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2020年8月5日水曜日

東方閃電 全能神教会 日々の神の御言葉「堕落した人類には受肉した神による救いの方が必要である」抜粋118



日々の神の御言葉「堕落した人類には受肉した神による救いの方が必要である」抜粋118

神が受肉したのは、その働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体をもち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体をもつ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象であるため、神は救済の働きの全段階で、人間をその働きの唯一の対象としている。人間は死すべき存在で、生身の体をもっているが、人間を救える唯一の存在は神なのである。そこで、その働きでよりよい成果が得られるよう、神は働きを行うために人間と同じ属性をもつ肉体をもたなければならない。神がその働きを行うために受肉しなければならないのは、人間が肉体をもっていて、罪を克服することも、肉体を捨て去ることもできないためだ。受肉した神の本質と存在は人間の本質や存在とは全く異なるものなのだが、神の外見は人間と変わらず、通常の人間と同じように見える。神は普通の人間のように生活し、神を見る者は、普通の人間との違いを見いだせない。この普通の外見と普通の人間性とは、普通の人間として神がその神性の働きをするには十分である。神の受肉は普通の人間として働くことを可能にし、人々の間での働きを容易にし、さらに、その普通の人間性は人々の間で救いの働きを進めることの役に立つ。神の普通の人間性は人間の間に多くの混乱を招いたが、そうした混乱は神の働きの成果に影響を与えていない。つまり、神の普通の肉体の働きは人間に素晴らしく有益なのである。たいていの人は神が普通の人間であることを受け入れないが、それでも神の働きは効果的であることができ、そうした効果は神が普通の人間であることで達成される。この点に疑問の余地はない。神の肉体における働きから、人間は、神の普通の人間性について人間の間に存在する観念から受けるよりも十倍、数十倍のものを得る。そして、そうした観念はいずれ、すべて神の働きに吸収されることだろう。また、神の働きが達成した成果、つまり、人間がもつ神についての認識は、人間が神についてもっている観念をはるかに超える。神の肉体における働きは想像もできないし、測りようもない。神の体はどの人間の肉体とも異なっているからだ。外見は同じでも、本質は異なっている。神の肉体は、神について、人間の間に多くの観念を生み出す。しかし、神の肉体はまた、人間が多くの認識を得ることを可能にする。そして、似たような外見をもつどの人間をも征服できる。神は単なる人間ではなく、人間の外見をもつ神であり、誰も神を完全に理解することはできないからである。目に見えず、触れることもできない神を誰もが愛し、歓迎する。もし神が人間の目には見えない、ただの霊であるならば、人間が神を信じることは容易である。人間は自分の想像力を自由に働かせることができる。神の姿として、どんな姿でも好きなものを選び、それで喜んで満足していられる。このように、人間は自分の神に対して何でも思いのままに、この神が望むとおりのことを、何のとがめもなく行うことができる。さらに、人間は、自分よりも神に忠実で信心深い者は誰もいない、他の人はみな異邦の犬で、神に背いていると信じている。これが、神について漠然と教義に基づいた信仰をもつ人々が求めているものであると言える。彼らの求めているのは、どれも同じようなもので、ほとんど違いがない。これは単に、人々の想像している神の姿が異なっているというだけで、その本質は、実際のところ、同じなのだ。

2020年8月3日月曜日

東方閃電 全能神教会 日々の神の御言葉「堕落した人類には受肉した神による救いの方が必要である」抜粋83



日々の神の御言葉「堕落した人類には受肉した神による救いの方が必要である」抜粋83

人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上にふさわしいものはいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでもない。まして、人間が神の侵しがたい性質をより明確に目にすることはできないであろう。もし受肉した神が人間の堕落を裁くなら、はじめてサタンを完全に打ち負かせる。受肉して普通の人間性をもった神は、直接人間の不義を裁くことができる。これが神本来の聖さ、すばらしさである。神だけが人間を裁く資格があり、その地位にいる。神には真理と義があるから、人間を裁くことができる。真理と義のない者には他人を裁くことができない。この働きが神の霊によって行われたなら、それはサタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉に優る。もしこの働きを霊が直接行ったならば、神は人間の不服従のすべてを裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた人間の神についての観念を通して行われるからである。人間は霊について何の観念も抱いたことがない。そのため霊には、人間の不義をよりよく露わにすることができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らない者すべての敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人間のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、すべての人間の裁きは霊が直接するのではなく、受肉した神の働きなのである。人間の体をもつ神は、人間が目で見、触れることができる。また、受肉した神は完全に人間を征服できる。この受肉した神と人間との関係において、人間は敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして、拒否から愛へと変わっていく。これが受肉した神の働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることによってのみ救われ、神の口から出ることばによって徐々に神を知るようになり、神に敵対している間に神に征服され、神の罰を受けている間にいのちの糧を受ける。この働きはみな受肉した神の働きであって、霊としての神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深い働きであり、神の働きの三段階のうちの最も大事な部分は、受肉による働きの二つの段階である。人間の甚だしい堕落は、受肉した神にとって大きな障害である。とりわけ、世の終わりの人々に対する働きは極めて困難で、敵意に満ちた環境で、どの種類の人々の能力もまことに乏しい。しかし、この働きの終わりには、とどこおりなく望ましい結果を得る。これが肉の働きの成果であり、この成果は霊の働きの成果よりも説得力がある。神の働きの三つの段階は、受肉した神が終えられるだろうし、そうでなければならないのだ。最も重要かつ肝要な働きは受肉した神が行い、人間の救済は神が受肉して自ら行わなければならない。人間はみな、受肉した神が人間と関わりがないと感じるだろうが、実際は、この肉体が、全人類の運命と存在に関わっているのだ。