あなたは、ペテロとパウロの本質の違いから、いのちを追い求めない人の努力は全て徒労に終わるということを知るべきである。あなたは神を信じ、神に付き従っているのだから、心で神を愛さなければならない。自分自身の堕落した性質は脱ぎ捨て、神の望みを叶えることを追い求め、被造物としての本分を尽くさなければならない。あなたは、神を信じ付き従う以上、あなたの持つすべてを神に捧げ、自分の個人的な選択や要求は持たず、神の望みを満たすことに尽くすべきである。造られた者として自分を造った神に従うべきである。これは、あなたが元々自分を支配することができず、自分の運命を決める能力も持ち合わせていないからである。あなたは神を信じる者である以上、聖さと変化を追い求めるべきなのである。あなたは被造物であるから、本分を守り、自らの立場を守り、その本分を超えてはならない。これはあなたを束縛したり、教義によって抑えつけたりするものではなく、ひたすらあなたが本分を尽くすための道であり、義を尽くす人には必ず到達できる、また到達されるべき道である。ペテロとパウロの本質を比べてみれば、どのような方法で追い求めるべきかがわかる。ペテロとパウロが歩んだ道は、一つは完全に至る道であり、もう一つは排除に至る道であった。つまり両者は二つの異なる道を代表しているのである。いずれも聖霊の働きを受け、聖霊の啓きと照らしを受け、また両者とも主イエスから委されたものを引き受けたが、それぞれがもたらした実は違っていた。一方は実際に実を実らせ、もう一方は実を実らせなかった。あなたは両者の本質、働き、彼らが表面上で示してきたこと、そして彼らの結末から、どちらの道を選んで歩むべきなのかを知ることができなければならない。彼らは明らかに異なる二本の道を歩いた。パウロとペテロは、それぞれの道の典型的な例であり、初めからその二通りの道の特徴を示していた。パウロの経験では何が重要だったのか。そしてパウロはなぜ、神のものとされなかったのか。同時にペテロの経験では何が重要だったのか。彼はどのようにして完全にされることを経験したのか。彼ら二人が重要視した点を比べて見れば、神の求める人物像がどのようなものであり、神の心、神の性質が何であり、どのような人が最終的に完全にされるのか、どのような人が完全にされないのか、また、完全にされえる人の性質、そして完全にされない人の性質はどのようなものかを知ることができる。これらの本質に関する問題点がペテロとパウロの経験の中に全て見て取れる。神が万物を造ったのだから、全ての被造物が神の支配の下に帰し、神の権威の下に従うようにする。また神は万物を采配し、万事が神の手の中にあるようにする。動物、植物、人類、山や川、湖を含む、あらゆる被造物が神の権威の下に帰さなくてはならない。天の万物と地上の万物が神の権威の下に帰さねばならない。他に選択肢はなく、皆が神の指揮に従わなければならない。これは神によって定められたことであり、神の権威でもある。神はすべてをつかさどっていて、万物を整えて秩序立て、神の心に沿って、万物をその種類に従ってそれぞれの場所に配置した。どのような大きなものでも、神に勝るものは存在せず、万物は神の造った人類に仕え、あえて神に逆らったり神に何か要求したりするものは一つもない。よって人も、被造物としてその本分を尽くさなければならない。人が万物の主人であろうが支配者であろうが、また万物の中で人の地位がどれほど高かろうが、所詮は神の支配下における小さな一人の人間であるのだから、小さな人間または被造物以上ではなく、決して神を超えることはできない。人は、被造物としてその本分を尽くすこと、そして他の選択肢を持たないで神を愛することを追い求めるべきなのである。それだけ神は人に愛される価値があるのである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益あるいは望みを追い求めてはならない。そしてこれが追求の最も正しい形である。あなたが追い求めるものが真理であり、実践することが真理であり、それによってあなたが得るものが自分の性質の変化であるなら、あなたが歩む道は正しいのである。もしあなたが追い求めるものが肉的な祝福であり、実践するものが自分の考える真理であり、自分の性質に変化がなく、また肉において神に全く従わず、未だ曖昧さの中に生きているのであれば、あなたの追い求めるものはあなたを確実に地獄へと導くであろう。なぜなら、あなたの歩む道は失敗の道だからだ。あなたが完全にされるか排除されるかは、あなた自身の追求にかかっている。つまり、成功するかどうかはその人の歩む道にかかっていると言える。
2018年7月1日日曜日
【東方閃電】全能神教会御言葉の抜粋「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」5
あなたは、ペテロとパウロの本質の違いから、いのちを追い求めない人の努力は全て徒労に終わるということを知るべきである。あなたは神を信じ、神に付き従っているのだから、心で神を愛さなければならない。自分自身の堕落した性質は脱ぎ捨て、神の望みを叶えることを追い求め、被造物としての本分を尽くさなければならない。あなたは、神を信じ付き従う以上、あなたの持つすべてを神に捧げ、自分の個人的な選択や要求は持たず、神の望みを満たすことに尽くすべきである。造られた者として自分を造った神に従うべきである。これは、あなたが元々自分を支配することができず、自分の運命を決める能力も持ち合わせていないからである。あなたは神を信じる者である以上、聖さと変化を追い求めるべきなのである。あなたは被造物であるから、本分を守り、自らの立場を守り、その本分を超えてはならない。これはあなたを束縛したり、教義によって抑えつけたりするものではなく、ひたすらあなたが本分を尽くすための道であり、義を尽くす人には必ず到達できる、また到達されるべき道である。ペテロとパウロの本質を比べてみれば、どのような方法で追い求めるべきかがわかる。ペテロとパウロが歩んだ道は、一つは完全に至る道であり、もう一つは排除に至る道であった。つまり両者は二つの異なる道を代表しているのである。いずれも聖霊の働きを受け、聖霊の啓きと照らしを受け、また両者とも主イエスから委されたものを引き受けたが、それぞれがもたらした実は違っていた。一方は実際に実を実らせ、もう一方は実を実らせなかった。あなたは両者の本質、働き、彼らが表面上で示してきたこと、そして彼らの結末から、どちらの道を選んで歩むべきなのかを知ることができなければならない。彼らは明らかに異なる二本の道を歩いた。パウロとペテロは、それぞれの道の典型的な例であり、初めからその二通りの道の特徴を示していた。パウロの経験では何が重要だったのか。そしてパウロはなぜ、神のものとされなかったのか。同時にペテロの経験では何が重要だったのか。彼はどのようにして完全にされることを経験したのか。彼ら二人が重要視した点を比べて見れば、神の求める人物像がどのようなものであり、神の心、神の性質が何であり、どのような人が最終的に完全にされるのか、どのような人が完全にされないのか、また、完全にされえる人の性質、そして完全にされない人の性質はどのようなものかを知ることができる。これらの本質に関する問題点がペテロとパウロの経験の中に全て見て取れる。神が万物を造ったのだから、全ての被造物が神の支配の下に帰し、神の権威の下に従うようにする。また神は万物を采配し、万事が神の手の中にあるようにする。動物、植物、人類、山や川、湖を含む、あらゆる被造物が神の権威の下に帰さなくてはならない。天の万物と地上の万物が神の権威の下に帰さねばならない。他に選択肢はなく、皆が神の指揮に従わなければならない。これは神によって定められたことであり、神の権威でもある。神はすべてをつかさどっていて、万物を整えて秩序立て、神の心に沿って、万物をその種類に従ってそれぞれの場所に配置した。どのような大きなものでも、神に勝るものは存在せず、万物は神の造った人類に仕え、あえて神に逆らったり神に何か要求したりするものは一つもない。よって人も、被造物としてその本分を尽くさなければならない。人が万物の主人であろうが支配者であろうが、また万物の中で人の地位がどれほど高かろうが、所詮は神の支配下における小さな一人の人間であるのだから、小さな人間または被造物以上ではなく、決して神を超えることはできない。人は、被造物としてその本分を尽くすこと、そして他の選択肢を持たないで神を愛することを追い求めるべきなのである。それだけ神は人に愛される価値があるのである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益あるいは望みを追い求めてはならない。そしてこれが追求の最も正しい形である。あなたが追い求めるものが真理であり、実践することが真理であり、それによってあなたが得るものが自分の性質の変化であるなら、あなたが歩む道は正しいのである。もしあなたが追い求めるものが肉的な祝福であり、実践するものが自分の考える真理であり、自分の性質に変化がなく、また肉において神に全く従わず、未だ曖昧さの中に生きているのであれば、あなたの追い求めるものはあなたを確実に地獄へと導くであろう。なぜなら、あなたの歩む道は失敗の道だからだ。あなたが完全にされるか排除されるかは、あなた自身の追求にかかっている。つまり、成功するかどうかはその人の歩む道にかかっていると言える。
場所:
日本
2018年6月22日金曜日
【東方閃電】全能神教会御言葉の抜粋「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」2
ペテロは、完全にされた人だった。彼は、神の刑罰と裁きを経験し、神への純粋なる愛を持て初めて、完全にされたのである。彼の歩んだ道は、完全にされるための道だったのである。要するに、最初から、ペテロの歩んだ道は正しく、彼が神を信じる動機もまた正しいものであったから、彼は完全にされるような人となったのである。かれは人が歩んだことのない新しい道を歩んだが、パウロが最初から歩んだ道はキリストに逆らうものであり、ただ聖霊がパウロを用い、彼の賜物、彼のあらゆる長所を利用して仕事をしようというだけで、彼はキリストのために何十年も働いたのである。パウロは聖霊に用いられただけで、キリストがパウロを好意的に見たから用いたのではなく、ただその賜物ゆえだったのである。パウロがキリストのために働くことが出来たのも、喜んでそうしたかったからではなく、聖霊に打たれてそうしたのである。彼がそのような働きができたのも、聖霊による導きと啓きによるもので、彼の働きが彼の追求や人間性を表しているのでは決してない。パウロの働きは、しもべのそれ、つまり一人の使徒の働きを表しているのである。しかしペテロはそうではなかった。彼も何かしらの働きをなしたが、パウロの働き程のものではなかった。ペテロは、自分の霊的な成長を追い求める中で働き、そして彼の働きはパウロのそれとは異なるものだった。ペテロの働きは、被造物の本分を尽くしたものである。彼は使徒としての立場で働いたのではなく、神への愛を追い求める過程の中で働いたのである。パウロもまた、働きの過程で個人的な追求が含まれていたが、彼の追求は、彼の将来への希望と良き終着点への願い以外にはなかったのである。パウロは、働きを行う間、精錬を受け入れなかったし、神による刈り込みや取り扱いも認めなかった。彼は自分の働きが神の望みを満たしてさえいれば、そして神に喜ばれることだけをしてさえいれば、最終的に見返りが与えられると信じていた。パウロの働きには個人的な経験は一切なく、働きそのもののためにあり、変化を追い求める中で働いたのではなかった。その働きの全ては取り引きであって、被造物としての本分や神への服従は含まれていなかった。その働きの過程において、パウロの古い性質には何ら変化はなかった。彼の働きは単に他者への奉仕であり、自らの性質を変えることはできなかったのである。パウロは完全にされることも神による取り扱いを受けることもなく、自分の働きを直接行い、見返りを動機として働いたのである。その点ペテロは違った。彼は、神による刈り込みを受け、取り扱われ、精錬された。ペテロの働きの目的と動機は、パウロのそれとは根本的に違っていた。ペテロはそれほどたくさんの働きをなしたわけではないが、彼の性質は多くの変化を経験し、彼が追い求めたものは真理であり、真の変化であった。彼の働きは単に働きそのもののために行われたのではなかった。一方でパウロは多くの働きをなしたが、それらは全て聖霊の働きであって、パウロは協力していたものの、それは彼の経験によるものではなかったのである。ペテロの働きが少ないのは、聖霊が彼の身にそれほど働きを行わなかったということである。
その働きの量では、彼らが完全にされたかどうかは決まらない。彼ら二人の内、一人は見返りを得るために追い求めたのに対し、もう一人は、神の究極の愛へ到達し、被造物としての本分を尽くすことを追い求め、神に満足してもらうために愛に満ちた姿を実現することを求めた。彼らは、外見も違えば中身も違うのだから、二人の内のいずれが完全とされたのかを、それぞれの働きの量だけで決めることはできない。ペテロは、神を愛する人の姿を実現してみせること、神に従い、神による刈り込みや取り扱いを受け入れ、そして被造物としてのその本分を尽くす者になることを追求した。彼は自らを神に捧げ、全てを神の手に委ね、そして死ぬまで神に従った。ペテロはこのように決意し、実際その通り成し遂げた。これが、ペテロの最後がパウロのそれと異なる根本的な理由だ。聖霊がペテロに対して行った働きは、彼を完全にするものであり、一方で聖霊がパウロに対して行った働きは彼を利用するためであった。それは、この二人の本性、そして追求に対する考え方が同じではなかったからである。両者とも聖霊の働きを受けたが、ペテロはそれを自分自身に実際に用い、そして他者にも与えた一方で、パウロは、聖霊の働きの全てを他者に与え、自らは一切何かを得ることはなかった。このように、聖霊の働きを長年経験した後、パウロ自身の変化はほとんど無きに等しかった。彼は、自身の自然体を維持し、以前のパウロのままであった。それは単に長年の働きによる試練を乗り越えた後に、働く方法と忍耐力を学んだだけであり、彼の本来の性分、つまり非常に負けず嫌いで、貪欲な本性は、相変わらずそのままであった。そうして長年働いた後、パウロは、自分の堕落した性質も自覚していなければ、以前の古い性質も捨てていなかったため、それらの古い性質が彼の働きにおいても明らかに見て取れた。彼の働きの経験量そのものは多かったが、それでもその経験量では僅かすぎて、彼自身そして彼の追求の存在価値や意義に対する考え方を変えることはできなかったのである。彼は長年キリストのために働き、二度とキリストを迫害することはなかったが、彼の心の中では神に対する認識が変わることはなかった。それはつまり、彼は神に奉仕するために働いていたというより、彼の将来の終着点のためにやむなく働いていたのである。パウロは最初キリストを迫害し、キリストに従わなかった。つまり、本来彼は意図的にキリストに逆らった人間で、聖霊の働きについての知識を何も持っていなかった。パウロはその働きの終りにあっても、まだ聖霊の働きを知らなかったし、聖霊の意思に僅かな注意も払うことなく、元来の自分の性格に沿って単独で行動していただけである。従って、彼の本性は、キリストに敵対するものであり、真理には従わないものである。このように聖霊の働きに見捨てられた者、聖霊の働きを知らなかった者、そしてキリストに敵対した者、そんな人間がどうして救われるというのか。人が救われるか否かというのは、働きの量や献身の度合いによるのではなく、聖霊の働きを認識しているかどうか、真理を実践できるかどうか、そしてその追求に対する考え方が真理と一致しているかどうかで決まるのである。確かにペテロもキリストに従い始めてから、天然の表現があったが、本性から言えば、最初から彼は喜んで聖霊に従い、キリストを追い求めた人であった。彼の聖霊への服従は純粋なものであり、彼は富や名声を追い求めず、真理に従うことが動機だった。ペテロは三度キリストを否定し、主イエスを試したが、そのような僅かな人間の弱さは、彼の本性には関係しないし、彼の将来の追求に影響を及ぼさない。さらに彼の試みが反キリスト的であったということを充分に証明するものでもない。普通人間の弱さというものは、この世の万人に共通するものであるが、ペテロも同じではないだろうか。人がペテロに対して偏見を持っているのは、ペテロが幾つか愚かな間違いを犯したからではないか。人は、パウロが行った多くの働きや彼が書いた多くの書簡から、パウロを賞賛しているのではないか。一体どうやって人が人の本質を見極めることができるというのか。真に、本当の良識を持つ人であれば、こんな取るに足らないことさえ見極められないのだろうか。
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