キリスト教映画「神の御守りの祝福」災難の中の奇跡 日本語
人はよく「事故は起きるものだし 人生は予測がつかない」と言います。 科学、近代的交通網、そして物質的豊かさが急速に発展している現代、私たちの周りで起こっている災害は日ごとに増しています。新聞を開いたりテレビをつけたりする度、私たちがおもに目にするのは、戦争、地震、津波、ハリケーン(台風)、火災、洪水、飛行機墜落、鉱山事故、社会不穏、暴力紛争、テロなどです。私たちが見聞きするのは、自然災害や人為的災害ばかりです。こうした災害は頻繁に発生し、激しさを増しています。これらの災害が襲いかかる所には、苦悩、流血、不具そして死がともないます。私たちの周りでは常に不幸が起おこり、私たちは命の短さと儚さをつくづく思い知らされます。将来どのような災害に遭遇するのか、私たちには予測するすべはありません。その上、どのような行動をとるべきかも、私たちにはわかりません。私たちは人類の一員として、これらの災害から逃れるために何をすべきでしょうか? このビデオの中にあなたはその答え見つけるでしょう。あなたは、迫り来る災害の中で生き残るために、神からの守りを受ける唯一の方法を見出だすでしょう。
もっと注目:「ノアの日々が来た」終わりの日の箱舟に乘る 日本語
聖書には、主イエスはキリストであり、神の子であることが明確に書かれています。しかし東方閃電は、受肉されたキリストは神様の出現であり、また神様ご自身であると証言しています。受肉されたキリストは神の子でしょうか?それとも、神様ご自身なのでしょうか?全能神が言われます。「『イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である』と…神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。『父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある』というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。」(『言葉は肉において現れる』より)
クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(2) 受肉による神の再臨について、聖書にはその根拠があるのか
主の再臨を歓迎する人の多くは、聖書にある「神は雲に乗って降りてこられ、再臨される」という預言のみに重点を置き、主は肉において再臨なされるという預言を蔑ろにしています。彼らは、神が肉体をもって再臨されるという証はすべて偽りであると断言していますが、はたして彼らの見解と行いは聖書と合致しているでしょうか。受肉による主の再臨に関して、聖書では具体的にどのように預言されているのでしょうか。
ある日、インターネットで活気ある議論が行なわれているのを目にしました。西半球の夜空で四回観測されたブラッドムーンは最後の日を警告するものだとか、地球全体で大地震がさらに頻発しつつあるといったことが書き込まれていました。私はこう考えました。「ブラッドムーンがもう四回も観測されているし、天体現象も起きている。それに世界中で災害が頻発して、テロ事件も増えていて、いつもどこかで戦争が起きている……これらの現象はすべて、主イエスの再臨の預言が基本的に成就したことを示しているけれど、主が私たちとお会いになるべく雲に乗って降りてこられるのを、いまだに見ていないのはなぜかしら。主イエスはまだ戻られていないということなのか、それとも主はすでに戻られているけれど、自分がまだ主を見ていないということなのか。どうしたら主の再臨をお迎えできるだろう」この疑問が心の中を駆け巡り、私を当惑させました。この件について何らかの理解を得ようと、私は何度も主に祈り始めました。そして主の再臨をお迎えできて主に追い払われることがないよう、私を啓いて導いてくださいとお願いしました。
それからしばらくして、数ヶ月ほど顔を合わせていなかった甘姉妹が私に会いに来ました。それが主の采配であることを私は知っていました。甘姉妹は長年にわたって主のために働き、思慮深く洞察力に満ちた人でした。彼女なら自分の問題を解決できるかもしれないと考えて、私はこう言いました。「甘姉妹、ちょっと混乱している問題があって、それを追求したいと思っているんです。聖書には次のように記されています。
『そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう』(ルカによる福音書21:27)
『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン』(ヨハネの黙示録1:7)
それによると、主イエスはおいでになるとき、大いなる栄光と力をもって、雲に乗ってこられることになっています。主は公然と姿をお見せになり、誰もが主を見ることができるのです。だから私たちは、主が雲に乗っておいでになり、私たちを天へと導いてくださるのをずっと待ち続けてきました。現在、世界中で災害や地震や干ばつが絶えず、戦争が頻発し、加えて多くの天体現象が起きています。これらの現象はすべて、主の再臨の預言が基本的に成就したことを示していますが、主が私たちとお会いになるべく雲に乗って降りてこられるのを、私たちがいまだに見ていないのはなぜですか。いったいどういうことでしょう」
甘姉妹は私の言葉に耳を傾け、少し考えてから言いました。「あなたのその質問は、主の再臨をお迎えしたいと願う私たち全員が理解したい問題です。主の再臨をお迎えしたいなら、まずは主が終わりの日に実際どうやっておいでになるかを知らなければなりません。それは重大な問題です。実を言うと、聖書の中には、あなたが言ったように雲に乗っておいでになる以外に、主がおいでになるもう一つの方法の預言があります。例えば、黙示録16章15節には『見よ、わたしは盗人のように来る』とあります。また黙示録3章3節には『もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない』と記されていて、マタイによる福音書24章44節にも『だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである』とあります。これらの預言は、主は盗人のように密かに来られ、誰一人知ることはないと述べています。姉妹、ここでいま話した聖句を検討しましょう。その中には、主は公然と雲に乗って戻られると記されている箇所もあれば、主は密かに来られて誰一人知ることはないと記されている箇所もあります。それを考えたことがあるでしょうか。主の再臨という同じことに関する預言が、異なることを述べているのはなぜでしょうか」
私は彼女の言うことがよく分かっておらず、心の中でこう考えました。「確かにそうだわ。黙示録1章7節には『彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう』と書かれているけれど、黙示録16章15節には『わたしは盗人のように来る』と記されている。それはどういう意味なのか。主は実際どうやっておいでになるのか」
私は困惑して、甘姉妹にこう返事をしました。「これらの預言には、主は公然と降りてこられると述べているものもあれば、主は密かにおいでになると述べているものもあります。矛盾しているように見えますが、主の御言葉に欠陥はなく、単にいま自分が理解していないだけだということは分かります。どうかこの件について私と交わってください」
甘姉妹は笑みを浮かべて言いました。「主は誠実でいらっしゃるので、これらの預言はきっと成就します。それはきっと起きるのです。矛盾しているように見えても、まったくそうではありません。『盗人のように』は、主が密かに戻られることを述べており、『雲に乗ってこられる』とは、主が公然とおいでになることを指しています。つまり、主は戻られるとき、まずは密かにおいでになり、それから公然と姿をお見せになるのです」
「まずは密かに、それから公然と」私は驚いて声を上げました。
「そうです。主は戻られるとき、まずは人の子として受肉なさることで密かに来られ、その働きを完了なさったあと、今度は雲に乗っておいでになり、すべての国のすべての人に公然と姿をお見せになるのです」彼女は辛抱強く説明してくれました。
私は待ちきれなくて言いました。「つまり、主は最初に人の子として受肉なさって密かに来られ、それから雲に乗って姿をお見せになるんですね。そんなことは初耳です」
甘姉妹は微笑んで言いました。「聖書の聖句をもっと見ましょう。そうすれば理解できます。主イエスはこのようにおっしゃいました。
『ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう』(マタイによる福音書24:27)
『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』(ルカによる福音書17:24-25)
これらの聖句は『人の子』と『人の子の到来』に触れています。『人の子』は人間から生まれ、普通の人間性を有し、普通の人のように食べ、服を着、暮らし、行動なさいます。外見上、人の子は普通の人と同じようにしか見えません。しかし、人の子は神性の本質を有しておられ、真理をあらわして人類を救う働きがおできになります。それはまさに、主イエスが受肉された神様の御霊でいらっしゃったために『人の子』と呼ばれ、外見上こそ普通の一般人に見えたものの、その肉体は本質的に神様であり、完全な神性を有しておられたことと同じです。主イエスがキリストでいらっしゃり、神様ご自身でいらっしゃったのはそのためです。ゆえに、主イエスは『人の子』と『人の子の到来』に触れられたのです。それらはいずれも、神様が終わりの日に肉において戻られることを指しています。聖書には『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』とも記されています。私たち全員が知っているとおり、人が神様を神様として認識できないのは、神様が人の子として肉をまとわれ、人類のあいだに密かに来られる場合に限ります。人間は受肉なさった人の子を普通の人と認識しますが、そのせいで神様を拒み、誹謗し、裁き、ひいては受肉なさった神様に反抗して敵対しさえするのです。神様が『多くの苦しみ』を受けられるのはそのためです。主イエスは肉において現われて働きをなさったとき、人間による拒絶、誹謗、嘲笑、冒涜、断罪を受け、最後は十字架にかけられましたが、まさにそれと同じなのです。主が戻られるとき、雲に乗って降りてこられ、人々に公然と姿をお見せになったら、誰もがそれを見て恐怖に震え、神様の御前にひれ伏して崇拝するでしょう。誰一人、あえて神様に反抗したり敵対したりはしないはずです。それならば、『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』という預言がどうして成就するでしょう。ゆえに、主イエスはまず肉において密かに再臨され、その後雲に乗って公然と姿をお見せになることが確かめられるのです。
ヨハネの黙示録, ヨハネの黙示録の預言, 主の再臨
彼女の言葉を聞いたあと、私はそれを心の中で反芻しました。「つまり、主イエスは戻られるとき、まずは密かにおいでになり、その後雲に乗って公然と姿をお見せになるという主張には、聖書の中に根拠があるのね。何年もずっと聖書を読んできたのに、主の再臨に二通りの方法があると気づかなかったなんて、いったいどういうことなの。すごい。でも、主がまずは肉となられて密かに来られ、それから公然と姿をお見せになるのはなぜかしら。どういうことなの。訊かなくちゃ」そこでこう言いました。「甘姉妹、あなたのお話から、主の再臨がまずは密かになされ、それから公然と姿をお見せになることがわかりました。そう考えれば、もう聖書の預言に矛盾はないように思われます。でも、主がまずは密かに来られ、それから公然と姿をお見せになるのはなぜなのか、私にはどうしても分かりません。これに関する主の御心はどういうものでしょう」
甘姉妹は答えて言いました。「実を言うと、神様がまず肉となられて密かに働きをなさり、次いで終わりの日に公然と姿をお見せになるのは、いずれも神様の働きに必要なことであって、私たち堕落した人類にとっても必要なことなのです。私たちは主を信じ、主イエスに贖っていただきました。私たちの罪は赦されたのです。しかし、私たちの罪深い本性は未だ深く根を張っており、どうしても頻繁に罪を犯したり、神様に反抗することや敵対することをしたりしてしまいます。それは否定できない事実です。ヤーウェ神は『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』(レビ記11:45)とおっしゃいました。また『ヘブル人への手紙』12章14節には『……きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』と記されています。いつも罪を犯して告白する私たちのような人間は、主のお顔を拝見するのにまったくふさわしくなく、天国に入る資格もありません。そのため、主イエスははるか昔に次の預言をおっしゃいました。
『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)
『わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう』(ヨハネによる福音書12:48)
また『ヨハネの黙示録』2章7節にも『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』と記されています。私がこれらの預言から理解したのは、主は終わりの日に来られるとき、さらに多くの御言葉をあらわされ、神様の家に始まる裁きの働きをなさるということです。主はおいでになって人類を変え、清め、お救いになり、私たちをサタンの領域から完全に救い出されます。また終わりの日の主の働きには、人々を種類に応じて選り分けることも含まれています。つまり、真の信者と偽信者、小麦と毒草、羊と山羊を明らかになさり、その種類に応じて選り分け、そうして善に報いて悪を罰せられるのです。神様が密かに働きをなさっているあいだ、神様による裁きの働きを受け入れる人は神様の玉座の前に引き上げていただけます。そのような人は神様の御言葉による裁きと刑罰を経験し、自分のサタン的な本性と神様に抵抗する根源について真の認識を得ます。また背きを許さない神様の義なる性質も認識するようになります。そのような人の堕落した性質は徐々に清められ、変えられます。そうして真理を求める道に踏み出し、神様によって完全に救っていただけるのです。しかし、神様が密かに働きをなさるあいだ、神様の出現を探し求めず、神様の働きと御言葉を拒んで断罪しさえする人は、終わりの日の神様の働きにおいて、非信者、悪人として暴かれます。神様の密かな働きが終わりを迎えるとき、神様は大災害を降らせて善に報い悪を罰せられ、それらの災害のあと、万人の前に姿をお見せになります。神様を拒んで抵抗した人が、そうしていた相手が実は再臨なさった主イエスだったと知ると、胸を叩き、泣きわめいて歯ぎしりします。これは主イエスの次の御言葉を成就しています。
『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン』(黙示録1章7節)
このことから、神様の働きにはお知恵が満ちあふれていることがわかりますし、それはまた神様の義なる性質のあらわれでもあるのです。
甘姉妹によるこの話を聞いて、私の心は大いに明るくなりました。主の再臨の預言がそのようにして成就するのだとわかったからです。主はお戻りになるとき、まずは受肉なさって密かにおいでになり、真理をあらわされ、裁きの働きをなさり、勝利者の集団をお作りになります。その後はじめて、公然と人類に姿をお見せになるのです。神様が密かに働きをなさっているあいだ、それを受け入れず、不当にも神様の働きと御言葉を裁いて断罪する人はみな真理を憎む人であり、神様が公然と姿をお見せになるとき、災害に襲われて罰せられるよりほかありません。また神様はこの方法をお使いになることで、小麦と毒草、羊と山羊、良き召使いと悪い召使いを明らかになさり、すべての人を種類に応じて選り分けられます。神様は本当にお知恵があり、かくも全能なのです。私はそれまで、主イエスが実際にはどのようにしておいでになるのかを理解しておらず、空に浮かぶ雲をぼんやり眺めながら、主がその一つに乗って降りてこられるのを待つことしか知りませんでした。主の再臨に関するすべての預言を探し求めも考えもせず、そのせいで主が密かにおいでになる預言を見逃してしまったのです。それは実に危険なことでした。そのように待ち続けていたら、主をお迎えできなかっただけでなく、神様に完全に救っていただき、天国に入る機会を失っていたでしょう。そう考えると少し不安になり、慌ててこう尋ねました。「甘姉妹、それなら主が密かに来られるとき、私たちは主の働きを見つけて再臨をお迎えするために何をしなければならないのでしょう」
甘姉妹は微笑んで言いました。「聖書で預言されていることから、主は終わりの日に戻られるとき、さらに多くの御言葉を発せられ、人類を裁いて清める働きをなさることがわかりました。したがって、主の再臨をお迎えするうえで鍵となるのは、終わりの日の主の御言葉を受け入れ、神様の新たな働きに歩調を合わせることです。主イエスは次のようにおっしゃいました。
『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした』(マタイによる福音書25:6)
『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る』(ヨハネによる福音書10:27)
神様の羊は神様のお声を聞くことができます。神様のご発言を聞き、そこから神様のお声を聞き分けられる人はみな、主の到来をお迎えすることができます。ペテロ、ヨハネ、マタイをはじめとする主イエスの弟子も、まさにそれと同じです。彼らは天国の福音に関する主イエスの説教を聞いて、その働きと御言葉から、イエスが自分たちの待ち望んでいたメシアでいらっしゃると判断でき、かくしてためらうことなくイエスに付き従いました。彼らは賢い乙女なのです。私たちも主の再臨をお迎えしたければ、賢い乙女になって主のお声を聞くことに集中しなければなりません。主はもうお戻りになったとか、主は新たな御言葉を発せられ、人類を裁いて清める働きをなさっているとか誰かが言うのを聞いたら、一刻も無駄にせずそれを調べなくてはなりません。それが神様の働き、神様の御言葉だと確かめられる限り、受け入れて服従しなければなりません。そのようにして、私たちは主の再臨をお迎えし、主と婚宴の席に着くことができるのです。
私は甘姉妹の話を聞いて、胸を躍らせて答えました。「主よ、感謝いたします。主の再臨をお迎えするうえで鍵となるのは、賢い乙女になって神様のお声に耳を澄ますことだと、いまようやくわかりました。その御言葉が神様の発せられたものだと確かめられる限り、私は急いでそれを受け入れなければなりません。それが主の再臨をお迎えする唯一の道なのです。ああ甘姉妹、あなたと出会ってから数ヶ月しか経っていないのに、これだけ多くのことをこんなに早く理解するようになったのはどうしてですか」
すると甘姉妹は嬉しそうに言いました。「主よ、感謝いたします。今日私が話したことはどれも、ある本を読んではじめて理解するようになったことばかりなんです。ここに一冊もってきました。一緒に目を通してみませんか」
私はわくわくしてうなずき、「素敵ね」と言いました。
[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。
参照聖書箇所
「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイによる福音書 5:3)
「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」(マタイによる福音書 5:6)
「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」(マタイによる福音書 5:8)
神の代表的な言葉
「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」
『言葉は肉において現れる』の「序文」より
「宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。『贖い主』が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の『オリーブ山』に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、『ユダヤ人の息子』ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。」
『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より
「わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは『聖なる方が白い雲の上に乗って』降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。」
『言葉は肉において現れる』「全宇宙への神の言葉」の「二十六番目の言葉」より
「神の権威と身分が明示されていることを見出すのは困難ではない。たとえば、神が「わたしはあなたと契約を結ぶ…あなたを…とする…わたしはあなたに…をさせ…」と述べている場合、「あなたを…とする」や、「わたしはあなたに…をさせ」といった、神の身分と権威を確約する言葉は、伝統的な語彙であるのと同時に、ある意味で創造主の忠誠を示すものであり、またある意味では、創造主の身分である神が用いる特別な言葉である。…
…これらの言葉は神が述べたものであり、神の言葉には力、威厳、そして権威がある。こうした力と権威、そして事実の実現の不可避性は、被造物やそれ以外の物のいずれもが、達成することも超越することもできないものである。このような口調で対話できるのは創造主のみであり、神の約束は虚言や無根の戯言ではなく、あらゆる人間や物が超越できない、独自の権威であることが事実により証明されている。
…このような言葉を神が述べた場合、その言葉は神の真の性質を明示し、表現するものであり、神の本質と権威の完璧な明示と顕現であり、創造主の身分を証明するものとして、それ以上適切なものは無い。こうした発言の仕方、語調、語彙はまさに創造主の身分の印であり、神自身の身分の表出と完璧に一致し、こうした発言には見せかけや不純さは無い。こうした発言は、創造主の本質と権威を完璧に証明するものである。」
『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身1」より
「実際には、神の御言葉は、神のご性情である。神の御言葉から神の人間への愛、神による人間救済、その救済方法などを知ることが出来る。なぜなら、神の御言葉は、神が人間に書かせたのではなく、神により明示されたものだからである。御言葉は神が自ら表されたものである。御言葉を表したのは神ご自身であられ、それは神の内なる声である。御言葉が心からの言葉と呼ばれるのは何故だろうか。なぜなら、御言葉は深遠なところから発せられたものであり、神のご性情、御旨、お考え、そして神の人間に対する愛、人間救済、期待だからである。神の御言葉の中には、強いもの、優しく柔和なもの、入念なもの、そして無慈悲な黙示のものがある。あなたがたは、黙示の御言葉だけを見た場合、神は厳しいと感じる。あなたがたが優しく柔和な面だけを見た場合、神はそれほど多くの権威を持っておられないように思われる。したがって、あなたがたは御言葉の前後関係抜きで解釈してはならない。御言葉は、あらゆる側面から検討する必要がある。神は時折優しく柔和な側面から御言葉を述べられ、人間は神の人間に対する愛を知る。また神は時折厳格な側面から御言葉を述べられ、人間は神の侵害不可能なご性情を知る。人間はひどく汚れているので、神の顔を見るに値せず、したがって神の御前に来るに値しない。現在において、人間が神の御前に来る事は、完全に神の恵みの範囲外にある。神の知恵は神が御業を行われる方法と神の御業の意義から理解できる。人間は、神と接触せずとも、神の御言葉からそうした物事を依然として知ることが出来るであろう。」
『キリストの言葉の記録』の「受肉に関する知識」より
「今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がその中に戻る体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理を彼から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の現れでもある。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいたではないか。あなたは天の神を理解することを切に願ったではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲していたではないか。彼は、今まで誰ひとりとして語ることのできなかった奥義の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についてさえ語るだろう。彼は、あなたが神の国に入る入り口の門であり、あなたが新しい時代に入るための導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。彼の行いはあなたには測り知れないものが、彼の行うすべての働きの目標を知れば、彼が、人が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜなら彼は、終わりの日に人類に神が示す配慮、及び神の意志も代表しているからである。あなたは天地を揺るがすような彼の語る言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のような彼の目を見ることもできず、また、鉄の杖のような彼の懲らしめを感じることもできないが、彼の言葉から神の怒りを聞き、人類に示している神の憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持っている配慮をはっきり理解することができる。」
『言葉は肉において現れる』の「神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか」より
「それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが私達を救うための新しい働きを行っているのだ。この人は私達のために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、私達の中に深く隠された秘密に命中し、それは私達の心を突き刺し、霊を突き刺し、私達を恥ずかしく、みじめな気持ちにする。…
私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。…」
「神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。その時、私達の心は完全に彼に征服された。私達はもはや彼が誰であるか疑わず、その働きや言葉にもはや反抗することもなく、彼の前に完全にひれ伏す。私達の望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、神の恵みと私達への愛に報い、神の指揮と計画に従い、神の働きに協力し、神が私達に委ねたことを完成するためにできる限りのことを行うことだけである。」
『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より
「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:13)
「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 2-3章)
「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書 10:27)
「人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。」
「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より
「神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。」
「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より
「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」
「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より
「終わりの日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、性質に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に、善は善に、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。……終わりの日には、義なる裁きのみが人を分類し、新しい領域に連れて行くことができる。この様に、時代全体に神の裁きと刑罰の義なる性質を通して終わりがもたらされるのである。」
「神の働きのビジョン(3)」より
「人々が神の働きを経験する時、神に対して最初に持つ認識は、神は計り知れず、賢明で素晴らしいということであり、彼らは無意識のうちに神を敬い、神の働きの神秘性を感じ、人の考えの及ばないものだと思う。人々はひとえに神の要求に応じられること、神の希望を満たせることを望み、神を超えようとは思わない。なぜなら、神の働きは人の考えや想像のおよばないものであり、人が神に代わって行うことはできないからである。人自身が自分の力不足を知らないのに、神は新しい道を開拓して、人をより新しく、より美しい世界へ至らせるようにしたので、人類は新たに進歩し、新しいスタートを切った。神に対して人が感じるのは称賛ではない、というより、称賛だけではない。彼らのもっとも深い経験は畏敬の念と愛であり、彼らの抱く感情は、神は実に素晴らしいということである。神は人ができない働きをし、人が言えないことを言う。神の働きを経験した人々はいつも言葉では言い表せない感情を経験する。より深い経験を持つ人々は特に神を愛する。彼らはいつも神の素晴しさを感じ、神の働きは非常に賢く、非常にみごとだと感じ、そう感じることによって彼らの中には限りない力が生み出される。それは恐れ、あるいは時折生じる愛と尊敬ではなく、人に対する神の慈悲と寛容を深く感じる気持ちである。しかし、神の刑罰と裁きを経験した人々は、神を威厳で、犯すことができないと感じる。」
「神の働きと人の働き」より
「その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。」
「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より
Ⅰ
言葉は人に、奥義と歴史をつらぬく神の業を理解させる
言葉は人に、聖霊の啓示を与え
長年の秘義を理解させ、預言者と使徒たちの業と
その業を行う際の原則を説き明かす
人の反抗と本質だけでなく
神の性質を言葉は知らしめる
Ⅱ
これらの業の段階と全ての言葉を通して人は知る
霊の業と神の受肉の業、更に神の性質の全様を
六千年の業も、言葉を通してあなたは認識できる
以前の観念を知りそれを捨てることも
言葉によって達成されるのではないか?
Ⅲ
最初の段階でイエスは奇蹟を行ったが
その後には行なっていない
言葉を通し、今奇跡がない理由をついに
理解したのではないか
この段階の言葉は
過去の使徒たちや預言者の業に勝る
預言者たちの預言でさえ
こんな結果は、ありえなかったはずだ
Ⅳ
預言者たちは未来を預言するだけで
神が当時なすべき業を語ることはできなかった
彼らは導きや真理や、奥義を告げるために
まして人に命を与えるために預言をしたのではない
Ⅴ
この段階の言葉は真理と預言を含み
おもに、人に命を授ける
ただの預言とは違い
現在の言葉は、命のため人の性質を変える
業の一段階
福音書|『言葉は肉において現れる』より