどのような形態であろうか。神が空気のような存在であるかのように、神を信仰する人々がいる。こうした人々は、神の存在に関する疑問に答えられない。なぜなら、こうした人々は神の存在や不在を感じる事も意識することも出来ず、ましてや神を明確に理解することなど出来ないからである。こうした人々は、無意識のうちに、神は存在しないと考えている。その一方で、神が人間であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、自分達に出来ないことが神にも出来ず、神は自分達と同様に考えているに違いない、と考えている。こうした者による神の定義は「目に見えず、触れることの出来ない人間」である。そのほかにも、神が操り人形であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、神には感情が無く、神は彫像であると考えている。問題が発生した場合、神はどのような姿勢も取らず、観点も意見もなく、人間の思うままである。人間は、単に自分達の好き勝手に信仰しているだけである。こうした者が神を偉大な存在とした場合、神は偉大であり、小さな存在とした場合、神は小さいものとなる。人間が罪を犯して神の慈しみや寛容、愛が必要な時、神は慈しみを与えなくてはならない。こうした人々は、自分の心で神を考え出し、その神に自分達の要求や、願望を全て満たさせる。時や場所、そうした人々が何をしているかを問わず、そうした人々は、神の扱いや神への信仰に、そうした妄想を適用する。自分が神の性質を侵害しても、神は自分達を救うことが出来ると考えている者さえいる。これは、そうした人々が、神の愛は無限であり、神の性質が義であり、人間がどれほど神の怒りを買ったとしても、神はそれを一切覚えていることが無い。人間の過失や侵害、不従順は、その者の性質の一時的な現れであるので、神は人々に対して機会を与え、寛容かつ辛抱強い。神は、そうした人々を今まで同様、愛するであろう。したがって、依然として救いの希望は大いにあると考えていることが原因である。事実、ある者が神をどのように信仰しているかを問わず、その者が真理を求めていない限り、神はその者に否定的な姿勢を取る。それは、あなたが神を信仰している時に、神の言葉が記された本を大切にし、毎日読んで研究しているものの、真の神を無視し、空気や普通の人間、あるいは操り人形のように扱っているからである。わたしがこう説明するのは何故であろうか。なぜなら、わたしの知るところによると、あなた方が問題に遭遇しているか、難しい状況に遭遇しているかを問わず、あなた方の無意識の領域にあり、あなた方の内部で形成された物事には、神の言葉や真理の追究と関連する物事が一切無いからである。あなた方が理解しているのは、自分が考えている物事や自分の観点のみであり、そうした自分の考えや観点を神に対して強制しているのである。そうした物事が神の観点とされ、遵守すべき基準とされている。このような状態を続行すると、時間と共に、あなた方は神から徐々に遠ざかって行く。

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