全能神は言われた。「その者の能力が如何に優れていても、その者は他人の運命に影響を与えられず、ましてや指揮したり、予定したり、制御したり変更することは出来ない。人間のすべてを支配するのは、唯一の神自身のみである。なぜなら、人間の運命に対する統治を担う唯一の権威があるのは神のみであり、したがって創造主は人間の唯一の主だからである。神の権威は、人間だけでなく、人間には見えない創造物以外の生き物や、惑星、宇宙の統治も担う。これは異論の余地の無い、実在する事実であり、人間や物が変えられない物事である。...人生において神による統治と采配を感じたことが無く、ましてや神の権威を認め、受け入れたことなど無いのであれば、あなたは全く無価値であり、あなたが選んだ道と選択肢が原因となって、神が嫌い捨てる対象となることは間違い無い。しかし、神の業により、神からの試練と神による統治を受け入れ、神の権威に服従し、徐々に神の言葉に関する真の体験を得る者は、神の権威に関する真の認識と神による統治に関する真の理解を得て、真に創造主に従う者となるであろう。真に救われるのは、そのような者だけである。」

イエスはユダヤで働いたとき、公然と働いたが、今、わたしはあなたがたのあいだで秘かに働き語る。不信者たちはこれに全く気付いていない。あなたがたのあいだでのわたしの働きは部外者には閉ざされている。これらの言葉、刑罰や裁きはあなたがただけに知らされており、他は誰も知らない。この働きはすべてあなたがたのあいだで実行され、あなたがたにしか明かされていない。不信者の誰もこれを知らない。まだ時が来ていないからである。ここにいるこの人たちは刑罰に耐えた後、完全にされつつあるが、部外者はこのことを何も知らない。この働きはあまりにも隠されている。彼らには受肉した神は隠されているが、この流れにある人たちには、神は明らかにされたと言うことができる。神においてはすべてが公然とし、すべてが明らかで、すべてが解放されているが、これは神を信じている人たちにとってだけそうなのであり、その他の者、不信者には何も知らされていない。今ここで行なわれている働きは彼らが知ることがないよう厳しく隔離されている。もし気付いたならば、彼らはそれを非難と迫害だけをするのみであろう。彼らは信じないであろう。最も進歩の遅れた場所である赤い大きな竜の国で働くのは簡単なことではない。もしこの働きが知られたら、続けるのは不可能だろう。この段階の働きはこの場所で進めることはどうしてもできない。もしこの働きが公然と行なわれたなら、彼らがどうして許すことができるだろうか。それはこの働きをもっと大きな危険にさらすことにならないだろうか。もしこの働きが隠されず、イエスが見事に病人を癒し悪霊を追い出したときのように行なわれたなら、とうの昔に悪魔に「捕まえられ」ていたのではないだろうか。悪魔は神の存在に我慢することができるだろうか。もし今わたしが人に説教をし、教えるために会堂に入って行こうとしたなら、とっくに粉々に砕かれていたのではないだろうか。それではどうやってわたしの働きを続けることができるのだろうか。しるしや不思議が公然と行われない理由は、隠すためである。だから、わたしの働きは不信者によって見られることも、知られることも、発見されることもない。もしこの段階の働きが恵みの時代のイエスの働きのように行なわれたなら、それは今のように安定したものではなかったであろう。だから、働きがこのように隠されているのは、あなたがたにとっても、働き全体にとっても有益である。地上での神の働きが終わると、すなわち、秘密にされているこの働きが終わると、この段階の働きは広く公にされる。すべての人たちは中国に勝利者のグループがいることを知るだろう。肉となった神が中国にいて、神の働きが終わったことを知るだろう。その時初めて、人は理解し始めるのである。なぜ中国はまだ衰退や崩壊を見せていないのか。神が中国でその働きを自ら実行し、あるグループの人々を完全にして勝利者としたということが分かるのである。
肉となった神は、その働きを自ら遂行しつつ、従ってくる人たちだけに自身を現すのであり、すべての創造物に現すのではない。神は人に彼の姿を見せるためではなく、ある働きの段階を完成させるためにだけ肉となった。しかし、神の働きは神自身が行なわねばならず、よって神が肉体をもってそうすることが必要なのである。この働きが終わると、神は人間の世界から去る。神はこれから来る働きの邪魔にならないように、人間のあいだでは長い間留まっていることはできない。神が大勢の人たちに現すのは、神の義なる性質と神のすべての業だけで、神が二度肉となったときの姿ではない。というのは神の姿は神の性質を通してのみ示すことができ、神の肉となった姿に取り替えられることはできないからである。神の肉体の姿は限られた数の人たちにだけ、神が肉の中で働くときに従って行く人たちだけに示される。これこそ今、働きが秘かに行われている理由である。それはイエスが働きを行なっていたときにユダヤ人にだけ自分自身を示し、決して公然と他の国々には示さなかったのと同じである。したがって、ひとたびイエスが働きを完成すると、人々からすばやく離れ、留まらなかった。それ以降、人間に自らを現したのはイエス、その人としての姿ではなく、働きを直接遂行した聖霊であった。肉となった神の働きが完全に終わると、彼は人間の世界を離れ、肉となったときと同じ働きは二度としない。その後、働きはすべて聖霊によって直接なされる。この期間中、人は彼の肉の姿を見ることはほとんどできない。彼は自身を人に全く見せず、永遠に隠れたままである。肉となった神の働きのための時間は限られており、それは特定の時代、時、国、そして特定の人々のあいだで行なわれる。そのような働きは神が肉となった期間中の働きだけを表しており、その時代に特定されたものであり、ある特定の時代の神の霊の働きを表しており、神の働きの全体を代表しているわけではない。よって、肉となった神の姿はすべての人々には見せられないであろう。大勢の人たちに見せられるのは、神が二度肉となったときの姿というよりは、神の義と神の性質の全体である。人に見せられるのは唯一の姿でも、二つの姿を合わせたものでもない。よって、神がすべき働きが完成すると、肉となった神は絶対に地上から離れなければならない。というのは、肉となった神はしなければならない働きのためだけに来るのであり、姿を人々に見せるために来るのではないからである。受肉の意義は神が二度肉となったことですでに果たされているが、かつて神を一度も見たことのない国の人々には神は公に自身の姿を見せることはない。イエスが自分自身を義の太陽としてユダヤ人に再び示すことは決してない。再びオリーブ山に登ることも、すべての民族に現れることも決してない。ユダヤ人が見たのは、ユダヤの地にいた時代のイエスの絵図だけである。肉となったイエスの働きは二千年前に終わったからである。イエスが以前の姿でユダヤの地に戻ることはないし、ましてや当時の自分の姿を異邦人の諸国において示すことはない。なぜならば、肉となったイエスの姿はひとりのユダヤ人の姿でしかなく、ヨハネが見た人の子の姿ではないからである。イエスは自身に従ってきた者たちに再来を約束したが、単にひとりのユダヤ人の姿で異邦人に自分自身を示すことはない。肉となった神の働きは、時代を開くことであることをあなたがたは知らなければならない。この働きは数年に限られており、神の霊のすべての働きを達成することはできない。これはユダヤ人としてのイエスの姿が、ユダヤで働いたときの神の姿だけを現しており、そのときの神は十字架の働きだけをすることができたのと同じである。イエスが肉体をもっていた間、イエスは時代を終わらせ、人類を破滅させる働きはできなかった。よって、イエスが十字架にかけられ働きを終えると、イエスは高く昇り、自身を人間から永遠に隠した。それ以降、異邦人の国々の忠実な信者たちは主イエスの出現ではなく、壁に貼られたイエスの絵しか見ることかできなかった。この絵は人によって描かれたものでしかなく、神自身が人に見せた姿ではない。神は二度肉となったときの姿を大勢の人たちに公には見せることはない。人類のあいだでなされる神の働きは、神の性質を人々に理解させることである。これは様々な時代の働きを通して人に見せられる。イエスの出現を通してというよりは、神が知らせた性質や、神が行なった働きを通して達成される。すなわち、神の姿は受肉の姿を通して人に知らされるのではなく、むしろ、姿や形をもつ肉となった神によって行なわれる働きを通して知らされ、彼(彼女)の働きを通して、神の姿が示され、神の性質が知らされる。これこそ神が肉体で達成しようとする働きの意義である。
神が二度肉となったときの働きがひとたび終わると、異邦人の国々に神はその義である性質を現し始め、大勢の人たちがその姿を見ることを許される。神は自身の性質を現し、これを通して、あらゆる種類の人たちの最後を明らかにし、それによって古い時代を完全に終わらせる。肉体における神の働きは広範囲に及ぶものではない(ちょうどイエスがユダヤだけで働いたように、そして今日わたしはあなたがたのあいだだけで働いている)。なぜなら、肉体における神の働きには範囲があり限界があるからである。神は受肉した肉体を通して永遠の働きをしたり、異邦人の国々のすべての人たちに現れる働きをするのではなく、ただ平凡な普通の肉の姿で短い期間の働きをするだけである。肉での働きは範囲においてのみ限られたものになることがあり(ユダヤでしか働かないとか、あなたがたのあいだでしか働かないというように)、その後この限界内でなされた働きを通して拡張されることができる。もちろん、拡張の働きは聖霊によって直接行われ、もはや神の受肉した肉体の働きではなくなる。肉体の働きには限界があり、宇宙の隅々にまで拡張されないからである。それを達成することはできない。肉における働きを通して、神の霊はそれに続く働きを行う。だから、肉でなされた働きは一つの限界内で行なわれる始まりの働きなのである。神の霊はその後この働きを、さらに拡張された範囲で続ける。
神は時代を先導する働きをし、新時代を開き、古い時代を終わらせるためだけに地上に来る。神は地上での人間の生涯を過ごし、人間のように実際に人生の喜びや悲しみを体験し、自身の手で誰かを完全にし、成熟するのを見守るために来たのではない。それは神の働きではない。神の働きとはただ新時代を開き、古い時代を終わらせることである。つまり、神が自らある時代を開き、もう一つの時代を終わらせ、自身の働きを直接することでサタンを打ち負かすのである。神が直接働きをする時はいつも、戦場に足を踏み入れるようなものである。肉において神はまず世界を打ち負かし、そしてサタンに勝利する。地上のあらゆる人々が歩くべき正しい道と平和な生涯と生きる喜びを得られるように、神はすべての栄光を獲得し、二千年の働き全体の幕をあげる。しかし、神は地上で長い間人間と住むことはできない。なぜなら、神は神で、結局人間とは違うからである。神は普通の人の一生を生きることはできない。すなわち、神は全く普通の人として地上に住むことはできない。というのは、神はそのような人生を営むための平凡な人の普通の人間性の最小限の部分しか持っていないからである。つまり、神がどのようにして地上で家族をもち、職業を得て、子どもを育てられるというのか。これは神にとって不名誉なことではないだろうか。神は普通の方法で働きをするという目的のためだけに、普通の人間性をもつのであって、普通の人のように家族や職業を持つためではない。神の普通の理知、普通の知性、普通の食事や肉体の衣服は、神が普通の人間性をもっていることを証明するのに十分である。神が普通の人間性を備えていることを証明するために家族や職業を持つ必要はない。全く不必要である。神が地上に来ること、それは言葉が肉となるということである。神はただ人が神の言葉を理解し、言葉を知ること、すなわち、肉においてなされる働きを人が見ることを可能にしているだけである。神が意図していることは人々が神の肉体を何らかの方法で取り扱うことではなく、人が最後まで忠実であること、すなわち、神の口から出る全ての言葉に従い、神が行うすべての働きに服従することだけである。神は肉体においてただ働いているだけで、神の肉体が偉大で聖であることを人が褒めたたえるよう意図的に求めているのではない。神は単に人に神の働きの知恵と神の及ぼす権威を示しているにすぎない。よって、神は並はずれた人間性を持っていながらも、あえて布告をすることもなく自身がするべき働きに集中しているのである。あなたがたは、なぜ神が肉となりながらも神の普通の人間性を公表したり証したりせず、その代わりにただ行ないたい働きをただ実行しているのか知らなければならない。あなたがたが肉となった神において見ることができるのは、ただ神の神性が何であるかということだけである。それは神の人間性を人が見習うようにと神がその人間性を主張することはないからである。人が人を導く場合にのみ、人はその人間性を語る。そうすることで、他の人たちを感銘させたり服従させたりして、指導力を発揮することができる。これとは対照的に、神はその働きだけで(すなわち人には達成不可能な働きで)人を征服する。神は人を感銘させたり、人に神を崇拝させたりはしないが、ただ神への畏敬の念を人に植え付けたり、神の人間には図りがたい深遠さを人に気づかせたりするだけである。神は人を感銘させる必要はない。神に必要なことは、人がひとたび神の性質に触れたならば、神を畏れるようになることだけである。神の行う働きは神だけのものである。人間が神に代わって行なえるものではなく、また人間が達成できるものでもない。ただ神のみがその働きを行ない、新しい時代を招き入れ、人間を新しい生活へと導くことができる。神の働きは、人間が新しい生活を受け取り、新しい時代に入れるようにすることである。それ以外のすべての働きは、正常な人間性をもち、他者から賞賛される人々にゆだねられる。すなわち、恵みの時代には、神は肉となった三十三年のうちのわずか三年半で二千年分の働きを完了したのである。神がその働きを行うため地上に降りるとき、神は必ず二千年分、あるいはひとつの時代全体の働きをわずか数年間で完了する。神は時間を無駄にせず、遅れることもない。神は何年分もの働きを簡単に濃縮すると、わずか数年で完了できるようにする。これは、神が自ら行う働きは、ただ新しい道を開き、新しい時代を導くことだからである。
3) 神が人間に対して要求する、人間の神に対して取るべき姿勢
実際、神が人間に対して求めていることは、それほど多くは無く、少なくとも、神は人間が想像するよりも多くの物事を要求しては居ない。神の言葉すなわち神の性質、業、言葉の表出が全く無かったとしたら、人間が神を知る事は極めて困難となるであろう。なぜなら、人間は神の真意や心を推測しなければならず、それは人間にとって困難だからである。しかし、神の業の最終段階に関して、神は数多くの言葉を語り、多くの業を行い、人間に対する要求を多数行っている。神の言葉と数多くの業において、神は、神が好む事柄、嫌悪する事柄、人間がどうあるべきかを人間に対して知らせている。こうした物事を理解した後、人間は心の中で、神の求める事柄に関する正確な定義を知ることが出来るはずである。なぜなら、人間は曖昧さや抽象性の中では神を信じず、曖昧な神を信じず、曖昧さや、抽象性、虚無のなかで神に付き従わないからである。むしろ、人間は神の言葉を聞き、神の要求する基準を理解し、それを達成し、神は人間の言葉を用いて人間が知り、理解すべきことを人間に伝える。現在において、人間に対する神の要求や、神が何であるか、何故人間が神を信仰するのか、人間が神をどのように信じ、神に対してどのような姿勢を取るべきかを人間が認識していない場合、それは問題となるであろう。たった今、あなたがたは皆、ひとつの領域に関して述べた。具体的であるか、一般的であるかを問わず、あなたがたはある程度何かを認識している。だがわたしは神の人間に対する、正確で、完全で、具体的な必要条件について話をしたい。それは、数語で述べることが可能な、分かりやすいものである。あなたがたは、そうした言葉を既に知っているかも知れない。人間そして神に付き従う者に対して神が要求する正確な条件を、次に述べる。神に付き従う者に対し、神は真の信仰、忠実な追随、完全な服従、真の認識、そして心からの崇敬という5つの事柄を要求する。
この5つの事柄において、神は人間に対して、神を疑わないこと、想像や、曖昧で抽象的な観点により神に付き従わないこと、想像や概念により神に付き従わないことを求めている。神は、神に付き従う者全員に対し、忠実に付き従い、気持ち半分あるいは曖昧な姿勢で神に付き従わないことを要求している。神があなたに必要条件を提示する場合、あるいはあなたを試し、裁き、取り扱い、刈り込み、あるいは鍛錬し、打つ場合、あなたは神に対して完全に服従する必要がある。あなたは、その原因を尋ねたり、条件を付けたりしてはならず、ましてや根拠を述べたりしてはならない。あなたの服従は、完全なものでなければならない。人間に最も足りない領域は、神を知ることである。人間は、神とは無関係な諺、発話や言葉が神に関する認識に関する最も正確な定義であると考え、神に対して、そうしたものを強要することが往々にしてある。こうした人間の想像や人間の勝手な理由付け、人間の知性に由来する諺には、神の本質に全く無関係であるということについて、人間は殆ど知らない。したがって、神が求めている人間の認識において、神は、神とその言葉を認めることを求めているだけでなく、神に関する人間の認識が正確であることを求めている。それは、たとえ人間がひと言だけしか述べられない場合や、ほんの少ししか知らない場合であっても、その僅かな認識が正確であり、真実であり、神自身の本質と一致するものである、ということである。なぜなら、神は、人間の見当違いで無分別な讃美を嫌悪するからである。さらに、神は人間が神のことを空気のように扱うことを忌み嫌う。神に関する事柄を話す時、人間が軽率な発言をしたり、何の躊躇も無く思いのままに適当な発言をしたりするのを、神は忌み嫌う。また、神を知っていると思い込み、その認識をうそぶき、何ら気兼ねすることなくみだりに神に関する事柄を語る者を、神は忌み嫌う。最後となる5つめの必要条件は、心からの崇敬である。これは、神に付き従う者全員に対する最終的な必要条件である。ある者に、神に関する正確な真の認識がある場合、その者は真に神を敬い、悪を避けることができる。この崇敬は、その者の心の底から生まれるものであり、神がその者に強要したからではなく、自発的なものである。神は人間に対し、好感の持てる態度や行動などの表面的な贈り物を求めるのではなく、心の底から神を崇敬し、畏れることを求める。この崇敬は、人間のいのちの性質が変化することで実現される。なぜなら、その人間は神の認識を得ており、神の業を理解しており、神の本質を理解しており、自分が神の被造物であるという事実を認識しているからである。そうしたわけで、わたしが「心からの」という言葉を用いて崇敬を定義づける目的は、神に対する人間の崇敬は人間の心の底から生まれたものである必要があることを、人間が理解できるようにすることである。
それでは、この5つの必要条件について検討する。あなたがたのうちに、そのうち1番目から3番目までを達成できる者は居るであろうか。1番目から3番目とは、真の信仰、忠実な追随、完全な服従である。あなたがたのうちに、これらの事柄が出来る者は居るであろうか。5つすべてと言うと、あなたがたのうちには誰も居ないことは確実だが、3つに減らした。自分がその3つを実現しているかどうかを検討して欲しい。「真の信仰」は実現が容易であろうか。(容易ではない。) それは容易ではない。なぜなら、人間は神に対して頻繁に疑念を抱くからである。「忠実な追随」は実現が容易であろうか。(容易ではない。) ここで「忠実」とは何をさすであろうか。(半信半疑ではなく、一心に、ということである。)その通り。半信半疑ではなく、一心に、ということである。まさにその通りである。それでは、あなたがたはその必要条件を満たすことが出来るであろうか。あなたがたは、もっと努力する必要がある。目下あなたがたはこの条件を満たしていない。「完全な服従」についてはどうであろうか。あなたがたはこの条件に達しているであろうか。(未達である。)あなたがたはこの条件も満たしていない。あなたがたは何度も不従順で反抗することがあり、聞こうとしないこと、従おうとしないこと、聞きたいと思わないことが多々ある。これら3つの条件は、人間がいのちに入った後に達成する最も基本的な必要条件であるが、あなたがたはこれらの条件を満たしていない。それでは、現在あなたがたには高い潜在性があるだろうか。あなたがたは、本日わたしの言葉を聞いて不安を感じるであろうか。(感じる。)確かにあなたがたは不安を感じている。わたしはあなたがたが不安であると感じる。残り2つの条件は説明しない。なぜなら、それらを達成出来る者は居ないことが確実だからである。あなたがたは不安である。それでは、あなたがたは自分の目標を既に決めているであろうか。あなたがたが追求し、努力すべき目標と方向性は何であろうか。あなたがたには目標があるだろうか。(ある。)あなたがたの目標は何であろうか。答えて欲しい。(真理を追求し、神の言葉にある神の認識を追求し、最終的に神に対する崇敬と服従を達成することである。)分かりやすく言い換えると、あなたがたがこの5つの必要条件を全て満たした場合、あなたがたは神を満足させたのである。この5つは、いずれも人間が十分に成熟していのちに入ること、そしてこの最終目標を示す指標である。これらの必要条件から1つだけ選んで詳細を説明し、あなたがたに要求したとしても、それを達成するのは容易ではないであろう。人間はある程度の困難に耐え、ある程度の努力をする必要がある。それでは、あなたがたはどのような心構えであるべきであろうか。それは、手術を待つがん患者と同様の心構えである。わたしがこう述べるのは何故であろうか。あなたが神を信仰すること、神、そして神の満足を得ることを望むのであれば、ある程度の困難に耐え、ある程度の努力をすること無くして、それらを得ることは出来ない。あなたがたは多くの説教を聞いてきたが、それを聞くことは、その説教を身に付けたことを意味するものでは無い。あなたはその説教を吸収し、自分自身のものに変化させ、それを消化して自分のいのちとし、自分自身の存在とし、こうした説教の言葉を自分の人生の指針とし、自分の人生に存在価値と意義をもたらすものとしなければならず、そうした後に、この説教が聞くだけの価値があるものとなる。わたしの話により、あなたの人生に何も向上されたことが無く、あなたの存在にとって無価値であったとしたら、あなたにとって、わたしの話は聞く価値が無い。これについては理解したであろう。そのことを理解した上で、それ以外の事柄については自分次第である。あなたがたは努力する必要がある。あなたがたは、あらゆる事に真剣である必要がある。時が経つのは早いので、混乱を避ける必要がある。あなたがたのうち大部分の者が、10年以上にわたり信仰を続けている。10年以上の信仰を振り返って、あなたがたが得たものは、どの程度であろうか。しかるに、あなたがたの人生は、あと何十年残されているであろうか。それほど多くの時間は残されていない。神は、業においてあなたを待っている、あなたのために機会を残しておく、などと言ってはならない。神が戻って来て同じ業を繰り返すことは、絶対に無い。あなたは、現在から10年前へと戻ることが出来るだろうか。1日経過し、時間が進んでゆくごとに、あなたに残された時間は1日ずつ減ってゆくであろう。歳月人を待たず、である。神への信仰から利益を得ることができるのは、食糧や衣服などよりも、なによりも大切なものとして神の信仰に取り組んだ場合のみであろう。時間がある時だけ信仰し、自分の意識をすべて捧げることができず、常におざなりで混乱していたとしたら、あなたが得るものは無いであろう。これについては理解したであろう。本日の話はこれで終わりである。ごきげんよう。(神に感謝します。)
2014年2月15日
2.神の人間に対する要求
1) 神自身の身分と地位
これで、「神は万物の生命の源である」と、「神は唯一の神自身である」という主題は終了する。この主題の終わりにあたり、まとめを行う必要がある。このまとめは、何に関するものであろうか。神自身についてである。この主題は神自身に関するものであるので、まとめは神のあらゆる側面と、人間の神に対する信仰の形態に関連するものである必要がある。そこで、まずあなたがたに質問する。ここまでの話を聞いて、あなたがたの心の目に見える神は、誰であろうか。(創造主である。)心の目に見える神は創造主である。それ以外に回答はあるだろうか。神は万物の主である。万物を支配し、管理しているのは、神である。神は、存在するあらゆる物事を造り、管理し、また支配し、施す。これが神の地位であり、身分である。万物すなわち存在する全ての物事について、神の真の身分は創造主であり、支配者である。それが、神が所有する身分であり、神は万物にあって唯一の存在である。神の被造物のうちひとつとして、人間の世界にあるか、霊的世界にあるかを問わず、何らかの方法や申し開きにより、神の身分や地位を装ったり、神の代理となったりすることの出来るものはいない。なぜなら、万物を支配する身分と力、権威、そして能力を持つ者は、ただひとりしか存在せず、それが唯一の神自身であるからである。神は万物の中で生き、動いている。神は万物のうち最も高い場所へと昇ることができる。また神は、血と肉のある人間のひとりに身をやつし、人間と対面して苦楽を共にすることも可能である。それと同時に、神は万物に命じ、万物の運命や方向性を決定する。さらに、神は人類全体の運命と方向性を導く。このような神は、あらゆる生き物が崇め、付き従い、知るべき存在である。したがって、どの種類の人間に属するかを問わず、神を信じ、付き従い、敬うこと、またあなたの運命に対する神の支配と神の采配を受け容れることのみが、あらゆる人間や生き物にとって、必然の選択肢である。神の唯一性により、人間は神の権威、神の義なる性質、神の本質を理解し、そして神が万物に施す方法が全て独自のものであることを理解する。また神の唯一性により、神自身の真の身分と神の地位が決定される。そうしたわけで、あらゆる被造物のうち、霊的世界や人間の世界に存在する生き物が神の代わりとなろうとした場合、それは不可能であり、また神になりすますことも不可能である。これは事実である。神自身の身分、力そして地位を持つこのような創造主であり支配者が人間に要求することは何であろうか。このことは、今ここに居るあなたがた全員がはっきりと理解し、覚えておくべき事であり、神と人間の両方にとって極めて重要なことである。
2) 神に対する人間の様々な姿勢
人間の神に対する姿勢により、その人間の運命が決まり、その人間に対する神の姿勢と対処方法が決まる。ここで、人間の神に対する姿勢の例を数件挙げる。人間の神に対する様々な行儀と姿勢が正しいかどうかについて話をする。次に挙げる7種類の人間の行動について検討する。
A: 神に対する姿勢がことさらに不条理なタイプの人々が居る。こうした人間は、神が菩薩あるいは伝説に登場する聖なる存在のようなものであり、人間が神と会うときは三回礼をして、食事の後に香を焚かねばならないと考えている。したがって、こうした人間は、心中で神に感謝し、神の恵みに対する感謝の気持ちを頻繁に抱く場合、次のような衝動を感じる。こうした人々は、現在自分達が信じている神が、心の中で慕っている聖なる存在のように、神と会うときに3回礼をし、食後に香を焚くという神に対する自分達の行動を受け容れることが出来ることを願っている。
B: 神のことを生きている仏陀であり、あらゆる生き物の辛苦を解消して救うことが出来ると考えている人々が居る。こうした人々は、神を生きている仏陀であり、自分達を様々な困難から救うことが出来ると考えている。こうした人々の神に対する信仰は、神を仏陀として信仰することである。こうした人々は、香を焚くことは無く、叩頭せず、捧げ物もしないが、心の中では、自分達が信じる神は仏陀のような存在であり、自分達が親切であり、寛大であり、殺生を行わず、他人の悪口を言わず、誠実と思われる人生を送り、悪業を避けることができることだけを求める。これが、こうした人々の心の中の神である。
C: 神を偉人や有名人として崇拝する人々が居る。たとえば、こうした人々は、この偉人の話しかたの嗜好、すなわちこの偉人の発音や言い回し、語彙、語調、身振り、意見、行動、態度などを、全て模倣し、それがこうした人々の神に対する信仰の中で完全に実現させるべきこととなっている。
D: 神を君主と考えている人々が居る。こうした人々は神が誰よりも高位にあり、敢えて神に逆らおうとするものは居ないが、逆らった場合、自分達は刑を科されると感じている。こうした人々は、その君主を崇拝するが、それは自分達の心の一部にその君主が留まっているからである。君主の考え、作法、権威、性質、さらには関心事や個人生活までもが、すべて自分達が理解すべき事柄となり、考慮すべき問題となるので、こうした人々は神を君主として崇拝している。このような形態の信仰は滑稽である。
E: 神の存在について、高尚かつ確固とした特定の信仰がある人々がいる。こうした人々の神に関する認識は極めて表面的なものであり、神の言葉に関する経験が少ないため、こうした人々は神を偶像として崇拝する。こうした人々の心の中では、この偶像が神であり、自分達が畏れ、服従し、付き従い、模倣すべきものである。こうした人々は、神は偶像であり、生涯を通して付き従う必要のあるものと考えている。こうした人々は神の口調を模倣し、神が好む人々の外観を模倣する。こうした人々は、純粋無垢で正直と考えられる行為を頻繁に行い、決して離れることの出来ない仲間のように、この偶像に付き従う。これがこの種の人々の信仰形態である。
F: 神の言葉や説教を大量に聞いたにもかかわらず、神に対してこびへつらう、あるいは神を非現実的に讃美する必要がある、ということを原則とする姿勢の人々が居る。こうした人々は、神が自分達にこうした態度を要求していると考え、またそれを怠ると、神の怒りを買う可能性がある、それを怠ることが神に対する罪であり、罪の報いとして神が自分達を罰すると考えている。これが、こうした人々の心の中の神である。
G: 神が精神的な支えであると考えている人々が居るが、こうした人々は大部分を占めている。こうした人々は、この世で生活しているので、平和や幸福が欠如しており、慰めを見出すことが出来ない。こうした人々は、神の言葉を聞いて理解し、神を見出した後、心の中で密かな幸福を感じ、快活になる。それは何故であろうか。こうした人々は、幸福が与える場所、そして精神的な支えを与える神を、遂に見出したと考えている。それは、神を受け容れ、神に付き従い始めた後、幸福になり、生活が満たされ、あたかも動物のように人生を夢遊病の中で彷徨う信仰の無い者のような状態では無くなり、将来の人生に期待があると感じるからである。このように、そうした人々は神が自分の精神的な必要性を満たし、精神と魂の両方に大いなる幸福をもたらすことができると考えている。こうした人々は、無意識のうちに、この精神的な支えを与え、精神と家族全員に幸福をもたらす神から離れることが出来なくなる。こうした人々は、神への信仰から、精神的な支えをもたらすこと以外に何も求めることは無い。
こうした神に対する様々な姿勢があなたがたの中に存在するであろうか。(存在する。) こうした人々の信仰において、誰かの心にこうした姿勢のいずれかがある場合、こうした人々は真に神の前に来ることができるであろうか。心の中にこうした姿勢がある者は、神を信仰しているであろうか。こうした人々は唯一の神自身を信仰しているであろうか。唯一の神自身を信仰していないのであれば、あなたは何を信仰しているのであろうか。あなたが信仰しているのが唯一の神自身ではないとすれば、あなたは偶像、偉人、あるいは菩薩を信仰しており、心の中で仏陀を崇拝している可能性がある。さらに、あなたは普通の人間を信仰している可能性もある。要するに、人々の様々な信仰形態と神に対する態度が原因となって、人々は心の中で自分自身が認識する神を心に据え、神に自分の想像を強要し、自分の神に対する姿勢と想像を、唯一の神自身と同じ位置づけとして信奉している。神に対してこうした不適切な姿勢をとるということは、何を意味するであろうか。それは、真の神自身を否定し、偽の神を信仰していること、そして神を信じると同時に神を否定し、神に反抗していること、さらに真の神の存在を否定していることを意味する。もし人々がこうした信仰を続けたとしたら、こうした人々にはどのような結末が待ち受けているであろうか。こうした人々は、このような形態の信仰によって神の要求を少しでも満たすことが出来るだろうか。それとは反対に、そうした人々は概念や想像が原因となって、神の道から遠ざかってゆくだけであろう。なぜなら、そうした人々の方向性は神が求める方向性とは正反対のものだからである。あなたがたは「南轅北轍」の故事を聞いたことがあるだろうか。こうした人々は、まさに志と行動が相反する「南轅北轍」であると言える。こうした滑稽な方法で神を信仰した場合、信仰をすればするほど神から遠ざかってゆくであろう。そこで、あなたがたに忠告する。信仰を開始する前に、あなたの方向性が正しいかどうかを判断する必要がある。狙いを定めて努力し、必ず「自分が信仰している神は、万物の支配者であろうか。私が信仰している神は、単に精神的な支えを与えるのみの存在ではないだろうか。私が信仰している神は偶像ではないだろうか。私が信仰している神は、私に何を求めているだろうか。神は、私の行動すべてを認めているだろうか。私の行動と追求は、全て神を知ることを追求するものであろうか。私の行動は、神の私に対する要求に則しているだろうか。私が進んでいる道は、神により認識され認められているものだろうか。神は私の信仰に満足しているだろうか。」と自分自身に問い質すように。あなたは、常に、そして何度も、自分自身に対してこうした質問を問い質す必要がある。神に関する認識を追求することを望むのであれば、神に満足してもらうため、明確な意識と目標を持つ必要がある。
神が寛容であるため、先に述べたようなこれらの不適切な姿勢を神がしぶしぶ受け容れることは、あり得るであろうか。神がこのような人々の姿勢を称賛することがあり得るだろうか。人間そして神に付き従う人々に対する神の要求は何であろうか。神が人間に対して求める姿勢について、あなたがたは明瞭に理解しているであろうか。本日は、神自身や神の業、神が持っているものや神が何であるか、多くの事柄を話した。これで、あなたがたは神が人間から何を得る事を望んでいるかを認識したであろうか。神があなたに対して求めている事柄を知っているであろうか。意見を述べて欲しい。あなたがたの経験や実践から得た認識が無い場合や表面的である場合は、それらの言葉に関するあなたがたの認識を述べてもよい。あなたがたは、その概要を認識しているであろうか。神は人間に何を要求しているであろうか。(忠誠と服従を要求されている。)忠誠と服従以外に、何を要求しているであろうか。その他の兄弟姉妹の意見も聞こう。(これまで数回の話のなかで、神は、神、神の業、神が万物の生命の源であることを要求し、神の身分と地位、そして神の創造物としての人間の本分を人間が知ることを要求されている点を説明された。神は人間が全ての努力を何に捧げるべきか、神が人間に要求されている物事、神が好まれる人間、神が嫌悪される人間について明確にされた。)神が人間に対し、神を知る事を望んでいる場合、それは最終的にどのような結果となるであろうか。(人間は、神が創造主であり、人間は造られたものであることを知る。)人間がそうした認識を得た時、人間の神に対する態度、行動、実践方法、いのちの性質は、どのように変化するであろうか。あなたがたは、このようなことを考えたことがあるだろうか。人間は、神を知り、理解した後に善良な人間になる、と言えるであろうか。(神の信仰は善良な人間となることを追求するものではない。)それでは、こうした人々は、どのような人間であるべきであろうか。(こうした人々は、条件を満たした、神の被造物であるべきである。)(こうした人々は誠実で無ければならない。)それ以外に回答はあるだろうか。(神の采配に服従し、神を真に信仰し、愛することが出来る人間になるべきである。)(良心と分別を持ち、真に神に従うことが出来る必要がある。)その他の回答はあるだろうか。(真に正しく神を知ると、人間は神を神として振る舞うことができるようになり、その後永遠に神が神であること、人間が被造物であり、人間は神を崇拝すべきであることを知り、その身分を堅持するようになる。)素晴らしい。その他の者の意見を聞こう。(神との交わりにより、人間は万物を支配する神の権威を知り、神が万物の支配者であられることを確認することが可能となり、それによって日々神が人間のために用意された環境に従い、神が人間に与えられた使命に真に従うことが可能となる。)(人間は神を知っており、したがって最終的には真に神に従い、敬い、邪悪を避ける人間となることができる。)それは正しい。
朗読 神の言葉 「唯一の神自身 5神の聖さ(2)」 その1
つまり、人は堕落した性質の只中で生きており、邪悪と汚れの世界で生活しているからです。人が見るものすべて、触れるものすべて、経験するものすべてがサタンの邪悪であり、サタンの堕落であり、またサタンの影響下で人々のあいだで起こる陰謀、内紛、戦争です。ですから、神が人において働きを行なうときでさえ、神が人に語りかけ神の性質と本質を明らかにするときでさえ、人は何が神の聖さと本質であるかを見ることも知ることもできないのです。人はよく神は聖であると言いますが、真の理解はしていないのです。ただ、空っぽの言葉を述べているだけです。人は汚れと堕落にまみれて、サタンの領域で生きているため、光を見ることはなく、前向きな物事を何も知らず、さらに真理を知らないのです。ですから、何が聖なるものなのか誰も本当には知りません。
『言葉は肉において現れる』より
朗読 神の言葉 「唯一の神自身5神の聖さ(2) 」 その2
神が物事に関して人と同様の見解を抱くのを皆さんが見ることはありませんし、さらに、神が人間の視点や知識、科学、哲学、想像を用いて物事を処理するのを皆さんが見ることもありません。その代わりに、神が行なうすべてのことと、神が明らかにするすべてのことは真理につながっています。つまり、神が発したすべての言葉と、神が行なったすべての行為は真理に関係しているのです。この真理とそれらの言葉は、根拠のない空想ではなく、それどころか神の本質と神のいのちゆえに神により表されます。これらの言葉と神が行なったすべてのことの本質は真理なので、神の本質は聖なるものであると言うことができます。言い換えると、神の言動のすべては人に活力と光をもたらします。それにより、人は前向きな物事と、その前向きな物事の現実性を見ることができ、正しい道を歩くことができます。これらの物事は神の本質ゆえに決定され、これらは神の聖なる本質ゆえに決定されます。
『言葉は肉において現れる』より
朗読 神の言葉 「唯一の神自身6神の聖さ(3) 」 その2
名声と利得に対する貪欲な追求に加え、人間は科学的探求や徹底した研究を継続しており、自らの物質的欲求や肉の欲を絶え間なく満たしていますが、人間の結末はどのようなものになるのでしょうか。第一に、生態系の均衡が失われ、それに伴い人間の身体はそうした環境により汚染され、害を受けるとともに、様々な感染症や伝染病は随所に蔓延しています。これは、もはや人間には制御できない状況です。そうではありませんか(そうです。)それを理解した上で、人間が神に付き従わず、こうして常にサタンに付き従い、知識により継続的に自らを豊かにし、科学により絶え間なく人間の生活の将来を探求し、このような方法によっていき続けたなら、人類の自然な結末がどうなるかを認識することができますか。自然な結末は、どうなるでしょうか。(破滅です。)そう、破滅です。一歩ずつ破滅へと向かっているのです。一度に一歩ずつ破滅へと向かっているのです。
『言葉は肉において現れる』より