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2020年8月20日木曜日

東方閃電. 全能神教会 日々の神の御言葉「唯一無二の神自身 9」抜粋185


日々の神の御言葉「唯一無二の神自身 9」抜粋185

人々が心の中で神を認識している度合いは、神がそれらの人の心を占めている度合いでもあります。心の中でどれほど神のことを知っているかは、その人の心の中で神がどれほど偉大か、ということでもあります。あなたの知る神が空虚で漠然としていれば、あなたが信じる神もまた空虚で漠然としています。あなたの知る神が自分の個人的生活の範囲に限定されている場合、あなたの神は極めて小さな神であり、真の神と何の関係もありません。ゆえに、神の実際の業、神の現実、神の全能、神自身の真の身分、神が所有するものと神そのもの、神が万物においてあらわした業を知ることは、神の認識を追い求めるひとりひとりにとって極めて重要なことなのです。それらは、人が真理の現実に入れるかどうかに直接関係しています。神に関する認識が言葉だけに限られる場合、あるいは自分自身の数少ない経験や、あなたが神の恵みと考えるものや、あなたのささやかな神の証しだけに限られる場合、あなたが信じている神は絶対に真の神自身ではないと断言します。それだけでなく、あなたが信じる神は想像上の神であり、真の神ではないとも言えます。なぜなら、真の神は万物を支配し、万物の中で歩み、万物を管理する神だからです。その神こそが、人類全体と万物の運命をその手中に握っている神なのです。わたしが話している神の働きと業は、ごく一部の人々に限られるものではありません。つまりそれらは、現在神に付き従う人に限定されないのです。神の業は、万物の中に、万物の生存の中に、そして万物が変化する法則の中にあらわされています。

すべての被造物における神の業を見ることも、それを認識することもできないのであれば、あなたは神の業を何ひとつ証しできません。神の証しをすることができず、自分が知っている小さな「神」、自分自身の考えに限定され、自分の狭い心に閉じ込められた神について語り続けるなら、つまりそのような神について語り続けるなら、神があなたの信仰を讃えることは決してありません。神の証しをするとき、自分がいかに神の恵みを享受し、神の鍛錬と懲らしめを受け、また神の証しをする中でいかに神の祝福を享受しているかという観点からしかそうしないのであれば、それはまったく不十分であり、神に満足してもらうには程遠いものです。神の旨にかなう形で神の証しをしたい、真の神自身の証しをしたいのであれば、神が所有するものと神そのものを神の業から理解しなければなりません。神による万物の支配から神の権威を理解し、神が全人類に施すという真実を理解する必要があるのです。自分の日々の糧や生活必需品が神に由来することを認めるだけで、神はすべての被造物を用いて全人類に施すという真実、また万物を支配することで全人類を導いているという真実を理解できないのであれば、神の証しは決してできません。これで完全に理解しましたね。わたしがこのように言う目的は何ですか。あなたがたがそれを軽視しないようにすること、わたしの話したことは自分のいのちへの入りと無関係であると考えないようにすること、そしてこれらの事項は単なる知識や原理に過ぎないと思わないようにすることです。そうした態度でわたしの言うことを聞くならば、あなたがたは何ひとつ得られません。そのことを忘れませんか。きっと忘れないはずだと思います。

わたしがこれらのことを話す目的は何ですか。人々に神を知らしめること、神の実際の業について理解させることが目的です。神を認識し、神の業を知って初めて、神を知る機会と可能性が生じます。たとえば、ある人について理解したい場合、あなたがたはどのようにしてその人のことを理解するようになるでしょうか。その人の外見を観察することによってでしょうか。その人の着衣や着こなし方を観察することによってでしょうか。その人の歩き方を観察することによってでしょうか。その人の知識の範囲を観察することによってでしょうか。(違います。)それでは、あなたがたはどのようにしてその人のことを理解しますか。その人の言動、思考、およびその人があらわしたり晒したりする自分自身についての物事に基づいて判断します。これが、あなたがたがその人を知り、理解するようになる方法です。同様に、神を知り、神の実践的側面、神の真の側面について理解したいのであれば、神の業、そして神が行うひとつひとつの実践的な事柄を通じて神を知る必要があります。これが最善かつ唯一の方法です。


2020年8月4日火曜日

東方閃電 全能神教会 日々の神の御言葉「神は人間のいのちの源である」抜粋258



日々の神の御言葉「神は人間のいのちの源である」抜粋258

あなたが泣き声を上げてこの世にやって来るその瞬間から、あなたはあなたの本分を果たし始める。あなたは、神の計画と神の定めにおいてあなたの役割を担う。あなたは人生の旅路を始めるのである。あなたのこれまでの背景がどうであろうと、あなたのこれからの旅路がどのようなものであろうと、天が備えた指揮と采配を逃れることができる者はひとりもおらず、自分の運命を支配できるものはいない。万物を支配する神のみが、そのような働きを行うことができるからである。人が誕生した日から、神は一貫して自分の働きを及ぼしてきた。そしてこの宇宙を経営し、万物の変化と動きを方向づけてきた。万物と同様に、人は神から甘美さや雨露という滋養物を、そっと、知らないうちに、受け取っている。万物と同様に、人は知ることもなく神の手による采配の下で生きるのである。人の心と霊は神の手の中に掌握され、人の生活全ては神に見られているのである。あなたがこのことを信じようと信じまいと、ありとあらゆるものが、生けるものも死せるものも、神の考えに従い、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が万物を支配する方法である。

夜が忍び寄っても人は気づかない。なぜなら、人の心は、どのようにして暗闇が近づくのか、それがどこから来るのか知覚できないからである。夜が静かに過ぎ去るとき、昼を迎えても、人はそれがどこからやって来たのか、どのようにしてそれが夜の暗闇を追い払ったのか、人の心ははっきり知ることなど到底なく、気づくこともない。そのような昼と夜の周期的な交替は、時代を進みながら、人をひとつの時期から別の時期へと連れていくと同時に、神の働きと神の計画が、それぞれの時期を通じて、あらゆる時代を通じて、遂行されることを確実にする。神とともに時代を通り抜けてきたのに、神が万物と生けるものの運命を支配することや、神がどのようにして万物を指揮し方向づけるのかを、人は知らない。これは遥か昔から今日まで、人には分からないことである。その理由は、神の業があまりに見えにくいからあるいは神の計画がまだ実現されていないからではなく、人の心と霊が神から離れすぎているからである。したがって、人が神に付き従っているときでも、彼は知らないうちにサタンに仕え続ける。誰も神の足跡や出現を自発的に探し求めないし、誰も神の配慮と守りのもとで存在することを望まない。むしろ、人は、この世と、不正な人類が従う生存の法則に適応するために、喜んで悪であるサタンの腐敗に頼ろうとする。この時点で、人の心と霊はサタンに捧げられ、サタンの食物となる。さらに、人の心と霊は、サタンが住む場所になり、サタンの恰好の活動場所となる。このようにして、人間であることの根本的原則についての理解と、人間存在の価値と目的についての理解を、人は気づかないうちに失うのである。神からの律法と、神と人の間の契約は、人の心のなかで徐々に消えていき、やがて人はもはや神を求めたり、神を心に留めたりしなくなる。時が過ぎるにしたがって、人は、なぜ神が人を創造したのか理解しなくなり、もはや神の口から来る言葉を理解しなくなり、神からくるものすべてを認識しなくなるのである。人は神からの律法と掟に反逆し始め、人の心と霊は無感覚になっていく…。神は神の本来の創造物である人を失い、人は自分が始まったその起源を失うのである。これは今の人類の悲しみである。実を言えば、まさに最初から今まで、神は、人類のための悲劇を上演してきた、そしてその舞台では、人が主人公と犠牲者の両方を演じる。この悲劇の監督は誰であるのかについては、誰も答えられない。

2020年7月2日木曜日

東方閃電 全能神教会 キリスト教映画「変えられる瞬間」抜粋シーン(2)神の国に招き入れられる唯一の道


キリスト教映画「変えられる瞬間」抜粋シーン(2)神的国に招き入れられる唯一の道
神はその一言で天と地とすべての物を創造され、死者さえも甦えらせたのだから、終わりの日において主が再臨される時には、私たちの姿も一瞬にして聖なる者へと変え、天に引き上げ、主の御前に立たせてくださる、とある人々は信じていますが、本当にそのように神の国に招き入れられるのでしょうか?終わりの日の神の再臨の働きとは、私たちが想像するような単純なものなのでしょうか? 神は、「物事を安易に考え過ぎてはならない。神の働きは、どの普通の働きとも異なるものだ。そのすばらしさは人間の頭では考えることができず、その知恵は人間が獲得できるものではない。神は万物を創造しているのでも、それらを破壊しているのでもない。むしろ、神は自分の創造物を変え、サタンによって汚されたすべてのものを清めているのだ。それゆえ神は大規模な働きを始める。そして、これが神による働きの意義の全てである。以上を読み終えたあなたは、神の働きが簡単だと思うだろうか。」と仰っています。神の働きと神の知恵を推し量ることができる人などいません。終わりの日に、信じる者たちをどのように引き上げるのか、いかにして裁きの働きによって人々の罪を清めるかという神秘を明らかにできるのは、神のみです…この短編作品では、神の再臨において天の国に招き入れられるための唯一の道についてお見せします!

2020年6月27日土曜日

東方閃電 全能神教会 キリスト教映画「足枷を解いて走れ」抜粋シーン(3)聖書の先へ:主と共に神の国の宴に集いなさい 日本語吹き替え


キリスト教映画「足枷を解いて走れ」抜粋シーン(3)聖書の先へ:主と共に神の国の宴に集いなさい 日本語吹き替え
主を信仰する多くの人はこう考えています。神の御言葉と御働きはすべて聖書に書かれていて、聖書に書かれている神の救いは、それがすべてである、と。そして、神への信仰は聖書に基づいたものであるべきであり、信仰が聖書に基づいたものであれば、私たちは必ず神の国に招き入れられる、と。 こうした宗教的な概念は、私たちの心を縛り抑制する見えない縄のように作用し、そのため聖霊の御働きを探し求めることもせず、今行われている神様の御働きに服することができなくなります。それではどうやって、聖書と神様、あるいは聖書と神様の御働きとのつながりを理解することができるのでしょうか?「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。 」(ヨハネによる福音書5:39-40)全能神が言われます。「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。」(『言葉は肉において現れる』より)神の御前に立ち、主の救いを受け、主と共に神の国の宴に集うためには、聖書から離れるよりほかにありません。

2020年6月3日水曜日

東方閃電 全能神教会 キリスト教映画「神を再び磔にするのは誰か」終わりの日にパリサイ人が再び現れた 日本語吹き替え 完全な映画のHD2018


キリスト教映画「神を再び磔にするのは誰か」終わりの日にパリサイ人が再び現れた 日本語吹き替え 完全な映画のHD2018 古守城は中国の家庭教会の牧師です。長年にわたり主を信仰し続けており、常に説教の事におもいを巡らせ、周りに福音を説き続けてきました。彼は福音を説いたために逮捕され、12年間服役しました。刑務所から出所した後も、古守城は教会で働き続けました。しかしながら、全能神の王国の福音が古守城の属する教会にもたらされたとき、彼はそれについて求めたり調べたりせず、頑固に彼自身の思い込みと決めつけにこだわって終わりの日の神の働きを非難し、思い込みと誤謬を広めるためにあらゆる手を使い、信者が真実の道を受け入れるのを妨げようとします。更に古守城は全能神の言葉を読んだ後、その言葉が本当に権威と力を持ち、聞くものすべてを説得する力があることに気づき、全能神の言葉を読んだ者はみな全能神の信者になると深く怖れを抱くようになりました。そして、今の地位と生活が維持できないことを恐れるようになりました。そこで、古守城は長老の王森その他と協議し、全能神を非難し攻撃する中国共産党政府によって流布される噂を利用して人々を欺くことを決めました。古守城と王森は必死で教会に全能神の教えが入らないようにして人々が真実の道を受け入れるのを妨げ、中国共産党の悪魔的な政権と協力までし、全能神の証しをするものを逮捕し迫害します。彼らの行動は深刻に神の性情を侵し、神の呪いがふりかかります。王森は王国の福音を広める人たちを逮捕に向かう途中、交通事故に遭い、その場で亡くなります。古守城は恐怖と絶望の中でパニックに襲われます。彼は頻繁に自問します。「私の全能神への非難は神を再び十字架に磔にすることなのだろうか。」

2020年5月26日火曜日

東方閃電 全能神教会 キリスト教映画「呪縛を解く」抜粋シーン(1)終わりの日における主の再臨をどうお迎えするべきか


キリスト教映画「呪縛を解く」抜粋シーン(1)終わりの日における主の再臨をどうお迎えするべきか 赤い皆既月食はすでに4度ありました。このことは、大災害が間もなく私たちに降りかかることを意味しています。ヨエル書にも同じような予言があります。「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。ヤーウェの大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。」(ヨエル書 2 : 29-31)大災害が私たちに降りかかる前、神の霊はそのしもべやけらいたちを養い、勝利者たちの集団を作り上げるでしょう。もし私たちが大災害の前に引き上げられなければ、この災害で命を落としかねません。今、東方閃電は主が再臨され、真理を示し、勝利者たちの集団を作られたとの証しをしています。これは聖書の予言を成就していませんか?東方閃電は主の働きの現れではないのでしょうか?

2020年5月16日土曜日

東方閃電 全能神教会 日々の神の御言葉「神の現れによる新時代の到来」(抜粋 1)


六千年間にわたる神の経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求める人々にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。神の現れを待っているのか。神の足跡を探し求めているのか。ああ、神の現れがどれほど慕わしいものか。だが、神の足跡を見出すことがいかに難しいことか。今のような時代に、このような世界で、神の現れる日をこの目で見るために何をしなくてはならないのだろうか。神の足跡をたどるには何をしなければならないのだろうか。神の現れを求める人であれば、だれでもそのような疑問を持つものである。あなたがたもそのような疑問を抱いたのは一度や二度ではないと思うが、その結果はどうだったか。神はどこに現れるのか。神の足跡はどこで見つかるのか。そうした疑問に対する答えは見つかっただろうか。そうした問いに対して、次のように答える人が多い。「神は自分に聞き従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。そんなに難しいことではない。」決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神が仕事を行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質は保ったままで、また神自身の方法で、神は時代を始め、時代を終わらせるために人間世界に下ってきた。このような神の現れは儀式のようなものではない。それは何かのしるしでも、絵画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な儀式でもない。それは、実際に手で触れ、見ることのできる動かしがたい事実である。このような神の現れは何かの手順を踏むためのものでも、短期間の仕事のためのものでもない。それは、神の経営(救いの)計画の中にある一つの段階を実現するためのものである。神の現れは必ず何かの意味があり、必ず神の経営(救いの)計画と関係している。ここで言う現れは、神が人を導き、先導し、啓くときの現れとは全く異なる。神は自身を現す度に、神の大いなる業の一つの段階を実行に移すのである。この働きは他のどの時代の働きとも異なる。それは人には想像もできないもので、人が経験したことがないものである。その働きは、新しい時代を到来させ、古い時代を完結させるもので、新しい、一歩進んだ、人類を救う働きである。さらには、人類を新しい時代に導き入れる働きである。神の現れが持つ意義はそこにある。  神の現れについて理解するとともに、神の足跡をどのように探し求めるべきなのだろうか。この問いに答えるのはさほど難しくはない。神の現れがあるところで神の足跡も見つかるからだ。そう言うと単純に聞こえるが、実際に見つけるのは単純なことではない。多くの人は、神がどこで自分を現すか、ましてや神がどこで自分を現したいか、現すべきかを知らないからである。ある人々は、聖霊の働きがあるところには神が現れると何の考えもなく思っている。または、霊的な指導者がいるところに神が現れると思っている。あるいは、人々の知名度が高いところに神が現れると思っている。そうした考えが正しいかどうかは、今のところは深く考えないでおこう。このような問題を解説するには、まず目的をはっきりさせる必要がある。私たちが探し求めているのは神の足跡である。霊的な指導者を求めているのでもなく、ましてや有名人でもない。私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。人の本分は、探し求め、受け入れ、従うことである。  アメリカ人でも、イギリス人でも、どこの国の人でも、自分という枠を乗り越え、自分という存在を超越し、神の創造物として神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはないだろう。それは、特定の国や民族に神が現れることはないだろうと考えている人が多いからである。ああ、神の働きの意義はなんと深く、神の現れはなんと重要か。それは人の観念や考えで測ることなどできるのだろうか。そのため、神の現れを探し求める際には、みずからの国籍や民族性という枠を突き抜けるべきである。そうすれば、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを喜び迎えることができる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。 『言葉は肉において現れる』より引用

2020年5月6日水曜日

東方閃電 全能神 日々の神の御言葉「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」(抜粋2)


日々の神の御言葉「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」(抜粋2) わたしはわたしの栄光をイスラエルに与え、その後その栄光を移す、そしてイスラエルの人々を東方へ連れて行き、すべての人々を東方へ連れて行った。わたしは彼らをみな「光」へと導いた、彼らが光と再会し、光と交わり、それ以上探す必要がないように。わたしは探し求めているすべての者が再び光を見て、わたしがイスラエルで持っていた栄光を見られるようにする。わたしはずっと前に白雲に乗って人々の間に降ったことを彼らが理解するようにし、無数の白い雲と豊かな果実、さらにはイスラエルの神ヤーウェを見るようにしよう。わたしは、彼らがユダヤ人の「先生」、待望のメシア、そして歴代の王たちによって迫害されてきたわたしの完全な姿を見上げるようにする。わたしは、全宇宙の働きを行い、偉大な働きをし、わたしの栄光のすべてとわたしの業すべてを、終わりの日に人々に表す。わたしは、わたしの栄光に満ちた全容を、長年わたしを待った人々、わたしが白雲に乗って下るのを熱望してきた人々、わたしが再び現れるのを熱望してきたイスラエル、そしてわたしを迫害するすべての人類に見せる。それによって、すべての者はわたしがずっと前にわたしの栄光を取り去ってそれを東方へもたらしていたことを知るだろう。それはもはやユダヤにはない、なぜなら終わりの日はすでに来ているからである。 宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々や宗派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。「贖い主」が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の「オリーブ山」に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、「ユダヤ人の息子」ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。 『言葉は肉において現れる』より引用