4.サタンの誘惑
(マタイ4:1~4)さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
これらの聖句は、悪魔が最初に主イエスを試そうとした時のものである。悪魔の発言内容はどのようなものであろうか。読み上げて欲しい。(「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。)悪魔の述べたことは至って簡潔であるが、この発言内容の趣旨には問題があるだろうか。(ある。)その問題は何であろうか。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と述べているが、悪魔は、主イエスが神の子であることを心の中で知っていたであろうか。悪魔は、彼がキリストであることを知っていたであろうか。(知っていた。)それではなぜ「もし」と述べたのであろうか。(悪魔は神を試そうとしたからである。)無論、悪魔は神を試そうとしていたが、その目的は何であっただろうか。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と述べている。悪魔は、心の中でイエス・キリストが神の子であることを知っており、それは極めて明瞭であったが、悪魔は主イエスに服従し、主イエスを礼拝したであろうか。(しなかった。)悪魔は何をしたかったのであろうか。悪魔はそのように述べて主イエスを怒らせ、罠にかけようと誘惑し、主イエスを騙し、自分の思うつぼにはめて行動させたいと考えていた。これがその言葉の意味ではなかっただろうか。悪魔は、心の中で、それが主イエス・キリストであることを明らかに知っていたにもかかわらず、そう述べたのであった。これはサタンの本性ではなかろうか。サタンの本性は、どのようなものであろうか。(悪賢く邪悪で神を全く敬わない。)サタンは、神を全く敬わない。この場面におけるサタンの邪悪な行動は、何であろうか。サタンは神を攻撃したかったのではなかろうか。サタンはそうした手段により神を攻撃したいと考えており、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」と述べたが、これはサタンの邪悪な意図ではなかろうか。(その通りである。)実のところ、サタンは何をしようとしていたのであろうか。サタンの目的は極めて明瞭である。サタンはそうした手段により、主イエス・キリストの地位と身分を否定しようとしていた。悪魔は「神の子なら、これらの石をパンにしてみよ。それが出来ないならば、おまえは神の子ではない。神の子でないならこの働きをする必要はない。」と述べている。これがその言葉の意味であっただろうか。サタンはこの方法で神を攻撃し、神の業を崩し、破壊することを望んでいた。それはサタンの悪意であり、狡猾さである。サタンの悪意は、サタンの本性が自然に表出されたものである。サタンは主イエス・キリストが神の子であり、受肉した神自身であることを知っていたにもかかわらず、こうした行動を取らずにはいられず、神をつけ回し、攻撃を続け、甚大な労力を払って神の業を妨害し、破壊して神と敵対した。
ここで、サタンが述べた「これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」という言葉を分析する。石をパンにすることには、何か意味があるだろうか。それには意味が無い。食べ物があるならば、それを食べればよい。なぜ石を食べ物に変える必要があるのだろうか。これに何か意味があるだろうか。(無い。)この時、主イエスは断食していたが、間違いなく彼は食べ物を持っていたであろう。主イエスは食べ物を持っていたであろうか。(持っておられた。)それならば、ここでサタンがそう述べたのは、不合理であることが分かる。このようなサタンの不忠と悪意から、サタンがどれだけ矛盾していて不条理であるかが確認できるであろう。サタンは多くの業を行う。サタンの性質が悪意に満ちていること、そしてサタンが神の業を破壊することが分かる。サタンは憎むべきものであり、腹立たしいものである。しかしその一方、あなたはサタンの言葉と行動の根底にある稚拙で不合理な本性に気付くであろうか。(気付く。)これはサタンの本性の明示である。サタンの本性はそうしたものであり、サタンはそのような行動を取る。人間にとって、この言葉はばかげており、滑稽である。しかし、サタンはまさにそうした言葉を述べることがある。サタンは無知であると言えるであろうか。ばかげているだろうか。サタンの邪悪さは随所に見られ、継続的に明示されている。そして主イエスは、サタンに何と答えられているだろうか。(「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。)この言葉には、何かしらの力があるだろうか。(ある。)神の言葉に力があるというのは、何故だろうか。(それらは真理だからである。)その通りである。その神の言葉は真理である。それでは、人間はパンだけで生きるだろうか。主イエスは40日40夜断食した。主は飢え死にしたであろうか。(しなかった。)主は飢え死にしなかった。それ故、サタンが主に来て、主に対してそのような事を述べ、石を食べ物に変えるよう駆り立てた。「石を食べ物に換えれば、食べ物が得られるのではないか。そうすれば断食を止めて空腹になるのを防げるのではないか。」しかし、主イエスは「人はパンだけで生きるものではなく」、すなわち、人間は物理的な肉にあって生きるが、人間にいのちを与え、肉にある身体に息吹を与えるのは、食べ物ではなく、神が述べた言葉である、と答えた。一方で、人間はこの言葉を真理であるとみなす。この言葉は、人間に信仰を与え、神を頼れること、神が真理であることを実感させる。もう一方で、この言葉の実践的側面はあるだろうか。(ある。)それは何故だろうか。なぜなら、主イエスは40日40夜断食してなお、そこに立ち、生きていたからである。これは幻影であろうか。ここでの要点は、主は40日40夜、何も食べなかった。主はそれでも生きていた。これは、主の言葉の根底にある強力な根拠である。この言葉は簡潔であるが、主イエスに関する限り、主の言葉は、誰かから教えられたもの、あるいは単にサタンに言われた言葉が原因で主が考えられた言葉であっただろうか。それを考えて欲しい。神は真理である。神はいのちである。神の真理といのちは、後で追加されたものだろうか。それは経験から生まれたものであろうか。(そうではない。)それは神の本質的なものであり、真理といのちは神の本質の中に存在するものである。神に何があろうと、神が明示するのは、真理である。その内容の長短に関係なく、この真理、この言葉が、人間を生かし、いのちを与え、人間がその中に真理を見出し、人生の旅路の明瞭さを見出し、神を信仰することを可能とするのである。これが、神によるこの言葉の使用の源である。この源は良いものであるが、この良いものは聖なるものであろうか。(聖なるものである。)サタンの言葉は、サタンの本性に由来する。サタンはその邪悪な悪意に満ちた本性を、随所で継続的に明示する。それでは、サタンはこうした明示を自然に行うであろうか。(自然に行う。)誰かがそれを扇動するであろうか。誰かがそれを支援するであろうか。誰かがそれを強要するであろうか。(しない。)それは全てサタン自らが行うものである。これがサタンの邪悪な本性である。サタンは、神の業のすべてについて、その実施方法を問わず、ぴったりと神をつけ回している。サタンの言葉や行動の本質や真の特徴は、サタンの本質すなわち邪悪で悪意に満ちた本質である。それでは、その後サタンは何を述べたであろうか。続きを読もう。
(マタイ4:5~6)それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
まず、サタンの言葉について話をしよう。サタンは「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。」と言い、次に聖句を引用して「神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう」と述べた。このサタンの言葉を聞いて、あなたはどのように感じるだろうか。この言葉は極めて幼稚ではなかろうか。この言葉は幼稚で、非常識で、忌まわしい。わたしがこう述べるのは何故であろうか。サタンは常に愚かなものごとを行い、自らを極めて賢いと考え、聖句を頻繁に引用し、さらには神の言葉までをも引用して、神を攻撃し、試そうとする。サタンのこうした行為の目的は、神の業の計画を破壊することである。しかし、あなたはサタンの言葉について何か気付くことはあるだろうか。(サタンの言葉には悪巧みがある。)サタンは常に誘惑する者であり、率直な発言をせず、試すこと、惑わすこと、誘惑することなどにより遠回しな口調で話す。サタンは神と人間の両方を等しく試す。サタンは、神と人間の両方ともが無知で、愚かで、物事をありのままで明確に見分けることが出来ないと考える。サタンは神も人間も、サタンの本質を見抜くことができず、サタンの狡猾さと邪悪な意図を見抜くことができないと考えている。これがサタンの愚かさの原因ではなかろうか。(その通りである。)さらに、サタンは公然と聖句を引用するが、サタンは聖句を引用することで、自らの信憑性が得られ、あなたが誤りを指摘したり、騙されるのを回避したりできなくなると考えている。サタンが不合理であり、稚拙な点は、こうした部分ではなかろうか。(その通りである。)これは、誰かが福音を伝え、神の証をした時に、信者以外の物がこうしたサタンの発言に類似したことを言うのと同様ではなかろうか。人々がこれと同様の発言をするのを聞いたことがあるだろうか。(ある。)こうした発言を聞いたとき、あなたは嫌悪を感じないだろうか。(感じる。)嫌悪感を覚えたとき、あなたは不快感や反感も覚えないであろうか。(覚える。)あなたがそのような感情を抱く時、あなたはサタンと、サタンが人間に付け入ろうとする腐敗した性質が邪悪であると認識できるであろうか。あなたは、心の中で「神はそのような話し方をされることは決して無い。サタンの言葉は攻撃し、誘惑するものであり、不合理であり、滑稽であり、稚拙であり、不快なものである。しかし、神の言葉や業において、神がこうした方法を採られることは決して無く、今までそのようなことは一度もなかった。」と気付いたことはあるだろうか。無論、こうした状況において人間は僅かに感じるのみであり、神の聖さに気付くことはない。人間は神の言葉が真理であると認めることしかできないが、真理そのものが聖さであることを知らない。あなたがたの現在の背丈では、単に「神の言葉は、全て真理であり、人間にとって有益であるから、受け容れるべきである」と感じるのみである。それを受け容れられるかどうかを問わず、あなたがたは、神の言葉は真理である、神は真理であると例外なく述べるが、真理自体が聖さであり、神が聖なる存在であることを知らない。そうしたわけで、イエスはサタンの言葉に、どう答えたであろうか。
(マタイ4:7)イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
このイエスの言葉には真理があるであろうか。(ある。)この言葉には真理がある。この言葉は、表面的には、人間が従うべき命令であり、極めて簡明なもののように思われるが、この言葉は人間とサタンの両方が頻繁に破ってきた命令である。そこで、主イエスはサタンに対して「主なるあなたの神を試みてはならない」と言った。なぜなら、それはサタンが最大限の努力をもって頻繁に行うことであり、サタンは全く恥じることなくそれを行っているとも言えるからである。心の中で神を畏れず、敬わないことは、サタンの根本的な性質である。したがって、サタンが神の近くで神を見ることが出来た時、サタンは神を試さずにはいられなかった。それゆえに、主イエスはサタンに「主なるあなたの神を試みてはならない」と言った。これは、神が度々サタンに言った言葉である。現在においても、この言葉を用いるのは適切ではなかろうか。(適切である。)それは何故か。(人間も頻繁に神を試そうとするからである。)人間は頻繁に神を試そうとするが、それは何故であろうか。それは、人間がサタンの堕落した性質で満ちているからであろうか。(その通りである。)それでは、前述したサタンの言葉は、人間がしばしば言うことであろうか。(その通りである。)どのような状況で言うであろうか。人間は、時や場所を問わず、こうした言葉を述べ、自然に明示してきた、と言えるであろう。このことにより、人間の性質が、まさにサタンの腐敗した性質と同じであることが証明される。主イエスは、簡明で、真理を示す、人間に必要な言葉を述べた。しかし、この場合に主イエスはサタンと言い争っているだろうか。主のサタンに対する言葉には、何かしら対抗的な部分があるだろうか。(無い。)主は、その心において、サタンの誘惑をどのように考えただろうか。主は嫌悪し、反感を覚えただろうか。(その通りである。)主イエスは反感と嫌悪を覚えたが、サタンと争うことはなく、ましてや遠大な原則について何ら述べることは無かった。そうではないか。(その通りである。)それは何故であろうか。(主イエスはサタンを認めることを望まなかったからである。)主がサタンを認めることを望まなかったのは、何故であろうか。(サタンは常にそのような存在であり、それは変わり得ないからである。)サタンは不条理であると言えるであろうか。(そう言える。)サタンは神が真理であると認識できるのだろうか。サタンは決して神が真理であると認識したり認めたりすることはない。それがサタンの本性である。さらに、サタンには、そのほかにも人間が反感を抱く本性があるが、それは何であろうか。主イエスを試そうとした時、サタンは心の中で何を信じていたであろうか。サタンは、神を試し、たとえそれに失敗するとしても、神を試した。サタンは、たとえ罰を受けるとしても、神を試した。神を試しても何ら良い結果が得られないにもかかわらず、サタンは神を試し、しつこく最後まで神に対抗した。こうした本性は、どのようなものであろうか。それは邪悪ではないだろうか。(その通りである。)神について述べられる時に激怒する者は、神を見たことがあるであろうか。神について述べられる時に怒る者は、神を知っているであろうか。その者は神を知らず、神を信仰せず、神はその者に語ったことが無い。神はその者の邪魔をしたことがないのに、何故その者は怒っているのであろうか。その者は邪悪であると言えるであろうか。(言える。)この者は、本性が邪悪な者であろうか。娯楽、食事、有名人、美しい人々など、世の中で何が流行しているとしても、その者はそうした流行に煩わされることは無いが、「神」という言葉がひとたび述べられると、途端にその者は立腹する。これは邪悪な本性の例ではなかろうか。こうしたことにより、人間の邪悪な本性が十分に証明される。それでは、あなたがたについて尋ねるが、真理が述べられた時、神の人間に対する試練が行われた時、あるいは神の審判の言葉が人間に対して述べられた時、あなたがたが不快感や拒絶感を覚え、それを聞きたくないと思ったことがあるであろうか。あなたがたの心は、その真理とはどのようなものだろうか、人々は皆、神が真理であると言ったではないか、それは真理では無く、神の人間に対する忠告の言葉に過ぎないことは明らかだ、などと考えるであろう。さらには、嫌悪感を覚えて、これは日常的に起こることだ、神の試練も神の裁き同様、日常的に述べられている、何時それらが終わる時が来るのか、何時になったら良い終着点を得ることが出来るのだろう、などと思う者もいる。こうした不合理な怒りの原因は不明である。こうした本性は、どのようなものであろうか。(邪悪な本性である。)その本性はサタンの邪悪な本性により助長される。サタンの邪悪な本性と人間の腐敗した性質について、神が人間に異議を唱えたり言い争ったりすることは一切無く、人間が無知な行いをしても、騒ぎ立てることは一切無い。あなたがたは、神が人間と同様の見方をしたり、神が人間の見方、知識、科学、哲学、想像により物事に対処したりするのを見受けることは無いであろう。神の業や神が明示する物事は、すべてそうした人間の物事ではなく、真理と関連している。つまり、神が述べた言葉や行った業は、すべて真理に関連する。この真理は事実無根の幻想ではなく、この真理と言葉は、神の本質といのちにより表出される。こうした言葉や神が行った業の本質は、真理であり、したがって神の本質は聖なるものであると言える。換言すると、神の言葉や業は、すべて人間に生命力と光をもたらし、人間が良いものとそうした良い物の現実性を理解することを可能とし、人類が正しい道を進むように、人類を光の道へと導く。こうした事柄は、神の本質と神の聖なる本質により判断される。あなたがたはそのことを理解したであろう。引き続き聖句を読む。

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