3) 神が人間に対して要求する、人間の神に対して取るべき姿勢
実際、神が人間に対して求めていることは、それほど多くは無く、少なくとも、神は人間が想像するよりも多くの物事を要求しては居ない。神の言葉すなわち神の性質、業、言葉の表出が全く無かったとしたら、人間が神を知る事は極めて困難となるであろう。なぜなら、人間は神の真意や心を推測しなければならず、それは人間にとって困難だからである。しかし、神の業の最終段階に関して、神は数多くの言葉を語り、多くの業を行い、人間に対する要求を多数行っている。神の言葉と数多くの業において、神は、神が好む事柄、嫌悪する事柄、人間がどうあるべきかを人間に対して知らせている。こうした物事を理解した後、人間は心の中で、神の求める事柄に関する正確な定義を知ることが出来るはずである。なぜなら、人間は曖昧さや抽象性の中では神を信じず、曖昧な神を信じず、曖昧さや、抽象性、虚無のなかで神に付き従わないからである。むしろ、人間は神の言葉を聞き、神の要求する基準を理解し、それを達成し、神は人間の言葉を用いて人間が知り、理解すべきことを人間に伝える。現在において、人間に対する神の要求や、神が何であるか、何故人間が神を信仰するのか、人間が神をどのように信じ、神に対してどのような姿勢を取るべきかを人間が認識していない場合、それは問題となるであろう。たった今、あなたがたは皆、ひとつの領域に関して述べた。具体的であるか、一般的であるかを問わず、あなたがたはある程度何かを認識している。だがわたしは神の人間に対する、正確で、完全で、具体的な必要条件について話をしたい。それは、数語で述べることが可能な、分かりやすいものである。あなたがたは、そうした言葉を既に知っているかも知れない。人間そして神に付き従う者に対して神が要求する正確な条件を、次に述べる。神に付き従う者に対し、神は真の信仰、忠実な追随、完全な服従、真の認識、そして心からの崇敬という5つの事柄を要求する。
この5つの事柄において、神は人間に対して、神を疑わないこと、想像や、曖昧で抽象的な観点により神に付き従わないこと、想像や概念により神に付き従わないことを求めている。神は、神に付き従う者全員に対し、忠実に付き従い、気持ち半分あるいは曖昧な姿勢で神に付き従わないことを要求している。神があなたに必要条件を提示する場合、あるいはあなたを試し、裁き、取り扱い、刈り込み、あるいは鍛錬し、打つ場合、あなたは神に対して完全に服従する必要がある。あなたは、その原因を尋ねたり、条件を付けたりしてはならず、ましてや根拠を述べたりしてはならない。あなたの服従は、完全なものでなければならない。人間に最も足りない領域は、神を知ることである。人間は、神とは無関係な諺、発話や言葉が神に関する認識に関する最も正確な定義であると考え、神に対して、そうしたものを強要することが往々にしてある。こうした人間の想像や人間の勝手な理由付け、人間の知性に由来する諺には、神の本質に全く無関係であるということについて、人間は殆ど知らない。したがって、神が求めている人間の認識において、神は、神とその言葉を認めることを求めているだけでなく、神に関する人間の認識が正確であることを求めている。それは、たとえ人間がひと言だけしか述べられない場合や、ほんの少ししか知らない場合であっても、その僅かな認識が正確であり、真実であり、神自身の本質と一致するものである、ということである。なぜなら、神は、人間の見当違いで無分別な讃美を嫌悪するからである。さらに、神は人間が神のことを空気のように扱うことを忌み嫌う。神に関する事柄を話す時、人間が軽率な発言をしたり、何の躊躇も無く思いのままに適当な発言をしたりするのを、神は忌み嫌う。また、神を知っていると思い込み、その認識をうそぶき、何ら気兼ねすることなくみだりに神に関する事柄を語る者を、神は忌み嫌う。最後となる5つめの必要条件は、心からの崇敬である。これは、神に付き従う者全員に対する最終的な必要条件である。ある者に、神に関する正確な真の認識がある場合、その者は真に神を敬い、悪を避けることができる。この崇敬は、その者の心の底から生まれるものであり、神がその者に強要したからではなく、自発的なものである。神は人間に対し、好感の持てる態度や行動などの表面的な贈り物を求めるのではなく、心の底から神を崇敬し、畏れることを求める。この崇敬は、人間のいのちの性質が変化することで実現される。なぜなら、その人間は神の認識を得ており、神の業を理解しており、神の本質を理解しており、自分が神の被造物であるという事実を認識しているからである。そうしたわけで、わたしが「心からの」という言葉を用いて崇敬を定義づける目的は、神に対する人間の崇敬は人間の心の底から生まれたものである必要があることを、人間が理解できるようにすることである。
それでは、この5つの必要条件について検討する。あなたがたのうちに、そのうち1番目から3番目までを達成できる者は居るであろうか。1番目から3番目とは、真の信仰、忠実な追随、完全な服従である。あなたがたのうちに、これらの事柄が出来る者は居るであろうか。5つすべてと言うと、あなたがたのうちには誰も居ないことは確実だが、3つに減らした。自分がその3つを実現しているかどうかを検討して欲しい。「真の信仰」は実現が容易であろうか。(容易ではない。) それは容易ではない。なぜなら、人間は神に対して頻繁に疑念を抱くからである。「忠実な追随」は実現が容易であろうか。(容易ではない。) ここで「忠実」とは何をさすであろうか。(半信半疑ではなく、一心に、ということである。)その通り。半信半疑ではなく、一心に、ということである。まさにその通りである。それでは、あなたがたはその必要条件を満たすことが出来るであろうか。あなたがたは、もっと努力する必要がある。目下あなたがたはこの条件を満たしていない。「完全な服従」についてはどうであろうか。あなたがたはこの条件に達しているであろうか。(未達である。)あなたがたはこの条件も満たしていない。あなたがたは何度も不従順で反抗することがあり、聞こうとしないこと、従おうとしないこと、聞きたいと思わないことが多々ある。これら3つの条件は、人間がいのちに入った後に達成する最も基本的な必要条件であるが、あなたがたはこれらの条件を満たしていない。それでは、現在あなたがたには高い潜在性があるだろうか。あなたがたは、本日わたしの言葉を聞いて不安を感じるであろうか。(感じる。)確かにあなたがたは不安を感じている。わたしはあなたがたが不安であると感じる。残り2つの条件は説明しない。なぜなら、それらを達成出来る者は居ないことが確実だからである。あなたがたは不安である。それでは、あなたがたは自分の目標を既に決めているであろうか。あなたがたが追求し、努力すべき目標と方向性は何であろうか。あなたがたには目標があるだろうか。(ある。)あなたがたの目標は何であろうか。答えて欲しい。(真理を追求し、神の言葉にある神の認識を追求し、最終的に神に対する崇敬と服従を達成することである。)分かりやすく言い換えると、あなたがたがこの5つの必要条件を全て満たした場合、あなたがたは神を満足させたのである。この5つは、いずれも人間が十分に成熟していのちに入ること、そしてこの最終目標を示す指標である。これらの必要条件から1つだけ選んで詳細を説明し、あなたがたに要求したとしても、それを達成するのは容易ではないであろう。人間はある程度の困難に耐え、ある程度の努力をする必要がある。それでは、あなたがたはどのような心構えであるべきであろうか。それは、手術を待つがん患者と同様の心構えである。わたしがこう述べるのは何故であろうか。あなたが神を信仰すること、神、そして神の満足を得ることを望むのであれば、ある程度の困難に耐え、ある程度の努力をすること無くして、それらを得ることは出来ない。あなたがたは多くの説教を聞いてきたが、それを聞くことは、その説教を身に付けたことを意味するものでは無い。あなたはその説教を吸収し、自分自身のものに変化させ、それを消化して自分のいのちとし、自分自身の存在とし、こうした説教の言葉を自分の人生の指針とし、自分の人生に存在価値と意義をもたらすものとしなければならず、そうした後に、この説教が聞くだけの価値があるものとなる。わたしの話により、あなたの人生に何も向上されたことが無く、あなたの存在にとって無価値であったとしたら、あなたにとって、わたしの話は聞く価値が無い。これについては理解したであろう。そのことを理解した上で、それ以外の事柄については自分次第である。あなたがたは努力する必要がある。あなたがたは、あらゆる事に真剣である必要がある。時が経つのは早いので、混乱を避ける必要がある。あなたがたのうち大部分の者が、10年以上にわたり信仰を続けている。10年以上の信仰を振り返って、あなたがたが得たものは、どの程度であろうか。しかるに、あなたがたの人生は、あと何十年残されているであろうか。それほど多くの時間は残されていない。神は、業においてあなたを待っている、あなたのために機会を残しておく、などと言ってはならない。神が戻って来て同じ業を繰り返すことは、絶対に無い。あなたは、現在から10年前へと戻ることが出来るだろうか。1日経過し、時間が進んでゆくごとに、あなたに残された時間は1日ずつ減ってゆくであろう。歳月人を待たず、である。神への信仰から利益を得ることができるのは、食糧や衣服などよりも、なによりも大切なものとして神の信仰に取り組んだ場合のみであろう。時間がある時だけ信仰し、自分の意識をすべて捧げることができず、常におざなりで混乱していたとしたら、あなたが得るものは無いであろう。これについては理解したであろう。本日の話はこれで終わりである。ごきげんよう。(神に感謝します。)
2014年2月15日
