2019年6月28日金曜日
清めと聖を得ているものは何か
資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理にさらに深く入ることを許す。彼の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、彼の行う働きは個々の人によって変わることができ、規則にとらわれず、人々に解放と自由を認める。さらに、人々は徐々にそのいのちにおいて成長し、真理に向けて深く着実に進むことができる。資格のない働き手の働きははるかに不十分で、ばかげている。彼は人々を規則にはめ込むだけで、人々に要求することは個々の人によって変化しない。彼の働きは人々の実際のニーズに従っていない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人々をいのちにおける現実や正常な成長の実践に至らせることができない。人々はわずかな価値のない規則を守ることができるようになるだけであり、この種の指導は人々を迷わせるだけである。彼はあなたを自分に似たものになるよう導く。あなたを彼が持っているものや彼そのものの中に引き込むことができる。導き手に資格があるかどうかを信奉者が見定める秘訣は、彼らが導く道と彼らの働きの結果を見ること、および信奉者が真理に従った原則を受け取るかどうか、自分たちが変わるのにふさわしい実践方法を受け取るかどうかを見ることである。あなたは異なる種類の人々の異なる働きの違いを識別しなければならない。愚かな信奉者になってはならない。これはあなたの成長の問題に影響を及ぼす。どの人の指導には道筋があり、どの人の指導にはないかを見極めることができなければ、あなたは簡単にだまされるだろう。これらすべてはあなた自身のいのちに直接関連している。
『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より
聖霊の現在の働きに従わない人々は神の言葉の働きに入っておらず、どれほど働こうとも、苦しみがどれほど大きくとも、どれほど右往左往しようとも、そのどれも神には意味がなく、神はそんな人々を賞賛しないであろう。今日、神の現在の言葉に従う人々はみな聖霊の流れの中にある。神の現在の言葉を知らない人々は聖霊の流れの外にあり、そのような人々を神は賞賛しない。聖霊の現在の言葉から離れた奉仕は肉の奉仕であり、観念の奉仕であり、神の心に従うことができない。人々が宗教的観念の中に生きるなら、神の心に見合うことをすることはできず、たとえ神に奉仕しても、それは想像や観念のただ中での奉仕であり、神の心に従って奉仕することはまったくできない。聖霊の働きに従うことができない人々は神の心を理解せず、神の心を理解しない人々は神に奉仕できない。神は神自身の心に従う奉仕を望む。神は観念と肉の奉仕を望まない。人々が聖霊の働きの歩みに従うことができないのであれば、観念の中に生きているのであり、そのような人々の奉仕は中断し混乱する。その奉仕は神に反し、そのため神の歩みに従えない人々は神に奉仕できない。神の歩みに従えない人々は、間違いなく神に反対しており、神と調和できない。
『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より
人の心の中の働きは人によってあまりにも容易に達成される。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人物を後になって仕事に就き、指導する有能な神学校卒業生に育てることである。
『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より
多くの人々がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の快楽から離れることをいつも恐れている。彼らは教会で通常の役割を果たさず、無料で食べ、あるいは、兄弟姉妹をわたしの言葉で訓戒し、自分を高くして、他人に対して威張る。これらの人々は神の旨を行っていると言い張って、自分は神と心を一つにする者だといつも言う──これはばかばかしくないだろうか。あなたが正しい動機を持っていても、神の旨に沿って仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし動機が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く者であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人々にはまったく同情しない。神の家で、彼らは無料で食べ、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものばかりを求め、神の心には何の注意も払わない。彼らのすることは神の霊に見られることはない。彼らはいつも状況を操り、兄弟姉妹に対して陰謀を企んでいる。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神と心を一つにする者になれるだろうか。あなたは神の祝福を受けるにふさわしいだろうか。あなたは自分のいのちにも教会にも責任を持っていないのに、神の任務を受けるのにふさわしいだろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するだろうか。あなたがこのような形で仕えるなら、神はあなたにあえて大きな任務を託すだろうか。あなたは物事を先延ばしにしているのではないか。
『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より
あなたは自分の元来の性格のまま、また個人的好みに従って神に仕えている。さらに、自分が行いたいことが何であれ、神はそれを喜び、行ないたくないことが何であれ、神はそれを嫌うとあなたは思い続けている。そして働きにおいては、自分の好みに完全に左右されている。これを神への奉仕と呼ぶことができるであろうか。あなたのいのちの性質は、究極的には少しも変えられることはない。それどころか、自分は神に仕えているのだからと、ますます頑固になり、そのため、堕落した性質はさらに深く根付いたものとなる。このようにして、おもに自分の性格にもとづいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に従った奉仕から派生する経験をあなたは内面的に作り上げるようになる。これは人間の経験から来る教訓である。人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人と宗教官僚に属する。このような人々は目を覚まし悔い改めないならば、最後には終わりの日に出現する偽キリストとなり、人間を騙す者となるであろう。話しにでる偽キリストと詐欺師は、この種の人から現れる。もし神に仕える人々が自分たちの性格に従い、自分たちの意思のままに行動したならば、彼らはいつでも追放される危険にある。他人の心を獲得し、見下すような態度で他人に訓戒し人々を制限するために自分の長年の経験を神への奉仕に応用する人、そして決して悔い改めず、自分の罪を告白せず、地位からくる恩恵を諦めない人は、神の前に倒れるであろう。このような人はパウロと同類の人間であり、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりする。神がこのような人々を完全にすることはない。このような奉仕は神の働きのじゃまをする。
『言葉は肉において現れる』の「宗教的な奉仕の仕方は禁止されなければならない」より
あなたは、砂浜の砂ほど大量の認識を語ることが出来るが、そのうち実際の道が含まれている認識は皆無である。その点において、あなたは人々を欺いているのではなかろうか。あなたは有言不実行ではなかろうか。このような行動は人々に有害である。理論が高尚であればあるほど、現実性が一層欠如し、人々を現実性に導くことが一層不可能となり、またあなたはそのために一層神に背き反抗するようになる。最も高尚な理論を貴重な宝のように扱ってはならない。それは悪質であり、一切無益である。最も高尚な理論を語ることが出来る者も居るであろうが、そうした理論には現実性が一切含まれていない。なぜなら、そうした者は自分でそれを経験しておらず、したがって実践の道を一切知らないからである。そうした者は人間を正しい道に導くことが出来ず、人々を惑わせるだけであろう。それは人々にとって有害ではなかろうか。最低限度として、あなたは現在の問題を解決し、人々が成長出来るようにすべきである。そうした状態のみが献身として認められ、そうして初めて、あなたは神のために働く資格を得るであろう。常に尊大で非現実的な言葉ばかりを語ったり、不適切な実践を数多く用い、人々を拘束して自分に従わせたりしてはならない。そのような行動は全く効果が無く、益々人々を困惑させることしか出来ない。そのようにして人々を導くことにより、数多くの規則が生み出され、そうした規則が原因で人々はあなたを嫌悪するであろう。それは人間の欠点であり、極めて癪に障るものである。
『言葉は肉において現れる』の「現実性に一層重点を置くこと」より
神が肉となり、人々の間で働くようになると、すべての人がその目で神を見、神の言葉を聞き、すべての人が肉にある神の業を見るのだ。その時、人のすべての観念は溶けて泡となる。神が肉として現れるのを見る人々についていえば、従順さを心に持つ者は皆罪に定められることがないが、意図的に神に敵対する者たちは神の敵とみなされる。このような人間は反キリストで、故意に神に対立する敵である。……肉となった神に意図的に敵対する者たちは不従順を理由に罰せられる。彼らの神に対する意図的な反抗は神に関する彼らの観念が原因であり、それは神の働きを混乱させる結果を生む。そのような人々は承知の上で神の働きに抵抗し、それを破壊する。彼らは単に神に関する観念を持っているだけでなく、神の働きを阻害する行動をとる。それ故このような人々は罪に定められることになる。
『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より
最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。そのような者は常に神の新しい働きに対して敵対する態度をとり、従う意志など微塵も示さず、喜んで服従を示すことや謙虚になることなど一度たりともないのである。他の人たちの前で得意になり、誰に対しても従うことをしない。神の前では、自分が説教者として最も長けており、他の人に働きかけることに自分が一番熟練していると考える。自分が獲得した宝を決して手放そうとせず、家宝として拝み、説教の題材にし、自分を崇拝するような愚か者への訓戒に用いる。このような人が、教会内に確かに数名存在する。このような人々は、「不屈の英雄」と呼ぶことができ、世代を超えて神の家に留まるのである。彼らは神の言葉(教義)を語ることを自分の最高位の本分と解釈する。何年も、何世代も、彼らは精力的に自らの「神聖で犯すべからざる」本分を続ける。彼らに触れる者は誰ひとりおらず、公然と非難する者もひとりもいない。神の家で「王」となり、何代にも亘ってはびこり、他の者を圧制する。このような悪魔の一団は、互いに手を組んでわたしの働きを潰そうとする。このような生きた悪魔をわたしの目の前に生かしておけるだろうか。
『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より
あなた方が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなた方自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなた方が元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。人は、神を求め、経験する過程で、神に対する認識を得るようになる。つまり、気まぐれに神を批判する中で聖霊の啓発を受けて神を認識するのではない。神に対する認識が正しいほど、人は神に反発しなくなる。逆に、神への認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格や道徳観は、あなたが神に逆らう「資本」であり、あなたが堕落して下劣で低俗であるほど、あなたはますます神の敵対者になる。欲深い観念の持ち主や独りよがりな性質の者は、さらに受肉した神の憎しみを買い、そのような人たちは反キリストである。
『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より
荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。
『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より
受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。
『言葉は肉において現れる』の「序文」より
神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。真のキリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。
『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より
受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性も、神性も父なる神の心に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。
……
キリストは肉において神自身を現わし、神自身のするべき働きを自ら遂行するけれども、天の神の存在を否定したり、自身の業を大々的に公表したりしない。むしろ、謙虚に自身の肉のうちに隠れたままでいる。キリスト自身以外でキリストを偽って名乗る者はみな、キリストの性質を持ってはいない。そのような偽キリストの高慢で自画自賛的な性質をキリストの性質と比べたならば、キリストの肉がどのようなものであるかは明白である。偽りの多い偽キリストであればあるほど自分自身を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の属性を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、単に人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、彼は働きを通して彼の身分を明確にし、彼の現すものによって彼の本質を証明する。彼の本質は根拠のないものではない。彼の身分は自身の手によって握られてはいなかった。それは彼の働きと本質によって決定される。……
キリストの働きと現れはキリストの本質を決定する。キリストは託された働きを真心を持って完成することができる。キリストは天の神を心から崇拝し、真心を持って父なる神の心を求めることができる。これはすべてキリストの本質によって決定されている。そしてキリストの自然な現れもキリストの本質によって決定されている。キリストの「自然な現れ」と呼ばれるのは、キリストの現れが模倣でも、人による教育の結果でも、人による長年の育成の結果でもないからである。キリストはそれを学んだのでも、それでわが身を飾ったのでもない。むしろ、それはキリストのうちに本来備わっているものである。
『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より
この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約はメシアの到来を預言した。それでイエスが来たのだ。だから、別のメシアがまた来るというのは、間違っている。イエスはすでに一度来た。だから、イエスがこの時代に再び来るというのは、間違いだ。すべての時代は一つの名をもち、その名は各時代を表している。人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、神は今回決してそのようなことはしない。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。
『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より
悪霊に取りつかれ「私が神だ!」としつこく叫んでいる人たちがいる。しかし、最後まで彼らは立ち続けていることはできない。というのは、彼らは自分が何を表しているかに関して誤っているからである。彼らはサタンを表し、聖霊は彼らに何の注意も払わない。自分をどれほど高く褒めたてても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、「わたしは神である、わたしは神の愛するひとり子である」と叫ぶことはない。しかし、わたしがする働きは神の働きである。わたしは叫ぶ必要があるだろうか。褒めたてる必要はない。神はその働きを自分で行なうのであり、人に地位や敬称を与えてもらう必要はない。神の働きは神の身分と地位を表すのに十分である。バプテスマの前、イエスは神そのものではなかったのか。イエスは受肉した神の肉体ではなかったのか。イエスは証をされて初めて神のひとり子となったのだ、などと言うことは到底できない。イエスという名の人がイエスが働きを開始する前には存在しなかったのだろうか。あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたが神であると主張しようとするのは意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神と認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神に関する限り、その人は神の霊の受肉した肉体である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。新しい時代のために道をつけることができない、あるいは古い時代を終わらせたり、新しい時代の到来を告げたり、新しい働きをすることはできないのであれば、あなたは神と呼ばれることはできない。
『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より
人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を表すことができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。
『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より
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