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2017年12月20日水曜日

【東方閃電】全能神の発表「二十番目の言葉」



わたしの家の富は数知れず、計り知れない。しかし、人間は誰も、それを享受しに来たことがない。人間は自分でそれらを楽しむことができないし、また、自分の力で自らを守ることもできない。その代わりに、いつでも他者を頼みとしてきた。わたしの見てきた者たちの中で、自分の意思で直接わたしを求めてきた者は一人もいない。彼らはみな、他人に促され、大多数にしたがってわたしの前に来る。そして、自分の生活を豊かにするために、代価をはらったり、時間をかけたりすることを好まない。それゆえ、人間の中で、これまで誰一人実際の中で生きたものはおらず、みな無意味な人生を生きている。人間の長年の間に培われた習慣のため、すべての人の体は、地の土のにおいに満ちている。その結果、人間は無神経になった。世界の荒廃するのに気付かず、冷たい世の中で自らの楽しみを求めることに忙しい。人間の生活には、少しのぬくもりもなく、人間らしさや光がまったくない──それなのに、人間はそれに慣れていて、価値のない人生を送り、何事も成し遂げず、走り回っている。瞬く間に死が迫り、人間は悲痛な死を迎える。人間はこの世で何事も成し遂げず、何も得ない──ただあわただしくやって来て、大急ぎで去ってゆく。その誰一人、わたしの目には何ももたらさず、何も持ち去らなかった。そこで、人間は、この世が不公平だと感じる。しかし、誰も急いで去ろうとは思っていない。わたしの天からの約束が突然人間の中に実現する日を待っているだけだ。そうなれば、たとえ道を踏み外しても、その時には、もう一度永遠の命への道が開かれるというのだ。そうして、わたしがほんとうに約束を守るかどうか、わたしのすることなすことすべてをじっと見ている。患難の中にいるとき、あるいは、はなはだしい苦痛の中にいるとき、試練にさらされ、倒れそうなとき、人間は生まれた日を呪い、少しでも早く苦境から抜け出し、別の理想的な場所に移りたいと考える。しかし、その試練が過ぎ去ると、人間は喜びに満たされる。地上に生まれた日を祝い、自分の誕生日を祝福するよう、わたしに願う。その時点では、もはや以前の誓いには触れず、再び死が訪れるのではないかと、深く恐れる。わたしの手が世界を引き上げると、人々は喜びに舞い踊る。もはや悲しまず、わたしを頼みとする。わたしが顔を手で覆い、人々を地中に押し込むと、人々はただちに息苦しくなり、かろうじて生きているという状態になる。人々はわたしが彼らを滅ぼすことを恐れ、わたしに向かって声を上げる。人間はわたしが栄光を得る日を目の当たりにしたいと願っているからである。人間はわたしの日を自身の存在の資本だと考え、わたしの栄光が訪れる日の到来を待つために今日まで存続しているのだ。わたしの口から出た祝福は、終わりの日に生まれた者は幸いで、わたしの栄光すべて見ることができると告げている。
長い間に、大勢が失望して、しぶしぶこの世を去った。そして大勢が希望と信じる心を持ってこの世に来た。わたしは大勢が来るようにし、大勢を去らせた。無数の人々がわたしの手を通り過ぎた。多くの霊がよみに投げ込まれ、多くが肉の体で生き、多くが死んでは、この世に生まれ変わった。しかし、けっして誰も今日の神の国の祝福を受ける機会は得なかった。わたしは人間に実に多くを与えた。しかし、人間はほんのわずかしか得ていない。サタンの勢力が襲ってきて、人間がわたしの富を享受できないようにしたためだ。人間は、目にする幸いは得たが、けっして完全に享受することはできなかった。人間は、天からの富を受け入れる宝庫をその体の中に発見することがなかった。そのため、わたしが与えた祝福を失ったのだ。人間の霊こそは、人間をわたしの霊に繋ぐためのものそのものではないか。なぜ人間は、けっしてその霊においてわたしにつながることがないのか。なぜ人間は肉においてわたしに近づきながら、霊においては、そうできないのか。わたしの真の顔は、肉のものなのか。なぜ人間はわたしの本質を知らないのか。人間の霊には、わたしの痕跡がほんとうに存在しないのか。わたしは人間の霊から完全に消え去ったのか。もし人間が霊界に入らないのなら、どうしてわたしの意図が把握できよう。人間の目には、霊界を直接見通すことのできる力があるとでもいうのか。わたしは何度も霊で人間に呼びかけた。しかし、人間は、わたしが突き刺しでもしたかのように振る舞い、わたしが別の世界に連れて行こうとしているのではないかと、ひどく恐れ、離れた所からわたしを見ている。何度も人間の霊に問いかけてみたが、人間はまったく気づかないで、わたしが彼の家に入って、その機会に持ち物をすべて奪うのではないかと、深く恐れている。そこで、わたしを締め出すので、わたしは、冷たい、固く閉ざされた「扉」に向かい合うことになった。人間が倒れ、わたしが助けたことは何度もあるが、人間は気がつくと、すぐさまわたしを去り、わたしの愛に触れず、用心深い目を向ける。人間の心が温かくなることはなかった。人間は感情のない冷血動物だ。わたしの抱擁に温まっても、けっしてそれで深く動かされることがない。人間は山の野蛮人のようなものだ。人間は一度たりとも、わたしの人類に対する思いを大切に思ったことがない。人間はわたしに近づきたがらず、山々の中に住むことを好む。そこでは野獣に脅かされているのだが、それでも、わたしの内に逃げ込もうとはしない。わたしは人間に強制しない。わたしの働きをするだけだ。陸地のすべての富を楽しみ、海に飲み込まれる危険から解放されようと、いつの日か人間は大海原をわたしに向って泳ぐことだろう。
わたしの言葉がすべて終わった後、わたしの国は徐々に地に形を現し、人間は次第に正常に戻り、そうして、地上にわたしの心の国が築かれる。その国では、神の民全員が正常な人間の生活を取り戻す。凍える冬は去り、春の訪れた町々の世界となり、一年中春が続く。もはや人々は暗く惨めな人間世界に臨まない。もはや人間世界の凍える寒さを耐えることがない。人々は互いに戦うことなく、国々は互いに戦争を仕掛けることがない。もはや大虐殺が行われて血が流されることはない。地はすべて幸福に満たされ、どこも人と人とのぬくもりが満ちる。わたしは世界を動き回り、玉座の上から楽しむ。わたしは星々の間で暮らす。そして、天使たちがわたしに新しい歌や踊りをささげる。天使たちは、もはや自身のもろさに涙がほほを伝うことはない。もはや天使がわたしの前ですすり泣くのを聞くことがない。そして、もはや誰も苦難をわたしに訴えることがない。今日、あなたがたはわたしの前で生きている。明日、あなたがたはみな、わたしの国で暮らすようになる。これは、わたしが人間に与える最大の祝福ではないか。あなたがたは、今日支払う代価のために、将来の祝福を相続し、わたしの栄光の中で生きることになる。あなたがたはまだ、わたしの霊の本質と関わりたくないのか。あなたがたは、まだ自分を殺したいのか。人間は、それがはかないものであっても、自分の目に見える約束は追い求めたがる。しかし、それがたとえ永遠のものであっても、明日の約束を受け入れようとする者は誰もいない。人間の目に見えるものを、わたしは根こそぎにする。人間には感知できないことを、わたしは成し遂げる。これが神と人との違いである。
人間はわたしの日を記録する。しかし、誰一人、厳密な日付を知った者はいない。そのように、人間は昏迷した状態で生きる。人間の切望が無限の空に響き渡り、そして消えるので、人間は何度も繰り返し希望を失い、そのために、現在の状況に陥ったのだ。わたしの言葉の目的は、人間に日付を追わせることではなく、また、絶望の結果、自滅に追い込むことでもない。人間がわたしの約束を受け入れることを願う。世界中の人々がわたしの約束に与ることを願う。わたしが求めるのは、生き生きとした生き物である。死に染まった死体ではない。わたしはゆったりと国のテーブルにつき、地のすべての人々に、わたしの審査を受けよと命じる。わたしの前には、清くない者の存在を許さない。人間がわたしの働きの妨げをすることは、誰にも許さない。わたしの働きを妨げる者はみな、地下牢に放り込まれ、釈放された後でも、災いに見舞われる。地上の焼きつけるような炎を浴びるのだ。わたしが受肉しているとき、誰でも肉の体のわたしと、わたしの働きについて議論する者を、わたしは憎む。わたしには地上に身内がないのであり、誰であっても、わたしを同等の存在を見て、わたしを引き寄せて昔のことを語ろうとする者は滅ぼされるのだということを、すべての人間に、わたしは何度も思い起こさせた。これがわたしの権限である。そうしたことについて、わたしは人間に対して、まったく許容しない。わたしの働きを妨げてわたしに意見しようとする者は、刑罰を受ける。けっして赦されることがない。もしわたしが率直に話さなければ、人間はけっして理解するに至らず、気づかないままわたしの刑罰を受けることになる。人間は肉の体のわたしを知らないからである。
1992年3月20日


私たちについて:全能神教会の紹介
もっと知る:  [東方閃電]全能神教会はどうやって創られたでしょうか 



2017年12月13日水曜日

【東方閃電】全能神の発表「十八番目の言葉」


稲光の中、すべての動物は真の姿を明らかにする。そして、わたしの光に照らされて、人間もまた、かつての聖さを取り戻した。ああ、過去の堕落した世界がついに汚い水の中へと崩れ去り、水面の下に沈み、溶けて泥となった。ああ、わたしの創った全人類が、ついに再び光の中でよみがえり、存在のための基礎を見出し、泥の中でもがくことをやめた。ああ、わたしの手の中のもろもろの被造物よ。それらがどうしてわたしの言葉によって新たにならないことがあろうか。どうして、光の中でその機能を果たさないことがあろうか。地はもはや、動きがなく沈黙してはいない。天はもはや荒涼として悲しいところではない。天と地とは、もはや虚無で隔てられてはおらず、ひとつになって、決して再び裂かれることがない。この喜ばしい時、この歓喜の瞬間、わたしの義と聖とが宇宙全域に広まり、すべての人間が終わりなくほめたたえる。天の町々は喜びに笑い、地上の王国は喜びに舞い踊る。この時に、誰が喜ばずにいようか。そして、この時、誰が泣かずにいるのか。地は、そのはじめは天のものであった。そして、天は地とは、ひとつであった。人間は天と地とを結ぶ絆であり、その聖さのおかげで、その再生のおかげで、天はもはや地から隠されてはいない。そして、地はもはや天に対して沈黙していない。人類の顔は安堵の笑顔に飾られ、心には限りない甘美さが満ちる。人間は互いに言い争うことがなく、また、殴り合うこともない。わたしの光の中で他の人々と平和的に生きない者がいるだろうか。わたしの日々にわたしの名を汚す者が誰かいるだろうか。人間はみな畏敬のまなざしをわたしに向け、その心が沈黙のうちにわたしに叫んでいる。わたしは人間のあらゆる行いを探った。清められた者の中に、わたしに逆らうものは誰もいない。わたしを裁く者もいない。人間はみな、わたしの性質に満たされている。誰もがわたしを知るようになり、わたしに近づき、わたしを愛する。わたしは人間の霊の中に確固として立ち、人間の目に最も高い頂きに上げられ、その血管を血として流れる。人間の心の喜びにあふれる高揚が地のいたるところを満たし、空気は爽やかに澄み、濃い霧が地面を包むことは、もはやない。そして、太陽がまばゆく輝く。
今、わたしの国を見なさい、わたしがすべての王として支配する領域を。創造の初めから今のこの時まで、わたしの子らがわたしの導きに従い、人生の多くの苦難、世にあるまことに多くの不正を経験し、世の浮き沈みを経てきたが、今はわたしの光の中で暮らしている。誰が昨日までの不正にすすり泣かずにいられるだろう。誰がここに至るまでの苦難に涙を流さずにいられよう。そしてまた、この機会をとらえて自らをわたしに捧げない者が、誰かいるだろうか。この機会をとらえて、胸にあふれる熱情を吐露しないものがいるだろうか。今この時に、自分たちの経験したことを語らない者がいるだろうか。今この時に、すべての人間は自身のもっとも良い部分をわたしに捧げている。どれほどの人々が、昨日までの無知な愚行を悔いる思いに苦しみ、どれほどの人々が昨日までの欲求に嫌悪せずにいられるだろう。人間はみな自身を知り、サタンの行いとわたしのすばらしさを見て、心の中にわたしのための場所を設けた。もはやわたしが人々の間で避けられ、放棄されることはない。わたしの偉大な働きがすでに成し遂げられ、もはや妨げられることがないからである。今日、わたしの国の子らの中に、自分自身について心配していない者が、誰かいるだろうか。わたしの働きが行われる方法について心配する種を持たない者が誰かいるだろうか。心からわたしのために身を捧げている者が、誰かいるだろうか。あなたがたの心の中の不純物は減っているだろうか。それとも、増えているだろうか。もし心の中の不純物が減りも増えもしないのなら、わたしはそのような人を必ず見捨てよう。わたしの求めるのは、わたしの心にかなう聖徒であって、わたしに逆らう汚れた霊ではない。わたしは人間に多くを求めないが、人間の心の内はまことに複雑なため、人間にはわたしの心にすみやかに従ったり、直ちにわたしの願うことを満たしたりはしない。人間の大多数は、最後に勝利の冠を手にしようと、密かに努力している。大多数の人間は、再びサタンの手に落ちることを恐れ、一瞬たりともたゆむことのないよう、全力で努力している。彼らはもはや、わたしに恨みを抱かず、わたしの前で常に忠誠を示そうとしている。わたしは、実に多くの人の心からの言葉が語られるのを、実に多くの人が、苦難の中で経験した痛みが語られるのを聞いてきた。人々が最も苦しい中でゆらぐことなくわたしに忠誠をささげるさまを、わたしは見てきた。また、実に多くの人が、険しい道を歩むとき、出口を求めて苦闘するさまを見てきた。そうした中で、その人たちは、けっして不平を言わなかった。光を見出すことができず、落胆することはあっても、けっして不満を言わなかった。しかし、わたしはまた、実に多くの人々が心の底から悪態をつき、天を恨み、地を呪うのを見た。また、実に多くの人々が苦しみのただ中で絶望に諦めきり、屑入れにゴミを放り込むように身を捨てて、塵芥に覆われるのをも見た。わたしは実に多くの人が互いに言い争うのを聞いた。地位の変化に「顔」の変化が伴い、仲間との関係が変わって、友人たちが友であることをやめ、敵対するようになり、互いを責めるようになった。大多数の人々は、わたしの言葉を機銃の弾丸のように使って相手を不意打ちし、世界のいたるところが、平穏を打ち破るやかましい騒ぎに満ちるようになった。幸い、こうして今日に至っている。そうでなければ、どれほどの人々が止むことのない機銃掃射の中で死んでしまったか、わからない。
わたしから出た言葉に従い、全人類の状態に合せて、わたしの国は着実に地上に降りてきた。もはや人は憂うることなく、他の人のことを「考慮に入れ」たり、人々のことを「心配する」ことがない。そこで、諍いごとはもうなく、わたしから出た言葉に従い、現代の様々な「武器」もまた、使われなくなる。人間は再び他の人間との間に平和を見出し、人間の心は再び調和の精神を放ち、もはや誰も、密かな攻撃に身構えることがない。すべての人類は正常な状態に戻り、新たな生活を始める。新たな境遇の中、多くの人は周囲を見回し、真新しい世界に入ったかのように感じる。そのため、すぐに新しい環境に馴染むことはできないし、正しい道に踏み出すこともできない。そこで、人間に関しては、「意欲はあっても、肉は弱い」ということになる。わたしは人間のように苦難の苦さを味わうことはなかったが、人間の弱点については、すべて心得ている。わたしは人間の必要を詳らかに知り、人間の弱さに関するわたしの理解は完璧である。そのため、わたしは人間の短所をからかったりはしない。ただ、不正な行いに対処し、適正な「指導」をして、誰もが正しい道を歩めるようにする。そうして、人間はさまよう孤児であることをやめ、家のある、愛される赤子となる。それでも、わたしの行いは原則に基づいている。もし人間がわたしの内の幸いを享受したがらなければ、わたしにできることは、彼らの欲求のままに底なしの淵に送り込むことだけである。その時点では、誰一人、もはや心に不平を抱えていてはいけない。わたしの采配の中に、誰もが、わたしの義を見ることができなければならないのだ。わたしは、わたしを愛するよう、人間に強いることはしない。また、わたしを愛したからといって、人間を打つこともしない。わたしの内には完全な自由、完全な解放がある。人間の運命はわたしの掌中にあるが、わたしは人間に自由意志を与えた。それはわたしに左右できるものではない。そのようにして、人間はわたしの行政のために「厄介な事態に陥る方法を考え出す」ことなく、かえって、わたしの寛容さを頼みにし、「解放を勝ち取る」のだ。そうして、多くの人は、わたしに束縛されるというよりは、解放されて、自分の道を求めていくことになる。
わたしは常に人類を寛大に扱い、けっして解決不能の問題を与えなかったし、誰をも困難な状況に追いやらなかった。そうではないか。まことに多くの人々はわたしを愛していない。しかし、そうした態度に悩むのではなく、わたしは人間に自由を与え、苦しみの海で泳ぎ回る余地をもたせてやった。人間は優れた器ではないのだ。人間はわたしの手の中にある祝福を見るが、それを楽しもうとはせず、サタンの手から災厄を掴み取りたがる。そうして、サタンに「滋養」としてのみ込まれるはめになる。もちろん、中には、その目でわたしの光を見て、現在の霧の中に生きてはいても、そのせいで光への信仰を失わず、障害だらけの道ではあるが、霧の中を手探りし、探し求める事を続ける人々もいる。人々がわたしに逆らうとき、わたしは激しい憤りを注ぐので、大勢が不服従のせいで死ぬだろう。人間がわたしに従うとき、わたしは彼らの目から隠されている。そのようにして心の深いところに愛、甘言によるのではない、わたしに喜びをもたらす愛が湧くようにする。いったい何度わたしは、人間がわたしを求めるとき、真の信仰が生まれ出るようにと、目を閉じ、沈黙を守ったことか。しかし、わたしが話さなければ、人間の信仰はすぐさま変化し、そこで、見えるのはまがい物の「商品」ばかりということになる。人間が心からわたしを愛したことは、けっしてなかったからだ。わたしが姿を現したとき初めて、人間はみな、おおげさな「信仰」表明をする。しかし、わたしが秘密の場所に隠れていると、彼らの心は弱く、臆病になる。まるで、わたしを不快にさせるのを恐れるかのように。あるいは、わたしの顔を見ることができないと、あれこれと試してみて、実際、わたしが存在していないという結論になったりする。どれほどの人がそうした状態にあり、どれほどの人がそういう心持ちでいることか。しかし、これはみな、人間がすべて、内にある恥ずべきものを隠すのに巧みだからである。そのため、人々は自身の弱点を見るのをいやがり、あからさまに自分の自尊心を隠そうとするときにだけ、わたしの言葉の真実であることを認める。
1992年3月17日

私たちについて:全能神教会の紹介
 世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しまょう

2017年12月7日木曜日

【東方閃電】全能神の発表「十七番目の言葉」



わたしの声は雷のように轟き、全世界の隅々まで照らす。そして、雷鳴と稲光の中、人間たちは打ち倒される。雷鳴と稲光のただ中でしっかりと立ち続けた者はいない。たいていの人間はわたしの光を見て恐れに我を失い、どうしていいか、わからなくなる。東に微かな明かりがほのめくと、多くの人は、このわずかな光の刺激により、すぐに幻覚から醒める。しかし、わたしの光が地上に降る日が訪れたことを知る者はいない。大多数の人間は、突然の光の到来に呆然とする。中には、光の動きと光がやっている方向を奇妙で変わった目つきで見ている。あるいは、備えをして光に向かい、光がどこから来るのか、その源をもっと知ろうとする者もいる。いずれにしろ、今日の光がどれほど貴重なものか、誰か気づいた者はいるだろうか。誰か、目が覚めて、光が奇妙なことに気づいた者がいるだろうか。大多数の人間は、ただ混乱している。彼らは光のせいで目を痛め、泥の中に投げ倒されたのだ。この不透明な光の中で、世界は混沌に包まれ、耐え難い惨めなありさまとなり、よく調べると、この上ない憂鬱に閉ざされているのだ。このことから、光が最も強い時には、この世界では人間がわたしの前で立っていられなくなるということがわかる。人間はみな光の中にいる。また、人間はみな光の救いの中にいるが、同時に光によって傷を負ってもいる──光の激烈な衝撃の中で倒れ伏さない者がいるだろうか。光に焼かれることを免れる者が、誰かいるだろうか。わたしはこの手で霊の種を蒔きながら、地上のいたるところを歩いた。地上の人間がみな、そのために、わたしによって動かされるようにと。天の最も高いところから、わたしは全地を見下ろし、地上の生き物たちの異様なありさまを眺めた。海の表面は地震の衝撃を受けているように見える。海鳥が魚を見つけて飲み込もうとして、飛び交っている。一方で、これは海底には全く知られていない。海面の状態は海底を目覚めさせることはできない。なぜなら、海底は第三の天同様に穏やかだからだ。ここに生きるものたちは、大きいものも小さいものも調和のうちに共存し、けっして「くちびるの言葉で争う」ことがない。無数の奇怪で風変わりな物事の中で、人間はわたしを喜ばせることが最も難しい。それはなぜかといえば、わたしが人間に与えた地位があまりに高く、そのため、野望が異様に大きく、人間の目にはいつでも、ある程度の反抗心がのぞいているからだ。わたしの人間への懲らしめ、わたしの人間への裁きには、細心の注意、いたわりの思いがあったが、そうしたことについて、人類は少しも思い至らない。わたしはどの人間にも過酷な行いをしなかった。ただ、人々が不服従であったときには、それぞれにふさわしい罰を与えた。人々が弱いときには、適当な助けを与えた。しかし、人々がわたしから遠ざかり、さらにサタンの欺きに満ちた策略を用いてわたしに逆らったときには、直ちに滅ぼし尽くし、わたしの前でそうした行為を誇示することがないようにする。もはやこの世界で我が物顔に振る舞い、他人を脅かすことができないように。
この世界にわたしの権威を振るい、わたしの働きを完全に実行する。わたしの働きの内のことはすべてこの世界に反映される。人類はけっして、地上で、わたしの天国での動きを把握できなかったし、また、わたしの霊の働きの軌跡を完全に理解することができなかった。人類の大多数は霊の実際の状態を理解することができず、霊の表面のごく小さな部分をわかっているに過ぎない。わたしが人類に求めていることは、天にいるわたしという曖昧な存在によるものでも、地上にいるわたしという計り知れない存在によるものでもない。わたしはこの世界に存在する人間の背丈を測り、それにしたがって、要求しているのだ。わたしは誰をも困難な状況に置いたことはないし、わたしの楽しみのために「血を絞り出せ」と要求したこともない。わたしの要求は、そうした条件に限られるものだろうか。地上の無数の生き物の中で、いったいどれが、わたしの口から発せられた命令に従わないだろう。これらの生き物たちの中で、わたしの前にあって、わたしの言葉とわたしの燃える炎とで完全に焼き尽くされないものがあるだろうか。これらの生き物の中で、どれがわたしの前で誇らしげに自己を誇示するというのか。いったい、どの生き物がわたしの前に頭を垂れないというのか。わたしは被造物に沈黙を強いるだけの神だろうか。わたしは、無数の被造物のうち、わたしの目的に適うものだけを選ぶ。無数の人間の中からわたしの心を重んじるものだけを選ぶ。わたしは、すべての星々の中で最高のものを選び、そうして、わたしの国に微かな輝きを加える。わたしは地上を歩み、いたるところに芳香を放ち、あらゆるところにわたしの形を残す。すべての場所がわたしの声に反響する。いたるところの人々が以前の美しい眺めを懐かしく思い出す。全人類が過去を記憶しているからだ。…
全人類はわたしの顔を見ることを願っているが、わたし自身が地上に降り立つと、みな、わたしの訪れを嫌い、光の近づくのを追い払う。まるで、わたしが天国で人間の敵であるかのように。人間は用心深く探るような目でわたしにあいさつし、常に警戒心をもち、わたしが何か企みをもっているのではないかと、深く恐れている。人間はわたしを見慣れない友として見ているので、無差別に殺戮しようとしているかのようにわたしを見るのだ。人間の目には、わたしは恐ろしい敵対者なのだ。患難の中でわたしの暖かさを体験しても、人間はわたしの愛のことを知らず、いまだにわたしを退け、逆らおうとする。わたしに敵対しようとしている状態を利用するどころか、わたしは人間を温かく抱擁し、口を甘味で満たし、その腹を必要な食物で満たすのだ。しかし、わたしの激しい憤りが山々や河川を揺さぶるとき、わたしはもはや、人間の臆病さのために別の形の援助を与えることをしない。今この瞬間、わたしは怒りに燃え、あらゆる生き物に悔い改める機会を与えない。人間に対する期待をすべて捨て、彼らにふさわしい罰を下そう。その時には、雷鳴がとどろき、稲妻がはためく。海原の波が怒りに荒れ狂うように、一万の山々が崩れ落ちるように。その反抗心のため、人類は雷鳴と稲妻とに打倒され、他の被造物は雷と稲妻とで一掃され、全世界が突然混沌の淵に落ち、いのちの始まりの息を取り戻せない。無数の人間たちは雷鳴から逃れることができない。稲光がはためく中、群れをなした人間たちが次々に速い流れに落ち込み、山々から流れ下る激流にさらわれていく。突然、人類の「終着点」に「人間」たちがみな集まる。死体が広い海面を漂う。人間はみな、わたしの怒りにより、はるか遠くに押しやられる。人間がわたしの霊の本質に逆らうことを行い、その反抗がわたしを不快にしたからだ。しかし、水のない場所では、他の人間たちは、まだ笑いと歌の中で、わたしが彼らに与えた約束を楽しんでいる。
全人類が静かになったとき、わたしはその目の前に微かな光を発する。すると、人々は頭がはっきりとし、目が明るくなり、沈黙しているのをやめる。そうして霊的感覚が直ちに心の中に起こる。その時、すべての人間はよみがえる。わたしの発する言葉によって生きていく新たな機会を得て、口には出さない恨みを捨て去り、すべての人間はわたしの前に進む。それは、人間はみな、地上に生きていたいと願っているためである。しかし、その中の誰がわたしのために生きようと考えただろう。誰が、わたしを喜ばせるために内にある素晴らしいものを明らかにしただろう。誰が、わたしの魅惑的な香りを感じ取ったろう。人間はみな、粗雑なものである。外側はすばらしく見えるが、本質的には心からわたしを愛してはいない。なぜなら、人間の心の奥底には、わたしのごく一部さえないからだ。人間はあまりに不完全だ。わたしと比べると、天と地ほどの違いがある。しかし、それでも、わたしは人間の弱くもろい点を突こうとは思わないし、欠陥をばかしにして笑うこともしない。わたしの手は数千年もの間、地上で働きをしてきて[a]、その間ずっと、全人類をこの目で見守ってきた。しかし、一度たりとも、おもちゃのように扱って生命を奪いはしなかった。わたしは人間の注いだ心血を見、人間の支払った代償を理解している。人間がわたしの前に立つとき、その無防備さを利用して懲らしめようとは思わない、また、望ましくないものを与えもしない。むしろ、わたしはひたすら人間に施し、与えてきた。そうして、人間が享受するものはことごとくわたしの恵みであり、わたしの手から出た賜物であったのだ。わたしがこの地上にあったので、人間はけっして飢えに苦しむことがなかった。わたしは、人間がわたしの手から、その享受するものを受け、わたしの祝福の中で生きられるようにしてきた。すべての人類はわたしの刑罰の下にあるのではないか。山々は深いところに豊かなものを蓄え、そして、膨大な水の中には豊穣が秘められているが、今、わたしのことばの内に生きている人々には、享受できる多くの食物があるではないか。わたしはこの世界におり、人類は地上でわたしの恵みを享受しているのだ。わたしがこの世界を離れるとき、それは、それはまたわたしの働きが完了した時でもあるのだが、その時には、人類はもはや、その弱さゆえに与えられてきた援助を、何も得なくなる。
1992年3月16日
脚注:
a. 原文では 「働きをしてきて」が省略されている。


[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。